立命館法学  一九九八年六号(二六二号)




公害・環境私法史研究序説(二)
吉 村 良 一





は じ め に

第一章  わが国における公害・環境法の展開と特質
  一  時期区分
  二  前史(戦前−戦後復興期)
  三  公害法制の成立と発展
  四  環境問題の広がりと環境政策・法の停滞
  五  一九九〇年代における変化
  六  小括                                            (以上、二六一号)
第二章  公害・環境私法理論・前史(戦前−高度成長・前期)
  一  戦前期の環境問題
  二  民法典の形成期
  三  無過失責任立法と法理論                                   (以上、本号)
  四  公害をめぐる判例と学説
お わ り に



第二章  公害・環境私法理論・前史(戦前−高度成長・前期)


一  戦前期の公害問題
  前章における公害・環境法の展開の概観を通して、一九六〇年代後半以降の公害不法行為法理論がわが国の公害・環境問題において果たした重要な役割が明らかとなった。本章の課題は、前章の最後にも述べたように、この時期の理論の特質をより明確にしその今日的な意義と限界を明らかにする前提作業として、六〇年代後半以降において深刻な公害問題に直面することによって発展を遂げるわが国の公害・環境私法理論の前史ともいうべき時期、すなわち、明治期以降一九六〇年代半ば(高度成長・前期)にいたるまでの法理論(立法・判例・学説)の特質を明らかにすることにある。
  ところで、前章でも指摘したように、わが国における公害問題の発生は、明治初期の近代的鉱工業の勃興期にさかのぼる。そして、その規模と深刻さは明治から大正そして昭和期へと進展し、さらにそれが戦後の復興期を経て高度成長期における深刻な事態へとつながっていくのである。まず最初にここでは、これまでの公害史研究の成果に依拠しつつ、この時期までの公害問題がどのようなものであったかを、戦前期を中心に概観してみよう(1)
  なお、戦前期の公害問題と私法の発展を関係づけるために、年表を掲げておく。


  明治前期の段階から大きな被害を発生させたものとして、鉱山の操業によるいわゆる鉱害がある(2)。鉱山経営による被害は明治以前から存在するが、明治期に入って、銅山を始めとする金属鉱業が日本の近代産業の発展にとって重要な意義を有するようになり、各鉱山が近代的な工法を導入し操業規模を拡大するにつれて、かつてとは比較できないような深刻で大規模な環境汚染を発生させるようになる。明治二〇年代以降、足尾・別子・日立等で鉱害事件が発生している。さらに、明治末頃からは、これに石炭鉱業による被害が加わる。鉱害問題とそれに対する取り組みについては次節において鉱業法への「無過失賠償規定」導入の経過を検討する際に見ることとして、ここでは、民法典の制定作業が進められていた明治二〇年代にすでに鉱害被害が発生し、社会的な問題になっていたことだけを確認しておこう。例えば、足尾鉱山の場合、明治二〇年代には製錬にともなう排煙と排水による被害が深刻となり、特に、一八九〇年には、渡良瀬川の堤防が決壊する洪水によって沿岸の田畑に多くの被害を発生させている。これに対し、農民たちは鉱害対策や補償を求める運動を展開し、さらに一八九一年には田中正造代議士が足尾鉱毒事件についての最初の質問書を衆議院において提出している。
  他方、都市部における公害問題に目を向ければ、これも、その登場は明治の初期にさかのぼる。例えば、一八七七年の大阪府令「鋼折鍛冶湯屋三業者心得方」には、「諸職業中鋼折鍛冶湯屋等ハ合壁近隣ノ者其地響又ハ汚穢喧囂ナルヨリ健康上ノ妨害ヲナス段往々苦情相聞候処・・」というくだりがあるが、これは、すでにこの時期、騒音・振動等の被害が発生していたことをうかがわせるものである(3)。都市部における公害問題として、ここでは大阪の大気汚染問題(いわゆる煤煙問題)を、やや詳しく取り上げてみよう。大阪の煤煙問題は、明治一〇年代に紡績業を中心に多数の工場が建設・操業されることにより始まる。一八八四年には船場・島之内に鍛冶・銅吹工場の建設を禁止する、そして一八八八年には旧市内に煙突を立てる工場の建設を禁止するという、今日の立地規制にあたる内容の大阪府令が出されている。その後、日清戦争を契機にして大阪の工業はめざましく発展し、同時に、工場から排出される煤煙による汚染は拡大・進行する。その結果、一九〇二年になって、大阪府議会が、煤煙が様々の物的被害や健康被害(肺結核患者増の誘因になったり小児に被害を与えている等)を引き起こしていることを述べた上で、煤煙防止に関する規則の制定を求める「煤煙防止ニ関スル意見書」を知事に建議するにいたる。このような意見書を府議会が建議するということは、この問題が一部地域の一時的な問題ではなく一般的な社会問題になっていたことを示しているが、この段階で大阪府は具体的な規則の制定といった対応はとらず、その結果、被害は一層拡大した。
  このような状況の中で一九一一年には、専門家や有力者からなる「煤煙防止研究会」が作られ研究・啓蒙活動を開始し(4)、一九一三年には、大阪府警察部が、営業上有煙石炭を使用する場合には煤煙防止装置をつけるべきこと等を内容とする煤煙防止令草案を作成し、煤煙防止研究会と大阪商業会議所に諮問している。しかし、この府令は商業会議所の反対で実現せず、大阪の大気汚染は第一次大戦中に一層悪化する。化学工場による大気汚染公害である大阪アルカリ事件が社会的な問題となるのもほぼこの時期である。すなわち、同事件において深刻な農業被害が発生するのが一九〇六年、原告勝訴の判断を示した大阪控訴院判決は一九一五年、それを破棄差戻した大審院判決は一九一六年であり、さらに、この時期、新聞紙上では、「小学生の煙毒」「三十万市民連夜咽ぶ」といった見出しの下、同会社の排煙によって乳児や学童の健康被害、草木の被害や諸器具の汚損等が発生していることも報じられている(5)。結局、煤煙防止規則が制定されたのは一九三二年であり、すでに時代は満州事変から太平洋戦争へと向かう中で重化学工業を中心とする工業の軍事化が進展していく時期であり、この規則は、大阪の大気汚染を改善する有効なものとしては機能しえなかった(6)。以上は大阪における大気汚染問題の推移であるが、同様の問題は他の大都市地域にも存在し、例えば、東京の浅野セメント工場による降灰問題などが著名である。
  ところで、大正期から昭和初めにかけて、とりわけ第一次世界大戦を契機にしてわが国の産業の発展と公害問題は新たな段階に入る。工業生産額は大戦前の一九一四年から大戦後の一九一九年で約五倍となり、特に製造業の中でも化学・機械・金属関係の発展がめざましい。小田康徳教授は、この時期が日本の公害問題の歴史にとって、次の二つの意味において重要な位置を占めていると指摘している(7)。すなわち、まず第一は、公害の発生源が多様化し、全国化しはじめ、汚染そのものが複雑さを増したことである。そして第二に、「汚染が、一定の除害装置を励行したとしても、その本格的な防除は相当困難であり、したがって、除害そのものが一つの重要な技術上の課題となった段階に到達したことと、他方では、そうした除害技術の完成を後回しにして生産の継続・向上を実現するための行政的、思想的措置が全面的に追求されるようになった」ことである。この時期の特徴として小田教授が上げた後者の点、すなわち、この時期わが国の近代産業は、既存の設備・技術や一時的な対策では環境汚染を防止できず抜本的で新たな技術や設備を導入もしくは開発しなければならない段階に立ち至ったこと、しかしそれにもかかわらず、当時の企業や行政が生産の継続・拡大を重視し、公害防止技術の完成を後回しにしたという指摘は、まさにこの時期が、次節以下で検討するように、大阪アルカリ事件大審院判決やそれをめぐる議論の中で、戦前の公害法理論の基本的枠組みが形成されてくる時期である(年表参照)こととの関係で、重要である。
  そこで、この点をより明確にするために、水質汚染事例の分析によりこの特徴を明らかにした小田教授の研究を要約的に紹介しておこう(8)。小田教授によれば、一九三二年にまとめられた農林省水産局の『水質保護に関する調査』は、当時の水質汚染の状況を報告しているが、その特徴は、被害が全国にわたること、汚染源は鉱山を筆頭に、製紙・人絹・染色・でんぷん・食品・化学肥料等の諸工場、石油の採掘・精製、船舶からの重油流出、農薬の流出等、多岐にわたっていることである。被害の内容として小田教授は、報告書には種々の漁業被害の調査結果が記載されているが、水質汚染の被害が漁業にだけ影をとどめていたとは考えられないとして、農民にとっての農業用水・都市生活者にとっての飲料水も重大な影響を受けていたものと推測している。このような水質汚染に対し、大正末から農林省を中心にそれを防止するための特別立法制定の動きが起こる。すなわち一九二四年に水産事務協議会が「水質汚涜」を防止するための特別法制定を答申し、一九二五年の同協議会で「水質保護法案要綱」が採択、そしてそれらの動きを受けて、一九二八年に、わが国ではじめての水質汚涜防止協議会が、農林省を中心に、外務・内務・商工・逓信・大蔵・海軍の各省代表が参加して開かれ、有害物質の投流遺棄の取締や除害装置の設置を命ずる権限を主務大臣に付与するといった内容の、水質保護法の基本的な考え方が決議されている。この法案は結局議会に提出されることなく終わるが、法案作成の動きが存在したこと自体が、水質汚染が当時深刻な問題として意識されたことを示すものといえよう。しかし同時に、この法案をめぐる過程の中で、当時の(そしてそれは前章で指摘したように戦後の復興期から高度成長期にまで連綿と続くのだが)産業優位の思想が様々の形で顔をのぞかせる。例えば、前述の水質汚涜防止協議会決議の中に、「現代の科学技術に於て、除外の方法なき場合、不可抗力に依る場合は例外となすこと」といった条項が含まれていた。小田教授は、この例外規定は、防止対策上からもっとも重視されねばならない化学工業部門の汚染防止対策が技術的にも困難に陥っていた状況を考え合わせるならば、防止対策を無視する隠れ蓑に使われる可能性をもっていたとする(9)。このような規定を挿入しようとする議論は、一面では、当時の水質汚染(特に化学産業による汚染)が防止技術の上で、一定の困難を企業に強いる(すくなくとも行政にはそう見えた)ものであったことを示すものであるが、他面において、そこには、公害による被害防止よりも産業の発展を重視する思想が端的に表れているように思われる。なぜなら、公害問題の歴史は、防止に関する科学技術上の限界という議論はしばしば防止費用節約ないし防止技術開発怠慢の単なる言い訳にすぎないことを教えており、そこには、操業を縮小ないし一時停止してでも被害を防止しようという発想は全くといって良いほど存在しないからである。小田教授によって引用されている、衛生に絶対に影響をきたさないで工業を発達させることができれば結構だが「幾ラカノ犠牲ハ是ハ已ムヲ得ナイ」との、荒田川汚染問題に関する岐阜県当局の発言は、この点をより鮮明に示していると言えよう(10)。事案は異なるが、日立鉱山が、一九一四年に(宮本憲一教授の四日市公害訴訟での証言(11)によれば)当時世界第一の高煙突を社運をかけて完成させ煙害問題を解決した事例と比べてみるならば、結局、ここでいう技術上の困難ないし防止不可能との主張は、既存の施設・設備・技術を大きく超えることなく費用もそれほどかけないで防止することが困難な状況に当時の産業が立ち至ったことを示すにすぎないと言えるのではなかろうか。
  このような産業優位の政策と思想は、満州事変以降の戦時体制の中で一層強化されて行く。すなわち、満州事変を契機とする軍需の拡大は重化学工業を中心とした産業の発展をもたらすが、そのことは、公害問題の一層の拡大と複雑化・多様化につながるのである。神岡浪子教授によれば(12)、この時期、東京都において騒音・悪臭・有害ガス・振動・煤煙等の被害に対する多くの陳情が行われたことが、警視庁工場課の資料から明らかになっている。陳情された汚染発生企業の業態は、機械・化学工業が圧倒的である。
  以上の叙述は、戦前の公害問題に関する既存の研究を筆者なりに整理したものにすぎないが、そのような中からも、次節以下においてこの時期の法と法理論がこのような問題にどのように対応した(あるいはしなかった)のかを検討する前提として、いくつかの重要な点が浮かび上がってくる。まず何よりも、近代産業の発展にともなう環境汚染による様々の被害が、明治のかなり初期の段階(明治一〇年代)から発生し社会問題となっていたこと、そして第一次大戦を経て問題は量的、質的な広がりを見せるようになり、戦後の高度成長期と(規模や深刻さにおいて差はあるかもしれないが)ほぼ同様の問題が出そろっていたことが注目される。さらに、これらの問題に対し反対運動があり、また、行政の側での一定の取り組みがあったが、それらは残念ながら功を奏したとは言えないこと、そしてその背景に、明治期の殖産興業政策に始まり戦時体制にいたるまでの、鉱工業の発展にはある程度の公害被害もやむを得ないとする産業優位(反面としての住民の権利の軽視)思想が存在したことも確認できた。この思想は、化学工業による水質汚染のように、防止技術がそれほど容易ではなく、しかし、逆に言えばそれだけ危険性の大きい産業活動において一層強く前面に出るのである。問題は、このような思想が、戦後どのように克服され、住民の生活や健康に関する権利が重視されるようになったかであるが、残念ながらそのためには、高度成長期の深刻な公害問題の経験と住民運動の高揚を待たなければならなかったことは、前章において、「経済との調和条項」をめぐる議論の検討等を通して明らかにしたところである(13)
  ところで、戦前の公害問題においては、農業被害や漁業被害が問題となるケースが多い。しかしこのことは、当時において健康被害が発生していないことを意味するものではないと考えるべきであろう。前述の大阪アルカリ事件に関する新聞報道に見るように、健康影響への危惧はむしろ一般的であり、さらに、大阪市立衛生試験所の藤原九十郎所長は、大気汚染が住宅環境の悪さとあいまって貧困層の健康に悪影響を与えていることや、大阪の乳幼児死亡率の高さと煤煙の関係を指摘している(14)。しかし、このような研究や調査は戦前においてはなお稀であり、大気汚染とぜんそく等の呼吸器系疾患との関係や、まして、今日問題となっているような複合的な汚染がもたらす健康影響などは明らかにされていなかった。そしてこのことがおそらくは、対策を不十分なものにとどめる要因となっただけではなく、原因不明を理由に被害者の補償要求をしりぞけ、あるいは、わずかの見舞金で事を済まそうとする企業側の態度の背景となり、訴訟等による補償実現の壁として被害者らの前に立ちふさがったと思われるのである。この、被害実態と原因の未解明という状況とそのことによる不利益が、汚染企業にではなく被害者にかぶさってくるという事態の克服もまた、一九六〇年代後半の時期を待たなければならなかった。

