立命館法学 一九九七年三号(二五三号)六一五頁(一六七頁)




危険引き受けについて
― 「ダートトライアル同乗者死亡事件」を素材にして ―


塩谷 毅






 目  次
一 問題の所在
二 「危険引き受け」の要件
三 「危険引き受け」の効果
四 「危険引き受け」とその他の正当化根拠との関係
五 「板東三津五郎ふぐ中毒死事件」との比較
六 結びにかえて

一 問題の所在

  他人の危険行為の実行によって、自己の法益に危険が生じることを認識して法益主体 (被害者)がその行為の実行を許し、それによって法益侵害結果が発生した場合、刑法上行為者はどのように取り扱われるべきなのであろうか(1)。そのような
「危険を引き受けた」被害者態度は、行為者の犯罪成立に関してどのような意義を持つものとして評価されるべきなのであろうか。
  近年、我が国において、このような問題状況に関する興味深い下級審判例があらわれた(2)。その事件の概要は以下のとおりである。
 被告人は、未舗装道路を自動車で走行し、所要時間を競うダートトライアル競技 (日本自動車連盟公認のモータースポーツ)の練習走行中に、急な下り坂カーブを曲がりきれずに車両を防護柵に激突させた。そして、車両が転倒した際に防護柵の支柱が同乗者の胸に当たり、同乗者が死亡した。同競技史上、死亡事故は初めてであった。被害者は七年程度の競技歴を有するが、被告人は初心者で、事故当時、同乗していた被害者から走行について指導を受けていた。被告人は業務上過失致死罪で起訴された。
 弁護人は、以下の点を主張した。

@ 被害者は、同乗することによって、生じるかもしれない危険性を自ら甘受し、自己の法益をその限りで放棄しているのであって、自己決定権の範疇の問題である。
A 同競技は、社会的相当行為として是認されている。
B 仮に違法性が阻却されないとしても、被告人は本件事故を予見してこれを回避すべき注意義務を負っておらず、被告人に過失を認めることはできない。
  これに対し、千葉地裁は特に前述の弁護人主張@とAの点に関して以下のように述べ、被告人の無罪を導いた。
@ 「危険の引き受け」による違法阻却について
・ダートトライアル競技は、その性質上、転倒や衝突等によって乗員の生命、身体に重大な損害が生じる危険が内在しており、その練習においても、競技時と同様の危険が伴うことは否定できない。
・上級者が初心者の指導のために同乗するような場合、同乗者は前記の危険性についての知識を有しており、運転手が技術向上のために暴走、転倒等の一定の危険を冒すことを予見していることもある。
・同乗者は、運転手への助言を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある。
・そのような認識、予見のもとで同乗していた者については、運転手が予見の範囲内にある運転方法をとることを容認した上で、それに伴う危険を自己の危険として引き受けたと見ることができ、その危険が現実化した事態については、違法性阻却を認める根拠がある。
・もっとも、そのような同乗者でも、死亡や重大な傷害についての意識は薄いかもしれないが、それはコースや車両に対する信頼から死亡等には至らないと期待しているにすぎず、直接的な原因となる転倒や衝突を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる。
・本件では、被害者は約七年のダートトライアル経験があるのに対して、被告人は初心者であって、被害者もその認識を有していたこと、本件運転方法が被告人の技術と隔絶したものではないことなどから、被害者は、被告人の三速での高速走行の結果生じうる事態を自己の危険として引き受けた上で同乗していたものと認められる。
A 「社会的相当性」による違法阻却について
・ダートトライアル競技はすでに社会的に定着したモータースポーツであり、本件走行会もその練習過程として、日本自動車連盟 (JAF)公認のコースにおいて、車両、走行方法及び服装もJAFの定めたルールに準じて行われていたものである。
・同乗について、ダートトライアルの競技においては認められていないが、練習においては指導としての意味があることからかなり一般的に行われ、容認されてきた実状がある。
・スポーツ活動においては、引き受けた危険の中に死亡や重大な傷害が含まれていても、必ずしも相当性を否定することはできない。
・以上から、被害者を同乗させた本件走行は、社会的相当性を欠くものではない。
  以上のように裁判所の判決において「危険引き受け」と「社会的相当性」による違法阻却が強調されたにもかかわらず、弁護人と検察官の主要な問題関心は「注意義務違反」の特定の困難性に向けられていたようである(3)。その限りで、本件に関する判例評釈(4)や本稿が注目する「(被害者の)危険引き受け」という被害者の態度に照準を合わせた視点は、少なくとも弁護人や検察官の関心方向においては、二次的な意味しか持っていなかったように思われる。
  そもそも、我が国の判例において、本件におけるような「結果発生に影響を与える被害者の慎重さを欠く態度」を把握する刑法学上の定着した用語は特に見いだされない。この点、ドイツでは様々な領域において判例の蓄積もあり(5)、また学説においては、「危険引き受け (Risikou¨bernahme(6))」のほかに、「自己危殆化 (Selbstgefa¨hrdung)」や「合意による他者危殆化 (einversta¨ndliche Fremdgefa¨hrdung(7))」、「危険自己負担による行為 (Handeln auf eigene Gefahr(8))」などの概念が使われている。また、ここでの問題性を「被害者の承諾(9)」の一場面として扱う論者もいる。本判決において、「危険引き受け」なる用語が使用されたことにドイツにおける議論がどの程度影響しているのか、その他の概念ではなく、この用語を選んだことについて、要件や効果に影響があるのかは明らかではない。
 それはともかくとして、本判決においては、「(被害者の)危険の引き受け」は直接に「違法阻却」の効果を持つものとして論じられている。このような「危険引き受け」は具体的にどのような要件のもとで認定される概念であろうか。また、それに「違法阻却」の効果が結びつくのはなぜであろうか。
 本稿はこれらの問題を本件を素材にして検討するものである。

