立命館法学  一九九八年六号(二六二号)




旧ユーゴスラヴィア内戦の要因をめぐる諸論争
一 柳 直 子 







は  じ  め  に


  一九九〇年代初頭に起こったユーゴスラヴィア(以下、特に必要のない場合以外は「ユーゴ」と略記)危機は、冷戦後の地域紛争に国際社会がどのように関与し、また解決していくかという問題を提起することになった。
  ユーゴ危機が戦争へと進展するにつれて、「ユーゴの解体がいかにして起きたのか」という問題を分析する作業が必要となり、ユーゴ危機の本質を理解し、紛争の解決に寄与するために様々な研究がなされてきた。「ユーゴ解体の要因」としては、ベルリンの壁消滅後の東欧自由化のなかで民族対立が噴出した結果起きた、という説明が一般的になされている。が、この捉え方は、多民族国家ユーゴの崩壊を一面的にしか理解していないように思われる。何故ならこの見解は、ユーゴ建国以降の歴史的な国家の発展過程や民族対立の持つな内在的な要因の視点が不十分であるからである。
  そこで本稿の目的は、ユーゴ内戦をめぐる諸論争を各々の持つ主要な論点ごとの解説を付けながら整理し、ユーゴ連邦崩壊の要因並びに過程に迫ることである。さらに諸説を整理することで、内戦の要因を多面的に捉えることができるのではないかと思われる。本稿の構成は、ユーゴ内戦をめぐる諸論争を、(1)「民族対立」説、(2)「経済危機起因」説、(3)「チトーイズムの崩壊」説、(4)「外国の介入」説の四つに分類しそれぞれを解説した後、最後にそれ以外の複合的な見解を若干紹介するという形式を取っている。
  危機の勃発に際して国際社会は、EC、CSCE、国際連合、NATOといった諸機関や国際メカニズムを通じて、ユーゴ危機に対応していくことになった。そこで、内戦をめぐる諸論争を整理することは、危機の様々な発展段階において国際社会が取った個々の対応、並びに地域紛争に国際社会がどのように関与し、また解決していくかという問題を研究する際の有益な資料となるであろうと考える。

一  「民族対立」説


  これはユーゴ内戦の原因を、その複雑な民族構図、ならびに歴史的な民族間対立(1)に求める説であり、広く一般に言われている主張である。すなわちこの説は、ベルリンの壁消滅後の東欧自由化のなかで民族対立が噴出し、分離主義的民族主義が進んだ結果、ユーゴが崩壊したと説明する。
  第二次世界大戦後に成立したユーゴは、「七つの国境、六つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニア)、五つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)、四つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、三つの宗教(ギリシア正教、カトリック教、イスラム教)、二つの文字(ラテン文字、キリル文字)、一つの国家」という表現に示される複合的な国家であった。とりわけ多民族国家であったユーゴの民族カテゴリーに属するのは、前述したスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人に加えて、七一年に初めて「民族」として認められたムスリム人である。この六つの主要民族の他に、アルバニア人、ハンガリー人、ブルガリア人をはじめとする少数民族と、それらに加えて、どの民族でもない「ユーゴスラヴィア人(2)」を名乗る人々がいた。これらの諸民族が、各共和国に複合的に混住し、なおかつその民族構成の状況は各共和国ごとに異なっていた。例えば、北部の最先進共和国スロヴェニアではスロヴェニア人が九一%を占め、セルビア共和国に属する南部の最後進地域コソヴォ自治州では、アルバニア人が約八五%を占めている。これに反して、中部のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人が混在し、クロアチア共和国では、クロアチア人のあいだにセルビア人が散在している。マケドニア人は、九五%という大多数がマケドニア共和国に居住しているが、共和国の総人口に占める割合は六七%にすぎない。モンテネグロ人の場合は、その民族人口の六七%がモンテネグロ共和国に居住しているにすぎない。
  この複雑な民族構成に加えて、ユーゴが位置するバルカン地域は、第一次世界大戦勃発の導火線になったことにも見られるように、歴史的に戦火の絶えない地域でもある。歴史的にも民族的にも複雑な「モザイク国家」ユーゴは、第二次世界大戦中の「パルチザン」運動(3)の結果、ソ連赤軍に頼らず、ほとんど独力で国土を解放し、一九四三年の「ユーゴスラヴィア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)」第二回大会で採択された諸民族の同権に基づく連邦制を基礎とする新たな国家、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国として、一九四五年に再生した。戦後の総選挙で誕生した社会主義(4)チトー政権は、後のユーゴを支える柱となる、「分権化された社会主義的民主主義」、東西どちらの陣営にも属さない「非同盟主義」、独自の社会主義体制である「労働者自主管理」を基礎に、古くからの民族対立の再燃を防ぐことに腐心した。
  こうしたユーゴの民族対立の起源は、一三八九年六月二八日の「コソヴォの戦い」にまで遡ることができる。これは、セルビア人、アルバニア人、クロアチア人、ブルガリア人、ハンガリー人からなるキリスト教徒連合軍が、コソヴォ平原でオスマン・トルコ軍に大敗した戦いである。このコソヴォの戦いは、セルビア人に深い屈辱の念を与える一方で、「キリスト教文明とヨーロッパを異教徒から守るために勇敢、悲劇的に戦い、犠牲になった」というセルビア人の自負(5)の形成に寄与した。この戦いの後、コソヴォ一帯は急速にイスラム化された。イスラムへの改宗を拒むセルビア人の多くが故郷を離れた後、この地には大量のアルバニア人が移住してきた。これらのアルバニア人(6)はトルコの支配の下、イスラム教に改宗した。第一次バルカン戦争(一九一二年)で勝利したセルビア人が、再びこの地域を支配下に置くが、数の上では少数派となった。ここに、少数派セルビア人による、多数派アルバニア人への支配が確立し、「コソヴォ問題」が発生する要因になったのであった。
  一方、ユーゴのいま一つの民族対立は、各民族名に「大」の冠を付した「大\\主義」と呼ばれる排他的な民族主義を基礎に置くもので、その代表的なものが、「大セルビア主義」と「大クロアチア主義」である。
  「大セルビア主義」とは、中世セルビア王国の再現(ベオグラードからギリシア中部まで)ではなく、一九世紀以来の「近代的」拡張主義のことで、その最初の提唱者は、一八四四年にセルビア人統合計画を打ち出したセルビア政府官僚のイリヤ・ガラシャニンである。その主張によれば、当時セルビア共和国外に住み、セルビア語を常用しているセルビア人の統合を目指すもので、その主たる目標は、当時トルコの支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人を解放することであった(7)。しかし、この「大セルビア主義」も含めて各民族の民族主義的主張は、チトー政権下で厳しく弾圧され、表面化しなくなった。それはもちろん、こうした民族主義的主張が消滅したことを意味するわけではなく、実際には、七四年の憲法改正(共和国に大幅な主権を認め、「緩やかな連邦制」に移行すると共に、コソヴォ自治州にも共和国と同等の地位を保障した)によって、ユーゴ建国以来のセルビア民族主義の基本的な不満である「セルビア人は民族主義的な主張を抑圧することで国家の統一を図る共産主義政権の犠牲者である」という主張が強化されることになった(8)
  こうした状況の下、一九八六年にセルビア芸術科学アカデミーが提起したメモランダムの存在が明るみに出た。これはそれまで潜在化していた「犠牲者としてのセルビア人」という主張と七四年憲法体制の否定をはっきりと打ち出したもので、その内容は共産主義者同盟支配下ーAVNOJ第二回大会で確立された「統合的民主主義連邦」の精神へ回帰することが求められるーで再構成されたユーゴ内でのセルビア人の再統一と、それが他民族に受け入れられなかった場合にユーゴの再統合以外の選択984cを考慮するというものであった(9)。これに対応する形で、スロヴェニア共和国の知識人たちが、共和国の主権を要求し、スロヴェニア独自軍の設立の必要性を唱えたスロヴェニアの国家プログラムを作成した(10)(一九八七年)。
