立命館法学  一九九八年五号(二六一号)


韓半島の統一と日本の役割  *

大久保 史郎




*  本稿は、一九九七年八月二三日に韓国の慶州で開催された国際シンポジウム『極東アジアの平和と韓半島の統一』における報告「韓半島の統一と日本の役割」である。準備不足のままの報告であったため、経緯を明らかにした上で、若干でも手直して公表する心づもりであったが、いたずらに時間を経過してしまった。この間、報告が韓国の「世界憲法研究」第二号(一六七頁、兪珍式、抄訳国際憲法學会韓国學会・一九九七年)に収録され、また、韓国政治研究会編「●●●●(※)」(政治批評)(一九九八年春号二五一頁・丁海亀全訳)(一九九八年九月)に掲載された。国外で何を発言したかを明らかにすることは私の社会的責任でもあると考え、立命館法学に掲載させていただくことにした。

  周知のように、九七年秋以降、韓国は金融・経済危機に直面して、いわゆるIMF管理下におかれ、激しい合理化・リストラに見舞われている。政治的には、九七年一二月の一五回大統領選挙で金大中氏が当選し、この政権の下で、南北関係も日韓関係もあらたな様相を呈しつつある。この状況変化が、「韓半島の統一と日本の役割」の今後にいかなる影響を及ぼすかを見守りつつ、私としては、本報告を出発点として、日韓関係おび東アジアの安全保障をめぐる憲法的諸問題の研究を試みたいと考えている。なお、報告に際して、次の発言を冒頭におこなった。

  「このシンポジウムへの招聘をソウル大学校法科大学の金哲洙教授から受けた際に、申し上げたように、私はごく普通の憲法研究者ではあっても、日韓関係はもちろん韓国近現代史についてはごく初歩的な知識しかもたず、この重く、重大なテーマを論じるだけの資格があるとは思っていません。しかし、戦前の植民地支配や日本の戦争責任をどのように考えるかは現在および将来の日本の課題であり、一憲法研究者であっても、避けることのできないテーマであると考え、この報告を引き受けました。与えられたテーマが『韓半島の統一と日本の役割』であることから、これまでの日韓の歴史経過を踏まえて、戦後日本で何が問題となり、現在、どのような状況にあるのか、東アジアの安全保障と今後の日韓関係に対する日本の課題は何かについて、私の基本的な考えと希望を述べることにします。」

 (※)該当漢字コード無しのため表示できず。

  

一  は  じ  め  に

  韓半島の統一は日本にとっていかなる意味を持つか。直ちに指摘されなければならないのは、韓半島の統一がアジア・太平洋の諸国や世界にとっていかなる意味をもつのであれ、また、韓半島の統一をめぐるどのような領域・側面・政治・経済・社会・文化そして東アジアの安全保障などを扱うのであれ、日本と韓国・朝鮮との関係に関する限り、両国固有の歴史経緯をぬきに何事も語ることができないことである。したがって、私は本日のテーマを過去・現在・将来という歴史的視点から、日本にとって韓半島の統一がいかなる意味をもつか、いかなる課題を私たちに与えるかを考えてみたい。

  次に、韓半島の統一にかかわる日本の役割を論じるためには、この韓半島の統一がいかなる性格のものか、すなわち、韓半島における南北分断と対立がいかなる原因で生まれ、どのような性格のものであったか、そして近い将来に現実になりうる韓半島の統一がいかなる性格のものであるかをを考えなければならない。じつは、この点に関する自覚的な認識が戦後および現在の日本に乏しいことが、この問題を論じる上での最大の障害なのである。それがなぜなのか、を考えなければならない。

  私は、五〇年以上にわたる韓半島の分断と対立は、まず、第一に日本の帝国主義支配に起因すること、そして、第二に、その植民地支配からの解放と独立、すなわち韓半島における国民的統合が現実の課題になった時点で、第二次世界大戦後の国際情勢、決定的には戦後世界の東西冷戦体制に組み込まれたために、その後の長期にわたる韓半島の分断と対立が生じたと考える。それから半世紀を経過した。私は、きたるべき韓半島の統一が近代国民国家の形成・回復というナショナリズムの面とその国家・社会がいかなる政治社会体制を選択するかという体制選択の両面を含んでいることに変わりがないと考える。この視点から若干の分析を試みることにしたい。とはいえ、この報告では日本の戦後および現状に重点をおく。現在の日本では、その過去が「清算・克服」されないまま、文字通りの現在となっているからである。

 

  二  過去の日本と韓半島の統一

  韓国(朝鮮)と日本の基本的関係は、近代(一九世紀半ば)以降の日本が朝鮮の侵略と植民地化を行った歴史的事実とそれが過去五〇余年の韓国・朝鮮の分断の歴史的原因になったことを前提とする。