二 「危険引き受け」の要件

  まず、「危険引き受け」は、具体的にどのような要件のもとで認定されるのであろうか。「ダートトライアル同乗者死亡事件」判決からは「危険引き受け」の内容と要件は明確ではない。すなわち、被害者の側にどのよう事情があることが「危険引き受け」を語るときの要件になっているのか、その中で特にどの事情を重視していたのかは明らかでない。
  そこで、ドイツにおける関連する議論を視野に入れて、本件判旨を分析すると、被害者の「危険引き受け」の要件としては以下の五つの観点が考えられる。

@ その (危険)行為が特定の (構成要件的)結果に結びつくであろうことの認識が被害者にあるか。
A 行為の一般的危険性についての認識が被害者にあるか。
B 被告人に対する一定の制御可能性が被害者にあるか。
C 「優越的な事物 (専門)知識」が被告人になかったといえるか。
D 被害者に対する特別な「保証人的地位」が被告人になかったといえるか。
  まず、@「その (危険)行為が特定の (構成要件的)結果に結びつくであろうことの認識が被害者にあるか」について、本件の場合、ダートトライアル競技において転倒や衝突は日常茶飯事であるが、それが死亡等の重大な事故に結びついた前例がなかったことから、被告人においても、またおそらく被害者においても同競技を安全なモータースポーツと認識していたことが注目される(10)。その限りで、この要件を肯定するのは困難であると思われる。そこで、裁判所は、同競技が転倒や衝突は日常茶飯事であるという程度のA「行為の一般的危険性についての認識が被害者にあるか」という要件の認定でもって、@の要件に替えたように思われる。被害者が「危険を引き受けた」ことに「違法性阻却」などの犯罪成立を阻却する効果が与えられるためには、その引き受けの「対象」は「(構成要件的)結果」なのかそれとも「行為」で足りるのであろうか。言い換えるならば、「危険引き受け」という際の「危険」は「結果発生の危険性」なのか「行為の (一般的)危険性」なのか。これは、「被害者の承諾」に関する「承諾対象」の問題とパラレルに考えてみる必要があるであろう(11)。その限りで、危険引き受けの対象も「結果」に照準が合わせられなければならないように思われる。また、「危険引き受け」の「心理的内容 (意欲的要素)」については、被害者が結果発生の危険性を認識した上で、行為実行を「容認」したことで十分であり、「被害者の承諾」のように結果発生を「意欲」する態度までは必要はないであろう。しかし、本件において初心者である被告人の指導のために同乗した被害者は、裁判所の認定にあるように同競技の安全性を完全に「信頼」していたのであり、本件のような異常な因果経過を経て、死亡事故が生じることは思いも寄らなかったのであるとすれば、「危険」を「容認」したとも言い難いのではないだろうか。
  次に、B「被告人に対する一定の制御可能性が被害者にあるか」に関して、判旨では、「助言」を通じて被害者が危険を一定程度制御する可能性があったとの指摘がある。たしかに、事象において被害者は被告人の危険の制御に我が身をさらすだけであり、いったん我が身を危険にさらした後は何の関与可能性も被害者に留保されていない場合と、被害者の側にも事象経過に対する一定の制御可能性が、行為者の行為実行に際して留保されている場合とは区別しうるし、それは「危険引き受け」を認定する際に有力な手がかりとしうるように思われる。本件の場合、「同乗」という危険の引き受けの後に、「運転」という危険行為の実行に対して、助言などの「指導」という制御可能性が被害者に留保されていたといえるであろう。
  さらに、C「優越的な事物 (専門)知識が被告人になかったといえるか」であるが、この要件は、特に、被害者の危険認識が不正確で被告人の危険認識が正確であった場合、もしくは被告人に被害者にはない危険に対する特別な知識があった場合に、その被告人の「優越的事物知識」の故に、彼は可罰的であるとの考え方がありうることとの関連から注目したものである。たしかに、被害者の不十分な危険認識は彼の危険引き受けを認定する際の障害になりうる。しかし、そのことから短絡的に行為者 (被告人)の可罰性が発生するかは疑問である。被告人の「優越的事物知識」は、「(被害者の)危険引き受け」を否定する手がかりになりうるというだけであると思われる。いずれにせよ、本件では被害者の方が上級者であり、被告人は初級者であったことから、むしろ被害者に「優越的事物知識」が存在し、被告人にそれは存在しなかったであろう。従って、本件ではこの要件に関しては被害者の危険引き受けを語る際の障害にはなっていない。
  最後に、D「被告人に被害者に対する特別な保証人的地位がなかったといえるか」という要件は、後述する「板東三津五郎ふぐ中毒死事件(12)」における料理人と客との関係などで「考慮」されたように、被告人が被害者に対する特別な監督義務 (保証義務)を有しており、そのことが被告人の可罰性を根拠づけるとの考え方がありうることから着目したものである。そのような被害者に対する保証人的地位が行為者に認められれば、行為者は被害者の危険引き受けを援用することは許されないということであろう。
 ここで、「保証人的地位」を「行為者と被害者の地位 (立場)の上下関係」に着目して考えるならば、本件では上級者と初心者の関係、しかも被害者の方が上級者であったことからも、被告人にこのような可罰化要因は存在しなかったし、この点も被害者の危険引き受けを語る際の障害にはなっていないといえるであろう。
  以上が各要件の検討である。もっとも、判旨からは、裁判所は思いつくままに「自己の危険として引き受けた」ということを導くために様々な点を指摘したという印象を受ける。
 結局、本件において被害者の「危険引き受け」を認定することの困難は、もっぱら@の要件が肯定できないことから生じている。しかし、@の要件こそは、「危険引き受け」を語る際の必要不可欠な前提ではないだろうか。

