立命館法学  一九九七年六号(二五六号)一二八六頁(七四頁)




「共犯の処罰根拠」について



松宮 孝明






  目    次
  問題の所在
  「惹起説」と「従属性」
  「惹起説」と身分犯の共犯
  むすびにかえて




  問題の所在


    ドイツ刑法学に由来する「共犯の処罰根拠」という考え方がわが国の刑法学界における一大争点となって、すでに二〇年近くが経過した(1)。そこでは、必要的共犯とくに片面的対向犯における一方当事者の不可罰や未遂の教唆、身分犯の共犯などの処理が統一的な観点から説明されるとされたのである(2)
  共犯の処罰根拠をめぐる学説は、大きく「責任共犯説」と「惹起説」ないし「因果的共犯論」に分けられたり(3)、「因果的共犯論」「責任共犯論」「違法共犯論」に分けられたり(4)、「責任共犯説」「不法共犯説」「純粋惹起説」「修正惹起説」に分けられたり(5)、さらに「混合(折衷)惹起説」や「正犯との連帯説」が追加されたりするが(6)、近年では「惹起説」ないし「因果的共犯論」と呼ばれる見解が比較的多くの支持を得ているように見える(7)。しかし、その内容と結論については必ずしも一致があるとはいえず、同じ「因果的共犯論」を名乗りながら、重要な論点について無視できない相違が見られることがある。
    たとえば、おとり捜査などで他人に犯罪を教唆しながら既遂になる前に逮捕しようと考えている秘密捜査員はいわゆる「未遂の教唆」に当たるが、これを教唆犯として可罰的と見るか否かについては「惹起説」ないし「因果的共犯論」内部で見解が分かれている。すなわち、一方では、教唆犯もまた、正犯と同じく、結果(既遂)を間接的に惹起することに対して罪責を負うのだから、未遂に終わらせるつもりの正犯というものが存在しないのと同様に、教唆犯の故意も未必的にであっても結果(既遂要件)に及んでいなければならず、ゆえに「未遂の教唆」は不可罰であるとする見解があるが(8)、他方では、正犯に結果発生の具体的危険を生じさせたことが教唆の「結果」だとして「未遂の教唆」を可罰的だとする見解があるのである(9)。ここでは、「共犯の処罰根拠」論は、結論との一義的な対応関係を保障されていない。
  さらに、刑法一〇三条の犯人蔵匿罪や一〇四条の証拠隠滅罪を犯人自身が他人に教唆した場合についても、結論に混乱が見られる。すなわち、「惹起説」ないし「因果的共犯論」を支持する見解の中でも、一方では、これを「犯人自身は正犯としては期待可能性がないので不可罰とされているのだから、正犯より軽い関与形式である共犯としても期待可能性がなく不可罰である」とする見解があるが(10)、他方では、犯人が他人を巻き込む場合は法益侵害の程度が高いとして可罰的だとする見解があるのである(11)。ここでもまた、「共犯の処罰根拠」論は、結論との一義的な対応関係を保障するに至っていない。
    しかしながら、そうであれば一体なぜ、ドイツにおいて「共犯の処罰根拠」論が「必要的共犯とくに片面的対向犯における一方当事者の不可罰や未遂の教唆、身分犯の共犯などの処理が単一の観点から説明される」とされたのであろうか。とくに、以下に見るようにドイツでは、「未遂の教唆」も「犯人自身による庇護ないし処罰妨害の教唆」も、惹起説からは不可罰とされているのである。むしろ、これらの場合の不可罰を説明する処罰根拠論が惹起説だ、と言い換えてもよい。そこで、以下では、ドイツの処罰根拠論の内容と意味、とくに惹起説のそれを、その機能との関係で捉えなおしてみたいと思う(12)(13)

