立命館法学  一九九八年六号(二六二号)




フランス地方政治研究の動向

−地域システム理論の発展と新しい地方名望家像−
中    田    晋    自



目    次



は じ め に
一  地域システム理論の発展
  (1)  組織社会学派の地方政治理論
  (2)  P・グレミオンの「周辺権力」論
  (3)  地域システムの諸理論
二  地方分権改革以降の地方名望家
  (1)  地域権力とはなにか
  (2)  新しい地方名望家像
  (3)  地方名望家をとりまくアクター
  (4)  新しい調整モデルの特徴
む  す  び

は じ め に


  フランスの「地域」ローカルが政治の科学シァンス・ポリティークによって本格的に研究されるようになったのは、さほど昔のことではない。その理由の一つは、川崎信文氏が指摘しているように、フランスにおける地方自治の問題を「もっぱら公法学があつかってきた」ことにあるといってよい。また、このように「法学的アプローチが優勢であったということは、そこに『政治』を認めなかった、あるいは見ようとしてこなかった(1)」ことを意味するものであり、地域に独自の政治過程を認めない、こうした理論的傾向は、実は、フランスの統治構造と結びついていた。つまり、「フランスは、アングロサクソン諸国とくらべて、大陸型地方自治の国、さらに典型的な中央集権の国」ともいわれ、このことは、アングロサクソン諸国における「地方政府」ないし「地方統治ローカル・ガバメント」に対応する言葉が、フランスでは、法律用語として用いられるところの「地方公共団体コレクティィテ・ローカル」ないし「地方管理(行政)アドミニストラシォン・ローカル」となっているのである(2)
  しかし、第五共和政の成立以降、新たに形成された地域政治構造は、ある社会学グループによって描写されるところとなり、彼らは、これを地方政治理論として体系化していった。すなわち、「国の統制・命令に一方的にしたがうことなく、独自の『権力ゲーム』をおこなう地方の自律性が『発見』された(3)」のである。この「発見」に端を発するフランス地方政治研究の本格的展開は、一方ではフランスにおける中央ー地方関係を再編する必要性を提起し、他方では地域における地方名望家ノタブル・ローカル支配の問題を浮かび上がらせることになる。また、後述するように、こうした研究の成果は、現実政治にも大きな影響を与えていくことになる(年表を参照)。
  以上のような事実認識に立ち、本稿はまず、一九六〇年代後半以降進展を見せた組織社会学派の地方政治研究を、フランスの地域に関する政治学的研究の基点と位置づけ、その概略を明らかにする。彼らの研究は、「地域政治・行政システム(le syste`me politico−administratif local)」概念をキーワードとし、行政区画としての県デパルトマンを中央権力と地域権力が交差する「舞台」と位置づけるものである。その舞台の上では、県知事だけでなく、地方名望家も重要な役割を果たしており、彼らが実際には、「共犯」関係にあることが明らかにされたのである。
  こうして始動したフランス地方政治研究の特徴は、端的に述べるならば、地域システム論として理論化されていった点にある。このように、地域システム論として理論化されたフランス地方政治研究は、様々な理論的課題を残しながらも、A・マビローの「地域システム」論において一つの到達点を築いていると考えられる。彼の地域システム論における主要な関心は、地方分権改革によって、地域アクターたち(とりわけ、地方名望家と呼ばれる人々)の地位や役割にどのような変化がみられたのかに向けられている。従って、最後に、マビローの地域システム論を紹介することによって、フランス地方政治研究の新たな動向を把握し、今日のフランスにおける「地方名望家」像を明らかにしていく一助としたいと考える。