  いま、一八七六年の江華島事件と日朝修好条規に始まる近代日韓関係の歴史的経緯をここでたどる必要はないだろう。明治維新直後から日本が隣国の朝鮮・韓国に対して、一貫して抑圧的、干渉政策をとり、日清戦争(一八九四−五年)と講和(下関)条約、日露戦争(一九〇四−五年)とその前後の第一次(一九〇四年)、第二次(一九〇五)、第三次日韓協約(一九〇七年)を経て、一九一〇年に韓国併合を強行し、その植民地化をはかった。この間、韓国・朝鮮はハーグ万国平和会議への密使派遣や義兵運動などの国民的な抵抗闘争を続け、とくに一九一九年の三・一運動をはじめとする一連の民族的な抵抗と独立解放運動を展開した。これに対して、日本の韓国併合は、歴代総督が天皇直隷の軍人であったことに象徴されるように、軍事的支配を基本とするきわめて暴力的な植民地支配であり、とくに一九三一年以降、中国そしてアジアへの全面的な侵略路線を歩むなかで、徹底した皇民化政策をはかり、創氏改名や強制連行などの、他に例をみない植民地化とアジア侵略の兵坦基地化をはかった。その結末が一九四五年の日本帝国主義の敗北と解体であった(1)

  この歴史過程は以下のことを意味する。第一に、日本は、一九世紀後半のアジア諸国がいちおうに直面した欧米列強の帝国主義的進出と植民地化政策に対して、「文明開花」、「富国強兵」の「脱亞入欧」政策をとることによって、きわめて排外主義的で、暴力的な国家ナショナリズム、すなわち、天皇制絶対主義権力の確立と朝鮮・中国そしてアジア諸国・地域への侵略による「遅れた帝国主義」化の道を選択したことである。これに対して、アジア諸国や民族は、欧米列強の植民地化政策に対する抵抗と民族ナショナリズム運動を展開して、民族解放と独立への道を切り開らこうとした。一九四五年の日本帝国主義の敗北と解体は、日本にとって、この路線選択とその結果としての侵略や植民地支配に対する「清算」の機会となるべきであった。しかし、日本はその最後に至るまでアジアの民族解放と独立を求める歴史的運動を理解しなかったし、また、戦後の歴代保守政権はこの世界史的流れを正面から受け止めようとしなかった。この植民地化された事態やこれからの脱却を求める運動に対する無理解・無感覚は、戦前日本はもとより、戦後日本に持ち越された国家的、国民的「体質」にもなっていた。

  第二に、第二次世界大戦後、アジア諸国に植民地支配体制からの脱却と独立をめざす民族主義的運動が全面的に展開し、韓半島において、この民族解放と国民的統合・独立が求められたのは当然であった。しかし、連合国がこの民族解放と独立という基本課題を理解していたとはいいがたい。むしろ、カイロ宣言からヤルタ協定、ボツダム宣言にいたる戦後処理の原案は韓半島の国際的な信託統治であり、独立ではなかった。そして、現実には米ソによる軍事的な分割占領になり、韓半島は戦後世界の米ソ対立の冷戦構造に組み込まれて、民族の分断と対立、内戦という悲劇的な事態に直面した。そして、ヨーロッパと異なり、アジアでの米ソの冷戦対立は「冷戦」ではなく、「熱戦」を意味した。アジアにおいて、一九世紀後半以来の植民地化政策の結果、民族解放と独立という国民的統合の実現はそれが未達成のまま、その民族・国民がどのような政治社会体制をとるかという体制選択を強要されたからである(2)

  第三に、戦後日本もこの冷戦構造に組み込まれたが、そのことによって、日本の帝国主義支配の解体は単なる旧植民地の「分離」として処理され、その植民地支配に対する一切の自覚的な反省・謝罪や「清算」をともなわない戦後処理となった。国内における在日韓国・朝鮮人に対する処遇も含めて、占領期も、その後の講和条約の締結・発効(一九五一年−五二年)の際にも、また、日韓基本条約の締結(一九六五年)の際にも、植民地支配に対する「清算」はなく、むしろ、過去の植民地支配や侵略じたいを否定ないし合理化する動きを存続させたのである(3)

 

  三  現在の日本と韓半島の統一


1.戦争責任・戦後責任論の現段階

  九〇年代日本の特徴は、第一に、湾岸戦争を契機とする「国際貢献」論に始まり、そのための「普通の国」論と全面改憲論の展開である(4)。第二に、これと同時に浮上したのがいわゆる「従軍慰安婦」問題などの「戦争責任・戦後責任」論である。一九九一年に三人の韓国人元「従軍慰安婦」が謝罪と補償を求める訴えを東京地裁に提訴した。当初、軍や国家の関与を認めなかった政府も明確な資料と証拠をつきつけられて、日本軍が「直接、間接に関与した」ことを認めた。韓国だけでなく、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダ等からも謝罪と補償の要求が出された。従軍慰安婦問題は植民地支配の下で強制によって生じた犯罪であり、国連人権委員会の報告書では「性的奴隷」と表現される戦争犯罪であった(5)。現在では、文部省が検定をおこなう公立学校の教科書にも、その事実が記載されるようになっている。しかし、戦後五〇年をへた一九九〇年代に至って、この戦争責任論が登場したことはいかなる意味をもっているのだろうか。

