立命館法学  一九九八年五号(二六一号)


消滅時効・除斥期間と権利行使可能性

松本 克美




一  はじめに−注目される二つの判決
二  時効制度の存在理由−機能的考察
三  民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」
四  民法七二四条と権利行使可能性
五  時効の援用制限論と権利行使可能性
六  除斥期間の適用制限と権利行使可能性
七  お わ り に

 

 

一  はじめに−注目される九八年の二つの判決

  本稿で検討対象とするのは、消滅時効・除斥期間の起算点論、進行論、援用・適用制限論における権利行使可能性の要素の位置づけの問題である(1)。昨年(一九九八年)、この点に関して極めて注目すべき二つの判決が出された。一つは、東京予防接種禍訴訟最高裁判決(最高裁第二小法廷・一九九八年六月一二判決・民集五二巻四号一〇八七頁(2))、いま一つは戦後補償に関する不二越訴訟第二審判決(一九九八年一二月二一日判決。一九九九年一月現在では判例集未搭載(3))である。両判決についての詳細な検討は後述するところに譲るとして(4)、問題の所在を明確にする限りでまず、その基本的特徴をここで指摘しておこう。


(1)  東京予防接種禍訴訟最高裁判決

  本判決は、不法行為に基づく損害賠償請求権の期間制限を定めた民法七二四条後段の期間の性質につき、最高裁一九八九年判決(最高裁第一小法廷一九八九年一二月二一日判決・民集四三巻一二号二二〇九頁(5))に従って除斥期間としつつも、時効期間満了前六か月内に行為無能力者(未成年者または禁治産者)に法定代理人がいなかった場合に時効を停止させる「民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じない」ことを最高裁として初めて明らかにした。そもそも七二四条後段の規定の性質が時効であるのか、除斥期間であるのか自体について後述のように(四(二))争いがあることをおいたとしても、除斥期間の一般的性質として従来理解されていたところによれば、除斥期間は時効とは異なり中断はないとされ、停止についてもこれを否定する見解(6)、民法の一定の停止事由に限り類推適用を認めるもの(7)、一般に停止事由の類推適用を認めるもの(8)、民訴法九七条の類推適用を認めるもの(9)などの諸見解に分かれていたのである。

  また前掲一九八九年判決は、七二四条後段の適用による被害者の損害賠償請求権の消滅の被告(加害者)による主張を権利の濫用ないし信義則違反であり排斥すべきとの原告側の主張につき、「裁判所は、除斥期間にかんがみ、本件請求権が除斥期間の経過により消滅した旨の主張がなくても、右期間の経過により本件請求権が消滅したものと判断すべきであり、したがって、被上告人ら主張に係る信義則違反又は権利濫用の主張は、主張自体失当であって採用の限りではない。」とした。この判示は除斥期間の場合には、時の経過による権利の消滅に例外がないかのようにも解されるのであり、実際にそのように解する下級審判決もあった(10)。しかし、この点でも今回の九八年判決の実質的な七二四条後段の適用制限という法的構成は注目されるのである。すなわち、このことは除斥期間であったとしても権利行使が事実上不可能であった場合には、その適用を制限すべき場合があることを示唆しているのではなかろうか。


(2)  不二越訴訟第二審判決

  他方で、昨年一二月に出された不二越訴訟第二審判決は、また別の意味で時効と権利行使可能性の問題を考えさせるものであった。原審判決(11)も控訴審判決もともに、原告の主張する未払賃金や債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求権等が時効ないし除斥期間によって消滅していると請求を棄却したのであるが、注目すべきは、両判決における未払賃金請求権の消滅時効の起算点の解釈である。この起算点については民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」の解釈が問題となるが(時効期間は民法一七四条一号により一年)、原判決はこれを一九九一年八月に政府が一九六五年に締結された日韓条約が強制連行にかかわる未払賃金を含む個人の請求権まで消滅させたものではないと答弁した時点であるとした。その理由はかかる時点までは事実上権利行使が困難であったことにある。但し、その時点を起算点としても提訴まで一年以上が過ぎているので時効が完成したとしたのである。

  これに対して原告側は控訴審において時効の中断(未払賃金支払の催告及びそれから六か月以内の提訴。民法一五三条参照)の主張をしたが、控訴審判決は、原判決とは異なり、未払賃金請求権の消滅時効の起算点を一九四五年ないし遅くとも日韓条約締結の一九六五年として時効の完成を認めた。そこでは原判決と同じく、一九九一年八月の政府答弁の時点までは、原告にとって権利行使が事実上困難であったことを認めつつも、時効の存在理由は権利行使可能性の点からだけでなく、法的安定性や立証の困難などとの関連で考えられねばならないとしている。

  果たして権利行使が事実上不可能な場合にも、時効や除斥期間は進行すべきものなのであろうか。或いは時効の援用や除斥期間の適用を信義則違反・権利濫用ないし「著しく正義・公平の理念に反する」(九八年最高裁判決)と評価する場合に、権利者の権利行使可能性はどのように理論的に位置づけるべきなのだろうか。本稿の課題はまさにこの点におかれる(12)

(1)  取得時効については、取引の安全、第三者の保護、不動産登記制度との関連、物権法秩序への位置づけなど、消滅時効とは異なった独自の問題もあるので、さしあたりの課題は消滅時効に限定する。そして本文で述べるように消滅時効でもとくに損害賠償請求権が中心的な検討の対象となる。身分法にかかわる請求権についても固有の問題があるので、本稿では検討の外においている(身分法に特有な問題につき、相続回復請求権についての判例評釈として後注(12)・松本G参照)。

(2)  本判決については後注(12)の松本J論稿で検討した。

(3)  本判決は、現在(一九九九年一月)のところ判例集未搭載であるが、原告側弁護団の山田博弁護士より判決文全文についての複写をお送りいただいた。ここに記して感謝申し上げたい。

(4)  東京予防接種訴訟判決については後述四(二)、不二越訴訟第二審判決については後述三(四)参照。

(5)  米軍不発弾処理事件上告審判決。本判決については後注(12)の松本Cで評釈した。

(6)  梅謙次郎は、時効とそうでない法律上の期間制限である予定期間(dela´i pre´fixe)、失権期間(pr・clusive Befristung)、除斥期間(Ausschulussfrist)を区別すべきことを強調し、次のように後者には時効のような中断、停止事由が適用されないかのように述べている。「法律ニ於テハ権利ノ特ニ速ニ行使セラレンコトヲ欲シテ予定期間ヲ設ケタルニ中断、停止等ニ因リテ大ニ其期間ヲ伸張スルコトヲ得ルニ至リ為メニ立法者ノ希望ヲ空ウスルノ虞アレハナリ」(梅謙次郎『民法要義  巻の一総則編  訂正増補版』三七〇頁、有斐閣、一九一一年、復刻版一九八四年。以下引用は傍点部分で省略する)。川島武宣はかつて鳩山のように除斥期間に停止がないとの見解が有力であったのは(鳩山秀夫『法律行為乃至時効』五九四頁、厳松堂、一九一〇年)、民法起草者が「停止の可能性を全く予定しないよう」だからではないかと指摘している(川島武宣『民法総則』五七四頁注(1)、有斐閣、一九六五年参照)。また、近時の下級審判決例の中にも、前掲一九八九年最高裁判決に従い、民法七二四条後段の二〇年の期間は、「被害者側の認識のいかんを問わず、一定の時の経過によって法律関係を確立させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当である」としたうえで、「前記のような除斥期間の趣旨、性質に鑑みると、除斥期間についての中断及び停止の観念を容れる余地はないものと解すべきである。」とするものがある(東京地判一九九七年五月二六日・判時一六一四号四一頁、日本鋼管強制労働事件第一審判決)。

(7)  我が国において除斥期間に一定の停止事由が類推適用されるとした最初の学説といわれる我妻は(この点を指摘するものとして前注川島『総則』五七四頁注(1)参照)、除斥期間に中断はないとしつつも、次のように時効の停止事由である民法一六一条についての類推適用を提唱している。「然し、停止は問題である。期間の満了の当時に天災その他避けることのできない事情があるときは、第一六一条を類推適用すべきであろう。なぜなら、かような場合にも猶予期間を認めないことは、権利者に酷であり、これを認めても、その猶予期間は限られていて、権利関係を早く確定しようとする除斥期間の趣旨を乱すことにはならないからである。(ド民一二四条二項等参照)。」(我妻栄『民法総則』三四一頁、岩波書店、一九五一年)。その他同趣旨を説く者として、柚木馨『判例民法総則』下巻三三九頁、有斐閣、一九五二年、石本雅男『民法総則』三八一頁、法律文化社、一九六二年、松坂佐一『民法提要総則[三版増訂]』三二三頁、有斐閣、一九八一年、川井健『民法概論1民法総則』四一六頁、有斐閣、一九九五年。川井は本説が通説とする。)。

(8)  前掲川島『総則』は、「日本民法の解釈としても、除斥期間の停止につき、時効の停止に関する規定の準用を認めるべきものと考える」とし(五七四頁)、この点につき幾代は、「停止の規定は一般に類推適用さるべしという趣旨か?」とされている(幾代通『民法総則[第二版]』六〇二頁注(6)、青林書院新社、一九八四年)。

(9)  石田穣は、除斥期間に時効の停止事由を類推適用するよりも、民訴法一五九条一項(現行民訴法九七条)「当事者がその責めに帰することができない事由により不変期間を遵守することができなかった場合には、その事由が消滅した後一週間以内に限り、不変期間内にすべき訴訟行為の追完をすることができる」を類推適用すべしとする(石田穣『民法総則』四一六頁、悠々社、一九九二年)。

(10)  前注(6)の日本鋼管強制労働事件判決の他、除斥期間には信義則違反、権利濫用論による適用制限はないとする判決として、終戦直後の一九四五年八月一七日に樺太において父と兄弟とが日本の憲兵らによってスパイ容疑で逮捕され、虐殺されたとして韓国人の姉妹が一九九一年に国を相手取り慰謝料等を求めて提訴した上敷朝鮮人虐殺事件判決・東京地判一九九五年七月二七日・判時一五六三号一二一頁、本文(2)で掲げた不二越訴訟第第二審判決、次注のその原判決など。

(11)  本件訴訟の原判決(富山地判一九九六年七月二四日労判六九九号三二頁)については、後注(12)松本Iで検討した。

(12)  本稿は筆者がこの一〇年間、主として損害賠償請求権の消滅時効・除斥期間問題に関して発表してきた以下の幾つかの論稿を、時効・除斥期間における権利行使可能性の位置づけの観点から整理し、補充したものである。従って、以下の叙述は既発表の論稿の叙述と部分的に重なるところがあることをお許しいただきたい。@「時効規範と安全配慮義務−時効論の新たな胎動」神奈川法学二五巻二号一頁、一九八九年(以下引用は松本@とする。以下同様)、A「安全配慮義務違反による進行性被害と消滅時効−長崎じん肺訴訟第二審判決」ジュリスト九四二号九八頁、一九八九年、B「時効規範と安全配慮義務−時効論の新たな胎動」私法五二号一四一頁、一九九〇年(@論文をもとにした一九八九年の私法学会個別報告の要約)、C「民法七二四条後段の期間の性質と信義則違反・権利の濫用−米軍不発弾処理事件・最高裁判決」ジュリスト九五九号一〇九頁、一九九〇年、D「時効とじん肺−転期を画す常磐じん肺訴訟第一審判決」判例タイムズ七三一号四九頁、一九九〇年、E「『不貞慰謝料』の消滅時効の起算点」判例評論四三四号一九七頁、一九九五年、F「進行蓄積型被害に対する損害賠償請求権の消滅時効と損害額の算定−長崎じん肺訴訟上告審判決」ジュリスト一〇六七号一二七頁、一九九五年、G「相続回復請求権の消滅時効」判例評論四五七号五七頁、一九九七年、H「労災保険法上の休業補償請求権と消滅時効−王子労基署長事件・東京地裁判決の研究」労働法律旬報一四〇三号一六頁、一九九七年、I「戦後補償裁判と消滅時効・除斥期間−不二越訴訟第一審判決」ジュリスト一一一八号一一七頁、一九九七年、J「民法七二四条後段の除斥期間の適用制限−東京予防接種禍訴訟最高裁判決」法律時報一九九八年一〇月号九一頁、一九九八年。

 

二  時効制度の存在理由−機能的考察

  時効の主たる存在理由としては、a法的安定性、b立証・採証の困難の回避、c権利不行使への非難性(権利の上に眠る者は保護に値しない)、d権利の永続性の否定、e権利者側の感情沈静、f権利行使されないことへの信頼の保護などの理由が挙げられてきた(1)。問題は、これらの時効の存在理由自体の(要素)の妥当性、それらの相互関係ないし位置づけである。

  この点を明らかにするために、時効制度を機能的に検討してみよう。

  時効制度によって、当事者が時効を援用すれば、次の結果が生ずる。


(一)  当事者にとって    1  弁済者保護  時効の援用によって、義務を真実履行したのに、時の経過によってその立証ができない弁済者が保護される(2)。これは時効の存在理由のうち、時の経過による立証・採証の困難の回避が当てはまる場合である。しかし、損害賠償訴訟のように、賠償義務の存否自体が争われ、義務の不履行について一般に争いのない場合には、この理由はあてはまらない。

2  非弁済義務者保護  そもそも義務がないのに、時の経過によりその立証・採証ができないことを回避する時効の機能である。この機能は、義務の成立要件についての証明責任を誰が負担するのかという問題ともかかわる。不法行為に基づく損害賠償義務においては、義務の存在について請求権者が立証責任を負うから、時の経過による立証困難は権利者が負担することになる。それでも訴訟を提起するというのだから、時効の存在理由としての立証困難はここでは妥当しない。

  時の経過による被告側の防禦の困難という問題も(3)、時がたつと上述のようにそもそも原告側の権利主張が立証困難なのだから、それほど重視すべき問題か疑問である(4)。また当該義務の存在及び義務の不履行自体が争われていない場合には被告側のこの点での防禦の問題も関係ない。

3  未弁済者保護  時効によって真実弁済していない者が保護されることがある。しかし権利者が保護されず、未弁済者が保護されるのは不正義、不公平である(5)。未弁済者保護を正当化する別の理由が必要となる。

  (1)  法的安定性  時効の存在理由としての法的安定性はこのような正当化理由たり得るであろうか。義務不履行の法的状態を保護することを法的安定性と評価しうるとすれば、法が結果的に不法なことに手を貸すことになり(義務を履行しなくても時がたてば許される)、そのような義務不履行者にとっての「安定性」を「法的」に保護すべきこと自体の正当化理由がいるのではなかろうか(6)

  (2)  権利の上に眠る者  権利の上に眠る者は保護しない、すなわち権利不行使への非難性という時効制度の存在理由はどうか。本来、権利は行使してもしなくてもよいはずで、権利を行使していないからといって「権利の上に眠る者」と評価すること自体が問題である。この存在理由は、権利を行使していなかったら権利を奪って良いという積極的な存在理由というよりも、時の経過によって後で権利が行使できなくなっても、権利を行使できるときにしなかった者が不利益を受けてもやむを得ないという消極的な存在理由として位置づけるべきではなかろうか。すなわち、権利不行使への非難性は、権利を行使できなかった者に対して時効によって権利を奪うことは不合理であるという側面こそを重視すべきだと考える(7)

  そして、このように権利行使ができなかった者に対して時効による権利消滅を認めるべきではないという基本的考え方は、一般の消滅時効の起算点が「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」(民法一六六条一項)とされている点や(8)、権利者による請求や差押、仮差押、仮処分のような権利者の権利行使によって時効の進行が止まり、再度ゼロから時効が進行するという時効の「中断」制度があること(民法一四七条以下(9))、一定の権利行使不可能ないし困難な場合に時効の完成を認めない時効の「停止」制度(民法一五八条以下)が置かれていることからも首肯し得るのではなかろうか(10)

  (3)  権利の永続性の否定  星野英一が前述のように時効制度をもって真の権利者保護、弁済者保護と解するのとは反対に、松久三四彦は、「時効は非所有者・未弁済者のための制度であるとの立場から解釈すべきであると考える」と言い切り(11)、「一種のコペルニクス的展開(12)」をもたらそうとしたと評された。松久は言う。

