「自己決定権」論の現代的意義・覚書(吉村)
立命館法学  一九九八年四号(二六〇号)




◇研究ノート◇
「自己決定権」論の現代的意義・覚書


吉    村    良    一




目    次

は じ め に

一  自己決定権論の諸相

  (1)  自己決定権の種類ないし語られる場

  (2)  自己決定権論の背景

  (3)  類似の概念との関係

二  自己決定権の条件−「保護」と「支援」

三  自己決定権の限界

四  自己決定権と不法行為法

  (1)  問題の整理

  (2)  不法行為法による自己決定権「保護」の意義と課題

お わ り に


はじめに


  今日、多様な場面で多様な内容の自己決定権が語られている。わが国におけるこの問題のパイオニア的業績は山田卓生(敬称略。以下同じ)の『私事と自己決定』(日本評論社一九八七年(1))だが、そこでは、ライフスタイル、危険行為、生と死といった多様な問題群が取り上げられ、いかなる範囲でパターナリズムを排し自由な自己決定ができるかが論じられている。民法学においても、この自己決定権という概念は、これまた多様な場面で(多様な含意を持って)主張されている。例えば、契約法(特に消費者契約)における意思を重視した議論(2)、夫婦別姓や非嫡出子の問題に関連して展開されている家族法の議論(3)、医療における患者の自己決定権の主張(4)などであり、近時の成年後見の制度化に向けた立法作業においても、無能力者保護と自己決定の調和を立法理念とした議論が行われている(5)。民法学以外の分野では、労働法における労働者の自己決定を重視する議論(6)があり、刑法学においても尊厳死や「自己危殆化行為」と自己決定権に関する議論は重要である(7)。また、近時のいわゆる規制緩和論の中でも、規制を緩和し人々が自由に決定しその結果に自己責任を負うという脈絡で自己決定権が語られている。さらに、これらの議論を背景に、自己決定権を憲法上どう位置づけるかについて活発な議論があることはいうまでもない(8)

  筆者は、一九九八年度の民科法律部会学術総会コロキウム「『自己決定権』の諸相」において、自己決定権の今日的意義について序論ないし総論的報告を行ったが、本稿はそれを母体としている。しかし、その報告では、報告時間の制約等から、自己決定権論の背景やその意義と限界に関する議論を一般的に整理するにとどまった(9)。しかし同時に、その準備過程で、この問題が、筆者の専攻する民法学の今後のあり方にとっても極めて重要な意義を持つことをあらためて痛感した。そこで本稿では、できるだけ問題を民法上の問題に引き寄せながら、右の報告作成を機会に考えた内容を明らかにしてみたい。検討の浅い、極めて不十分な、その意味でまさに「研究ノート」であり「覚書」でしかない拙い論稿ではあるが、読者諸氏の忌憚のない批判や教示を得ることにより、さらに検討を深めたいと考えている。なお、近時、現代社会の構造変化を見すえた民法学の「グランド・セオリー」の提示が意欲的になされている(10)が、本稿は、それらに刺激を受けたものでもある。


(1)  本書の公刊は一九八七年だが、本書の元となった法学セミナー連載は一九七九−八〇年である。

(2)  約款に関する原島重義の一連の論稿(「契約の拘束力」法学セミナー一九八三年一〇月号三二頁、「約款と契約の自由」『現代契約法大系一巻』(有斐閣一九八三年)三七頁、他)や、石田喜久夫『民法秩序と自己決定』(成文堂一九八九年)等。

(3)  二宮周平『家族法改正を考える』(日本評論社一九九三年)他。

(4)  議論の概要については、樋口範雄「患者の自己決定権」『岩波講座現代と法14』(岩波書店一九九八年)六三頁参照。

(5)  「特集・成年後見制度の立法課題」ジュリスト一一四一号四頁参照。

(6)  西谷敏『労働法における個人と集団』(有斐閣一九九二年)他。

(7)  刑法における議論については、浅田和茂「刑法における生命の保護と自己決定」松本博之=西谷敏編『現代社会と自己決定権』(信山社一九九七年)一三一頁等参照。

(8)  憲法上の議論については、佐藤幸治「日本国憲法と『自己決定権』」法学教室九八号六頁、松井茂記「自己決定権について」阪大法学四五巻二、五号等参照。

(9)  学会報告そのものは、当日の議論を参考に若干の修正の上、同学会機関誌「法の科学」に掲載の予定である。

(10)例えば、「一九九七年度私法学会民法部会シンポジウム『転換期の民法学』」私法六〇号三頁、吉田克己「現代市民社会の構造と民法学の課題」法律時報六八巻一一号−七〇巻三号、他。



一  自己決定権論の諸相


(1)  自己決定権の種類ないし語られる場

  自己決定権が前述のような多様な分野で、しかも多様な内容を持って語られているとするならば、その意義や限界を明らかにするためには、それの種類ないしはそれが語られる場を整理しておくことが必要となる。このような整理として以下のようなものがある。まず、吉田克己は、一九九七年度の私法学会民法部会シンポジウムにおいて、次のような自己決定権の種類をあげている(1)。@個人レベルの私事に関する自己決定権、A契約を通じての生活関係形成に当たっての自己決定権、B社会経済的な非対称性を緩和する資源としての自己決定権、C生活世界の論理による市場の統御理念としての自己決定権、D社会の様々なレベルでの社会関係形成に関する自己決定権。同じく吉田は、自己決定権の性格を、自由権的自己決定権(国家のパターナリスティックな介入に対する自己決定権)、社会権的自己決定権(自己決定の実質化、社会経済的な非対称性を緩和する資源としての自己決定権)、関係形成的自己決定権(他者との関係形成における自己決定権)の三つに分類している(2)。さらに、笹倉秀夫もほぼ同様に、自由権的な関係に関わる事柄、本質的には自由権に関わるが問題となる場と当事者の社会的地位にかんがみれば経済法や社会法にも関連するもの、民主主義的な参加にかかわるものに整理している(3)。その他では、狭義の自己決定権(自分だけに関する事項についての自己決定権)と広義の自己決定権(自分にも関係する事項について決定に関与しうるという意味での自己決定権)という区別(4)や、ポジティブな自己決定権(「他人に迷惑をかけない限りでは、自分の精神や肉体について当人に選択の自由がある」)という考え方とネガティブな自己決定権(「抵抗の自己決定権」)の区別(5)などが注目される。

  以上を参考に、ここでは、次の三つに問題を整理しておきたい。まず第一は、山田卓生が取り上げた「私事」に関する自己決定権、すなわち、個人はその私的領域に関して社会や国家からどこまで自由かという問題群である。ここでは主として、国家や社会によるパターナリスティックないしモラリスティックな干渉・介入を制限するものとして自己決定権が主張されている。その意味で、ここでの自己決定権は思想信条の自由等の自由権と類似した性格を持ち、また、最大の課題は、例えば尊厳死が自己決定権の名において許容されるかといった議論、すなわち、パターナリズムやモラリズムに込められた社会秩序のあり方やそれを支える規範との緊張関係をどう見るかである。

  第二は、個人が他者と何らかの法的関係を形成する際の決定のありように関して問題となる自己決定権であり、それらの法的関係は多くの場合契約の形をとることから、契約法の問題として現象することが多い。具体的には、消費者問題、医者と患者の関係等の問題群で語られるものであり、さらには、労働者と使用者という労働法上の関係でも、この意味での自己決定権が問題となる。ここではまず何よりも、個人(消費者、患者、労働者等)がその法的関係の形成に際してどこまで実質的に自己決定しうるか、もしそれを阻害する事情があるとして、どのようにすれば自己決定が可能となるのか、そもそも自己決定の基盤が欠けている場合にあえて自己決定を実現することにより個人の利益を護るというような迂遠な道ではなく、より直截に保護を与えれば良いのでないかといった点が論じられなければならない。

