立命館法学  一九九七年六号(二五六号)一三九〇頁(一七八頁)




家族法と子どもの意見表明権
子どもの権利条約の視点から


二宮 周平






一  問 題 提 起
二  民法体系と子の意思
三  実務における子の意思の考慮
四  子どもの権利条約の視点
五  意見表明権の具体的保障のあり方−具体化へ向けての私案
六  今後の課題−親権概念の見直しへ向けて




一  問  題  提  起


  日本は一九九四年に子どもの権利条約を批准した。家族法においても、この条約に則って、法規定の見直しや検討の作業が行われているが(1)、その具体化について議論するものはまだまだ乏しい状況にある。日本の家族法は、第二次大戦後の改正により、個人の尊厳と両性の本質的平等を原則とするものとなり、子に関する事項についても、子の氏名の取得と戸籍への登録、婚姻中の父母の共同親権、扶養義務、離婚後の監護、親権喪失制度、普通養子・特別養子、後見人制度、児童福祉法における養護施設収容・里親への養育委託などそれなりに整った体系を持ち、実務では子の最善の利益を守るような運用(別居親と子の面会交流など)、家裁調査官の事実調査により子の意向を考慮する運用などをしている。だから、政府が条約批准に際して国内法整備の必要性なしとしたのも(2)、根拠がないわけではない。しかし、個々の規定や実務を見ると、権利条約の趣旨・意義をもっといかす改革がありうるのではないだろうか。条約を厳密に解釈し、日本の法制度は条約に違反していないと弁明するのではなく、子どもの利益をより確実に保障し、そのことによってよりよい親子関係、家族関係を築くことができるように法制度を整備すべきではないだろうか。私たちはこの課題についてもっと意見を述べるべきだと考える。
  そこで本稿では、子どもの権利条約を家族法において受容すべき課題の一つである意見表明権を取り上げる。意見表明権は、子どもが権利の帰属主体であるばかりか、権利の行使の主体でもあることを明示するものであり、条約の基幹を成すものであるにもかかわらず、日本法でおそらく最も整備が遅れている課題だと考えるからである。
  例えば、子が親の虐待に耐えかねて親元を離れて養護施設や里親の下で暮らしたいと思ったとしよう(3)。現行制度の下で養護施設への入所あるいは里親への養育委託がなされるのは、親権者の同意がある場合と、家庭裁判所の審判による場合だけである。里親への養育委託については、子が一五歳以上であれば、子の陳述の聴取が義務づけられているが、それ以外には、子の意思を聴くことは制度上保障されていない。子が児童相談所を訪ね、入所や委託を希望する意思を表明すれば、児相の職員は親を説得するが、同意が得られなければ、それまでである。よほど事態が深刻であれば、児童相談所長が申し立て、家庭裁判所の審判を得て入所することもありうるが、子が直接、申し立てることはできない。子もある程度の年齢になれば、自分にとって何が最もよい選択か判断できることもある。子自らが施設入所を希望するというのは、よほど切実な事情があってのことであろう。それなのに子自身には入所申立権が認められていない。このような問題は家族法一般にも共通する。子の権利・義務にかかわる事項について、子の意思を尊重し、場合によっては子の自己決定を保障するような構造にはなっていない。しかし、それでは子の利益を守ることはできないのではないだろうか(4)
  以下、現行法において子の意見表明の問題はどのように扱われているのか、法制度と実務の運用を検討し(二、三)、子どもの権利条約の視点からどのように具体的に保障していくべきかを考えたい(四、五)

(1)  石川稔「親子法の課題−子どもの権利条約からみた課題を中心として」『講座・現代家族法  第三巻  親子』三頁以下(日本評論社  一九九二年)、中川高男「家族の中の児童の権利」法律のひろば四五巻六号一八頁以下(一九九二年)、鈴木隆史「家族法からみた子どもの権利条約−子どもの権利の性格について」『現代の法と政治  立正大学法学部創立十周年記念論集』二九五頁以下(日本評論社  一九九二年)、若林昌子「家事事件における子の意思」石川稔・中川淳・米倉明編『家族法改正への課題』二九五頁以下(日本加除出版  一九九三年)、家永登「家族法における子どもの権利」法律時報六五巻一二号六一頁以下(一九九三年)、許末恵「子どもの権利と家族法についての一素描」一橋論叢一一二巻四号六五〇頁以下(一九九四年)、鈴木隆史「子どもの権利条約における『意見表明権』(総論)」早稲田法学六九巻四号一三一頁以下(一九九四年)、特集「児童の権利に関する条約をめぐる問題−子どもと家庭」家族〈社会と法〉一〇号(一九九四年)、鈴木隆史「子どもの権利条約と家族法」ジュリスト一〇五九号一〇六頁以下(一九九五年)、小川秀樹「児童の権利条約と民事(家族)法」石川稔・森田明編『児童の権利条約』七二頁以下(日本評論社  一九九五年)などがある。
(2)  資料「条約審議にみる政府答弁」季刊教育法九七号五四−五六頁(一九九四年)参照。
(3)  名古屋市近郊に住む四七歳の主婦Aさんは、幼い頃より、母親から「あんたが生まれなかったら、あんな男と結婚しなかった」と口癖のように言われ、食事のおかずまで弟と差別された。父親からは風呂に一緒に入らされ、身体のあちこちを触られ、それを拒むと、「お前はわがままだ、悪い奴だ」と言葉の虐待を受けた。それを見て育った弟まで彼女に暴力を振るうようになった。彼女は中学三年の時に児童相談所に赴き、一時保護施設から通学したいと相談した。職員は同情して母親を説得したが、母親から「家のことに干渉しないで」と一時保護処置を拒否され、手が尽くせなかった。彼女は誰も助けてくれないと絶望感を深め、不眠症がひどくなり、高校時代に自殺未遂までしたという(中日新聞一九九五年五月二二日〔月刊女性情報九五年六月号一八〇頁より〕)。
(4)  児童虐待などから子を保護するために、親権の行使を抑制し、さらに公的な介入をする必要があることはいうまでもない。本稿はこの問題の前提として、子ども自身に自己にかかわる事項について、その意見を述べ、それが考慮されるべきことの保障を考察するものである。なお本稿の基本的な発想は、二宮周平・榊原富士子『21世紀親子法へ』一六一頁以下(有斐閣  一九九六年)で記述している。


