立命館法学  一九九七年五号(二五五号)九九三頁(一〇五頁)




外国人の私権と梅謙次郎



大河 純夫






は じ め に
一  民法第二条修正案・削除案について(以上、第二三五号)
二  外国人の私権に関する梅の見解
−狭義の私権の「人類権」的構成から二元構成(人類権・国民権)へ−
三  韓国併合と梅謙次郎
まとめにかえて                            (以上、本号)



二  外国人の私権に関する梅の見解
−狭義の私権の「人類権」的構成から二元構成(人類権・国民権)へ−

    明治民法第二条の起草を担当した(1)梅は、一八九三年(明治二六年)の「外国人ノ権利(2)」を嚆矢に、しばしば自己の見解を公にしている。この論文や後の「(講演)外国人ノ権利」(明治三〇年)が示すように、梅のこの問題への接近の仕方は、他の分野と同様に、法史学的比較法的手法と現行法の立ち入った検討にある。以下では、体系書(3)のほかに、公表されている論考(4)と講義筆記を用いることにする。講義筆記では、梅謙次郎講述・〔明治三十七年度講義録〕民法総則(自第一章至第三章)(法政大学〔復刻版信山社  一九九〇年〕)、梅謙次郎口述・民法総則〔東京帝国大学講義録(5)〕を使用する。本稿では、前者を「明治三七年度講義録」、後者を「筆記」と略称し、明治民法編纂時における梅の構想をもっともよく伝えている後者を軸に整理する。
  梅が外国人の権利を取り上げる場合、まずローマ法以来の沿革を問題にする。これは未完に終わった「外国人ノ権利」以来、一貫した姿勢である。「羅馬ノ初代ニ於テハ外国人ニ一切ノ権利ヲ認メサリシモ羅馬ノ国運益隆盛ニ趣クニ従ヒ漸ク外国人ノ権利ヲ認メ或種類ノ外国人ニ限リ生活ニ必要ナル権利ハ大抵之ヲ認ムルニ至リシナリ」(「(講演)外国人ノ権利」六九〇頁)。ゲルマン法(日耳曼法)でも同じ傾向であるとされる。梅によれば、欧米諸国の法制では、外国人は内国人より「権利少キ者」なりとの原則をとる賤外主義(英米法)、条約で外国がその内国人と同じく自国の人民の利を保護すべきことを規定するのでなければその外国の人民に自国人と同様の権利を賦与しない条約相互主義(フランス・ベルギー等)、外国の法律において自国の人民をその外国の人民と同様に取り扱うときは自国においてもその外国人民に内国人と同様の権利を認める法律相互主義(ドイツ、オーストリア、スイス等)、内外人同等主義(イタリア、ロシア、スペイン・ポルトガル等)の四主義(6)があり、それは同時に進歩の歩みである(同前六九〇ー六九一頁)。歴史的沿革を重視する梅の方法がここでも生かされている。講義筆記では、Andre´ Weiss(7) に依拠して、英米法、欧州大陸法(条約相互主義、法律相互主義、内外人同等主義)、スペイン及び南米、東方の順に、諸外国の法制が詳細に説明されている(筆記三六丁裏−六〇丁裏。明治三七年度講義録四三〇−四三六頁参照)。ここでの整理の仕方で注目に値するのは、公権・私権の把握である。
  かつて(梅が校閲した)中村進午「外国人の権利」は、人権を「一に絶対的分権(「絶対的公権」の誤植)と称し、苟も有形の人たる者が、生れながらにして当然享有するの所のものを指す、彼の自由の如き即ち是なり(8)」とし、政権を「政治に関し、国家が国法の規定に依て与へたる権利にして、之を国民権と云ふ」(同前)であるとし、「此三者中人権、私権、の二者は、外国人をして之を享有せしむるを通常となすと雖、も独り政権に至りては、外国人をして之を享有せしめざるを以て原則となす」(同前)としていた。ここでは、@公権(政権=国民権、および絶対的公権=人権)、A私権、の区分法が採用され、人権・私権は外国人も享有するのが原則とされている。
  民法第二条の修正案・削除案が問題となった第一〇議会が終了し政府委員の任を解かれた梅は、和仏法律学校講談会での講演「外国人ノ権利」において、私権の国民的性質を明確に否定しその人類的性質を謳う。
「外国人ノ権利ト云フ問題ハ何レノ国ニ於テモ政権ニ関スル問題ニアラスシテ私権ニ関スル問題ナリ。而シテ政権ト私権トノ異ナル所以ハ一ハ国民的ニシテ他ハ人類的ナルカ為メナリ。蓋シ政権ハ国家及ヒ国民ナル観念ヲ離レテ存在シ得サル観念ナリ。之ニ反シテ私権ハ国民即チ特定ノ国家ニ属スル人類ナル観念ト特立〔独立か?  引用者〕シテ想像スルコトヲ得ヘキ観念ニシテ何レノ国家ニ属スル人類タルヲ論セス人類カ人類トシテ享有スヘキ権利ナリ。
  抑モ人類ハ何レノ国家ニ属スル者ニテモ或食物ヲ喫シ或衣服ヲ着シ或家屋ニ住セサルハナシ。此衣食住ノ三要件ハ其程度ノ差方法ノ異ハ即チ有リト雖モ如何ナル開化ノ程度ニ在ル国ニ於テモ如何ナル地球ノ緯度ニ位スル地方ニ於テモ人類ノ生存上必要欠クヘカラサル所以ニ至リテハ即チ一ナリ。而シテ私権ハ即チ此衣食住ノ三要件ヲ完フスルカ為メニ各種ノ需要ヨリ発生スル権利ナリ」(法学協会雑誌一五巻七号六九五頁  句点・改行は引用者)
  外国人の私権享有を「国法の賜」と位置づける穂積八束(9)が、「外国人の権利は法律によりて生ずることは言はずして明かなり」・「外国人は此法律(即民法)に由りて内国人と同じく権利を有する」とし「天賦人権の固有権利」・「自然権」説を攻撃していたが、梅の立論はこれに対する反批判であった(10)
  筆記の冒頭の部分は、「私権公権ノ区別ハ、公法〔公権の誤記〕トハ国民ノ国家ノ施設機関運転ニ直接又ハ間接ニ参与スルノ権ニシテ、其他ハ皆私権ナリト云フテ可ナリ」(一一丁裏−一二丁表)と定義し、私権を更に droit public(天賦権 droit naturel)と droit prive´ ou civil とに区分するフランス法学を紹介している(一三頁丁表−裏。躊躇がみられることも事実だが)。しかし、外国人の権利の項目にいたると、公権を「公権(或ハ政権)」または「政権」と言い換え、「私権ノ中ニハ、仏法学者ノ所謂 droit public、純然タル私権 droit prive´ アルコトハ曾テ述ヘタリ」(四七丁)としている。ここでの公権 droit public について、「之ハ\\自由ノ一語ニテ総括スルヲ得。即身体ノ自由、宗教ノ自由、集会出版結社請願教授ノ自由、営業ノ自由ノ如キ之レナリ。此等ノモノカ文明国人トシテハ一日モ欠キヘカラサルモノト認メラレタリ。内外人ハ問ハス此等ノ権利ヲ享有ス」(四二丁裏−四三丁表)としている。こうみてくると、
の区分が有意味と考えていたように思われる。
  ところが、明治三七年度講義録にいたると、公権=「国又ハ其一部ノ其資格ニ於ケル権利及ビ国ノ構成分タル資格ニ於ケル人民ノ権利」(二二五頁)、私権=「国又ハ其一部ノ人民ト同一ノ資格ニ於ケル権利及ビ国ノ構成分タル資格ニ於テセザル人民ノ権利」(二二九頁)とし、後者を更に二分して説明している。その第一は「普通謂フ所ノ自由、ソレハ例ヘバ所謂身体ノ自由、信教ノ自由、出版ノ自由、集会ノ自由、結社ノ自由、教授ノ自由、学業〔営業の誤記〕ノ自由、或ハ住居ヲ侵サレザル自由」(二三〇頁)で、「人格権」というべきものであるが、フランス革命時の憲法が規定した「ドロワー、ド、ロンム」の翻訳語として定着している「人権」と表現すべきものである(ここでは「公権」・「天賦権」の表現は避けられている)。この「人権ノ方ハ文明国ニ於テハ外国人ト雖モ必ズ之ヲ有スルモノト認ムル、多少ノ制限ハアルケレドモソレハ内国人〔外国人の誤記〕ト雖モアル」(二三三頁)。その二は「狭キ意味ニ於ケル『私権』」ないし「私法権」であり、これはさらに「国民ニ限ッテ享有スル権利」(「国民権」)と「人類ガ天然自然ニ享有スル所ノ権利」(「人類権若クハ此意味ニ於ケル天賦権」)に区分される(二三五頁参照)。このように、明治三七年度講義録では、
に区分されている。広義の私権に「自由」ないし「人権」を含めていることは別として、狭義の私権について、国民的性格のものと人類的性格のものとを区別するにいたったのである。しかも、後に触れるように、この区分は、原理的には可能であるが、実際には歴史的な存在とされるのである。
    筆記に戻るならば、日本の現行法についても、梅は政権・人権・私権の区分に従って整理している。
  (一)  この問題を取り扱う場合、憲法との関係が当然問題となるが、梅は、「外国人ニ関スル原則ハ民法ノ外ニアラス。国ニヨリテハ憲法ニ此原則ヲ掲クルアリ。日本臣民ノコトノミヲ規定セリ(又夫カ当然ナリ)。即チ外国人ノ権利ノ原則ヲ定ムルハ民法ノミナリ」(筆記六二丁表)として、憲法は日本臣民の権利を規定しているにすぎないとして、外国人の権利に関する原則は民法が規定するとしている(もっとも、民法であるから私権に限定されるのは当然のこととしている)。この説明箇所でみる限り、憲法は外国人の地位・人権の問題を扱っていないかのような表現にとどまっており、第二条の「理由」がしめしており、また後に問題とするような憲法は日本臣民の権利を規定しているのだから外国人の権利は条約・法令によって制限することができるといった論旨(たとえば、筆記六四丁表、明治三七年度講義録四四四頁)は後退しているとみるべきであろう。私権の「人類的性質」を強く意識しているからであろう。
  (二)  「直接又ハ間接ニ国政ニ参与スル権利」(四一丁裏)としての「政権」、明治三七年度講義録四二八−四二九頁、四三七−四三九頁にいう「公権」、つまり(最近の用語法でいうなら)広義の参政権は、「外国人ハ享有セスト云フハ疑ヲ容レス」(六二丁裏)とされる。政治に参与する条件(国の事情に通じその国に愛情があり個人の利害が国の利害と共にすること)が一般に外国人に欠けていることがその理由とされている(四一丁裏参照)。「外国人ノ享有シ得サル政権」で明文あるものとして挙げられているのは、(1)衆議院議員の選挙権・被選挙権(明治二二年二月一一日法律三号衆議院議員選挙法第六条・八条)〔以下、法令の年月日は、原則として、官報による公布年月日による。したがって、筆記等の記載とは異なることがある〕、(2)府県会・郡会議員・市町村会議員の選挙権・被選挙権(明治二三年五月一七日法律三五号府県制第四条、明治二三年五月一七日法律三六号郡制第一〇条、明治二一年四月二五日法律一号市制第七条・八条、明治二一年四月二五日法律一号町村制第七条・八条)、(3)市町村名誉職の選挙権・被選挙権(市制第八条、町村制第八条)、(4)弁護士資格(明治二六年三月四日法律七号弁護士法第二条)、(5)軍隊に編入せられる権利義務(明治二二年一月二二日法律一号徴兵令第一条)である。公務就任権については、「明文ナキモ官吏トナルコトヲ得ス。尤モ名誉領事ハ外国人ヲ以テ充ツ。公吏トナルコトヲ得サルモ明ナリ」(六二丁裏)と簡単に述べるにすぎない。中村=梅も、「公吏(明文なし)公証での証人(仏)・陪審官(英)等」としているにすぎない。
  後見人・後見監督人・保佐人・親族会員等になりうるか。「此等ハ日本法律ニテハ政権ト見ス、慣習モ亦然ラス。今日普通ノ観念モ然ラス」(六三丁表)。旧民法は、養子になることは禁止したが、後見人その他は明言していない(旧民法人事編第一八〇条)。新民法草案の編纂では外国人にも認める案が出来ていたが、草案第九〇五条・九〇六条、九四二条第三項でも外国人を排除する明文はないとする(第一二議会に提出された民法中修正案では、第九〇八条・九〇九条・九四六条三項)。公権を命令服従の関係と把握しかつ家族的国家観に基づいて親族権を公権とする説を排斥し、「今日ハ家ノ利益ヲ計ルタメ戸主権親権夫権ヲ認ムルナリ。故ニ親族権ハ私権ナリ」(一二丁裏)とする梅の見解に裏打ちされたものである。明治三七年度講義録では、この問題は「私権」の項で取り扱われることになる。
  (三)  「フランスノ所謂公権アルヒハ自由トイフヘキ私権」を問題としなければならない。明治三七年度講義録でいう「人権」、「自由」ないし「自主権」の問題である(四三九−四四二頁参照)。(1)身体の自由、(2)宗教・言論・出版・集会結社の自由、(3)請願の自由、(4)教授・営業の自由、(5)所有権(明治三七年度講義録は所有権を「自主権」の項で取り扱わない)。