  「消滅時効制度は、法の二つの要請、即ち、@債務者といえども永遠に権利不行使という不安定な状態に置かれるべきではない(権利者といえども、国家の後見的介入により権利の満足を得る地位は永久不変であるべきではない=公権的解決を望むなら一定期間内に司法機関へ申し出よ)との要請と、A債務は履行さるべしとの要請の調和を図り、権利不行使という事実の一定期間経過により、債務者に形成権たる援用権(債権者の請求権を消滅させる権利)を与え、援用権の行使により法律上の債務者の地位を免れさせる制度である。・・・今日の社会では、『契約は守らるべし』を至上命題として、いつまでも債務者に『責任』を課し続ける解釈こそドラスティックにすぎるのではなかろうか(13)。」

  松久説に対しては、既に次のような批判がなされており、筆者も同感である。すなわち、「義務者といえどもそんなにいつまでも義務から免れないのは困るというのなら、さっさと弁済すれば、それですむことなので、それをずっと弁済もしないでいるのだから自分が悪い」(米倉明(14))とか、債務者は債務の履行という自分の行為によって「不安定な状態」を脱することができるのだから「債務者の不履行を正当化する何らかの理由があってはじめて、法の要請たりうるのではなかろうか」(中山充(15))。

  (4)  被害者感情の沈静  とくに不法行為の場合の損害賠償請求権の短期消滅時効(民法七二四条前段)に関して、「加害者を知ってから三年も経てば、まずどんな忿懣の情も解けてしまう」ことをその根拠にあげる見解に末川説がある(16)。確かにそのような被害者感情の沈静が権利不行使を根拠づけることは考えられよう。しかし逆に被害者が損害及び加害者を知った後に三年を経過しても、それでも損害賠償請求権を行使しようという場合には、被害者感情の沈静がないから権利を行使するのであろうし、「三年以上も経って請求するならば、そこは何か不純の動機があり不自然な事情が伏在する(17)」と一律に断ずることもできないと考える。

  (5)  権利不行使への相手方の信頼  これもとくに不法行為の場合の損害賠償請求権の短期消滅時効に関して、損害及び加害者を知って三年間も被害者が権利行使をしなかったのならば、加害者は請求を断念したと信頼するのが自然であり、この信頼は保護されるべきだとする見解がある(内池(18))。しかし、仮にこのような信頼が加害者に生じたとして、その信頼をなぜ法が保護すべきなのか疑問である。内池は、権利不行使への加害者の信頼が保護される「結果たる請求権消滅は、権利の上に眠れる者としての被害者が負担する危険である」とするが(19)、だとすれば、権利不行使への相手方の信頼保護はそれ自体で正当化されるのではなく、それとあいまって権利者が権利を行使できるのにしなかったから不利益を受けても仕方がないということと併せて初めて正当化されることを意味しよう(20)。従ってここでも権利行使可能性が前提とされることになる。


(二)  裁判官にとって    裁判官にとっては時効が当事者に援用されると、請求の可否について時の経過の一事により判断することができる。すなわち内容に立ち至って実体判断を下さなくてすむという点で、理論的に、或いは政治的に厄介な問題の解決を回避でき、また、負担の軽減にもつながるというメリットが生ずる。

  但し、時効の起算点や、援用制限の是非につき判断すべきことになると、実質的判断が必要となる。この点から見れば、形式的な時効援用ないし除斥期間の効果の是認は、当該裁判所にとっての訴訟経済にはなっても、社会的にみれば紛争の解決が非法化されて社会に潜在化、放置されるという問題を生じさせる(21)


(三)  社会的効果    1  訴訟の事前の抑止  時の経過により時効が援用されると権利が消滅したとされるので、権利者が訴訟をあきらめ、そのことによって訴訟数が抑止される。

  しかし仮にこのような理由が時効の存在理由であるとすると、なぜ訴訟を抑止するのか、そのことの正当化が必要となる。裁判官の負担軽減がその理由であれば、裁判官を増やせばよいのであって、財政的制約は絶対的正当化理由とはならないはずである。また、特定の訴訟の抑止を目的にするならば、被告の保護(権利者ないし特定の権利の保護の否定)というそのような政策目的自体の当否が問題となる(22)

2  紛争の早期解決促進機能  とくに短期の権利行使の期間制限については、早く提訴しないと時効により権利行使ができないから、権利者が早期に紛争を解決しようとする。そのことにより紛争が生じうる時間が制限され、その分、当該問題に関する法的関係が早期に確定し、法的安定性が実現する(23)

  しかしこれは、顕在化した紛争の早期解決であって、紛争自体が潜在化している場合はどうなるのかという問題が残る。例えば、潜在化している損害の場合には、損害が客観的に権利者に認識できなかったのであるから、権利不行使への非難性を欠く。このことが後で検討するように(三(四)1)損害顕在化をもって時効の起算点とする解釈論の展開を判例・学説上実際に生み出してきたのである。このことは紛争の早期解決の要請もそれのみでは時効制度を正当化するものではなく、やはり権利行使可能性を前提としているのではないかということを示している。


(四)  小    括

  以上検討してきたように、時効の存在理由として掲げられる理由はどれもそれ自体では決定的な存在理由たり得ない。法的に保護すべき正当な存在理由としては、星野英一が強調するような真実の権利者保護、弁済者保護があげられるが、時効によって非権利者や未弁済者が保護されることの正当化理由は、十分には見出されず、法的安定性や立証・採証の困難の回避、被害者感情、権利不行使への義務者の信頼保護などのどれをとっても決定的な理由にはならない。ただ重要なことは、ともかくも権利者が権利を行使できない場合にまで時効の効果を認めるのは不合理ではないか、その逆に権利を行使できたのに権利を行使しなかった場合に、これらの存在理由とあわさって権利が消滅することがやむをないものとして、ようやく正当化されるのではないかというのが私見の結論である。

  結局、私見によれば、時効の存在理由のうち第一次的に重視すべきなのは、権利不行使への非難性という理由であって、法的安定性や立証・採証の困難の回避、権利不行使への信頼の保護などという理由は、それ自体独立して重視すべきではなく、権利を行使できるのに権利を行使しない場合に、権利を消滅させることの副次的な正当化理由として位置づけるべきではないだろうか。そしてこのことは公益性や法律関係の早期画定の要請、あるいは法律関係の不安定の除去などが強調される除斥期間においても基本的に妥当するのではないか(24)

  以下に検討するように、我が国の時効論・除斥期間論もこのような権利行使可能性重視の理論展開に踏み出し始めている、或いはまだそれが十分でないならば更に踏み出すべきであるというのが筆者の見解である。

(1)  時効制度の存在理由に関する総括的な検討として、星野英一「時効に関する覚書−その存在理由を中心として−」同『民法論集第四巻』一六七頁、有斐閣、一九七八年。)一六七頁、松久三四彦「時効制度」星野英一編集代表『民法講座1民法総則』(有斐閣、一九八四年)五四一頁及びそこで引用されている諸文献参照。なお財産的取引に入った第三者が前提となる法律関係の当事者の一方の権利の消滅時効(ないし除斥期間の経過)によって保護され、その結果取引の安全が保護されることがある(相続回復請求権についてのこのような問題についての検討として、松本G)。本稿では前注一(1)で述べたように、損害賠償請求権の消滅時効の検討を主たる目的としているので、この点はひとまず射程外においておく。またフランスにおける時効理論の展開を跡づける中で、時効本質論も分析する本格的労作として金山直樹『時効理論展開の軌跡−民法学における伝統と変革−』信山社、一九九四年、ローマ法及びその後の近代法史における時効論を扱った大作として吉野悟『近世私法史における時効』日本評論社、一九八九年がある。時効・除斥期間論の本格的な比較法史的検討は筆者の次の課題である。

(2)  前掲星野「覚書」は、詳細な判例分析から、「消滅時効においては、若干事実のはっきりしないケースはあるが、弁済したらしいケースはあまり見当たらない」とする(二九五頁)。

(3)  とくに民法七二四条前段の短期消滅時効につき、新美は「原告が不法行為を知って十分な証拠資料を集めたうえで、相当期間経過後、不意打ち的な請求をなしたため、被告の側で防禦のため証拠資料を集めようとしても、時の経過のゆえに、かつ不法行為という偶然的な事件のゆえに、証拠が散逸してしまって、それが不可能であるという事態を回避する」ところに存在理由があるとする(新美育文「不法行為損害賠償請求権の期間制限」法律時報五五巻五号一〇七頁、一九八三年。)

(4)  この点に関して内池の指摘する次の点は、筆者も同感である。「元来事実経過による立証困難の問題は、請求の相手方たる賠償義務者のみならず請求権者についてとくに重大なのであり、原則的に請求権成立要件全般についての立証責任を負わされる不法行為上の請求権者としては、前記の如き不法行為の特質よりして時間経過につれてその立証は困難となり時効をまつまでもなく請求不能の状況におちいる故に、権利者側のかかる立証の成功を前提として義務者側の反対・抗弁・免責事由等につきその立証困難を救済する必要は、現実にはさほど大きなものではない。」(内池慶四郎「不法行為による損害賠償請求権の消滅時効」同『不法行為責任の消滅時効』三三頁、成文堂、一九九三年、初出・法学研究四四巻三号、一九七一年)。

(5)  星野英一は我が国の判例上「特に、消滅時効は、非弁済者を保護することが圧倒的に多く、権利の存続期間といってもよいほどのものになっている」としつつ、時効の「存在理由」を考える場合に、時効が「現実に営んでいる機能」と、そこから解釈論を導く「あるべき姿」の提示のための「存在理由」を区別すべきことを提唱し、「原則としては、特にある型の利益を保護すべき要請のある場合(例えば取引安全など)や、特に短期に事を処理すべき要請のある場合を除き、時効は、真の権利者の権利を確保し、弁済者の二重弁済を避けさせるための制度と考える。その根拠は、いうまでもないが、原則として、他人の所有物を奪うべきでなく、債務は弁済すべきものだからである。」とする(前掲星野「覚書」二九九頁以下)。

(6)  中島は、この点を次のように強調する。「正当なる権利者の犠牲に於て、無権利者のために権利を創設するというが如きが、正義感を踏みにじり条理と道徳を無視することなしに制度化し得るものであろうか。」「若し時効制度にしてそのような不正・不条理・不道徳なるものなりとせば、その存在は本来否定さるべきものでないであろうか。」(中島弘道「時効制度の存在理由と構造」(一)法学新報六四巻四号五頁、一九五七年)。なお時効制度の存在理由として「公益」や「社会秩序」という理由づけがなされることがあるが、それだけでは内容不明確であるとして批判するものとして、星野「覚書」一七六−七頁。

(7)  星野は、権利の上に眠る者は保護しないという時効制度の根拠の説明は「権利者がなんらかの不利益を蒙ることの根拠とはなりえても、権利を全く失ってしまうことの根拠としては十分でない」とし、「消滅時効については、いちおうもっともであるが、同じく、権利喪失という重大な結果の説明としては十分であるか、なお疑問である」とする(星野「覚書」一七九頁)。このように単なる権利不行使が権利消滅を正当化するものではないとの考え方は、それ以前にも示されてきた(吾妻光俊「私法における時効制度の意義」法学協会雑誌四八巻二号二一一頁、一九三〇年、前掲中島弘道「存在理由」(一)六頁、山中康雄「時効の本質−権利得喪説と証拠方法説」『民法基本問題一五〇講T』二二一頁、一粒社、一九六六年など)。また、内池は、「権利者の態容は、権利行使により時効の効果を排斥できる可能性を権利者に保留することにより、時効制度の硬直な運用より生ずる苛酷な結果を避けるという意味で、時効の効果を消極的に効果づけるに止り、これを積極的に根拠づけるものではないと考える」とする(内池慶四郎「時効の目的とその根拠について−時効要件としての時間経過の意味」『消滅時効法の原理と歴史的課題』三一頁、一九九三年、成文堂、初出・私法二八号、一九六六年)。

(8)  一六六条一項の趣旨については、後述三(一)で検討する。

(9)  時効の中断事由には「承認」が含まれるが(民法一四七条二号)、債務者が債務を承認しているときに、あえて権利行使をしなくても権利の上に眠る者とは評価できないであろう(前掲松久三四彦「時効制度」三八五頁参照)。なお、時効制度の存在理由を法定証拠と考える立場からは「もし強い証拠力をもつ事実によって、一定の時における権利の存在が確認し得られるならば、挙証上の困難はその時以後の権利の存続についてのみ存在するのであり、だから、時効期間はあらためてその時から起算されてよいことになる。これが、時効の中断が法律上規定される理由」とされる(前掲川島武宣『総則』四七三頁)。但し、とくに不法行為を理由とする損害賠償請求権については、損害賠償請求権の行使は必ずしも権利の存在を確認することにはならないので、このような理由付けは当てはまらないであろう。

(10)  時効の停止制度の趣旨を、権利行使可能性がない者に時効を完成させることは不合理だからと把握することは、前述のように除斥期間に時効の停止事由である民法一六一条を類推適用する際にも用いられる。例えば川井は次のように言う。「除斥期間の満了直前に大災害などにより権利者が権利を行使しにくい事情がある場合に権利の行使を否定するのは酷だから、除斥期間にも時効の停止に関する一六一条の規定を類推適用してよい。」(前掲川井『総則』四一六頁)。なお時効の停止制度に関する歴史的、比較法的検討(我が国の民法典制定過程での議論、旧民法、ボアソナードの議論、フランス法、ドイツ法の検討)については、かつて不十分ながら検討したことがある(松本@)。ボアソナードは時効制度の趣旨を時効は真実の権利者、弁済者を保護する制度と考え、その影響のもとに成立した旧民法は「証拠編」八九条の中に「時効ハ時ノ効力ト法律ニ定メタル其他ノ条件トヲ以テスル取得又ハ免責ノ法律上ノ推定ナリ」と規定した。またボアソナードは旧民法の時効の停止制度の説明として「権利が行使され得なかったのに、時効によって権利が消滅し得ないことは当然である。・・・実際、債権者が弁済を請求し得なかったのに、債務者が弁済を受けたことを合理的に推定することはできない」とし、時効の停止をフランス古法以来の法格言「訴訟をなし得ざる者に対しては進行せず」(contra non valentem agere non durrit pr・scriptio)の適用される場合であるとしている(Boissonade, Projet de Code Civil pour l’empire du japon, t. V. 1989, p. 329.)。

(11)  松久三四彦「消滅時効制度の根拠と中断の範囲」私法四五号一八五頁、一九八三年。

(12)  松久三四彦・米倉明・野村好弘「民法を語る・消滅時効制度の根拠と中断の範囲」Law School 三四号五二頁(野村好弘発言)、一九八三年。

(13)  松久三四彦「消滅時効制度の根拠と中断の範囲」(一)北大法学三一巻一号三八〇頁、一九八〇年。

(14)  前掲「民法を語る」五三頁。

(15)  中山充「民法学のあゆみ」法律時報五五巻一一号一三三頁、一九八三年。

(16)  末川博「不法行為による損害賠償請求権の時効」『民法論集』二九〇頁以下、評論社、一九五九年(初出、法学論叢二八巻三、六号、一九三二年)。

(17)  同前。

(18)  内池は言う。「損害および加害者を知る権利者が相当の期間内に権利行使に出ぬ以上は、その態度よりして権利者が義務者を宥恕したかあるいは賠償の必要を認めないか何らかの理由から請求を断念したものと賠償義務者の側で信頼することが自然であり、この信頼は正当なものと評価してよいであろう。それ故に相当期間にわたりかかる態度を保持した権利者が突如として態度をひるがえして賠償を請求することは、義務者の正当な信頼を裏切るものとして許されないというべきである(Venire contra factum proprium)。」(前掲同『消滅時効』三五頁)。

(19)  前掲内池『消滅時効』三六頁。

(20)  内池はこの点に関して「権利の上に眠る被害者に保護が否定されるのは、義務者側の信頼保護を予定することなのであり、権利の上に眠ることが直ちに権利消滅を結果するものではない」とするが(前掲内池『消滅時効』三七頁注(11))、本文で述べた私見からすれば、このことは、権利不行使への加害者の信頼保護についても逆に当てはまる(権利不行使についての信頼保護がただちに正当化理由になるのではなく、権利者が権利を行使できるのにしなかったことと併せて正当化事由たり得る)。なお内池説は、こうした権利不行使への加害者の信頼の正当性は、時効援用権の濫用なども含めて「この時効を具体的に適用する場面において検討・吟味されるべき必要がある」とするが(内池『消滅時効』一七七頁)、時効援用権の濫用を積極的に理論化すべきだとする私見からしても傾聴に値する。