(1)  戦前の公害史については優れた研究がいくつも存在するが、筆者が直接参照したものは以下のとおりである。神岡浪子「日本資本主義の発展と公害問題」ジュリスト臨時増刊一九七〇年八月一〇日号『特集公害』八頁、同編『資料近代日本の公害』(新人物往来社一九七一年)、同『日本の公害史』(世界書院一九八七年)、飯島伸子『環境問題と被害者運動』(学文社一九八四年)、宮本憲一『日本の環境問題』(有斐閣一九七五年)「第二部  日本公害史」、小山仁示編『戦前昭和期大阪の公害問題資料』(ミネルヴァ書房一九七三年)、小山仁示=田村浩一=水谷博著『公害と環境問題』(法律文化社一九七五年)「第一章」(小山仁示筆)、小田康徳「戦前大阪の公害問題」日本の科学者七巻四号(一九七二年)二頁、同『近代日本の公害問題』(世界思想社一九八三年)、同『都市公害の形成』(世界思想社一九八七年)、加藤9845興「戦前における公害問題」日本の科学者四巻六号三六頁(一九六九年)、同「戦前の公害問題」『公害と人間社会』(大月書店一九七五年)二一七頁、同『日本公害論』(青木書店一九七七年)、石村善助『鉱業権の研究』(勁草書房一九六〇年)、川井健『民法判例と時代思潮』(日本評論社一九八一年)「第五−六章」、富井利安『公害賠償責任の研究』(日本評論社一九八六年)「第二編」。
(2)  鉱業経営による被害の歴史については、石村前出注(1)、神岡前出注(1)『日本の公害史』「第一章」、同『資料近代日本の公害』「第二−四章」等参照。
(3)  この大阪府令については、沢井裕「公害対策に関する戦前の大阪府令」関大法学論集二〇巻三号(一九七〇年)一二一頁参照。
(4)  この会は第一次大戦中の一九一七年に活動を休止したが、それまで、調査・研究・啓蒙活動や後述の煤煙防止府令草案に対する答申など、様々の活動を行ったとされている(詳細は、小田前出注(1)『都市公害の形成』六八頁以下、一九二頁以下参照)。
(5)  藤原九十郎「大阪を苦しめた煤煙問題」大大阪四巻一〇号(一九二八年)参照(引用は川井前出注(1)二二八頁以下による)。小田教授は、このような世論が控訴審における原告勝訴の背景となったことを指摘している(前出注(1)『都市公害の形成』七二頁以下)。あわせてここでは、農業被害に加えて健康被害が問題となっていることに注意したい。
(6)  この規則の内容とその後の大阪の戦前の大気汚染問題については、小田前出注(1)『近代日本の公害問題』一八九頁以下参照。
(7)  小田前出注(1)『近代日本の公害問題』一〇三頁。
(8)  小田前出注(1)『近代日本の公害問題』六九頁以下。なお、当時の水質汚染とそれに対する立法の動きについては、神岡前出注(1)『日本の公害史』六〇頁以下、富井前出注(1)二二一頁以下も参照。
(9)  小田前出注(1)『近代日本の公害問題』一〇〇頁以下。
(10)  小田前出注(1)『近代日本の公害問題』一〇一頁。
(11)  ジュリスト臨時増刊一九七二年九月一〇日号『特集四日市公害訴訟』三二六頁。
(12)  神岡前出注(1)『日本の公害史』七五頁以下。
(13)  このような戦前と戦後(とりわけ高度成長・前期まで)の連続性は水俣病の歴史を見れば明らかであろう。水俣におけるチッソ(その前身の日本窒素肥料)の操業による被害発生は大正年間にさかのぼり、すでに戦前期に漁業被害の補償が問題となっている(年表参照)が、同工場は戦後になっても廃水を未処理のまま放出し続け、甚大な被害を発生させていくのである。
(14)  藤原九十郎「都市の空中浄化問題」『都市問題』一五巻一号(一九三二年)七〇頁以下。