  たとえば、集会及政社法(明治二六年四月一四日法律一四号)第五条・七条が発起人・公談議論者を日本人に限っているが、普通の集会、学術講演は可能であり、政談集会であっても発起人・公談議論者でなければ外国人も可能であるとする。ただし、政党加入は、第二四条が規定するように、「政権ノ当然ノ結果」(六八丁表)であるから認められない。
  (四)  外国人も享有するのが原則である狭義の私権が焦点になる(明治三七年度講義録四五〇−四五四頁参照)。梅は、享有が原則であるがやや疑問となるものとして、(1)証人となる権利、(2)版権、(3)特許・意匠・商標、(4)鉄道、(5)裁判籍を挙げる。外国人が証人となることについて民事訴訟法・刑事訴訟法は言及しておらず、「日本法ハ之ヲ公権ト見做サス」とする。新聞紙条例(明治二〇年一二月二九日勅令七五号)第五条、集会及政社法は外国人の権利を制限しているのに、後者と同日の版権法(明治二六年四月一四日法律一六号)は外国人について記載がなく、版権を外国人に認めるのが妥当とする。特許条例(明治二一年一二月二〇日勅令八四号)、意匠条例(同勅令八五号)、商標条例(同勅令八六号)も、「内外人ノ区別明記セサレハ内外人同等ノ主義ヲ取リ同一ノ保護ヲ与フル主義ナリト解釈シテ過チナカルヘシ」(六九丁裏)とする。鉄道についても、同じ頃の横浜正金銀行条例(明治二〇年七月七日勅令二九号)第五条が外国人の株式所有を禁止しているのに、私設鉄道条例(明治二〇年五月一八日勅令一二号)、また明治一四年一一月五日の日本鉄道会社創設許可特許条約書(太政官達)に禁止の明文がないのであるから、承認されるとする。裁判籍は明治二四年民事訴訟法一三条。
  このように、梅が「やや疑問」とした問題は、明文の規定のない領域については、他の立法との比較を行いながら、彼のいう「内外人同等の主義」を貫く解釈を試みていることが明らかである。それでは、外国人の享有を禁止ないし制限する明文の規定がある場合はどのように扱われるのか。項を改めて見ることにしよう。
    外国人の享有が制限ないし禁止されている私権を、梅は次の一六項目に分けて検討している(明治三七年度講義録では、四四四−四四九頁)。(1)日本人の養子となる資格(旧民法人事編第一一二条は制限)、(2)法定家督相続人(旧民法財産取得編第二九五条第一項=草案第九六六条=旧規定第九七〇条第一項)、(3)土地所有権・質権・抵当権(明治六年一月一九日一八号布告地所質入書入規則第一一条、明治五年四月一一日一二四号布告)、(4)訴訟費用の保証(明治二四年民事訴訟法第八八条。但し条約または相互主義)、(5)訴訟救助権(明治二四年民事訴訟法第九二条。但し条約または相互主義)、(6)日本船舶の所有、日本国旗を掲げること(旧商法第八二四条)、(7)航海奨励法(明治二九年三月二四日法律一五号)の対象船舶(第一条・一一条)、(8)生糸直輸出奨励法(明治三四年四月二七日法律四八号)、(9)造船奨励法(明治二九年三月二四日法律一六号)第一条、(10)移民保護者(取扱人)(明治二九年四月七日法律七〇号移民保護法第七条)、(11)取引所の会員・株主・仲買人(明治二六年三月四日法律五号取引所法第一一条)、(12)鉱業人、鉱業組合員または会社の株主(明治二三年九月二六日法律八七号鉱業条例第三条↑明治六年七月二〇日太政官二五九号(布告)日本抗法。明治二六年三月六日法律一〇号砂鉱採取法第三条)、(13)国立銀行の創立者・株主(明治九年八月一日太政官布告一〇六号国立銀行条例第一条・三五条)、(14)日本銀行の株式の売買譲与(明治一五年六月二七日太政官布告三二号日本銀行条例第五条)、(15)横浜正金銀行の株式の売買譲与(明治二〇年七月七日勅令二九号横浜正金銀行条例第五条)(16)公債証書(明治九年八月五日太政官布告一〇八号金禄公債証書発行条例)。
  旧民法人事編第一一二条は「外国人ハ日本人ノ養子ト為ルコトヲ得ス」と外国人が日本人の養子となることを認めていなかったが、明治民法はこの規定を置かなかった。法定家督相続人については(旧民法財産取得編第二九五条第一項、明治民法草案第九六六条。旧規定第九七〇条一項参照)、外国人が法定家督相続人たりえないとする。「日本人ノ家族ニアラサレハ自カラ日本人ナラサルヲ以テ日本ノ家族タルモノハ必ス日本人タラサルヘカラス」(七〇丁裏)と説明する。
  梅に特徴的なことは、現行法の捉え方=「解釈」であろう。梅の立論は、民法第二条は現行法を変更するものではなく、第二条修正案こそ現行法を改正するものであり、第二条削除論にいたっては孤立の道を歩むものであるとする主張を支えたものである。ところで、外国人の狭義の私権の焦点は、土地所有権等の物権、株主たる地位、公債であろう。その代表としての土地所有権問題についての梅の取り上げ方をみる。一八九九年(明治三二年)一一月二五日の和仏法学会での講演「外国人ノ土地所有権」法学志林四号(明治三三年)一八頁が詳細である。
  明治政府は、居留地について外国人の土地所有権は承認したものの、それ以外は禁止した。明治五年四月一四日の太政官布告一二四号(11)はこれを確認したもので、地所質入書入規則(明治六年一月一七日  太政官布告一八号)第一一条「地所ハ勿論地券ノミタリトモ外国人ヘ売買質入書入等致シ金子請取又ハ借受候儀一切不相成候事(12)」が再確認している。梅は、六年の布告で五年の布告は廃止されたと解している(七一丁表)。民法施行法第九条が明治六年太政官布告第一一条のみを廃止対象とし、「外国人ノ土地所有ニ関スル法律」(明治四三年四月一二日  法律五一号)附則、「外国人土地法」(大正一四年三月三一日  法律四二号)が廃止の対象として明治五年の太政官布告を掲げていないのは、この理解を前提としているとみるべきであろう。梅によれば、もともと、外国人に土地所有権を認めないのは土地所有権が「政権」と密接な関係をもっていたからであって、外国人に政権を認めないことが確立している以上、承認を懸念する必要はない。土地所有権を得た外国人の社会的「勢力」を懸念するのも、外国人に株式所有や商業を認めているのであって、「所謂木ニ縁テ魚ヲ求ムルカ如キモノ」である。さらに、実態をみても、期間九九九年の地上権が設定されており、これは「所有権ヲ距ルコト蓋シ遠カラサルモノ」であり、外国人が組織した法人、商事会社等の土地所有権取得を認める以上、実際においては「社員ノ共有ニ属スル土地所有権」に帰着するのであって、「現在ノ有様ニ於テハ実際上殆ト外国人ノ土地所有権ヲ認ムルニ異ナラス」(二八頁)とする(13)
    明治民法第二条の思想的背景を改めてみておく必要があろう。旧民法人事編の第二章が「国民分限」を定めていたが、法典調査会へ乙第二号一「国民分限ニ関スル規程ハ民法中ヨリ削除スルコト」を提出するにあたり、富井政章は公法上の規定を含むこと、「政略」に関係することを挙げて単行法とすると説明している(14)。これは、ボアソナード草案・旧民法の構想や井上毅の「内外臣民公私権考ー憲法衍義之一(明治二二年九月(15))」の把握の仕方を転換させたものである。国民たる地位と権利能力の切断への転換は、国際私法を法例に、国籍問題を国籍法へと、それぞれを特別法に移送することによって可能となったものである。ここには富井が挙げているようにドイツ民法編纂での構想(16)が大きな影響をあたえたことは否定しがたいように思われるが、それのみではなく、自然人・外国人の地位の歴史的変遷についての見解が決定的であったとみなければならないし、直接的にはベルギー民法草案への親近感であった。
  第二条原案の提案にあたって挙げられている立法例は、旧民法人事編第四条、フランス民法第一一条、イタリア民法第三条、オランダ民法第二条(第九条の誤り)、旧法例第九条、オーストリア民法第三三条、スペイン民法第二七条、チューリッヒ民法第一条、グラウビュンデン民法第一条第一号、第五条第一項(「一、一号五、一項」または「一、一号、五、一項」と記載されている)、ベルギー民法草案第五〇条である(17)。このなかでとくに関心のたかかったのは、「凡ソ人ハ私権ヲ享有ス Toute persone jouit des droit civils.」と規定しているベルギー民法草案であった。その理由書は「此草案ハ凡テノ人ニ私権ノ享有ヲ附与スルコトニ依リテ外国人ヲ白耳義人ト同一視シタリ、蓋シ我国公法ニ依レハ凡テノ人類ハ皆法律上ノ人ニシテ外国人ヲシテ内国人ト同シク享有セシムルカ為メニ伊国民法ノ如キ特別ノ明文ヲ要セス(民法改正草案第一款二五九頁(18))」としていた。この草案につき、山田三良は、「外国人ハ内国人ト同シク私権ヲ享有ストノ規定ノ理論上無用ナルコトヲ看破シタル嚆矢ニシテ第二十世紀以後ニ現出スヘキ文明諸国ノ民法ハ必ラスヤ斯草案ニ倣ヒ斯ル無用ナル規定ノ跡ヲ止メサルニ至ルコトハ吾人カ今日ヨリ之ヲ予言スルヲ憚ラサル所ナリトス(19)」と断言する。明治民法第一編第一章の標題「人」、同第一節の標題「私権ノ享有」、第一条「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」(現第一条ノ三)が内外人を区別しない表現を採用したのはかような歴史観を背景としたものであった。山田の見解に従うなら、外国人の私権享有主体性は民法第二条によってではなく、第一条がすでに確認していることなのであった。第二条の内容は、本来、第一条の但書にあたるものであった(20)が、外国人の私権享有性に対する疑問が強い当時の状況のもとで、外国人の私権享有主体性を確認する表現方法を採用する途が選択された結果とみるべきであろう。
  しかし、明治民法の起草者はこのような徹底した見解を採用してはいない。たしかに、梅は、明治民法第二条修正案、削除案に対する関係においては、私権を「何レノ国家ニ属スル人類タルカヲ論セス人類カ人類トシテ享有スヘキ権利」(明治三〇年)としたが、さらにこれを人権・私法権に区分し、私法権を人類権・国民権と把握し精緻化するとき、この「区別\\ノ適用\\ハ社会ノ進歩ト共ニ変更シテ来ル」、「此区別ハ学理的ニ言ヘバ各国皆存シテ居ルガ、其内容ニ至ッテハ国国皆違フ、又一国ノ中デモ時代ニ依ッテ違フ」(明治三七年度講義録二三五頁)と、その歴史的性格が強調される。そして、「現今ノ我邦」について、土地以外のものの所有権、債権、婚姻をなす権利を人類権とし、親権、戸主権、養子縁組をなす権利、隠居をなす権利、土地所有権を国民権とするのである(同二三五−二三六頁)。
  もともと、梅は、「抑モ我帝国憲法第二章ニ於テハ臣民ノ権利義務ハ法律ヲ以テ規定スヘキコトヲ規定セリト雖モ是レ素ト日本臣民ノ権利ヲ保護スル規定ニシテ外国人ニ適用スヘキモノニアラス。従ツテ憲法ノ解釈上外国人ノ権利ヲ伸縮スルニハ必スシモ法律ヲ以テ規定スルコトハ要セサルカ故ニ\\」、民法第二条で「法令」とすることによって、「外国人ニ許與スルコトヲ得サル権利ハ法律ヲ竣タス命令ヲ以テ之ヲ禁止スルコトヲ得ル(との)憲法ノ解釈論ヲ滅損(21)」しないようにしたのだとする。ここでは、明治憲法が日本臣民の権利のみを保障するものであることは不動の前提とされている。明治民法第二条修正案・削除案の台頭に対して、梅は「私権=人類権」構成を前面に出して対抗する。民法第二条攻撃の終息とともに、人権(自由・自主権)とは区別された狭義の私権は、人類権・国民権に再区分される。ここでの国民権的(狭義の)私権概念の組み入れが明治憲法「第二章  臣民権利義務」との理論的架橋となる。しかも、人類権・国民権は二元的に把握されており、原則・例外の構造が明確に打ち出されず、その現実的区分は「社会ノ進歩」・「国」・「時代」によって異なるものと相対化される。「学理的」区分は展開の契機を弱められたのである。