  チトーの死去(一九八〇年五月)後、再び表面化してきたこうした民族主義的主張に決定的な役割を果たしたのが、セルビア民族主義に訴える形で登場し、セルビア共和国共産主義者同盟内で権力を掌握したスロボダン・ミロシェヴィチであった。ミロシェヴィチが出現してきた背景は後述するとして、彼は「大セルビア主義」を高らかに掲げて、中央・地方指導部の大規模なパージを行ない、自らの権力基盤を固めていった。さらにその後も、大規模な集会を組織し、民族主義に訴えることによって民衆の支持を拡大した。
  ミロシェヴィチの登場後まもなく、言語問題をきっかけに、スロヴェニアで独立運動が本格化した。一九八八年五月、スロヴェニア青年同盟機関誌『ムラディナ(青年)』の編集長など四人が「軍事機密漏洩」の容疑で逮捕され、連邦軍の軍事裁判所に起訴された。この裁判がスロヴェニアの公用語(スロヴェニア語)ではなく、軍の指揮言語であるセルビア・クロアチア語で実施されたことに、スロヴェニア人の怒りが燃えさかった。こうして、スロヴェニアで、「反軍・反連邦」の動きが先鋭化していったのである。
  一九八八年一一月に、折りからの「経済危機」への対策の一部として「七四年憲法」の改正が行なわれた。これにより、国家機関や連邦の権限が拡大されたのである。これに大いに勢いづいたミロシェヴィチは、コソヴォへの締め付けを強化する。こうした一連の動きの結果は、八九年二月にコソヴォで起こった自治権を求めるアルバニア人労働者によるゼネスト・抗議運動であった。ミロシェヴィチはこれに対応して、事実上の非常事態を宣言し、軍と武装警察隊を導入して、徹底的に弾圧した。さらに、共和国憲法改定を強行し、自治州政府から司法、警察権などを剥奪した(同年三月)。ここにおいて、「コソヴォ紛争」が発生したわけである(11)
  他方の「大クロアチア主義」とは、中世クロアチア王国や第二次世界大戦中のナチスの傀儡国家「クロアチア独立国(ウスタシャ政権(12))」の最大領土の復活を狙うもので、ともに現在のクロアチアとボスニアをあわせた領域を意味する。また、ボスニアのクロアチア人地域の併合だけを目指す「中クロアチア主義」的な主張も存在する。チトー時代に、他の民族主義と同様に抑えられていたこの主張を鼓舞したのは、一九九〇年春のクロアチア共和国自由選挙で政権を獲得したクロアチア民主同盟(HDZ)の党首であるフラニョ・ツジマン・クロアチア共和国大統領であった。
  自由選挙の結果、クロアチア民族主義的傾向の強い体制を形成したツジマン政権は、新憲法でクロアチアの主権を強調すると同時に、クロアチア共和国がクロアチア人の国家であり、公用語はそれまでのセルビア・クロアチア語ではなくクロアチア語であることを宣言した。換言すれば、領内のセルビア人少数民族の権利の保障は全く考慮されていなかったのである。この一連の動きが、クロアチア領内に居住する約六〇万のセルビア人に、「ウスタシャ政権」の再来ではないか、という強い恐怖と危惧を呼び起こすことになった。ここに、クロアチア共和国内の「クロアチア人対セルビア人」という対立の構図(13)が、民族主義の主張の先鋭化とともにはっきりと姿を現わしてきたのであった。
  最後に、旧ユーゴ連邦を解体に導いた要因の一つとして、セルビア共和国のミロシェヴィチ、クロアチア共和国のツジマンという二人の民族主義的な大統領の果たした役割を無視することはできない(14)。彼等は、自民族の自決権を主張する一方で対立民族のそれは認めず、また、ことさらに対立民族の過去の悪行を強調して、憎悪と恐怖心を煽った。こうして始まった内戦により、歴史を通じて、おおむね「対立」するよりは「共存」してきたユーゴの諸民族は、再び「共生」することがとうてい不可能であると思われるほどに、ばらばらに引き裂かれてしまったのである。東京大学大学院教授でバルカン近現代史の専門家である柴宜弘は、一連のユーゴ内戦は、基本的には「セルビア人問題」と言うことができる(15)、と指摘している。すなわち、彼によれば、クロアチアにしろボスニア・ヘルツェゴヴィナにしろ、独立国の形成によってそれぞれの国で「少数者」となることを嫌ったセルビア人の動向が今回の内戦の基本的な要因であった(16)、というのである。

二  「経済危機起因」説


  この説は、ユーゴ内戦の勃発の原因を、八〇年代を通してユーゴを襲った「経済危機」に端を発したものであると説明するものである(17)
  一九七〇年代のユーゴの経済成長を支えたのは、主として外国からの多額の借款であった。一九七九年の第二次石油ショックと一九八〇年代初めの世界的な債務危機は、基盤の脆弱なユーゴ経済を直撃し、結果として戦後ユーゴ最大の経済危機をもたらした。にもかかわらず、ユーゴスラヴィアは憲法上の規定から、思いきった経済改革の実施に踏み切れなかった。何故なら、「七四年憲法体制」の下、経済面でも極限まで分権化が進められていたユーゴでは、その経済運営は、市場によるものでも国家統制によるものでもなく、協議と合意に基づく「協議経済」型であったからである。この経済危機の中で、一九八二年以降、労働者によるストライキが多発するようになった。このことは同時に、ユーゴを支える三つの柱の一つである「労働者自主管理」のシステムが失敗したことを意味した。経済危機が進行するにつれて、共和国間の利害が対立して(18)、かつては一枚岩であった共産主義者同盟が求心力をもち得なくなっていき、彼らによる支配の正統性が崩れていった。ここにおいて、ユーゴの経済的、社会的、政治的危機はますます深刻化していくことになる。
  さらに、経済的不満はユーゴ内の「南北格差(19)」を際立たせることになり、そこから民族対立へと発展していったのである。戦後以降の南北格差の背景には、南部の高い人口増加率、労働力の質の低さなどがあったが、それよりも問題は、立地条件や採算を無視したいわゆる「政治工場」が建設されたり、党の有力者によって投資先や額が決定されたりする運営のずさんさにあった。こうして南部は、多額の援助を受けながらそれに見合う経済成長が達成されず、当然の結果として北部のスロヴェニアとクロアチアで、これに対する不満が高じてきたのである。
  一九八八年一〇月に、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟第十七回総会が開催されたのは、こうした状況下であった。そこでは「経済危機」と「コソヴォ問題」を解決するための政治・経済・党機構の「三つの改革」に関する討議が行なわれた。「コソヴォ問題」をめぐり、経済的な観点から有益な「市場」であるコソヴォ自治州の「経済主権」を擁護し、アルバニア人に連帯を表明するスロヴェニアとセルビアの対立が際立ち、共産主義者同盟内の共和国対立は決定的となった(20)。同年一一月には、連邦議会で七四年憲法の修正案が可決された(21)。これは統一ユーゴ市場の法的保障の強化と外貨取引における連邦政府の管理の強化を意図したものであったが、各共和国政府にとっては、七四年憲法下で認められていた「経済主権」の大幅な後退を意味するものであった。
  これに当然ながら反発したのが、北の先進共和国スロヴェニアとクロアチアで、特にスロヴェニアは、一九八九年九月に共和国憲法修正案(22)を採択し、「国家主権」を前面に掲げることによって「経済主権」を保持しようとした。スロヴェニアとクロアチアは、共和国の経済主権を保持し、中央政府の権力を極力抑えたEC型の「国家連合モデル(23)」(一九九〇年一〇月に発表)を形成する方向で問題の解決を図ろうとしたが、結果的には、他の共和国の支持を得られず、「分離・独立」へと進んでいくのである。