  第一に、戦前日本のアジアの侵略と戦争の実態が日本の国民一人一人にあらためて明らかになった。戦後日本では、一九三一年以降の戦争体験によって、戦争一般に反対する強力な国民世論が形成されたが、その反面で、戦争それじたいが殺しあいだから、そこで何がおきてもやむをえないと考え、その結果、個々の残虐な行為を戦争一般のなかに解消し、戦争や侵略の実態、とくに戦争犯罪を免罪しがちであった。戦争を国と国との戦争としてとらえ、一人ひとりの人間と家族にいかなる不幸や運命をもたらしたか、という被害者ないし人権の視点が欠落していたのである。

  第二に、元「従軍慰安婦」や元軍人・軍属やアジアの民衆への謝罪と補償がなぜ、これまで放置されてきたのかである。日本の戦争行為への賠償・補償問題は、サンフランシスコ講和条約、日韓基本条約、日中共同声明などによって、国家間レベルで、かつ、その時々の政治判断で処理されてきた。しかし、そこで個別具体的な戦争犯罪行為の解明はなされなかった。侵略戦争の被害者の放置は、過去の「戦争責任」だけでなく、戦後日本の「戦後責任」であることが明らかになったのである。

  第三に、「国際貢献」論やこの戦争責任論の背景には、八〇年代以来の日本の急速な「大国化」があり、この日本の大国化はアジア諸国に警戒と反発と引き起こしていた。問題とこの「大国日本」の「体質」である。八〇年代前半の教科書問題、一九八五年の中曽根首相による靖国神社の「公式参拝」、さらに、日本の植民地支配や大陸侵略に関する閣僚や保守政治家の無反省な発言は、その都度、アジアのひんしゅくをかってきたが、依然として止まる気配がない。九五年の「戦後五〇年国会決議」では「侵略」という言葉が削除され、「謝罪」「不戦」の文言も消えていた。また、教科書に記載された「従軍慰安婦」の記述に対する右翼、マスコミ・学者の攻撃が現に存在する。

  この日本「大国」化がテロや暴力を伴ってきたことも公然たる事実であった。例えば、八〇年代後半の朝日新聞社に対する一連の襲撃事件、九〇年一月には、昭和天皇の戦争責任に言及した長崎市長が銃撃され、また、右翼の巨大な街頭宣伝車が街頭で横行するのは現代日本の日常風景なのである。

  第四に、日本が国際社会における戦争責任・戦争犯罪の追及する動向に大きく立ち遅れていたことである。現在の戦争責任の追及は、八〇年代にアジア各国の軍事独裁政権が崩壊し、この民主化によって、アジアの戦争被害者が自分のうけた行為をはじめて公然と告発できるようになったことを背景とする。さらに、戦争犯罪や戦争責任の追及はいまや世界的なひろがりを持っているナチスのユダヤ人全滅政策(ホロコースト)、旧満州(中国東北部)における七三一部隊の生体実験だけでなく、ベトナム戦争でのソンミ事件、最近では旧ユーゴスラビアでの「民族浄化」、ルワンダでの殺戮などに世界の厳しい目が注がれるようになっている。こうした戦争犯罪の追及は、第一次世界大戦以降の「戦争違法化」の流れに始まり、第二次大戦後の国際軍事法廷(ニュールンベルグ裁判や東京裁判)をへて、侵略戦争の責任は「平和に対する罪」や「人道に対する罪」として追及するようになった。この流れは、戦争犯罪の範囲・内容を広げて、国や戦時か否かのいかんを問わずに、ひろく非人道的行為を対象に、その個人責任を追及する方向に展開し、また、戦争によって生じた被害の賠償、補償を国家間のレベルで処理することの限界が明確になって、いまや個人に対する補償措置も拡がってきたことを意味する(6)。さらに現代では、個々の残虐な戦争犯罪だけでなく、戦争そのものが歴史的に問われる時代になった(例えば、米国のスミソニアン博物館での「原爆」展示をめぐる論争)。核兵器の保持・使用は自衛であっても、厳しい批判にさらされ、その違法化と廃絶がすう勢となっている。

  ところが、戦争と戦争犯罪に対する戦後日本の認識と追及は形骸化していたのである。戦後日本では、冷戦の開始とともに、ポツダム宣言にあった戦争犯罪人の処罰が早い段階で縮小・中止され、その結果、戦争責任の解明や追及が放置された。冷戦下の核戦争の恐怖は、日本の国民をして広範な原水爆禁止運動を呼び起こし、運動は全国的にも世界的にも広がったが、日本じしんの誤り、アジアで侵した戦争とそこでの戦争犯罪行為の追及はきわめて弱かったのである。

  これが現実であったとすればアジアへの侵略と戦争に対する深い反省から生み出され、一切の戦争の放棄と軍事力の不保持を規定した憲法九条の下で、戦後日本が、みずからの戦争責任や戦争犯罪やこれらに対する世界の流れに、なぜ、これほど立ち遅れたのかが問題となる。


2.憲法九条と戦後政治・憲法過程

  戦後日本の半世紀にわたる政治過程の最大の焦点は、憲法九条戦争放棄と軍隊の不保持をめぐる対立であった。この九条は戦前のアジアに対する侵略と戦争に対する反省として、たしかに日本の再軍備や軍国主義復活の障害となってきた。しかし他方で、アジアで有数な軍隊である自衛隊が成長し、しかも日米安保条約によって、米国のアジア及び世界的な軍事戦略の一翼をなしている。この憲法九条と自衛隊・日米安保条約の併存という矛盾した戦後日本の政治・憲法過程はどのように生じ、展開したのかである。