(1)  梅が第二条の起草を担当したことは、福島正夫編・明治民法の制定と穂積文書五三頁参照。
(2)  「外国人ノ権利(一)・(二)・(三)未完」法学協会雑誌一一巻一、三、九号(明治二六年)。
(3)  民法要義巻之一(和仏法律学校  明治二九年)、民法原理巻ノ一(和仏法律学校  明治三六年)。
(4)  「国民分限ノ喪失(人事編第一二條批評)法学協会雑誌一一巻一〇号(明治二六年)、「外国人ノ権利」法学協会雑誌一五巻七、八号(明治三〇年)=法典質疑録一九、二〇号(後者によれば、和仏法律学校講談会での講演)、「外国人ノ土地所有権(講演)」法律経済二六号=法学志林四号(明治三三年  法学志林二号(明治三二年)一〇一頁によれば明治三二年一一月二五日和仏法学会の講談会での講演)。この他に、学習院大学所蔵の「条約実施研究会速記録」があることを、岡孝=江戸恵子「梅謙次郎著書及び論文目録」法学志林八二巻三=四号(一九八四年)一六八頁注(6)が指摘しているが、未見。
(5)  立命館大学図書館(旧分類)に所蔵されている講義筆記録である。タテ二三・二p×ヨコ一五・四p  謄写版印刷、漢字・片仮名・欧文混。三五−三九字×一五行(一頁あたり)。上巻は目次六頁、本文一丁−一七六丁、下巻は本文一七七丁−三五九丁(但し、三〇〇丁が重なっている)。京都法政大学(立命館大学の前身)が京都寺町通竹屋町下ル  足立書店から購入したもの。この講義筆記には、はしがきや奥書はないものの、「期間」に関する講義で「三十一年ノ今日ヨリ五年トスレハ明治三十六年十一月十四日十二時迄ナリ」(三一四丁表)としていることから、この部分の講義が一八九八年(明治三一年)一一月一四日になされていることを知ることができる。また「前学年云ヘル如ク妻ノ無能力カ\\」(二八一丁表)の記載は能力の部分の講義が「前学年」になされたことを示している。さらに、親族編・相続編に言及する場合、民法草案・修正案・草案・新草案などの呼称で条文を指示しているが、「物」(一八四丁表)以降では旧規定が援用されている。したがって、この講義は一八九七年(明治三〇年)から一八九八年にかけての講義と推定することができ、梅謙次郎『一八九七ー九八年民法総則講義筆記』とでも言うべきものである。京都大学法学部にも同一のものが所蔵され、これには『梅謙次郎口述  民法総則〔東京帝国大学講義録〕』とのタイトルが張り付けられている。この筆記は、本文が、本論(民法の学義、民法の範囲、民法の編別)から始まっているが、京都大学が所蔵している『梅謙次郎口述  民法総論〔東京帝国大学講義録〕』(「参考書」に続いて、第一章法律ノ概念、第二章法例から構成されている。本文全五〇丁)、東京大学総合図書館が所蔵している『梅博士講述・民法総論完』(内容は京都大学所蔵本と同一)に続くものである。この民法総論・民法総則講義筆記については、別の機会に触れることにしたい。
    岩田新・民法起草と日本精神−梅先生の「條理」を中心として−(日本法理研究会  一九四三年)は、梅「先生は民法が出来た直後から講義をやつて居られたが、一講義が三年続く。それを四回であるから十二年掛る。三十九年が四回目だから第一回は二十九年或は三十年頃ではないかと思ふ。民法前三篇が出来て後二篇がまだ出来ない前から講義を始めて居られた」(一−二頁)としているが、明治三〇年九月から民法総論の講義を開始し明治三一年一一月に「期間」に進んだということになろう。
(6)  山田三良は、沿革を外人敵視主義、外人賤蔑主義、外人排斥主義、対外相互主義、内外平等主義の五時期に区分している。穂積陳重は、外人賤蔑主義・外人排斥主義の画然たる区別に疑問を示し、彼の社会進化の時期に対応させ、野蛮時代ー敵視主義、半開時代ー賤蔑主義・排斥主義、文明時代ー相互主義に整理して、次のように断言する。「苟も独立国を以て自ら處り、万国と対峙して斑位に列し、国際公法の通義を遵奉して国交際の伴侶に入らんと欲する者は、相互主義若しくは平等主義の一を擇んて之を採らざる可らさるは理の最も観易きものなり」(穂積陳重「序文」法学協会雑誌一五巻三号二九一頁)。
(7)  Andre´ Weiss, Traite´ the´orique et pratique de droit internationale prive´, Tome II. 1894. pp. 463-564. を拠り所にしたものとおもわれる。筆記四五丁裏、四八丁裏、五六丁参照。
(8)  中村進午「外国人の権利」日刊世界之日本明治三〇年一月一六日号一頁。
(9)  穂積八束「民法修正意見」法学新報七一号(明治三〇年)一頁以下参照。
(10)  前掲「外国人ノ権利」法学協会雑誌一五巻七号六九五頁。なお、梅はフランスの多数説・判例がフランス民法典の droit civil を「私法上の権利」ではなく「国民の権利」と解釈し、外国人の私権享有性を解釈論上拡大しているとする(六九七−七〇一頁参照)。
(11)  「御国内一般地所ノ儀銘々所持ノ分タリ共外国人ヘ対シ売渡候儀ハ勿論金銀取引ノ為メ地所又ハ地券等書入致シ候儀ハ決テ不相成候條末々ノ者ニ至ル迄心得違無之様各管内無遺漏可触示事」(法令全書明治五年ノ一  九一頁)。筆記六五丁参照。
(12)  法令全書明治六年ノ一  一五頁。
(13)  明治二九年四月四日調印の日独通商航海条約附属議定書第二、および明治三〇年一二月五日調印の日墺通商航海条約附属議定書の第二「条約第一条及第三条ニ付/両締盟国ハ其ノ一方ノ臣民カ他ノ一方ノ版図内ニ於テ内国臣民ト同様不動産抵当権ノ取得及占有ヲ許スコトニ同意ス」
(外務省記録課・再訂条約彙纂〔明治四一年  丸善株式会社〕一二頁、七〇頁)の評価については、筆記七五丁憲以下参照。なお、外国人の土地所有権問題に戻るならば、トーマス「居留外国人権利義務論」外交一−九号(明治三一年)、岩村茂「外国人ヲシテ我鉄道株式ヲ所有セシムルコトヲ得ルヤ」国家学会雑誌一三七号(明治三一年)が目につくが、後に発表される柳川勝二「外国人ト土地所有権」法政六一号(明治三五年)、ボアソナード「外国人ニ対スル土地所有ノ禁を撤スル利益ニ付テ」法学志林四三号(明治三六年)からみても、梅の肯定論は先駆的なものであろう。
(14)  日本近代立法資料叢書一三  第一綴三〇頁参照。
(15)  井上毅傳記編纂委員会編・井上毅傳  史料篇第三(国学院大学図書館  一九六九年)五八六頁。
(16)  ドイツ民法典は外国人の私権享有性にかんする規定を置かなかった。自明の理であるからである。しかし、この理解は一面的であり、ドイツ民法施行法でのラント法への留保を通じて、制限されているのであった。このようなドイツ民法典の構成と性格については、Helmut Ko¨hler, Einfu¨hrung:in der Faksimileausgabe des Bu¨rgerlichen Gezetzbuches vom 18. August 1896. 1996. が簡潔に描写している。
(17)  日本近代立法資料叢書一三  第二綴一四頁、第一綴一八七頁参照。参考までに、外国の立法の当時の翻訳を掲げておこう。フランス民法一一条「外国人ハ其本国カ條約ニ依りテ仏国人ニ許与シ又ハ許与スヘキ権利ト同一ノ権利ヲ仏国ニ於テ享有ス」(山田三良四頁)。オランダ民法九条「私権は外人の之を享有すること和蘭人と同一なるべし  但し法律に反対の明文あるときは此限に非ず」(中村進午  日刊世界之日本明治三〇年一月二〇日一頁)。イタリア民法三条「外国人ハ内国人ト同一ノ私権ヲ享有ス」(山田三良七頁)、「外国人は伊国人民に属する凡ての私権を享有す」(中村進午  日刊世界之日本明治三〇年一月二一日一号頁)、「外国人モ亦王国人民ニ属スル民法上ノ権理ヲ得有スルコトヲ得可シ」(ヂョゼフ・ヲルシュ著・光妙寺三郎訳・伊太利王国民法〔司法省  明治一五年=一八八二年〕七頁)。なお、ユック著(光妙寺三郎訳)・伊仏民法比較論評(司法省  明治一五年)四五頁以下参照。ベルギー民法草案五〇条「凡ソ人ハ私権ヲ享有ス」(山田三良三頁)。チューリッヒ民法一条、オーストリア民法三三条、西班牙民法二七条、グラウビュンデン民法一条一号、五条一項の翻訳は、未見。
    なお、当時、国際法協会の一八八〇年のオックスフォード会議の決議「外国人ハ何レノ国籍又ハ宗教ニ属スルヲ問ハス現行法律ニ依リテ特ニ設定シタル例外ヲ除キ内国人ト同シク私権ヲ享有ス」(Institut de droit international. Annuaire Tome 5 1881/82. p. 56.])に言及することが多い。たとえば、山田三良「民法第二條修正案ヲ評ス」七頁(右の引用はこれによる)、穂積陳重の「序文」二九二頁参照。もっとも、芹田健太郎「国際法における人間」岩波講座基本法学1(岩波書店  一九八三年)二四九頁以下、とくに二六八頁もあわせて参照のこと。
(18)  山田三良「民法第二条非修正私見」国家学会雑誌一一巻(一二〇号)一六五頁。
(19)  もっとも、梅は、「学士(山田三良のこと・引用者)ノ意見ハ余ノ意見ヨリモ或ハ斬新ナルヘシト言フテ憚ラサルナリ」(「外国人ノ権利」六八九頁)と述べ、距離があることを示唆している。
(20)  たとえば、「私権ノ享有ハ出生ニ始マル  但外国人ニ付キ法令又ハ条約ニ別段ノ規定アルトキハ此限ニ在ラス」、といった規定になろうか。
(21)  梅・前掲「外国人ノ権利(承前)」法学協会雑誌一五巻八号(明治三〇年)七九九頁。なお、明治三七年度講義録四四四頁参照。