二  民法体系と子の意思


  民法は、未成年の子は経済的にも精神的にも未熟であると考え、親権という章で、親に監護・教育権(八二〇条)、居所指定権(八二一条)、懲戒権(八二二条)、職業許可権(八二三条)、財産管理権・法定代理権(八二四条)を認めており、親権者がこれらの権利を行使するにあたって、子と協議したり、子の同意を得る必要はない。例外は、親権者が子の代理をするに当たり、子の行為を目的とする債務を生ずる場合だけである(八二四条但書(5))。他にも表1のように、子には決定権や申立権がなく、意見を聴かれることも保障されていない場合がほとんどである。ただし、婚姻の無効・取消、離婚およびその取消、縁組の無効・取消、離縁およびその取消、強制認知(七八七条)および認知の無効、父を定める訴え(七七三条)については、未成年者でも裁判を起こすことができ、その際には、受訴裁判所によって弁護士が訴訟代理人に選任される(人訴三、二四、二六、二七、三二条)
  しかし、子が一五歳になると、いくつか子の意思を尊重する規定がある。例えば、@自分の意思で決定できることとして、a養子縁組及びその離縁、b遺言の作成があり、c男一八歳、女一六歳になれば、父母の同意を得て婚姻することができる。 A家庭裁判所への申立てができることとして、a父母の氏が異なるときに、自分の氏を父または母の氏に変更すること、b正当な事由のあるときに、自分の名を変更することができる。B家庭裁判所が子の陳述を聴かねばならないこととして、親の離婚などの場合に、家庭裁判所の審判で子の親権者や監護者の指定・変更、子の監護に関する処分(面接交渉や子の引渡請求など)をするときがあり(家審規五四、七〇条)、その他、里親委託の承認の申立(特別家審規一九条二項)、戸籍筆頭者の氏の変更における同一戸籍内の者の陳述聴取(特別家審規五条)、生活保護法の保護施設収容許可事件の当該被保護者の陳述聴取(特別家審規二〇条の二)がある。
  また子に関する家庭裁判所での審判、例えば、親権喪失宣告や一五歳未満の子の養子縁組の許可の審判などでも、裁判所が子の意見を聴くことがある。利害関係を有する者として審判手続に参加させたり(家審法一二条)、職権による調査(家審則七条)として、子の意見を聴くのである(6)。しかし、聴くことを義務づけられているわけではないから、聴かれないこともある。地方裁判所で裁判離婚をする場合には、必ず親権者の決定も同時になされる。しかし、公開の法廷で証人尋問という形で子の意見を聴くことが適切ではないからかもしれないが、裁判所から子をよんで意見を聴こうとすることは実務上ほとんどない。離婚事件に詳しい弁護士によると、当事者から聴いて欲しいと希望した場合に、和解手続の際に子を連れていくことがあるという程度である。協議離婚では、まったく子の気持ちを聴かずに、父母の間で親権者を決めてしまうことができる。
  このような制度の背景には、未成年者にはまだ十分な判断能力がないのだから、親が子に代わって、子にとって重要なことを決めることができるのだという考え方がある。その根底には、子を親から独立した権利主体と見る意識が乏しいという日本の親子観がある(7)。だから、親が子のためによかれと思ってやることで子が不利益を受けるはずはないと考えられており、親子の間で厳しい意見や利害の対立がありうることをほとんど想定していない。利益対立に対しては、唯一、子の財産に関して親子の利益が相反する場合に、親権者に代わって特別代理人を選んで代理行為をしてもらう規定があるだけである(八二六条)。そして親権を濫用したり、著しい不行跡があって親権者として不適格の場合には、親族から親権者の変更(八一九条)や親権の喪失宣告(八三四条)を申し立てることができるにとどまる。
  しかし、親族がいつも子のために目を光らせ、変更や喪失を申し立ててくれるとは限らない。子のことを親に決めさせ、親族が監視するというだけでは、子の利益は守れない。自分の利益は自分が一番よく知っている。子に関することは、判断能力がある限り、子自身が決定すべきである。判断能力の乏しい場合でも、子の意思、少なくとも子の気持ちや思い、意向を聴取し、子自身が自分にかかわる事項の決定過程へ参加することを保障し、子の意思がそれらの判断にあたって尊重される必要があるのではないだろうか(8)