三 「危険引き受け」の効果

  次に、「危険引き受け」になぜ「違法性の阻却」という刑罰効果が与えられるかは、判旨からは全く明確でない。
 特に、我が国の刑法二〇二条やドイツ刑法二一六条によって、被害者のいわば「故意的な」生命処分、「承諾」に違法阻却の効果が与えられていない以上、なぜ被害者のいわば「過失的な」「危険引き受け」態度に「違法阻却」の刑罰効果を結びつけることができるのか、アンバランスがあるように思われる。
  もっとも、刑法二〇二条の存在にも関わらず、個人に生命処分の自由が全くないのかについては争いがある。まず、いずれにせよ「自殺」そのものは処罰されない。また、近年、生命維持医療の発達に伴って、特に臨死介助 (安楽死、尊厳死)の問題領域において、被害者 (患者)の生命処分意思を決定的に重視しようとする傾向もある(13)
 この問題に関して、もっとも合理主義的な立場は個人に生命に対する処分権を無制限に認め、自殺は適法であると明言する。この見解からは、臨死介助などの「特殊状況」に限らず「一般的に」生命処分が自由であるとされるので、嘱託殺・自殺関与の構成要件の存在をどのように根拠づけるかが注目されることになる。ある見解は、これらの構成要件は「自殺意思が不自由」であることを前提とする一種の「嫌疑刑」なのだと説明する(14)。しかし、この見解に対しては、現行法の規定の文言が自殺意思の不自由な場合のみを捕捉するとは読めないという点、及び現代法において「嫌疑刑」による処罰を正当視することはできないという点が指摘できる。
 さらに、嘱託殺・自殺関与罪の法的性質に関する説明として「パターナリズム」による説明も有力である。この見解によれば、「個人の尊厳の保障を究極目標とする国家は、将来における本人自身の自律的生存の可能性を保護するために、個人に万が一にも誤った判断に基づいて自らに不利益を課すことに無関心でいるわけにはいか」ず、「刑法二〇二条は、まさに本人自身のために国家によって加えられるパターナリスティックな干渉」であることになる。そして、臨死介助などの「将来における自律的生存の不可能性と死の意思の真実性が合理的に担保されるような場合」には、国家はパターナリスティックな干渉を排除し、刑法二〇二条の違法性が阻却されるという(15)。しかし、「パターナリズム」は「最終手段」としての刑罰権を発動する合理的な根拠足りうるのであろうか。
 思うに、生命は、個人主義的世界観のもとでもっとも尊重されるべき個人の「存立基盤」であり、個人の存立が確保された上で自分なりの生き方を保障されるためのその他の個人的法益とは異なった配慮が必要であろう。「被害者の承諾」を支える実質的な根本思想は、個人の「個性」が尊重されることであるが、それは日本国憲法一三条の「個人の尊重」に由来するものである。生命の処分という「個人の毀滅」が「個人の尊重」を意味しているとはいえない。「個人の自由の尊重」は、「自由でなくなる自由」を導き得ない (自由の自己矛盾)。それゆえ、個人に生命処分の自由が否定されることは、個人の自己決定尊重思想の内在的制約であると考えられるのである。
  このようにして、個人による「故意的な」生命処分の禁止が確認されたとしても、さらに、被害者による故意的な生命処分の禁止と過失的な生命処分の禁止の相互関係についても、検討の余地がある。たとえば、ドイツにおいて、ズザンネ・ヴァルターは、以下のことを指摘している。
 たしかに、ドイツ刑法二一六条は、故意的殺害の領域において法益主体 (被害者)の自己決定権よりも生命保護が優先することを示している。しかし、生命への「過失的な」侵害が問題になる限りでは、故意の場合と同じではない。なぜならば、故意的殺害のタブーは、キリスト教的に特徴づけられた社会倫理の基礎にある攻撃タブーに一致するが、過失的侵害の領域においては、これと同程度のタブーは見つけられないからである。従って、刑法二一六条による故意的殺害の絶対的な禁止は、過失的殺害が問題になる状況には、直接に移行され得ないのである(16)
 このようにして、彼女は「故意的な生命処分」が被害者から奪われていることから、直ちに被害者の「過失的な生命処分」も禁止されている、すなわちその被害者態度に行為者の犯罪阻却効果を与えることはできないということが短絡的に導かれるのではないとしている。しかし、だからといって被害者の危険引き受けという過失的態度に「違法阻却」効果をなぜ結びつけることができるのかは明らかにならない。
  それでは、「違法性の阻却」以外に、「被害者の危険引き受け」の刑罰効果としてどのようなものが考えられるであろうか。
 たとえば、「危険引き受け」の効果として行為者の「正犯的帰属の制限」すなわち「正犯性の制限」を考えることもあり得るであろう。ドイツにおいては、「規範の保護目的の理論(17)」などの「客観的帰属論」の範疇において、「被害者の自己答責性」といった観点に着目し、「正犯的帰属の制限」が考えられている。これは、ドイツ刑法二一六条が自殺教唆・幇助の生命処分に関する「狭義の共犯」形態を不可罰としていること、及びドイツ刑法二六条、二七条によって「狭義の共犯」の成立要件として「正犯者」にも「関与者」にも明文で「故意」で行為したことを要求していることが相まって、不可罰の結論に達しうることとも関連しているのである。もっとも、これらの点について、立法形式が異なる我が国では、「正犯性の制限」だけでは犯罪不成立には達し得ない。
  いずれにせよ「危険引き受け」の刑罰効果については、さらに慎重な検討が必要であるように思われる。