三  韓国併合と梅謙次郎


    韓国統監府顧問梅謙次郎が、不動産法調査会会長・法典調査局顧問に就任し、韓国の不動産調査、民事慣習調査、および民事立法に関与したことはよくしられたことである(1)。日本の民事立法の中心人物梅が、韓国の「保護国化」・「併合」の過程で、どのような構想をえがいたのか、そして韓国人・日本人・それ以外の外国人の関係をどのように構成したかは、外国人の権利に関する梅の理論の試金石の一つとなる。
  不動産法調査会(一九〇六年七月−一九〇七年一二月)の会長に就任した梅は、一九〇七年(明治四〇年)末に「調査の結果を起草し、之を伊藤統監に報告(2)」している。議政府不動産法調査会・韓国不動産ニ関スル調査記録(一九〇六年)がそれである。併行して、「土地家屋所有権規則」(一九〇八年七月二〇日  勅令六五号)等、不動産に関する個別立法に関与した(3)。その後、「法典調査局官制」(一九〇七年=明治四〇年一二月二三日  勅令六一号)に基づき「民法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法及付属法令ノ起草」(一条)のために法典調査局が一九〇八年一月一日付で設置され、梅はその顧問に就任する。民商統一論を唱えた梅自身が「法典調査局官制」の策定に携わったであろうことは、「法典調査局官制」第一条が「商法」を掲げていないことからも窺い知ることができる(4)。梅は、民法典編纂の基礎作業として民事慣習の調査にたずさわった。調査項目は、梅が起草した法典調査局・慣習調査問題(一九〇八年=明治四一年一月)によれば二〇六項目で、調査結果は朝鮮総督府・慣習調査報告書(明治四三年。訂正版明治四五年、再版大正二年)としてまとめられている。立法作業としては、「裁判所構成法」(一九〇七年一二月二三日  法律八号)・「民事訴訟法草案」が代表的である(5)
  第三次日韓協約の後になされた梅の講演「韓国の話」(一九〇七年=明治四〇年一〇月二四日の講演)では、韓国の司法制度の整備と所有権その他土地に関する権利の保護が語られているにるにすぎない。この講演がなされた時点ではまだ「法典調査局」は発足していなかった。梅が、民法・商法について公に言及するのは、一九〇九年(明治四二年)の東京経済学協会九月例会での講演「韓国の法律制度に就て」に至ってであった。この講演は、「法典調査局」の作業を反映したものであるが、他方で、すでに同年四月一〇日の時点で、伊藤博文が韓国「併合」に「改宗」していたし、七月一二日には「韓国司法及ビ監獄事務委託ニ関スル覚書(6)」が調印・交換されていた。この覚書の第三条は、「在韓国日本裁判所ハ協約又ハ法令ニ特別ノ規定アルモノノ外韓国臣民ニ対シテハ韓国法規ヲ適用スルコト」としていたものの、日本は韓国の裁判権自体を剥奪したのである。韓国の裁判所が廃止され、勅令「韓国統監府裁判所令」(同年一〇月一八日)に基づき日本の裁判所が設置される。梅の講演はこの「覚書」と「韓国統監府裁判所令」公布の間になされたものである。
「民法も亦制定する必要があります。其理由の一は何れの国でも民法はある、韓国にもある、然し成文には無いから之を成文法にしなければならぬ。且従来の慣習でも悪いのは改めなければならぬのである。其理由の二は領事裁判権を撤回せしむるには文明国の法典に類するものを作る必要がある。商法は民法中に入れる方が至当でありましょう。其起草は私がすることになって居りますが、昨年来慣習を調査して居ります。幸に其調査は今年中で結了することでありませう」
(梅「韓国の法律制度に就て(下)」東京経済雑誌一五一四号一〇頁)
  
  梅は、成文法ではないものの韓国の民法、そして編纂されるべき韓国民法典が「覚書」第三条のいう「韓国ノ法規」に当然含まれるものと考え、朝鮮について慣習調査を行い、商法を含む民法典の編纂を行う構想を表明している。日本民法を朝鮮に適用する構想ではなかった。
  しかしながら、彼は編纂される韓国民法を「全く韓人のみの為に」適用されるものと考えたのである。つまり、梅は、第三次日韓協約・「覚書」との関係で、
「\\今迄は韓国人は勿論原告たる日本人にも其法が適用せられ、領事裁判権が撤回せらるる時は外国にも適用せらるべきでありましたが、今度は日本人には日本の法律が適用され、韓国人には韓国の法が適用せられ、条約又は法令に特別の規定なき限りは日本人に対しては韓国の法律は適用せられませんから、新に起草すべき民法は全く韓人のみの為にするものであります」
(同前)