 

  四  憲法九条誕生のリアリズム

  まず、憲法九条の誕生じたいが当時の国際政治・国内政治のリアリズムの結果であった。九条の原案は日本における連合国最高司令官であるマッカーサーによって提案され、そこには「国家の紛争解決の手段としての戦争および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する」という、徹底した戦争放棄が含まれていた。この原案を当時の日本政府側が受け入れて、現行九条となった。ここには、二つの大きな力が働いていた。

  一つは、いうまでもなく戦争違法化の世界史的な流れである(7)。一九世紀後半から第一次大戦に至る国際関係は、各々の主権国家が対立・抗争する「戦争状態」の下にあった。その結果、第一次世界大戦が勃発し、この悲惨な事態を経験して、世界は〈戦争=違法化〉を国際規範とする方向を生んだ。それが国際連盟の設立であり、一九二八年の不戦条約であった。しかし、「自衛戦争」を認めたことはドイツ、イタリアのファシズム、そして、軍国主義日本は「生存圈」、「生命線」なるものの確保と称して、世界大戦を開始する口実になった。この第二次世界大戦をへて、世界はあらためて〈戦争=違法化〉の原則を確認し、国際連合憲章を定めた。憲法九条はあきらかにこの戦争違法化の世界的な流れを受けたものであった。

  憲法九条が生まれるいま一つの要因は、天皇制存続のための取引、裕仁天皇の戦争責任の回避であった。当時、米国はポツダム宣言を実施する義務を負い、戦争犯罪人の処罰と戦争責任の追及を実行しなければならなかった。他方で、米国は対日占領政策の「究極の目的」を単なる「平和的かつ責任ある政府の樹立」だけでなく、「米国の目的を支持すべき」政府の樹立に求めた。すでに始まっていた米ソの確執のなかで、米国は、天皇を中心とする戦前の支配層、保守勢力を温存し、育成するという高度に政治的な選択を行った(8)。日本側も戦犯追及から免れ、天皇制を維持するために必死の工作を行っていた(9)。しかし、裕仁天皇は東条英機と並ぶ戦犯第一号であったから、単なる天皇制の存続が国際的な非難をまねくことも明らかであった。そこで、軍国主義日本のシンボルとしての天皇から、平和的な象徴天皇への転換をつよく印象づける必要があった。事実は、マッカーサーはこの九条と象徴天皇を規定した「憲法草案を受け入れないと、あなた方保守勢力は権力の座から滑り落ちる」、「天皇の身体も保証しかねる」とまで、政府や保守層を脅かしたのである(10)。これが九条誕生の裏面史であった。

  この戦争責任の回避と天皇制の温存は、戦後政治そして日本社会に重大な影響を及ぼした。それは旧支配層の「無責任」体系が戦後に引き継がれたことである。極東裁判による東条英機などの死刑判決は、裕仁天皇の戦争責任を問わないという取引を伴った。とくに裕仁天皇の免罪は、戦後日本において、戦前日本の侵略戦争や政治責任を正面から問うことを著しく困難にした。さらに重大なのは、この天皇制や軍部の暗部を担った右翼や謀略機関が反共冷戦戦略の中で温存され、保守権力の一翼として生き続けたことである。米国は、七三一部隊の石井中将をその情報提供と引きかえに、不訴追とした。自民党の前身である鳩山自由党の結党資金を提供したのは大陸での謀略資金を持ちかえった児玉誉士夫であった。戦後日本はその出発点から暗い遺産を抱えこんだいたのである。

 

  五  講和・日米安保条約と平和運動

  生き残った保守勢力は冷戦の開始と占領政策の転換とともに動き出した。五二年の講和・独立がなるや、戦前派党人の鳩山一郎が政権に就き、九条の廃棄と再軍備、天皇の元首化の改憲運動を開始した。しかし、この改憲運動は護憲派が三分の一を確保したために挫折した。さらに、朝鮮戦争や南太平洋のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験は、広範な戦争反対運動を引き起こし、また、国民的な原水爆禁止運動が拡がって、護憲・平和運動が展開した。ここには「悲惨な戦争体験を二度としてはならない」、「米ソ冷戦に巻き込まれてはならない」という護憲・平和運動が生み出され、冷戦対立の下で、保守権力の「逆コース」政策に対する国民の抵抗闘争が続いたのである。

  一九五〇年代後半に登場したのは、東条内閣の閣僚であり、A級戦犯容疑者であった岸信介であった。岸は政権に復帰すると、「より対等な」な安保条約を実現し、日本は主体的に日米軍事同盟を担い、ついには改憲に至るプランを追求した。これが一九六〇年の安保条約改定であった。しかし、この企ては、戦前体質の岸に対する反発とあいまって、国民の素朴で強力な平和と民主主義運動を呼び起こしたのである。

 