  第三の問題群は、生活の場や社会秩序の形成に関する自己決定権、すなわち、人々が生活する地域、自治体、国家、国際社会等のあり方に関して、その秩序形成に構成員や構成団体が主体的にかかわるべきであるという意味での自己決定権である。ここでの自己決定権は、参加や民主主義の問題と密接に関連し、その主体は個人に限定されず、団体・自治体・国家の権利としても語られる。本稿での検討は、権利主体の違い(個人か団体等を含むか)がもたらす自己決定権の内容や意義の違い、そして何よりも筆者自身の能力から、検討の対象を右の第一と第二のものに限定したい(6)

(2)  自己決定権論の背景

  わが国において自己決定権が台頭してきた理由ないしその背景は何か。筆者なりの整理をしてみるならば、以下の三つのことが指摘できるのではないか。まず第一に、高度成長を経てわが国に「豊かな社会」が成立したことが、自己決定権論が登場してきた基礎となっていると思われる。すなわち、この時期、高度成長により人々の物質的な最低限の生活が確保され、そしてそのことが多様な個性やライフスタイルへの欲求の高まりを生んでいったのである。例えば、総理府の国民生活に関する世論調査によれば、「物質的にある程度豊かになったのでこれからは心の豊かさやゆとりのある生活をすることに重点をおくべきだ」との回答が、一九七二年の三七%から九七年には五六%に増えている(7)。この調査結果は、その選択肢が示すように、決して人々が物質主義から精神主義(あるいは清貧主義)に意識変化を起こしたということを意味するものではない。物質的な豊かさの(ある程度の)達成を前提に「心の豊かさも」ということである。しかし心の豊かさに(も)重点をという意識が、自己の嗜好や選択を大切にしたいという意識のベースになっていることは確かであり、このような意識の変化が生活スタイル等における多様性要求となって自己決定権台頭の基盤を形成していると思われる(8)。さらに、高度成長期の急激な都市化は、農村と都市の両者における「共同体」を解体した(農村における過疎化現象と都市における「下町」の崩壊)。古い共同体は個人の自由(自己決定)を束縛するという側面を有するものであったが、別の面から見れば、人々を温かく守ってきた「繭 」のようなものであり、その解体により、人々には自立の条件ができた反面において、自立を余儀なくされ、そのことが自己決定権という考え方が注目されることにつながったものと考えられる。またこの時期、女性の「社会進出」が進み、伝統的な性別役割分担に揺らぎが見られるようになり、同時に、少子化や高齢化等、家族のあり方にも変化が生じ、そのことが、家族を中心とした人間関係における選択の多様化、そして、そこでの自己決定という考え方につながっていったことも重要である。全体として言えば、ポスト高度成長期の「豊かな社会」において、人々の選択可能性が広がるとともに、それまで人々を律してきた社会の規範的秩序(「性のモラル」「家族のあり方」等)が揺らいできたことが、人々の自由な生き方としての自己決定権を浮かび上がらせてきたと言えるのではないか。

  しかし他面において、現代において、人々の自由な自己決定を阻害する状況は一層強化されてきている。すなわち、まず何よりも、現代国家における管理(パターナリズム)が強化され、自己決定が一層困難になっている。国家によるパターナリズムには、人権侵害を含む管理抑圧(例えば盗聴法をめぐる動き)と福祉国家型のパターナリズム(生活保護を与える代わりに被保護家庭のあれこれを規制する)の二つの側面があるが、これらが強まってきている(9)。さらにわが国の場合、「企業社会」という言葉に表れているような企業による管理(単身赴任や残業の「強制」等)も今日強固に存在し、その傾向は不況の中でますます強化されていること、また、(古い)共同主義的パターナリズムないし、制服強制等の「管理教育」に見られるような「日本的画一主義」がなお強く残存していることにも留意する必要がある。このような、いわば三つのパターナリズムが強固に存在し、近時それらが強化されてさえいることが、これに抗した個人の自由な生き方を実現する権利としての自己決定権論台頭の背景となったと考えられるのである(10)

  さらに、例えば、消費者取引や医療等、経済的社会的地位の格差に加えて情報格差の結果、抽象的な自由や私的自治を語るだけでは自己決定しうる基盤が欠落する分野が増えてきている。このような状況が(逆説的にではあるが)自己決定権の必要性を意識させるようになってきたのである。吉田克己の言葉を借りれば、近代市民社会では「強い個人(=強く自律した家長)」が主体であり、自己決定のための支援措置は必要とされなかった。しかし、現代市民社会においては「弱い個人」が主体として登場するようになり、そこに「真の自己決定」を確保するための措置が要請されるようになった。すなわち、自己決定に関する理念と現実の緊張関係が自己決定の問題を自己決定「権」の問題としたのである(11)

  結局のところ、一方で自己決定を求める意識の高まりがあり、しかし他方で、以上のようなそれを阻害する要因が強化され、その両者のせめぎ合いの中から、自己決定が権利として、つまり何らかの法的保護を要するものとして語られるようになってきたと整理できるのではないか。しかし、自己決定権論台頭の背景には、「反福祉国家論」や「新自由主義」の台頭、規制緩和論があることにも注意する必要がある。つまり、福祉国家による保護をパターナリズムとして批判し、それに自己決定権を対峙させることにより、結果として福祉政策の後退を惹起する議論や、消費者保護のための規制を緩和し消費者の自己決定に委ねるべきといった議論である。より一般化して言えば、経済政策や社会政策における「新自由主義」台頭の中で規制緩和論が有力に登場し、規制緩和の一種のイデオロギーとして自己決定が強調されるという側面であり、この面も無視できない(12)

(3)  類似の概念との関係

  次に、自己決定権概念をより明確にするために、類似した概念との異同を整理しておこう。ここでは、プライバシー、私的自治、人間の尊厳という三つの概念との関係を検討してみる。

  イ.プライバシーと自己決定権    わが国では、プライバシーという概念の中核は、私生活上の秘密領域を守る権利として理解されることが多い。このように解した場合、私生活を重要な要素とする点では自己決定権とプライバシーは密接に関連しているが、秘密性を本質的な特徴としていない点で自己決定権はプライバシーには属さないことになる(13)。これに対し、アメリカでは、「プライバシーの権利は自律権とも呼ばれ、一定の私的事項についての自己決定を意味する(14)」とされており、プライバシーをこのように広義に解すれば、それは、わが国の自己決定権のかなりの部分と重なり、少なくとも、私事と自己決定という文脈で論じられる問題はほぼプライバシーに含まれることになるであろう。しかし、自己決定権の内容を、消費者問題等の、他者との法的関係形成の問題に広げて考えるとき、自己決定権の内容はプライバシーの概念を超えるものを含むことになる。さらに、「『プライバシー』という枠組みにおいては、通常は、『私的領域』内の、家族や、家族に匹敵する親密な人間関係が、国家や社会一般の介入から守られることになるわけであるが、そこでは、そもそも、そうした『高められた保護の対象としての私的領域』をどう定義するか、という問題から出発して、さらには、これらの複数の諸個人間の利益相剋をどう評価すべきか、国家は、その中での調停者としての役割を演ずるべきかどうか、また、それは、どのような役割であるべきかという問題は、\\必ずしも充分な解決を与えられてこなかったと感じられるようになってきている」、その結果「一九八〇年代に提起される家庭内暴力問題においては、むしろ、家族単位のそれとして、家族内個人抑圧的に機能してきた」として、プライバシー概念の自己決定権とは異質な団体主義的性格についての問題指摘(15)にも留意する必要がある。