(5)  親権者が子の代理をして子の労働契約を結ぶ場合に、子の同意を必要として子の利益を守ろうとしたが、親孝行の子ほど、親の窮状を見かねて同意を与えてしまうため、規定の意義がいかされなかった。こうした反省から、現在では、子を代理して労働契約を結ぶことはできない(労基法五八条)。
(6)  したがって、子の意見表明権は保障されているという理解もある(小川・前掲(1)七七−七九頁)。
(7)  樋口範雄「『子どもの権利』思潮の展開」『講座・現代家族法  第三巻  親子』八六頁(有斐閣  一九九二年)。
(8)  若林・前掲(1)二九七頁参照。


三  実務における子の意思の考慮


  家事事件においては、家事事件が非訟事件であることから、子の意思を考慮するかどうかは、自由裁量の問題とされている。実務では一般的に「子の福祉の判断のための一切の事情」の一つとして判断基準に加えられており(9)、親権者変更、別居親との面会交流などで、子の意思が聴取され、それを尊重した解決をすることが多い。例えば、単独親権者である父が死亡した後、実母が親権者変更を申し立て、原審が変更を認めたため、監護者である伯母(父の姉)が抗告した事案で、東京高裁は、伯母が七年程度、子を養育し、現在の生活が安定していること、子(一五歳と一二歳)が原審決定後、「殺されても母の下には行かない」と述べていたことなどから、他に特段の事情がない限り、子の意思に反してまで親権者を変更し母を親権者とすることが子の福祉に添うものとはいいがたいとして、原審を取り消した(東京高決昭六一・一二・五家月三九巻五号二四頁)。また指定された日時以外に子が別居親との面接交渉を希望する場合には、同居親はこれを妨害してはならないと釘をさす例もある(大阪家審昭五四・一一・五家月三二巻六号三八頁)。さらに子の引渡し請求事件においても、子の滞在が子の自由意思に基づく場合には、引渡し請求は認められない(親権行使の妨害排除請求に関する最判昭四五・五・二二判時五九九号二九頁など)。人身保護請求に基づく場合も同様で、子が拘束されているかどうかの基準として、子に意思能力があれば、その子の意思を尊重する運用がなされいてる。意思能力の有無については、一〇歳程度を一応の基準とし、これに諸般の事情を考慮して判断する(10)
  しかし、子の意思は流動的であり、周囲からの影響も受けやすいため、子の意思どおりに決定されない場合もある。例えば、八歳と九歳の子について、別居中の妻から夫に対して、監護者を妻に指定することと子の引渡しを求めたところ、九歳の子は、養育に強引に介入した祖母(夫の養母)の言葉を信じ、母を嫌っており、調停中に家裁調査官を通じて試みた面接も、子の拒否が強く一回しか実現しなかったという事案で、引渡しや監護者の指定は認められないが、子の人格形成のために母との面接交渉は認めるべきであるとして、夏休み七日間、春と冬休みに各三日間面接することを命じる審判がある(岡山家審平二・一二・三家月四三巻一〇号三八頁)。この事案では日常的に祖母が子の前で母を誹謗しており、子はそれを信じたために面接を拒否する意思を表明していたものと推測される。また一一歳一〇カ月の子につき、意思能力のまったくない当時から引き続き監護していた拘束者(子のおじ夫婦)が、引渡しを求めている監護権者(実父母)に対する嫌悪と畏怖の念を抱かざるを得ないように教え込んできた結果、子が監護権者の監護に服することに反対するに至ったときには、子の自由意思に基づいて拘束者の下にとどまっているとはいえない特段の事情があるとして、引渡し請求を認めている(最判昭六一・七・一八民集四〇巻五号九九一頁)
  このような実情から、家裁実務では、年少児(ほぼ一〇歳未満)、年中児(一〇−一四歳まで)、年長児(一五歳以上)に分け、年齢に応じた配慮をしながら、家裁調査官の専門的な手法に従って子の意思を調査している(11)。子は日常的に父母の紛争の現実や子としての葛藤を感じてはいても、いざ意見を聴かれるとなると、そこまで至っていたのかと傷つきショックも大きいだけでなく、意見表明がうまくできずに外に向かってストレスを発散させたり、救助信号を送る子、情緒不安定のまま心身症状に陥る子もいるという。しかし、これらはこれまでの家庭生活の中で子として尊重されず、家族の一員として参加できなかったことの積重ねの結果だと指摘されている(12)。そこで特に紛争の中で子がどのような心理状態にいるか、親についてどのような感情や期待をもっているのかに配慮して調査が行われ、子の心理的、情緒的、精神的側面に着眼した成育環境の中で調査する過程で、調査官対子、調査官対親の人間的交流が相互に影響し合って、子が成長し、親も親対親の紛争から解放され、子の立場を考える精神的ゆとりを回復する場合もあるという(13)。したがって、子の意思は「一切の事情」の中に包含されるものとして位置づけるのではなく、必要的判断事項であり、右の手法で把握された子の意思については年齢相応の評価をし、できるだけその希望を生かすことが大切だとされている(14)