二  民法典の形成期
  (1)  明治一〇年代の議論
  以上のような公害問題の実態とそれに対する政策の状況を念頭に置きつつ、以下では、明治期以降のわが国の私法の形成・発展過程の中で、このような問題がどう扱われたか(扱われなかったか)を検討していこう。まず最初に民法典の形成期が検討対象となる。
  現行民法典が制定されるまでの時期における不法行為・損害賠償の実務や理論の全貌は明らかでないが、明治一〇年代というかなり早い時期に、「法学協会」において様々な設例に基づく討論会が行われており、その中に、「鉄道馬車が夜中に市街を通行する際に軌道にある障害物によって転覆し通行人を負傷させた(馭者は充分な注意を払っていたものとする)」という設例について鉄道会社の責任の有無を論じたものがある(15)。討論の中では、山田喜之助氏が、「私犯」(不法行為)においては不注意を必要とするものもあるが、「危険ナル物件ヲ貯蔵スル者」や「危険ノ傾向アル者」については不注意かどうかを問題にせず「固有義務(アブソリュート・ジューテー)」を負うべきであり、鉄道馬車は「危険ノ傾向アルモノ」というべきであるから、不注意がなくとも責任を負うべしとの主張をする(16)。これに対し青木八重八氏は、鉄道馬車にはそのような危険はないとし、不注意がない以上は鉄道会社に責任なしとする(17)。さらに興味深いのは穂積陳重博士(当時「英国状師」)の主張である。博士は、馭者には不注意はないとされているが、線路の監視を怠り障害物を除かなかったのは鉄道会社の不注意であるとした上で、「他人ノ権利ヲ害セザル様ニ自己ノ権利ヲ用ヰヨ」との原則を確認し、法律上の注意の程度は危険の程度によって高低があり危険な物件を有する者には高度の注意が要求されるという指摘を行っているのである(18)。これらの主張には、その後、危険な物の管理や危険な活動に関して展開される考え方のパターンが全て表れている点で非常に興味深いが、特に、穂積博士の、「他人の権利を侵害しないように自己の権利を行使せよ」という原則の指摘、さらには、馭者個人の不注意ではなく会社の不注意を問題にする考え方には注目しておく必要がある。
  (2)  旧民法の考え方
  一八九〇年にボアソナードの起草になる民法典(以下、旧民法)が公布される。その不法行為規定では過失責任主義が採用され、しかも、単に不法行為の一般原則である財産編三七〇条の規定だけではなく、建物や工作物の崩壊による責任(同三七五条)等についてもボアソナードは、その性質を過失責任として説明している(19)
  なお、ボアソナードは旧民法の起草過程で、「私犯」による責任は、損害が「不正則チ『過失若クハ懈怠ニ因リ』」惹起されることが必要であり、例えば、「権利ノ適法ナル執行ニ因リ・・損害ニ至リテハ之カ賠償ヲ為スニ及ハス」として、不動産所有者が「其ノ権利ノ区域内ニ在テ為シ遂ケタル所有」によって隣人に損害を発生させても責任を負わないとの説明を行っている(20)。権利行使が不法行為にならないのは「不正」でないためか「過失若クハ懈怠」がないためかは明確でないが、これを見るかぎりでは、ボアソナードは権利行使の自由を最大限に(しいて言えば過度に)尊重する立場であったように思われるが、ただ、注意すべきは、「権利ノ適法ナル執行」をその立論の前提としていることである。それでは「適法ナル執行」とは何か。この点につき、旧民法の解説書である『日本民法義解』には以下のような説明がある(21)。すなわち、たとえ土地所有者が隣人を害そうとして自己の所有権を行使した場合であっても、隣人の権利を侵害しない場合には責任は発生しない。例えば、隣地の温泉を引くことを拒絶された者が自己の土地に大きな池を掘って隣地の温泉脈を害した場合であっても、隣地の所有者の温泉に関する利益は「自然ノ性質ヲ有シ・・天然ノ状勢ノ致ス所ニ過キサレハ」賠償義務は生じない。しかし、隣地に近接して池を掘ったため隣地の建物が崩壊したような場合には、隣地の所有者の所有物の損傷となるので賠償責任が発生する。ここでは、問題は「過失若クハ懈怠」ではなくむしろ「不正ノ損害」要件に関わって論じられているが、他人の権利を侵害した場合には権利行使の範囲を逸脱しており責任を免れないとの立場が鮮明である。さらに、旧民法制定前に行われたと思われる富井政章博士の「講述」にも次のような指摘がある(22)。すなわち、例えば自分の庭の土地を掘って隣地の樹木の根を切断してその木を枯らせてもそれは隣地の所有者の権利を侵害したものではないので責任を負わないが、自己の権利を実行するに当って隣家の権利を侵害して損害を発生させたときは責任を負う。なぜなら、「各人ノ権利ハ他人ノ権利ニ依テ制限セラレ其制限ヲ超ユルニ於テハ権利ヲ実行スルニ非スシテ之ヲ濫用スル者ナレハナリ」。したがって、例えば自己の所有地内に工場等を建築して新鮮な大気の流通を妨げたり健康を害する等のことがあれば責任を免れない。これらの叙述とあわせて考えれば、やはりこの段階では、他人の権利を侵害する権利行使は原則として「不正な過失もしくは懈怠」であり賠償責任を発生させると考えられていたと見ることができるのではなかろうか(23)
  (3)  現行民法典の起草
  現行民法典は、言うまでもなく、過失責任主義を採用している。穂積陳重起草委員は法典調査会において、過失責任主義を採用したのは、「原因主義」をとって「若シ人ガ充分ニ注意ヲシ又正当ノ方法ヲ用ヰテ行為ヲ為シマシテモ・・賠償ノ義務ガ生スル・・コトニナリマシテハ各人ノ働キ、自由ノ範囲ト云フモノガ甚タ不確カナモノニナリ」「取引ノ発達モ害シマセウシ」「人々ガ安心シテ・・生活ヲ営ムト云ウコトガ出来ヌ位ノコトニナル」であろうからだとして、活動の自由とりわけ経済活動の自由(「取引ノ発達」)を保障するためであると説明している(24)。なお、起草者は、七〇九条だけではなく、七一五条や七一七条をも過失責任によるものとの説明を行っており(25)、民法典内部に前述の明治一〇年代に議論されたような無過失責任を取り込むという判断はとらなかったのである。ところで、良く知られているように、ここでいう過失の内容については、起草段階でニュアンスの異なる二通りの説明がなされている。すなわち、「為スベキコトヲ為サヌトカ或ハ為シ得ベカラザル事ヲ為ストカ又ハ為スベキ事ヲ為スニ当ッテ其方法ガ当ヲ得ナイ」といった場合が過失だとして、過失を行為義務違反の問題と考えているように読める説明と、「心ノ有様」として行為者の心理状態を過失と見る考え方の二つである(26)。この点の理解をめぐっては、後の学説における不法行為の基本要件の理解とも関わって様々の対立があるところだが(27)、ここでは、過失に関するどちらの理解に立つにせよ、後の一部の過失論に見られるような、行為の社会的価値や防止費用の問題を過失の有無の判断において重視する考え方は見られない(少なくとも前面には出ていない)ことを確認しておきたい。
  民法典の起草者は故意・過失とならんで権利侵害を要件とした。穂積起草委員は、旧民法の文言ではこの要件が明示されていないのでこれを明記したこと、その狙いは、権利侵害が要件にならないと何が不法行為になるかの「境ヒ」がなくなって損害賠償義務の発生する場合が広くなり過ぎることにあるとして、その理由がやはり、人の活動の自由を配慮したところにあると述べている(28)
  以上のように、民法典の起草者は両要件を通じて活動の自由保障に配慮するという立場を採用したわけだが(29)、しかし同時に、危険な事業や行為に対する被害者保護を無視したわけではない。すなわち、法典調査会において穂積八束委員が、鉄道のような危険な事業については故意・過失を問わずに責任を認めるという考え方がヨーロッパにはあるが、そのような場合でもなお過失責任主義をとらなければならないのかとの趣旨の質問を行ったが(30)、それに対し、穂積起草委員は、鉄道・運送業、製造業等については特別法により原因主義に基づく賠償責任を課すことには反対ではない、場合によれば必要だと述べているのである(31)。起草者がどこまで積極的に特別法による無過失責任の整備を考えていたかは不明だが、無過失責任立法を否定しないばかりか、場合によればそれが必要だと述べている点は重要である。
  それでは、民法典の起草者は当時現実に発生していた近代産業にともなう事故、例えば鉱害についてどのように考えていたのであろうか。法典調査会の七〇九条に関する議論において、土方寧委員が賠償範囲を限定する規定を設けないと賠償義務者の負担が過大になることがあるとして、火災の場合や列車事故・汽船の事故等を例にあげて起草委員に迫った(32)のに対し、穂積起草委員は、損害が莫大になるものとして「鉱山トカ何トカ云フモノガアルカモ知レヌ」と述べている(33)。また、後に帝国議会における失火責任法の審議で、失火の場合には損害が莫大に拡大するという失火責任限定論に対し、梅謙次郎政府委員が、やはり鉱毒事件を例にあげて、いかに莫大な損害額であろうと不法行為の要件を満たす以上は賠償しなければならないという趣旨の発言を行ったことが指摘されている(34)。これらの発言は、起草者は鉱害の事実、しかもそれが大きな損害を発生させている(あるいは発生させうる)ことを認識していたことを示している。さらに、これらの議論における鉱害への言及は、たとえ損害が莫大となっても不法行為が成立する以上は賠償しなければならないという際の例示としてのものであるから、論理的には鉱毒事件でも民法上の不法行為規定による賠償責任が発生しうることが前提となっているように解されないわけでもない。しかし、現実の鉱害事件について、果たして起草委員が不法行為の成立を肯定していたのかどうかについては即断できない。この点に関連して、足尾鉱毒問題につき、鉱業人に損害賠償責任があるかどうかといったいくつかの質問に対し、梅謙次郎博士が、「普通ノ鉱業人カ為スヘキ注意」はたとえ法令等の命令がなくともつくすべきであり、これをつくさない場合は過失あるものとして民法七〇九条の責任を免れないと答えた文書が存在する(35)。もちろんこれはあくまで一般論としての回答であり、実際の紛争においては、「普通ノ鉱業人カ為スヘキ注意」とはどの程度かが重要な問題となるのだが(36)、たとえ一般論にせよ、鉱毒事件について民法七〇九条による賠償責任が成立することがありうるという答えは、後述するように、一九三九年まで鉱害賠償規定を持たなかったわが国の鉱業法制下にあっては、興味深い内容である(37)。ただし、この文書は、質問に答えるという形式のものであるため、右のことから、梅博士が鉱害については特別法(無過失責任法)ではなく民法の不法行為規定での対処を考えていたとまで推論することには、なお慎重でありたい。