  ロ.私的自治と自己決定権    自己決定権は、自らの問題は自らが決めるという理念において、近代法パラダイムの基本要素である私的自治と極めて近しい関係にある。両者が、「自己に関する法的関係の意思による自律的な形成」という基本理念において共通していることはそのとおりであるが、他面において、以下のような点で異なる側面をも有している。まず第一に、妥当領域が自己決定権においては私的自治よりも大きく広がっている。すなわち、私的自治は主要には私法上の、さらに言えば、財産取引上の問題領域に関する理念であったが、自己決定権は、前述したように、それにとどまらない、人の全生活領域において語られている。また、私的自治は私法に関する原理として理解されてきたが、自己決定権は、前述した第三のもの、すなわち、生活の場や地域、国家等の秩序形成に関するそれを除いたとしても、私法関係に限定されるものではない。むしろ公の私への介入によって生じた公法と私法の融合現象の中から出てきたものとも言える。第二に、両者は、それが念頭に置く人間像が異なる。すなわち、近代法の基本原則である私的自治は、独立した自由な人間、自己決定しうる能力と地位を有する「強く」「賢い」人間(16)を念頭においているのに対し、自己決定権の場合そのような能力を必ずしも十全には有しないが、保護の対象としての「弱い」「愚かな」人間(17)でもなく、自立と自律を希求する現代社会の普通の人間を前提として、能力の差や置かれている状況の困難にもかかわらず主体的に幸福を追求しようとするこのような「ありのままの個人(18)」の自己決定をどう保障するかという形で議論がなされる。

  ハ.人間の尊厳と自己決定権    自己決定権は、通常、憲法一三条の幸福追求権ないし人間の尊厳の理念との関連で位置づけられる。例えば、「『人間の尊厳』理念の諸側面のうち、労働法にとって、自己決定の理念、すなわち人は自らにかかわることを自ら決定するか、少なくともその決定に関与する可能性をもつべきだとする理念がきわめて重要な意義をもつと考える」として、人間の尊厳理念の極めて重要な意義を持つ「側面」として自己決定権を位置づける見解(19)や、「人権の神髄は自己実現の権利にある」として、自己決定権を自己実現という実体的価値から位置づける論もある(20)。自己決定権を人間の尊厳といったいわば実体的価値理念を含んだもの、ないしその一側面として理解するこのような見解に対し、自己決定権は手続的正義に基くものであり、「実体的価値は指示していない」とする見解がある(21)。もちろんこの後者の立場にあっても、自己決定権を人間の尊厳とは関係がないものと位置づけているというわけではなく、そのような手続的正義を重視すべきという考え方が人間の尊厳という基底的価値理念から由来することについては異論はあるまい。したがって両者の差はほとんどとるに足りないものかもしれないが、後述するように、自己決定権を保護法益として正面から認める判決例が現れてきていることから見て、手続的権利にとどまらない側面、それ自体が人間の尊厳に基づく実体的価値を有する側面は軽視できないのではないか(22)


(1)  「一九九七年私法学会民法部会シンポジウム資料」一九頁。

(2)  吉田前掲論文法律時報七〇巻三号八三頁以下。

(3)  笹倉秀夫「自己決定権とは何か」松本他編『現代社会と自己決定権』四頁以下。

(4)  西谷敏「労働法における自己決定の理念」法律時報六六巻九号二七頁以下。

(5)  松原隆一郎「ウオッチ論潮」朝日新聞一九九八年七月二九日付夕刊。

(6)  ただし、自己決定権によっては、以上いずれの場においても問題となるものがある。例えば家族の問題は、家族という私的な領域の問題という意味では第一の問題であるが、家族構成員の相互関係(夫婦・親子等)のありようの問題と見れば第二の問題となり、家族という社会の基礎単位形成のあり方が問題となるという点では第三にも関連している。したがって、同じ家族の問題といっても、例えば、同性婚をどう見るかといった私的な生活スタイルに関する場合と、家庭内暴力をどうするかといった家族内部における人間関係のありように関する場合で、相対的に異なる議論が可能であり、またそうすべきであろう。

(7)  NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造(第四版)』(日本放送出版協会一九九八年)二〇七頁以下。

(8)  瀬川信久「『豊かな』社会の出現と私法学の課題」法の科学一九号一〇八頁は、高度成長によって作り出された大量の中間層が、最低限の生活条件を越える部分について選択の自由を求めるようになったとしており、西谷前掲書二三頁以下も、高度成長による労働者生活の変化が労働者意識の変化(私生活重視と契約意識の浸透、集団主義の後退と個人主義の強化)を生んでいったことを指摘している。

(9)  吉田前掲論文法律時報七〇巻三号八三頁は、社会の隅々にまで介入するパターナリスティックな現代国家が出現し、それに対抗して自らの生活空間を自らの意思で形成していく権利としての自己決定権が登場したと述べており、佐藤前掲論文一〇頁も、現代国家のアンビヴァレントな状況(福祉国家状況と管理化国家的状況)が、自律を基礎とする人権論の背景にあることを指摘している。

(10)  わが国の自己決定権論のパイオニアである山田卓生も、現代社会において、「行政上の都合とか、能率至上の画一的取扱いのために、個人の自由を制限する傾向が強くなりつつある」ことが、自己決定の意味を重要なものにしていると、背景的状況について同様の認識を示している(前掲書三三六頁)。

(11)  吉田前掲論文法律時報七〇巻三号八二頁。

(12)  「新自由主義」による規制緩和論については、本間重紀『暴走する資本主義』(花伝社一九九八年)が厳しい批判を加えている。

(13)  内野正幸「自己決定権と平等」『岩波講座現代の法14』一二頁以下は、「自己決定権=行為権」「プライバシー権=状態権」とする。

(14)  松井茂記「自己決定権」長谷部恭男編著『リーディングズ現代の憲法』(日本評論社一九九五年)五九頁。

(15)  中山道子「自己決定と死」『岩波講座現代の法14』一〇二頁以下。

(16)  星野英一「私法における人間」『岩波講座基本法学1』(岩波書店一九八三年)一三八頁。

(17)  星野前掲論文一五四頁。

(18)  笹倉秀夫「基本的人権の今日的意味」社会福祉研究七〇号一八頁。

(19)  西谷前掲書七五頁。

(20)  江橋崇『岩波講座現代の法14』はじめに秩B

(21)  一九九七年度私法学会民法部会シンポでの吉田克己発言(私法六〇号七二頁)。

(22)  なお、自己決定権そのものが人間の尊厳という実体的価値を内在するととらえるか、それは人間の尊厳から由来はするがそれ自体は手続的正義と見るかは、自己決定権の限界を考える場合に、限界づけの論理において差異をもたらすと思われるが、その点については後に再論する。