四「危険引き受け」とその他の正当化根拠との関係

  さらに、本件判旨からは、「危険引き受け」が違法阻却効果を持つとして、それと他の違法阻却事由 (特に「被害者の承諾」及び「社会的相当性」)との関係も明確でない。
 裁判所は、また弁護人においても、「被害者の承諾」ないし「同意」という言葉を用いることを注意深く避けたのではないかと思われるが、それによって「危険引き受け」は「被害者の承諾」とは全く別のものとされてしまったように思われる(18)
  判旨の中では、「右の理由から (危険引き受けということから)本件については違法性の阻却が考えられるが、さらに、被害者を同乗させた本件走行の社会的相当性について検討する」。「以上の通り、本件事故の原因となった被告人の運転方法及びこれによる被害者の死亡の結果は、同乗した被害者が引き受けていた危険の現実化というべき事態であり、また、社会的相当性を欠くものではないといえるから」というように、「さらに」「また」という言葉でもって、両者を無関係なものとして並列しているように思える。
  つまり、ある概念がある概念の要件であったり、逆に上位概念としての役割を与えられているというわけでもなく(19)、「危険引き受け」「社会的相当性」「承諾 (同意)」の三者は、相互に全く独立した「違法阻却事由」とされているようである。
 従って、「危険引き受け」は、本判決によれば、今までにいわれてきたそのほかの「違法阻却事由」とも無関係な、全く新しい (過失犯に特有な)「違法阻却事由」ということになるのであろう。