と説明する。ここで展開された内容は、この講演の直後の一九〇九年(明治四二年)一〇月一六日に公布された勅令二三八号「韓国人ニ係ル司法ニ関スル件(7)」で具体的に規定される。それは、
「第一条  統監府裁判所ハ本令其ノ他ノ法令ニ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外韓国人ニ対シテハ韓国法規ヲ適用ス
  第二条  韓国人ト韓国人ニ非サル者トノ間ノ民事事件ニ付テハ左ノ変更ヲ以テ日本法規ヲ適用ス但シ韓国人ニ対スル裁判ノ執行ハ韓国法規ニ依ル(以下省略)」
とするものであった。ところで、「梅文書」中の「韓国立法事業担任当時ニ於ケル起案書類」に収録されている「今後制定ヲ要スル法律」の標題を伴うメモ(不動産法調査会用紙)が刑法・民法・戸籍法・弁護士法・土地収用法をあげているが、民法につき、次の付記がなされている(8)
「当事者ノ一方又ハ双方カ日本人其他ノ外国人ナルトキハ日本民法ヲ適用スルヲ原則トシ土地ニ関シテハ韓国法ニ依リ身分ニ関シテハ各自ノ本国法ニ依ルヲ本則トスルコト/当事者双方カ韓国人ナルトキハ力メテ旧慣ニ仍ルコト/因テ韓国ノ慣習ヲ調査シ簡易ナル民法ヲ制定スルコト」
  この文書の作成期日は明確ではないが、前記「覚書」・「韓国人ニ係ル司法ニ関スル件」に梅が関与したと推定させるものがある。梅の構想、
    当事者の一方又は双方が日本人その他の外国人のとき  →  日本民法適用
    当事者双方が韓国人のとき              →  旧慣=韓国民法の適用
で問題となるのは次のことである。梅の構想は韓国民法典編纂にあるから、日本民法と韓国民法がそれぞれ独立した存在として併存することになる。このもとでは、たとえば、韓国人と日本人の取引で法的紛争が発生した場合、韓国民法が適用されるか日本民法が適用されるかは、いわゆる抵触法・国際私法の問題として処理されるべきものである。また、韓国人と外国人との間の法的紛争の解決の基準となる法規範をどこに求めるかも、同じことである。にもかかわらず、梅=「韓国人ニ係ル司法ニ関スル件」は、韓国人以外の者が(一方又は双方)当事者である場合には韓国(民)法の適用を排除する。つまり、たしかに、梅が韓国民法典の編纂の方針を堅持し韓国民法典と日本民法典の併存構想を展開していることは事実であるが、編纂されるべき韓国民法と日本民法は相互に独立した平等性を持たないのである。
    梅は、このような構想をどこから獲得したのであろうか。この問題を解く手掛かりは、法典調査会・民法商法修正案整理案(9)に含まれている「欧米各締盟国トノ改正條約ノ台湾島ヘノ適用ニツイテ」・「アルゼリヤ法制」・「『アルゼリヤ』ニ於ケル司法制度」・「其他仏国植民地ノ法制」・「印度緬甸地方英国植民地法制」(五六−六二頁)にある。冒頭の文書は、司法大臣清浦奎吾・外務大臣大隈重信が連名で内閣総理大臣松方正義宛にあてた明治三〇年一一月一日付の建議である。添付資料(明治三〇年一一月三日付)とともに同年一二月一日に法典調査会委員に配布されたようである。ちなみに、梅が、一八九七年(明治三〇年)一〇月二八日−翌年七月二七日の期間、法制局長官の任にあったことが留意されなければならない。この建議は、
「(一)改正條約ノ実施ニ連係スル所ノ各法典ハ台湾島ニモ之ヲ施行シ  (二)該島住民相互ノ契約其他私法関係其相互ノ訴訟手続其刑罰及ビ処刑手続ニ限リ旧慣ヲ斟酌シテ特ニ之ヲ規定スルコトヲ得其規定ハ命令ヲ以テ之ヲ設クルコトヲ得ルモノトスル旨」(五六頁)
によって予め「其筋」に準備させるべきとしたものであった。すでに「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」(一八九六年=明治二九年  法律六三号)が公布され所謂「六三問題」を発生させていたのであるが、台湾総督府法院条例、「法例ヲ台湾ニ施行スルノ件」(明治三一年七月一六日  勅令一六一号)、「民事商事及刑事ニ関スル律令」(同  律令八号)、「民事商事及刑事ニ関スル律令施行規則」(同  律令九号)等に具体化される。「民事商事及刑事ニ関スル律令(10)」第一条は、「民事商事及刑事ニ関スル事項ハ民法商法刑法民事訴訟法刑事訴訟法及其附属法律ニ依ル但左ニ掲クル事項ハ別ニ定ムルマテ現行ノ例ニ依ル/一  本島人及清国人ノ外ニ関係者ナキ民事及商事ニ関スル事項/二  本島人及清国人ノ刑事ニ関スル事項」と定めた。なお、後の「台湾民事令」(明治四一年八月二八日  律令一一号(11))の第三条は、「本島人及清国人ノミノ間ノ民事ニ付テハ\\民法、商法及其ノ附属法律ニ依ラス旧慣ニ依ル」としていた。それは、同時に、フランス等の植民地法制に関する研究の反映であった。
  梅にしても、後藤新平関係文書中の「台湾ニ関スル鄙見(12)」において、次のように展開していたのであった。
「        三  法典ハ之ヲ台湾ニモ施行スヘキカ
  今仮ニ条約トノ関係ヲ離レテ之ヲ論スレハ直チニ法典ヲ之ニ施行スルコトヲ休メ先ツ力メテ旧慣ニ仍リ必要ニ応シテ之ニ適用スヘキ法令ヲ制定スルノ愈レルニ如カサルコトハ蓋シ疑ヲ容レサル所ナリ。唯新条約ニシテ台湾ニモ施行セラルルモノトスル以上ハ少クモ条約国人ニ関スル事項ニ就テハ之ニ法典ヲ施行スルニ非サレハ為メニ内地ニ於ケル新条約実施ノ妨害ヲモ醸スルコトナキヲ保セス。況ヤ我政府ハ外国政府ニ対シテ既ニ之ヲ約シタルコトアリト聞ケルニ於テヲヤ。蓋シ法典ハ必スシモ内地ト台湾ト同一ナルコトヲ要セスト雖モ大体ニ於テ粗同一ノ基礎ニ據レルモノタラサルヲ得ス。故ニ今新ニ台湾ニ施行スヘキ法典ヲ制定セント欲スルモ時日ノ之ヲ許ササルヲ奈何セン。殊ニ内地ノ法典ト粗同一ノ基礎ニ據レル法典ナランニハ之ヲ土人ニ適用セサルト同シク困難ナルヘシ。故ニ原則トシテハ内地ノ法典ヲ台湾ニモ施行スルコトトシ唯土人間ノ関係ニ就テハ暫ク旧慣ニ仍ルヘキモノトシ且不動産ニ関スル規定ノ如キハ土地ノ調査ノ終了スルニ至ルマテハ台湾ノ全島又ハ其大部分ニハ之ヲ適用セサルコトトシ又親族、相続ノ関係ニ就テハ或ハ暫ク国際私法ノ原則ヲ準用スル必要アルヘシ。尚ホ刑法、民事、刑事訴訟法等ニ就テモ多少ノ特例ヲ設クル必要アラン。而シテ此等ハ敢テ外国ノ抗議ノ容レサル所ナリト信ス」(句点は引用者が付したもの)
  帝国の版図の一部となった台湾への明治憲法・改正条約の適用につき肯定論を展開する梅が、台湾につき旧慣、そして必要に応じて法典・法令を制定するのが妥当としながらも、来るべき台湾の法典も内地のそれと「基礎」を同じくするものであるから「原則トシテハ内地ノ法典ヲ台湾ニモ施行スルコト」と説くとき、原理的には「内地法律延長主義」が採用されているのである。慣習を含む台湾に関する特別法と「内地法」との抵触問題は準国際私法によって処理されるにすぎない。
  この構想を展開した梅が、韓国併合論の嵐のなかで、韓国典編纂論をどのように維持したのかが問題となる。
    ここで、朝鮮統監府法部次官であり、同時に法典調査局の委員長の職にあった倉富勇三郎の「意見」をみておこう。
「翻テ韓国ノ裁判制度ヲ見レハ事創設ニ属シ不備不整ノ所多キハ固ヨリ免レ難キコトナルモ裁判所ノ構成略。日本ノ現制ニ同シク其職員ノ多数亦日本ヨリ聘用セラレタルヲ以テ裁判ノ実質ニ於テハ必シモ日本ノ裁判所ニ比シ難キニ非ス。然レトモ韓国ノ法律ハ極メテ不完備ナルヲ以テ在韓国日本人ヲシテ遽ニ韓国ノ裁判権ニ服セシメ難キハ言ヲ俟タス。法律ノ制定ハ容易ノニ非サルヲ以テ少クモ今後両三年ヲ費スニ非サレハ其完備ヲ期シ難カルヘシ。
  故ニ今日ニ於テハ在韓国日本人ニ関スル訴訟ハ韓国ニ聘用セラレタル日本法官ヲシテ日本裁判所ヲ構成セシメ日本ノ法律ニ従テ審判セシムルヨリ便ナルハナカルヘシ。此方法ニ依ルトキハ韓国ニ於テハ別ニ損スル所ナク而シテ日本人ノ利益ヲ享クルコトハ決シテ鮮少ナラサルヘシ。加之韓国ニ於ケル専務ノ日本裁判所ヲ設置スルニ至ラハ特許、意匠、商標等ニ関スル日米協約ノ例ヲ拡充シ在韓国外国人ヲシテ一切ノ訴訟ニ付キ日本裁判所ノ裁判権ニ服セシムルモ亦至難ノコトニ非サルヘシ。
  若シ外国人ヲシテ日本ノ裁判権ニ服セシムルコトヲ得ルニ至ラハ直接ニ韓国ニ対スル治外法権ヲ撤去セサルモ其実之ヲ撤去シタルト同一ノ効果ヲ収ムルコトヲ得ルニ因リ韓国ノ為メニ謀ルモ亦至便ノ事ト謂ハサルヲ得ス(13)」(句点・改行引用者)
  この文書の作成時期は確かではないが、日本裁判所設置構想の提起であるから、一九〇九年(明治四二年)七月一二日の「韓国司法及ビ監獄事務委託ニ関スル覚書」以前であることは確かであり、言及されている「特許、意匠、商標等ニ関スル日米協約」は一九〇八年(明治四一年)五月一九日調印(八月一三日公布)の「韓国に於ける発明、意匠、商標及著作権の保護に関する日米両国間の条約(14)」であるから、倉富の意見書は、一九〇八年(明治四一年)五月−一九〇九年(明治四二年)七月の期間に作成されたとみるべきであろう。
  われわれにとって関心のあるのは、梅を顧問にした法典調査局の委員長倉富が、韓国の裁判権の剥奪構想までは明言してはいないものの、日本裁判所の設置によって韓国における治外法権の実質的撤廃を展望したことである(この文書には、「法律案  韓国ニ於ケル裁判事務ニ関スル件」・「勅令案  統監府裁判所職員ニ関スル件」・「勅令案  統監府裁判所職員官等給与令」が添付されているから、起案作業そのものといってよいかもしれない)。かつて、つまり一九〇八年(明治四一年)四月二九日の第三九回施政改善協議会で、法典編纂には「約三年(15)」を要すと発言していた倉富であったが、彼のこの意見=司法権の日本掌握による治外法権の実質的撤廃構想は、法典編纂不可欠論を堀り崩すものであった。
  さらに、韓国併合の方針とともに、梅の課題は困難に直面する。一例をあげれば、無名氏「韓国に於ける司法制度を論ず(16)」国際法雑誌八巻一号(一九〇九年=明治四二年九月二五日発行)一頁以下は、
「韓国は東洋に於ける旧国にして従って其の人民の社会的生存上多年の旧慣と固有の法規とを有す韓国は又爾来専政且つ悪政の国にして従って国民一般に身体財産に関し文明的確実なる権利の観念を缺く韓国は又古来久しく商工業国に非ずして農業国たり。従って彼ら韓国人民には欧州に発達せる商法的権利の観念なし。是を以て此等国民に対し遊かに発達せる欧州法系に属する私法の観念に基き親族、財産、商事等に関する法規を制定し文明国民と同様に之を統治せんと試むるは全く是れ盲断なりと云はさる可らす」(五頁)
と主張しているのである。この無署名論文に代表される合併論の合唱に対して、韓国併合に消極的立場にあった梅(17)が自己の見解を表明したのが「韓国の合邦論と立法事業」国際法雑誌八巻九号〔一九一〇年=明治四三年五月二四日発行〕三三頁である。
「民商を併せたる法典は日本の法律を其儘韓国に行ひうるかと云へは縦令、合併後と雖も不能なりと思ふ。先つ親族法相続法の二者は国々大に慣習を異にし居りて韓国の慣習は著しく日本の慣習と異るか故に之に付て韓国人の為に特別の法律を要する事は何人も異議なき所ならん。猶其他に不動産に関する法律の如きも日本と同一に為し能はすと思ふ。\\我台湾に於ても我国の領土の一部たるに拘らす多年莫大の費用を投して其慣習を調査せしめ今や已に台湾民法の起草に着手したりと聞けるを以て合併後の韓国に於て矢張、特別の法典を必要とするは固より当然の事なりと信す」(三四−三五頁。句点・引用者)
  また、明治四三年五月一九日東京帝国大学集会所で開催された伊藤(博文)公追悼会での演説「伊藤公と立法事業」国家学会雑誌二四巻七号(明治四三年)三二頁は、「民事に付きましては、当事者の一方が日本人若くは外国人であるならば、それは日本の法律を以て裁判する、原被両造共に韓国人である場合には、始めて韓国の法律を適用すると云ふことになりましたから、法律の適用としては稍々狭くなつたのであるけれども、矢張韓国人に適用すべき法律は必要であるのであります。其法典の編纂に付きましては、\\故公爵の御趣意を承続いで、\\御薨去になつた今日と雖も、矢張り故公爵を輔けて其仕事をして居る積りで私は居るのでございます」(四八頁)と述べている。さらに、梅の最後の談話というべき「合併後の韓国法制」刑事法評林二巻九号(明治四三年)は、「理論ノ上ヨリ之ヲ見ルトキハ、韓国ガ日本国トナリテ、之ニ日本ノ法制ヲ適用スルハ、当然ノ結果ニシテ、憲法ヲ始メ、民法ナリ刑法ナリ尽ク之ヲ韓国ニ施行スベキモノゝ如シ。然レドモ果シテ直ニ之ヲ施行シテ可ナルヤ否ヤハ、各種ノ法制に就テ一々研究ヲ尽クサゞル可カラズ」(五三頁。句点・引用者)として、議院法・刑法等についても特別法制の必要を説いているのである。民法については言うまでもあるまい。
  このように、梅は、韓国、そして台湾についてすら、独自の法典編纂論を維持した。しかし、それは韓国の実情・特殊性や「慣習」によって根拠づけられるものであって、「理論」(梅)的には、日本法の直接適用論を排除したものではなかった。また、文明国の法典を編纂することによって領事裁判権を撤廃するとした梅の構想は、日本法の特性と暫定性をもっとも鋭く意識していた梅自身が日本(民)法を文明国の民法と把握して立論している以上、日本法の直接適用に対して力を失うのは必然的であった。法典編纂による独立構想をその裡に秘めたとしても、台湾・韓国の日本領土化・併合の枠内で議論を展開した梅の超えられない限界というべきであろう。
    このように、梅は韓国併合にもかかわらず韓国民法典の編纂構想(18)を堅持していた。最後に、梅の土地制度構想に触れておこう。
  梅は、「土地制度も統一せんければなりません。登記簿が二つあつては不便でありますから、土地制度だけは日本人にも、韓国人にも将又外国人にも共通のものでなければなりません。是は法律で韓国の法律が適用せらるると規定すれば好いのであります。即ち此事は民法が制定せらるると同時に行はるるならん」(「韓国の法律制度に就て(下)」東京経済雑誌一五四〇号一〇頁。句点・引用者)としている。これを根拠に、梅が日本人による土地収奪・経済的進出の法的基礎を確立しようとしていたとする見解がある(19)。大局的には正しい評価であるが、韓国の土地制度・慣習に日本とは異なったものがあることを認識していた梅は、韓国に即した土地制度の確立を韓国民法の施行と同時に行うことを構想したのであって、日本の土地制度を直接適用しようとしたものではないことに注意する必要があろう(20)
  たしかに、梅は民法第二条を論ずる時外国人の土地所有を承認する論陣をはっていたのであるが、韓国についての議論もそれと同一のように見える。しかし、これは表面的な見方にすぎないだろう。梅が民法第二条について外国人の私権の享有を主張するとき、そこに土地所有権が含まれるのは当然である。しかし、一八九九年(明治三二年)一一月二五日の和仏法学学会での講演「外国人ノ土地所有権」で、梅は、「予ハ\\今日直チニ外国人ノ土地所有権ヲ絶対ニ認メサルヘカラスト主張スル者ニアラス。\\先ツ條約国人ノミニ之ヲ許セハ可ナリ」(二九−三〇頁)としていたのであるから、そう簡単ではない(梅の主張は所謂「条約相互主義」ではない。条約締結国の国民にのみ国内法で土地所有権を承認するという構想なのである)。このような梅の見解と彼の韓国民法典編纂とを連結するなら、彼は、韓国併合条約が締結されている状況のもとで、韓国の法律で条約締結国(=日本が唯一!?)の国民のみに土地所有権を承認する韓国法を設定することになろう。梅の「不動産法要旨(21)」が設定した課題「一  (韓国)人民ノ土地所有権ヲ公認スルコト」、「二  外国人ノ土地所有権ヲ認ムルコト」はこのようにして実現されるべきものだったのであろう。
  一九一〇年(明治四三年)の「外国人ノ土地所有権ニ関スル法律」(法律五一号)第一条は、「日本ニ住所若ハ居所ヲ有スル外国人又ハ日本ニ於テ登記ヲ受ケタル外国法人ハ其ノ本国ニ於テ帝国ノ臣民又ハ法人カ土地ノ所有権ヲ享有スル場合ニ限リ土地ノ所有権ヲ享有ス  但シ外国法人カ土地ノ所有権ヲ取得セシムトキハ内務大臣ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス」(第一項本文)、「前項ノ規定ハ勅令ヲ以テ指定シタル国ニ属スル外国人及外国法人ニノミ之ヲ適用ス」としたが、北海道、台湾、樺太および国防上必要なる地域を除外していたのである(第二条参照)。梅の「土地所有権=国民権」構成の浮上(明治三七年度講義録)も、この流れのなかで検証されなければならない(22)