  六  戦後保守と九条

  五〇年代の国民的な護憲・平和運動と安保反対闘争を経験した保守主流は、「軽武装・経済優先」路線を選択する(11)。六四年の憲法調査会報告書は、九条改憲には当面は手をつけないという「解釈改憲」派が多数意見となり、「明文改憲」を掲げる右派が少数意見となった。しかし、この経済重視路線は、日米安保体制を前提に「戦力に至らざる実力=自衛力」という理屈で自衛隊を強化し、日米軍事協力を推進する政策と一体であった。ここに憲法と安保の二元的対立・併存という戦後法体系の特質が定着し、この下で高度経済路線を歩むことになった。この結果、六〇年代の高度経済成長、そして、七三年のオイル・ショックを契機に、重化学工業中心の「重厚長大」型からハイテク工業を軸とした「軽薄短小」型へと転換し、「JAPAN, Inc」(株式会社日本)を出現させた(12)

  こうして、戦後政治の基本構造は、日米安保条約と憲法九条の対抗と併存となった。それが自衛隊の成長に歯止めをかけ、沖縄返還時の非核三原則(じつは「核持ち込み」を認めていたので、二原則)、七〇年代後半の日米防衛協力(ガイドライン)締結時には、防衛費のGNP一%枠や武器輸出の禁止政策を促した。戦後保守主流は、アメリカ側からの露骨な再軍備圧力に対して、憲法九条の制約や国民の平和志向をその抵抗として使いわけながら、人的・経済的エネルギーを経済発展を集中させたのである。この結果、国民世論の大勢は九条改憲に反対するが、自衛隊や日米安保条約も肯定するという「九条も、安保・自衛隊も」という枠内に止まったのである(13)。言いかえるならば、九条平和主義は、冷戦対決の渦中にあって、必死に自らの平和を確保したかもしれないが、日米安保の枠組みを突破できるほどの展開力をもちえなかったのである。戦後平和主義は、戦前日本の「戦争責任」に正面から向きあうだけの勇気に欠けていたのである。したがって、アジアや世界の平和に積極的に貢献する平和主義にまでは到らなかった。

  戦後保守政治のいま一つの特徴は、その出発点から、裕仁天皇に代表される戦前以来の権威主義的な要因を内部に抱え、戦前の支配や侵略を合理化する体質を色濃くもったことである。靖国神社への閣僚参拝や教科書検定問題がその端的な例である(14)。右翼・謀略グループが常に保守権力の中枢に関わり、歴代保守政権はこの右からの牽制と脅威の圧力の下に置かれてきた。竹下登の首相就任時に、中曽根が「右翼とつきあい、これをうまくこなせなかったら、首相にはなれない」と助言したという逸話は、この戦後保守の体質を示している。

  こうして、戦後保守政治は一方に国民の平和志向をにらみつつ、他方で、その内部に右翼的・戦前的勢力を抱えこんで、権力を維持してきたのである。戦後保守政治は、この意味での「左右のバランス」やプラグマティズムを特徴とする。しかし、七〇年代から八〇年代に至って、当初の緊張感を失い、次第に構造的な利権政治に落ち込み、九〇年代に入ると、野放図の「大国化」志向を生み出した。それが一九九〇年代の「国際貢献」を口実にする「普通の国」論、そのための「政治改革」と公然たる改憲運動である。ここに戦争責任や戦前の植民地支配を反省する契機は見いだすことはできない。この動きは、護憲平和運動や国民の平和意識にその攻撃を向けるだけでなく、これまでの戦後保守の権力構造をも右から改編しようとしている。その代表が小沢一郎の「日本改造」論であった(15)。戦後保守本流は国民の強力な平和主義的感情・意識に留意し、明文改憲ではなく、軽武装と経済成長重視の保守戦略を選択してきたが、小沢はこれを「一国平和主義」、「一国経済主義」と批判し、これを刷新するあらたな保守権力の確立と改憲の実現を公言するのである(16)

 

  七  護憲革新運動と九条

  戦後の護憲・平和運動は、憲法学界とともに、憲法九条が一切の戦力(軍事力)を否定する結論で一致していた。再軍備に反対し、自衛隊や安保条約の違憲性を主張し、また、ベトナム戦争に反対し、核兵器の廃絶運動を展開してきた。

  戦後憲法学は、九条が一切の軍事力を否定するという理解に立って、自衛隊と安保条約による米軍の駐留を違憲と判断し、この九条擁護の立場をとってきた(17)。近年、この九条擁護論には「そもそも」論と「さしあたり」論の二つがあることが指摘されている(18)。九条の非武装平和主義を普遍的かつ本来的に正しいという立場から擁護するのが「そもそも」論であり、軍事力の有効性を「そもそも」否定する立場である。これに対して、「さしあたり」論は、戦争には「自衛」戦争と「侵略」戦争があり、どの国にも自衛権があり、自国を軍事力で守ることじたいを否定できないと考えるが、日本が侵略戦争をおこなってきた経緯に鑑みて、一切の軍事力を否定するのが、戦後日本の「さしあたり」とるべき有効な選択であり、それが憲法九条であるという立場である。