二  自己決定権の条件−「保護」と「支援」


  自己決定権の人間像を前述のようにとらえた場合、その実現に何らかの「保護」が必要となる。なぜなら、「ありのままの個人」はその能力(人的、経済的、社会的)において様々であり、独立して自由に自己決定をなしうる能力が欠落している個人に、抽象的に自己決定権の保障を語るだけでは、かえって自己決定ができないという矛盾した状況が存在するからである。このことは、特に、ある個人が他者との法律関係を形成する場面での自己決定権において顕著である。例えば、もしかりに、消費者取引に対する様々な法的規制がなく消費者が自己決定するにまかせておいて消費者問題は解決するだろうか。労働問題を例にとれば、残業について一切の規制がなく労働者と使用者との個別的話し合いで決まるとした場合、残業をしたくないと考えた労働者が(自己決定として)残業を拒否することは実際上不可能だろう。このような、交渉力において大きな格差があるものの間で、自由にしておくこと(放置)は、結局、消費者や労働者の真の自己決定を不可能にすることになってしまう。したがって、このような場合、自己決定権を現実に保障するためには、能力や交渉力において欠けるところがある「ありのままの個人」を「保護」しその自己決定をなしうる条件を作っていく必要がある。これは、通常、消費者保護や労働者保護といわれる問題であるが、自己決定権との関係で問題となるのは、これらの「保護」が、被保護者の自立を抑圧するものではなくそれを「支援」するものでなければならないということである。すなわち、消費者や労働者等を弱者としてとらえてその利益を保護することだけが重要なのではなく、これらの者が、自立した人間として自己決定権を行使し、そのことによって自らの利益を実現しうるような措置こそが必要なのである。

  一方的な「弱者保護」の思想を排し自己決定や意思自律の現代的意義を強調する論者も、その多くは、「ありのままの個人」をあるがままに市場や取引・交渉の場に放り出すのではなく、実質的な自己決定が可能となるための措置の必要性を強調する。例えば、医療契約における医師の説明義務は、患者が真の自己決定をなしうるための情報の提供義務であり、だからこそ、説明義務を尽くすことにより十分な情報を与えられた自己決定(いわゆるインフォームド・コンセント)のみが患者を拘束すると解されるのであり、消費者問題において、約款に「取り入れ要件」と「原則的な内容的コントロール」を結び付けることにより意思自治の支配する契約の法理に引きつけて対処しようとする説(1)や、民法の強行規定を自己決定の実質的な貫徹保障として理解する説(2)も、それだけでは自己決定の貫徹が困難な消費者契約において、それが可能となる方向で制度的理論的仕組みを考えるものとして位置づけることができる。さらに、民法以外の分野に目を向ければ、労働法において自己決定権を重視する論者も、労働者保護規定を「使用者の恣意的決定を排斥し、妥当な労働条件を確保することによって、自己決定を実質化する機能を果たしている」もの(3)とし、自己決定権の条件としての労働者保護規定の意義を確認している(4)

  自己決定の条件という視点から注目すべきものとして、成年後見制度に関する近時の議論がある。すなわち、今日、高齢等の理由で自己の財産を適切に運用する上で困難を有する人が増加してきているが、日本の法律は、このようなケースにおいて適切に活用しうる制度を有していない。わが国の民法における判断能力に劣る人の保護のための制度としては行為無能力制度があるが、それには、適用(宣告基準)が画一的であるため多様な種類の判断能力におけるハンディを持った人々に適用できないという弱点がある。さらに、本稿との関連で重要なことは、従来の行為無能力制度が、判断能力に劣る者から行為能力を「剥奪」した上で「保護」を与えるという考え方に立っていることである。すなわち、現行制度では、無能力者は自立して行為する資格(行為能力)を奪われ、その代わりに保護者(後見人や保佐人)が付けられるのであり、そこには、無能力者の保護はあっても、できるだけ無能力者の自己決定を尊重し、あるいは残存能力を生かすという発想はない。

  現在、法制審が「成年後見制度改正要綱試案」を発表している段階だが、そこで注目すべきは、新制度がその基本理念を「自己決定の尊重」「残存能力の活用」「ノーマライゼーション」等の新しい理念と従来の本人保護との調和において構想されようとしていることである。例えば、新たに設けられる「補助類型」において補助人の同意が必要とされる行為の範囲を本人の申立によらしめたり、あるいは、現在の禁治産にあたる「後見類型」においても日常生活に必要な範囲の行為については取消権の対象から除外するなど、前述の理念の具体化が意図されている。要綱試案については、例えば、原則として本人から何ら能力を剥奪することなく自立に向けた保護を与えるドイツの世話法などと異なり、なお自己決定への配慮が十分ではないとの批判もあり、また、無能力者に与えられる保護は、自立や自己決定と調和とるべきもの、その意味で自己決定とは外在的な(相対立する)ものとされている点など、論ずべき課題は少なくないが、ここでは、判断能力に劣る者から行為能力を剥奪して一方的に保護するという従来の考え方とは異なる方向性での立法論議がなされていることに着目しておきたい(5)

  自己決定権の条件という問題に関して、民事特別法の特質を論ずる中で、近代民法の原理である個人の自律的意思主体性との距離を基準として、それらを三つのタイプに分類した上で、「支援された自律」という法技術思想を析出した森田修の主張(6)が注目される。森田があげる民事特別法の三つのタイポロジーとは次のようなものである。@民法典の意思自律の原理を否定するもの。例えば、借地借家法の法定更新制度(建物賃貸借における当事者間の経済的地位の格差に着目し賃借人に定型的に保護を与えるものであり、契約締結段階での意思自律の原理は断念されている)等。A意思自律の前提条件(情報の提供等)の確保のための法的措置を採りつつ意思自律の原理を堅持する類型。例えば、成年後見法案(判断能力に劣る者にその残存能力を尊重しつつ劣る部分を個別的に支援することにより意思自律の再建をめざすという方向での議論)や消費者契約適正化法案(情報提供義務を一般的に宣言し、意思自律の原理の前提としての情報の提供を問題にしている点)等。B意思自律の前提の実質性を問題にすることなく意思自律を強調する類型。例えば、定期借家法案(借地借家法の規律を任意規定化することで契約自由の原則を復活させるが、家主借家人間の交渉力の格差を問題にするという視点は欠落させたまま自己責任を強調している)等。ここで着目すべきはもちろん第二のタイプ、すなわち、「市場に参加する者一般に、自律的意思主体性を形式的に措定するのではなく、これらの者の情報・判断能力等に格差のあることを具体的に承認」しつつ、しかし意思自律の原理を否定するのではなく「再建されるべき価値理念として積極的に位置づけ、そのために個別的な調整的介入がなされ」るという法技術的思想に基づく民事特別法のタイプである。なぜなら、前述の自己決定権の実質化の条件や「支援」についてなされる主張はまさに、森田の言う「支援された自律」あるいは「自律に対する支援」の主張として位置づけることが可能だからである。

  このように、自己決定権の主張には、自己決定を支援する措置(自己決定の条件)のありようと関連付けた議論が必要なのだが、「弱者保護」の名の下に一方で保護を与えつつ他方で自律の条件を実質的に抑圧する措置ではなく、しかし同時に、自己決定の重視の名の下に自律の条件を考慮しないで「ありのままの個人」を市場や取引・交渉に向かわせることがないような制度を設計することは、現実には相当に困難である。なぜなら、森田も指摘するように(7)、支援が形式的になれば「支援された自律」は定期借家法案のような支援なき自律に転化し、逆に、支援の実質化が進めばそれは意思自律の否定としての保護に転化してしまうというディレンマを常に抱えているからである。森田はこのことから、意思自律の再建に向けた支援という方向性にむしろ懐疑的な態度を示唆しているが、いずれにしても、自己決定権の主張に現代的な意義を付与するためにはその条件を再建するための「自律に向けた支援」が必要なこと、そしてそれは、自己責任の強調による保護の切り捨てと支援の拡大による意思の自律の否定という両極へのブレのおそれをともなったものであることは確認しておくべきであろう(8)