(21)  かつて筆者はこの点に関して、除斥期間につき当事者の主張を要しないことを理由に、信義則違反や権利濫用論による適用制限を否定する前掲最高裁一九八九年判決に対して、当事者が除斥期間の起算点を争っている場合や、逆に被告が時の経過を主張していず、あくまで白黒をはっきりさせようとしているのに、裁判官が職権で除斥期間を適用することの不当性を指摘した(松本C一一二頁)。

(22)  例えば、我が国の近世における幕藩法体制のもとでの金銭債権に関する争い(「金公事」)についての出訴制限期間には、金公事の訴訟があまりにも多く、必ずしも能率的でない裁判所にとってこれを制限ないし整理する必要があり、とくにそのことによって実質的には多くは武士であったと思われる債務者の一時的な救済をもたらしたとされる(牧英正・藤原昭久編『日本法制史』二四八頁(神保文夫執筆部分)、青林書院、一九九三年)。

(23)  例えば売買契約における売主の担保責任の追及に関する短期の期間制限の趣旨は、「問題を速かに解決しようとする立法の趣旨」(我妻栄『債権各論中巻一(民法講義V2)』二九七頁、岩波書店、一九五七年)とか、「短期間に権利関係の確定を図ろうとする目的」(広中俊雄『債権各論講義第五版』六二頁、有斐閣、一九八三年)などが指摘されている。

(24)  なお新井は除斥期間につき一般に強調される「速やかな権利行使の促進」「公益性」の意義が不明確であり、具体的規制目的を明確化すべきだとするが同感である(新井敦志「除斥期間再考−『速やかな権利行使』『公益性』に関して−」高島平蔵先生古稀記念『民法学の新たな展開』九一頁以下、成文堂、一九九三年。また中島玉吉は、一九世紀末のドイツにおいて時効と除斥期間(法定期間)との概念的区別に関する理論展開に重要な役割を果たした Grawein, Verja¨hrung und gesetzliche Befristung, 1880 に依拠して、時効制度は適用対象とされる権利に本来時間的制約がないことを前提に、時の経過と権利不行使の事実という外部的事情により権利が消滅する制度であるのに対して、除斥期間は、当該権利の性質から始めから時間的制約が定められている権利が時の経過により当然消滅する制度であり、従って後者においては、権利行使の可能性は前提とならないとする(中島玉吉「除斥期間及ヒ出訴期限」『民法論文集』四六八頁以下、四七四頁以下、金刺芳流堂、一九一五年。中島は「除斥期間ヲ付セラレタル権利ハ既ニ其誕生ノ日ニ於テ死期ヲ宣告セラレタルモノ」で、権利の消滅原因は「始メヨリ権利自体ニ包蔵」されているとする。同四七六頁)。しかし問題は本文で述べたように権利の永続性が何故に否定されるべきなのか、その正当性である。公益性や法律関係の早期確定、法律関係の浮動性からの解放も、単に権利の時間的制約という前提を説明するにすぎず、その正当性を根拠づけるほど十分な理由たり得ないのではないか。なお前掲吾妻「意義」は、法定期間(除斥期間)による権利消滅が権利不行使への非難と結びついていることを強調して次のようにいう。「権利の不行使は時効にあっては客観的に債務消滅の蓋然性を示す標準であり、法定期間にあっては権利関係の不安定を生ずるものとして把握され権利者の権利を剥奪すべき幾分の主観的非難を伴ふのである。『権利の上に眠る』ものは法定期間にのみ認めらるゝのである」(六〇頁)。だとすれば権利がそもそも行使できないような場合には、期間の進行を認めるべきでないと立論するのが首尾一貫しているのではなかろうか。この点で松久は「いかに権利の速やかな行使という要請から除斥期間が認められようとも、法律上行使できない間はそのような要請も働かないというべきであろう」としているのが参考になる(松久三四彦「時効(2)−わが民法における権利の期間制限(消滅時効、除斥期間、失効の原則)」法学教室一〇八号五四頁、一九八九年)。また三藤は、除斥期間を権利の存続期間を定めたもの(民法二〇一条の占有訴権に関する期間制限、七七七条の嫡出否認の訴えの期間制限等)と、権利の行使期間を定めたもの(五六四条の売主の担保責任に基づく買主の代金減額請求権、六〇〇条の賃借人の費用償還請求権等)に分け、後者については、時効の中断、停止事由の準用を認め、前者についても一六一条の停止事由は類推適用を認めるべきであろうとする(三藤邦彦「時効・除斥期間」法学セミナー九二号五六頁以下、五九頁、一九五八年)。ドイツにおいても、時効の停止事由が準用されない純粋除斥期間(reine Ausschluβfristen)と停止事由が準用される混合除斥期間(gemischte Ausschluβfristen)とが存在することが紹介されている(橋本恭宏「ドイツにおける除斥期間論−現況の概観」法時五五巻三号二四頁、一九八三年。なお前述したグラヴァインを含むドイツの理論展開史については、半田吉信「時効期間と除斥期間の分化過程−ドイツ普通法を中心に」法時五五巻三号一四頁、一九八三年参照)。その他除斥期間については、「特集  時効期間と除斥期間−二重期間規定をめぐって」法律時報五五巻三、四号、一九八三年、永田真三郎「権利行使の期間制限」民商九三巻臨時増刊号(1)五九頁以下、一九八六年、椿寿夫「消滅時効と除斥期間の異同」手形研究四七五号一三頁以下、一九九三年、新井敦志「判例を素材とした除斥期間に関する一考察(1)(2)」酒田短期大学研究論集9号、一九九四年など参照。

三  民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」


(一)  起草者の見解    消滅時効の起算点の一般原則を示す民法一六六条一項は、「消滅時効ハ権利ヲ行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス」と定めている。現行民法典総則編の第六章時効の部分は梅謙次郎の起草によるものであるが、梅は上述の規定の趣旨を、次のように未だ行使できない権利について時効が進行するはずがないという点に求めている(1)

「元来此時効ト云フモノハ権利ヲ行使スルコトヲ得ル者即チ其行使スヘキ権利ヲ有シテ居ル者カ夫レヲ行使シナイ或ル期限ノ内行使シナイテ居ルト夫レテ怠リカアルト云フコトカ一ツノ理由トナツテ来ル然ルニ未タ行使スルコトノ出来ヌ権利ノ時効カ進行シヤウト云フコトハ一体ナイ筈テアリマス之ハ時効ノ性質上当然権利ヲ行使スルコトカ出来ルヤウニナツテカラ始メテ進行カ起算セラルヽテアルト云フ方カ正シイテアラウ」(傍点ー引用者。以下同様)。


(二)  法律上の障害論    その後の判例・学説は、更にこの「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」の趣旨を、権利の行使について法律上の障害がなくなった時であって、債権者の病気や権利の不知などの事実上の障害は時効の進行を妨げないといういわゆる「法律上の障害論」を展開するに至り、これが永らく通説的な位置を占めてきたと言える(2)


(三)  事実上の障害論の展開

1  弁済供託事件最高裁判決    ところが、このような法律上の障害論を大きく動揺させる判決が最高裁から出されることになる。いわゆる弁済供託事件に関する最高裁大法廷の一九七〇年(昭和四五年)判決である(最大判一九七〇年七月一五日民集二四巻七号七七一頁)。この判決で最高裁は従来の法律上の障害論から、事実上の障害論へ一歩踏み出す判示をし、大いに注目を集めることになった。すなわち、

「弁済供託における供託物の払渡請求、すなわち供託物の還付または取戻の請求について『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』とは、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるものであることをも必要と解するのが相当である。けだし、本来弁済供託においては供託の基礎となった事実をめぐって供託者と被供託者との間に争いがあることが多く、このような場合、その争いの続いている間に右当事者のいずれかが供託物の払渡を受けるのは、相手方の主張を認めて自己の主張を撤回したものと解せられるおそれがあるので、争いの解決をみるまでは、供託物払渡請求権の行使を当事者に期待することは事実上不可能にちかく、右請求権の消滅時効が供託の時から進行すると解することは、法が当事者の利益保護のために認めた弁済供託制度の趣旨に反する結果となるからである。したがって、弁済供託における供託物の取戻請求権の消滅時効の起算点は、供託の基礎となった債務についての紛争の解決などによってその不存在が確定するなど、供託者が免責の効果を受ける必要が消滅した時と解するのが相当である。」

  弁済供託による債務免責の効果は、債務者が供託物に対する取戻権を行使しないことによって生ずるのである。この意味でこの場合の取戻権の権利行使可能性は、権利者(債務者)が供託による免責の利益を受ける必要がなくなった時と解した本判決の結論は妥当である。従って、本判決以降法務省民事局からこの判決に従った実務上の指針が通達として出され(3)、本判決と同趣旨の本件一審、二審判決も含めてその結論に学説が賛意を表したのも当然であったと言える(4)

  問題は本判決が民法一六六条一項の「『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』とは、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるものであることをも必要と解する」とした点の射程距離である。これは果たして、最高裁が一般に、従来の法律上の障害論から事実上の障害論へと判例を変更したことを意味するのであろうか。それとも、供託物払渡請求権という「権利の性質」から例外的にそう解するというにとどまるのであろうか(4a)

  もっとも、ある判決の射程距離は自動的に決まるわけではない。そもそも判決は直接には当該個別事案の解決に向けられているのであって、判示部分の文言からはこれを限定的に解すことも、一般化して解すことも不可能ではない。結局、この判決の射程距離の問題は本判決の理論的位置づけをする解釈主体の側に投げかけられているのである。

2  星野説とそれに依拠した裁判例    (1)  星野説  本判決の射程距離を事実上の障害論の展開に向けて大きく位置づけたのは、言うまでもなく星野英一である。星野は言う。

「『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』から進行するというのは、本来は、主として条件・期限に関するもので、権利を行使することのできない時から進行するものでない、という消極的な意味のものであった。従って、厳密に、法律上権利を行使することができる時から進行すると解しなければならない必然性はない。法律的に権利が発生していたか否かが裁判所で始めて明らかになる場合も少なくなく、その際に、債権者とりわけ素人にその判断の危険を負担させることは酷である。特に不当利得返還請求権においてそうであり、時効がかなり認められていることは問題である。従って、これは、『権利を行使しうることを知るべかりし時期』すなわち、債権者の職業・地位・教育などから、『権利を行使することを期待ないし要求することができる時期』と解すべきである。」(傍点原著者(5))。

  星野説の特徴は、民法一六六条の権利行使可能性の問題を、当該債権者にとっての権利行使可能性という次元で、従ってその主観的要素も含めて具体的に判断している点にある。前掲最高裁一九七〇年判決が、供託物取戻請求権という権利の客観的性質それ自体に注目しているのとは対照的である。

  (2)  虫垂手術事件  星野説登場後に、その判断枠組みと同様の枠組みで判決を下したのが、虫垂手術の医療過誤事件判決である(福岡地裁小倉支判一九八三年三月二九日判時一〇九一号一二六頁)。事案は、虫垂手術後腹部の不調を訴えていたが、その原因が右手術により摘出されるはずであった虫垂の残存によるものであることが、手術後一四年目に判明し、右発見の翌年に被害者が最初の手術を担当した医師を相手取り提訴したというものである。債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点につき、この判決は次のように判示した。

「一般に消滅時効は、『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』から進行するが、右の『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』とは債権を行使するについて厳密に法律上の障害がなくなった時を指称するものではなく、権利者の職業、地位、教育及び権利の性質、内容等諸般の事情からその権利行使を現実に期待ないし要求できる時、換言すれば、『権利を行使することを知るべかりし時期』を意味するものと解するのが相当である。けだし、権利者の地位、権利の性質等諸般の事情に照し権利行使を期待等することが事実上不可能な場合にまで時効の進行を容認することは、権利者に対し正当な権利行使を制限することとなって過酷であり、引いては時効制度の本旨にもとる不当な結果を招来するに至るからである。」

  (3)  遠州じん肺訴訟判決  さらにまた、じん肺訴訟に関する遠州じん肺訴訟判決も、「民法一六六条一項の『権利を行使することを得る時』とは債権の性質、内容及び債権者の職業、地位、教育等から権利を行使することを現実に期待又は要求することができる時期」として、具体的な消滅時効の起算点を第一次訴訟については、弁護士による訴訟提起に向けた説明会が開かれた時、第二次訴訟については、第一次訴訟が提起された時としている(静岡地裁浜松支判一九八六年六月三〇日・判時一一九六号二〇頁)。

3  松久「客観的事実上の障害論」    星野英一が時効制度を「真の権利者保護、真の弁済者保護」として捉えるのに対して、前述のように(二(二))時効理論の「コペルニクス的展開」を標榜する松久三四彦は「時効は非所有者・未弁済者のための制度であるとの立場から解釈すべきである」とし、その立場から「権利の永続性を認める考えには賛成できない(6)」とする。だが、他方でそれが故に「通常人に権利行使が期待できない場合にまで時効の進行を開始させるのは権利の実質を損なう」ことを指摘し、次のような極めて注目すべき客観的事実上の障害論を展開している。

「・・・時効制度の実際的便宜のために客観的基準が望ましいという点からも、通説の、法律上の障碍の有無という基準を原則としてよいと考える。但し、問題は、この原則に例外を全く認めなくてもよいかということである。なぜなら、右の原則といえども通常人に対して権利行使を要求しうる場合であることという大前提の上にあるからである。したがって、通説の区分からすると事実上の障碍に該たる事由であっても、なお時効の進行開始を妨げるとするのが妥当な場合があれば、個別的に時効援用を権利濫用とすることも考えられるが、むしろ、これを正面から時効の進行を妨げる事由として認めてよいように思われる。このような場合を便宜的に、客観的事実上の障碍(他を主観的事実上の障碍)と呼ぶと(名称にこだわるものではない)、何がそれに該たるかはなお問題として残されている。しかし、それは事実上の障碍であってもなお時効の進行を開始させるべきではない事案の出現に備えて、予め、解釈の受け皿としての概念ないし範疇を用意しておくことに意味があり、具体的に何がそれに該たるかはそのつど考えざるを得ない性質の問題であるように思われる。ともあれ、一応の判断基準を立てるならば、権利を行使しうることを知っていても、通常人を基礎に判断して権利を行使することを要求できない場合、としておきたい。」

「なお、右客観的事実上の障碍という言葉は、講学上はともかく、少なくとも判決理由中に使うには適当でないとすると、その意味するところを、前掲四五年判決(弁済供託金返還請求事件−引用者注)に倣い、『権利の性質上、その行使を現実に期待できない場合』と表現するのがよいかもしれない(8)。」

  なお松久は客観的事実上の障碍の具体例として、虫垂事件で問題となったような「進行性被害(9)」及び、じん肺訴訟のような安全配慮義務違反事件において「通常人をしても安全配慮義務の不履行(又は不法行為)を理由に損害賠償を請求できるとの法的評価をなしえなかったということ(10)」を挙げている。

4  私見    既に起草者自身が明言するように、権利行使が不可能なうちに権利消滅の時効が進行するのは背理である。また星野が指摘するように、一六六条一項の起草過程からは後に判例・通説となるような「法律上の障害」論は明言されていない。その意味で法律上の障害はそれがあれば時効が進行しないという消極的な位置を占めるものでしかなく、積極的に事実上の障害を排斥するものではないとする星野の指摘は説得的である。

  他方で時効制度が時の経過によって権利を消滅させるという重大な効果をもたらすが故に、権利者の個々の事情によって時効の起算点自体が区々になることは時効制度の公益性を損なうという指摘にも傾聴すべき点がある。筆者はかつてこの点について、時効起算点論からの時効進行論の自立化を提言した。すなわち、事実上の障害論が提起した権利行使ができないのに時効が進行してよいのかという問題は、いつから時効が進行すべきかという起算点論の問題とは別に、法律上権利行使が可能だとしても当該事案において事実上権利行使が困難な場合にも時効を進行させるべきか否かという時効進行論の次元でとらえるべき問題である(11)。比較法的に見ても、フランス(12)、ドイツ(13)などでは、時効起算点については、一応厳格な解釈を維持しつつ、時効の停止事由を柔軟に解して、時効は起算点から進行し得るが、一定の障害事由がある限りで進行を停止しているという法的構成によって、個別問題に柔軟に対処しており、このような対処の仕方が現実の問題によって我が国でも迫られていると考える。但し、例えばドイツのように提訴が不可抗力により妨げられたことを時効の停止事由として明文化し、かつこの不可抗力を或る程度柔軟に解釈し(14)、また不法行為についての損害賠償請求権については、当事者の「交渉」(Verhandlungen)を時効の停止事由として明文化しているドイツ(15)などととは異なり、限定的な停止事由しかおいていない我が国の民法の解釈としては、一六六条一項の権利行使可能性には、起算点の意味での権利行使可能性=法律上の障害のないことと、時効の進行の次元での権利行使可能性=事実上の障害のないことの両者を含むと解することで対処すべきと考える(16)