  以上に見てきたように、この見解では、ユーゴ解体の引き金となったスロヴェニア、クロアチア両共和国の「分離・独立」の動きは、「連邦あるいはセルビア共和国による民族的な抑圧が加えられた結果ではなく、むしろ自己の利益を優先させる先進共和国ゆえの経済的な要因が大きく作用した(24)」のが原因である、とする。スロヴェニア、クロアチア両共和国は、経済危機への対策および連邦維持の観点から、一九八九年三月に連邦首相に就任したアンテ・マルコヴィチの実施する経済改革の成功に期待していた。が、しかし、マルコヴィチの経済改革は一時的にインフレ率を抑えることに成功するなどしたものの、その成果は上がらなかった。セルビアが発行枠を勝手に超えて紙幣を乱発し、賃金凍結も守ろうとしないことから、それまでマルコヴィチに協力的であったスロヴェニアでは、経済面からも連邦の維持に失望し、分離独立に傾いていったのであった(25)。さらには、スロヴェニアがユーゴからの分離独立を急いだ背景として、「東欧に激変が生じ、民主化された東欧諸国を西側諸国が歓迎する姿勢を示し、東欧諸国もまたECに加盟ないし接近したいとの意向を示したため、スロヴェニアとしては、南の低開発地域に引きずられてぐずぐずしていると東欧諸国に追い越されるとの焦燥感があったこと(26)」を挙げる見解もある。
  こうした北の先進共和国の分離独立の主張は、深刻な連邦の経済困難のなかで、他の共和国との間に大きな経済格差を有する二共和国が、これ以上連邦にとどまることを足かせと感じているという、すぐれて経済的な要因に基づく民族主義である(27)、と指摘されている。

三  「チトーイズムの崩壊」説


  連邦制をはじめとする「チトーイズム」の崩壊を、ユーゴ解体の要因とするのがこの説である(28)
  第二次世界大戦後に成立するユーゴスラヴィア連邦人民共和国は、公式には、一九四三年のAVNOJ第二回大会で採択された諸民族の同権に基づく連邦制を基礎とする新たな国家であった。一九四六年一月、チトー政権発足後に発布された新憲法では、ユーゴ内五民族の平等と同権が謳われてはいたが、基本的には中央集権的な社会主義体制と国家指令型計画経済制度が盛り込まれた(29)
  東欧の他の社会主義政権と同様に、戦後ソ連の勢力圏下に入ったユーゴであったが、一九四八年、ソ連共産党指導部からその政策を「反マルクス主義的、反ソ的である」と非難され、コミンフォルムから突如除名されたことで、「独自の社会主義」の建設に本格的に取り組むことになる。そこで、国家建設のために採用されたのが、いわゆる「チトーイズム」であった。
  この「チトーイズム」は、「緩やかな連邦制」、「非同盟主義」、「労働者自主管理」の三本の柱で支えられたものである。第一点目の「緩やかな連邦制」は、社会主義体制をとる多民族国家ユーゴの統合を実現するために、外交、国防以外の国としての機能を各共和国に分権化し、構成共和国の政治的・経済的・文化的自立による協調体制の確立を図ろうとするもので、「七四年憲法(30)」のもとで最終的に確立されたものである。二つ目の「非同盟主義」について言えば、これは一九四八年のコミンフォルムからの除名を契機に、小国ユーゴが対ソ自立外交を行なうために、冷戦期の東西両陣営のいずれにも属さす、いずれにも加担しない「積極的平和共存」を標榜する政策である。この「非同盟外交」が対外的な危機への対策として出てきた側面は否めないが、また同時に、それが多民族国家ユーゴの国家統合を維持する機能を果たしてきたことも指摘されなければならないであろう。すなわち、ユーゴ社会では、対外関係における選好順位は民族ごとに異なり、セルビア南部やモンテネグロでは親ソ感情がより強く、クロアチアやスロヴェニアでは西欧への、またユーゴ内の二〇〇万人のムスリム人は中東へ強い親近感を持っている。そのため国内の統合を保つために、外交的にも、イデオロギー的にもいずれのブロックへも加担しない非同盟という立場が有効的に機能してきたのであった(31)
  最後の「労働者自主管理」とは、企業の意思決定を国家や党ではなく、その企業の労働者集団、あるいは労働者総体からの代表者集団が行なうというもので、ソ連の影響下を離れ、「独自の社会主義」を目指す思考錯誤のなかで生み出されたシステムである。この自主管理モデルは、スターリン・モデルに代わるより人間的で民主主義的な社会主義モデルとして、長年、西側の研究者からも注目を集め、一九七六年一一月の連合労働法の制定により、政治・経済・社会全ての局面に自主管理社会主義として徹底された。
  こうした「チトーイズム」を、多民族国家ユーゴで国是として存続させるためには、強大な求心力が必要であり、それが、パルチザンの指導者で国民的英雄、後に終身大統領の地位に就くチトーのカリスマ性であった。ところが、そのチトーが一九八〇年五月に八七歳で死去する。国家統合の象徴であるチトーを失った後、ユーゴは折りからの経済危機と相まって、政治的・社会的危機に直面することになり、結果的にこうした危機の解決に完全に失敗することとなった(32)
  まず、「チトーイズム」を支える三本の柱の一つである「非同盟主義」に関して言えば、一九八〇年代後半の非同盟運動自体が世界的に効果的な活動を展開できないという状況とともに、国内で顕在化し、恒常化する経済危機、コソヴォで真っ先に現われた民族問題の噴出、連邦幹部会の議長(連邦大統領)を各共和国からの代表が一年交代の輪番で務めるという集団指導体制(33)からくるリーダーシップの欠如といった国内情勢からも、もはやユーゴは非同盟外交を前面に掲げる余裕がなくなっていくのである(34)。さらに、冷戦の終焉は、「非同盟主義」を国是として、「中立」という形で成り立っていたユーゴという国のアイデンティティにも終止符を打った。
  次いで、一九八七年から、経済危機に速やかに対処できない共産主義者同盟や連邦政府を批判する労働者のストライキが多発するようになった。しかし、その対応として行なわれた一九八八年一一月の憲法修正は、連邦の権限を強化することでこの経済危機を乗り切ろうと意図したものであり、結果的には、「七四年憲法体制」で確立された「緩やかな連邦制」と「自主管理社会主義」の変更であった(35)。こうして「チトーイズム」が一九八〇年代に入って徐々に崩れていく一方で、ユーゴ全体を支えるアイデンティティは新たに生み出されなかった。それに加えて、新たに選出された各共和国の指導部が、旧体制下で育った権威主義的な志向の強い者たちであったために、極端な民族主義の主張がなされ、またそれが受け入れられていったのであった。ここにおいて、内戦勃発の下地はでき上がっていたのであった。
  ところで、一九八八年に憲法が修正された後も、ユーゴ内では国家形態をめぐって様々な議論が展開された。ユーゴにおける連邦制を考える上で有益であると思われるので、ここで少しそれについて見ておこう。
  東欧の民主化の動きを受けて、ユーゴの各共和国でも複数政党制の導入による自由選挙が行なわれた後の一九九〇年一二月末に、将来の国家形態を話し合う場として、連邦首相マルコヴィチと各共和国・自治州大統領を含む「ユーゴ・サミット」が開催された。一九九一年三月までに合計六回開かれたこの会議で、スロヴェニアとクロアチアは、前節でも触れた「主権国家連合」案を主張した。これに対し、セルビアとモンテネグロは連邦の保持に固執した。連邦幹部会も、「ユーゴスラヴィアの連邦再編の構想」を発表し、従来の連邦制を維持しつつ、構成共和国の統合形態を再編することを主張した。この主張の中で特筆すべきことは、共和国と連邦との関係についての規定で、共和国は連邦の枠内で一定の主権を行使する国家であり、共和国憲法が連邦憲法と抵触してはならないが、各共和国は国民投票によって示された市民の意思に基づき、連邦から分離する権利を持っていることである(36)
  しかしながら、結局、「ユーゴ・サミット」で具体的な方向性を打ち出すことができなかったため、一九九一年三月から六月にかけて、共和国首脳会議を開催し、実質的な権限を持つ六共和国大統領で話し合うことになった。六月六日に開催された共和国首脳会議第六回会議で、キャスティング・ボードを握っていたボスニア・ヘルツェゴヴィナ(イゼトベゴヴィチ大統領)とマケドニア(グリゴロフ大統領)の二共和国が共同して、「主権国家による共同体」という、「国家連合案」と「連邦案」の折衷案を提起した。この構想の骨子は、各共和国の完全な主権と国連加盟権の保有、共通の軍隊と共和国軍の並存、共通の通貨と共通の銀行、共通の議会であった(37)。しかし、あくまでも分離独立を主張するスロヴェニア、クロアチア(38)と、連邦制にこだわるセルビアとの溝は埋らず、六月二五日に、スロヴェニアとクロアチアの両共和国が一方的に独立を宣言し、遂に連邦は解体へと進んでいくことになったのである。