(1)  原島前掲『現代契約法大系一巻』論文六八頁、他。

(2)  石田前掲書三五頁。

(3)  土田道夫「労働者保護法と自己決定」法律時報六六巻九号五七頁。

(4)  星野前掲論文一五七頁は、集団的労働法、消費者保護法における情報提供義務は「法的人格平等の原則を堅持しつつ行われる」保護であり、「保護のしかたも、\\個人が自ら力を得、その力を用いて自らの自由意思に基づいて行動するようにはかる」ものであるとする。

(5)  成年後見制度に関する議論については多数の文献があるが、さしあたりは、前掲特集ジュリスト一一四一号や、「『成年後見問題研究会報告書』(法務省民事局)について」判例タイムズ九六一号四頁以下の諸論文等参照。

(6)  森田修「民法典と個別政策立法」『岩波講座現代の法4』(岩波書店一九九八年)一一四頁以下。

(7)  森田前掲論文一三二頁。

(8)  なお、本稿では全く検討できなかったが、自律の「支援」として、法による(国家の)「支援」の他にも多様な主体と形態のものがありうる(ボランティア組織による障害者の「支援」、消費者運動による消費者の権利実現、様々の中間団体の役割、さらには地域における相互援助等々)のであり、国家による「支援」とこのような多様な「支援」を自己決定の条件としてどう組み合わせて行くかが重要な課題となる。



三  自己決定権の限界


  自己決定権に関する難問として、「自己の人格の自律や尊厳を害する決定」を自己決定権の名において許容することができるか(例えば、奴隷となる契約や自殺を依頼する契約が自己決定として認められるか)という問題がある。それをも自己決定権の範囲だとする議論もありうるが、一般には、そのような決定は自己決定権の範囲外であり、公序良俗違反あるいは違法、少なくとも法的保護を受けえないと考えられるであろう。つまり、自己決定権は自己の生活領域(自分に関する事柄)を自由に形成する権利だが、それには(人が社会的存在である以上)何らかの制限があると考えられるのである(1)。それではその限界とは何か。さしあたりここでは、次の二つの種類に自己決定権の限界に関する議論を整理しておきたい。まず第一に、他者の利益との関係における限界、すなわち、他者の利益を害しないという意味での限界である。この限界はある意味で当然の限界のようだが、これを考える際には、他者の具体的な利益を侵害する場合と他人に単に不快な気分を抱かせるだけの行為を区別すべきであろう。

  しかし、自己決定権の限界はそれだけにとどまらない。われわれが何らかの社会秩序を形成しその中で暮らしている以上、そこにおける諸価値やその総体(ここではそれを「公序(パブリックオーダー)」と呼ぶことにする)との緊張関係という意味での限界は避けがたい。例えば、自殺や「自己危殆化」行為における自己決定権と生命・人間の尊厳との緊張関係といった問題である。夫婦別姓等の近時の家族法をめぐる議論をこの視点から整理することも可能である。一九九六年二月に法制審は、いわゆる選択別姓制度の導入を提案したが、この改正案に対して組織的な反対運動が起こり、現時点でも立法化されていない。反対運動が一定程度盛り上がったのには次のような理由があるのではないか。すなわち、別姓を選択できるという制度は、単に、旧姓が使用できるというレベルのものではなく、家族(婚姻)の中で個人の尊厳や自由、夫婦の対等性をより重視するものであり、さらに同姓夫婦と別姓夫婦の(当事者の自己決定による)併存を認める点で、家族の多様性の方向に足を踏み出すという、いわば、夫婦や家族の新しいあり方にもかかわってくる内容(価値理念)を含むものである。しかし、家族をめぐる今日の複雑な状況の中で、このような新しい家族のあり方については、なお、漠然としたものではあれ、一定の不安が国民の中に存在することは事実であり、そのような不安に響くところが反対運動の主張にあったのではないか。つまり、これは、家族のあり方という公序との接点に位置づけられる問題でもあるのである(2)。筆者自身は、姓の問題は個人の自己決定に委ねるべきであり、そのような、個人の自己決定の多様性を許容する方向で新しい家族のありかたが形成されるのが本来望ましく、少なくとも、別姓夫婦を含み込んだ家族のあり方が、今後のあるべき公序と矛盾するものではないと考えるが、しかし同時に、家族のあり方の中には、自己決定に委ねることができない部分があることも否定できない。問題を鮮明にする意味で、個人の自己決定を家族の問題で徹底する安念潤司の「契約型家族論」について触れておきたい。安念は、「各人の自己決定権を尊重するのであれば、個人が誰といかなる結合関係を取り結ぶかを各人の自由に委ね、ある特別の結合関係だけを抽出して特別の法規整を加えることを断念すべきなのではなかろうか。その場合、法律の役割は、最小限に止まるべきであり、結局は、各人の自由な合意に法的効力を認めるべきであろう」として、以下のような家族観を提唱する(3)。@婚姻の無条件性無期限性の否定(パートナー以外の人に愛情を感じた場合は共同生活を終了させるといった合意も可能)、A婚姻の相手方についての制限は不要(同性や近親者との共同生活も肯定)、B同居義務や貞操義務も合意による、C婚姻の解消、扶養、相続も契約による、Dこの結果、民法第四編五編は(当事者間の自由な合意だけに委ねることが不可能な胎児、未成熟子等の事項を除いて)不要となる。

  この主張は、家族という法制度そのものへの懐疑とも言うべきものであり、家族に関する自己決定をここまで徹底させた場合、家族のあり方に関する公序(これ自体が今日流動的であり、その内実についての吟味が必要なことはいうまでもないが)と厳しい緊張関係が生ずるのではないか。これに対し、水野紀子は、非嫡出子の問題にかかわって、「家庭が子の幼い日々を守る暖かい繭としての機能を果たすためには、法が家庭を守らなければならない。この法の保護がないと、母と子は父に捨てられる危険が高まるだろう。\\個人の尊厳を守ることがなにより重要な原則であるという現代の前提に立てば、嫡出家族についても実際にどのような家族生活を送るかという側面については民法は謙抑的でなければならない。\\しかし民法において家族間の関係を規律する、とりわけ紛争時に弱者が保護されるように権利義務の関係を規定することの必要性は、否定されるものではなかろう」と述べて「法律婚」の意義を強調している(4)。いずれにしてもこの問題は、家族という私的な事柄に対する国家や法によるパターナリスティックな介入の限界の問題として論じられているが、実はそこで問題となっているのは家族という公序のあり方との関係、すなわち、それはどこまで個人の自由な決定に委ねられるのか、どこからは公序の問題として法が介入しうるかなのである。

  このように、自己決定権の限界の問題として、公序との関係は困難な問題を提示することになる。問題はおそらく自己決定権と公序一般の問題ではなく、前述の家族の問題を例にとって言えば、家族関係一般の問題ではなく、個別具体的に(例えば子の扶養をめぐって、離婚給付をめぐって、等々)検討すべきなのであろう。なお、繰り返しになるが、この意味での限界を考える場合、自己決定権登場の背景に既存の公序の揺らぎがある以上、自己決定権の限界としての公序は必ずしも一義的なものではないことに十分留意すべきである。