五「板東三津五郎ふぐ中毒死事件」との比較

  さて、我が国において「被害者と被告人の共働過失的結果惹起」が問題になった先行判例としては、「板東三津五郎ふぐ中毒死事件(20)」が有名である。もっとも、この事件自体は決して「危険引き受け」という言葉を使用したわけではない。また、危険を承知していた被害者態度に「違法阻却」の効果が結びつけられたわけでもない。
  「板東三津五郎ふぐ中毒死事件」の事実概要は、以下のとおりである。
 京都府知事からふぐ処理士及びふぐ調理師の免許を受け、料理店「政」において、ふぐなどを調理し同店の来客に提供する業務に従事していた被告人が、昭和五〇年一月一五日午後八時四〇分頃、同店を客として訪れた歌舞伎俳優板東三津五郎 (本名守田俊郎)にふぐ料理を提供した際、ふぐの肝には毒物が多量に含まれていることがあり得ることを認識しながら彼にふぐの肝を提供し、ふぐ中毒に基づく呼吸麻痺により同人を窒息死させた。
 第一審の京都地裁において(21)、被告人には業務上過失致死罪、京都府ふぐ取り扱い条例七条、一三条が適用され、禁固八ヶ月、執行猶予二年という判決が下された。これは控訴審 (大阪高裁)において(22)、刑期の点がやや重すぎるとして破棄され、禁固四ヶ月、執行猶予二年とされた。そして、上告が棄却され、有罪が確定したのである。
  この事件における主要な論点は「予見可能性の有無」という点であった(23)。これは、被告人は、もちろんふぐの肝には強い毒が含まれていることがあり得るということは認識していたのだが、本件事件当時まで被告人は八、九年もの間、ふぐの肝を調理して客に提供していたが全く事故が起きていなかったこと、同じふぐの肝を他の客も食しているが板東三津五郎にのみ中毒症状が現れたことなどの点から客観的予見可能性の存在に疑問がもたれたのであった。これに対して、裁判所は、「単にふぐの毒に当たることはまれであるとの体験的事実を根拠に予見可能性を否定するのは相当でない」として、予見可能性を肯定した。
  しかし、注目すべき点は、「肝が危険であることを十分知ってそれを食した被害者の態度」が犯罪成立に影響を与えることが弁護人側から再三にわたって主張されたことである。
 この点に関して、まず、第一審における弁護人の主張は、次のようなものであった。
「被害者は食通であり、ふぐの肝臓が危険であることを十分知っていながらあえて食したのであるから、本人の責任であって、被告人の過失責任は中断される(24)」。
 これに対して、京都地裁は、「被害者は出されているものが肝であることを十分承知し、しかもある程度肝についての (危険性についての)知識を持って食していることが伺われるが、いかに被害者が食通であってもあくまで客であり、京都において現に長年ふぐ料理を商売としている被告人の調理を信頼し、提供された肝を食するのは当然の成り行きというべく、また、被害者が肝を特に強く希望したとも認めがたい本件にあっては、右弁護人の主張は、情状としては十分考慮すべき点ではあるけれども、被告人の過失責任を否定する論拠とは成し得ない(25)」として、この主張を退けた。
  さらに、控訴審において弁護人は次のように主張した。
「被害者は本件の肝がふぐの肝であり、それが有毒であることを認識しながらあえて食したのであるから、その死亡は被害者自身の責任であって、被告人の料理の提供と被害者の死亡したこととの間には法律上の因果関係がない(26)」。
 これに対しても、大阪高裁は、「なるほど被害者はふぐの肝料理が出されていることを十分承知し、しかもある程度までふぐ毒についての知識を持ってこれを食したことが認められるけれども、本件の場合、被害者はあくまで客であるから、料理店で料理として出されるものを安全に調理されていると信頼して食するのは当然のことといわなければならず、緒論はとうてい採用できない(27)」として、退けてしまった。