  更に、星野が事実上の障害の問題として論ずる権利者の教育や職業などの個別的な主観的態様の問題は、むしろ個別事案における時効の援用や除斥期間の適用が信義則違反や権利濫用に当たるか否かという援用・適用制限論の次元で個別的に判断すべきであって、時効の進行論の次元では当該権利の性質から客観的に見て誰が権利者であろうと権利行使が事実上期待不可能であったことを本質的要素として位置づけるべきだと考える。具体的には一定の場合の過失なき権利の不知(とくに我が国では一九七五年になって初めて最高裁が安全配慮義務違反に基づく債務不履行を理由とした損害賠償請求権を認めたように、当該権利が未成熟であった場合)や訴訟の困難、交渉などがこのような時効の進行を妨げる事実上の障害として考えられる(17)

  以下、時効起算点論、進行論との関連で特に問題となる二つの問題、すなわち損害の顕在化の問題と、権利ないし権利行使条件の成熟に関連して外的事情による権利行使の事実上の困難の問題を検討しよう。


(四)  個別的問題

1  損害に関する問題    (1)  損害の顕在化  一六六条一項との関係で権利行使可能性が問題となる重要な場合のひとつに、損害賠償請求権における損害の顕在化の問題がある。この問題が時効との関連で争点となったのが、多くのじん肺訴訟であった。じん肺症においては、被害が潜行し、蓄積し、損害が顕在化するまでに時間がかかり、かつ、顕在化した損害がどこまで深刻化するのかが予見困難であるという特質がある(18)

  じん肺訴訟における初期の裁判例においては、債務不履行を理由とした損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、本来の債務の履行を請求しうる時であるとする〈債務の同一性の法理〉に従い、じん肺症の場合には、じん肺職場を退職するまでは安全配慮義務の履行を請求できたのであるから、時効の起算点はそのような履行を請求できなくなった退職時であるとする退職時説をとる裁判例があった(19)

  しかし、損害賠償請求権が行使できるためには、少なくとも損害が発生し、しかも、それが客観的に認識可能でなければ、そもそも損害賠償請求権自体の成立要件を満たしたと評価できないはずである。私見は、その意味で少なくとも損害の顕在化は時効進行論において問題となる事実上の障害以前の、法律上の障害に含まれることを主張し、このような結論は比較法的にみても首肯しうるものであることを強調した(20)

  最高裁は一九九四年に至り、長崎じん肺訴訟の上告審判決において、「管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する症状に基づく各損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ず、したがって、重い決定に相当する症状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となる」とした(最高裁一九九四年二月二二日民集四八巻二号四四一頁)。これは、重度の損害の顕在化はその時点でその重度の損害についての損害賠償請求権が法律上行使可能になったという把握であり、損害の顕在化を法律上の障害の次元の問題として把握するに至ったと評価できる(21)

  (2)  進行型損害  さて今ひとつ問題となるのは、損害が顕在化したとしても、その損害が進行型の場合に、どの時点をもって民法一六六条一項で言う「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」と把握すべきかという問題である。この点もじん肺訴訟で問題となったところである。

  裁判例は、損害の顕在化を少なくとも時効の起算点とすべきこと、また損害の顕在化についてはじん肺罹患者に対する行政上の管理区分を一応の基準とすることを前提としつつ、罹患者が最初の行政上の決定を受けた時とする説(22)、前記九四年最高裁判決のように最も重い行政上の決定を受けたときとする説(23)、管理区分四の決定通知を受けた時とする説(24)などに分かれている。

  私見は、民法一六六条一項の権利行使可能性の判断は、何らかの損害賠償請求ができたか否かという一般的抽象的次元ではなく、まさにその消滅時効の完成が訴訟で問題となっている当該損害についてのその損害賠償請求権の行使可能性についての判断、すなわち権利行使可能性の個別具体的次元でなされねばならないと解する(「個別具体説(25)」)。なぜなら、損害が軽微な段階ではその軽微な損害についての賠償は確かに可能であっても、その後提訴する段階で顕在化した重度な損害は顕在化しておらず、その重度の損害に対する賠償請求権は法律上も成立していないと評価できるからである。そして、じん肺のように、症状がどれだけ進行するかが客観的に予見できないような進行性損害の場合には、結局それ以上の損害の進行がない時点、すなわち被害者が死亡するまでは、提訴する段階での損害の賠償請求権については権利行使が可能でなかったとして、死亡時説をとるべきである(26)

  この意味で、前掲長崎じん肺訴訟上告審判決は、最初の行政上の決定の通知を受けたときとする原判決を退けて「最初の軽い行政上の決定を受けた時点で、その後の重い決定に相当する症状に基づく損害を含む全損害が発生していたと見ることは、じん肺という疾病の実態に反するものとして是認し得ない」とした点は評価できるが、だとすれば、最終の行政上の決定を受けたときとするのは矛盾であって、死亡時説が妥当するのではないだろうか。なぜなら、例えば最も重い行政上の決定の通知を受けてから一〇年を過ぎて被害者がじん肺が理由で死亡した場合には、その死亡という損害は死亡時に発生したのであって、その時点で死亡についての損害賠償請求権が法律上発生し、その権利行使が法律上可能になったのにかかわらず、既に最も重い行政上の決定の通知を受けてから一〇年を過ぎているので、死亡についての損害賠償請求権の時効が完成し、死亡という損害が発生した時点で既に始めから権利行使ができないという背理が存するからである(27)

2  外的事情による権利行使の事実上の困難    上に述べた損害にかかわる権利行使可能性の問題は、損害賠償請求権という権利の性質に客観的に規定された要因であり、しかも賠償請求の対象としての当該損害が発生していなければ、その損害の賠償請求権がそもそも成立しないという意味では法律上の障害にあたるものであった。

  ところで、権利行使可能性の判断にあたっては、前述した弁済供託事件最高裁判決のいうように「権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるもの」であることを要するとした場合に、とくに問題となるのが外的事情による権利行使の事実上の困難であり、その典型例として争いになるのが、いわゆる戦後補償訴訟である(28)。ここでは、対照的な次の二つの判決を検討することによって問題の所在を明らかにし、筆者の解釈論的提言を試みることにする。事案は冒頭にあげた不二越訴訟である。

  (1)  不二越訴訟の事案  原告は「被告会社に行けば女学校にも行ける」「金はたくさん稼げる。中学、高校にも通わせてあげる」といわれて第二次大戦中に朝鮮から日本に連れてこられた当時一三歳の韓国人の女子、及び徴用令に基づき日本に強制連行され被告会社で働かされた当時二一歳の韓国人男性である。原告らが被告会社に対して未払賃金及び債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求等をなしたのに対して、被告は時効を援用した。なおここでは、民法一六六条一項にかかわる論点のみ検討する。

  (2)  第一審判決  富山地裁は被告が援用した時効の完成を認めて請求を棄却した。注目すべきはその起算点論である。被告は未払賃金の存否自体を争うとともに、仮に原告ら主張の賃金請求権が存在したとしても、遅くとも一九四五年末には履行期にあり、それから一年以上が過ぎているので時効消滅したと主張した(民法一七四条一号)。

  これに対して富山地裁は次のように判示して、時効の起算点は被告主張の時点よりも四六年後の一九九一年八月であるとしたのである。

  判決はまず民法一六六条一項の消滅時効の起算点につき一般的基準として「単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけでなく、さらに権利の性質上、又は、債権者の個人的事情を越えた客観的、一般的状況に照らして、その権利行使が現実に期待できるものであることが必要であると解するのが相当である」とした上で、本件における具体的起算点につき次のように判示した。

  一九六五年の日韓協定締結時の日本政府の見解は、「日韓協定により日本と韓国との間の請求権問題はすべて解決され、日韓両国及び両国民は、相互に請求権に関するいかなる主張もできず、この請求権の中には朝鮮人労働者に対する賃金も含まれるというものであった。」その後、日本政府は一九九一年(平成三年)八月二七日に至って、上記日韓協定は個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではないと公式見解を表明した。

  従って「平成三年八月二七日に日本国政府の右見解が表明されるまでは、原告らの個人的事情を越え、かつ原告らの関与可能性のない客観的、一般的状況により、原告らが本件賃金債権を行使することは現実に期待しえない状態にあり、右の政府見解の表明された時をもって、右権利行使が現実に期待できることとなったものというべきである。」但し、本件提訴はその時からすでに一年以上経過している平成四年九月三〇日であるから、本件賃金債権は時効により消滅した。

  (3)  二審判決  これに対して原告は控訴し、控訴審の中では時効の中断等を主張して争った。二審判決も結論的に時効の完成を認めて請求を棄却したが、問題はその時効の起算点である。現時点(一九九九年一月)ではいまだ公刊裁判集や雑誌に掲載されていない判決なので、長さをいとわず引用してみよう。

  まず本件未払賃金請求権の消滅時効の起算点は、被告主張のように、本来は、遅くとも昭和二〇(一九四五)年一二月であるとする。「民法一六六条一項は権利を行使することができる時から消滅時効が進行すると定めているところ、賃金債権については、一般に履行期の到来によって法律上の障害がなくなり権利の行使が可能になるのであるから、控訴人らの本件賃金債権も原則として履行期である毎月末日の経過をもって消滅時効が進行を開始するものと解するのが相当であり、右賃金請求権の存否・行使の可否についての控訴人らの主観的認識や経済状態や地理的条件といった控訴人らの一身上の事情による請求権の行使に対する事実上の障害は、時効期間の進行を妨げる事由にはならないと解すべきである。

  してみると、控訴人X1、X2の主張に関わる本件賃金債権については遅くとも昭和二〇年八月一日から、控訴人X3の主張に係る本件賃金債権については遅くとも昭和二〇年一二月一日から消滅時効の進行を開始したものと解するのが相当である。したがって、控訴人ら三名の本件賃金債権はいずれも時効により既に消滅していることが明らかである。」

  それでは、原判決が指摘するような平成三(一九九一)年の政府見解公表時までは控訴人にとって権利行使が事実上困難であったことはどう評価するのであろうか。この点につき、控訴審判決は、次のように権利行使の困難性を認めつつも、時効制度の存在理由は、権利不行使への非難につきるものではなく、法的安定性や立証・採証の困難などの他の理由にも配慮しなければならないとして、遅くとも昭和四〇(一九六五)年の日韓条約締結による国交回復時が権利行使可能な時であったと解すべきとする。すなわち、

「もっとも、昭和二〇年八月一五日の第二次世界大戦の終戦(日本の敗戦)により朝鮮は従前の日本の植民地支配を離れて独立し、その後昭和四〇年六月二二日の日韓基本条約の締結及びこれに伴う諸協定によって日本国と大韓民国との間の国交が回復されるまでの間は、両国間に国交のない状態が続いていたという特殊な事情があるから、右の国交回復までの間においては控訴人らが現実に本件賃金債権を行使するについては、法律上の障害に準じた客観的な障害があったものとして、右の国交回復時をもって民法一六六条一項の権利を行使することができる時が到来したものと解しうる余地がある。しかしながら、右の昭和四〇年の国交回復時を本件賃金債権の消滅時効の起算点としたとしても、右の時点から、控訴人らが当審において消滅時効の中断事由として主張する遺族会会長による賃金請求時である平成四年六月二三日あるいは本訴提起時である平成四年九月三〇日までに、既に二六年余りも経過しているのであるから、いずれにしても控訴人らの本件賃金債権について消滅時効が完成したことは明らかである。」

「控訴人らは、少なくとも日本国政府が日韓協定についての見解を改めた平成三年八月二七日までは控訴人らにおいて権利を行使することが不可能であったから、右同日以降を消滅時効の起算日とすべきである旨主張するが、日韓協定の法的効力の有無、範囲も最終的には裁判所によって判断されるべき事柄であるところ、前記昭和四〇年の日本と大韓民国との国交の回復によって控訴人らにおいても日本の裁判制度を利用して自己の権利を主張・行使することが客観的にも担保されたものということができる上、時の政府の法的見解の如何によって時効の起算日が異なるような解釈は、消滅時効制度の趣旨が権利の上に眠る者を保護しないことのみにあるのではなく、当該法律関係の早期確定の要請並びに一定の年月の経過によって証拠資料が散逸し、客観的事実関係の確定が困難になることを配慮したものであることに照らすと、法的安定性の面からも相当でなく、控訴人らの右主張は採用できない。」

  (4)  私見  私見は原判決への別稿判例評釈ですでに述べたように(29)、一九九一年八月の政府見解公表時をもって民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とする原判決はそれなりに合理性をもっていると評価しており、二審判決は疑問である。

  二審判決が言うとおり、或る条約の「法的効力の有無、範囲も最終的には裁判所によって判断されるべき事柄」であるとしても、条約上の義務の履行責任を負う日本政府の公式見解は単なる一私人の見解とは異なる重みを持っていよう。二審判決は「前記昭和四〇年の日本と大韓民国との国交の回復によって控訴人らにおいても日本の裁判制度を利用して自己の権利を主張・行使することが客観的にも担保されたもの」というが、時の政府が個人の請求権は消滅したという見解を表明している時点で、その政府が統治する国に所在する企業に対して、提訴することが果たして客観的に期待できるであろうか。他方で、二審判決は控訴人らの時効の援用が権利濫用に該たるとの主張の判断においては、結果的にこの主張を排斥しつつも、次のように平成三年八月の時点までは権利行使が事実上困難であったことを認めているのである。すなわち、

「もっとも、前記第一の二(原判決引用)の控訴人らの陳述書や供述による昭和二〇年に祖国に帰国した後の生活状況や戦時中日本の軍需工場に就労していたことについての祖国独立後の微妙な立場等を考慮すると、前記のとおり平成三年八月に日本国政府が日韓協定に対する見解を改めたことを知り、これを契機として本訴提起に及んだ控訴人らをいわゆる権利の上に眠っていた者として非難することができないことは控訴人ら主張のとおりである。」

  結局、二審判決の理由とするところは、時効の存在理由は権利不行使への非難性にあるだけでなく、法律関係の早期確定、採証の困難、法的安定性もあるということに尽きる。しかし、この点については、前述したように、権利行使が事実上不可能な場合に、時効を進行させることが、これらの時効制度の存在理由によって正当化され得るかという問題に帰着する。

  繰り返しになるが、私見によれば、時効の存在理由のうち第一次的に重視すべきなのは、権利不行使への非難性という理由であって、法的安定性や立証・採証の困難の回避、法律関係の早期確定の要請という理由は、それ自体独立して重視すべきではなく、権利を行使できるのに権利を行使しない場合に権利を消滅させることの副次的な正当化理由として位置づけるべき要素であって、二審判決はまさに権利剥奪の時効論として疑問である。事実上権利行使ができないうちにその権利の消滅時効が進行し、時効が完成してしまうことを正当化するような法的安定性とは果たしてどのような利益であるのか。このように時の経過によって紛争を裁判から放逐することによって、どのような法的安定性が生み出されるのであろうか。まさに被害者泣き寝入りの結果をもたらし、(実際に賃金支払義務が存在し、その義務が不履行であったとしたら)強制労働に対して対価も支払わない義務者にとってのみ意味ある法的安定性ということになろう。民法が市民社会の法であるとするならば、我が国の市民社会にとって、強制連行、強制労働の被害者が事実上権利行使ができないうちにその権利の消滅時効が進行、完成し、他方でそのような労働によって利益を得た使用者の長年にわたる義務の不履行状態を是認することが「法的に安定した」状態として評価するのかが今問われているのである。

(1)  『日本近代法立法資料叢書・法典調査会民法議事速記録1』五三一頁、商事法務研究会、一九八三年。なお、この項三の前半部分(一)−(三)の叙述は、筆者が既に発表した松本@六二頁以下の叙述を整理、再録し、部分的に補充したものであることをお断りしておく。

(2)  「債権の消滅時効は、債権を行使することについて法律上の障害がなくなったときから進行を開始する」「債権者の病気その他個人的な事実上の障害はもとより消滅時効の進行を止めない。」(我妻栄『新訂民法総則』四八四頁)。「『権利ヲ行使シ得ル』というのは、権利の行使の法律上の障碍がない、ということである。したがって、事実上の障碍(たとえば、請求権の存在を知らないこと)、債権者の一身上の事情による障碍(たとえば、債権者が行為無能力者であって法定代理人がいないこと)等は、時効期間の進行を妨げない。」(前掲川島『総則』五〇九頁)。その他、同旨を述べるものとして、前掲川井健『総則』四一八頁、近江幸治『民法講義T[2版]』三二七頁など。