(15)  「討論筆記」法学協会雑誌二三、二四号(一八八六年)。この討論の内容についてはすでに浦川道太郎「無過失損害賠償責任」星野英一他編『民法講座6』(有斐閣一九八五年)一九三頁以下が分析を加えており、法学協会討論会の全体像については、小9953「4.57フ6」夘「フ127」春一郎「明治前期の民法学」水本浩=平井一雄編『日本民法学・通史』(信山社一九九七年)一一頁が詳しい。なお、瀬川信久「危険便益比較による過失判断」星野古希『日本民法学の形成と課題(下)』(有斐閣一九九六年)八三七頁も、この討論会について触れている。
(16)  前出注(15)法学協会雑誌二三号一頁以下。土方寧氏も同様の見解をとる(同二四号四頁以下)。
(17)  前出注(15)法学協会雑誌二三号九頁以下。
(18)  前出注(15)法学協会雑誌二四号八頁以下。
(19)  浦川前出注(15)一九四頁。なお浦川教授は、ボアソナードが過失責任主義を徹底する立場をとった原因として、当時の日本社会がまだ軽工業中心で事故被害がそれほど深刻ではなかったこと、当時のフランス民法学でも無過失責任についての理論的研究がまだその緒についていなかったことをあげている(同一九五頁)。
(20)  ボアソナード氏起稿『再閲日本民法草案財産編人権之部』(同盟刊行、刊行年不詳)五八八頁以下。
(21)  ボアソナード訓定・富井政章校閲・本野一郎=城数馬=森順正=寺尾亨著『日本民法義解財産編』(『日本立法資料全集』別巻一一四(信山社一九九八年)六五六頁以下(なお、本復刻版の底本の刊行年は不詳だが、一八九〇−九二年の間とされている)。
(22)  富井政章講述『損害賠償法原理完』(信山社一九九一年)九七頁以下(なお、本復刻版の底本は皇紀二五五五(一八九五)年刊だが、その初版は一八九一年刊であり、内容から見て旧民法制定前の「講述」だと思われる)。
(23)  なお、あわせて興味深いのは、『日本民法義解』も富井博士も、権利侵害が不法行為の要件として重要だとの認識を有していたことである。特に、富井博士は、「私犯ヲ組成スルニハ所有権其他対世権ヲ侵犯シタルコトヲ必要トス」とまで述べ(前出注(22)八四頁以下)、その根拠として(ドイツではなく)イギリスやフランスの例をあげている(ただし、富井博士は、対人権も社会一般の者に対しては対世権であるとしており(同書八四頁)、ここでいう権利を絶対権に限っているわけではない)。瀬川信久「七〇九条」広中俊雄=星野英一編『民法典の百年V』(有斐閣一九九八年)五六五頁は、このような点から、現行民法典七〇九条の権利侵害要件は必ずしもドイツ法にのみ由来するものではなく、権利侵害を要件とすることは当時のヨーロッパ諸国に共通していたとする。
(24)  『法典調査会議事速記録』(学術振興会版)四〇巻一四四丁以下。
(25)  この点については、浦川前出注(15)一九七頁以下、田上富信「使用者責任」星野他編『民法講座6』(有斐閣一九八五年)四六〇頁以下、植木哲「工作物責任・営造物責任」星野他編前掲書五三〇頁以下、大塚直「七一五・七一七条」広中他編前出注(23)六九六頁以下等参照。
(26)  いずれも穂積起草委員の説明である(前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一四五、一四七丁)。
(27)  この点については、錦織成史「違法性と過失」星野他編『民法講座6』(有斐閣一九八五年)一三四頁以下、瀬川前出注(23)五六一頁以下等参照。なお、錦織教授は、民法七二〇条をめぐる法典調査会での議論をあわせて検討することによって、起草委員の説明におけるこのようなブレにもかかわらず、権利侵害要件を採用したことにより権利侵害と故意・過失が区別され、前者に行為の客観的な評価、後者に行為の基礎にある行為者の意思ないし心の有様の評価という役割を担わせるというのが起草者の見解と見るべきだとする(前掲一五五頁)。
(28)  前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一四七丁以下、一七四丁。興味深いのは、起草者は、不法行為の要件として、以上の故意・過失と権利侵害に加えて損害の三つをあげているだけであり(前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一四四丁)、因果関係については不法行為の成立要件としては言及していないことである。穂積起草委員は「之ニ因リテ生ジタル損害」という文言をめぐってはもっぱら損害の種類についてのみ説明しており(同一四八丁以下)、また、土方委員との賠償範囲をめぐる議論でも、「原因結果ノ関係ガアリマス以上ハ・・」(同一五九丁)というように、今日言うところの「事実的因果関係」の存否を前提にした議論を展開している。起草者にとっては、誰の行為(あるいは物)が原因となっているかが明らかとなっていることが不法行為の前提と考えられていたためであろうか。
(29)  そのような立法政策の背景として、富井前出注(1)八頁以下は、殖産興業・富国強兵政策を強力に推進するために個人ないし企業の自由な生産・取引活動を保護する必要があったとしている。
(30)  前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一五〇丁以下。
(31)  前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一五一丁以下。浦川道太郎教授は、このやりとりと、「穂積文書」の調査によってドイツ民法典起草第二委員会の「議事録」がその下敷きになっていることが推測しうることから、民法典の起草者は「民法典上の過失責任主義の採用と特別法上の無過失責任の整備」という構想を持っていたとする(浦川前出注(15)二〇一頁以下)。
(32)  前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一五五丁以下、一六七丁以下等。
(33)  前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一八一丁。なお、この土方意見は、梅起草委員の、自己の過失で他人の権利を侵害した以上は「身代ノアラン限リハ出シテ償ハナケレバナラヌ」という意見(前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一七一丁)や、穂積起草委員の、損害の制限を規定するのは技術的に困難であるという意見(前出注(24)『法典調査会議事速記録』四〇巻一八一丁)に押し切られている。
(34)  澤井裕『失火責任の法理と判例』(有斐閣一九八九年)一一頁以下、中村哲也「日本民法の展開(2)特別法の形成−不法行為法」広中俊雄=星野英一編『民法典の百年T』(有斐閣一九九八年)二八四頁。
(35)  法政大学図書館所蔵・梅謙次郎文書「意見書類(A5aー29)」綴りの中の「足尾銅山鉱毒問題」名の文書。この文書は、その内容から見て、足尾銅山鉱毒問題に関する私法上、公法上の問題についての質問書(同「法律雑(A5aー32)」綴りの中の「足尾銅山鉱毒問題」名の文書(作成者不詳)。質問事項の上部に、梅博士のものと思われるメモ書きがある)に対する回答(おそらくはその下書き)と思われる。ただし、質問の方は事実関係を要約の上、洪水被害と鉱毒被害の関係等、事件に即して具体的であるのに対し、梅博士の回答は、本文でも述べたように概ね一般的である。両文書の作成時期は不詳だが、鉱業条例五九条およびそれに基づいて一八九七年に発せられた鉱害予防命令に言及していることから、一八九七年以降、鉱業法の成立により鉱業条例が廃止された一九〇五年までの間であることは間違いない。両文書については、法政大学図書館および同大学現代法研究所のご厚誼により閲覧・引用を行うことができた。あらためて感謝したい。なお、本文書については、すでに、中村前出注(34)二八一頁が言及している。
(36)  注意の程度に関して、同文書において梅博士は、鉱業条例による鉱山監督署長の命令を厳守していた場合には過失がないと見るべきことが多いであろうと述べている。
(37)  さらに言えば、梅博士が問題を過失の有無に絞って回答しており、後の判例や学説で問題となる、許可を受けた(その意味では適法な)営業が他人に損害を与えた場合になお不法行為が成立しうるかという形では問題を論じていないことも興味深い(ただし、これは、質問がこのような論点に触れていないからとも考えられる)。

三  無過失責任立法と法理論
  (1)  はじめに
  本節と次節では、民法典制定以降昭和三〇年代頃までの、公害・環境問題に対する私法的対応の特徴を検討してみたい。前節で述べたように、民法典の起草者は、民法典では活動の自由を保障する立場から過失責任主義を採用するが、しかしそのことは、危険な物や活動にともなう被害について無過失責任を定める特別法による対応を行うことを妨げるものではない(場合によれば必要なもの)と考えていた。そこでまず本節では、わが国で民法典施行以降、「無過失責任」をめぐってどのような議論がありどのような立法がなされていったのか(あるいはいかなかったのか)を検討してみることにしたい。
  民法典起草過程での議論にもかかわらず、戦前期における無過失賠償責任法の制定は極めて不十分なものであった。わが国の無過失責任規定の嚆矢とされるのは工場法の規定である。すなわち、わが国の近代産業はその勃興期から前節で述べた環境汚染を鉱山や工場の外部に引き起こしただけではなく、その内部に労働災害を発生せしめたが、これに対して、一九一一年に制定された工場法はその一五条に、「職工自己ノ重大ナル過失ニ依ラスシテ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタルトキハ工業主ハ・・本人又ハ其ノ遺族ヲ扶助スヘシ」という規定を置いたのである。ここでいう「扶助」が損害賠償と同じものかどうかについては争いもあったが、後の学説はこれを無過失責任の一種と理解するようになる(38)。また、後述する鉱業条例(一八九〇年)や鉱業法(一九〇五年)にも、「鉱夫」を保護する類似の規定がある。しかし、これらの規定はあくまで労働者保護規定であり、同じ近代産業が外部に引き起こした環境汚染による被害に関する無過失賠償法の制定は、一九三九年の鉱業法改正による鉱害賠償規定の導入を待たなくてはならなかった。

  (2)  鉱害と鉱業法における無過失賠償規定
    イ.鉱業法制の成立と賠償規定
  次に、わが国の最初の(そして戦前では唯一の)公害無過失賠償規定である一九三九年の改正鉱業法七四条ノ二について検討してみよう。明治期の最初の体系的な鉱業法制は一八七三に公布された日本坑法であるとされる(39)。この法律は、鉱物はすべて国に帰属するという「鉱山専有主義」に基づく、その意味で前近代的な性格を有するものであったが、その中に、「総テ坑区ヨリ隣区ニ患害損傷ヲ被ラシムルトキハ之ヲ償フベシ」という規定があった(二三款)。日本坑法に次ぐ鉱業法制は一八九〇年の鉱業条例であり、ここでは「鉱山専有主義」が「鉱業自由主義」にあらためられた。そして、本稿の視点から何よりも興味深いのは、本条例の農商務省案の中に、「試掘人及鉱業人其試掘又ハ鉱業ヲ為スニ当リ他人ニ損害ヲ蒙ラシメタルトキハ賠償ノ責ニ任スヘキ」との規定が存在したことである(三五条)。本条例案の理由書は、この条文につき、「凡何人ニ限ラス他人ニ損害ヲ蒙ラシメタルトキハ賠償ノ責ニ任スヘキハ勿論ナリト雖モ本条ハ鉱業人ニモ亦其ノ賠償ノ義務アルコトヲ特ニ明示シタリナリ」と述べており(40)、これを見る限りでは、損害賠償についての一般的な考え方が鉱害の場合にも適用されることを確認するという趣旨のように思われるが、ここでは鉱業人の過失は賠償の要件とはなっていない。徳本鎮教授は、その由来につき、鉱業条例がプロイセン鉱業法を母法としたためそこでの賠償規定(一四八条)に対応して設けられたのではないかとの推測を行っている(41)が、この規定は結局実現しないで終わる。その原因については、本条例案の元老院提出直後に起こった渡良瀬川の大洪水による足尾鉱毒被害の社会問題化にあるのではないかとの指摘がある(42)。次いで一九〇五年には新たに鉱業法が制定される。この段階ではすでに多くの鉱害が発生しており、したがって、この法律の審議にあたっても、鉱害賠償規定を設けていない点に関する疑問が出されたが、結局、鉱害賠償に関する規定は設けられることはなく、同種の規定の導入がなされるのは、前述したように、一九三九年になってからである。