  だが、この九条擁護論は日本じじんが侵した侵略と戦争責任を具体的、個別的に追及し、行動する点に弱さがあったことを否定できない。たしかに「そもそも」論は侵略・自衛の区別を区別せず、戦争や軍事力一般を否定するからといって、過去の日本の侵略戦争の責任を戦争一般の罪悪論に解消するわけではない。また、「さしあたり」論は、九条制定の経緯としての戦前日本の侵略行為を重視し、戦争責任をより具体的に追及する立場であった。にもかかわらず、こうした護憲・平和運動が結果としてであれ、戦争責任論を十分に展開してきたとは言いがたい。それはなぜだろうか。

  この点で注目するべき最近の議論は、侵略戦争はもとより自衛戦争であっても、戦争を国と国との戦争としてとらえる戦争観に率直な疑問をもち、個々の市民、人権の立場から戦争をとらえ直そうという見解である(19)。七〇年代から八〇年代の、地球規模、宇宙規模にまで暴走した核戦争体制の下で、核戦争に自衛・侵略の区別がありうるかという、当たり前の、しかし、深刻な疑問が生まれていた(20)。さらに、戦争と平和を国民国家の観点からとらえて、国民ひとり一人の立場から戦争をとらえない近代の戦争観の再検討も進んできた(21)

  こうした理論動向の前提となったのが「自衛」や「正義」のための戦争であっても、どれほどの犠牲と人権侵害を生むかという、素朴だがリアルな視点である。戦争を国家や権力の視点から個と人権の視点に転換させ、戦争をその実態に即して見直す議論がそれである。これまでの九条擁護論が個別・具体的な戦争責任、戦後補償の追及という点で弱かった原因は、戦争を国家間としてとらえる伝統的見方から脱却できず、被害者個人や人権の視点を貫けなかったことに求めることができるのではないか。民族自決や侵略に対する自衛戦争、あるいは革命戦争なるものも、この人権の視点から厳しく評価をうけることによって、かえって、その本来の意義づけを与えられるのであって、自衛や革命一般が戦争や暴力を正当化するわけではないはずだった。

  こうして戦後の護憲・平和運動は、再軍備反対、アメリカ帝国主義反対、ベトナム戦争反対、核兵器廃絶のために戦い、九条擁護のための「必死の」の努力をしてきたかもしれない。しかし、日本じじんがアジアで何をしてきたのか、国民一人ひとりが侵略戦争にどのように関わったのか、戦争責任を具体的に追及し、行動してきたのか、むしろ、冷戦構造の下でのイデオロギー−資本主義か社会主義かの体制論に解消しがちでなかったのか、「克服」すべき過去、あの戦争とその責任を具体的、実質的に究明する態度が弱かったのではないか、という反省が生まれている。この反省は、八〇年代半ば以降、とくに戦後補償や従軍慰安婦問題を国際的に突きつけられて、より明確になってきたのである。

  現状について二点を指摘しておきたい。第一に、一九九五年の国会決議の経緯やその内容が示すように、日本では、依然として過去の戦争や戦争犯罪を問い直す自覚や意識に乏しい。それは一部の閣僚や政治家だけの問題でなく、これまでの経済発展優先の戦後日本社会の形成じたいがはらんできた弱点でもある。これを克服するためには、九条平和主義の規定を国家の戦争放棄、戦力不保持として受けとめるだけでなく、国民一人ひとりにとっての規定であることを確認することが必要である。この戦争の犠牲者、被害者の命と人権の視点から戦前・戦後の日本と世界の歩みを学ぶことが求められたのである。

  第二に、九〇年代日本はその半ばに至って、いわゆる「安保再定義」によって、再び、軍事力による集団的自衛権という古色蒼然とした安全保障政策に立ち返り、日本は、日米安保条約の下で、「自国の安全」だけでなく、また、「極東の平和」に止まらず、地球的規模の平和と安全のために、米国の世界的規模の軍事戦略に全面的に組み込まれようとしている。そのためのあらたな共同作戦計画(ガイドライン)を米国と締結し、自衛隊やわが国の補給・行政機能が全面的に動員されようとしている。これに呼応して、これまでの政府解釈によっても、憲法上、許されないとされた集団的自衛権を公然と承認し、さらに九条改憲をおこなうべきとする政治的動きが台頭している。こうした日米の軍事的プレゼンスの誇示がアジアと日本の平和にいかなる展望をもたらすのかは説明されない。なんらの根拠を示さないまま、北朝鮮の脅威を口実に、東アジア全域を対象とする日米軍事作戦計画が立案されている。ここでは韓半島の統一ではなく、その分断と軍事的対立が前提となっている。こうした日米「安保再定義」はいかなる意味でも、アジアの将来にその平和と安全をもたらすものではなく、逆に、その脅威を創りだしているのである。

 

  八  将来の日本と韓半島の統一

  最後に、韓半島の統一は日本の将来にいかなる課題を提出するかである。この問題を考えるためには、韓半島の統一がいかなる性格のものであるかが前提となる。すでに指摘したように、韓半島の五〇余年にわたる分断と対立は、日本の帝国主義的侵略と支配および戦後世界の冷戦対立を直接の原因にしている。韓半島の統一は、これらの歴史的原因を克服することによって達成されるわけである。