  パリ大学経済学部教授でユーゴの経済問題の専門家であるカトリーヌ・サマリはユーゴの解体を、「ユーゴ連邦そのものと各共和国の性格の両方が同時に見直しを迫られるようになったとき、それが諸民族の意識に影響して過去から受け継いだあらゆる恐怖をよみがえらせることは十分に考えられる。その過去が新たな政権によって利用され、チトー主義と危機と共に、一九四一年の諸対立が再び現われたのである(39)。」と説明している。また、ベオグラード国際政治経済研究所長のプレドラグ・シミッチの分析によれば、一般にチトー後のユーゴの危機は次の三つの要素の帰結であると述べられている。すなわち、@ユーゴスラヴィア独自の社会主義モデルの解体、Aソ連と東欧の予想外に早く進んだ根本的な変化、Bユーゴスラヴィア諸民族間の歴史的な敵意の激化(40)、である。

四  「外国の介入」説


  これは、ユーゴの内戦勃発の要因を外部勢力の対応のまずさ(対応の一貫性のなさ)に求める見解である(41)
  まず、EC(欧州共同体;現EU・欧州連合)の対応を見てみよう。ユーゴ危機が進行していた時期は、ECが統合に向けての長い交渉の末、マーストリヒト条約の調印を目指して腐心していた時期でもあった。したがって、特に仏独両国はユーゴ危機を、欧州政治協力(EPC)、共通外交・安全保障政策(CFSP)、共同での紛争解決と軍事行動といったEC/EU内での外交政策協力の機能を示し、テストする機会の到来と見ていた(42)。にもかかわらず、スロヴェニアとクロアチアが分離独立に向けて動いていた一九九〇年秋頃にECが考えていたことは、社会・経済安定に向けた予防外交のみであった(43)。さらにECは、ユーゴの緩やかな連邦制を支持し、独立には反対の立場を取った(44)。そこで、一九九一年六月二二日のEC外相会議で、スロヴェニア、クロアチアの独立は承認せずとの合意を示し、ユーゴの分裂を回避するための施策として、経済再建のために八億五〇〇〇万ドルの経済援助を行なう用意があると提案し、早急な独立を思い止まるように働きかけた。が、こうした動きは両共和国の独立宣言発表に対して何のインパクトも与えず、その三日後、両共和国はそろって独立を宣言した。
  スロヴェニア共和国の独立宣言に端を発したスロヴェニア内戦では、ECトロイカ代表団(イタリア、ルクセンブルグ、オランダの各外相)の尽力で連邦と共和国代表との間にブリオニ合意(45)(全面停戦と独立宣言の三か月間の凍結)を取り付け、何とか調停者としての面目は保ったものの、二共和国の独立承認問題では、当初から足並みが揃わず、その共通外交政策の限界を早くも露呈することになった。
  二共和国の独立承認に関して、EC内で突出した行動をとったのがオーストリアとドイツであった。両国はEC内で独立承認の急先鋒となる。ボンがユーゴ情勢に関して他の西欧諸国に見られない強い関心を示したことは、ドイツが西欧主要国中ではユーゴに最も近いこと、国内にユーゴからの出稼ぎ労働者を多く抱えていることに照らして理解されている(46)。また、オーストリアの動きは、オーストリア=ハンガリー帝国時代からのスロヴェニア、クロアチア両共和国との歴史的、経済的、文化的つながりからの説明がなされている。その一方で、これらの地域に対するそれぞれの経済、文化、歴史上の利害関係を反映させたドイツ、オーストリアの態度は、セルビアでは、統一ドイツの帝国主義を東欧にまで拡張する意図の現われと見なされていた(47)
  スロヴェニアは独立宣言前から、かつての支配者である隣国オーストリアに対して、独立承認の支援要請工作を展開し、それに成功する(48)。続いて、この独立支援の動きにドイツが強力にそのイニシアティブを発揮し始める。この背景にはオーストリア政界の全面的支持という後押しとバチカンやドイツのカトリック教会からのかなりの圧力があった(49)。一九九一年二月の段階では、連邦国家としてのユーゴ統一の維持を必要と見なしていたコール政権であったが、すでに「統一」を達成し、自分たちと同様に「民族自決」を求めるクロアチア人の訴えに心を動かされたドイツ人の世論の圧力に応じて(50)、同年八月六日のEC臨時外相会議(ハーグ)で、ゲンシャー外相が他の加盟国にスロヴェニア、クロアチアの「国際法上の承認」をも検討するように要請する。さらにドイツは、両共和国の一方的独立承認という脅しを、ECの政策に影響を与え、同時にまたセルビア政府にもプレッシャーを与えるために用いるようになった。この脅しはまた、両共和国の独立の国際承認がユーゴ紛争を国際化するであろう(51)という主張によって支えられたのである。そしてまた、クロアチアはこうしたドイツの主張を最大限利用したのである。
  早期承認論にはイギリスやフランスが、早急な独立承認は複雑なユーゴ内の民族対立を激化するだけだとして反対した(52)。ECによるスロヴェニア、クロアチアの独立承認方針が結局はユーゴ連邦軍に武力行使を断念せしめるとのボンの判断とは裏腹に、一九九一年五月、ついにクロアチアでも内戦が勃発した。一九九一年夏以降、ゲンシャーはたびたび、「戦闘が続けば、クロアチア独立を承認する」と述べた(53)が、これはセルビア側や連邦軍を牽制し、圧力をかけるためであった。しかし、クロアチア政府はこれを逆手にとって、「承認のためには戦闘を続ければいい」と停戦違反の攻撃を繰り返し、戦況を悪化させることとなった(54)
  イギリス人ジャーナリストで東欧の専門家であるミーシャ・グレニーによれば、当時の国連事務総長ペレス・デクエヤルは、在職期間中に出した文書のなかで特に力を込めて、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナに悲惨きわまりない戦争」をもたらす危険があるとして、クロアチア承認の決定を再考するようにゲンシャーに要請したが、ゲンシャーはこれを無視した(55)。彼は、「ボスニアを犠牲にしてでも、クロアチアを承認する意向を固めていた(56)」のであった。
  一九九一年一一月、ユーゴ紛争の仲介に本格的に乗り出したECは、「裁定委員会」(バダンテール委員会)を発足させ、旧ユーゴ六共和国の独立の資格について認定する作業(57)に入った。各共和国を個別審査後、同委員会は、独立承認基準を満たすのは「スロヴェニアとマケドニアの二共和国だけ」という結論を出した。クロアチアは「少数民族保護が不十分である」と非難され、ボスニアは国民投票などの手続きを踏んでいないために、独立承認の資格なしと判定されたのであった。これを受けて、ドイツの指示から、クロアチア政府は一九九一年一一月に「少数民族の権利法」を制定させた。実質的な変化は何もなかったにもかかわらず、ドイツは「これでクロアチアも裁定委員会の基準を満たした」と主張し、他のEC諸国にごり押しを通してしまう。結局、ドイツ自身は、ECの決定を待たずして一九九一年一二月一九日に単独承認を閣議決定し、二三日に公表した(58)
  翌一九九二年一月一五日のEC外相会議で、EC各国はドイツの独立承認を追認した。ECがドイツに一方的に押し切られてしまったのには、市場統合を一年後に控え、紛争解決より「加盟国の一致」を優先させたかったという事情、マーストリヒト条約合意に際して多くの譲歩をしたドイツに対する見返り(59)、マケドニア共和国の独立問題で、その独立に強硬に反対するギリシアが、ドイツに対してクロアチアの承認と引きかえに、ドイツがマケドニアを承認しないように圧力をかけた結果(60)、などがその背景として考えられる。
  元米国務省ユーゴスラヴィア担当官のジョージ・ケニーは、「もしドイツが欧州諸国を脅して承認させなければ、紛争は延期もしくは解決したかもしれない(61)」と述べている。何故なら彼によれば、一九九一年七月の内戦勃発前に、ドイツがクロアチアの独立宣言を強く支持したことから、セルビア人は第二次大戦の再現ではないかといっそう神経質になり、欧州諸国にとって公平な立場の維持が困難となった(62)からである。
  一方、米国はユーゴ危機の勃発に際して、「ヨーロッパの問題」であると積極的には介入しない姿勢を取った。ブッシュ政権の国務長官ベーカーによると、米国がユーゴ問題の主導権を西欧諸国に委ねた理由としては、@西欧諸国が、一九九二年のEC統合を目前に控え、自らが主導権を発揮し、ECを通じてこの問題に取り組む意欲を見せていたこと、Aペルシャ湾と違って、米国の国益が、直接危機に瀕しているわけではないこと、B一九九一年の時点で米政府には、ソ連情勢と湾岸戦争後の中東和平の問題という重要問題があったこと、C西欧諸国にユーゴ問題を任せて、結束して行動できるかどうかの試金石にさせようとする、暗黙の総意があったこと(63)、などが挙げられている。