    ロ.一九三九年改正までの状況
  それでは、鉱業法制に特別の賠償規定が整備されていなかったこの時期において、鉱害被害はどう扱われたのであろうか。この点で興味深いのは、被害住民らの運動の中から一種の賠償慣行が形成されていったことである。石村善助教授の研究によれば(43)、この種の慣行の第一は、鉱業権者が坑口開設に際して地元住民の承認と以後の協力をうるためにあらかじめ将来の被害についての賠償を約する(「開坑契約」)というかたちで成立したものであり、第二には、具体的に発生した被害に対し事後的に賠償が行われ、それが慣行化したものがある。石村教授は、第一の形態は明治二〇年代頃より次第に減少するが、そこでの、被害があれば鉱業権者に賠償を請求できるという法意識が次の時代の鉱害問題の解決にも潜在的に働き続けたこと、第二の形態は「複雑かつ困難な」過程を経てはじめて成立したこと、さらに、どちらの場合も、鉱業権者に故意過失が存在するかどうかは、ほとんど(あるいは全く)問題にされなかったことを指摘している。
  問題は、このような慣行の評価である。石村教授は、当時の実定法がいまだ容認していなかった無過失賠償責任の原則が生ける法の平面で実現したものであるとする(44)。しかし、果たして、近代法的な意味での賠償をめぐる権利義務関係がこれらの慣行において成立していたかどうかは疑問である。なぜなら、石村教授の研究自体が明らかにしているように(45)、この慣行が、被害住民の子弟の優先的雇い入れや地域社会への寄付といった、賠償とは直接関係のない面で被害住民に「恩恵」を付与する形をとったり、金銭による場合でも、「賠償」という言葉をできるだけ避け、「迷惑料」「補償」あるいは「農業奨励金」等の名目で給付を行ったりすることがあったからである。富井利安教授は、このような点や、給付にあたって「以後一切の苦情をいわぬこと」といった権利放棄条項を盛り込む補償契約が少なくなかったことから、このような慣行を近代法的な意味での賠償請求権と賠償義務の確立と見ることに疑問を呈している(46)。また、そこで鉱業権者の過失が問題にならなかったことが直ちに(過失責任と区別された意味での)無過失責任と理解しうるかどうかも問題である。しかし、このような慣行は被害住民の運動の中から生まれてきたこと、そしてそれが一九三九年改正の背景となったことを見落としてはならない。
  この時期において第二に興味深いのは、鉱業法制が鉱害賠償規定を持たない中で、民法の規定、とりわけ七〇九条による賠償の可否を検討し、それを肯定的に解する学説が有力に存在したことである。その中でも注目すべきは、一九二一年に、鉱業法の中に賠償法に関する特別規定を有さないことは「立法上ノ一大欠陥」だとして立法論として無過失責任規定の導入を主張しつつ、他方で、そのような規定がない中で、以下のように民法七〇九条による賠償の可能性を肯定した塩田環弁護士の主張である(47)。塩田氏によれば、鉱業権は鉱業法により認められた私権であるが、これは未掘採の鉱物を掘採取得する行為を許与する行為であって、他人の権利の侵害を許与したものではない。なぜなら、他人の権利の侵害を内容とする行為の許与には特別の規定が必要だが、鉱業法にもその他の法令にも何ら明文がないからであり、「鉱業権ノ行使ニ付キ当然他人ノ権利ヲ侵害スルコトヲ得サルコトハ一般権利ト同様」である。このように、「鉱業権ト雖モ特ニ優越シタル私権ニ非サル」以上、その行使にあたっては、「企業者トシテ相当ノ注意ヲ加ヘ土地所有者其他利害関係人ノ権利ヲ侵害セサルコトヲ要ス(48)」。ここで注目すべきは、鉱業法によって許与された鉱業権といえども他の権利に優越するものではなく、したがって、それが他人の権利を侵害すれば不法行為の問題になると明言していることである。これを、鉄道操業による沿線住民への侵害行為も一定範囲を超えて初めて不法行為になるという考え方を前提にした、前章で触れた信玄公旗掛松事件等における判例と対比した場合、その特徴は明らかであろう。それでは次に、右の「相当ノ注意」とは何か。この問題に関しても塩田氏は次のような注目すべき指摘を行っている。すなわち、「鉱業権者ノ注意義務ハ単ニ法令ノ規定ヲ遵守シ其範囲ニ於テ適法ナル施業ヲナシタリト云フノミヲ以テ足レリト為スヘカラス」。法令は公法上の取締保護を目的としているものであり私権の保護を目的とするものは少ないので、法令が許容あるいは禁止しない場合であっても、ある作業が他人の権利を侵害することが明らかな場合には、「他人ノ権利ヲ害セサル範囲ニ於テ自己ノ権利ヲ行使スヘキ」である。そして、「特殊ノ企業ニ付テハ特殊ノ注意ヲ加フル必要」があり、「鉱業権者ノ注意義務ハ単ニ普通生活上ニ於ケル注意義務ニ止マラスシテ斯ル特殊ノ企業ニ特有ナル注意ヲナスコトカ所謂善良ナル管理者トシテノ義務」と解すべきである(49)。ここでの、鉱山経営を許与された企業であっても他人の権利を侵害しないように注意して操業すべきとする考え方は、後の公害法理論において有力に主張される、大企業といえども、他者を侵害しないように行動すべきという一般市民同士の関係で要求されるものと同じ注意義務を負い、それに違反すれば責任を負うという、いわゆる「市民法的不法行為論(50)」と共通する側面を有するものであり、また、特殊な企業はその性質(危険の程度)のゆえに特殊な(加重された)注意義務を負うという考え方も、例えば、新潟水俣病訴訟判決(新潟地判昭和四六・九・二九判時六四二・九六)で展開された、化学工場はその危険性のゆえに「高度の注意義務」を負うという考え方や、それを発展させた、加害行為の危険性が高く重大な被害発生の危惧がある場合、過失は認められやすいとする澤井裕教授の「段階的過失論(51)」にも通ずる考え方である(52)。ただし、この過失論が現実に果たしうる機能は、「特殊ノ企業」にどの程度高度な「特殊ノ注意」を課すかによって異なってくるのは当然のことである(53)