(1)  この点に関して、前述した、自己決定権を手続的正義に関するものとする考え方と、自己決定権自体が人間の尊厳等の実体的価値の一部と見る考え方では、限界づけの論理が異なってくるように思われる。すなわち、それを手続的正義とした場合、「奴隷契約」のような決定に対しては、手続としての自己決定権を人間の尊厳といった実体的価値理念によって限界づけるという論理となろう。自己決定権の手続的権利性を説く吉田克己は、実体的価値を内容とする人格的利益と一定の事項に関する自己決定という手続ないしプロセスの価値を区別し、後者の制約は常にその対象との関係において(「何に対するこれこれの自己決定権の制約は認められるか」)という形でしか問題を立てられないとする(吉田前掲論文法律時報六九巻九号六三頁)。これに対し、自己決定権を実体的理念の一部ととらえた場合、「奴隷契約」のような人間の尊厳を害する自己決定は「真の自己決定」ではないといった論理で否定することになるのではないか。なぜなら、自己決定それ自体が人間の尊厳等に含まれる価値理念である以上、それをあらためて人間の尊厳等の価値で限界づけることは(論理的には)困難であると考えられるからである。西谷敏の、「真正の自己決定」と「強いられた自己決定」の二重構造において労働者の自己決定をとらえた上で可能な限り前者の実現に努めるという考え方(西谷前掲書八二頁以下)は、まさにそのような論理ではないか。

(2)  一九九七年度私法学会民法部会シンポジウム吉田克己報告(私法六〇号二二頁)は、「選択的」別姓がまさに「選択的」であるがゆえに、公序としての家族の相対化という家族のあり方についてのパラダイム自体の変更につながる性質を持つことを指摘している(より詳細には吉田前掲論文法律時報六九巻一二号五九頁以下参照)。

(3)  安念潤司「家族形成と自己決定」『岩波講座現代の法14』一三五頁以下。

(4)  水野紀子「団体としての家族」ジュリスト一一二六号七六頁。



四  自己決定権と不法行為法


(1)  問題の整理

  以上のラフな検討を踏まえて、問題を具体的なものにするために、筆者の専門領域である不法行為法の視点から自己決定権の意味を考えてみよう。その際、不法行為において自己決定権が問題となる場面を整理しておく必要がある。自己決定権の侵害が損害賠償責任の根拠として問題になる典型的な紛争事例は医療紛争である。 すなわち、医療における医師の説明と同意(インフォームド・コンセント)にかかわって、それが患者の自己決定権に基づくものとして論じられるのである(1)。さらに、取引行為を媒介にして消費者に損害が発生するいわゆる「取引的不法行為」においても、消費者の自己決定権が語られることがある(2)。例えば、投機的取引への消費者の勧誘行為において、業者やセールスマンがその取引のリスクを説明しなかったことが消費者の自己決定権を侵害したことになるのではないかといった議論である(3)。これらの問題において自己決定権が問題になる場面が大きく二つに分かれることに注意すべきである。すなわち、第一は、自己決定権が医者や業者の説明義務ないし情報提供義務の根拠付けとして援用される場合である。この種の自己決定権の援用は、手術についての患者の承諾(同意)は自己決定権の見地から患者が十分な説明を受けた上でのものでなければならないとして、説明が欠如ないし不十分な場合に医師に説明義務違反としての責任を課すもの等、多数の事例に上る(4)。ここでは、医師と患者、業者と消費者といった社会的経済的情報的に非対称的な当事者間で、その非対称性を緩和するために説明義務や情報提供義務が重視され、そのような義務の根拠として自己決定権が語られるのである。

  しかし、このような(医師や業者の説明義務等の根拠付けとなるという意味で)いわば間接的な自己決定権侵害事例と異なり、自己決定権そのものが、名誉やプライバシー等の他の人格権(ないし人格的利益)と同様に、損害賠償法上の被侵害法益として認められる事例も存在する。この点で注目すべきは、肝臓ガンの手術において宗教上の理由から輸血を拒否していた患者に対し、手術中に予想を上回る出血があったことから承諾なく輸血を行ったケースにつき、(患者はその後五年間延命したので手術自体は成功したと見るべきであろうが)その医師の行為は患者の自己決定権侵害にあたるとして慰謝料(五〇万円)を認め、自己決定権を損害賠償により保護される法益として正面から認めた判決である(東京高判平一〇・二・九判例時報一六二九号三四頁)。もちろんこれまでも、妊婦が妊娠初期に風疹に罹患し重篤な障害児を出産したケースにおいて、風疹罹患の有無とその時期の適切な診断を怠ったことにつき医師の過失を認めた上で、原告ら(その子の両親)の「自己決定の利益」が侵害されたとして各四五〇万円の慰謝料を認容した判決(東京地判平四・七・八判例時報一四六八号一一六頁)や、脳動静脈奇形の全摘出手術を受けて重篤な障害が残った原告の請求に対し、医師らに治療方法の選択等の過失は認められないが、手術の危険性や必要性についての説明が不十分であり、そのため患者は「自らの権利と責任において、自己の疾患についての治療を、ひいては自らの人生そのものを真しに決定する機会が奪われた」として、そのことに対する慰謝料一六〇〇万円を認めた判決(東京地判平八・六・二一判例時報一五九〇号九〇頁)などが存在した。しかし、これらのケースは、例えば前者においては原告が、障害児の出産にともなって発生する諸々の財産的損害(医療費のみならず重度の障害を有する子の将来の付添看護費を含む)や重度の障害児の世話に忙殺されることによる慰謝料等をも請求したのに対し、「先天性障害児を中絶することとそれを育て上げることとの間において財産上又は精神的苦痛の比較をして損害を論じることは、およそ法の世界を超えたもの」であるとして、いわば問題を「自己決定の利益」に限定して保護を与えたものであり、さらに後者についても、原告は手術によって発生した重篤な障害に対する補償を求めたのに対し、医師には手術に関して過失はなく、しかも、発生した障害と医師の説明義務違反の間に相当因果関係が求められないと判断したため、ここでもやはり、問題が「自己決定の機会」の喪失に限定されたものとなったのである。これに対し、前述の東京高判の最大の特徴は、原告の請求においても純粋に自己決定権侵害が賠償を求める被害としてすえられ、裁判所も、それに対する保護を正面から認めたことである。

(2)  不法行為法による自己決定権「保護」の意義と課題

  不法行為法により自己決定権が保護されることは、以下の二つの意味で重要な意義を有する。まず第一に、自己決定権をよりどころに説明義務や情報提供義務が確立されることは、自己決定権実質化のための有力な「支援」の法的技術が確立されることを意味する。また、自己決定権そのものが不法行為の保護法益とされることは、名誉やプライバシー等の人格権や日照権がそうであったように、それが権利として法的社会的に認知されることにつながる(不法行為の権利生成機能)。さらに、前述の「保護」と「支援」の関係という視点から見た場合、不法行為による保護には、裁判所という国家機構が関与する面はあるものの、あくまで本人(被害者)がそのイニシアティヴをとる点では、自立を抑圧するおそれのある国家の後見的関与とは異なるというメリットが存在する。