  また危機の初期の段階における米国の対ユーゴ政策は、「ユーゴの崩壊はユーゴ国民にとってもヨーロッパの安全にとっても利益にならず、欧州は分離独立を鼓舞するような行動は避けるべきである。また、ユーゴの形態に関しては中立の立場を取り、欧州に統一と民主主義及びマルコヴィチ首相の改革を支持する声明を出すように要求する(64)。」というものであった。従って、一九九一年六月二一日(スロヴェニアとクロアチアの独立宣言の四日前)にベオグラードを訪問したベーカー国務長官は、「平和的解決を不可能にする一方的行為」を非難し、両共和国を「独立国家としては承認しない」と言明した(65)。西欧諸国がクロアチアを、そして後のボスニアを承認することに強く反対していたバンス元国務長官(後に和平会議共同議長)は、承認に強く反対するように米国務省にかけあった。駐ユーゴ米国大使であったジマーマンや駐欧米国大使らも、ワシントンに対して、EC諸国に承認を延期させるように説得することを進言した(66)。一九九二年一月のECによるスロヴェニア、クロアチア両共和国の独立承認の際も、米国はしばらく静観していたが、ベーカーが三月五日にECに対して、ECがボスニア及びマケドニアの承認を行なう一方、米国もスロヴェニア及びクロアチアを含めて四か国の承認に踏み切るという、欧米間の協調を回復する方針を提示した(67)。その結果米国は、EC諸国がボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立承認を決定した四月六日の翌日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのみならず、スロヴェニア、クロアチアの三共和国の独立を同時に承認するに至った。この米国の政策転換の裏には、欧州担当国務次官補のナイルが、西欧諸国と共同でボスニアの国家承認を行なえば武力抗争も回避しうると見て、スロヴェニア、クロアチア、ボスニアの三か国の承認に踏み切るようにブッシュ政権に進言したことがあった(68)。さらに、ボスニア、そして二義的にクロアチアの大義を推進するジャーナリスト、シンクタンク・アナリスト、議会職員、タカ派議員(69)からなるロビーチームが米国(特に議会)の政策に与えた影響力を無視することはできない(70)。しかしながら、結果は米国の期待を大きく裏切ることとなった。戦火はボスニアにも飛び火し、その後拡大していくことになるのである。
  日本国際問題研究所客員研究員のフランク・ウンバッハが指摘しているように、危機の発生当時、ブリュッセルの官僚たちの頭にあったのは、ユーゴ問題の根本的な解決ではなく、欧州共同外交・安保政策を編み出すために、いかに民族紛争を利用できるかということであった(71)。ヨーロッパとしては、冷戦後の地域紛争の解決という重要な役割を担う上で、米国の介入は避けたかったし、米国の方も積極的な介入には及び腰で、その意味では、ヨーロッパがイニシアティブを発揮することに関してはコンセンサスができあがっていたのであった。にもかかわらず、欧州共通外交・安保政策は、ドイツの二共和国の一方的独立承認によって、統合前から早くもその限界が露になった。ドイツの一方的独立承認政策の背景を元ベオグラード特派員であったジャーナリストの千田善は、「ドイツが統合ECの内部で主導権を握るとともに、旧ソ連の勢力圏から離れた東欧諸国という広大な市場まで、ドイツの影響力を拡大・強化しようという衝動があったことは間違いないであろう(72)」と分析している。
  さらにEC内部の共通外交政策への足並みの乱れは、ギリシアの側からも起こった。ギリシアがマケドニアの独立承認に強硬に反対したのである(73)。マケドニア国家の地位に対する強い抵抗感から、ギリシアは同じ正教国であるセルビアと密接に結び付くようになった。ギリシアはEC内で終始セルビアの側に立ち、そのためECはユーゴ危機に対して首尾一貫した対応を取ることが非常に困難となったのである(74)。ECはこうしたギリシアの主張に配慮して、一九九二年一月、裁定委員会で「独立承認の条件を満たしている」と認定されたにもかかわらず、マケドニア共和国の独立承認を見送った。「国益」を全面に押し出し、あるいは「欧州共通外交政策」の建て前から、確固たる信念や政策方針のないまま旧ユーゴの各共和国の独立を承認したことで、問題の解決はおろか、かえって紛争を拡大してしまった(75)ECをはじめとする国際社会の責任は大きい。
  こうしたEC内部の方針の不一致に加えて、EC加盟国とアメリカとの意見の相違も明かとなり、さらに紛争の進展につれて、ロシアとトルコという「大国」も旧ユーゴ地域に対するその深い関心を表明するようになった。アメリカ、EC、ロシア、トルコなどの対ユーゴ政策が、それぞれの利害関心から全く異なった状況では、これらをまとめられる合意や方針を作り出すことは困難であった。
  こうして見てきたように、ユーゴ危機が進展しつつあったときに、ECをはじめとする西欧諸国ならびに米国が、危機に対して、とりわけ初期の独立承認問題に関して、首尾一貫した理念や方針を持って問題の解決に臨まなかったことが、結局は、ユーゴを解体に導いた、とするのがこの見解である。

むすびにかえて


  最後に、何人かのユーゴ問題専門家の説を紹介しておこう。
  札幌大学教授で、北海道大学スラブ研究センター研究員でもある徳永彰作は、ユーゴ内の様々な対立を「断層」という言葉を用いて説明している。彼の説明によれば、ユーゴ内に横たわる「断層」は四つある。その第一は、ユーゴを西北部(スロヴェニアとクロアチア)と東南部(セルビア以南)に分ける、いわば「西」と「東」の文化を隔てる「断層」であり、現在のクロアチア南部国境線上を東西に、西欧と中近東の接線が走っている(76)、とする。この接線を境として、宗教にはじまり食物、住宅様式、民謡、民族衣装、民族舞踊、お祭りなどの分野から行動様式、社会意識、生活水準に至るまで、今なお厳然とした格差や相違が横たわっている。第二の「断層」は宗教的対立である(77)。それは九世紀以降この地に定着した東方正教(セルビア正教、マケドニア正教)とクロアチア、スロヴェニアのカトリックとの対立である(78)。第三の「断層」は、第二次世界大戦中、民族が相互に受けた数々な仕打ちに対する「怨念」によるものである(79)。ドイツがクロアチアに作った傀儡政権「クロアチア独立国(NDH)」のウスタシャはナチス・ドイツの指令にしたがって、域内のセルビア人、ユダヤ人弾圧政策を遂行した。一方、セルビア人は「チェトニク」を組織してこれに対抗した。チェトニクもまた、クロアチア人の殺戮を繰り返した。今回の内戦に際して、こうした過去の忌まわしい記憶が、各民族内で民族主義を鼓舞するために巧妙に用いられた。第四の「断層」として、主義、主張の相違が挙げられる(80)。一党独裁を放棄した旧ユーゴ構成共和国での自由選挙で、スロヴェニアで民主野党連合の「デモス(DEMOS)」が、クロアチアで民族主義的な民主野党連合の「クロアチア民主同盟(HDZ)」が旧共産系を下したのに反して、セルビアとモンテネグロでは、旧共産主義同盟が勝利した。
  徳永は、「セルビア、クロアチア間の抗争は、双方の主義、主張の『断層』がもたらす、いわば民主系と共産系の戦いとも言える。西側諸国は心情的に、民主化傾向のクロアチア、スロヴェニアを支持する方向に動き、えてして反抗的な姿勢を示し、相変わらず社会主義政権に固執しているセルビアを避ける傾向にある(81)。」と結論付けている。
  次に、柴宜弘は、ユーゴの解体を以下のように図式化している。すなわち、「七四年憲法体制」の崩壊(一九八八年一一月の憲法改正で決定的になった)と経済危機に対する対応の失敗から来る連邦政府への批判として、各共和国でナショナリズムが高揚し始める。ここで、政府批判が民族主義へ容易に転嫁してしまった背景には、一九八〇年代のユーゴで民主化が遅れていたことがその要因としてあげられる。東欧の激変の影響を受けて、複数政党制による自由選挙が一九九〇年に各共和国において実施されるが、各共和国とも民族主義的傾向の強い政府が誕生することになる。選挙結果を見るまでもなく、共産主義者同盟の分裂は避けられないものとなっていたのであるが、この分裂が決定的となったのは、九〇年一月に開催された共産主義者同盟第十四回臨時大会である。「民主集中制」原則の否定を主張するスロヴェニア代表が、この主張が受け入れられないと判断して、大会から退場してしまう。これを契機に、スロヴェニアは分離独立に走り、ユーゴは解体してしまうのである。さらに、柴は、ユーゴ連邦の解体を「南北格差による経済的利害に民族自決が絡んでの」解体であり、ソ連やチェコ・スロヴァキアといった旧社会主義多民族連邦国家の解体と、ユーゴのそれとの相違を指摘している(82)