  さらに、一九三九年改正の際に鉱業法改正調査委員会の特別委員会委員として活躍する平田慶吉博士も、この問題を以下のように論じている。鉱害またはこれに類似の企業被害を発生せしめる行為を適法行為であるとする説があるが、これは「権利侵害の違法性を阻却し得る権利行為と、然らざる普通一般の権利行為とを混同したもの」であり、他人の権利を侵害しても適法行為であるためには「他人の権利を侵害し得ること自身が権利の内容をなす場合でなければならぬ」。鉱害またはこれに類似の企業被害は「普通一般の権利行使によって発生するものに過ぎないから、この説は不当である」。また、適当の範囲を逸脱しない限り適法との説もあるが、「既に鉱害を発生せしめたる以上、その行為は即ち適当の範囲を逸脱するものといふべき」である(54)。ここには塩田説以上に明確に、他人の権利を侵害すれば違法であるとの立場が述べられている。さらに、故意過失については、鉱害とは鉱業上の作業から「必然に発生する副結果」であるから、鉱業を行う者は「かかる結果の発生すべきことに付て当然に認識、即ち故意を有するものといはねばならぬ。・・万一結果の発生に付て認識を有しないとすれば、かかる結果を必然に伴ふ作業を行ひながら、その結果の発生を認識しないのであるから、その不認識は不注意に基くものといはねばならぬ」とする(55)。この故意過失論は、一面では、次節で検討する、明治期の学説の大勢を鉱害にそのままあてはめたものではあるが、他面では、一九六〇年代後半に、たとえ有効な防止設備が技術的に困難であったり経済的な負担をともなうような場合であっても、「損害の結果を知りながらあえて加害行為を続けていることには変わりはない。そこには、当然故意、少なくとも過失が存在する」として、「古典的過失理論」の再評価を主張した西原道雄教授の考え方(56)とも類似している。なお、あわせて、平田博士が、鉱害が多数の鉱業権者の「共同加害作業(その意思の共同の有無、作業の同時、異時を問はない)」によって発生した場合には民法七一九条により連帯責任を負うとして、同一河川の沿岸の多数の鉱山が廃水を河川に放流して被害を発生させたような場合を上げていることも注目に値する(57)
  このように、今日の目から見れば極めて興味深い学説ではあったが、問題は、これらの、鉱業法の研究者による主張が、当時の法理論状況においてどのような位置を占めていたのかである。この点については、これらの諸説がはたして当時の法学界において一般的承認をえた理論であったか否かの点についてはかなり疑問があるとの見方も有力である(58)。この点は次節の重要な検討課題となるが、結論を先取りして言えば、少なくとも無過失責任一般に関する議論やさらには不法行為理論全体においては、これらの議論は、大正末から昭和初めのこの時期には主流的地位を占めることはなかったのである。しかし、もしそうだとすれば、前節で検討した富井博士らの、自己の権利の行使であっても他人の権利を侵害すれば損害賠償は当然との考え方からすれば、土地の陥没や鉱毒による隣地住民への様々な被害を引き起こしている鉱害においてこのような考え方をとることは別段不思議ではないとも言えるにもかかわらず、なぜ判例や学説全体の中でこれらの考え方が、この時期においてはもはや異説にとどまらざるをえなかったのかが同時に解明されなければならない。
  最後に、この時期の鉱害関係の判例について一言しておこう。まず、鉱業権者でない者が鉱業権者から許されて行ういわゆる斤先掘契約を鉱業法違反を理由に無効とした上で、その斤先掘人の採掘により発生した土地の陥没等の被害につき、斤先掘を許容した鉱業権者に賠償を(過失を問題とすることなく)認めた大審院判決(大判大正二・四・二民録一九・一九三)がある。しかし、このケースは鉱業法違反が認められたケースであり、そうでない「適法」操業のケースについては、小野謙次郎判事が紹介している福岡地裁大正三年(ワ)九六号事件(原告一部勝訴)と同大正一〇年(ナ)四五六号事件(原告敗訴)が知られている程度である(59)。このような状況について石村教授は、鉱害賠償義務を法定した規定を欠く当時においては原告の勝訴判決を得る見通しが困難であったこと、訴訟が時間的にも経済的にも多大の負担を被害者にかけること等が原因であったとし、いったん提訴した原告が経費困難等から訴訟を取り下げた事例を紹介しているが(60)、そこでは、過失ではなくむしろ因果関係の証明が被害者側の大きな負担になっていることが注目される。
    ハ.一九三九年改正
  一九三九年に鉱業法の改正が行われて、鉱業権者の無過失責任を定めた規定(七四条ノ二)を始めとする一連の鉱害賠償関連規定が導入された。これはわが国で最初の本格的な無過失賠償規定であり、同時に、初めての公害賠償規定であった。この改正についてはすでに詳細な研究が存在するので(61)、それらによりつつ、本改正によって設けられた無過失賠償規定の意味について見ておこう。
  石村教授は、前述の賠償慣行を、生ける法レベルにおける無過失賠償規範の成立として高く評価しつつ、しかし、それがあくまで慣行に止まる限り被害の全て被害地の全てをおおうものではなかったこと、その結果、被害者自身や地方公共団体や農業団体において、鉱業法の改正を求める動きが起こり、さらに一九三六年におこった尾去沢鉱山ダム決潰事件のような悲惨な鉱山災害を背景にこの改正がなされたものであり、「これまで非国家法の平面に存在した賠償請求権を国家法上に根拠を有する権利として定着せしめた」ものと評価している(62)。しかし、本改正は、立法経過とその内容において次のような限界ないし問題点を有している。まず第一に、審議過程で、この規定は何ら新しい責任原理を導入しようとするものではなくすでに存在する慣行を法制化したに過ぎないものであることが、繰り返し強調されている(63)。このような議論は、鉱業権者側の反対を防ぐためになされたものではあるが、同時に、次の三つの問題点を本改正にもたらしたのではないか。第一に、その責任の性質や民法の不法行為との関係を明らかにするという作業が十分になされないままに終わったことであり、第二には、前述したように、当時の賠償慣行には必ずしも被害者の救済や加害者の責任追及において十分でない内容が含まれていたが、それらを丸ごと抱え込んで合理化する機能を果たしたのではないかということである(64)。第三に、この賠償慣行を法制化したにすぎないという議論は、同様の危険を有する他の産業においてもこのような賠償規定を設けるべきとの主張に対し、それを鉱業に限るという判断をする際の有力な根拠とされた(65)。さらに第二に、本改正において損害賠償の方法として原状回復が金銭賠償に対して二義的なものとされたことは、土地の陥没被害のように、金銭による補償では十分な救済とは言えないことが少なくない鉱害被害の特質からして問題を有していたことは、多くの論者が指摘するところである(66)。このような問題点の存在は押さえつつも、石村教授は、全体として本改正を、「わが国の法律体系の全体にとっても全く新しい法原理を採用する」「画期的意義」を有するものと高く評価するのであるが(67)、これとは異なり、立法過程の詳細な検討や制定後の運用実態等の分析を踏まえて、本改正を、次のように評価する見方があることにも留意したい。すなわち、吉田文和=利根川治夫両氏は、「長年にわたる鉱害被害者による鉱害賠償要求・賠償規定制定要求の運動を背景にしつつも、政府を鉱業法改正に直接ふみきらせたものは、戦時体制下の財政緊縮政策、それによる鉱害賠償への国費助成に対する削減要求であり、生産力拡充=戦時増産・乱掘政策、それによって、『満州事変』以後増大しつつあった鉱害被害・賠償額がさらに増大することを予想し、賠償額を抑止し、鉱害激化にともなう紛争を鎮静・予防化して、戦時動員をすすめる要請であった」とその背景を説明した上で、内容的にも、他産業への波及の否定や原状回復の二義化等に見るように、「慣行の最小限法制化によって、紛争鎮静・予防化がねらわれたが、現状変革への手がかりになる法制化は避けられたのであ」り、過大評価すべきでないとするのである(68)。また、多少トーンは異なるが、浦川道太郎教授も、「事故・災害被害者が過失責任主義による無賠償の法状況に絶望し、窮状を打破せんとしてまず社会的・政治的運動を起こし、その運動の中から被害者側が実力で無過失賠償の慣行を勝ち取ってくると、漸くその慣行を後追い的に慣行の無秩序を法律でもって整理する形で無過失損害賠償責任が定められるという、我が国の無過失責任特別法の成立の一つのパターンは、この鉱害賠償規定成立過程に象徴的に表現されていると思われるのである」としている(69)
  確かに、本改正は、それが行われた時期や内容、さらには、次に見るように、本規定が使われた裁判例が戦時下はもちろん戦後になってもごく少ないという事実等から見て、基本的には、吉田=利根川両氏の分析するような歴史的制約を有したものであったことは否定できない。しかし、とにもかくにも法改正が行われたことの少なくとも一つの背景として、被害住民を中心とした様々の運動があったことは軽視すべきではなく、さらに、本規定を前身とした現行鉱業法一〇九条の無過失賠償規定が、四大公害訴訟の先陣を切って判決を言い渡されたイタイイタイ病事件で大きな役割を果たしたことも忘れてはならないであろう。
    ニ.一九三九年改正法以降の判例・学説
  一九三九年に導入された鉱害無過失賠償規定(鉱業法は一九五〇年に改正されたが、無過失賠償規定については新法一〇九条が旧法七四条ノ二を受け継いでいる)は、その後、戦中から戦後期にかけてあまり機能しなかった。特に、判決例のレベルでこの点は顕著であり、沢井裕教授の研究によれば、本規定により被害者が賠償を獲得した事例は、戦前は存在せず、戦後も昭和三〇年代になってから、しかも、イタイイタイ病訴訟まで、以下のわずか三件が存在するだけである(70)
  @  福岡・捲揚機座損傷事件(福岡地判昭和三九・二・一九)地盤沈下により原告(鉱山会社)の機械が損傷した事例で原被告とも鉱業権者。
  A  飯塚・香春町道路傾斜事件(福岡地飯塚支判昭和四二・六・三〇)地盤沈下により町道が傾斜した事例で、原告は町。
  B  田川・鉱毒農業被害事件(福岡地田川支判昭和四二・一〇・一九)四名の農民が鉱毒水による農業被害に対する補償を請求した事例。
このように本法がほとんど使われなかった原因につき沢井教授は、「無過失責任が明規されたところで、因果関係の立証が緩和されたわけでもなく、また零細農民の訴訟費用負担の困難さが解消したわけでもない。・・しかも、昭和一二年にはじまった日中戦争の圧力は、年を追って重くのしかかってくるのである」との指摘を行っている(71)。法理論的には、因果関係立証の困難さが大きな壁になっていたと思われることが重要である。
  鉱業法に関して最後に指摘する必要があるのは、改正の直後には、この責任を実質的には過失責任であり、ただ、被害者の過失立証の負担を避けるために無過失責任の形式を採用したに過ぎないという理解が有力だったことである(72)。これらの説、とりわけ平田博士の説は、博士が本改正以前から、鉱害の場合、鉱業権者には故意または過失が認められるとしていた立場からはある意味で当然の主張であり、浦川教授は、そこには「慣行的に獲得してきた損害賠償責任を枠づけるものとして登場した無過失責任特別法への警戒と不信感がある」との指摘を行っている(73)。これに対し戦後の学説においては、このような考え方にかわり、本規定を、鉱業権者が過失がないにもかかわらず負う責任という、一般的な意味における無過失責任と解する考え方が有力になる。例えば徳本鎮教授は、鉱業活動による他人の権利侵害は「いかに万全の注意・設備をしても発生する」ものであり、そこに不法行為における過失責任の原則を適用することはできない、かりにそこに損害発生の予見があったとしても、このように結果発生防止が期待できない予見は過失責任におけるそれとは本質的に異なるとする(74)。この考え方の特徴は、鉱害が不可避(「いかに万全の注意・設備をしても発生する」もの)と見る点にあるが、それは、次に検討する戦前から戦後にかけてわが国の無過失責任論の主流に属する考え方でもあった。しかし、ここでも、平田博士らの考え方に近い理論が、高度成長期以降の公害法論の中で、いわゆる「立証不要論としての無過失責任論(75)」として再び有力に主張されるようになるのである。