(9)  若林・前掲(1)二九九頁。
(10)  二宮周平・榊原富士子『離婚判例ガイド』二三四頁(有斐閣  一九九四年)。
(11)  年齢・発達段階に応じた子の意思の特徴・内容およびそれにふさわしい意思把握の具体的な方法などについては、若林・前掲(1)三〇五頁以下、深見玲子「子どもの意見表明権−家事事件手続との関係など」前掲(1)・家族〈社会と法〉一八六頁以下、依田久子「子どもの意見表明権−家事事件手続との関係など、調査官の立場から」同一九九頁以下参照。具体的なケース研究から検討課題をまとめたものとして、京都家庭裁判所「子を巡る事件における調査のあり方−子の意向の調査が問題となった事例をとおして」家裁月報四九巻八号一三三頁以下(一九九七年)などがある。
(12)  依田・前掲(11)一九五頁。
(13)  若林・前掲(1)三〇三頁。
(14)  若林・前掲(1)三〇五−三〇八頁による。子の意思の位置づけについて、深見・前掲(11)一九〇頁も「一切の事情」に包含することに疑問を呈している。


四  子どもの権利条約の視点


  以上の問題点につき、解決の方向を示唆するのは、子どもの権利条約一二条の意見表明権である。同条は、次のように規定する。「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」(第一項)、「このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接又は代理人若くは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる」(第二項)(政府訳)
  第一項は、自分の意見を形成する能力のある子に対して、自分に影響を及ぼすすべての事項について、意見表明権を保障し、第二項は、司法および行政手続上、意見を聴取される機会を保障するものである。第二項においては、代理人または適当な団体を通しての意見聴取が規定されているので、意見形成能力のない子にも意見聴取の機会は保障されるが、第一項において「考慮される」ことまでは義務づけられないと解されている(15)。考慮にあたっては、子の発達状況が多様であることから、個々の子どもの年齢、発達段階だけではなく、問題となる事項にも応じて、ふさわしい方法でなされることが求められている。子は権利の主体あるばかりか、権利行使の主体でもあるのである。
  日本が条約を批准した以上、国は意見表明権を家族法の中ににいかす責任がある。すなわち、子にとって重要な家族法上の事柄について、その決定過程に子が参加し、その意思が尊重されることを具体的に保障しなければならない。意見形成能力のある子には意見表明権を保障し、そのような段階に達していない子についても、自分の気持ちや思いを述べる力があれば、それを聴取される機会を保障する規定を設けるべきだといえる(16)
  他方で、子には判断のつかないこともあるから、子に決定を迫るのは酷いという反論がありうる(17)。しかし、例えば、小学一年生くらいの子でも、親の離婚に際してどちらを親権者にしてほしいか(それは好き嫌いの感情であることもある)、自分の氏を変更したいか、したくないか、ある人の養子になりたいか否かなどについては、自分の考えないし気持ちを持っている。子には判断がつかなくて、そのときは答えられなくても、あるいは二者択一を迫られるようで辛くても、自分の大事なことについて決めるときに、大人が意見を聴いてくれ、自分を尊重してくれたという経過が、子にとっては大切なのではないだろうか(18)。このことは、子にとって自分の意思・希望を明らかにすることが負担になる場合にまで、無理矢理に意見表明させることを意味していない。現在の実務で行われている子の意向調査でも選択の強制は避けられているように(19)、状況次第では聴かないこともありうるし、しかもこうした子の意見・気持ちが最終的な決定につながる構造にはない。家庭裁判所が子の意見・気持ちを考慮して最終的な判断を下すのだから、酷い決定を子に委ねているとはいえない。こうした反論は、日本の現状では子の権利主体性を否定する方向で用いられるおそれがある。
  離婚に伴う子の監護に関してだが、深見判事は、実務経験を踏まえて、子の意思を尊重することから生じるメリットとして、夫婦の争いしか眼中にない当事者に親子の問題に目を向けさせ、離婚後も父母が子の監護について協力し合わなくてはならないという意識を育むことにつながると指摘し、「仮に、同じ結論になるとしても、子どもを手続に参加させ、子どもの意思を反映させて子の監護について決めていく方向に向かうべきであろう」と主張されている。なぜなら、子の意思を尊重することが、「子どもを一個の人格として扱い、独立の当事者性を与えることにつながり、従来、離婚問題に付随する二次的な問題として、夫婦の妥協や駆け引きの材料とされることがなきにしもあらずであった子の監護問題について、子どもの正当な利益を保護することを可能にする」からである(20)。また依田家裁調査官は同じく実務経験から、「子がきちんとした場と手続のもとに意見表明することは『親のための子』から『子のための親』に視点の転換を促し、その意見を伝えることは、子が親を振返らせ親自身が親意識を取戻して本来の責任で襟を正さざるを得ない転換を意識的に促すことになろう」と指摘される(21)。子の意見表明は、親が子の意思・希望を知ることによって、子の利益につながる親子関係を構築する努力につながる可能性があるといえるのである。
  いくつかの立法例も参考になる。例えば、フランスでは、一九八七年の民法改正で、離婚の際の親権者の決定、離婚後の親権および訪問権の行使につき、裁判官は、子によって表明された感情を考慮する旨の規定が設けられた(仏民二九〇条三号)。子が一三歳未満の場合には、聴聞が必要と思われ、かつそれが子に不都合をもたらさないときにしか、それらの感情は聞かれてはならないとし、一三歳以上の場合には、聴聞は特別に理由のある決定によってしか排斥されないとする(22)。さらに九三年の改正で、未成年一般に関する規定の中で、一定の判断能力をもつ未成年者は、裁判官などから自分に関するあらゆる訴訟手続において意見を聴取されることができるとの規定が設けられため(三八八条の一)、離婚後の親権者の決定などの問題につき、一三歳未満でも判断能力があれば、聴聞されうることになった(23)。他方で氏名の変更、養子縁組の同意年齢を一三歳とした(六一条、三六〇条)。ドイツでは、一九七九年の民法改正で、父母が監護を行うにあたっては、子と協議しその了解を得るように努めなければならず(独民一六二六条二項)、また屈辱的な教育措置を行うことは許されず(一六三一条二項)、職業教育および職業選択にあたっては、子の適性および性向を考慮する義務(一六三一条a一項)を規定しており、父母と子の関係は権力的なものではなく、仲間関係として理解されるようになったものと位置づけられている(24)
  フランス民法のように一般的な聴聞の規定を設けると同時に、事項によっては年齢を限定した同意権という形で子の意思を考慮するという方法もあれば、ドイツ民法のように親が子に対して一定の措置をとる場合の方法として、子の意思を尊重すべき旨を定める方法もあるが、いずれも子の意思を大切にするという点では共通する。こうして何らかの形で子の意見を尊重することは、裏側から見ると、親の親権行使を適当な範囲と手段に制限していくことを意味している。もちろん、子の自律と子の保護との相関関係は、子の発達段階に対応して流動的なものであり、画一的な措置になじみにくいものだといえるが、だからといって、これまでの制度でよいという抗弁にはならない。依田家裁調査官は、実務経験から「子の意見表明権は、声なき声に泣いてきた子にとって大きな成果である」と指摘される(25)。子どもの権利条約を批准した国として、またこれまでの状況の改善のためにも、子の意思の尊重と、その法的根拠としての意見表明権を実体的な権利として、また手続的な保障として民法中に明記する必要があるように思われる。
  若林判事は、子どもの権利条約批准を目前にした時期において、「意見表明権を前提にするならば、子の意思の自立が認められる限り、これに反する結論は子の福祉に反することになり、親の意思よりも子の意思を優先させることが子の福祉に沿うことにもなるのでなかろうか。子の意思の自立が乏しい段階では、子の意思の忠実な把握、理解の努力が必要であり、子の権利主体性を認めた立場から評価を与えることになる」とし、「憲法、あるいは民法の個人の尊厳、平等原則の実現を実体法、手続法の個々の場面で具体化し、明確化される努力が必要であると思われる。つまり、子どもの保護の時代から、子どもを一人の人間としてその人格を認め、これを制度として具体的に実現していかなければならないからである」と指摘された(26)。私見は全く賛成で、自分が一人の人間として尊重される経験をすることは、子自身が自分と同様に意思や希望をもつ他者の存在を認識することにつながる点でも大切なことだと思う。以下はこの指摘の私なりの具体化である。