  第一に、韓半島の統一は、資本主義の世界史発展の帰結としてのアジアにもたらされた帝国主義支配に対する民族の自決、言葉の正しい意味でのナショナリズムの実現としての国民国家の形成・回復という基本的な性格をもつだろう。このことはドイツの統一とは質的な違いがあることを意味する。ドイツの分割は、すでに国民国家として統合された後、帝国主義ドイツへと進み、ついにフアシズムに至った結果としての分割であった。それが冷戦対立の中で、西の資本主義と東の社会主義という体制選択をへて、資本主義主導による国家統合として進行した。これに対して、韓半島の統一は帝国主義支配による植民地化からの解放とその国民的統合・自立という、歴史的課題の実現である。この意味で、韓半島の統一は、その後にどのような政治社会体制を選択するかとは区別されなければならないし、それが統一の過程に反映するはずである。日本は、こうした韓半島の統一に歴史的な負の歴史的遺産をもっている。その「清算」は、過去の侵略と植民地支配に対する明確な反省と謝罪を具体的に示すことによって始まるのであり、この意味で、韓半島の統一は、半世紀に渡って看過してきた「清算」の機会を提供するものなのである。

  第二に、統一した韓半島が社会経済体制として資本主義を選択するとしても、かっての資本主義的、帝国主義的な植民地支配や覇権主義的支配をめざすものではありえないし、現在および将来の国際関係の中で、その現実性はない。むしろ、二一世紀に登場する「統一韓国」(もし、そう呼ぶとすれば)は、資本主義の世界的発展とそれがもたらした支配と非支配、冷戦構造の下であったような資本主義か社会主義かの不毛な選択とその帰結、そして、韓国じしんが体験した軍事政権(ないし開発独裁)下の政治社会生活などを歴史的な教訓として登場する国家ないし社会である。この意味で、韓半島の統一を資本主義圏の拡張として見ることは時代錯誤でしかない。より成熟した、より平和的な国際関係を前提として発展する国民国家として登場する以外にない。このことは、韓半島が資本主義的な社会経済的な発展を目指すとしても、それは米国や日本や他のアジアの資本主義的諸国との平和的関係はもとより、中国やベトナム等の社会主義国家との協調的な関係を前提とし、歴史的に植民地支配をうけた発展途上国との共感を基本した関係を形成するはずある。このことは、統一した韓半島の出現は、中国やロシアと境を接するというリアリズムも加わって、米韓安保だけでなく、日米安保も含めて、アジアにおける米国の軍事的プレゼンスの解消と、これに代わる東アジアないしアジア・太平洋のあらたな安全保障システムが早急に要求されることを意味する。それは当然に、政治・社会・経済・情報・文化の国際的交流を基本とする多元的で、多面的な平和秩序を構築する国際関係になるはずである。この点からも、現在の「安保再定義」やガイドラインの策定がいかに近視眼的なものかがわかるし、むしろ、韓半島の統一の障害になる。

  将来の日本は、このような統一した韓半島と緊密な関係を結ぶことになる。その前提がかっての帝国主義的過去の払拭であることはいうまでもない。現在のような北朝鮮の脅威を理由にする日本の軍事力の拡充はまったく存在理由を失う。日本じたいも、中国・ロシアとの関係を含めて、日・米・韓の安全保障構想の抜本的な見直しを必要とすることは明らかであり、アジア・太平洋の非核化構想はその一環となるだろう。統一した韓半島の出現はその最大の契機になるはずである。

  実は、こうした方向こそが日本国憲法の前文と九条のさししめす平和と安全保障である。そうだとすれば、今、日本に要求されていることは、第一に、過去の帝国主義支配・植民地支配への「清算」であり、そのための歴史認識の獲得とこれを妨げている政治的、社会的要因を除去することである。第二に、北朝鮮や中国あるいはロシアの脅威を口実とする軍事力や日米安保体制の縮小や解消であり、多角的な安全保障構想の展開である。そして第三に、こうした平和と安全保障の基盤となる社会経済的関係の発展と国際関係・交流の促進である。

 

  九  む    す    び

  これまで戦争と平和ないし「安全保障」は、「力と力の均衡」という軍事的、政治的な安全保障を意味してきた。したがって、国際政治学や国際法での「平和」に関する伝統的な定義は、「戦争と戦争の間」という消極的なそれに止まる。そして、ここでの「平和・安全」は国家にとっての安全であって、私たち個々人の平和・安全を意味するわけではなかった。

  日本国憲法は前文で、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し」と規定し、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と宣言し、戦争が国家・政府によって引き起こされることを指摘し、これに「全世界の国民」の「平和的生存権」を対置している。そして、さらにこの平和的生存権が「恐怖と欠乏」すなわち、貧困と暴力という構造的原因を克服することによって獲得できることを指摘している。世界は、五〇年以上も前にこのような認識に到達していたのである。この認識は、戦後世界が冷戦対立に突入し、遂には、核軍事力の脅迫による安全保障の時代に行きついて、半世紀を費やして、ようやく再確認されることになった(22)