(1)  川崎民蔵「朝鮮における梅博士」法学志林四九巻一号(一九五一年)九九頁が先駆的であり、中村哲「梅謙次郎の先見」法政大学大学史資料委員会編・法律学の夜明けと法政大学(法政大学  一九九二年)三四三頁が幅広い視点から韓国併合への梅の関与を論じている。本稿とのか
かわりでは、鄭鍾休・韓国民法典の比較法的研究(創文社  一九八九年)が最もまとまった研究である。もっとも、後者は、梅の作業時に日本政府内(狭くは統監府内)に法典制定派と日本法適用派との対抗を想定し、伊藤博文・梅の死亡により法典制定派は崩壊したとしているが。やや図式的な捉え方のように思われる。本稿が明らかにするように、「法典制定派」といっても、日本が主権を剥奪し日本の統治権を及ぼしたもとでの法典編纂なのであって、日本法制の枠内での補充的法典編纂にほかならないからである。
    梅の作業や論考を分析する場合、伊藤博文が「韓国併合」に「改宗」した一九〇九年(明治四二年)四月を画期として二つの段階に分けるのが適切であろうが、伊藤の改宗前の梅の構想を検出するには資料が少なすぎるため、放棄せざるをえなかった。内容的には、韓国法制全体に対する構想、外国人・日本人・韓国人の関係、土地所有関係の三つが留意されるべきことである。
(2)  大友・柿原他「朝鮮司法界の往時を語る座談会」朝鮮司法協会雑誌一九巻一〇=一一号(昭和一五年)五九頁。
(3)  もっとも、梅「韓国の法律制度に就て(上)」八頁は、「土地家屋証明規則」は「私の発意ではありません」としている。
(4)  この点、鄭・前掲韓国民法典の比較法的研究四六頁注(39)参照。法政大学図書館所蔵の梅文書、とくにその「韓国立法事業担任当時ニ於ケル起案書類」(本稿で単に梅文書という場合、とくに断らない限りこの書類中の文書を指す)中の「法典調査局官制」(不動産調査会用紙)、「法律調査局官制」(不動産調査会用紙)、「土地整理局官制」(不動産法調査会用紙)が直接に関連しており、「法律調査局官制」第一条では、「法律調査局ハ内閣総理大臣ノ監督ニ属シ刑法、民法及ヒ附属法令ノ起案ヲ司ル」とされている。
(5)  梅文書中の「裁判所構成法案」(不動産法調査会用紙)、「民事訴訟法草案ノ修正原案」等。
(6)  神川彦松監修  金正明編・日韓外交資料集成第六巻下(厳南堂書店  一九六五年)一二五六ー一二六〇頁、市川正明編・韓国併合史料3(原書房  一九七八年)一二五六ー一二六四頁、明治年間法令全書第四二巻ノ一〇  〔法令全書附録〕一三頁参照。
(7)  明治年間法令全書第四二巻ノ三  三六四頁。
(8)  この付記については、すでに鄭・前掲書四二頁が指摘しているところである。
(9)  日本近代立法資料叢書一四  第三綴五六頁以下。
(10)  明治年間法令全書三一巻ノ三  〔律令〕一五頁。
(11)  同四一巻ノ四  〔律令〕一四頁。
(12)  この意見は、「一  憲法ハ台湾ニモ施行セラレタルモノト視ルヘキカ」、「二  新条約ハ台湾ニモ施行セラルヘキカ」についても論じており、いずれも肯定されている。満三カ年の時限立法であった「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」(明治二九年三月三一日  法律六三号)の効力を「明年三月マテ」としているから、一八九八年=明治三一年提出の意見であろう。
(13)  国立国会図書館憲政資料室・倉富勇三郎関係文書「三十の一九  韓国ニ於ケル裁判事務ニ関スル件」。「三十の五  日本裁判所設置意見」はその下書き。
(14)  明治年間法令全書四一巻ノ四  〔条約〕四六頁。
(15)  市川正明・韓国併合史料二(原書房  一九七八年)八四一頁。「是ヨリ伊藤統監ハ倉富法部次官ニ対シテ韓国法典編纂ニ関シテ質問シ同次官ヨリ法典調査局ハ内閣ノ所管ニシテ次官自ラ委員長ノ職ニ在リ梅博士ヲ顧問トシ調査ヲ進メツツアルヲ以テ約三年ヲ経レハ民法刑法民事訴訟法刑事訴訟法等一般ノ法典ヲ編纂シ終ル予定ナリト答ヘタリ」とある。この年の六月二四日の「第四三回韓国施政改善ニ関スル協議会」において、伊藤博文は「民法刑法商法訴訟法及裁判所構成法」の整備による治外法権の撤廃を強調している(市川・同前九四七−九四八参照)。なお、この伊藤発言が「韓国に於ける発明、意匠、商標及著作権の保護に関する日米両国間の条約」の調印への言及(同前九四七頁)に続いてなされていることに注意。倉富「意見」とのズレが注目されるべきだからである。
(16)  この論文の執筆者としては、小村寿太郎が推重した外務省参事官寺尾亨あたりを想定すべきか。
(17)  梅が韓国併合に反対であったことは、岡=江戸・前掲二一二頁注(6)参照。梅徳「父を語る」高久茂編・切手になった日本文化人(昭和二八年  一二三書房)一五六頁によるもの。
(18)  本稿では、梅の韓国民法構想の内容に立ち入ることはできない。今後の課題としたい。その際、韓国民法典編纂での民商法統一論、家族法の慣習への委譲等の梅の法典編纂論の具体化が分析される必要があろう。後者についていうなら、たとえば、明治三二年に帝国教育界高等学術講義会で行った民法の講義録=梅謙次郎(帝国教育会編纂)・民法講義(有斐閣  明治三四年。ただし、信山社復刻の大正一三年版を利用)は、「新民法ハ之ヲ五編ニ分ケテアリマシテ第一編総則、第二編物権、第三編債権、第四編親族、第五編相続トナッテ居ル。是ハ法典ノ分チ方トシテ随分議論ノアルコトデアリマスガ兎ニ角此講義ノ順序ト致シマシテハ私ハ取ラナイ」(四頁)として、緒言、総則、親族、財産(物権、債権、担保[内容は担保物権])、相続の講義体系を採用している。たしかに「教育ニ従事スル方々ガ最モ知ッテ居ラナケレバナラヌノハ同ジ民法中デモ親族編デアラウ」から先にもってきたかのような口吻がみられるが、そう単純ではない。梅の民法総則講義筆記をみるに、「日本人ヨリ見レハ親族ハ財産ヨリ重キヲ置ク故ニ親族編ヲ財産編ノ後ヲクハ親族編ヨリ財産編ニ重キヲ置ク観アリテ妥当ナラス」(五丁表−裏)として、「余ノ穏当ト信スル日本法典ノ編別及其順序」として、第一  総則編(物権、債権、親族に通ずる規定)、第二  親族編(親族関係より生ずる権利義務)、第三  財産編(二分して物権・債権とし、財産権に通ずることを規定)、第四  相続編(親族権・財産権の相続を規定)の構成を説いている。し
かも、この構想は、明治民法の編纂開始時に、具体的には明治二六年四月二八日の第一回法典調査会民法総会で、第四編親族を第二編におく提案に示されていたのであって(日本近代立法資料叢書一三  第四綴四頁参照。また、一二頁も参照のこと)、親族編はその国の実情に応じて編纂されるべきことは梅の民法編纂論の基本構想なのであった。この意味で、梅が韓国について(家族法を慣習に委ね)財産法を中心とする民法典編纂を語り得る根拠があったのである。
    (韓国の)法典編纂体制についての梅の構想を析出する必要がある。旧民法・明治民法の編纂過程を熟知していた梅が、ほぼ単独起草を選択したのはなぜかが明らかにされる必要がある。もちろん彼は民法、商法さらには民事訴訟法の編纂にたずさわった経験を有しているし、またその力量もあった。事実、韓国民事訴訟法案をわずか一ケ月半で完成させたといわれている(鄭・前掲韓国民法典の比較法的研究三九頁参照。全五七七条からなるこの草案は結局確定案にはいたらなかった)。経験・力量に裏打ちされた自信を秘めていたことは疑いのないことである。しかし、韓国民事訴訟法の起草が示しているように、日本人である梅が事実上単独で韓国民法編纂を遂行できると考えたのは何故かである。「簡易ナル民法」だからであろうか。あるいは、モンテネグロ財産法を一人で編纂したバルタザール・ボギシッチの例にならったのであろうか。家族関係の規定を財産法に関する範囲に限定し、可能な限り慣習に委ねたモンテネグロ財産法は、その構成だけではなく、立法作業のあり方にも大きな影響をあたえたのではなかろうか。梅の韓国法典編纂委員会構想に関する資料を発掘しなければならない。なお、モンテネグロ財産法については、前田達明「モンテネグロ財産法」書斎の窓二三八号(一九七五年)=同・民法随筆(成文堂  一九八九年)二二頁、高橋985e「バルタザール・ボギシッチとモンテネグロ財産法」書斎の窓三八四号(一九八九年五月号)二一頁、同「バルカン地域における慣習法研究とモンテネグロ一般財産法について−デューリツァ・クリスティッチ教授講義要旨−」政法論集(京都大学教養部)一〇号(一九九〇年)六七頁参照。内容的には、The Code of Montenegro, Law Quarterly Review 13 (1897), pp. 70. が簡潔に紹介をしている。起草者バルタザール・ボギシッチの法典編纂方針については、難波譲治訳が前掲・政法論集一〇号七九頁にある。梅自身も、「法典に就て」国家学会雑誌八巻八四・八五・八六号=三枝博音編・日本哲学思想全書17政治・法律篇(平凡社  一九五七年)一九五頁以下、とくに二〇七、二一五頁、「我新民法ト外国ノ民法」世界之日本一号(明治二九年)四六頁等で触れている。
(19)  鄭・前掲書四三頁参照。
(20)  「韓国の合邦論と立法事業」国際法雑誌八巻九号(一九一〇年=明治四三)が、宅地所有権が家屋所有権の「従たる物」とされていること、小作慣習(「竝作」)、「典当」などを挙げて、「不動産に関する法律の如きも日本と同一に為し能はす」・「土地の制度に付ては必す特別の規定を要する事明か」(三四頁)としている。
(21)  梅文書中の自筆墨書。全二一項。
(22)  ところで、北海道旧土人保護法(一八九九年=明治三二年  法律二七号)は、開墾・農業従事義務の負担付土地を狩猟漁業採草の民に無償給付すること(第一条・三条)を核心としたものであった。この法律は、譲渡及び質権・抵当権・永小作権設定禁止等を定める(第二条第一項)。これは、無償給付の土地の属性と説明することもありえたが、アイヌが従前から所有した土地についても、譲渡、質権・抵当権・地上権・永小作権・地役権設定を北海道庁長官の許可ににかかわらしめたのであった。同年の沖縄県土地整理法(明治三二年三月一一日  法律五九号)も同様の構造をもっていた。このいわば内植民地の土地政策は、一八九九年(明治三三年)律令一号が、台湾につき「外国人ハ土地ヲ所得スルコトヲ得ス但外国人カ現ニ所有スル土地ハ此限ニ在ラス」と規定したことと裏腹の関係にあった。