  最後に、カトリーヌ・サマリの見解を紹介しておこう。彼女によれば、ユーゴ崩壊の根本的原因は、「チトー主義」という主柱の倒壊と新たに選出された反動的体制の論理(例えば、「大セルビア」構想など)に求められる(83)、としている。彼女はまた、紛争の原因を国際的責任と国内的責任に分けて分析している。国際的責任の第一は、「国際社会」が一九九一年六月の独立宣言まで連邦維持の姿勢を打ち出したことである(84)。「国際社会」は債務を集中管理できる強力な国家を欲したが、こうしたやり方は、各共和国がいだいている主権に対するおしとどめがたい熱望を無視したのである。第二に、「国際社会」が、マケドニアの不承認に示されるように、一貫したガイドラインを全く持たず、独立を承認すれば戦争の拡大を防げるだろうという幻想を持って、独立宣言を承認したことである(85)
  国内的責任についてはまず三つのアプローチを列挙している。すなわち、第一は、この戦争が「共産党」と大セルビア主義による、クロアチアとボスニアの民族自決権に対する攻撃である(86)、というアプローチである。第二のアプローチは、異なる民族主義のあいだに存在する類似点を根拠にして、どの民族主義にも与せず、全ての民族主義を等しく嫌悪すべきものと見なす(87)。最後のアプローチは、分離主義的民族主義にこそ責任がある(88)、というものである。そしてこれら三つのアプローチの不十分な面を以下のように批判している。
  まず第一のアプローチは、現実の権力の同盟関係を描いてはいるが、満足できる説明ではない(89)、としている。何故なら、第一に、このアプローチでは「共産党」のレッテルを表面的な意味で使っているが、それでは、ミロシェヴィチの政治の「チェトニク」的(90)内容を見定めることができない。第二に、クロアチア人の民族自決権を主張する時、ユーゴ領内に存在する全ての民族社会、特にセルビア人の民族自決権はどのように行使され得るのか、という問題が全く考慮されていないからである。第二のアプローチに関して言えば、例えば、連邦軍がセルビア領に対して空爆しないのは何故か、という側面を看過している(91)、として批判している。第三のアプローチに対しては、対立の一面を強調してはいるが、次のような理由で受け入れられるものではない(92)、としている。すなわち、第一に、このアプローチは、戦争の責任を分離独立主義の民族主義だけに帰する。だが、最初の戦争は、セルビア内のコソヴォ自治州のアルバニア人に対して行なわれた(一九八一年)。第二に、このアプローチは、軍が公正無私の理性と、公平で慈悲深い役割の持ち主であるとする。だが、実際には、軍はテロリスト的やり方でセルビアの自決権という考えを強制してきた「チェトニク」集団の後ろ楯となってきた。第三に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの場合、クロアチアで起こっていることとは反対に、セルビア人の境遇を悪化させたり、「原理主義の脅威」にさらしたりするような憲法上の変化は起きていない、と。
  以上の様にこれら三つのアプローチの不十分な面を批判した上で、大セルビア構想こそがいくつかの共和国に戦争をもたらした(93)、と彼女は結論付けている。
  以上に見てきたように、本稿では、ユーゴ内戦をめぐる諸論争を、(1)「民族対立」説、(2)「経済危機起因」説、(3)「チトーイズムの崩壊」説、(4)「外国の介入」説の四つに分類しそれぞれを解説し、最後に複合的な視点からの見解を若干数紹介した。その結果、明かとなったことは、それぞれの見解が、それぞれに妥当な側面と不十分な側面を持っているということである。したがって、筆者自身は、(1)から(4)までの諸説で示されているユーゴ崩壊の主要諸要因を個別の事象として捉えるのではなく、それぞれが複合的に絡みあい、相互に連関している事象であると見なして、ユーゴ崩壊はこうした諸要因が複合的に重なりあった結果であると考えることが妥当であると考える。その意味で、最後に紹介した柴宜弘の複合的かつ多面的な捉え方は示唆に富むものである。
  個々の説に関して言えば、例えば、(2)の「経済危機起因」説は、時として軽視されがちな紛争の経済的な側面にスポットを当てている点で十分に積極的な評価がなされるべきであり、(4)の「外国の介入」説は、国際社会の対応という視点から、今後、地域紛争を解決していくという国際社会の役割を考える上で、さらに検討が加えられるべきであろう。
  ユーゴの内戦は、冷戦後の国際社会の集団介入失敗のケース・スタディであった(94)とも言われている。本稿では、冷戦後の地域紛争に国際社会がどのように関与し、また解決していくかという新たな問題を我々に提起したユーゴの内戦を、その起源に焦点を当てて分析した。次に、実際の国際社会の対応を研究する必要があるが、その分析については別稿にゆずりたい。

(1)  加藤雅彦によると、バルカンの「憎悪と復讐」の歴史の起源は、第一に、諸民族が山岳で分断され割拠させられてきたバルカンの地形。第二に、そうした多くの諸民族が、バルカンという限られた土地で、「大\\主義」を掲げて、激しい領土の争奪に明け暮れてきたこと。第三にバルカンの諸民族はいずれも、前世紀までオスマン・トルコとハプスブルク両帝国によって、数世紀にわたり分割され統治されてきたこと。従って、前世紀から今世紀にかけて民族の統合と独立を達成したものの、あまりにも長い外国支配のあいだに、同一民族としての帰属意識は薄れていたこと、である。(加藤雅彦、『バルカンーユーゴ悲劇の深層』、日本経済新聞社、一九九三年、二六三−二六四頁。)
(2)  これは、ユーゴスラヴィアの国民という意味ではなく、政治的志や族際結婚などで南スラブ系諸族の統合性を自覚した人々のことであり、八一年には五・四%(一二一万九〇〇〇人)を占めていた。
(3)  この運動を通じて、ユーゴ国民は、建国後初めて、民族対立を超越した「ユーゴスラブ」(南スラブ人)意識に目覚めた。(加藤、前掲書、一八六頁。)
(4)  バルカンの共産化が、戦後比較的短い期間に行なわれたのには、戦時中に共産党が効果的に抵抗運動を展開していたこと、それに議会制民主主義の発達が遅れ、テロや独裁を許す政治的風土によるところが大きかった。(加藤、同上書、一九〇頁。)
(5)  これがセルビア人が特別扱いされるべきであると考える理由であった。
(6)  アルバニア人は、ユーゴスラヴィア内で数的にセルビア人、クロアチア人、ムスリム人に続き、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人よりは多いが、スラブ系民族ではない。
(7)  加藤、前掲書、二三五頁。
(8)  Aleksandar Pavkoic´, The Fragmentation of Yugoslavia, Macmillan Press, London, 1997, p. 88. なお、五〇年代初めのセルビア民族主義は、反共産主義で、解放者としてのセルビア人の意識を唱えていた。(Ibid.)
(9)  Ibid., p. 89.
(10)  Ibid., p. 91.
(11)  加藤は、「コソヴォ紛争」こそが、ユーゴを分裂・崩壊へと導く決定的な要因となった、と指摘している。(加藤、前掲書、二二一頁。)
(12)  第二次世界大戦中のドイツの傀儡政権であるこのウスタシャ政権は、アンテ・パヴェリッチに率いられ、ヒトラーと同様の人種政策を進め、ユダヤ人狩りやジプシー狩りと同時にセルビア人狩りに着手した。こうして、国家権力による大量虐殺が行なわれたのであった。
(13)  ミーシャ・グレニーは、「ユーゴスラヴィアという国家の最大の問題はセルビア人がクロアチア人より優勢だということであり、クロアチアの最大の問題は独立すればクロアチア人がセルビア人より優勢だという現実である。」と指摘している。(Misha Glenny, The Fall of Yugoslavia:The Third Balkan war, Penguin Books, N. Y. 1996, p. 13.)