  その第一は、軍事力に頼り、核開発競争を競った米ソの衰退であり、軍事力が安定した平和をつくることはできないという、ある意味で平凡な、しかし決定的な結論である。この軍事力による平和の限界は、この間の国連じしんがその平和維持活動を通じてあらためて教訓にした点でもある。「国連新時代」を迎えた国連事務総長ブートレス・ガリは、一九九二年の「平和の課題」政策によって、より軍事的色彩を強めた平和維持活動を提唱したが、結局、数年のうちにこの政策の破綻を招いた。国連であれ、米国であれ、安易な軍事力への依存がかえって事態を複雑にし、安定した平和の実現を妨げるだけでない。むしろ、地域紛争や内戦の多くが大国支配や武器輸出をはじめとする大国によって引き起こされてきたのである。

  第二に、社会経済的な発展による当該社会の安定、安全の重要性である。国際政治学は七〇年代以降に「包括的安全保障」という言葉で、この社会経済的な安全保障を語るようになってきた。そして、第三に、近年に至って、ヒューマン・セキュリティという視点が強く強調するようになった。ここでは、貧困・環境問題や暴力・テロを含めて、人類ないし一人ひとりの人間にとっての安全をどのように実現するかと強調される。こうした平和・安全保障の観念の展開こそ、日本国憲法の平和主義や「平和的に生存する権利」論が求めてきた方向であった。私は、韓半島の統一という歴史的事業に際して、この日本国憲法の平和原則の遵守と実行が日本の歴史的、現代的役割であると考えるものである。

(1)  一般的には、海野福寿『韓国併合』(岩波新書・一九九五)。

(2)  アジア世界における冷戦体制の意味について、加賀見光行「国際政治理論とアジア熱戦」(鴨武彦編『講座・世紀間の世界政治3アジアの国際秩序』日本評論社・一九九五・九四頁以下。

(3)  戦後の日韓会談の当初から一九六五年の「日韓基本条約」の締結に至るまで、日本政府側が朝鮮の植民地支配に対する歴史的「清算」を拒否した経緯とその後の問題点について、高崎宗司『検証日韓会談』(岩波新書・一九九六)。

(4)  Okubo Shiro, Japan’s Constitutional Pacifism and United Nations Peacekeeping, in W. Hunsberger ed., JAPAN’S QUEST, 1997 (M.E. Sharpe), P p. 96.

(5)  吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書・一九九五)、法学セミナー一九九七年八月号特集「『従軍慰安婦』を問う」(日本評論社)三〇頁以下。

(6)  藤田久一『戦争犯罪とは何か』(岩波新書・一九九五)。

(7)  荒井信一『戦争責任論』(岩波書店・一九九五)。

(8)  長谷川正安『現代憲法史(上)』(日本評論社、一九八一)一六八頁以下。

(9)  吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書・一九九五)。

(10)  古関彰『新憲法の誕生』(中公文庫・一九九五)一五二頁以下。

(11)  渡辺治『日本国憲法「改正」史』(日本評論社・一九八七年三三七頁以下。

(12)  E. Vogel, JAPAN AS NUMBER ONE, 1979, Harvard U.P. しかし、「株式会社日本」が国民の生活と権利、環境に何をもたらしたかが問題である。長時間労働を克服できなず、「過労死」を生み出す「会社社会日本」の批判的検討として、東大社会科学研究所編『現代日本社会』(東大出版会、一九九三−九五)、とくに『1課題と視角』(一九九一)参照。

(13)  和田進『戦後日本の平和意識』(青木書店・一九九七年)一二三頁以下。

(14)  最高裁は一九九七年四月二日の愛媛県玉串料訴訟大法廷判決で、公費による靖国神社の「公式参拝」を一三対二の絶対多数で、政教分離違反とした。このことは、戦前の天皇制支配の思想的基盤であった靖国信仰がそのままでは維持できないことを示している。これが右翼・保守勢力の打撃になったことは明らかである。

(15)  小沢一郎『日本改造計画』(講談社・一九九三)。なお、小沢の「普通の国」論をめぐる動向について、大久保史郎「憲法の平和原則と新しい国際関係」(生田・大河編『法の構造変化と人間の権利』(法律文化社・一九九六)一九八頁以下。

(16)  改憲論の動向とその批判として、渡辺治他『「憲法改正」批判』(労働法律旬報社・一九九四)。

(17)  山内敏弘『平和憲法の理論』(日本評論社、一九九二)五九頁以下。

(18)  浦部法穂「50年目の『平和主義』論」樋口陽一他編『憲法理論の50年』 [日本評論社・一九九六)七五頁、浦田一郎『現代の平和主義と立憲主義』(日本評論社、一九九五年)四一頁。

(19)  浦部「50年目の平和主義』前掲注(18)八三頁以下。

(20)  高柳信一「人権としての平和」法律時報臨増『憲法と平和主義』(一九七五年五月号)五〇頁以下。

(21)  国際関係論における平和研究(学)の台頭がそれである。参照、高柳先男「平和研究のパラダイム」(講座国際政治1国際政治の理論、東大出版会、一九八九年)二九九頁;佐藤幸男「地球的共(協)生学としての『国際協力』」(鴨武彦編『講座・世紀間の世界政治6日本の国際化』日本評論社・一九九四年一三頁)。

(22)  国際秩序の変動と形成における平和および非暴力の役割の増大について、坂本義和「世界秩序の構造変動」(坂本編『世界政治の構造変動1・世界秩序』(岩波書店・一九九四)四二頁参照。