(3)  法務省民事甲第四一一二号一九七〇年九月二五日付民事局長通達。

(4)  第一審判決(東京地判一九六四年五月二八日判時三七四号四頁)に対して「賛意を表する」(浅岡智幸・判タ一六六号五九頁、一九六四年)、第二審判決(東京高判一九六五年九月一五日判時四二七号二三頁)に対して「すぐれて実務的な裁判官の法感覚が問題の核心をみごとにおさえたことを示すもの」(下森定・判評九一号一一頁)、「最高裁の判決は是認されてよい」(遠藤浩・ジュリスト増刊『昭和四五年重要判例解説』四四頁、一九七一年)など。

(4a)  なお後注(18)の自賠法上の請求権に関する最高裁九六年判決も、この七〇年判決を引用して「民法一六六条一項のいう『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』とは単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、その権利行使が現実に期待のできるものであることをも必要と解する」としている。

(5)  前掲星野「覚書」三一〇頁。

(6)  前掲「民法を語る」五三頁。

(7)  松久三四彦「判批・虫垂事件」判評三〇三・一七七頁、一九八四年。

(8)  前掲松久「虫垂」一八三頁。

(9)  同前。

(10)  松久三四彦「判批・長崎じん肺訴訟第一審判決」判評三二三・二〇一、一九八六年。

(11)  松本@一五一頁、松本B一四五頁。

(12)  フランス古法では、事実上権利行使が不能な場合には時効は進行しないものとされ、これは「訴訟をなし得ざる者に対しては進行せず」(Contra non valentem agere noncurrit praescriptio)という法格言に表現され(Planiol et Ripert, traite´ pratique de droit civil francais, t. VII, 2 ed. 1954, pp. 796, The´ophile Huc, commentaire the´orique & pratique du code civil t. IV, 1902, pp. 521.)、判例上も、債権者の「不在」(l’absence)、「遠隔」(l’eloignment)、「権利の不知」(l’ignorance de son droit)、「交通の困難」(la defficulte´ des communications)などを理由に権利行使が不可能として時効が進行しないものとされた(Huc, op. cit. n 1181)。フランス民法典は裁判官の恣意的解釈を排除するため時効の停止事由を制限したが、にもかかわらず判例は権利の不知が時効の進行を止めないのはそれが合理的かつ正当な理由(une cause raisonnable et le´gitime)がない場合だけだとする判決を出したりもしている(Civ. 25 juin 1935, R. gener. assurances terrestres, 1935, 1063;Req. 27 janv. 1941, S. 41, 1, 7;Paris 28 oct. 1969. J.C.P., 70, 2, 16318.)。学説も上述の法格言を事実上の障害の場合に一定程度認めようとしているとされる(以上につき松本@一〇四頁以下)。

(13)  ドイツでは、プロイセン一般ラント法において、時効の停止事由として「権利行使の事実上の困難」(tatsa¨chliche Erschwerung der Geltendmachung)や、「無理もない権利の不知」(entschulbare Nichtkenntnis des Anspruchs)が定められていたが(516ff, 512ff. I9 ALR)、これが広すぎると言うので、時効の停止事由につき次のように規定した。ドイツ民法典二〇三条「@権利者が時効期間の最後の六ヶ月以内に、裁判の休止により裁判上の追及を妨げられた間は、消滅時効は停止する(Die Verja¨rung ist gehemmt, solange der Berechtigte durch Stillstand der Rechtspflege innerhalb der letzten sches Monate der Verja¨hrungsfrist an der Rechtsverfolgung verhindert ist.)。A前項の妨害が他の様態で不可抗力により妨げられた場合も同様とす(Das gleiche gilt, wenn eine solche Verhinderung in anderer Weise durch ho¨here Gewalt herbeigefu¨hrt wird.)。」しかし、その後判例はこの「不可抗力」概念を緩和し、ここでの不可抗力は「障害が、請求権者に正当に要求される注意を尽くしても防止し得ない事象に基づく場合」(wenn die Verhinderung auf Ereignissen beruht, die durch vom Anspruchsberechtigten billigerweise zu erwartende Sorgfalt nicht verhindert werden konnten)に存在するものとされ、具体的には、権利者を不意に襲った病気(BGH VersR 1963, 93)、官吏による誤った教示(RGZ 160, 94;BayObLGZ 1960, 497)、事故の結果についての医師の誤った教示(BGH VersR 1960, 1144)、東ドイツでの損害賠償請求権行使の政治的背景に基づく困難(BGH VersR 1964, 404)などが判例によって不可抗力とされてきた。以上の点につき松本@一一二頁以下。

(14)  前注参照。

(15)  一九七七年の法改正によりドイツ民法典八五二条二項は次のように規定する。「給付されるべき損害賠償に関する賠償義務者と賠償権利者との間の交渉が不確定のときは、当事者の一方又は他方が交渉の継続を拒否するまで、時効は停止する。」(Schweben zwischen dem Ersatzpflichtigten und dem Ersatzberechtigten Verhandlungen u¨ber den zu leistenden Schadensersztz, so ist die Verja¨hrung gehemmt, bis der eine oder der andere Teil die Fortsetzung der Verhandlungen verweigert.)。澤井裕はドイツ民法典のこの点の改正を、「まことに妥当である」としている(澤井裕『テキストブック  事務管理・不当利得・不法行為』二三七頁、有斐閣、一九九三年)。なおドイツの債務法改正委員会の草案は、交渉による時効の停止を全ての消滅時効期間に拡大適用する立法提案を行っている(委員会草案第二一六条。Hrsg. vom Bundeminister der Justiz, Abschluβabericht der Kommission zur U¨berarbeitung des Schuldrechts, 1992.)この草案についての紹介として、下森定・岡孝編『ドイツ債務法改正委員会草案の研究』法政大学出版会、一九九六年。また我が国において交渉中の時効の停止を解釈論として提言する論者として石田喜久夫(西原道雄・木村保雄編『公害法の基礎』二〇五頁、青林書院新社、一九七六年)、同・判批・判タ三四四・一一六、一九七七年)。また我が国の不法行為法研究会の不法行為法リステイトメントは、立法論として、七二四条の三として「損害賠償に関し当事者間で交渉を続けていたときは、交渉が打ち切られた時から一年間は、時効は完成しない」という規定の新設を提案している(不法行為法研究会『日本不法行為法リステイトメント』一五七頁以下、有斐閣、一九八八年)。

(16)  松本@一五一頁、松本B一四五頁。従ってこのように民法一六六条一項が〈時効起算点論と時効進行論の交差点〉たらざるを得ないことの必然性は、時効の停止事由を厳格化しすぎた我が民法典の構造に規定されたものなのである。

(17)  同前。なお事実上の障害論との関係で、権利者が当該訴訟外で争っている場合の近時注目される最高裁判決として、最高裁第三小法廷一九九六年三月五日判決・民集五〇巻三号三八三頁は、自動車の保有者が明らかでない場合の自賠法七二条一項前段の請求権の消滅時効につき、「ある者が交通事故の加害自動車の保有者であるか否かをめぐって、右の者と当該交通事故の被害者との間で自賠法三条による損害賠償請求権の存否が争われている場合においては、自賠法三条による損害賠償請求権が存在しないことが確定した時から被害者の有する本件規定による請求権の消滅時効が進行する」とした。妥当な判決である。本判決の評釈として後藤勇・私法判例リマークス一九九七年(下)一八頁、一九九七年、吉村良一・民商一一六巻二号一〇九頁、一九九七年など。また、労災被災者が労基署長の労災保険法上の休業補償請求権の不支給処分を争い、事実上権利行使が期待できないうちに休業補償請求権の消滅時効の進行を認めた王子労基署長事件判決(一九九五年一〇月一九日労判六八二号二八頁)を批判したものとして松本Hも参照されたい。また大木康は、事実上の障害論につき過渡的手段としては評価するが、事実認定や保護利益の視点から疑問だとする。すなわち、「『事実上の障害論』は、画一的な消滅時効制度を困難、複雑にして、当事者の攻撃防御の点でも、また裁判所の事実認定の問題でも、なお課題がある。」「債務者(加害者)の保護の必要性と時効利益が軽視される危険性が生じる。」(大木康「不当利得返還請求権の消滅時効」奥田昌道先生還暦記念『民事法理論の諸問題』下巻、四六三頁、四八〇頁、成文堂、一九九五年)。事実上の障害論の更なる理論的精緻化は、筆者にとってなお課題である。しかし、「画一的な消滅時効制度」「債務者(加害者)の保護の必要性」「時効利益」への根本的疑問が私見の根底にあることは、本文二で述べた通りである。

(18)  じん肺訴訟については、松本ADFで検討した他、山下登司夫「じん肺訴訟の到達点と残された課題」労働法律旬報一四〇五号一四頁、一九九七年、牛山積「じん肺訴訟と時効論−日本の現状」法律時報六一巻一三号四六頁、一九八九年、特集「じん肺訴訟の意義と到達点」労働法律旬報一二三九号四頁以下、一九九〇年など参照。

(19)  昭和電極じん肺訴訟判決(神戸地判一九七九年一〇月二五日・判時九四三号一二頁)。その他労災・職業病関係で、退職日説をとるものとして、東京地判一九七九年一二月二一日判時九五四号五六頁、東京高判一九八三年二月二四日判時一〇七三号七九頁。なお労災・職業病についての損害賠償請求権の消滅時効をめぐる裁判例については、かつて「第6章損害賠償請求権の消滅時効」『労働判例大系9[労働災害、職業病(2)損害賠償』二九九頁以下、労働旬報社、一九九二年でもとり上げた。

(20)  松本@六一頁、A九九頁など。

(21)  松本F一二八頁以下。

(22)  長崎じん肺訴訟第二審判決(福岡高判一九八九年三月三一日・判時一三一一号三六頁)。

(23)  他に長崎じん肺訴訟第一審判決(長崎地裁佐世保支判一九八五年三月二五日・判時一一五二号四四頁)。

(24)  前橋帝国硫黄等じん肺訴訟判決(前橋地判一九八五年一一月一二日・判時一一七二号一一八頁)、長野石綿じん肺訴訟判決(長野地判一九八六年六月二七日・判時一一九八号三頁)など。

(25)  松本E一九八頁以下、F一二八頁以下。

(26)  松本A九九頁以下、D五八頁以下で死亡時説とそれへの反論を展開した。

(27)  松本F一二九頁。

(28)  法律学では通常「補償」というと適法行為に対するものであって(例・土地収用に伴う補償)、犯罪的行為に対する被害の回復の問題は、損害「賠償」の問題とされる。ところが「戦後賠償」という概念は、戦勝国が敗戦国に要求する戦利品としての賠償金を意味し、これに対して「戦後補償」という概念は、第一次大戦後の戦争法の人道化の流れの中で生まれた観念であって、個人が国家に対して違法な侵略戦争における被害の回復として請求するものである。ベルサイユ条約第三〇二条二項以下では、個人の被害の救済手続が定められ、伝統的な国際法の、国家対国家の賠償によって決着する考え方とは別に、個人対国家の個別的請求権処理という側面が明文化されている(高木健一『戦後補償の論理  被害者の声をどう聞くか』五四頁以下、れんが書房、一九九四年)。我が国では、とくに一九九〇年代に入って、第二次大戦中の虐殺行為、虐待行為、生体実験、従軍慰安婦、強制連行・強制労働、残存兵器の問題などにつき、四十数件の国ないし日本企業を相手取った戦後補償訴訟が提起されている。我が国の戦後補償裁判について概観したものとして、藍谷邦雄「戦後補償裁判の現状と課題」季刊戦争責任研究第一〇号二頁、一九九五年、「特集  戦争責任と戦後補償」法と民主主義三〇〇号二頁以下、一九九五年、「特集  戦後補償をめぐる問題」自由と正義四四巻九号四頁以下、一九九三年、「特集  いま問われる日本の戦後補償」法学セミナー一九九二年八月号、「特集  戦後責任・戦後補償の原点」法学セミナー一九九四年九月号三二頁以下など。

(29)  松本I一一九頁。

 

四  民法七二四条と権利行使可能性


(一)  民法七二四条前段    1  基本的視点  民法七二四条前段は、「不法行為ニ因ル損害賠償ノ請求権ハ被害者又ハ其法定代理人カ損害及ヒ加害者ヲ知リタル時ヨリ三年間之ヲ行ハサルトキハ時効ニ因リテ消滅ス」と規定している。

  その基本的趣旨は、不法行為の場合には契約関係がある場合の債務不履行に基づく損害賠償請求権などと異なり、加害者と被害者との間に何ら関係がない場合もあるので、不法行為の存否自体が争いになりやすく、しかも時の経過による証拠の散逸、過失認定の困難、当事者の立証、防禦活動、裁判所の採証などの困難の問題も生ずるので短期の消滅時効とし、その代わりに被害者は損害及び加害者を認識しなければそもそも損害賠償請求権を行使できないので、時効の起算点に被害者側の損害及び加害者に対する主観的認識を含めたのだと解されている(1)

  被害者側の主観的認識を起算点に含めた趣旨が以上のようなものである以上、そこには、権利行使ができないうちに権利を時効消滅させることは不合理であるという時効一般の存在理由が背景としてあることは明瞭であろう(2)。ここでは権利行使可能性との関係でいくつか問題となる点を検討しよう。

2  損害  民法七二四条前段における損害の認識が権利行使可能性を前提としていることに鑑みれば、民法一六六条一項の権利行使可能性の解釈として提起した損害賠償請求権の権利行使可能性に関する個別具体説は、七二四条前段の解釈においても妥当する。

  重要なのは、権利行使可能性という視点から、損害を類型化して時効起算点を考えることである(3)

  (1)  単純損害型  損害が後述のように継続、進行をしない場合であり、これを更に二つに分けることができる。

@  単純顕在型  例えば交通事故で足を骨折した場合のように、損害が潜在化せず、蓄積もしない場合である。この場合はその顕在化した損害を被害者側が認識すれば当該損害についての賠償請求が可能だから、この時点が「損害を知った時」となろう。

A  単純潜在型  損害が蓄積していくのではないが、後遺症のように当初は潜在化しており、後に顕在化した場合である。この場合はそのような損害が顕在化しなければ客観的にも損害が認識不可能であり、従って法律上も損害は発生していないことになる。従って損害が顕在化し被害者がこれを認識した時点が「損害を知った時」となろう。かつて後遺症についての最高裁判決(最判一九六七年七月一八日民集二一巻六号一五五九頁)が、受傷当時予見できなかった後遺症の治療費については、受傷の時に消滅時効が進行するものではないと判示したのもその意味で首肯できよう。

  (2)  損害蓄積型  損害が蓄積する場合である。更に幾つかに分類することができる。

ア  継続不法行為蓄積型  損害蓄積の原因が不法行為の継続に起因する場合である。

@可分損害蓄積型  大審院判決は不法占拠に関する事件で、損害を賃料相当額の損害金として算定しつつ、その損害は日々発生するので、被害者も日々損害を認識したことになり、そのような日々の損害について別個に消滅時効が進行するとして、結果的に提訴より三年以前の損害についての賠償請求権は時効により消滅したと解した。損害をこのように日々可分のものとしてとらえるならば、このような捉え方もあながち不合理ではないかもしれない(3a)

  なおこの大審院判決の事案では、損害が最初に発生した時点が損害を知った時であるから、その後生じた損害を含めていっさいの損害賠償請求権の消滅時効が進行するとした被告の主張を退けて、上述のように判示したのであるが、このことは、この判決が損害賠償請求権の権利行使可能性を不法行為の当初の時点で損害賠償請求権の行使が可能であったという一般的抽象的次元においてではなく、その後に発生した損害についてのその損害賠償請求権の行使可能性を個別具体的次元で問題にしたものととらえ直すことができ。

A  不可分損害蓄積型  不法行為の継続によって損害が蓄積していくのであるが、その蓄積した損害を性質上日々の損害の蓄積として分けて評価できない場合である。例えば、或る不法行為の継続についての精神的苦痛に対する慰謝料請求の場合を挙げることができる。この場合は、不法行為が継続すればするほど精神的苦痛は大きくなるから、その意味で損害は蓄積していくが、しかしその蓄積は可分損害型のように日々量的に蓄積していくのではなく、いわば質的に深刻化し、拡大していく。このような損害類型では不法行為の継続が終了した時点で初めてその蓄積した損害(精神的苦痛)の全体を金銭的に評価できるようになるのであって、従来の判決例の中にも、工場の操業に起因する生活妨害事件において、財産上の損害賠償請求権については、出費した時点で個別に消滅時効が進行するとしながらも、慰謝料請求については、原告側が被告工場の操業により「長期間に亘り精神的に多大の苦痛を強いられてきたことは明らかである」ということを含めて「一切の事情を斟酌して」慰謝料額を認定しているものがあるが(4)、これは継続的不法行為による精神的苦痛は日々別個に発生していくものとして可分なものと評価できないことを示していると言えよう(5)