(1)  大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一)の「はしがき」i頁によれば、大越義久教授が刑法学会の大会で「共犯の処罰根拠−とくに必要的共犯との関連において−」というテーマで個人報告をされたのは、一九七九年一〇月の第五六回大会であった。その報告は刑法雑誌二三巻三・四号に掲載されたのち、大越教授のモノグラフィー『共犯論再考』(一九八九)一九頁以下に収められている。
(2)  大越『共犯の処罰根拠』六頁、平野龍一「責任共犯論と因果共犯論」同『犯罪論の諸問題391総論』(一九八一)一六八頁。もっとも、香川達夫『共犯処罰の根拠』(一九八八)三頁以下のように、「単一の法理で割り切って解決すること」に疑問を提起するものもある。
(3)  平野『犯罪論の諸問題391総論』一六七頁。
(4)  西田典之「共犯の処罰根拠と共犯理論」刑法雑誌二七巻一号(一九八六)一四四頁。
(5)  大越『共犯の処罰根拠』六七頁以下など。
(6)  斉藤誠二「共犯の処罰根拠」『刑事法学の新動向上巻・下村康正先生古稀祝賀』(一九九五)一頁以下。高橋則夫『共犯体系と共犯理論』(一九八八)九一頁以下も、「責任共犯説」「不法共犯説」「惹起説」に三分した上で、「惹起説」を「純粋惹起説」と「修正惹起説」「折衷惹起説」に分ける五分説を採用している。
(7)  たとえば、前田雅英『刑法総論講義(第二版)』(一九九四)四四二頁以下(ただし、「修正惹起説」)、大谷  實『刑法講義総論(第四版補訂版)』(一九九六)四一一頁(ただし、「混合惹起説」)、川端  博『刑法総論講義』(一九九五)四九八頁など。
(8)  前田・前掲書四九五頁、西田「アジャン・プロヴォカトゥール(未遂の教唆)」『刑法の争点(新版)』(一九八七)一四五頁以下など。
(9)  平野『刑法総論U』(一九七五)三五〇頁。しかし、正犯にとっては、既遂要件充足の「具体的危険」を目指しただけでは未遂にならないはずである。なお、大谷・前掲書四一一頁、四五一頁、川端・前掲書四九八頁、五五三頁は、共犯の結果間接惹起的性格を承認しながら教唆の故意は結果に及ばないとして、未遂の教唆を可罰的とする。
(10)  平野・前掲書三八〇頁、大越『共犯の処罰根拠』二六〇頁など。
(11)  前田『刑法各論講義(第二版)』(一九九五)五一二頁以下。
(12)  諸概念をその機能から形成し、抽象的な一般論と具体的な帰結との相互関係を密接かつ目に見える形にしておくことを推奨したのは、ノルであった。Vgl., P. Noll, Tatbestand und Rechtswidrigkeit:Die Wertabwa¨gung als Prinzip der Rechtfertigung, ZStW 77 (1965), S. 1ff.  ヴュルテンベルガーのいう「体系的思考から問題的思考への転換」もまた、抽象論と具体的帰結との相互関係の重要性を説いたものと思われる。Vgl., T. Wu¨rtenberger, Die geistige Situation der deutschen Strafrechtswissenschaft, 1957, S. 9f.;s. auch K. Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 31.
(13)  なお、わが国では、承継的共同正犯を認めるか否かで「共犯の処罰根拠」が論じられることがある。しかし、以下で見るように、ドイツでの「共犯」の処罰根拠論は本来、教唆、幇助という「狭義の共犯」の特殊性をめぐる議論であって、「承継的共同正犯」の是非とは関係がない。この点では、斉藤誠二「承継的共犯をめぐって」筑波法政八号(一九八五)三二頁や香川『共犯処罰の根拠』七頁の指摘は正しい。しかし同時に、共同正犯についても狭義の共犯についても罪責の範囲は行為者の因果的影響可能性のあった事態に限られるのであって、「共犯の処罰根拠論」の射程外であるからといって関与前の出来事に対する共同正犯が認められるものでもない。同旨、相内  信「わが国における”惹起説”の問題状況」金沢法学二九巻一・二号(一九八七)四一一頁、斉藤・前掲四二頁、G. Jakobs, Strafrect AT, 2. Aufl., 1991, 21/60.