  最高裁において、弁護人は、ふぐ取扱条例における注意義務違反と刑法上の (過失致死に関する)注意義務違反の関係という点に関して、次のような興味深い主張を述べている。やや長くなるが、引用する(28)
・ふぐ取扱条例では、ふぐの肝臓など有毒部分を提供、授与することを禁止しているだけであって、特に用語に用心して、客がその料理品を食し、また客にその料理品を食せしめることまでには言及していないのであって、客がそれを食するかどうかには何の干渉もしておらず、従って客がそれを食さなければ中毒は絶対に起こらないのである。(中略)同条例は、ふぐ中毒を起こしたかどうかとは関わりなく (従ってふぐ中毒が起こらなかった場合であってもそのこととは関わりなく)、機能するのであるから、もともとふぐの有毒部分の料理を食べる以前の問題であり、それ故に刑法上の注意義務を明文化する分野に立ち入ることはあり得ないのである。
・これをたとえれば麻薬売買の禁止命令を犯して麻薬を売り渡しただけでは、その麻薬を買ったものがそれを飲んだり注射して中毒し又は死亡したことについての刑責を問われることはあり得ないのである。
・たとえ調理しても危険なふぐの有毒部分を他人に提供してはならないという注意義務は、ふぐの有毒部分を他人に提供することを差し控えるところで終わり、その注意義務違反の責任はその限りにとどまるのであって、そのような明白な危険が現在するに至ったときにその危険を回避すべき注意義務を負う者は、提供された料理品を食するか否かを自ら決定しうる者、つまり被害者板東三津五郎その人であるといわなければならないのである。
・本件の被害者の中毒死は、同人が自らにとって予見可能であり、かつ回避可能である現在する危険を回避しなかった結果である。かかる場合被告人の刑責は、ふぐ取扱条例違反の限りにとどまり、被害者のふぐ中毒についてまで刑責を問われるべきでないことは明白である。
 この弁護人主張自体に関する裁判所のコメントは存在しない。
 結局、判決では、被害者の危険を認識してあえて危険源に接近した態度は「量刑事情」の一つとして考慮されたにすぎなかった(29)
  しかし、いわゆる「通」の客はふぐ料理を食する際、肝が出されないと納得しないこと、被害者においても肝の料理を目当てにこの店に通い詰めていたという事情が存在すること、相手が人間国宝の有名な歌舞伎俳優であることからもその要請を拒みきれなかったであろうことを勘案すれば、「ダートトライアル同乗者死亡事件」以上に本件は「被害者の危険引き受け」を語るのに適切な事案であっただろうと思われる。
  また、そのこと以上に、「その行為がその結果に至るであろう予見 (認識)の程度」を考えると、いかに数の上ではまれであるとはいえ、科学的な解明からもふぐの肝には水洗いなどでは決して取り去ることのできない毒が含まれていること、それを食することによって中毒を起こし場合によっては死亡することがあり得るとの認識は、ダートトライアルにおける車両の「転倒」が「同乗者の死亡」に結びつくことがあり得るとの認識よりも高いものであったろうと思われる。すなわち、ダートトライアルにおいては「転倒や衝突」は日常茶飯事であるが「死亡事故」など重大な結果に結びつくことはこれまで無かったことから、「その行為に内在する結果発生の危険性」と「その予見」は明らかに「ふぐ中毒死事件」の方が高いものであったといえるであろう。そのことからも、「ダートトライアル事件」よりも「ふぐ中毒死事件」の方が「被害者の危険引き受け」を語るには適切であったろうと思われるのである。