  ところで最高裁はいわゆる「不貞慰謝料」の消滅時効の起算点につき、可分損害蓄積型と同様に、日々消滅時効が進行するという考え方に立ち、次のように判示した(最高裁第一小法廷判決一九九四年一月二〇日判時一五〇三号七五頁)。

「夫婦の一方の配偶者が他方の配偶者と第三者との同せいにより第三者に対して取得する慰謝料請求権については、一方の配偶者が右の同せい関係を知った時から、それまでの間の慰謝料請求権の消滅時効が進行すると解するのが相当である。けだし、右の場合に一方の配偶者が被る精神的苦痛は、同せい関係が解消されるまでの間、これを不可分一体のものとして把握しなければならないものではなく、一方の配偶者は、同せい関係を知った時点で、第三者に慰謝料の支払いを求めることを妨げられるものではないからである。」

そして、当該事案では提訴前三年以前の慰謝料請求については、消滅時効が完成したとしたのである。

  私見は、別稿で述べたように、そもそも「不貞」を不法行為として慰謝料請求の対象とするという考え方自体に疑問を抱いているが(6)、その点を於いて仮に不貞を不法行為と把握するとした場合には、最高裁の示す起算点論は疑問である。なぜなら当該事案において問題とされているのは、昭和四一年以来二〇年近くにわたり継続されてきた不貞について原告が提訴時点で感じている精神的苦痛の慰謝料請求権なのである。その損害はまさに不貞行為終了時に把握できる損害なのであって、その時点以降金銭的に評価しうる損害である。消滅時効の起算点論としては、そのような個別具体的損害賠償請求権の権利行使可能性こそを問題とすべきであって、およそ一般に不貞慰謝料をいつ請求できたのかが問題ではないはずである。結局仮に不貞慰謝料請求権なるものの成立を認めるとした場合の消滅時効の起算点は不貞終了時と解すべきことになろう(7)

イ  進行蓄積型  損害の蓄積が不法行為の継続に起因するのではなく、損害自体の進行性の特質に基づく場合である。この場合は不法行為の継続が終了しても損害は進行していくのであるから、先に述べた継続的不法行為蓄積型のように不法行為の終了時をもって消滅時効の起算点とすることはできない。また、損害発生の当初の時点では確かにその損害の賠償請求権は行使可能だが、その後に提訴された時点で進行蓄積しているその損害についての賠償請求権は行使不可能である(個別的具体的次元での権利行使可能性の欠如)。従って当初の損害発生時を起算点とすることも妥当ではない。結局、進行蓄積型損害では「損害を知った時」とは、損害の進行停止時以降にその損害を被害者側が現実に認識したときと解すべきである。鉱業被害に関する損害賠償請求権の消滅時効の起算点につき、鉱業法一一五条二項が「進行中の損害についてはその進行のやんだ時」としているのは、まさにこの理を表明したものと捉えることができる(8)

  下級審判決の中には、進行性の後遺症につき「損害を知った時」とは、後遺症の進行がやみ症状が固定したときとするものがあるが(9)、これも以上のような考え方すれば首肯できる。

3  加害者  最高裁は戦前の警察による在留ロシア人への拷問事件に関して、七二四条前段でいう「加害者を知りたる時」とは、「加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況のもとに、その可能な程度にこれを知った時を意味するものと解するのが相当であり、被害者が不法行為の当時加害者の住所氏名を的確に知らず、しかも当時の状況においてはこれに対する賠償請求権を行使することが事実上不可能な場合においては、その状況が止み、被害者が加害者の住所氏名を確認したとき、初めて『加害者ヲ知リタル時』にあたる」と判示した(最高裁第二小法廷判決一九七三年一一月一六日民集二七巻一〇号一三七四頁)。

  七二四条前段も時効制度の存在理由たる権利行使可能性を前提としているという私見からすれば、本判決が当該損害賠償請求権行使の事実上の可能性という観点から加害者を知った時を解釈しているのは、まさに正鵠を得た解釈と評価できる。

4  損害及び加害者の認識基準  なお損害及び加害者を知った時に関して、通常人ならば損害及び加害者を知った時と評価できる場合を基準にするのか、通常人ならば知り得たはずなのに、当該被害者が知らなかった場合には、なお知った時とは解すべきではないのかが争われている(10)。前述の七二四条前段が被害者の主観的認識を起算点に含める趣旨を、三年という短期の時効期間を配慮したものと捉えるならば、損害・加害者の認識可能性も当該被害者の現実の認識を基準にすべきである。但し、被害者の現実の認識があったことを加害者側で証明することは困難なので、当該状況のもとで通常人ならば認識し得たはずであることを主張・証明すれば、被害者にとっての認識可能性が一応は推定されると言えよう。この点に関して、水俣病裁判において、水俣病の原因がチッソ水俣工場の廃液にあるとの厚生省の見解が官報に掲載された日をもって、損害及び加害者を知った時と解する判決例があり(11)、学説にもこれを支持するものがあるが(12)、官報などは一般の新聞とは異なりむしろ通常人が目にするものとはいえないので、一般の新聞紙上やテレビ等に報道された時点をもって通常人ならば認識し得たはずであり、ひいては原告も認識し得たはずだと評価すべきではなかろうか。

  なお法の不知は妨げずという法原則は一応は妥当すると考えるが(13)、民法一六六条一項で述べたような過失なき権利の不知、権利の未成熟の場合には、損害・加害者の認識がなかったと解す余地があると思われる(14)


(二)  民法七二四条後段と権利行使可能性

  1  民法七二四条後段の期間の性質

  民法七二四条後段は「不法行為ノ時カラ二〇年ヲ経過シタルトキ亦同シ」と規定する。この期間の性質が時効であるのか、除斥期間であるのかについては周知のように従来下級審判決・学説は対立しており、最高裁は冒頭で述べたようにこれを除斥期間としたが、学説状況としては「『最高裁平成元年』の出現は、かえって時効説を多数に導いた」といわれている(15)

  私見は既に幾つかの論稿で繰り返し述べてきたように、第一に民法七二四条後段の「亦同シ」という文言からして二〇年の期間制限も前段と同じく時効と解すのが合理的であること、第二に起草者自身もこの規定を時効と解していたこと、第三に立法に際して参照されたドイツ民法草案及び現行ドイツ民法でも長期の期間は時効と解するのが判例・通説であり、しかも長期の期間は一般の消滅時効期間と同じく三〇年と解されていること、第四に長期時効と解しても、前段のように起算点に被害者側の主観的認識を含めないのであるから、そこに二重規定の意義を認めることができること、第五に、長期時効説に立ち二〇年の期間の中断を考えた場合も、時効中断の前提として損害及び加害者を知っているはずだから、その時から短期の三年の消滅時効が進行するはずであり、浮動性の排除の点で除斥期間説とそれほどの差異はないこと、第六に、この短期の消滅時効の中断を繰り返し継続して行けば、確かに権利は永続するかもしれないが、それは権利一般にあてはまることで、なぜ不法行為に基づく損害賠償請求権の場合にだけ、権利一般には認められないことが許されるのかが問題となろう。結局、不法行為の損害賠償請求権に民法典に明文で認められているわけでもない除斥期間概念を、とくにあてはめることの必然性はないというのが私見の結論である。

  さて最高裁は一九八九年判決において、除斥期間説に経つことを明らかにしたが、学説状況はむしろ最高裁判決以降、前述のように逆に時効説が多数を占めていると評価されている(17)。その中で、昨年の六月に出された東京予防接種禍訴訟最高裁判決において、多数意見が除斥期間説にたつ一方で、河合裁判官は時効説に経つことを明らかにしており、注目される。

  河合裁判官はその際、民法七二四条後段の期間の性質を時効と解すべき理由を、不法行為法の「損害の公平な分担」という理念に求めている。この理念は「損害の分担の当否とその内容すなわち損害賠償請求権の成否とその数額を決する段階においてのみならず、分担の実現すなわち同請求権の実行の段階に至るまで、貫徹されなければならない。」かかる観点からすれば「権利者の期間徒過を理由としてその徒過につき責むべき事由のある相手方を画一的に保護するというのは不当であり、前記の不法行為法の究極の目的にも沿わない。取引関係者の地位の安定、その他公益上の必要という理由も、不法行為に基づく損害賠償請求権については考えることができない。」とする。傾聴に値する見解である(18)

  2  民法七二四条後段と損害の発生

(1)  加害行為時説と損害発生時説との対立    民法七二四条後段の「不法行為の時」をめぐっては、加害行為時説と損害発生時説との対立があるが(19)、損害発生時説が妥当と考える。この対立は、加害行為から二〇年以上を経て損害が発生した場合に実質的な意義を持つが、そもそも損害が発生していない段階の行為を「不法行為」と法的に評価できるのであろうか。損害賠償請求権の成立要件たる「不法行為」とは、損害の発生を前提としているはずである。

  加害行為時説は法的安定性や立証・採証の困難を理由にするが、前述したようにおよそ権利者に権利行使可能性がないのに時効や除斥期間が進行して権利が消滅してしまうと解することは問題である(20)

(2)  進行性被害の場合    損害発生時説にたつ場合に更に問題となるのは、進行性被害の場合である。じん肺訴訟において七二四条後段の期間の性質を除斥期間とした上で、その起算点を「損害発生時」としつつ、具体的には「最初の行政決定の時」とする判決があるが疑問である(21)

  なぜなら、仮に本判決がいうように最初の行政決定を受けた時を起算点とすると、それから二〇年を経過後に管理区分四の通知を受け、それ故初めてその時点での損害賠償請求権の行使が客観的に可能となった時点で、既に権利が消滅してしまっていることになり不当である。かつて栗山クロム訴訟判決は、「不法行為に基づく損害賠償請求権につき権利未発生の間に将来の権利不発生を確定させるような解釈をとるべき実質的必要性が高いとは解されない」として、七二四条後段においては「当該複数の障害がすべて出現・顕在化し、かつ、いずれの障害も当該障害自体としては進行拡大が止まり、固定化したと認められる時点」を起算点とすべきと判示したが(22)、このような観点は同じく進行性被害であるじん肺症にも妥当しよう。

  3  損害発生以外の権利行使可能性にかかわる要素

  戦後補償裁判では、損害発生以外の要素をもって権利行使可能性がなかったので、七二四条後段の期間も進行していなかったとする主張がなされることがある。また学説の中にも、そもそも七二四条後段は二〇年という長期の期間を定めているので、その間には権利行使が可能であろうということを前提としていると解す見解もある(23)。このような見解を押し進めていけば、外的事情から権利行使ができなかった場合でも、七二四条後段の期間は進行しないと解すことになろう。

  筆者もこれまで再三にわたり強調してきたように、権利行使可能性は時効の存在理由として重視すべきと考えるが、しかし「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」を直接に起算点として明文化する民法一六六条一項とは異なり、民法七二四条後段が「不法行為ノ時」を起算点としていることを無視することは解釈論としての限界を越えるのではないかと考えている。むしろ起算点論としては、前述のように損害の発生を「不法行為の時」に含めて考えることが限界であって、それ以外の権利行使可能性の要素は、起算点論ではなく、時効の進行論や援用制限論ないし除斥期間の適用制限論の次元で考慮すべきと考える。なぜならもし権利行使可能性の要素一般を民法七二四条後段の解釈に含ませるならば、民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは別に、「不法行為ノ時」と明文化したことの意義がなくなるからである。すなわち、起算点論としては(後述の時効進行論、援用制限論の次元では別)、損害の発生以外の権利行使可能性の要素は考慮しない限りで、不法行為を理由とした損害賠償請求権に対する法的安定性、立証・採証の困難の要請の優位を見るのである(24)

  4  除斥期間説と時効の中断、停止事由    七二四条後段の期間の性質につき、時効説にたった場合は、当然に時効の中断や停止事由が適用されることになり、その限りで権利行使可能性の要素が配慮されることになる。

  除斥期間説にたった場合はどうか。従来、除斥期間と時効との差異は、前者は時の経過によって画一的に権利を消滅させることがとくに必要な場合の規定であって、それ故に時効のような中断や停止事由は一般には認められないと解されてきた。しかし、ドイツなどでは、除斥期間を二類型に分け、時効の停止、中断の規定が排除される強い(strengene)或いは純粋な(reine)除斥期間と、それらの一定の規定が適用される弱い(abgeschwa¨chene)或いは混合(gemischte)除斥期間とが認められている(25)。このことは除斥期間だから中断、停止事由が認められないと解するのではなく、一定の時の経過により権利行使可能性がない場合でも権利を消滅させるべきかという実質的な政策的判断を基準にすべきことを示していると言えよう。

  さて、前掲の東京予防接種禍訴訟上告審判決は、七二四条後段の期間の性質を除斥期間としつつも、当該事案において、「民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じないものと解するのが相当である」とした。民法一五八条は「時効ノ期間満了前六个月内ニ於テ未成年者又ハ禁治産者カ法定代理人ヲ有セサリシトキハ其者カ能力者ト為リ又ハ法定代理人カ就職シタル時ヨリ六个月内ハ之ニ対シ時効完成セス」として、無能力者に対する時効の停止を定めた規定である。七二四条後段の期間の性質を除斥期間とした前掲最高裁平成元年判決以降でも、既に大阪予防接種禍訴訟控訴審判決は、七二四条後段は除斥期間としつつも、民法一五八条を類推適用している(26)

  東京予防接種禍訴訟上告審判決が、この大阪高裁判決のように端的に民法一五八条の類推適用をしないのは、「民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果は生じないものと解する」ための要件として「不法行為の被害者が不法行為の時から二〇年を経過する前六箇月内において右不法行為を原因として心身喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において、その後当該被害者が禁治産宣告を受け、後見人に就職した者がその時から六箇月内に右損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるとき」ということを課しているからである。そもそも民法一五八条の趣旨は、時効完成時に行為無能力者に法定代理人がいず、従って提訴ができなかった場合にまで時効の完成を認めるのは酷であること、すなわちそのような意味での権利行使可能性を考慮したものだといえよう(27)。そこには、このような権利行使不可能な状態を作り出した原因が義務者にあることは要求されていない。除斥期間という理由から一律に中断や停止を排斥するのでなく、権利行使不能の一定の場合には中断や停止を認めるべきだとするならば、端的に七二四条後段に一五八条を類推すればよいのであって、なぜそう解しないのかが問題となろう(28)。この点は除斥期間の適用制限の要件論として後述しよう。

(1)  梅謙次郎『民法要義・巻之三債権編』訂正増補第三三版、九一七頁、一九一二年、復刻版、一九八四年、有斐閣。三年間の短期時効とした理由は「不法行為アリタルヤ否ヤ又其不法行為カ何程ノ損害ヲ生シメタルカハ歳月ヲ経ルニ従テ之ヲ証明スルコト極メテ困難ト為リ動モスレハ曖昧ナル訴訟ヲ提起スルコトアルヘシ是レ力メテ避クヘキ所ナルカ故ニ本條ニ於テハ特ニ三年ノ短期時効ヲ置ケリ」。起算点を被害者側の主観的認識にかかわらしめたのは、「被害者又ハ其法定代理人ノ知ラサル間ニ其請求権ヲ失フカ如キコトアラサラシメンカ為メナリ」。

(2)  澤井は、民法七二四条前段が短期消滅時効の趣旨を、「加害者の都合」である@時の経過により加害者が反証をあげることが困難になること、A被害感情の沈静化とともに、「被害者を下支えする」存在理由として、「被害者が加害者に損害賠償請求ができるのに、これを放置したということ」をあげ、「したがって被害者が賠償請求できないという事情の下にあれば、時効は進行すべきではない。」という注目すべき指摘をしている(前掲澤井『不法行為』二三五頁)。

(3)  消滅時効との関連での損害の類型化については松本F一九八頁以下。なおこのような損害の類型化の先駆的業績として、内池は「一回的・非継続的損害」「持続的状態性の継続的損害」「累積的進行性の継続的損害」に分類している(同『消滅時効』一〇九頁以下)。