  (3)  戦前の無過失責任法理論
  大正から昭和前期において、前述のように立法のレベルでは無過失責任法は不毛な状態であったにもかかわらず(あるいはそうであったからこそというべきか)、学説においては無過失責任の問題が盛んに論じられた。この時期の理論についてもすでに詳細な研究(76)があるので、ここでは、この時期の代表的な論者の所説とその特徴を概観しておこう。まず、初期のものとして石坂音四郎博士の説がある。博士は、一九一〇年の論文で、機械工業は必然的に損害の危険をともなうものであり、たとえ「綿密周到ナル注意ヲ加フルモ損害ヲ生スルハ避クヘカラサル所ニシテ一般公衆ハ損害ヲ蒙ルヘキ危険ノ地位ニ在リ」、したがって、企業者に過失がなければ責任がないというのは「公平ニ合スルモノト云ヘス」、危険をともなう機械工業における事故の場合、企業に過失がなくとも賠償責任を認めることが公平に合致すると述べている(77)。さらに、一九一二年には、当時まだ学生であった末弘厳太郎博士が、無過失責任に関する論文を発表している(78)。この論文において博士は、近代における大工業は一定の危険を必然的にともなうものであり「綿密周到ナル注意ヲ以テスルモ損害ノ発生ヲ防止スルコト」は困難であること、また、企業の過失によって事故が発生した場合であっても被害者が過失を証明することができないため保護されない場合が多いことを指摘し、これらの意味で「過失主義ノ墨守」は許されないようになったとする。その上で博士は、「近世ニ於ケル民事責任刑事責任ノ分化」に無過失責任の根拠を求める。すなわち、刑事責任と分化された民事責任においては行為者の故意過失は本質的要素ではないとして無過失責任を根拠づけるのである。
  これ以後、ドイツ、オーストリア、さらにはフランスやイギリスなどの理論の紹介・検討を行った上でわが国における無過失責任を論ずる文献が多数発表されるが、ここでは、「無過失損害賠償責任一般に関するエンサイクロペディアとも称しうる大著(79)」と評される岡松参太郎博士の『無過失損害賠償責任論』についてだけ簡単に触れておこう。同書において博士は、過失責任は、各人が特に危険な行動をするのではなく、また、損害の発生が予期できないものであるという「共同生活ノ普通ノ状態ヲ標準ト」するものであるが、近世における経済の発達により、交通機関・鉱工業・蒸気や電気といった危険源による「特殊ナル危険ノ増加」、危険な活動に必然的にともなう「予期的損害ノ発生」、過失の証明困難といった、理論上・実際上これを修正しなければならない必要が出てきたとした上で(80)、ヨーロッパにおける「結果責任」の諸場合とそれを根拠づける理論を網羅的に紹介・検討する。この詳細緻密な研究は、極めてレベルの高いものであったが、残念ながら、後の議論、とりわけ実務において、無過失責任立法を推進する力としては作用し得なかった(81)
  岡松博士以降の無過失責任論としては、ヘーデマンの「具体的衡平主義」を紹介しつつ、無過失責任主義を過失責任主義とならぶ責任原理として位置づけた上で、無過失責任主義の根拠として危険責任と報償責任をあげ、わが国の民法七一五条に後者の、七一七条に前者の考え方が示されるとして、解釈論において両条の活用を主張した我妻栄博士の主張(82)、さらには、事業活動にともなう損害の「責任標準」には、その事業の種別・性質に応じて、「原告が立証責任を負う純粋に主観的な過失責任主義から、過失の一応の推定・立証責任の転倒による過失の推定、『責任の推定』・・不可抗力を免責事由とする結果責任の各段階をへて、不可抗力をも免責事由としない純結果責任までの多様な種類・段階・形態がある」とする平野義太郎博士の主張などが興味深い(83)
  これらの無過失責任論が大正期以降に盛んになったのはなぜか。植木哲教授は、その社会的背景として、この時期、日本の産業構造が軽工業部門から重化学工業部門へと質的転換を遂げ、それにともなって労災があいつぎ、大正デモクラシーの気運と呼応しながら、それらの被害者救済の必要性が高まったこと、そして同時に理論的背景として、この時期、比較法研究、とりわけドイツ法研究が隆盛をきわめ、その一環としてドイツの危険責任(危殆化責任)論が紹介・導入されたことを指摘している(84)。確かに、前節で整理したように、第一次大戦前後にわが国の産業とそれがもたらす労災や公鉱害問題は新しい段階に入っており、そのことが学説をして無過失責任論の研究に向かわせた背景となっていることは間違いない。それは、前述の所説がいずれも無過失責任の必要性として近代産業にともなう危険・被害の増大を指摘していることからもうかがい知ることができる。ただ、これらの説が、鉱害問題に関する前述の学説とは異なり、わが国の現実の問題をどの程度具体的に念頭において議論していたかには疑問もないわけではない。この点に関連して、浦川教授は、この時期の無過失責任研究が「我が国の無過失責任論への有効な提言として展開する方向をとらずに純学理的研究として孤立してしま」い「立法および判例への影響の点から見ると、一部のものを除いて、ほとんど直接的な影響力はなかったと評価せざるをえない」として、その問題点を指摘しているが(85)、少なくとも、この時期の無過失責任論が、例えば鉱害紛争事例において立法機関や裁判所に影響をあたえたといった形跡は確認し得ない。
  さらにこの時期の無過失責任論には、近代的産業活動にあっては、労災や公鉱害等の被害は、いかに注意していても発生するという意味で不可避的に付随するものであり、その意味で、行為者に注意深い行動を要請する過失責任による解決には限界があるとの考え方が共通して存在する。例えば、石坂博士や末弘博士は前記の論文において、大工業においては、「綿密周到ナル注意」を行っても損害発生を防止することは困難であるとしている(86)。確かに、近代的な企業活動はこれらの論者が指摘する危険を内在しており、このような主張が大正期以降に隆盛になったことには、わが国の産業の発展状況から見て根拠がある。しかし、そのことが直ちに過失責任主義の限界という議論につながるものかどうかについては一考を要するところである。なぜなら、先に見たように、そのような被害の一典型とも言うべき鉱害について、ほぼ同時期に、過失責任の成立を肯定する議論が有力に存在したからである。その意味で、これらの議論には、前節で指摘した、この時期に日本の資本主義が到達していた技術段階(すなわち本格的で新しい防除設備や技術の導入・開発が必要になっていたこと)と、それにもかかわらずそのための負担を回避しようとした企業の対応、それを許容してしまった国や行政の政策や時代思潮といったものが、間接的にではあれ反映していると見るのは的外れなのであろうか。
  (4)  戦後の無過失責任法と法理論
  前章において、戦後改革は公害問題において地方自治の確立や基本的人権の保障等、重要な意義を持ったが、現実の公害・環境政策や法においては戦前と戦後の(有効な政策や立法がないという意味で)連続性が強いことを指摘した。無過失責任論に関しても同様のことが言える。まず第一に、公害賠償に関する特別法の不備は戦後になっても改善されない。確かに、戦後になって、無過失責任(ないしそれに近い内容の責任)を規定したいくつかの重要な立法がなされた。例えば、一九四七年の国家賠償法はその二条に公の営造物の設置管理の瑕疵による国・公共団体の責任を規定し、同じ年の独占禁止法二五条も過失によらない責任を規定している。また、一九五五年の自動車損害賠償保障法三条、一九六一年の原子力損害賠償法なども重要である。しかし、この時期の環境汚染被害に対する賠償法としては、一九五〇年鉱業法が無過失責任規定を引き継いだのと、一九五八年の水洗炭業法が同様の規定を有した(同一六条)にとどまっている。
  戦前との連続性は法理論においても見られる。この点を、昭和三〇年代の代表的な体系書である、加藤一郎『不法行為』によって確認しておこう。同書によれば、高速度交通機関の発達と危険な設備をもつ企業の発達の中で、過失責任主義に対する批判が出てきた。すなわち、このような危険性のある企業にそこから生じた損害を賠償させるのが公平と正義にかなったことだと考えられるが、「そこには、従来の意味での過失がないことが少なくない」ことや、かりになんらかの意味での過失があったとしても被害者の方でそれを挙証することが極めて困難であるため、従来の過失責任主義ではそれは十分には達成できないからである(87)。もちろん今後も、個人間の日常生活関係については過失責任の原則が残るべきであり、無過失責任は個人の自由を脅かす危険を内包していることには留意しなければならないが、「もしその危険を冒しても、なおかつ無過失責任を認めることが、公平・正義の見地から妥当であれば、無過失責任を認めることを躊躇してはならないであろう(88)」。
  以上の主張の特徴は、現代的な危険をともなった企業活動から発生する被害は不可避であって過失責任を問うことはできないという考え方を前提に(89)、無過失責任を公平・正義の見地から根拠づけていることである。無過失責任のこのようなとらえ方は戦前においても見られたところであり、そこに理論面の連続性が表れているのであるが、加藤説はさらに、無過失責任の場合は過失責任と比べてその非難性は「道義的な面では量的に弱い」ものとなり「質的に異なったもの」となるとして、公平の見地からその責任の範囲には一定の限定が加えられるべきであるとしている点に大きな特徴がある(90)。ただし、このような公平の観念による無過失責任の根拠付けと責任範囲の限定という考え方は、戦前に公平(衡平)の理念を無過失責任において強調した我妻博士が、一九五三年の論文の中ですでに、「企業責任の正しい途は、行為者に主観的な過失を認定することなしに、しかもその企業の社会的意義からみて相当な範囲に限る責任を認めることでなければなるまい」として、その方向を示唆している(91)
  以上で、戦前から昭和三〇年代頃までの公鉱害問題を中心とした無過失責任論の検討を終えるが、最後に、本項における検討を通して明らかになったこの時期の理論の特徴をまとめておこう。まず第一は、わが国の無過失責任に関する学説は日本の産業が近代化し発展する中で発生・拡大してきた公鉱害や労災といった被害への対処(より端的にいえば被害者救済)を直接間接の目的として展開されてきたが、その中で、これらの被害は近代的鉱工業に不可避的に付隨するものであり、その意味で過失責任を問うことには無理があるという理解が一般的であったことである。しかし、過失の理解の仕方によっては、このようなケースに過失を認めることは決して無理なことではなく、現に、鉱害に関しては当然に過失を(場合によれば故意も)問いうるとする議論や、さらには、危険性が高い特殊な企業にはそれだけ高度の注意義務が課されるとの議論も戦前には有力に存在したのである。それにもかかわらず、前項および本項で検討したように、それらは無過失責任論全体の中では通説となりえず、鉱害についても、戦後は、過失責任は問えないとする考え方がむしろ強くなっていった。このことの意味や要因は、無過失責任論と対をなす過失論における次節で検討するような展開とあわせてはじめて理解しうるところであるが、このような公鉱害観が高度成長期における公害問題の深刻化の中でどう変わっていくのか(いかないのか)は、一九六〇年代後半以降の理論を検討する際の一つの重要な論点でもある。第二の特徴は、企業に無過失責任を課す特別法の著しい不備である。特に、公害被害については、それを直接規定した法律は、一九七二年の大気汚染防止法と水質汚濁防止法への無過失責任規定の導入までは、戦前戦後を通じて、一九三九年の鉱業法七四条ノ二(一九五〇年の新鉱業法一〇九条)と一九五八年の水洗炭業法一六条だけであった。このため、わが国の判例や学説は、民法の規定を使って問題に対処することを余儀なくされたのであるが、さしあたり、大正期から昭和三〇年代頃までの判例・学説のこの点での展開の分析が、次節の検討課題となる。