(15)  石川稔「児童の意見表明権」石川稔・森田明編『児童の権利条約』二三三頁(日本評論社  一九九五年)。
(16)  意見表明権に関する日本法の手続上の対応についてコメントするものとして、波多野里望『逐条解説  児童の権利条約』八六頁以下(有斐閣  一九九四年)、家族法上の問題についてコメントするものとして、永井憲一・寺脇隆夫編『解説・子どもの権利条約』七五頁以下(日本評論社  一九九〇年)、小川・前掲(1)七六頁以下、意見表明権の家族法における受容に関しては、鈴木・前掲(1、一九九四年)一三一頁以下、若林・前掲(1)二九五頁以下、深見・前掲(11)一七八頁以下、依田・前掲(11)一九四頁以下などがある。
(17)  判断の過程そのものが子に害を及ぼすこともあることから、英国の児童法(一九八九年)が子どもの選択権をストレートに認めなかったという(許末恵「英国一九八九年児童法についての一考察」神奈川工科大学研究報告A(人文社会科学編)一七号八七頁〔一九九三年〕、同・前掲(1)六五七頁参照)。
(18)  深見判事は、「何よりも、主役であるはずの子どもたちが、自分の意見を述べる機会を与えられずに自分にとって最も重要なことを決められてしまったという不満をもつことになろう」と指摘する(前掲(11)一九二頁)。
(19)  若林・前掲(1)三〇五頁、深見・前掲(11)一八七頁、依田・前掲(11)一九六頁。
(20)  深見・前掲(11)一九一−一九二頁。
(21)  依田・前掲(11)二〇七頁。
(22)  田中通裕『親権法の歴史と課題』一九六、二一二、二四四頁(信山社  一九九三年)。
(23)  加藤佳子「子どもの権利条約と子どもの福祉−子どもの権利条約がフランスにもたらした影響」児童福祉法研究七号一八−一九頁(一九九七年)。
(24)  シュヴァープ(鈴木禄弥訳)『ドイツ家族法』二三九頁(創文社  一九八六年)。
(25)  依田・前掲(11)二〇八頁。
(26)  若林・前掲(1)三〇八−三〇九頁。