  「惹起説」と「従属性」


    まず、「惹起説」とは何か、という問題を取り上げよう。ここでは、ドイツで「純粋惹起説」の代表者とされているリューダーセンの定義から始めよう。
  リューダーセンは「惹起説」を次のように定義する。すなわち、「惹起説とは、共犯者(Teilnehmer(1))は自己の(eigen)不法と責任に対して罪責を負う、という結論に帰着する見解である。」と。そして、この考え方を一貫してこなかった従来のドイツの通説を批判して次のように述べる。すなわち、「共犯の不法に関しては、このことの理由は、惹起説の支持者の多くもまた、共犯規定をある重要なポイントにおいて誤解していることにある。彼らは、法律が(加担の対象として−筆者注−)刑罰で威嚇されている行為を要件としていることから、共犯の不法は正犯の不法から引き出されなければならないと考えている。このような、いわゆる共犯の従属的性質の理論は、共犯は自己の不法についてのみ責任を負えばよいとする原則と相容れないにもかかわらずである。このこと(共犯の不法が正犯の不法から引き出されるということ−筆者注−)は自明のことと考えられている。しかし、本研究によれば、そのようにはいえないことが明らかとなる(2)。」と。
  ここにいう共犯固有の不法とは、リューダーセンによれば、共犯者もまた構成要件に該当しかつ違法に行為することだとされる。その理由は、「刑法上の不法が存在するか否かは、刑法典の各則の構成要件のみから明らかになる」ことにある。そして、そのためには「正犯が構成要件に該当する行為をしたことでは足りず、この法益侵害が共犯者の一身においても(in der Person)構成要件該当的であることが重要である。たとえば、何者かが、ひょっとするとアジャン・プロヴォカトゥールとして、自分自身の物を奪取するようにし向けた場合には、これに当たらない。この場合には正犯だけが二四二条(ドイツ刑法の窃盗罪−筆者注−)の構成要件を充足するのである(3)。」さらに、共犯行為が構成要件に該当しても、さらに、共犯独自の正当化事由の有無が検討されなければならない。
  そして、ここにいう「共犯者もまた構成要件に該当して行為するといえるのは、共犯者が彼に対して保護されている法益の侵害ないし彼によって保護されるべき法益の放置に寄与した場合だけだということは、ほとんど、かつこの場では全く理由づけを要しない命題のひとつである(4)。」ゆえに、自己の所有物に対する窃盗や横領に関与した者は、窃盗や横領の共犯として処罰され得ない。なぜなら、所有権を攻撃するためには、攻撃者の側に所有権がないことを要するからである。この場合には、要するに、「正犯の攻撃も共犯の攻撃も、他人の財に向けられたものでなければならない。」のである(5)。事情は、ドイツ刑法においては犯人庇護や被拘禁者解放の罪の場合も同じであって、刑事訴追や刑の執行に関する国家の請求権は、犯人や被拘禁者に対しては保護されていないのである(6)。要するに、ここにいう「違法の相対性」の意味は、結果に他人性を要求する構成要件では法益侵害の有無や法益保護の範囲は人によって変わるということなのである。
  また、共犯者だけが正当化される例としては、法令や緊急避難を理由として正当化される秘密捜査官による犯罪の教唆が考えられる(7)。さらに、責任判断が正犯と共犯とで異なることは、責任の個別性から見て当然のことである(8)
  ここで再度要約すれば、惹起説とは、共犯者もまた、彼との関係で構成要件上保護されている法益を違法かつ有責に攻撃したことに対して、罪責を負うのだという見解である。
    ところで、惹起説のこのような理解は、いわゆる「純粋惹起説」を主張するリューダーセンの特異な主張だと思われる人がいるかもしれない。そこで今度は、いわゆる「折衷惹起説」ないし「混合惹起説」を主張するザムゾンとロクシンの理解を見てみよう。
  まずザムゾンは、リューダーセンの主張を一部認めて、「共犯もまた正犯と同じく構成要件該当結果を惹起する」ものと解する。しかし、リューダーセンの場合には、たとえばドイツ刑法に処罰規定のない自殺関与についても、それは他人の死を間接的に惹起するものだから惹起説だけでは他殺の共犯となってしまうし、彼はむしろ利己的な動機による自殺幇助の場合は処罰されるべきだと考えているのであるが(9)、ザムゾンはこのような「正犯なき共犯」を否定し、「正犯でない関与者は、違法な正犯行為を介して法益を攻撃した場合にだけ、共犯として処罰される」という形態に、惹起説を修正する(10)。つまり、正犯の不法(=構成要件に該当し違法な行為)もまた、共犯処罰の必要条件だというのである。注意すべきは、ここでは、「共犯もまた正犯と同じく構成要件該当結果を惹起する」、つまり共犯から見て構成要件該当結果が惹起されなければならないという惹起説の基本命題は維持されているということである。
  同じことは、ロクシンの見解にも妥当する。ここでもまた、「共犯者は彼に対しても保護されている法益を侵害した場合にだけ、法律上の共犯足りうる。」したがって、殺害を嘱託する被殺者は、殺害が未遂に終わっても、嘱託殺未遂の教唆犯にはなりえないし、自己の所有物の窃盗ないし横領を教唆する者は、窃盗ないし横領の教唆犯になり得ない。未遂の教唆もまた、その行為は構成要件の実現(つまり既遂)を目指していないので、教唆犯たりえない。その意味で、共犯の不法をもっぱら従属性原理から、つまり正犯の不法から引き出すのは誤りだとされる(11)。同時に、共犯の不法は、本質的に、正犯の不法にも規定される。これは、共犯行為を法治国家的に限定することに、その意義を有するものとされる(12)