(14)  元駐ユーゴスラヴィア米国大使であるウォーレン・ジマーマンによると、ユーゴ崩壊は上からのナショナリズムの古典的な例であった、とされている。(Warren Zimmermann, Origins of a Catastrophe, Times Books, NY, 1996, p. 138.)及び、ヴァージニア大学準教授のスミスの指摘。(マイケル・J・スミス、「旧ユーゴスラヴィア紛争の教訓」『外交フォーラム』、一九九六年二月号、六九頁。)
(15)  柴宜弘、『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書、一九九六年、四五頁。
(16)  柴、同上書、同頁。
(17)  例えば、サマリの「ユーゴの分解は、一方では非民主的な共和国政府の行為がもたらしたものであり、他方では、共和国間の格差を拡大した深い社会・経済危機がもたらしたものである。」との見解。(カトリーヌ・サマリ、『ユーゴの解体を解く』神野明訳、柘植書房、一九九四年、一〇六頁。)また、パヴコヴィチは、ユーゴの政治的、制度的崩壊の原因を、@長期化する経済停滞、Aそれに起因する社会不安、Bナショナリズムの高揚、と説明している。(Pavkovic´, op. cit., 79. p.)及び、「対外債務の累積、恒常的なインフレ、失業者の増大に代表される経済危機は、国民生活に深刻な影響を及ぼした。そうした中で既存の連邦制度に対する不満が高まり、民族主義に訴える形で連邦を構成する各共和国が独自の主張を展開するようになった。」という、石田の見解。(石田信一、「ユーゴスラヴィアの連邦解体ー経過と現状ー」『外交時報』、一九九三年九月号、四六頁。)
(18)  例えば、先進共和国が後進地域への援助を拒否した。(柴、前掲書、二一〇頁。)
(19)  この南北格差の形成にはいくつかの要因があるが、歴史的要因としては、北部はハプスブルク帝国内にあって、発達した農業を基礎に、十八世紀から十九世紀にかけて手工業と近代工業の発展を見た。これに反して南部では、トルコの支配のもと、経済は主として農業によって支えられていた。しかも気候はバルカン特有の厳冬酷暑の大陸性で、ところによっては、厳しい不毛の山々続きで、農業を営むことすら困難であった。文化的要因としては、北部は欧州文明の恩恵を受け、人々は勤勉さと合理性を身につけていた。これに対し、南部では五〇〇年にわたったトルコ支配、ことにその後半は、圧政と搾取に苦しむ日々であった。そのため南部では、運命に甘んじこれと妥協する生き方が人々の習性となった。(加藤、前掲書、二一四−二一五頁。)
(20)  柴宜弘、「ユーゴスラヴィアという国ー歴史的概観」柴宜弘編、『もっと知りたいユーゴスラヴィア』弘文堂、一九九一年、二二−二三頁。
(21)  憲法修正による重要な点は、「七四年憲法体制」自体が根本的に変質したことであった。たとえば、八〇年のチトーの死後、最高の政策決定機関である連邦幹部会に関しては、「調停者」としての役割を果たしえなくなっていたユーゴ共産主義者同盟議長が構成員から外れ、六共和国・二自治州から各一名の八人構成になる。自主管理社会主義についても、基本的といえる変更が加えられた。一二月には企業法が制定され、経済的にも連合労働という考えに修正がなされ、それまで否定されていた「企業」概念が全面的に復活した。これと同時に、社会的所有、私的所有、国有といった所有形態の多様性が承認される。(柴、同上論文、二三頁。)
(22)  共和国の内政に対する完全な主権を主張し、ユーゴスラヴィア連邦からの「分離」権を明記した。
(23)  前文にはECの歴史と経験に学び理論化したことが述べられ、国家連合を形成する上の基本的な出発点が列挙されている。例えば、@国家連合は、共通の目的を実現するための主権国家の自由意思に基づく連合体であること、A統一市場の保障が国家連合の基礎であり、ヨーロッパの統合過程に包含されることが共通の利益であること、B国家連合は外部からの攻撃に対し全加盟国の領域の防衛に当らねばならないこと、C個々人や全てのエスニック・グループの人権擁護に際し同じ条件を保障すること、D国家連合の結合と安定のため、諸機関の要としてルクセンブルクのEC裁判所をモデルとする国家連合裁判所を設置すること、E国家連合としてEC加盟の可能性を考慮すること、などである。(柴、前掲書、一五四−一五五頁。)
(24)  柴、同上書、一六〇頁。なお、「南北格差による経済的利害に民族自決が絡んでも連邦解体である」とも述べている。(柴、同上書、同頁)
(25)  中村義博、『ユーゴの民族対立』サイマル出版会、一九九四年、一七頁。
(26)  中村、同上書、二五頁。もっとも、当時、スロヴェニア経済会議所などは、スロヴェニアは南部地域から原材料を入手し、これを加工して付加価値をつけ、そのうえで南部地域へ売ることにより利益を上げていたのだから、独立して別の国になれば、セルビアへ輸出されるスロヴェニア製品に対しては、当然関税などの障壁も適用されることになり、とてもECの製品と太刀打ちできないとして、独立に消極的であったといわれる。(中村、同上書、二六頁。)
(27)  池引嘉博、「東欧における民族問題と地域統合」『外交時報』、一九九二年一月号、一四頁。
(28)  例えば、サマリは、「ユーゴ解体の根本的理由は、一つには「チトー主義」という主柱の倒壊、もう一つには新たに選出された反動的体制の論理のうちに求められるべきである。」と述べている。(サマリ、前掲書、六九−七〇頁。)また、Spyros Economides & Paul Taylor, Former Yugoslavia, James Mayall (Ed.), The New interventionism 1991-1994:United Nations experience in Cambodia, former Yugoslavia and Somalia, Cambridge University Press, Cambridge, 1996, p. 3.
(29)  当時のソ連憲法に類似したものであった。(徳永彰作、『モザイク国家ユーゴスラヴィアの悲劇』筑摩書房、一九九五年、八〇頁。)
(30)  七四年憲法の特徴は以下の通りである。すなわち、第一は、各共和国・自治州の権限の平等が徹底されたことである。またアルバニア人やハンガリー人などの少数民族の言語や文化を、平等に扱うことが規定された。第二は、これまで実質的には集権制をとっていた連邦制が改められ、各共和国と自治州への大幅な分権が行なわれることになったことである。各共和国と自治州に、「経済主権」が認められた。これにより連邦は、その経済政策を決定し、実行するにあたって、事前に共和国や自治州と「協議」を行ない、その「合意」を取り付けることが必要となった。第三は、「集団大統領制」あるいは「大統領輪番制」といわれる制度がさらに徹底されたことである。輪番制は、後継者に選出される機会を、各民族に平等に与えるために設けられた制度である。改正憲法によって、全国の六共和国と、二自治州からそれぞれ一人ずつ、それに共産主義者同盟議長(=党書記長・チトー)の合計九人からなる連邦共和国幹部会を設けること。そしてチトーが引退あるいは死去した場合は、一年交代の輪番制で、この九人のなかの一人に、幹部会議長(=大統領)を務めさせることになった。(加藤、前掲書、二一八−二一九頁。)
(31)  定形衛、「非同盟外交」、柴編、前掲書、九一−九二頁。
(32)  古参から若い世代への政治的権限の移行過程の突然の中断と一九七〇年代に進んだ「幹部のネガティブセレクション」が、チトー後の時代にユーゴの共産党指導部が深まる経済的、政治的危機の解決に完全に失敗した主な理由である。(プレドラグ・シミッチ、「ユーゴの内戦ー連邦解体の起源」(原題=Civil war in Yugoslavia:The Roots of Disintegration)水谷驍訳、[ソ連・東欧]資料センター季刊誌「Quo」一九九二年春三号、一〇八頁。)
(33)  七四年憲法で、終身大統領のチトー亡き後、特定の民族に権力が集中しないようにするために取られた、苦肉の策。言い換えれば、チトーほどの指導力を持った指導者がいなかったために取られた措置でもあった。
(34)  定形、前掲論文、八七頁。
(35)  自主管理社会主義について言えば、翌一二月に制定された企業法によって、経済的にも連合労働という考えに修正がなされ、それまで否定されていた「企業」概念が全面的に復活した。これと同時に、社会的所有、私的所有、国有といった所有形態の多様性が承認された。
(36)  柴、前掲書、一五六−一五七頁。
(37)  柴、同上書、一五七頁。
(38)  実際に、スロヴェニアとクロアチア両政府の「国家連合案」に対する認識は、「連合は共和国の独立承認を得るための道具である」というもので、あくまでも、分離独立を目指す運動の一環であった。(Pavkovic´, op. cit., p. 123.)
(39)  サマリ、前掲書、九二頁。
(40)  シミッチ、前掲論文、一〇四頁。
(41)  例えば、千田善、『ユーゴ紛争ー多民族・モザイク国家の悲劇』講談社現代新書、一九九三年、二三二頁。
(42)  Economides & Taylor, op. cit., p. 65.
(43)  実際に、ヨーロッパがユーゴ問題に関与し始めるのは、九一年の春からであった。また、米国は、八九年以降、ヨーロッパにこの問題を喚起し続けてきた。(Zimmermann, op. cit., p. 147.)
(44)  ユーゴが分裂すればヨーロッパの安定に複雑な影響を与え、国際関係へのマイナス効果は大きい、と見ていたため。(徳永、前掲書、二〇三頁。)また、もう一つには、ユーゴの国内事情からである。一九九〇年、マルコヴィチ連邦首相は経済の立て直しを試み、著しい成功を収めた。彼は西側が交渉相手にしうる、ユーゴの対外債務不履行を間違いなく解消していく人物と見なされたのであった。(Glenny, op. cit., p. 236.)なお、マルコヴィチ首相へのこうした積極的な評価については、Zimmermann, op. cit., pp. 42-3. を参照のこと。
(45)  ブリオニ合意の詳しい内容は以下の通り。すなわち、独立宣言の三か月の凍結中、@国境の管理は、従来通り共和国警察、税関吏が連邦憲法及び連邦当局の規則、指揮下で従事する、A三〇ー五〇人規模のEC停戦監視団の共和国への派遣、B特に連邦人民軍の最高司令機関としての連邦幹部会の機能を回復、強化する、C七月九日零時までに捕虜全員を釈放し、部隊を兵舎に撤収させる。(朝日新聞、一九九一年七月八日付夕刊)
(46)  佐瀬昌盛、「ドイツ外交の始動と誤算ー「東方政策」を中心に」『国際問題』、一九九二年八月号、二六−二七頁。
(47)  Glenny, op. cit., p. 112.