五  意見表明権の具体的保障のあり方 ―
具体化へ向けての私案

  (1)  実体的保障    まず子に影響の及ぶ家族法上の事項について、一般的に子には自己の意見を表明する権利があり、年齢、成熟度および当該事項との関連で相応した方法により、その意見が尊重されることを明記する。さらに事柄や年齢によっては、単に子が意見を述べるだけではなく、子自身の決定に委ねるべきものもある。例えば、子どもの権利条約や憲法で保障されている思想・良心・信仰の自由、結社・集会その他の表現の自由、プライバシー・通信・名誉の保護、マスメディアへのアクセス、居住・職業選択の自由など基本的人権に関する事項については、子が十分な判断能力を有する場合には、子の自己決定に委ねる旨明記する(27)。親は子の自己決定が子の利益に反すると判断するときも、子に対して自分の意見を述べ、説得することができるだけであり、親には子の行った決定を一方的に覆す権利はない。自己決定できる年齢は、事柄および子自身の理解能力・判断能力に応じて、柔軟に考えることになる。ケース・バイ・ケースの判断にならざるをえないが、これを明記することによって、基本的な考え方を示す意味がある。
  次に能力制限からの解放も必要となる。現行制度では、義務教育を終了して働いている子、あるいは親元を離れて進学している子について、未成年者であるというだけで、一律に親権者の管理下に置かれる。唯一、未成年でも成年扱いし、親権者の管理下から解放する例は、未成年者が婚姻した場合である(成年擬制、民七五三条)。婚姻による成年擬制の波及効果は大きい。例えば、婚姻をして出産すると、未成年でも親権者になることができる。ところが、未成年者が婚姻しないで出産すると、親自身は親権者になれず、子どもの祖父母が親権者になる(八三三条)
  こうした不合理をなくすためにも、未成年でも働いていて独立して生計を立てている場合には、能力制限から解放し、成年者として扱う道を開くべきである。民法には、営業を許可された未成年者は、その営業に関して成年者と同一の能力を有する旨の規定があるから(六条一項)、日本民法の体系に矛盾するものとはいえない。具体的には、当該未成年者が家庭裁判所に解放を申し立て、家裁は、父母の意見を聴取して正当な理由があれば、解放を命じることができるようにする。フランス法では、一六歳に達した者について、その父母が後見裁判所に解放を請求し、正当な理由があれば、裁判所は親権からの解放を宣告をすることができる(仏民四八一、四七七条)ことも参考にすべきであろう。
  (2)  手続的保障    (1)で規定したような、子に影響の及ぶ家族法上の事項に関する子の意見表明権を手続上どのように保障すべきだろうか。ドイツ法では、家庭裁判所・後見裁判所において子の身上監護、財産管理に関する訴訟手続をとる場合、子に手続上の保障がある。例えば、一四歳以上の子は、身上監護に関して、直接、審訊されねばならず、財産に関しては適切と判断される場合には、やはり直接、審訊される。そこではどこに問題があるのか、どのような結末になる可能性があるのかを告げられ、陳述の機会が与えられる。また子の監護をする者の決定や面会交流については、子に抗告権を保障している(28)
  これらを参考にして日本でも、家事審判について子の陳述を聴取する義務(家審規五四条)を拡張すべきであろう。具体的には、子を当事者とする全ての審判事件について、子自身の陳述を聴かねばならないことにし、現行規定のような一五歳という年齢制限をはずすのである(29)。ここでいう陳述とは、子の年齢によっては、意見の表明であることもあろうし、意見にまで至らない考えや気持ち、さらには感情の表出などの場合もありうる。例えば、児童虐待のケースでは、四歳くらいの子でも親の元に戻るのが嫌であれば、嫌だと言うという。したがって、子の年齢や理解能力、判断能力にふさわしい方法で陳述を聴く必要がある。子をとりまく環境や問題の状況によっては、審訊という形で裁判官が聴くのではなく、前述のように家裁調査官など専門家がカウンセリングや調査をしながら、気持ちを聴くことになる。ただし、それが現状で子にとって不適当な場合は除く。家庭裁判所は、こうした陳述を尊重しながら、審判を下すこととなる。
  次に申立権・承諾権・抗告権を保障する。具体的には、まず表1の中の家庭裁判所に対する様々な申立てについて、一五歳以上の子には、すべての事項について申立権を認める。嫡出否認の訴え(30)、養子縁組の許可、親権者・監護者の変更、親権喪失宣告、後見人の選任、面接交渉などである(31)。また父母の氏が異なる場合の氏の変更、正当な事由がある場合の名前の変更、養護施設への入所の承認(32)などのように、家族関係の変動を伴わないような事項については、子の意思を最優先すべきだから、申立権を有する年齢を一二歳(中学一年)程度に下げる。現行の人事訴訟法では、婚姻の無効・取消、離婚およびその取消、縁組の無効・取消、離縁およびその取消、認知の無効、強制認知、父を定める訴えなど未成年者自身の家族関係の存否にかかわることについては、裁判の提起を認め、訴訟代理人を選任して訴訟を遂行させる構造をとっているのだから、表1の事項について家庭裁判所への申立権を認め、以後の手続を、家裁自身が後見的立場から進めたり、適宜代理人を選任して遂行させることは、システムとしてなじまないものではないと考える。
  さらに自分にかかわる家族関係事項については、子の承諾や同意の権限を保障すべきである。例えば、現行制度では、子が一五歳未満の場合には、養子縁組の承諾は、子ではなく、縁組前の法定代理人(多くは実親)がすることになっている。離縁の時も、協議するのは子ではなく、離縁後に法定代理人となるべき者(多くは実親)であり、子は自分自身のことなのに、協議の当事者となる資格が与えられていない。婚外子に対する父の認知にいたっては、まったく子に知らせずに(母にも知らせずに)、一方的に行うことができ、事後の承諾も報告も義務づけられていない。これらについては、一二歳以上の子には、縁組や離縁の承諾権、認知の承諾権を認め、それ未満の子にも陳述の機会を保障するようにすべきだと思う。
  これらはいずれも、家庭裁判所の後見的な機能に対する信頼を前提にしている。しかし、子にとって見ると、家庭裁判所の判断に不服な場合もありうる。したがって、右の事項に応じて一二歳ないし一五歳の子には抗告権を認め、再度の審理を保障するようにしたい。
  これらの権利は手続を開始させるものだから、画一的に年齢を規定せざるをえないが、あくまでも原則としての年齢であり、申立てなどをした子がその年齢以下でも、家庭裁判所が調査などをして十分な理解能力・判断能力があると認められるときには、例外的に年齢を引き下げて申立権などを承認することにすべきである。
  (3)  制度的保障    以上のような形で、家族法において能力解放、自己決定権、意見表明権、申立権、承諾権、抗告権を保障したとしても、これらの権利の行使を現実に可能にするためには、子が自分にこれらの権利があることを知っていることが前提となる。こうした情報伝達について最も効果的であるのは、学校教育であろう。したがって、養護施設、保育園・幼稚園から小中学校、高校に至るまで子どもの生活と教育の現場で、教育の一環としてこうした情報を年齢にふさわしい方法で伝えることを確保しなければならない。施設や学校は教育の場であるだけではなく、子どもが自分の権利を守る上での情報提供の場ともなるのである。子は自分が権利の主体であり、かつ権利行使の主体であることを自覚することによって、他者もまたそうした存在であることを認識することができるのではないだろうか。その意味で、子の成長にとっての教育的効果も大きいと思われる。しかし、そのためには学習指導要領などにこの旨を明記し、先生に正しい認識と義務意識を持ってもらうと同時に、第三者機関として学校や施設に法律・福祉・教育などの専門家やボランティアによるオンブズパースンあるいはカウンセラーを配置する必要がある(33)。他方、親や後見人のいない子どものために、地域や施設・学校に子の気持ちを聞き、判断の援助をしたり、子の意見を代弁する機関を設置することなども検討する必要がある。
  家事事件として家庭裁判所に係属すれば、現在でも、家裁調査官が専門的な立場から、こうした役割を果たしていることがある(34)。しかし、ここで問題にするのは、それ以前の段階で子に情報を提供しつつ援助するシステムのことである。これらは民法の領域を超える課題であるが、制度的な裏づけがなければ、子どもの意見表明権・自己決定権を保障することはできない。