  他方、自己決定権侵害の不法行為上の保護を考える場合、深めなければならない課題も少なくない。ここでは問題のみを指摘しておく。まず第一は、自己決定権侵害の場合の違法性判断の微妙さについてである。すなわち、自己決定権は、生命・身体等と比べた場合はもちろん、名誉やプライバシー等と比較しても、その内容的明確性に欠けるところがある。特に、それが何についての自己決定か(例えば、生命・身体に関するものか、財産的利益に関するものか)によって保護される度合いは異なってくる。したがって、当該ケースにおいて自己決定権侵害があったのか、そしてそれは不法行為法上保護される要件(違法性)を備えているかについては、多様な要素の総合的な判断が必要である。さらに、自己決定権侵害については、前述したように、公序との関係が重要な意味を持ってくる。すなわち、当該事項に関して果たして当事者の自己決定に全面的にゆだねることができるかどうかが公序との関係で問われなければならない場合が存在しうるのである。前述の東京高判の事案においては、原審である東京地裁は、救命のための輸血は社会的正当行為であるとして原告の訴えを棄却した(東京地判平九・三・一二判例タイムズ九六四号八二頁)が、それは、人の生命保護(という公序)は当事者の自己決定に優先するとの判断によっている。これに対し東京高判は、この自己決定は他人の権利を害するものではないことや、輸血療法に対する医療の側の実態や法律学における議論等から見て公共の利益ないし秩序を侵害するものではないとして、このようなケースで輸血を拒否するという自己決定は保護されうるとの判断を示したのである。いずれにせよ、公序との緊張関係は自己決定権侵害の違法性判断において困難な問題をもたらすことがあることは否定できない(5)

  自己決定権と不法行為に関するもう一つの難問は損害賠償論、すなわち、その侵害に対しどのような賠償が与えられるべきかという問題である(6)。今後なお検討すべき点は多いが、ここではさしあたり、自己決定権侵害が不法行為上問題になる二つの場合に分けて、次のように考えておきたい。すなわち、自己決定権が説明義務等の根拠となっている場合は、その義務がどのような利益を保護していたのか(義務射程論)、あるいは、それらの義務違反行為と相当因果関係がある損害は何か(相当因果関係説)といった判断によって賠償すべき損害の範囲が決まると見ることができよう。ただし、自己決定権の場合、例えば、十分な説明がなされればそのような取引をしなかったであろうというように本人の意思に基づく決定が介在すること、義務違反と損害発生(逆にいえば義務遵守と損害回避)の蓋然性には幅があることから、今日の通説である事実的因果関係と賠償範囲の区別という枠組みで対応できるかどうかについてはなお慎重な検討がいる(7)

  第二に、自己決定権侵害そのものが損害となっている場合は、名誉やプライバシー等の他の人格権侵害と同様、基本的には慰謝料の問題となろう。しかし、問題は、わが国の人格権侵害の場合の慰謝料が低額だということである。特に、慰謝料以外に逸失利益等の財産的損害に対する賠償もあわせて認められる人身被害と異なり、もっぱら慰謝料のみが認められる名誉等の侵害の場合が、かえって格段に低額であるという、ある意味で矛盾した状況にさえある。そのような状況からすれば、前述の東京高判の五〇万円も決して際立って低い額ということにはならないのかもしれないが、この程度のいわば象徴的な金額では、今後同様のケースで医療関係者に説明義務の履行を促す効果は少なすぎると言えるのではないか(8)。あらためて、わが国の慰謝料のあり方、とりわけ、人格権ないし人格的利益が侵害され精神的損害のみが発生した場合のそれについては根本的な再検討が必要なように思われる(9)


(1)  医療における議論については樋口前掲論文や、吉田邦彦「近時のインフォームド・コンセント論への一疑問」民商法雑誌一一〇巻二、三号等参照。

(2)  この問題については、錦織成史「取引的不法行為における自己決定権侵害」ジュリスト一〇八六号八六頁参照。

(3)  医療紛争や消費者紛争においては、それが不法行為ではなく契約責任として議論がなされることが多い。しかし、以下で検討する患者や消費者の自己決定権と損害賠償の問題は、不法行為構成か契約構成かによって本質的な差は生じないものと考え、ここでは両者を厳密に区別しないで検討を進めたい(同旨、窪田充見「人格権侵害と損害賠償」民商法雑誌一一六巻四・五号八〇頁)。

(4)樋口前掲論文七五頁以下が、このような意味での自己決定権侵害の典型事例をあげている。

(5)  なお、注意すべきは、ここでの公序の問題は、公害差止訴訟などにおいて差止めをしりぞける根拠として持ち出される公共性とは次元が異なるということである。すなわち、差止めにおける公共性は、被害者の利益と加害者の利益が差止めの可否をめぐって対立した場合に、加害行為の側から加害行為の違法性を阻却ないし減殺するものとして現れるのに対し、ここでは、自己決定ができなかった被害者にそもそも法的に保護に値する利益(自己決定権)があるのか、そのような問題に関する自己決定は公序が許容するのかという点が問題になる。

(6)  窪田前掲論文七六頁以下や、松浦以津子「損害論の『あらたな』展開」淡路剛久・伊藤高義・宇佐見大司編『不法行為法の現代的課題と展開』(日本評論社一九九五年)九五頁以下がこの問題を検討している。

(7)  通説たる因果関係の二分論については、松浦以津子「因果関係」『新・現代損害賠償法講座一巻』(日本評論社一九九七年)一三一頁、淡路剛久「差額説・相当因果関係説による不法行為損害論の近時の動向」『新・現代損害賠償法講座六巻』(日本評論社一九九八年)二頁が、その再検討の必要性を指摘し、さらに水野謙「不法行為帰責論の再構成・序説」北大法学論集四七巻五号−四九巻四号が本格的な検討を行っている。

(8)  樋口範雄「輸血拒否患者への無断輸血と自己決定権の侵害」法学教室二一五号一〇九頁が同様の指摘をする。なお、本稿脱稿後に接した手嶋豊の本判決評釈(判例評論四七七号(判例時報一六四九号)四三頁)も、判決の賠償額算定のあり方について疑問を呈している。

(9)  この点で、脳手術で重篤な障害が残った原告に説明義務違反による「自らの人生(を)\\決定する機会」剥奪に対し一六〇〇万円という「高額」の慰謝料を認めた前掲東京地判(判例時報一五九〇号九〇頁)は注目されてよい。ただしこの判決は、重篤な障害と被告の説明義務違反の間には相当因果関係がないとしつつ、慰謝料の算定にあたっては重篤な障害に陥っていることをも考慮要因としてあげており、自己決定権の純粋な「価値」として一六〇〇万円を認めたと見ることにはためらいが残る。