(48)  例えば、オーストリア外相モックの支援。モックの働きかけにより、独、オーストリア内で独立支援の動きが起こる。(Pavkovic, op. cit., p. 136.)また、この対オーストリア工作は、一九九一年三月二八日付の書簡の中で、ブッシュ米大統領が、アメリカは、「今日の全ての不一致や紛争が統一的・民主的ユーゴスラヴィアの枠内で解決されることを希望し、国を解体したい人々を動機付けたり、報償したりしないように勧告」したことによって、アメリカが独立承認に際して頼りにならないと判断したことから、加速した。(岩田昌征、『ユーゴスラヴィア衝突する歴史と抗争する文明』NTT出版、一九九四年、七九頁。)
(49)  Glenny, op. cit., pp. 111-2 及び p.212.
(50)  千田、前掲書、二四五頁。
(51)  両共和国の独立承認をすれば、セルビア軍のクロアチアに対する攻撃を主権国家に対する侵略者としてベオグラードに圧力をかけ、止めさせることができる、という主張。
(52)  この「ドイツ対イギリス」というEC内の見解の相違は、ドイツ、イタリア、オーストリアがクロアチアと連携し、イギリスとフランスがセルビアと密接に関係するという、第一次世界大戦以来ヨーロッパ列強がユーゴ諸国・諸地域に示した伝統的な対立の図式でもあった。(柴、前掲書、一八六頁。)
(53)  一一月末に、ボンでイゼトベゴヴィチ議長と会談したゲンシャーは、この時、イゼトベゴヴィチから承認に関する青信号を得たと推測した。(Zimmermann, op. cit., p. 176.)
(54)  千田、前掲書、二四三頁。
(55)  Glenny, op. cit., p. 163.
(56)  Ibid.
(57)  同委員会が用いた独立承認の基準は、「独立への国民の意志が、国民投票などの民主的手続きを踏んで確認されているかどうか」、「人権問題、特に『少数民族』の権利が十分に擁護されているかどうか」などであった。つまり、領土の実効支配に関しては、問題視されなかったのであった。
(58)  苦境にたったアリア・イゼトベゴヴィチ・ボスニア議長は、ボンに出向き、承認の動きを性急に進めないようにコールとゲンシャーに要請したが、時すでに遅かった。(Glenny, op. cit., p. 163.)
(59)  あるイギリス外務省高官の話。イギリスがユーゴとの利害関係をわずかしか持っていなかったことも、イギリスがドイツに対して強硬に反対しなかった原因の一つであった。(Ibid. pp. 191-2.)
(60)  ドイツはギリシアの圧力を受けて、マケドニア問題を9843上げした。(Ibid. p. 191.)
(61)  ジョージ・ケニー、「米国の対ユーゴ政策の変遷を追う」『外交フォーラム』一九九六年五月号、二九頁。
(62)  ケニー、同上論文、同頁。
(63)  James A. Baker III with Thomas M. DeFrank, The Politics of Diplomacy:Revolution, War & Peace, 1989-1992, G.P. Putman’s Sons, NY, 1995, pp. 636-637.(邦訳=ジェームズ・A・ベーカーV『シャトル外交激動の四年(上・下)』仙名紀訳、新潮文庫、下巻六〇一−六〇二頁。)
(64)  Zimmermann, op. cit., pp. 64-5.
(65)  当時の連邦政府と連邦軍首脳はベーカーの言動を「アメリカは実力行使を容認」したサインとして受け止め、ベーカーが帰った六日後、戦車部隊をスロヴェニアに出動させた。(千田、前掲書、二三四頁。)
(66)  Zimmermann, op. cit., p. 176.
(67)  五十嵐武士、「ボスニア紛争とクリントン政権ー冷戦後の地域紛争と米国外交」『国際問題』一九九六年五月号、四四頁。この時、ECがギリシアの反対でマケドニアの承認に至らなかったのは周知のとおり。
(68)  五十嵐、同上論文、同頁。また、ケニーは、「米国からの圧力がなければ、ボスニア問題に熱心でなかった欧州諸国は、各勢力の権利問題が収まらない限り、ボスニア承認には至らなかったであろう。」と指摘している。(ケニー、前掲論文、二九頁。)
(69)  反セルビアの代表的な議員は、後に一九九六年の大統領選で共和党の大統領候補となるボブ・ドール上院議員であった。
(70)  ケニー、前掲論文、三八頁。
(71)  フランク・ウンバッハ、「旧ユーゴスラヴィア紛争とNATOの役割ー欧州安全保障への教訓」(原題=The Wars in Former Yugoslavia and the Role of NATO:Lessons of War and Diplomacy for Future Security Challenges)佐藤治子訳、『国際問題』一九九六年五月号、二八頁。
(72)  千田、前掲書、二四四頁。また、グレニーは、「改革後の東欧諸国へ、ドイツは比較的多額の投資をしてきた。しかし、まもなく明かになったのは、東欧に対するドイツの通商的関心は、ポーランド西部、チェコ共和国、ハンガリーといった一部の地域に集中しているということだった。スロヴァキアはこの特別の対象から除外され、スロヴェニアとクロアチアはちゃんと含まれていた。選び出された国々が経済的、文化的、宗教的にドイツと深く結びついた地であるのは決して偶然ではない。その意味では、一九八九年以後、ドイツがこの結び付きの回復を目指したのは当然であり、納得もいく。」との見解を示している。(Glenny, op. cit., p. 189.)しかし、国際社会がドイツ批判に集中した後、ドイツの姿勢は消極的になった。ユーゴでのPKOに要員を送ることもせず、ドイツの政治的影響力は低下していくのである。(ウンバッハ、前掲論文、二七頁。)
(73)  ギリシアはマケドニアの領土的野心を警戒して、マケドニアの独立に反対した。マケドニア側に領土的野心がないとわかると、マケドニアの独立に際しマケドニアの名称を用いないようにとの条件を出した。ギリシアが一貫して独立に反対するのは、国内のスラブ系ギリシア人の動きの表面化を懸念してのことと考えられる。(柴宜弘、「ユーゴスラヴィア解体とバルカン地域」『外交時報』一九九三年九月号、五一頁。)
(74)  Glenny, op. cit., p. 240.
(75)  とりわけ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の独立承認問題。サマリ氏は、「一貫したガイドラインを全く持たず、漠然と、独立を承認すれば戦争の拡大が防げるだろうという幻想をもって」独立承認を行なったとして、「国際社会」を批判している。(サマリ、前掲書、七八−七九頁。)
(76)  徳永、前掲書、六八頁。
(77)  徳永、同上書、七一頁。
(78)  実際、一九九一年にカトリック教会圏のクロアチアとスロヴェニアへ、同胞のバチカン、オーストリア、ドイツが支援を与えた。また、この危機に際し東方正教の三大中心地であるモスクワ、ベオグラード、アテネ間で親密な対談が行なわれた。(Glenny, op. cit., p. 212.)
(79)  徳永、前掲書、七四頁。
(80)  徳永、同上書、七六頁。
(81)  徳永、同上書、七七頁。
(82)  柴宜弘、「ボスニア内戦と国際社会の対応ーユーゴスラヴィア解体から和平協定調印まで」『国際問題』一九九六年五月号、二−三頁。加えて、外部の対応のまずさも指摘している。(柴、同上論文、一四頁。)
(83)  サマリ、前掲書、六九−七〇頁。
(84)  サマリ、同上書、七八頁。
(85)  サマリ、同上書、七八−七九頁。
(86)  サマリ、同上書、八〇頁。
(87)  サマリ、同上書、八三頁。
(88)  サマリ、同上書、八四頁。
(89)  サマリ、同上書、八〇頁。
(90)  サマリによれば、今日、「チェトニク」過激派の集団は二つの流れに分裂している。そのうちの一つは、ボイスラフ・シェシェリのセルビア急進党の元に集結し、この潮流は、一九八七年以後、セルビアの旧共産党の指導者となってきたミロシェヴィチと同盟している。一方、もう一つの流れの指導者は、「セルビア再生運動」のブーク・ドラシュコヴィチで、彼はミロシェヴィチの立場とことごとく対立している。(サマリ、同上書、六六−六七頁。)
(91)  サマリ、同上書、八三−八四頁。
(92)  サマリ、同上書、八五−八六頁。
(93)  サマリ、同上書、八七頁。
(94)  マイケル・J・スミス、「旧ユーゴスラヴィア紛争の教訓」中本義彦訳、『外交フォーラム』一九九六年二月号、六八頁。