(27)  医療行為や出産の自己決定に関する私見については、二宮・榊原・前掲(4)一七三−一七四頁参照。エホバの証人の輸血拒否や尊厳死なども、子ども自身に当該事項についての十分な判断能力があるかどうかがポイントとなる。
(28)  シュヴァープ・前掲(24)二五五頁。
(29)  深見判事も、一五歳以上と未満で区別する規定の仕方が相当かという問題もあると指摘している(深見・前掲(11)一八五頁)。
(30)  嫡出否認権は現行制度では夫にしか認められていない(民七七七条)。父子関係の一方当事者である子に自らの父子関係の存否について意思を反映できない制度は不合理だと考えるので、否認権を保障したい。なお現行実務では、親子関係不存在確認の訴えについては、子にも訴権を認めている。父から嫡出否認の訴えまたは親子関係不存在確認の訴えが起こされたときに、子に聴聞するかどうかは、検討の余地がある。科学的鑑定などで訴えが棄却された場合には、父がそうした行動を取ったことを子に伝えない方が安定的な父子関係が継続する可能性が高いと思う。他方、訴えが認められる場合には、自然血縁関係が存在しない以上、子がいくら父子関係の継続を希望していてもその意思を反映させることができない。せいぜい権利濫用の法理を用いて父からの親子関係不存在確認の訴を棄却する可能性が残される程度である。私見はこうした現在のあり方に疑問を持っている(二宮周平「父とは誰か−嫡出推定および認知制度改革私案」立命館法学二四九号九六五−九六六、九八七−九八九頁(一九九七年)参照)。
(31)  深見判事も、これらについて子に当事者の地位を与えるに相応しい事項と見ている(深見・前掲(11)一八五頁)。
(32)  これと並んで、入所措置を解除し、子を家庭に戻す場合についても、安易な解除にならないように、子を監護している施設の長や子の意思を尊重する制度に改める必要がある。
(33)  一九九七年七月二七日の子どもの人権研究会における意見交換によれば、東京弁護士会が各施設・学校にスクールローヤーを置く取組みをしたり、市民グループが「子どもオンブズパースン」として、学校と保護者の仲介役、子どもと先生の意思疎通を図る取組みを展開している(豊田キヨ子「子どもオンブズパースンから」季刊人間と教育一四号五八頁以下〔一九九七年〕)。
(34)  家裁実務からは、子の代理人あるいは特別代理人制度に対して、家事事件には、手続的な権利保障では対応できないデリケートな問題があることから、疑問を呈する見解が多い(若林・前掲(1)三〇七頁、深見・前掲(11)一八九−一九〇頁、依田・前掲(11)二〇九頁など)。しかし、家事事件になる前の段階で、子と相談し、子を援助し、子の意思を代弁できる制度は必要だと思う。