おわりに


  自己決定権は、語られる場の広がりや人間像の変化等の点では、近代法の基本原理である私的自治や意思自律と同じではない。しかし、「自立した市民が自律的に形成する社会」という理念としては共通している。その意味で、自己決定権は、近代市民法の発展、近代法パラダイムの現代化としてとらえることができ、現代社会の規範原理を構想する上で、まず出発点となるべきものであると考えたい(1)。もちろん、このようなとらえ方には批判がある。すなわち、一方では、自己決定権の重視は「新自由主義」のイデオロギーあるいは「古典的市民法」への回帰であり、「自己決定=自己責任」の強調は市民の安全や公正な取引秩序を守るための規制の緩和や保護の後退につながるとの批判がありうる。他方、自己決定を現代社会における多様性、選択自由の徹底した拡大としてとらえた上で、それを個人の自律や意思、人間の尊厳といった近代法に由来する価値理念から導き出すことに対する批判もある。例えば村上淳一は、一九九七年度の私法学会民法部会シンポジウムにおいて、「自己決定権」「自律と自由」「自律的人格」「人間の尊厳」といった価値理念を掲げることにより近代法の基本構造を維持しながら転換期を乗り越えて行けるという発想に疑問を持つとしつつ、自己決定を言うなら自律的人格などというものにこだわらず、むしろ徹底した価値の多様性を承認し、フレクシブルな法的決定を可能にするためにできるだけ多くの選択肢を用意することがこれからの法律学の任務だと主張している(2)。前述した安念の家族法論もおそらくこのような方向を目指すものと思われる。また、何らかの意味での「共同性」を重視する点で、これらと、向かおうとする方向は同じではないが、医療問題に関して、自己決定は「強く賢い、自律的人間像」に基づく権利中心的で啓蒙的近代法思想の色彩が強く、そのような医者・患者関係を一般的なモデルとすることには問題があるとする主張(3)や、多くの患者が望んでいるのは治療の成功ないし適切な措置であり自己決定そのものではないとする指摘(4)も、自己決定権の持つ近代法パラダイムとの共通性に対する懐疑ないし批判として位置づけることが可能である。

  これらの批判は、これまで検討した現代社会における自己決定権の持つある種の危うさ(「公序」との限界の問題、「支援」ないし「保護」と自律の微妙なバランス)をつくものとして重みを持っている。とりわけ、いわゆるポストモダンからする私的自治や意思の自律といった近代的価値に対する懐疑ないし批判に答えることは容易なことではない。この問題については多面的な検討が必要であり、現在の筆者によくなしうるところでないが、検討の視点のみを提示すれば、まず第一に、自由や平等、個人の自律といった価値理念が持つ人類史的意義(と限界)といった視点からの検討が必要である。すなわち、これらの理念が西欧のある時期の理念という意味合いを超えた普遍的価値をどの程度持ちうるかという視点からの検討である。これに関しては、清水誠の一連の「市民社会」と「市民法」に関する主張(5)が参考になる。第二は、より民法学に即した検討として、私的自治や意思自律といった近代民法の理念が歴史的に有し、同時に、それが今日や将来においてなお有しうる意義についての検討である。その際、百年の歴史を数えるわが国の民法典が当時の社会状況の中で、どの程度、近代法の価値理念を写し取ることに成功したのか(6)、さらにその後の歴史の中で、とりわけ、戦後改革の中で、近代的な法理念と、社会権に代表されるような現代的な理念を同時に備えた憲法の改正が行われ、そして民法典が、家族法部分の全面改正に加え一条の二により「個人ノ尊厳ト両性ノ本質的平等」に基づく運用を明示したことによりどう変化したのか(7)といった検討も必要である。これについては、前述の清水の研究のほか、民法典の制定等の明治の諸改革、新憲法の施行や農地改革を経て一九六〇年代に定着した市民社会の基本秩序の一つとして「人格の尊重」「人間の尊厳」「個人の尊厳」といった標語的表現に示される「人格秩序」を措定する広中俊雄の議論(8)や、「市民社会の法としての民法」の基本理念は人権宣言のそれであり、「自由と平等」「博愛と連帯」といったこれらの理念は、それぞれに緊張関係をはらみつつ、しかも時代の変化による理念の変化や新しい理念の誕生を含み込みながら、より高次の理念としては将来に向けて基本的には普遍性を持ち続けるであろうとする見通しを語る最近の星野英一の主張(9)、さらには、「私人の権利義務を中心にすえて社会を構成しようとする思考様式」「人間性の探究に裏打ちされた自由・平等という価値の承認」などを含む「民法の思想」の今日的意義を説く大村敦志(10)や、「個人個人が自己のアイデンティティーを求めつつ、自ら『善い』と信ずる生き方を等しく追求できることが何よりもまず保障されねばならないという考え方、つまりリベラリズムの思想」を憲法一三条によって根拠づけて、その現代的意義を説く山本敬三の主張(11)等が注目される。第三に、これらの理念的な検討と合わせて必要なことは、消費者問題、医療問題、公害・環境問題といった個別具体的な問題において、これらの近代法的価値とその現代的発展形態がどのような有効性を持つかという視点からの検討である。この検討は、とりわけ民法学という解釈法学ないし実定法学の立場からは重要である。このような各論的検討と前述の二つの方向からの総論的ないし理念的検討を重ね合わせるところから、これらの価値の意義と限界、ひいては自己決定権とこれらの価値との関係や意義(および限界)もより鮮明になって来るものと思われる。

  以上のように、意思自律や私的自治といった近代法理念の今日的意義を明確にし、それとの連続線上で自己決定権の意味を考えるための課題は極めて重いものである。しかし、そのことを十分自覚しつつも、さしあたりここでは、自己決定権論台頭の背景で指摘した、一方での自立と自律を求める人々の法意識の高まりと他方でのそれを困難にする状況の進行、とりわけわが国における三重のパターナリズム(管理国家・企業社会・日本的画一主義)に抗して新しい社会のあり方とそれに向けた民法学の今後を構想するとすれば、市民の自立と自律を基本理念とする、近代法パラダイムの現代的発展としての自己決定権の追求は避けて通れない課題ではないかとする立場を私見として提示して本稿を終えることにしたい。しかし、繰り返し指摘したように、自己決定権は万能ではないのであり、@それが語られる場と内容に留意しつつ、Aそれが積極的意義を持ちうる場(逆に言えばその限界)を確定(画定)し、B「保護」ないし「支援」と自立・律の(きわどい)バランスをとりながら、C国家による「支援」、(NPOを含む様々の)中間団体の役割や地域社会のあり方等、多様な「支援」の組み合わせの中から、自己決定権(すなわち市民の自立と自律)の条件をさぐっていくことが必要である。


(1)  吉田前掲私法学会資料一九頁は、「自己決定権は\\個人の自律という近代法パラダイムが提示した価値を、現代社会の新たな状況に即して現実化しようとするものである」とし、笹倉前掲社会福祉研究七〇号一九頁も、自己決定権は近代市民法原理に基づくものであり、それは「止揚」されるべきものではなく、「市民法原理が今や徹底されつつあるのであって、近代法も社会法・経済法もそして新しい自己決定権も、その発展過程上にある」とする。

(2)  村上淳一私法六〇号五二頁以下。

(3)  吉田9845彦前掲論文民商法雑誌一一〇巻三号二三頁以下。

(4)  樋口前掲論文八七頁以下。

(5)  例えば清水は、自由・平等・友愛という理念に基づく近代市民社会の基本原理を「今日の人類にとっての当面の目標」、この「段階を十分経過しないで、その先へと進むことはできない」ものとする(清水誠『時代に挑む法律学』(日本評論社一九九二年)九頁)。

(6)  民法典がこの点で有する脆弱性を指摘するものとして、池田恒男「民法典の改正−前三編」広中俊雄=星野英一編『民法典の百年T』(有斐閣一九九八年)四六頁以下がある。

(7)  広中俊雄は、民法解釈方法論の視点から、民法一条の二の重要性を指摘している(『民法綱要第一巻』(創文社一九八九年)六三頁)。

(8)  広中前掲書一、一三頁等。

(9)  星野英一『民法のすすめ』(岩波新書一九九八年)一四二、二一一頁以下等。

(10)  大村敦志「民法と民法典を考える」民法研究一巻(一九九六年)一二六頁、他。

(11)  山本敬三「現代社会におけるリベラリズムと私的自治」法学論叢一三三巻五号五頁、他。