六 結びにかえて

  以上の考察のように、結局のところ、「ダートトライアル同乗者死亡事件」は、被害者による「危険の引き受け」の例としてはふさわしいものではなく、結果の予見可能性の困難や注意義務違反の内容を特定することの困難によって、被告人の無罪が導かれる事案であったと思われる。
 すなわち、ダートトライアルにおいて、「転倒」や「衝突」は日常茶飯事であるが、それが「死亡」などの結果に結びついたということが過去にはなく、「安全な競技」だと被害者に認識されていた事情が、被害者の「危険引き受け」を語るのを不適切にしているのと同時に、まさに同じように被告人が認識していたことが、被告人に刑事的責任を負わせるのを不適切にしていたのではないかと思えるのである。
  本件が、被害者の「危険引き受け」に関して、あまり適切な事例ではなかったように思われるにもかかわらず、我が国においても被害者の「危険引き受け」的態度を刑法上適切に扱うための議論が必要であろう。その際、そのような被害者態度を扱う「概念」の名称とその要件、刑罰効果や体系的位置づけなどは、より慎重に議論がなされなければならないと思われるのである。


(1) このような問題状況は、通常「合意による他者危殆化 (einversta¨ndliche Fremdgefa¨hrdung)」と呼ばれる。なお、拙稿「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について」(一)立命館法学二四六号八五頁以下、(二)二四七号七五頁以下、(三)二四八号八〇頁以下、(四・完)二五一号六七頁以下を参照。
(2) 千葉地裁平成七年一二月一三日判決、判例時報一五六五号一四四頁以下。本判決に関して、以下の文献を参照。大山弘・松宮孝明「自動車競技練習中の衝突・転倒により同乗者を死亡させる結果になった運転が同乗者による危険の引き受けを理由に正当化されることがありうるか (肯定)」法学セミナー五〇三号七四頁以下、佐伯仁志「ダートトライアルの練習中に同乗者を死亡させた事案において、業務上過失致死罪の成立を否定した事例」法学教室・判例セレクト一九九六年三二頁、荒川雅行「危険の引受けと過失犯の成否」ジュリスト平成九年度重要判例解説一四七頁以下、日本弁護士連合会刑事弁護センター編『無罪事例集 (第二集)』二七二頁以下。
(3) 前掲の『無罪事例集 (第二集)』二七四頁以下によれば、検察官の起訴状の注意義務違反の内容は、本件があたかも一般公道において無謀運転の結果引き起こされた事故のようであり、「車両を転倒などさせないよう速度に注意して安全に走行する義務がある」というのでは「ダートトライアル競技そのものが成立しない」ことから、ダートトライアル競技の特殊性に鑑み可罰性を基礎づけるどのような注意義務違反が考えられ得るのかに照準が合わせられたようである。
(4) 前掲注(2)参照。
(5) ドイツの本稿での課題に関する判例状況については、拙稿・前掲論文 (1)を参照。
(6) Heinz Zipf, Einwilligung und Risiskou¨bernahme im Strafrecht, 1970.
(7) Claus Roxin, Zum Schutzzweck der Norm bei fahrla¨ssigen Delikten, in Festschrift fu¨r Wilhelm Gallas, 1973, S. 241ff.
(8) Vgl. Hans Stoll, Das Handeln auf eigene Gefahr, 1961.
(9) Ulrich Weber, Objective Grenzen der strafbefreienden Einwilligung in Lebens- und Gesundheitsgefa¨hrdungen, in Festschrift fu¨r Jurgen Baumann zum 70. Geburtstag, 1992, S. 43ff.