六  今後の課題 ―
親権概念の見直しへ向けて

  こうして子の意見表明権・自己決定権を認めることは、子を親の保護の客体と見ることからの転換を余儀なくさせるのだから、当然に親権概念の見直しを迫る(35)
  現在では、親権について、「親が子を保育・監護・教育する職分」として、権利というよりも、義務としての側面を強調する見解(36)、子の幸福追求権を前提に、子自身の成長する権利に対応する親の義務だと説く見解(37)、権利だとすれば、放棄の自由もあることになるが、親権は放棄できないのだから、親権は権利ではなく、親の債務だとする見解も展開されている(38)。しかし、言葉の感覚としては親の権利だから、親が子を支配するような、あるいは「煮て食おうと焼いて食おうと親の勝手だ」といったイメージがつきまとい、離婚の際に強引な子の奪い合いをしたり、子を虐待したり、子と無理心中するなど、私物化の例があとを断たない。虐待された子を児童相談所の一時保護所や養護施設で保護していても、虐待親が反省の体で親権を根拠に引き取りを迫れば、子を親元に戻さざるを得ない状況にある。
  学説がいくら職分だ義務だと説いても、現場では対応が難しい。子の意見表明権・自己決定権を保障し、子の権利主体性を認める立場からは、親権という包括的な概念を廃止するか、英独仏の法改正に見られるように、権力的発想を抜きにした概念に転換するしかない(39)。かつて親権・後見統一論の視点から、親権廃止論が展開されたことがあるが(40)、親も子もそれぞれ独立した人格であり、各自が違う考え方・価値観・感情をもつ存在であることを認め合うとき、「親権」という親の支配的な地位を連想させるような概念は不要であるのみならず、かえって有害であるとさえいえよう。親権概念の廃止もしくは転換は、子が権利主体であり、かつ権利の行使の主体であることを明確にする理念的な意味があることになる。まさに名は体を現すのではないだろうか。
  本稿では、意見表明権の具体的な保障の方法を述べてきたが、思いつきの域を出ない部分もある。実体的・手続的保障に関しては実務の視点あるいは比較法的な視点から、制度的な保障に関しては教育法学との連携も含めてさらにきめ細かな検討を加えると同時に、親権概念を子の意見表明権の保障にふさわしい形で見直す作業を進めること(41)を今後の課題としたい。

(35)  課題を指摘・整理したものとして、石川稔「親権法の課題と問題点」ケース研究二〇一号二頁以下(一九八四年)、田中・前注(22)二七一頁以下、同「親権に関する一考察−親権法の再編に向けて」新井誠・佐藤隆夫編『高齢社会の親子法』一頁以下(勁草書房  一九九五年)、児童福祉法制との関連で見直しを検討するものとして許9854有『子どもの権利と児童福祉法』一〇七頁以下(信山社出版  一九九六年)がある。
(36)  我妻栄『親族法』三一六頁(有斐閣  一九六二年)。
(37)  中川良延「親権と子どもの教育を受ける権利」北大法学一四巻三=四号四四三−四四四頁(一九六四年)。
(38)  米倉明「親権概念の転換の必要性」『現代社会と民法学の動向  下』三六五頁(有斐閣  一九九二年)。
(39)  フランスでは「puissance paternelle(父の権力)」から「autorite´ parentale(親の権威)」へ、ドイツでは「elterliche Gewalt(親の権力)」から「elterliche Sorge(親の配慮)」へ、イギリスでは「custody(監護権)」から「parental responsibility(親責任)」へ、基本的概念を転換した(田中・前注(22)一六六頁、石川稔=門広乃里子「西ドイツの新監護法」ジュリスト七四五号一一九頁〔一九八一年〕、三木妙子「現代イギリス家族法」『講座・現代家族法  第一巻  総論』一八七頁(日本評論社  一九九一年)など参照)。
(40)  中川善之助「親権廃止論」法律時報三一巻一〇号四頁以下(一九五九年)、西村信雄「親権廃止論に賛成する」法律時報三一巻一〇号七六頁(一九五九年)、立石芳枝「親権の概念」『家族法大系X  親権・後見・扶養』一頁以下(有斐閣  一九六〇年)、これらの廃止論の分析と評価に関しては、久貴忠彦「親権後見統一論について」『講座・現代家族法  第四巻  親権・後見・扶養』三頁以下、特に一六−一七頁(日本評論社  一九九二年)、田中・前注(35)七−九頁など参照。
(41)  私見は、従来、親権の中核とされてきた監護・教育の権利・義務(民八二〇条)を、親子の権利・義務の基本規定と位置づけて、現行民法八一八条一項を廃止し、また親の権利という言い方を止めて、@子は親の監護・教育を受ける権利を有すること、A子のこうした権利に対応して、親は子を監護・教育する義務を負うことを明示するとともに、個別の権利として規定されている居所指定権、懲戒権、職業許可権も廃止するというものである(二宮・榊原・前掲(4)一七八−一八〇頁)。