(3a)  不法占拠に関する判例の解釈(日々進行説)を支持するものとして、幾代通著・徳本伸一補訂『不法行為法』二三七頁、有斐閣、一九九三年、前掲澤井裕『不法行為』二三七頁など。内池はこの場合の日々進行説の実質を時効の効果の「分担帰責」という観点から次のように説明する。「不法占拠のように、加害態容が一方では一様に持続しつつ、他方一律に進行する損害について被害者の統一的認識とそれにもとづく権利行使が相当期間後に期待されるような事例については、相当期間後に時効の一律進行を認めるべきであるが、占拠開始後に権利者がたびたび返還・明渡し・退去を求めるなどの行為にでたにも拘わらず、占拠者が実力をもって占拠状態を維持継続しているような場合には、事態は加害行為を継続する加害者と権利主張する被害者との事実的緊張のうちに推移しているのであるから、全損害につき一律に時効完成の不利益を被害者に負担せしめることは不合理であり、時効法上の責任を被害者と加害者とに分担させる理由があろう。通説の採る逐次進行の論理は、ここに逐次認識という仮構を脱却し、統一的認識を基礎とする時効の効果を、当事者の具体的態容に即して分担帰責せしむべき一事例の処理方法として再構成されるべきものではないだろうか。」(『消滅時効』一一二頁。)

(4)  大阪地判一九六八年五月二二日・判タ二二五号一二〇頁。

(5)  藤岡康宏は、時効の逐次進行が妥当するのは、損害が性質上分断可能な場合であって、損害が累積的に進行し統一的に把握すべき場合には、被害者の損害の認識は加害行為の終了した時であるとして、家屋修理費等には逐次進行説を適用しつつ、慰謝料請求には時効消滅を認めなかった大阪国際空港一審判決を評価する(藤岡康宏「不法行為による損害賠償請求権の消滅時効」北大法学論集二七巻二号八頁以下、一九七六年)。私見も同旨である。藤岡説を支持するものとして、他に森島昭夫『不法行為法講義』四四六頁、有斐閣、一九八七年。

(6)  松本E二〇一頁。第一に性は各人にとって最もプライバシーにかかわる問題であり、自己決定権が最も尊重されるべき領域である。このような観点からすれば不貞を不法行為と評価する前提に位置づけられている「貞操義務」や「貞操を求める権利」或いはそこから派生する配偶者に「性交を要求する権利」は、その実現が法によって強制されたり、或いはその侵害を不法行為として不貞配偶者やその相手方に損害賠償請求したりできるという意味での法的な「権利」や「義務」ではないと考える(この点につき角田由紀子『性の法律学』一三一頁以下、有斐閣、一九九一年、星野澄子「姓から性へ−法女性学からの問いかけ」神奈川大学評論一一号四一頁以下)。第二に、不貞を理由とした慰謝料請求がなされる要因として「慰謝」や「復讐」という感情的要因が挙げられるが、愛情の喪失は金銭によって埋め合わすべき問題ではないし、復讐のための慰謝料請求は脅迫の弊害を産むおそれがある(不貞を働いた妻の相手方の男性が夫から「指をつめろ」「片腕をくれ」と言われ困惑して家庭裁判所に調停を申し出た事例として、神戸地裁姫路支判一九六〇年二月一八日・家月一二巻四号九六頁)。第三に、不貞慰謝料請求権の実質的機能が事実上の離婚状態にある場合の婚姻費用や子の養育費請求の代替的性格を有する場合や、離婚給付の額の増大のためという経済的要因にある場合が考えられるが、これらの問題は、本来別居中の婚姻費用分担や養育費、離婚給付の問題としてこそ解決すべきなのであって、不貞慰謝料という形で「夫の権利」や「妻の権利」を主張していれば解決される問題でもない(この点を強調するものとして、前掲角田一三五頁)。第四に、比較法的に見ても、イギリス、ドイツ、フランスで、以前は不貞慰謝料を認容していながらその後弊害の方が多いとして、そのような請求を否定する、或いは制限する国があることも参考に値する(前田達明『愛と家庭と  不貞行為に基づく損害賠償請求』第二章参照、成文堂、一九八五年)。結局、私見によれば、不貞は愛情の問題として法の領域にかかわらしめるべきではなく(「不貞の非法化」)、むしろ慰謝料請求により実現すべき金銭給付の問題は、婚姻の事実上の破綻ないし離婚についての婚姻費用の分担や離婚給付等の財産上の問題として位置づけるべきである。すなわち「不貞の法化」ではなく、このような「財産的給付の法化」にこそ合理的な問題解決の方向があると言えよう。

(7)  同前。但し不貞慰藉料につき否定的な私見からすれば認容額は名目的なものにとどまるべきことになる。最高裁の日々進行説も提訴三年以前の不貞行為についての慰藉料請求権は時効により消滅したとすることにより、結果的に認容額を少なくすることになるが、時効を避けるために不貞慰藉料請求権の行使を促進させることにもなり問題である。以上につき松本E二〇一頁以下。

(8)  同旨の見解として、内池は「累積進行性ある損害は、進行過程中の認識が一般に困難であり、少なくとも損害の進行が止むまでは統一的認識は期待できないもの(鉱業法一一五条の二)といえる。」とする(同『消滅時効』一〇九頁)。また前掲『日本不法行為法リステイトメント』八八頁も、「進行中の損害については、その進行のやんだ時から進行する」と明文化することを提案する。

(9)  名古屋高判一九八〇年三月三一日・判時九七七号四一頁。

(10)  澤井は「事実の認識」については、「被害者が現実に認識しなければならない。通常人ならば確知しているのに、被害者は知り得なかったという場合でも、時効は進行すべきではない」としつつ、違法性、使用者責任、工作物責任の要件などの「上記の事実の認識に立って、被告に対して賠償責任を追及しうるという法的評価(解釈能力)については、通常人の判断を基準とすべき」とし、「解釈能力の基準を通常人におく理論的裏付けは『法の不知は抗弁をなしえず』(igorantia juris non excusat)である」とする(前掲澤井『不法行為』二三六頁)。この問題につき前掲内池『消滅時効』三七頁以下参照。

(11)  熊本水俣病訴訟判決(熊本地判一九七三年三月二〇日判時六九六・一五)。

(12)  前掲澤井『不法行為』二三七頁。

(13)  前注(10)の澤井説参照。

(14)  前述三(四)4参照。

(15)  松久三四彦「民法七二四条の構造−一期間二起算点の視角」星野英一先生古希祝賀『日本民法学の形成と課題』下、一〇一六頁、有斐閣、一九九六年。民法七二四条後段の期間につき時効説にたつ論者として、前掲新井敦志「除斥期間再考」一一〇頁以下、石田譲『総則』五三六頁、前掲内池『消滅時効』五一頁、采女博文「民法七二四条後段の二〇年の期間制限と権利濫用」鹿児島法学論集二六巻二号一八九頁、一九九一年、田口文夫「不法行為にとづく損害賠償請求権と長期の期間制限(二)」専修法学論集五八号六五頁、一九九三年、徳本伸一「判批」判評三九三号一九二頁、一九九一年、半田吉信「判批」民商一〇三巻一号一三九頁、一九九〇年、柳沢秀吉「不法行為責任に関する二〇年の期間制限」名城法学四一巻一号一九九頁、一九九一年等。

(16)  とくに松本C一一〇頁。

(17)  前注(15)参照。

(18)  吉村は河合裁判官がこの点に関連して、「不法行為の内容や結果、双方の社会的・経済的地位や能力」等の事情をあわせて考慮すべきと主張していることを「高く評価できるのではないか」とする(吉村良一「民法七二四条後段の『除斥期間』に例外判断」法学教室二一九号五六頁、一九九八年)。

(19)  この点につき前掲内池『消滅時効』二九九頁以下。

(20)  前掲澤井『不法行為法』は、「行為時から損害発生まで長期を要する場合のあることを考えると、損害発生時としなければ被害者に酷である」とする(二三八頁)。同旨四宮和夫『事務管理・不当利得・不法行為下巻』六五一頁、青林書院、一九八五年、吉村良一『不法行為法』一五九−一六〇頁、有斐閣、一九九五年。なお製造物責任法(一九九四年制定、施行九五年)は、損害賠償請求権の長期の期間制限につき「当該製造物を引き渡した時から十年」としつつ、その起算点を「身体に蓄積した場合に人の健康を害することになる物質による損害又は一定の潜伏期間が経過した後に症状が現れる損害については、その損害が生じた時から起算する」としている(五条二項)。この期間を除斥期間としつつ、五条二項を「被害の救済を図るため、除斥期間の特則として本項規定を設けることとした」と解説するものに、経済企画庁国民生活局消費者行政第一課編『逐条解説製造物責任法』一二二頁、商事法務研究会、一九九四年。

(21)  常磐じん肺訴訟判決(福島地裁いわき支判一九九〇年二月二八日・判タ七一九号二二三頁)など。もっともこの判決は本文五で後述するように安全配慮義務違反を理由とした債務不履行に基く損害賠償請求権の消滅時効の採用を権利濫用として排斥し、原告の請求を認めた。

(22)  栗山クロム訴訟判決(札幌地判一九八六年三月一九日判時一一九七号一頁)。

(23)  前掲内池『消滅時効』は、民法七二四条後段の起算点をめぐる我が国の学説・判例は、「遅くも行為時より三〇年なり二〇年なりの長期間の経過する間には、損害の発生することが普通であり、権利者には自らの権利を保全する機会が充分に保証されている筈である」、という期間そのものに対する期待」があるのではないかと指摘し(三一三頁以下)、「起算点として決定的なものは、『損害』それ自体ではなく、権利行使の可能性である。」とする(三二一頁)。

(24)  金山は、「起算点は、判決が一六六条一項に言及していようといまいと、七二四条の解釈場面でも問題になるはずであり、その際、被害者の人権保護の理念から、現在では損害を被る立場の互換性や被害の深刻さといった点も踏まえて、ますます柔軟に捉えられてきている。とくに、七二四条の長期の二〇年の期間経過が除斥期間だとされた今こそ、その〈冷たい期間〉に人間性を回復させるため、一六六条一項の精神を吹き込まなければならない」とする(金山直樹「民法一六六条一項・一六七条、一七三条・一七四条」広中俊雄・星野英一編『民法典の百年U』四五〇頁以下、有斐閣、一九九八年)。筆者も「〈冷たい期間〉に人間性を回復させるため、一六六条一項の精神を吹き込ま」すことには賛成だが、七二四条後段の起算点解釈は一六六条一項とは全く同一にはならずその「精神」の吹き込ませかたにはなお工夫が必要だと考える。

(25)  前注二(24)参照。

(26)  大阪高判一九九四年三月一六日判時一五〇・号一五頁。

(27)  時効の部分を起草した梅謙次郎は、自らの教科書における民法一五八条の解説で次のように述べている。「時効ノ停止アル場合ハ皆事実上権利ヲ行使スルコトヲ得サル場合ナリ蓋シ時効ハ素ト権利者カ其権利ヲ行使スルコトヲ怠リタルニ因リテ生スルモノナルカ故ニ若シ其権利ヲ行使スルコトヲ得サレハ敢テ之ヲ怠リタルト謂フコトヲ得ス随テ時効ノ進行スヘキ謂レアラサレハナリ(Contra non valentem agere, non currit praescriptio 有効に訴追スルコトヲ得サル者ニ対シテハ時効進行セス−引用者注・この法格言については、前注三(12)参照)・・・中略・・・法定代理人ノ欠ケタル場合ニ於テハ無能力者ノ利益ヲ保護スヘキ者アラサルカ故ニ一時時効ノ進行ヲ止メシムルニ非サレハ事実上無能力者カ権利ヲ行フコト能ハサル間ニ時効忽チ完成スルコトナシトセス」(前掲梅『総則編』三九六頁、三九八頁。)

(28)  なお近時の通説は前述のように(一(一)参照)、除斥期間にも少なくとも民法一六一条の時効の停止事由(期間満了時に天災その他避くべからざる事変のために時効の中断をできなかった場合)の類推適用を肯定し、その根拠をこのような場合には権利行使が事実上不可能なことに求めるのであるから、同じ理由で除斥期間に民法一五八条の停止事由を類推することは可能なはずである。

 

五  時効の援用制限論と権利行使可能性


(一)  問題の所在

  時効の援用が一定の場合に信義則違反ないし権利の濫用として制限されることは、今や判例・学説上定着したものと言える(1)。問題は、いかなる場合に時効の援用を信義則違反ないし権利の濫用として制限するのか、その法的な判断枠組みにある。

  この点に関して、時効が争点となるのが通常のじん肺訴訟や戦後補償訴訟においては、提訴妨害等権利行使を義務者側で妨げたことをもって時効の援用を制限する要件と解する判決が多く見られる(2)。確かに提訴妨害等の場合が信義則違反や権利の濫用と評価されることに異論はないが、問題は時効の援用を信義則違反や権利の濫用と評価するのは、そのような事情がある場合にだけ限るべきかという点にある。


(二)  限定説    提訴妨害のように義務者の側で権利者の権利行使を妨げた場合にのみ援用制限を肯定する見解を限定説とよぶと、その根拠は何か。限定説にたつ判決がその根拠を十分に示していない中で注目されるのが、前述の不二越訴訟控訴審判決である。そこでは被告による提訴妨害など時効の援用が権利の濫用と評価できる事実の主張、立証がないとして原告の信義則違反、権利濫用の主張を退けた原判決を引用しつつ、それに加えて、次のような時効の存在理由を述べている。

「他方で、消滅時効制度の趣旨は、前記のとおり権利の上に眠る者を保護しないことのみにあるのではなく、当該法律関係の早期確定の要請並びに一定の年月の経過によって証拠資料が散逸し、客観的事実関係の確定が困難になることをも配慮したものであるところ、昭和四〇年の日韓両国の国交回復から起算しても平成四年の本訴提起までに民法一七四条一号の短期消滅時効期間(一年)のみならず、一般債権の消滅時効期間(一〇年)や不法行為の除斥期間(二〇年)をも越える二六年余り(昭和二〇年の控訴人ら祖国への帰国時からは四六年余り)が経過しており、弁論の全趣旨によれば、現実にもこの間の年月の経過による当時の客観的な資料(賃金台帳等)の滅失あるいは散逸が賃金支払債務の弁済による消滅を主張する被控訴人の立証活動を制約していることも否定できないのであるから、この点からしても、被控訴人が本訴において消滅時効を援用することが権利の濫用あるいは信義則に反するものとして許されないということはできないというべきである。」

  しかし前述したように(二)、時効の存在理由としての法律関係の早期確定の要請や、防御・採証の困難の回避の要請は、権利行使の可能性を前提として位置づけられるべき副次的正当化理由だとすれば、提訴妨害等の〈権利不行使への義務者の関与〉の場合にだけ時効の援用制限を限定する理由はないことになろう。


(三)  包括説    限定説のように〈権利不行使への義務者の関与〉の要素がある場合にだけ時効の援用制限をするのではなく、更に包括的な判断枠組を構築すべきとする筆者のような立場を包括説と呼ぶと、その具体的判断基準が問題となる。

  従来の時効の援用制限に関する判決例をみても、時効の援用を信義則違反ないし権利の濫用として排斥する要素としては、A権利行使条件の成熟度(@外的事情による権利行使不能、A権利行使の必要性、B権利の成熟度、C損害把握の困難性、D違法性・被害の大きさ)、B権利行使的要素の認定(@交渉、A適宜の訴訟提起)、C援用態様の不当性(@差別的援用、A不意打的援用)、D権利保護の必要性、E義務者保護の不的確性、F加害者の地位などの多様な要素が判断されているのである(3)

  私見の要件論を一般的に示せば、権利不行使につき〈権利の上に眠る者〉との評価が妥当せず、義務の不履行が明白で時の経過による〈攻撃防御・採証上の困難〉がなく、権利の性質(例えば河合裁判官による不法行為制度の理念の強調参照)や加害者と被害者の関係などから、時の経過の一事によって権利を消滅させる〈公益性〉に乏しい場合には、むしろ積極的に時効援用・除斥期間の適用制限をすべきということになる(4)。またドイツのように時効の停止事由として「不可抗力」による提訴困難や「交渉」が明文化されていない我が国では、時効・除斥期間の援用・適用制限論が貧困な時効停止事由を補う機能を果たすことも付言しておきたい(5)