まとめにかえて


    韓国民法の編纂構想は、梅の死亡、法典調査局の廃止をもって終止符をうつ。一九一二年(明治四五年)三月一八日の朝鮮民事令(制令七号)を画期に日本(民事)法の強制移植が加速する(1)
  朝鮮民事令第一条は、韓国人の「民事ニ関スル事項ハ本令其ノ他ノ法令ニ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外左ノ法律ニ依ル」として、民法、民法施行法(明治三一年六月二一日  法律一一号)、商法(明治三二年三月九日  法律四八号)、「商法施行法」(明治三二年三月九日  法律四九号)、民事訴訟法(明治二三年四月二一日  法律二九号)等二三の法令を掲げた(2)。そして、朝鮮民事令第一一条は、「第一条ノ法律中能力、親族及相続ニ関スル規定ハ朝鮮人ニ之ヲ適用セス/朝鮮人ニ関スル前項ノ事項ニ付テハ慣習ニ依ル」とした。日本民法典での「能力\\ニ関スル規定」とは第一編第一章第二節能力(第三条−二〇条)のことであるから、「第一節  私権ノ享有」の第一条(現在の第一条ノ三)はもとより外国人の権利能力に関する第二条も、朝鮮民事令第一条を介して韓国に妥当させられたことになる。「(朝鮮の)慣習(法)」と日本法(いわゆる「内地法」)との関係は、「内地、朝鮮、台湾又ハ関東州」の「地域」についての準国際私法規定を含む「共通法(3)」(一九一八年=大正七年  法律三九号)の問題とされることになる。共通法規調査委員会案第一条「内地人、朝鮮人、台湾島人、樺太土人及関東州人ハ法律ニ別段ノ定アル場合ヲ除クノ外同シク私権ヲ享有ス」は削除されて、共通法は成立する。
  これに対して、共通法の対象外とせざるを得なかった満州国の場合をみると、満州国民法第一編第二編第三編(一九三七年=康徳四年六月一七日  勅令一三〇号)は、その第一編第二章人第一節自然人第一款権利能力及行為能力の冒頭で「人ノ権利能力ハ出生ニ始マリ死亡ニ終ル」(第三条)と規定するのみで、外国人の私権について何も語っていない(4)。これを、かつて山田三良が用いた表現を借用して、「外国人ハ内国人ト同シク私権ヲ享有ストノ規定ノ理論上不要ナルコトヲ看破」したもの、内外人平等主義の理論的帰結、とすることはできない。実は、「外国人ハ法律又ハ條約ニ禁止アル場合ヲ除クノ外権利能力ヲ有ス」との規定は、民法第一編ではなく、民法総則編施行法(一九三七年=康徳四年一一月二九日  勅令三四九号)第二条に移送されていたのであった。このような規定の仕方とくにその裁量性は、日本の満州進出を容認し、それ以外にたいしては排外主義の表現なのであった(5)。日本における外国人の私権の取り扱いは植民地問題のなかで正当な展開を貫くことはできなかった。
  一九四七年(昭和二二)の民法改正は「個人ノ尊厳」(第一条ノ二)を打ち出しながら、その第二条を内外人平等原則を徹底させる方向で改正することはしなかった。これは、The conditions necessary for being a Japanese national shall be determined by law なる英訳を付して憲法第一〇条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」の挿入を実現させた当時の統治集団や改正作業担当者の認識と無関係ではないだろう(6)
    民法制定過程において民法第二条擁護の先頭にたった梅謙次郎の民法要義巻之一は、一九〇五年(明治三八年)二月二四日発行の訂正増補第二四版(6)にいたり、民法第二条の注解に次の説明を加筆する。
「私権ノ主タルモノニ付テハ憲法第二章ノ規定ニ依リ法律ヲ以テ規定スヘキ場合多シ。故ニ日本人ニ付テハ命令ヲ以テ之カ私権ヲ規定スルハ其当ヲ得サル場合少カラス。然レトモ外国人ハ憲法ノ保障ヲ受ケサル者ナルカ故ニ命令ヲ以テ之カ私権ヲ左右スルモ敢テ憲法ノ趣旨ニ反スルノ嫌アルコトナシ。是レ本條ニ於テ命令ヲ以テ除外例ヲ設クルコトヲ得ヘキモノトセシ所以ナリ(以下省略)」(一一頁句点・引用者)
  民法第二条の「法令」は、自国の利益防衛という国策的理由のみならず、憲法上の基礎づけを与えられた。民法第二条の原案を主査委員に配布したときの理由「法律ヲ改メテ法令ト為シタルハ憲法上命令ヲ以テ外国人ノ権利ヲ規定スルコトヲ得レハナリ」(日本近代立法資料叢書一三  第二綴  一四頁)の復権であり、梅の一つの座標軸の突出というべきか。しかし、単なる再現ではなく、むしろ、狭義の私権の二元構成に裏打ちされた表現とみるべきであろう。ここでは、外国人の人権享有主体性に関する消極説が前提とされ、外国人の私権が制限されるのである。梅のこの説明の仕方が現在でも民法学にもままみられることは既に指摘した通りである。
  この国で外国人の権利について初めて本格的で詳細な検討を試みた梅が、一方で「権利の性質」によることを認識し「人類権」を軸に私権を構成しようとしながら、また法人論で擬制説を説き国家も法人であることを論じながら、結局、権利能力を個人が自己の所属する国家において有する地位の流出物として捉えることに回帰し、個人主義的な、ないしは前国家的存在としての人間・個人・私人の地位・資格(人権・自由等)へと展開しきることはできなかった。狭義の私権の二元構成(人類権・国民権)への到達、またその構造のあいまいさ(政策論への委譲)がそれを妨げたとみるべきであろう。梅の躓きの基本的要因はここに求めるべきであろう。
  かつて穂積陳重・梅謙次郎とともに民法第二条擁護の「参謀」を構成した富井政章・寺尾亨は、満韓交換の対露方針に反対する建議書を政府に提出(一九〇三年=明治三六年六月一〇日。六月二四日の東京朝日新聞に公表)した東京帝大七教授の一翼を担い、いわゆる「七博士事件(戸水事件)」を引き起こしていた(7)。他方で、民法第二条修正案の提案者大竹貫一は伊藤の統監政治攻撃の先頭に立ち、伊藤の退陣を迫る(8)。かれらとの対比でいう限り、韓国民法典編纂構想の堅持はなお梅の個性的な立場の展開とみなければならないだろう。
  だが、韓国の法的自立を促進するための法典編纂構想それ自体が迫り来る併合論を克服する構成をもったものではなかった。治外法権の撤廃=韓国の自立のための法典編纂を外交権・内政権を掌握した日本が実施するとの立論は、文明国日本の法を直接適用することによって達成するとの主張に堪えることは出来ないのである。自国の運命は自国民が行うこと、他国はこれに関与することは出来ない、この論理にたたない以上、「併合=日本法の直接適用論」に対抗できないのは当然であった。
    日本近代法体制の形成過程に関する研究は、「列強」との条約改正とその発効による日本の国家的独立の一応の達成(治外法権撤廃、関税自主権の一部回復等)、明治民法・商法の全面施行による国内法体制確立=欧米水準への到達・平準化、(内外)植民地法制の確立、を構成要素とする「明治三二年法体制」の形成をもってその「終点」としている(9)。明治四二年ころまでになされたその「修正・補完(10)」にもたずさわった梅の立法事業への関与と理論的変遷は、本稿が描いた外国人の私権の問題を含めて、この法体制形成の担い手としての統治集団内部の一つの潮流の姿を具現したものであった。
  韓国併合の三日後の一九一〇年(明治四三年)八月二五日、梅は京城で急逝する。その前年(一九〇九年)、海のかなたで出版されたエールリッヒ・権利能力論は、権利能力概念の構成部分として「政治上の諸権利をもちこれを行使する能力、法的に承認された家族関係に入り込む能力、財産権を取得しこれを所有する能力、更に又人格・自由・生命・身体の法的保護を請求する権利(11)」を指摘し、政治経済社会の総体あるいは全体社会における人間の法的地位の歴史とその現実を示した。この著書を検討する機会を梅は持ち得なかった。梅が提起した「人類権」的私権論を継承し展開することはいまなおこの国の民法学の課題であろう。