  つまり、ロクシンの「混合惹起説」は、共犯による構成要件該当結果の間接惹起的側面と、正犯不法を前提とするその「従属的」性格、より正確には正犯不法を必要条件とする共犯の性格との双方を、共犯処罰の必要条件とするものなのである(13)。その意味で、「惹起説」の基本的な意味内容は、純粋惹起説と混合惹起説ないし折衷惹起説との間では共有されているといえる。
    それでは、リューダーセンが批判した、従来の通説である「従属性志向惹起説」ないし「修正惹起説」と呼ばれる見解は、どこに矛盾を抱えていたのだろうか。これは、身分犯に対して非身分者の共犯が可能であることの説明と未遂の教唆の不可罰性(14)や不可罰の必要的共犯(嘱託殺人の被殺者のような片面的対向犯)が相手方の共犯としても処罰されないことの説明が矛盾なく両立できるかどうかを考えてみれば明らかとなる。ここでは、一方で、身分犯に対する非身分者の共犯の可罰性は共犯不法が正犯の不法に従属すること、より正確には正犯の不法が共犯のそれに連帯することによって説明され、他方で、未遂の教唆や片面的対向犯の不可罰性は共犯自身に(主観的不法要素としての)既遂を目指す故意がないことや共犯自身に対してはその法益が保護されていないことによって説明される。
  しかし、後者の場合でも、共犯者は正犯の不法を誘発ないし助長しているのである。したがって、正犯不法への共犯の従属性(=連帯性)が共犯の処罰根拠なら、未遂の教唆や片面的対向犯の場合も一貫して共犯が成立しなければならないはずである。逆に、構成要件該当結果の間接的惹起が共犯の処罰根拠なら、正犯不法への共犯の従属性を自明のこととしてはならず、むしろ身分犯に対する非身分者の共犯については特別な説明が必要となるはずである(15)。その意味で、正犯不法への連帯と共犯固有の構成要件該当結果惹起とを使い分けながら身分犯の共犯の可罰性と未遂の教唆や片面的対向犯の不可罰性とを矛盾なく説明するのは無理だといわなければならない(16)。その意味で、「従属性志向惹起説」は「惹起説と従属性のいまわしい結合(17)」なのである。
    その意味で、近年の「従属性志向惹起説」が、一方で、共犯からみた結果惹起と必要条件としての正犯不法を組み合わせたロクシンなどの「混合惹起説」の方向と、他方で、正犯不法への連帯をより強調する「不法共犯説」の方向とに分裂するきざしを見せているとしても、それは驚くに値しない。そして実際、たとえば「従属性志向惹起説」の代表者の一人とされたイェッシェックの教科書を引き継いだヴァイゲントは、未遂の教唆も共犯の正犯への従属性の原則からは教唆となるのであって、ただ、教唆者が法益に対する危険を除去している場合には刑事政策的な理由によって処罰が放棄されるのだと説明して、わざわざ外在的な理由から未遂の教唆の不可罰領域を確保しようとしているのである(18)。それは、本来の「共犯の処罰根拠」による未遂の教唆の不可罰性の説明を放棄したということである。
    なお、この点で付言すれば、正犯不法への連帯性を共犯の処罰根拠とすることは、必然的に未遂の教唆や片面的対向犯の可罰性を導くものではない。それは、固有の「共犯の処罰根拠」論だけでは不可罰性を説明できないというだけであって、別の外在的な根拠を持ち出して不可罰を導くことを妨げるものではないのである(19)
  実際、わが国では「不法共犯説」の一種である「行為無価値惹起説」に分類されているヴェルツェルもまた、「被害者は共犯たり得ない」とか「正犯として期待不可能な場合は共犯としても期待不可能」といった外在的な理由を用いて片面的対向犯の不可罰性を説明する(20)。これとの対比でいえば、惹起説とは、そのような外在的な理由を持ち出さなくても、共犯固有の処罰根拠から、未遂の教唆や片面的対向犯の不可罰性を根拠づけられる理論だということである。
  その中で、「純粋惹起説」と「混合惹起説」との異同を再度整理すれば、つぎのようになる。すなわち、前者は、「共犯の処罰根拠」をあくまで共犯者による間接的「構成要件該当結果(=法益侵害ないしその危険状態)の惹起」に見る。ゆえに、嘱託殺人罪や証拠隠滅罪のように「結果の他人性」が要求されている場合には、被殺者や犯人は、他人を介しても、「構成要件該当結果」を惹起しえない。つまり、その限りで、必要的共犯の一部の不可罰性を説明できるのである。逆に、自殺の共犯や犯人に対する証拠隠滅教唆の場合には、それは他人を介した「他殺結果」「他人の証拠の隠滅」の惹起になる。その意味で、この見解は「正犯なき共犯」を承認するのである。
  これに対して、「混合惹起説」は、正犯の構成要件該当不法行為の要請を、「構成要件の明確性に基づく法的依存性」(ザムゾン)と解したり、「共犯行為の法治国家的限定」(ロクシン)と見る。この場合、共犯の処罰根拠は、第一次的には「構成要件該当結果」ないし「共犯者から保護されている法益の侵害」の惹起であり、それが、明確性や限定性の要請によって、「正犯不法の存在」という制約を受けることになる。ゆえに、被殺者による嘱託殺の教唆は「他殺」の惹起ではないので不処罰だが、犯人に証拠隠滅を教唆しても「正犯による他人の証拠の隠滅」がない以上、共犯もまた不可罰である。また、自殺の共犯を処罰するには、わが刑法の二〇二条のような特別の規定が必要となる。
  しかし、いずれの見解も、「共犯から見た構成要件該当結果」の惹起を処罰の共通の必要条件とする限りで、「惹起説」としての共通性をもつ。また、そこにいう正犯の構成要件該当不法への「従属」は、共犯処罰を制約する「必要条件」という意味にとどまり、「連帯作用」という意味をもたないのである。