一  地域システム理論の発展


(1)  組織社会学派の地方政治研究
  「組織社会学派」とは、一九六一年にM・クロジェによって設立された「組織社会学センター(Le Centre de sociologie des organisations)」を拠点とする、研究者集団を指す。創設者のクロジェ自身は、のちに『閉ざされた社会』を著すことによって、官僚制組織などを対象とした研究から、さらに視野を広げ、フランス社会全体を分析の対象としていったといわれる。実際、この『閉ざされた社会』は、「その内容によってかなりの影響を具体的な政策過程に与え」、「たとえばポンピドー政権当時、J・シャバン=デルマス首相が一九六九年九月に『閉ざされた社会』としてのフランス社会を告発する演説をおこなったことにうかがえるように、クロジェはいやおうなくフランスの政策選択に影響力」をもちはじめていた(4)
  しかし、クロジェがフランスの現実政治に与えた影響力は、このように、結果的に生じたものではない。というのも、彼自身、むしろ主体的に「深くフランスの行政に関与していた(5)」と考えられるからである。そのことは、次の事実からうかがい知ることができる。すなわち、クロジェは、一九七四年大統領選挙へ向けて、ジスカールデスタンと与党内での候補者争いをしていた正統派ゴーリストのシャバン=デルマスを支持表明していたし、ミッテランが初当選を果たした一九八一年大統領選挙では、ジスカールデスタンへの支持を表明していたのである。また彼は、一九七六年に刊行された『責任諸権限を地方分権化する何のため?  どのようにして?』(いわゆる「ペイルフィット報告(6)」)の作成にも関わっており、このことからも、彼が、この時期のフランス国家構造改革に最も積極的に関与した知識人の一人であると言ってよいであろう。
  ところで、組織社会学派とフランス地方政治研究との関連について述べるならば、佐藤俊一氏が指摘しているように、「クロジェ自身が、中央・周辺関係論を展開したわけではない」点を確認しておく必要がある。クロジェを「一躍組織社会学派の旗手たらしめたのは、官僚制的現象に対する新たな戦略分析モデルを提起したことにあった」のであり、むしろ、「クロジェ・グループのJ・P・ヴォルムやJ・C・トエニらが、中央集権的でイモビリズムの典型といわれてきたフランス国家官僚制にクロジェ理論を適用し、むしろそのダイナミックな展開を明らかにした(7)」というのが事実である。
  彼らの研究は、こうして、フランスの地域政治に関する極めて精緻な社会学的分析へと向かっていった。県知事と名望家の「共犯」関係を明らかにしたJ・P・ウォルムは、この分野では半ば古典とも呼ぶべき論文「知事とその名望家たち」を『労働社会学』の特集号(一九六六年)に発表する(8)。川崎氏が指摘したように、「一九六〇年代に入ってからのフランスの地方自治研究は、こうした知事と地方名望家の『共犯』ないし『共生』関係の発見によってはじまった」のである(9)。なお、ウォルムは、ミッテラン政権下で提出された地方分権改革法案が国民議会において審議された際、委員会報告者に任命されたが、このとき彼は、フランスの地域政治構造に対する自らの見識を生かし、地方自治体レベルにおける情報公開制度の導入を模索したのであった。
  さらに、一九七〇年代中盤になって、次々と重要な研究が発表されていく。すなわち、地域内行政システムの社会学的分析を専門とするJ・C・トエニは、クロジェとの共同論文「複雑に組織化されたシステムの調整フランスにおける地域政治ー行政決定システムの場合」を『フランス社会学雑誌』(一九七五年)に発表する(10)。そして、最後に、この分野で最も成果を上げたP・グレミオンは、一九七六年、『周辺権力フランス政治システムにおける官僚と名望家(11)』を著す(グレミオンの理論に関しては後述)。
  彼ら組織社会学派のフランス地方政治に関する研究活動やその成果が現実政治に対してどのようなイムパクトを与えたのかという問題は、極めて重要である。この点について、地方分権研究所の所長であるジャン・マルク・オネは、次のように評価している。すなわち、「『閉ざされた社会』に関するミシェル・クロジェの様々な分析、クラブ・ジャン・ムーランのなかや、あるいは幾つかの大学・研究機関−とりわけ、組織社会学センターのなかでの、ピエール・グレミオンの周辺−で行われた様々な考察は、一九世紀以来、県の行政機構と議員たちとの間に構築されてきた共犯関係の永続性(とりわけ、農村部)を照らし出したのであり、これらの分析や考察によって、地方分権化、地方公共団体におけるデモクラシーやその経済的役割といった、国家の近代化に関する議論の刷新が促進された」と(12)。彼らが一九七〇年代に切り開いたフランス地方政治研究の新しい理論的パラダイムの下で、地方分権化と市民参加を志向する様々な市民たちの理論的・実践的運動が台頭してくることになる(13)

(2)  P・グレミオンの「周辺権力」論