(1)  鄭・前掲韓国民法典の比較法的研究八九頁以下が詳しい。「強制移植」の表現もこれによる。中村哲「植民地法(法体制確立期)」講座日本近代法発達史(勁草書房  一九五八年)は「内地法律延長主義」と表現している。当時、「一つの法が他の内容を借用すること」を指すものとして「依用」という用語が使用されたようである。
(2)  明治年間法令全書四五巻ノ四  〔制令〕頁参照。
(3)  大正年間法令全書七巻ノ二  九三頁参照。共通法については、実方正雄・共通法〔新法学全集第二七巻〕(日本評論社)参照。明治四五年以来内閣に設置された共通法規調査委員会の「委員会案(全一九条)」第一条「内地人、朝鮮人、台湾島人、樺太土人及関東州人ハ法律ニ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外同シク私権ヲ享有ス」が確定案にいたる過程で削除される経過を明らかにすることは、今後の課題である。本稿での「委員会案」は、倉富勇三郎関係文書  「三十の二八  朝鮮司法関係雑資料」による。
(4)  司法省調査部・満州帝国民法典〔司法資料二三三号〕(一九三七年)三頁参照。満州国民法典については、さいきんのものでは、鄭・前掲韓国民法典の比較法的研究三〇一頁以下、小口彦太「満州国民法典の編纂と我妻栄」池田温=劉俊文編・法律制度〔日中文化交流史叢書2〕(大修館書店  一九九七年)三二五頁以下が詳しい。しかし、満州国では国籍法が制定にいたらなかったことにも注意する必要がある。この点については、山室新一・キメラ−満州国の肖像(中公新書  一九九三年)二七七頁以下参照。
(5)  この点は、一九三二年九月一五日調印の日満議定書や一九三六年(康徳三年)七月二日の外交部大臣声明「外国国民ハ我国法令ノ制限ニ服スベキ件」に露骨に示されている。
    外国人の私権に関する規定を民法施行法に移送するのはなにも満州国民法(一九三七年)にかぎらない。一九二九年(民国一八年)五月二三日公布(一〇月一〇日施行)の中華民国民法総則も同様であり、民法総則施行法第二条で「外国人ハ法令ノ制限内ニ於テ権利能力ヲ有ス」としている。中華民国法制研究会・中華民国民法総則(中央大学  一九三一年)三〇頁、二七五頁参照。我妻栄・中華民国民法総則(日本評論社  一九四七年)等もこの移送の問題に触れることがない。
(6)  昭和憲法の制定過程で、自由党・進歩党・協同民主党からの挿入提案である第一〇条が、「日本国民」を Japanese national(日本国籍所有者)とする政府英訳をともなって実現する眼を覆いたくなるような姑息な顛末は、古関彰一・新憲法の誕生(中公文庫  一九九五年)二七七−
二八〇頁が描写しているところである。
(7)  もっとも、これは民法要義での説明の変化なのであって、すでに言及したように、講義等ではこの考え方を展開していた。たとえば、一八九七年(明治三〇年)の講演「外国人ノ権利(承前)」法学協会雑誌一五巻八号(明治三〇年八月一日発行)七九八−七九九頁にすでに同趣旨の叙述が見られる。また、講義筆記では次のように展開していた。
    「外国人ノ権利ハ日本人ノ権利ノ如ク憲法ニヨリ保障セラレス。憲法ニ保障セラタル権利ハ法律ヲ以テスルニアラス制限ヲ加フルコトヲ得ス。然シ外国人ノ権利ハ此ノ如キ保障ヲ受ケス。故ニ政府ノ都合ニテ法律ヲ以テ其権利ヲ定ムルモ命令ヲ以テ定ムルモ勝手ナリ。然ルニ民法ノ規定シテ法律又ハ条約ヲ以テスルニ非レハ外国人ノ私権ヲ制限スルヲ得ストスルトキハ、一度法律ヲ以テ定メタルトキハ又法律ヲ以テスルニ非レハ之レヲ変更スルコトヲ得ス。故ニ其法律ニ法令又ハ条約トスレハ命令ヲ以テ定メタル例外ヲ認ムルコトヲ明ニスル故ニ、政府カ必要ト認ムルトキハ帝国議会ノ協賛ヲ経タル法律ヲ持タスシテ、勅令省令等何令ニテモ外国人ノ権利ヲ自由ニ制限シ得ルナリ。必要ナルコトナリ。尤モ余ハ此規定ヲ濫用シテ外国人ニハ可成的少キ権利ヲ認ムルカヨシトハイハサルナリ。然レトモ日本ニテ政略上他ノ理由ニ応シテ外国人ノ権利ヲ制限セサルヘカラサルコト往々起ルナルヘシ。此トキニ当リテ令ト云フ字ヲ加ヘ置ケハ自由ニ外国人ノ権利ヲ制限シ得。之レ民法ノ定ムル処ノ原則ナリ」(六四丁表。句読点・引用者)
    しかし、梅の代表的著作である民法要義巻之一の二四版での加筆は、梅の「決断」を示すもののようにおもわれるのである。
(8)  斬馬剣禅・東西両京の大学が、「もしそれ桂内閣にして、優柔不断決するなくんば、あるいは彼等(寺尾亨・戸水寛人・高橋作衛のことー引用者)が赤門三千の健児を集め、富井政章を擁立して再び西南の役を実現せざるなきを保すべからず。桂内閣たるものもしロシアと戦うの意なくば、宜しく一師団の兵を動かして、赤門方面を警戒せざるべからず」(引用は、講談社学術文庫  一九八八年  二〇六頁による)、としているのは事態を喝破したというべきか。金井延「日露開戦時代」法学博士寺尾亨氏三周年追悼紀要(法学博士寺尾亨氏三周年追悼会残事務所)三四頁以下参照。
(9)  この点、海野福寿・韓国併合(岩波新書  一九九五年)二〇四頁参照。
(10)  利谷信義「戦前の日本資本主義と法」岩波講座現代法7(岩波書店  一九六六年)一二九頁以下、同「日本近代法史」同上一四(同)三二頁以下(長谷川正安と共同執筆)、同「近代法体系の成立」岩波講座日本歴史一六(岩波書店  一九七六年)九六頁以下参照。
(11)  この点については、高橋幸八郎編・日本近代化の研究(上)(東京大学出版会  一九七二年)二四〇頁の利谷発言。なお、利谷「明治三〇年代の法体制の基本構造」(同書一九三ー二〇五頁)も参照されたい。
(12)  Eugen Ehrlich, Die Rechtsfa¨higkeit., 1909. SS. 1-2. 川島武宜=三藤正訳・エールリッヒ・権利能力論(岩波書店  一九四三年)二頁(一九七五年の改訳版では一五頁以下)。



  〔付記〕 本稿の作成には、国立国会図書館憲政資料室、立命館大学西園寺公望伝編纂室、とりわけ法政大学ボアソナード記念現代法研究所のご協力をいただいた。