(10) 前掲の『無罪事例集 (第二集)』二七三頁以下によれば、数あるモータースポーツの中でダートトライアル競技はかなり危険性の低いものと競技者の間で認識されており、過去に重大事故があったということは聞いたことはなく、被告人はこのような事故の結果は思いも寄らないことであったということである。「被害者の危険の引き受け」を考える際、同じくスポーツにおける過失致死傷が問題になるといっても、たとえば「空手」や「ボクシング」のような「格闘技スポーツ」のように、重大な傷害などの結果発生の可能性が当事者にもある程度意識されているスポーツとそうでないスポーツとの間に「被害者態度」の相違はあり得るはずである。なお、スポーツ事故の正当化の問題に関して、以下の文献も参照。須之内克彦「スポーツ事故に対する法的処理の現状」『中山研一先生古稀祝賀論文集・第四巻刑法の諸相』一三五頁以下。
(11) この問題に関して、山中敬一「過失犯における被害者の同意ーーその序論的考察」『平場安治博士還暦祝賀・現代の刑事法学 (上)』一九七六年三三七頁以下、拙稿・前掲論文 (1)立命館法学二四七号三七一頁以下などを参照。
(12) 最高裁昭和五五年四月一八日決定、刑集三四巻三号一四九頁。もっとも「保証人的地位」という言葉が使われていたわけではない。
(13) この問題に関して、以前は「惻隠の行為としての安楽死」(小野清一郎「安楽死の問題」『刑罰の本質について・その他』一九七頁以下)であるとか「科学的合理主義に裏付けられた人道主義による安楽死」(植松正「安死術の許容限界をめぐって」ジュリスト二六九号四二頁以下)という立場が有力であったが、近年は医療行為における「インフォームド・コンセント」の法理の発達に伴い、被害者 (患者)の意思ないし自己決定権を重視しようとする見解が有力になってきている。
(14) 秋葉悦子「自殺関与罪に関する考察」上智法学三二巻二、三号一九一頁。
(15) 福田雅章「大阪地裁安楽死事件解題」阪大法学一〇八号二二〇頁。なお、同「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム −J・S・ミルの『自由原理』に内在するパターナリズム」一橋論叢一〇三巻一号一五頁以下も併せて参照。
(16) Susanne Walther, Eigenverantwortlichkeit und strafrechtliche Zurechnung, 1991, S. 229ff.
(17) Vgl. Roxin, a. a. O. (7), S. 241ff.
(18) もっとも、弁護人は「法益放棄」や「自己決定権の問題」という言葉を使用することからも、「被害者の承諾」の問題として、「違法阻却」を考えていたようにも思われる。
(19) たとえば、ツィップは「危険引き受け」の法的取り扱いを「社会的相当性」に関連づけた。前掲注(6)の文献を参照。この点について、荒川教授は、ツィップの見解は「同意」と「社会的相当性」を構成要件不該当事由として「並列」し、「危険引き受け」は「社会的相当性」のもとにおかれたのであるとしている。荒川雅行「過失犯における被害者の同意に関する一考察ーー生命・身体犯を中心としてーー」法と政治三二巻二号一二四頁を参照。
(20) 前掲注(12)
(21) 京都地裁昭和五三年五月二六日判決、判例時報九〇五号一二六頁。
(22) 大阪高裁昭和五四年三月二三日判決、判例時報九三四号一三五頁。
(23) 「板東三津五郎ふぐ中毒死事件決定」に対する評釈として、前田雅英・ジュリスト七四三号昭和五五年度重要判例解説六六頁以下、伊藤研祐・刑事判例研究一一四一警察研究五三巻一号七〇頁以下を参照。
(24) 前掲注(21)判例時報九〇五号一二七頁。
(25) 前掲注(21)判例時報九〇五号一二八頁。
(26) 前掲注(22)判例時報九三四号一三七頁。
(27) 前掲注(22)判例時報九三四号一三七頁。
(28) 刑集三四巻三号一六〇頁以下。
(29) 被害者の「危険引き受け態度」は「犯罪成立阻却事由」になるのか、それとも単なる「量刑事情」にすぎないのか、あるいはその両者に関わる事情であるのかはさらに検討しなければならないと思われる。また、直接に犯罪成立要件に関わるのではないとしても、「量刑事情」としてどのような事情が考慮されるべきかについても一定の体系化が必要であろう。この点について詳しく論じる知識は現在筆者には存在しないので、後日の課題としておきたい。なお、そのための参考文献としては、以下のものがある。井田良「量刑理論の体系化のための覚書」法学研究六九巻二号二九三頁以下。