(1)  Teilnehmer は、ドイツ語では狭義の共犯の意味であって、共同正犯を含まない。
(2)  K. Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, S. 25.  本書の紹介として、相内  信「クラウス・リューダーセン著『共犯の処罰根拠について』(一九六七年)」金沢法学一九巻一・二号(一九七六)一〇〇頁がある。なお、ドイツ刑法学で「不法」(Unrecht)という場合、一般にこれは、行為の構成要件該当性と違法性を総合した意味として用いられる。その意味で、構成要件に該当しない違法は「不法」ではない。
(3)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 25f.
(4)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 166.
(5)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 131f., 167.
(6)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 169.  わが国でも、大判明治四五年一月一五日刑録一八輯一頁では、弁護人が「犯人自身による証拠隠滅の教唆は自己の事件に関する証拠の間接的な隠滅であるから、他人の刑事事件に関する証拠の隠滅を要求する刑法一〇四条の対象とならない」という趣旨の主張を展開した。そして、大審院は正犯に証拠隠滅罪が成立することと共犯の従属性(=連帯性)を根拠としてこれに反論し、犯人による教唆の成立を認めたのである。この事件での弁護人の主張はまさに惹起説に依拠したものであり、大審院の考え方は責任共犯説に依拠したものである。
(7)  Vgl., Lu¨derssen, a. a. O., S. 26, 212.
(8)  Vgl., Lu¨derssen, a. a. O., S. 212ff.
(9)  Vgl., Lu¨derssen, a. a. O., S. 168, 214f.
(10)  E. Samson, SK-StGB, Bd. 1., AT, 1975, Rn. 14. Vor § 26.
(11)  C. Roxin, LK-StGB, 11. Aufl. 1993, Rn. 2f. Vor § 26.
(12)  Roxin, a. a. O., Rn. 4f. Vor § 26.
(13)  S. auch, Roxin, Zum Strafgrund der Teilnahme, Festschrift fu¨r W. Stree und J. Wessels, 1993, S. 365ff.
(14)  ドイツの判例・通説は、未遂の教唆を不可罰とする。その際の理由付けとして判例は、共犯の故意は正犯の故意と同じく結果に及んでいなければならないとして、正犯を罪責に陥れたことを処罰根拠とする責任共犯説や正犯の不法を誘発または助長したことを処罰根拠とする不法共犯説を否定する。Vgl. RGSt 16, 25;17, 377.
(15)  実際、純粋惹起説や混合惹起説は、後にみるように、特別な説明を試みるのであるが。
(16)  このような批判を展開する点でもまた、純粋惹起説のリューダーセンと混合惹起説のザムゾン、ロクシンとは共通である。Vgl., Lu¨derssen, a. a. O., S. 61ff.;Samson, SK, Rn. 13 Vor § 26;Roxin, LK, Rn. 18 Vor § 26.
(17)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 71.
(18)  H. H. Jescheck / T. Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, 5. Aufl. 1996, S. 688.  他方、超過的内心傾向としての目的を要する「目的犯」では、正犯に既遂を目指させる意思はあるが実質的な法益侵害は許さないつもりの教唆者には、教唆犯の成立を否定する見解もある。たとえば、匿名で従業員に自己の所有物の窃盗を教唆する使用者がそうである。この場合には、使用者には目的物を窃取をさせる意思はあるが、それを領得させる意思はない。このような犯罪は、実質的に未遂の行為を既遂類型としているので、「未遂の教唆」と同じ考え方が妥当するのである。たとえば、ヤコブスやロクシンなどが、このような見解を主張している。Vgl., Jakobs, Strafrecht AT, 23/17;Roxin, Festschrift fu¨r Stree und Wessels, S. 374f.  なお、山名京子「未遂の教唆」『刑法理論の探求・中義勝先生古稀祝賀』(一九九二)三七一頁以下も参照されたい。
(19)  もちろん、惹起説を採用しながら未遂の教唆や片面的対向犯の可罰性を導くことは不可能である。これらの不可罰性は、すでに惹起説の定義そのものだからである。
(20)  Vgl., H. Welzel, Das Lehrbuch des deutschen Strafrechts, 11. Aufl. 1969, S. 123, 115.  しかし、犯人自身が他人を身代わりに立てて自己に対する訴追と処罰を妨害する場合、ドイツでも、その行為自体をしないように期待する可能性が全く否定されているわけではない。というのも、そのような行為は、たしかに、わが国の犯人蔵匿罪、証拠隠滅罪に匹敵するドイツ刑法二五八条の処罰妨害罪(Strafvereitelung)の教唆では処罰されないが、ドイツ刑法一四五d条による虚偽犯罪申告罪の教唆では処罰可能だからである。さらに、犯人自身が進んで他人を犯人だと偽って申告した場合には、ドイツ刑法一六四条の虚偽告訴罪が成立する余地がある。その意味で、犯人自身が処罰妨害罪の共犯とならないのは、個別具体的に適法行為の期待可能性がないからではなくて、一般的・類型的に見て適法行為の期待可能性がない場合が多いので、あらかじめ処罰妨害罪の保護範囲つまり構成要件から除外されているからだと見るのが適切である。