(38)  例えば、我妻栄『事務管理・不当利得・不法行為』(日本評論社一九四〇年)九九頁は、「その本質は雇主の無過失責任を肯定したものに他ならない」とする。
(39)  以下の鉱業法制の歴史についての叙述は、石村前出注(1)八二頁以下、沢井裕「イタイイタイ病判決と鉱業法一〇九条」法律時報四三巻一一号(一九七一年)七二頁以下、徳本鎮「わが国における鉱害賠償制度の成立」法政研究四二巻二=三号(一九七五年)三一〇頁以下による。
(40)  石村前出注(1)一七〇頁による。
(41)  徳本前出注(39)三一一頁。
(42)  神岡教授は、農商務省案の元老院提出が一八九〇年八月二〇日、その数日後(八月二三日)に洪水が起こり鉱毒被害の拡大が大きな社会問題となったことから、鉱毒事件への影響の危惧が元老院を「変節」させたとしている(前出注(1)『日本の公害史』一八二頁以下)。また、石村教授もほぼ同様の推測を行っている(前出注(1)一七〇頁)。
(43)  石村前出注(1)四〇七頁以下。なお、徳本前出注(39)三一五頁以下も参照。
(44)  石村前出注(1)四九〇頁。
(45)  石村前出注(1)四八八頁以下。
(46)  富井前出注(1)二一二頁以下。
(47)  塩田環「鉱業権者ノ土地所有者ニ対スル賠償義務ヲ論ス」法学協会雑誌三九巻一、二号(一九二一年)。
(48)  塩田前出注(47)法学協会雑誌三九巻一号六九頁以下。ただし、塩田氏は同時に、権利行使は「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗」に反するにいたれば不法行為になるとも述べており(同論文七〇頁)、この点では、次節で検討する大正期以降の学説の主流との共通性をも有している。
(49)  塩田前出注(47)法学協会雑誌三九巻一号六二頁以下。
(50)  清水誠『時代に挑む法律学』(日本評論社一九九二年)二五三頁以下(特に二七二頁、二九五頁以下)、他。なお、これらの説の特質については、拙稿「不法行為法と『市民法論』」法の科学一二号(一九八四年)三六頁参照。
(51)  澤井裕『テキストブック事務管理・不当利得・不法行為(第二版)』(有斐閣一九九六年)一七九頁。
(52)  このような塩田氏の考え方がどのあたりに淵源を有するかは定かではないが、前節で検討したように、明治前期の法学協会討論会で穂積陳重博士が、活動や物の性質上の危険の高低に応じて注意義務の程度を高低させるという、類似した考え方を述べている。また、次節で詳しく検討するように、行為の危険性に応じて要求される注意の程度は異なるとする考え方は明治期から一般的であり(例えば、菱谷精吾『不法行為論』(清水書店一九〇五年)一一二頁)、判例においても、明治期には、電線架設のような危険な工事については、その危険性に見合った予防設備を講ずべきとするものが存在する(大判明三二・一二・七民録五・一一・三二)。したがって、この塩田氏の説は、あるいは、これらの明治期以来の伝統的な見解を鉱害にそのまま適用したものと言えるのかもしれない。
(53)  塩田氏は、本論文以前の一九一五年に、大阪アルカリ控訴審判決(大阪控判大正四・七・二九新聞一〇四七・二五)が、「最善の方法」を尽くしたとの被告の主張にもかかわらず被告の責任を肯定したことをとらえて、「最善の方法」をつくせば過失はないとして同判決を批判しており(塩田環「不法行為に関する大阪控訴院の判決に就いて」新聞一〇四二号四頁)、したがって、同氏は、現実にそれほど高度の防止義務を考えていたのではないようにも思われる。
(54)  平田慶吉『鉱害賠償責任論』(日本評論社一九三二年)一〇二頁以下。
(55)  平田前出注(54)一〇九頁。
(56)  西原道雄「公害に対する私法的救済の特質と機能」法律時報三九巻七号(一九六七年)一三頁以下。
(57)  平田前出注(54)一二一頁。
(58)  石村前出注(1)五〇一頁。浦川教授も、これらの議論が「当時の不法行為法の判例・学説全体の立場から見て、通説的地位を主張できたかは大いに疑問である」とする(浦川前出注(15)二〇七頁)。
(59)  小野謙次郎「土地陥没に因る鉱業権者の賠償責任」司法研究第五輯(一九二七年)(ただし、筆者は石村前出注(1)四〇五頁による)。
(60)  石村前出注(1)四〇五頁以下。なお、この事例については、沢井前出注(39)七九頁以下も参照。
(61)  石村前出注(1)四九五頁以下、吉田文和=利根川治夫「鉱害賠償規定の成立過程」北大経済学研究二八巻三号(一九七八年)七三頁、富井前出注(1)六二頁以下、他。
(62)  石村前出注(1)五四三頁。
(63)  石村前出注(1)五三〇頁以下。
(64)  石村教授は、賠償規定の制定は、慣行の中にある必ずしも合理的とはいえないものが「合理的な賠償への転進のきっかけを抑止する機能をさえ営むことがある」とする(前出注(1)五四三頁)。
(65)  この点については吉田=利根川前出注(61)一一一頁以下参照。
(66)  石村前出注(1)五四〇頁以下、吉田=利根川前出注(61)一一九頁以下等。
(67)  石村前出注(1)五三七頁以下。
(68)  吉田=利根川前出注(61)一五七頁以下。
(69)  浦川前出注(15)二〇六頁以下。
(70)  沢井前出注(39)七八頁以下。
(71)  沢井前出注(39)七八頁。
(72)  平田慶吉「鉱害賠償規定解説」民商法雑誌九巻五号(一九三九年)七七七頁、美濃部達吉『日本鉱業法原理』(日本評論社一九四一年)二五二頁以下等。
(73)  浦川前出注(15)二二〇頁。
(74)  徳本鎮『農地の鉱害賠償』(日本評論新社一九五六年)一三頁。同「鉱害賠償責任の一考察」九大法学部三〇周年記念論文集『法と政治の研究』(九州大学法政学会一九五七年)四七九頁以下も参照。
(75)  公害等においては古典的な意味での過失は常に存在するのであり、したがって、無過失責任は、被害者をその立証負担から免れさせる点でのみ意味があり、無過失責任だからといって決して非難性の程度が低いというものではないとの主張(詳しくは富井前出注(1)三九頁以下、拙稿前出注(50)四九頁参照)。
(76)  浦川前出注(15)二一一頁以下、富井前出注(1)四二頁以下、植木前出注(25)五四四頁以下、等。
(77)  石坂音四郎「他人ノ過失ニ対スル責任」法学新報二〇巻八号(一九一〇年)二〇頁以下。浦川教授は、この石坂論文を、戦前期の無過失責任論の「嚆矢をなす」とする(浦川前出注(15)二一二頁)。しかし、これ以前にも無過失責任に言及する業績はいくつか存在する。例えば、磯谷幸次郎「不法行為ニ要スル過失ノ程度」法学新報一三巻三号(一九〇三年))は、本論文の七年前に、ドイツの危険責任立法とイギリスの「ライランド対フレッチャー法理」を紹介しながら過失責任主義を批判している。ただし、この論文は、解釈論的には民法七〇九条の「過失ノ程度」の問題として企業活動の危険に対処しようとするものであるため、次節において検討することにしたい。
(78)  末弘厳太郎「過失ナキ不法行為」法学協会雑誌三〇巻七号(一九一二年)。
(79)  浦川前出注(15)二一五頁。
(80)  岡松参太郎『無過失損害賠償責任論』(京都法学会一九一六年、ただし引用は、有斐閣一九五三年版による)四一頁以下。
(81)  その原因の一つとして浦川教授は、全ての無過失責任原理を検討したため、当初に立てた近代的企業による事故に対応した無過失責任の原理を明確に示し得なかったという本書の「限界」を指摘している(前出注(15)二一五頁以下)。
(82)  我妻栄「損害賠償理論における『具体的衡平主義』」法学志林二四巻三−五号(一九二二年)。なお、我妻博士は、このような理論に基づいて、企業設備の物的な瑕疵が原因で企業災害が発生した場合のみならず、機械的な労務に従事する者が原因となる場合にも、これを企業の「人的瑕疵」として民法七一七条の工作物責任を認めることができるのではないかとの主張を行っている(我妻前出注(38)一八一頁以下)。
(83)  平野義太郎「損害賠償理論の発展」牧野還暦『法律における思想と論理』(有斐閣一九三八年、引用は、平野義太郎『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想(増補新版)』(有斐閣一九七〇年)による(同書三四六頁))。
(84)  植木前出注(25)五四八頁以下。
(85)  浦川前出注(15)二〇三頁、二一一頁以下。
(86)  石坂前出注(77)二〇頁、末弘前出注(78)一一九頁。なお、末弘博士は後に、このような種類の事故について、「適法行為による不法行為」という概念を提唱するようになるが(「適法行為による『不法行為』」法律時報五巻七号(一九三三年)一〇頁)、ここでは、なお通常の意味での不法行為の問題として論じている。
(87)  加藤一郎『不法行為』(有斐閣一九五七年)九頁以下。
(88)  加藤前出注(87)二二頁。
(89)  加藤教授は、科学の最高水準の技術を用いてもなお損害が生じた場合にはもちろん、「科学の最高水準の技術を用いれば損害を防げるが、それには多額の設備資金を要するという場合に、それをしなかったからといって、過失があるとは必ずしもいえないであろう」として、大阪アルカリ大審院判決を援用している(前出注(87)九頁以下)。ただし教授は、同書の他の部分では、「適切な防除設備がなく他人に被害を与えるような工場を設置したこと自体に過失がある」という見解をも示しており(同書九四頁)、大阪アルカリ大審院判決を全面的に肯定しているわけではない。
(90)  加藤前出注(87)二五頁以下。
(91)  我妻栄「Negligence without Fault−アメリカ法における一つの無過失責任論−」末川還暦『民事法の諸問題』(有斐閣一九五三年、引用は我妻栄『民法研究W』(有斐閣一九六九年)による(同書二七八頁))。