  以上の観点からして、時効の援用制限が事案類型的に問題となる典型例と思われるじん肺訴訟と戦後補償訴訟につき、これらの要素を簡単に見てみよう。


(四)  じん肺訴訟    かつて筆者は次の三つの理由を挙げて、じん肺訴訟における被告企業の消滅時効の援用は信義則違反、権利濫用として制限されるべき典型的な例ではないかと指摘した(6)

  第一に、安全配慮義務違反の明確性(使用者の義務違反を否定した判決はこれまで一件もない)。しかもこの義務違反は安全衛生教育の不徹底を通じて原告の被害認識を遅らせ、その結果権利行使を遅らせる要因ともなっている。

  第二に、時効援用の結果、長い間被害に苦しみそれだけ症状が深刻化した原告ほど権利を消滅させられることになる不合理。

  第三に、危険な労働によって、一方は命を磨り減らし、一方は利益を得る。そのあげくに時効を援用して責任を否定する。こんなことが果たして許されるだろうか。それが契約にかなった「信義」であろうか。

  その後常磐じん肺訴訟では、安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求権の消滅時効の援用を客観的にも著しく正義に反し消滅時効制度の趣旨にも沿わない結果となるから権利濫用だとして排斥する画期的判決が出されたが(7)、その判断枠組みと判断要素は、時効援用制限論の要件論の具体化を検討する場合にも参考になる。すなわち、

  ア  責任実現の必要度    本判決は次の要素を挙げて、「これらを考え併せれば、原告らもと従業員の救済はまさに被告の責任であり、被告には右債務を果たすことが強く求められている」とする。@被告における義務違反の明確さ、A義務違反の態様の悪質さ(じん肺罹患の発生を容認していたと評価されても仕方がないほどの)、B原告らの権利不行使についての被告の責任(被告のじん肺教育の杜撰さが原告ら元従業員の被害認識を妨げ、権利行使を阻害した)、C原告を犠牲にしての被告の利得(被告の現在の盛業の背景には原告ら元従業員のじん肺罹患という犠牲が存在する)。

  イ  義務違反の明白性=加害者の時効による保護の必要性の不在    「被告が右義務違反に基づく賠償義務を果たしていないことは明らかであり、したがって、本件が時間の経過により証拠が散逸したため被告において弁済の事実を立証しえないという場合に当たらないことは疑問の余地がないから、前記(一)でみた消滅時効制度の趣旨からすれば被告に時効による保護を与える必要性は乏し」い。

  ウ  被害者の権利不行使における非難性の不在    原告らの提訴には次の点で「あらゆる意味で『機が熟する』ことが必要であった」から、権利の上に眠る者という非難性が欠如しているとする。@訴訟の複雑・困難性(本件訴訟は事実認定上も法律構成上も相当に複雑・困難な部類に属し、弁護士、医師、学者等の専門家集団の周到な準備の上に初めて提訴可能であった)、A提訴遅延についての被告の責任(被告のじん肺教育の不十分さが原告らのじん肺に対する正確な認識を妨げ、本訴提起を遅らせた)、B訴訟提起を遠慮させる原告と被告の特別な関係(原告元従業員の多くが長年被告会社に雇用されていたことからくる被告会社への恩義や遠慮が提訴の遅れの遠因をなしているのではないかとする)。


(五)  戦後補償訴訟

  戦後補償訴訟において、仮に被告側に原告主張の不法行為があることが確認され、それでも時効の援用ないし除斥期間の適用によって、すなわち時の経過の一事によって原告の損害賠償請求権が消滅するとなれば、それによって本来被告が負うべき損害賠償債務を被告側が免れるという結果が生ずる。

  しかし、戦後補償裁判では、原告側から、(ア)責任実現の必要度  残虐非道な虐殺事件や女性の人権を根底から踏みにじった性奴隷制である従軍慰安婦や、事実上の奴隷状態に置かれた強制連行労働者など、権利侵害が明白でかつ、悪質きわまりないこと、原告にとって戦争中はもとより権利行使をさせず、また戦後も日本政府が個人賠償問題は解決ずみであることを公言して、原告らの権利行使が事実上阻害されてきたこと(また中国とは戦後長い間国交も断絶していた)、(イ)時の経過によってそのような不法行為の事実を証明でき、損害賠償債務が明白であること、(ウ)被害者は前述のような事情で権利行使ができなかったのであり、決して権利の上に眠るものとして非難されるべき事由はないことなどを主張しているのであるから、これらの点の存否をふまえて、除斥期間の適用の是非を判断すべきである(8)

  なお、かつて、予防接種禍名古屋訴訟で名古屋地裁は、国が一定の割合で犠牲者が出ることを認識しつつ、全国一律に予防接種を強制し、また、被害者に過失がない等の「事態の下にあっては、被害者の救済は全国民すなわち被告国の責務でなければならず、単に時間が経過したとの一事をもって被告がその義務を免れるとするのは著しく正義に反」するとして、国側の消滅時効の援用を排斥した(9)。仮に原告が主張するように、戦争被害において、当時なされた虐殺や人体実験、奴隷的な環境のもとでの性行為の強要が過失に基づくというよりも故意による極めて悪質な不法行為であり、他方で何の非難されるべき過失がない被害者が、この数十年間被害につき謝罪されることもなく、救済もされずに放置されていたとすれば、その被害について時がたったからといって権利の消滅を説くよりも、被害を償うことこそが「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(日本国憲法前文)と誓った我が国及び国民の信義ある立場ではないだろうか。

  近時、山口地裁下関支部は、「従軍慰安婦問題とは、女性の人格の尊厳、あるいはこれと密接不可分ともいうべき女性の性の尊厳を蹂躙するもの」であり、「二〇世紀半ばの文明的水準に照らしても、極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、少なくとも一流国を標榜する帝国日本がその国家行為において加担すべきものではなかった」としてその被害の特質を捉えた上で、「日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被告には、その法益侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的作為義務が課せられているというべきであり、特に個人の尊厳、人格の尊厳に根幹的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義等に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法制定後は、ますますその義務が重くなり、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないはずである」として、その被害を放置してきた国の立法不作為につき国家賠償責任を認めた(10)

  このような立法不作為の責任の成否については議論があり得よう(11)。しかし仮に戦後補償裁判の原告らの被った被害がこのように看過できない重大なものであるとすれば(従軍慰安婦に限られず、他の虐殺、人体実験、奴隷的な強制労働等の被害の重大性も慎重に吟味すべきであろう)、我が国が、時の経過の一事による損害賠償請求権の消滅を主張することの法的当否は、「個人の尊厳、人格の尊厳に根源的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義等に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法」(前掲山口地裁下関支判)の法意にてらして、ますます慎重に吟味されねばならないと言えよう。

(1)  松本@一二七頁で判例・学説を分析した。その他近時の論稿として渡辺博之「時効の援用と信義則。権利の濫用」(上)(下)判例評論四〇七号一五六頁、四〇八号一六四頁、一九九三年。

(2)  例えば前掲長崎じん肺訴訟の第一審判決。その判断は、控訴審、上告審でも維持された。また前掲の不二越訴訟一審判決、二審判決、日本鋼管強制連行事件判決など。この点につき松本J九三−九四頁。

(3)  松本@一四一頁以下。

(4)  松本J九四頁。

(5)  松本@一四五頁以下。ドイツの例については、前注三(13)参照。

(6)  松本@一五二頁以下、松本A一〇・頁以下。

(7)  福島地裁いわき支判一九九〇年二月二八日判タ七一九号二二三頁。その判例評釈として松本D。

(8)  松本J一一九頁以下。

(9)  名古屋地裁一九八五年一〇月三〇日判時一一七五号三頁。

(10)  山口地裁下関支判一九九八年四月二七日判時一六四二号二四頁。

(11)  右判決を積極的に評価するものとして岡田正則「戦後補償問題における国の立法的解決義務」法学セミナー一九九八年九月号二六頁、一九九八年。

 

六  除斥期間の適用制限と権利行使可能性


(一)  問題の所在

  本稿で再三言及している東京予防接種禍訴訟判決は、民法七二四条後段を除斥期間としつつも、一定の場合にその適用が制限される場合があることを最高裁として初めて認めた判決として画期的な意義を有する。これまでは除斥期間にも時効の援用制限のような適用制限があり得るのかが争われ、学説はこれを肯定するものが多数であったが(1)、前掲最高裁平成元年判決以降の判例の流れは、これを否定するものが幾つか見られた(2)。しかし、今や除斥期間であっても一定の場合には適用制限があり得ることを前提に、いかなる場合にその適用制限が認められるべきなのかという第二ステージが始まったと評価できる(3)


(二)  民法一五八条の法意

  まず民法一五八条に依拠した除斥期間の適用制限の次元において、本判決でも指摘されている〈権利不行使への義務者の関与〉要素を適用制限要件の必要条件として組み込むべきかという問題がある。多数意見は「民法一五八条の法意」に依拠するに当たり「心身喪失の常況が当該不法行為に起因する場合」として、その権利不行使の原因を加害者が作ったことを重視している。しかしそもそも民法一五八条は多数意見自身が指摘するように時効完成時に行為無能力者に法定代理人がいなかった場合には時効中断行為ができず、つまり権利行使ができないうちに権利が消滅してしまうという不合理を回避するものである。そこには、〈権利不行使への義務者の関与〉の要素は含まれず、〈権利行使期待不可能性〉がその核心である(4)。多数意見によれば、例えば二〇年の除斥期間経過の一ヶ月前に不法行為とは別の急病で意識不明の状態に陥り意思能力を失い、法定代理人も選任されないうちに除斥期間が徒過してしまったが、法定代理人選任から六ヶ月以内に訴訟を提起したという場合には「民法一五八条の法意に照らし」ての除斥期間の適用制限はなされないのだろうか。この点で前掲予防接種禍大阪高裁判決のように除斥期間の場合にも権利行使期待不可能性を理由に端的に「民法一五八条を類推適用」するとした方が妥当なはずである(5)


(三)  民法一五八条の法意以外の要素    不二越訴訟二審判決は東京予防接種禍訴訟最高裁判決との関連で次のように判示している。すなわち、

「もっとも、除斥期間といえども絶対的なものではなく、不法行為の被害者が不法行為の時から二〇年を経過する前六か月内において右不法行為を原因として心身喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合において、その後当該被害者が禁治産宣告を受け、後見人に就職した者がその時から六か月内に右損害賠償請求権を行使したなど特段の事情があるときは、民法一五八条の法意に照らし、同法七二四条後段の効果を否定するのが相当である(最高裁判所平成一〇年六月一二日第二小法廷判決・民集五二巻四号一〇八七頁参照)が、本件は右とは事案を異にし、控訴人らにおいてその意思能力に何ら欠けるところはなく、また控訴人らの本訴提起が不法行為の時から二〇年を経過する以前でなかったことが被控訴人の不法行為に起因するものでもないのであるから、同法七二四条後段の効果を否定するまでの特段の事情は認められないというべきである。」

  しかし、この判示は次に述べる理由で疑問であり、除斥期間の適用制限は「民法一五八条の法意」があてはまる場合以外にも可と解すべきである(6)

  第一に文言上も多数意見は「少なくとも右のような場合にあっては、・・・その限度で民法七二四条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである」(傍点引用者)としており、「少なくとも右のような場合に限って」とは明示していないのであるから、除斥期間の適用制限の例示をしたのであって、限定をしたと解すべきではない(7)

  第二に、実質的にみても、仮に「除斥期間だから」という理由で適用制限の要件を「民法一五八条の法意」が妥当する場合に限定するとすれば賛成できない。この点で前掲九八年最判の河合反対意見が最高裁平成元年判決につき「除斥期間の概念を中間的に用いてはいるけれども・・・問題の核心について十分な理由を示しているとはいえない」と痛切に批判している点を想起すべきである。

  第三にドイツにおいて除斥期間についても時効の停止事由を認めたり、期間の性質に応じて、許されない権利の抗弁としてその適用を制限している点も参考になる(8)。結局、除斥期間の適用制限の要件論も前述した時効の援用制限論と基本的に同様な判断枠組みと要素により、権利行使可能性の要素を中心に判断すべきだというのが私見の核心である。

(1)  民法七二四条後段が仮に除斥期間であったとしても、信義則違反や権利濫用論によりその適用が制限され得ると解すものとして、筆者の他に、石松勉「除斥期間の経過と信義則に関する一考察」岡山商科大法学論叢一号八二頁、一九九三年、同「民法七二四条後段の二〇年の期間制限に関する判例研究序説(1)−性質論を中心として」同前二号四一頁、一九九四年、前掲・内池慶四郎『消滅時効』二四七頁注(5)、采女博文「民法七二四条後段の二〇年の期間制限と権利濫用」鹿児島大学法学論集二六巻二号一六一頁、一九九一年、大村敦史・判批・法協一〇八巻一二号二一〇頁、一九九一年、前掲・田口文夫「期間制限」七七頁、吉村良一「消滅時効と除斥期間」法学教室一九三号一二六頁、一九九六年、渡辺博之「除斥期間と信義則・権利の濫用をめぐる法律関係」判評四一九具二頁、一九九四年など。

(2)  前注一(10)参照。なおこれとは逆に除斥期間説にたちつつ、その適用を制限したものとして注目されるものに、本文引用の予防接種禍訴訟大阪高裁判決の他に、被告国に除斥期間の主張がなかったことをもって除斥期間の利益の放棄があったとした東京水俣病訴訟判決(東京地判一九九二年二月七日判時一九九二年四月二五日臨時増刊号)、「加害者と被害者の間の具体的事情からみて、加害者をして除斥期間の定めによる保護を与えることが相当でない特段の事情がある場合」には除斥期間の経過の主張を権利濫用として退けうるとした京都水俣病訴訟判決(京都地判一九九三年一一月二六日判時一四七六号三頁)がある。以上につき松本J九二−九三頁。

(3)  松本J九四頁。前掲吉村「例外判断」も、「どのような場合に適用除外を認めるかという実質的な要件論の検討が重要な課題となる」とする(五六頁)。また永谷典雄(法務省訴務局付検事)は、「個々の事案の特殊性を考慮し、事案ごとに今後とも慎重な検討がなされるべき」とする(永谷典雄・本件判批、民事研修四九七号六〇頁、一九九八年)。

(4)  前注四(27)参照。

(5)  松本J九三頁。

(6)  同前。

(7)  前注(3)の吉村、永谷もこのことを前提としているようである。また春日調査官は、最判九八年のような事案のように賠償請求権者が不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのではない場合について、最高裁は「民法七二四条後段の適用の例外が認められるかについては言及していない」とするが、このことは最判九八年がそれ以外の適用除外を否定しているわけでもないことを暗に示唆しているとも言えよう(春日通良「時の判例」ジュリスト一一四二号九一頁、一九九八年)。

(8)  前述四(三)4参照。なおこの点につき、石松勉「ドイツにおける『除斥期間の濫用的主張の不許容」『現代法学の諸相』(岡山商科大学法経学部創設記念論集)一二一頁、法律文化社、一九九二年、采女博文「除斥期間と信義則(一)(二)」鹿児島大法学論集二六巻二号一六一頁、二七巻一号一二三頁、一九九一、九二年)など。

 

七  お  わ  り  に

  本稿では我が国の裁判例の分析を中心に、消滅時効・除斥期間制度にとっての権利行使可能性の要素の位置づけを検討してきた。「時効はそもそも不道徳な制度ではないのか」という星野英一教授の根本的な問題提起が行われたのは今から三〇年前のことである。その後、時効をめぐっては、その形式適用が正義に反する場合には、時効・除斥期間の起算点論、援用制限論をめぐって具体的な法解釈論の展開があった。しかし、他方でこのような個別解釈論を規定する時効・除斥期間と正義をめぐる根本問題は未だ総括的に検討されてこなかった。本稿はそのような根本問題の研究のためのささやかな一里塚である。

  今後は、とくに民事責任に関する時効・除斥期間という制度が正義の実現という観点からどのように評価されるべきかを、我が国の民法典やその解釈に一定の影響を及ぼしつつも、未だ総括的に検討されてこなかったドイツ法、フランス法の時効・除斥期間論、今後の我が国にとっても重要な示唆を与えると思われるEU法などの比較法的検討及び、事案類型や権利行使の環境をめぐる法社会学的検討に射程を広げながら、時効・除斥期間論と正義の根本問題に取り組んで行きたいと考えている。

  既に筆者がこのテーマを研究テーマの一つに据えてから一〇年が立つ。学問的営為に時効や除斥期間のような期間制限はない。時を越えて生き続ける学問的営為を遅々とした歩みではあるが、一歩ずつ前に進めていくのみである。

(夕暮れの京の山なみをかなたに眺めつつ研究室にて。一九九九年一月三一日記)