  「惹起説」と身分犯の共犯


    それでは、構成的ないし真正身分犯に対する非身分者の共犯の問題は、惹起説ではどのように説明されるべきであろうか。わが国の「因果的共犯論」では、これは違法身分の連帯性を根拠にあっさり認められる傾向にあったように思われる(1)。しかし、すでに見たように、実は、「違法の連帯性」は惹起説と矛盾する考え方である。惹起説の出発点である「共犯は自己の不法と責任に対してのみ罪責を負う」というテーゼに忠実であるなら、正犯の不法は、せいぜい、ザムゾンやロクシンのように「共犯成立の必要条件」のひとつとしての意味しかもちえない。そうでないと、共犯は「自己の不法」でないものに対しても罪責を負うことになってしまうからである。
  ここでは、純粋惹起説に立つリューダーセンは、たしかに、説明に苦慮する。なぜなら、たとえば公務員や仲裁人でない者は、いかにしても職務の対価である賄賂を収受することはできないからである。彼には、賄賂を収受するなという規範は妥当しないから、このままでは、たとえ間接的であったとしても、非身分者は自己の不法に対して収賄罪の罪責を負うことはできない。非身分者が身分犯の結果を引き起こすには、身分者による行為が不可欠である。しかし、リューダーセンによれば、これは純粋事実的な性質のものにすぎない(2)。身分犯にとって身分者は結果にいたる鍵ではあるけれども(3)、その法益は、処罰妨害罪などの片面的対向犯と違って、身分者を介して行う攻撃に対しては、非身分者に対してもなお保護されているのである(4)
    もっとも、これに対しては逆に、同じ純粋惹起説支持者のシュミットホイザーは、非身分者は自ら法益を侵害し得ないという関係は間接的であっても同じであるから、ここでは共犯に固有の不法は認められないと見て、身分犯に対する非身分者による共犯は、一般の共犯とは異なる独立の共犯形式を定めたものだと解していることに注意しなければならない(5)。とくに、ここでは、「通常の犯罪なら、正犯が機械に置きかわれば、背後者は正犯にかわるのに、構成的身分犯の場合は構成要件実現自体がなくなってしまう」という、身分犯の共犯の特殊性に着目しなければならない(6)。たとえば、収賄罪を教唆するかわりに、「情を知らない公務員を利用する収賄の間接正犯」というものを想像してみたら明らかなように、賄賂であることを知らせずに公務員に金を受け取らせても「賄賂の収受」自体が成立しえないので(7)、単純な物理的因果性では、このような共犯の可罰性は説明できない。ゆえにそこでは、構成的身分犯に対する共犯は、「身分者の義務違反を誘発・助長する」という内容の、規範の名宛人を拡大する特別のルールに服すると見られるのである(8)。ここでは、正犯の「義務違反」的要素を抜きに、惹起だけで共犯の可罰性を説明することはできない。因果的要素は連帯するが、義務違反的要素は連帯しないからである。
    ところで、わが国の刑法六五条一項は、その立法理由を見ると、従来、構成的身分犯について身分のない者の共犯が可能か否かについて疑義があったので、それを払拭することにあったとのことである。したがって、立法者の考え方によれば、それは共犯の従属性から引き出される当然の帰結を確認した規定とはいいきれないのである。しかも、明治三五年の貴族院特別委員会では、原案の「身分によりて構成すべき犯罪行為を共に犯したる」という文言が、身分のない者は身分犯を共に犯すことはできないという理由で「身分によりて構成すべき犯罪行為に加功したる」という文言に修正された。これは、身分のない者は身分犯の実行共同正犯にはなれないという意味であるが、その直前に同じ特別委員会で共同正犯の規定が共謀共同正犯を含まない趣旨であることが確認されているので、結局は、現行ドイツ刑法二八条一項と同じく、身分のない者は身分犯の共同正犯にはなれないという趣旨であったと解される(9)
  また、この一九六八年にドイツ刑法に挿入された構成的身分犯の共犯に関する特別規定(現二八条一項)では、身分のない共犯に対する必要的減軽が規定されているし(10)、わが改正刑法草案三一条一項も、身分のない共犯者に対する任意減軽の規定を設けている。このように、立法史を見ても、構成的身分犯に対する共犯には特別のルールが用意されていることが明らかとなる。
  ところで、このような特別のルールは、正犯不法の誘発・促進に共犯の一般的な処罰根拠を見いだす不法共犯説では説明できない。なぜなら、共犯の処罰根拠をそのように説明すれば、一般の共犯と構成的身分犯に対する共犯との間に相違は出てこないからである。正犯不法の誘発・促進という点では、身分のない者による身分犯への共犯も一般の共犯と同じであるから、わざわざ特別の減軽規定を設ける合理性はない。その結果、事実として存在する加減的身分犯の共犯とのアンバランスは解消されないまま残されることになる。したがって、減軽規定を設けるなら、むしろ、通常の共犯で惹起説を採用した方が説明しやすい。そして、この場合には、正犯の不法は共犯不法の必要条件および上限としての機能しか果たさないことになる。その結果、「違法性の点については各加担者は一応、正犯行為を基礎にして評価されるが、結局においては独立に評価されなければならない(11)」ということに落ちつく。

(1)  大越『共犯の処罰根拠』二六一頁、町野  朔「惹起説の整備・点検−共犯における違法従属と因果性−」『刑事法学の現代的状況・内藤  謙先生古稀祝賀』(一九九四)一一五頁など。
(2)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 137.
(3)  Lu¨derssen, a. a. O., S. 135.
(4)  もっとも、直接に法益を攻撃できる身分者は、他人を必要とする非身分者よりも重い罪責を負うことになるとされている点は、現行ドイツ刑法二八条一項による非身分者の必要的減軽をよりよく説明し得るものとして、注目に値する。Vgl., Lu¨derssen, S. 137f.
(5)  E. Schmidha¨user, Strafrecht AT, 1970, 14/57ff., 85.
(6)  Vgl., G. Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl., 22/7.
(7)  金銭の賄賂性は、供与者と収受者の取り決めで決まるからである。
(8)  Vgl., Jakobs, a. a. O., 22/7.
(9)  倉富勇三郎ほか編・松尾浩也増補解題『増補刑法沿革綜覧』(一九九〇)九四四頁以下参照。
(10)  その理由は、身分による科刑の個別化を認める加減的身分犯の共犯規定とのアンバランスの解消にあった。Vgl., Begru¨ndung zu dem Entwurf des EOWiG, BT-Dr V/1319 S. 61.
(11)  佐伯千仭
『共犯理論の源流』(一九八七)一六八頁。

  むすびにかえて


    以上の検討をまとめると、つぎのようになろう。すなわち、「共犯の処罰根拠」論は、共犯の中にある「正犯行為誘発・促進的な側面」と「結果の間接惹起的側面」のどちらに、共犯の罪責のウェイトがあるかという問題である。これによって未遂の教唆や身分犯の共犯、片面的対向犯の扱いが異なってくる。
  すなわち、惹起説に従い、共犯の罪責の根拠が共犯独自の不法と責任にあるのであれば、共犯者もまた構成要件該当結果の(間接的な)惹起に対して罪責を負うことになる。ところで、故意の対象はすなわち罪責の対象であるから、構成要件該当結果の惹起が共犯の罪責の対象であれば、共犯の故意もまた、構成要件該当結果に及ばなければならない。すなわち、結果発生に対する故意を欠く「未遂の教唆」は、「未遂を目指す正犯」というものがないのと同じく、共犯の故意としても不十分なものといわなければならない。
  また、構成要件該当結果が罪責の対象であるということは、その結果が共犯者から見ても「構成要件該当」のものでなければならないということをも意味する。したがって、たとえば「自分を殺してくれ」と依頼する嘱託殺人の被殺者は、たとえ嘱託殺人が未遂に終わったとしても、その教唆として処罰されることはない。なぜなら、この場合に目指された結果は、被殺者から見れば「自己の殺害」であって、嘱託殺人罪の構成要件該当結果である「他人の殺害」ではないからである。同じく、「他人の蔵匿」「他人の刑事事件の証拠の隠滅」を構成要件該当結果とする犯人蔵匿罪、証拠隠滅罪を犯人が教唆した場合、犯人自身からみれば結果は「自己の蔵匿」ないし「自己の刑事事件の証拠の隠滅」であるから、どうあがいても彼は構成要件該当結果を惹起しえない。この場合、犯人による自己蔵匿や証拠の隠滅が構成要件から除外されている理由は、類型的に見て、適法行為の期待可能性がないと考えられるからであるが、しかし、その結果として「司法作用」という保護法益は犯人自身による攻撃からは保護されていないと見るべきである。そうでないと、同じ行為が虚偽犯罪の申告や虚偽告訴の罪で処罰される場合があることを説明できないことになる。
    他方、惹起説からは身分のない者による構成的身分犯の共犯の説明に苦慮するように見えるが、さりとて、ここで「共犯の従属性(連帯性)」を持ち出す「修正惹起説」や「正犯不法の誘発・促進」に一般的な処罰根拠を見る「不法共犯説」に依ったのでは、「未遂の教唆」や「嘱託殺人の被殺者」の不処罰を説明できない。強いてこれを説明しようとすれば、「被害者的地位」や「期待不可能性」という共犯の処罰根拠とは別の理由を持ち出さざるをえなくなる(1)。また、この場合には、加減的身分犯の共犯が個別的に処断されることとの矛盾を放置することになる。さらに、「正犯を機械に置き換えれば構成要件実現自体がなくなってしまう」という身分犯の共犯の特殊性を直視すれば、むしろ、その特殊性を認めた処罰根拠論の方が、減軽規定の導入による矛盾の解消という方法の根拠を提供できる点でも優れていると考えられる。
  したがって、構成的身分犯の共犯ルールを説明するためにも、この場合の処罰根拠を「正犯の義務違反の誘発・促進」に見る惹起説の方が妥当であるということになる。
    しかし同時に、惹起説を純粋に貫けば、「正犯不法のない共犯」を認めることになってしまう。具体的には、自殺や自傷を教唆ないし幇助した者は、彼から見れば生じる結果は「他人の死」ないし「他人の傷害」であるから、他殺ないし他傷の共犯ということになる。しかし、これは、本来の犯罪は正犯行為であって、共犯はそれに対する処罰拡張事由にすぎないとする「限縮的正犯概念」の考え方と調和しない(2)。やはり、共犯はその性質上正犯の不法を前提にするのであって、その範囲内で自己の不法と責任を理由に処罰されると見るべきであろう。つまり、共犯の処罰根拠は、正犯不法の範囲内での共犯から見た構成要件該当結果の惹起だということである。これが、ザムゾンやロクシンに代表される「混合惹起説」の基本思想である。
    現在、ドイツの従来の通説といわれてきた「従属性志向惹起説」ないし「修正惹起説」は、リューダーセンやザムゾン、ロクシンらの批判を受けて二つの方向に解体されつつある。ひとつは、ヴァイゲントに代表される「不法共犯説」への傾斜を強める方向である。この場合には、「嘱託殺人の被殺者」のような「片面的対向犯」の不処罰は、ヴェルツェルのように、「被害者的地位にある者は処罰されない」という別のルールに依拠せざるをえないし、「未遂の教唆」の不可罰もまた、特別の政策的理由に依ることになる。もうひとつは、ロクシンらに代表される「混合惹起説」の方向である。これは、一方で、惹起説のもつ「未遂の教唆」や一部の「片面的対向犯」の不処罰という帰結を保障するとともに、他方で、正犯の不法が共犯の必要条件であるという帰結も担保することができ、同時に、構成的身分犯の共犯の減軽をも根拠づけることができる。
  したがって、筆者には、このような意味での「混合惹起説」が、共犯の処罰根拠としては、最も優れているように思われるのである(3)(4)

(1)  しかし、期待不可能性での説明に難点があることは、同じ行為が別罪で処罰されうる事態があることから明らかであろう。
(2)  その意味で、純粋惹起説は「拡張的正犯概念」との親近性を有していることは否定できないであろう。
(3)  この「混合惹起説」は、わが国で大越教授が主張する「第三の惹起説」(大越『共犯の処罰根拠』二六〇頁以下参照)に似ているように見えるが、以下の点で大きな違いがある。すなわち、まず、「第三の惹起説」は「違法の相対性」を「関与者の中に法益主体が含まれている場合」に限定するようであるが、「混合惹起説」は、このような場合ばかりでなく、犯人による処罰妨害の教唆のように、刑法がその者からの攻撃を法益の保護範囲から除外している場合にも「違法の相対性」、より正確には「不法の相対性」を認める見解である。したがって、次に、このような犯人による「司法に対する罪」の教唆の場合は、「混合惹起説」は、「第三の惹起説」と異なり、一般的な犯罪成立阻却事由である「期待不可能性」に不処罰の根拠を求めるのではなく、「自己蔵匿」「自己の刑事事件の証拠隠滅」がすでに構成要件に該当する結果でないことを、教唆不成立の根拠とする。さらに、未遂の教唆の不可罰を「第三の惹起説」は「その行為に危険性が認められない」場合に、かつそれを根拠にして認めるようであるが、「混合惹起説」は、共犯もまた結果を目指したことに罪責を負うのであれば、正犯の故意と同じく共犯の故意もまた結果に及ぶべきであるとする点に、「未遂の教唆」不処罰の根拠を求めるものである。加えて、「混合惹起説」は正犯の不法を共犯処罰の必要条件とするものであるから、その点で、「正犯行為は常に違法である必要はない」とする「第三の惹起説」と異なる。最後に、「混合惹起説」では、「違法身分は原則として連帯的に作用」することを認めるものではない。そうではなくて、構成的身分犯の共犯は「正犯の義務違反の誘発・促進」に処罰根拠を見いだす特別のルールに服するのであり、身分のない共犯に対しては減軽規定を設けることが望ましいと見るのである。なお、高橋『共犯体系と共犯理論』一五三頁以下の「折衷惹起説」(=「混合惹起説」)の紹介は比較的正確と思われるが、そこにいう「共犯の不法」が構成要件該当結果の関与者ごとの相対性という意味を含んで理解されているのか、また、「正犯の不法から導かれる従属的な要素」が「必要条件としての正犯不法」の意味で理解されているのか、やや疑問が残る。「従属性」の二義性については、松宮「共犯の『従属性』について」立命館法学二四三・二四四号(一九九六)三〇二頁以下も参照されたい。
(4)  もっとも、「混合惹起説」にも課題は残されている。とくに、わいせつ物販売の相手方のように「共犯から見た構成要件該当結果の惹起」では説明できないような片面的対向犯の存在や、日常取引のゆえに共犯とはなりえないと思われる行為の存在である。前者では、近年、グロップの「比例原理」を援用した考え方が、後者では、シューマンの「正犯不法との連帯(Solidarisierung)」を共犯の処罰根拠とする考え方が注目される。W. Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992;H. Schumann, Strafrechtliches Handlungsunrecht und das Prinzip der Selbstverantwortung der Anderen, 1986.  もっとも、これらの問題がすべて、「共犯の処罰根拠」で説明できるなら、それは望ましいことであろうが、そうでなければならないとする必然性はない。