立命館法学 1999年1号(263号) 218頁(218頁)




不真正不作為犯について(1)
- 「保障人説」の展開と限界 -


平 山 幹 子


 

は じ め に

第一章  「保障人説」の歴史的意義

第二章  「保障人説」の展開と限界
  第一節  総則規定施行前の展開−「同価値性」要件をめぐって(以上本号)
  第二節  総則規定施行後の展開−「保障人的地位」をめぐって
  第三節  他人の犯罪の不阻止と作為との同置性について
  第四節  小  括−「保障人説」の限界

第三章  不真正不作為犯論の再構成
  第一節  作為および不作為の統一的負責根拠としての「保障人的地位」
  第二節  あらたな課題

むすびにかえて


は  じ  め  に

 一  本稿は、ドイツにおける「保障人説」の展開と限界を検討することで、「保障人説」を中心とした従来の不真正不作為犯論の限界と今後の課題を明らかにしようとするものである。
  いわゆる不真正不作為犯(1)の問題性は、その罪刑法定原則との関係にある。そこには二つの問題が含まれているとされる。一つは、作為、すなわち、「禁止規範」違反を予定している罰条を、不作為、すなわち、「命令規範」違反にも適用しうるのかという「法律主義」の問題である。もう一つは、作為義務の範囲は明文化されておらず、その処罰範囲は不明確ではないかという「明確性」の問題である(2)。ドイツでは、前者は不作為の作為同置性の問題(Gleichstellungsproblem)であり、後者は可罰的不作為の範囲の問題であるとされた。そして、前者については、一定の不作為を作為と同視しうる条件が真剣に求められたし、後者については、法的義務と倫理的義務とを区別して、その違反が処罰に値する作為義務の範囲を画定することが試みられた(3)。とりわけ、前者については、多くの努力がなされた。後に本文で示すように、戦前では、多くの学説が不真正不作為は「禁止規範」に違反する「偽装された作為」であると説明するために、一定の不作為について因果力を証明すべく努力した。また、戦後、目的的行為論者らによって修正された「保障人説」が、不真正不作為は本来の不作為であって、保障命令構成要件に該当する、つまり、「命令規範」に違反すると説明し、一定範囲での類推による処罰を正面から許容するようになってからは、それがどの範囲でならば許されるのか、つまり、「許される類推の範囲」が深刻に論じられた。その結果、一九七五年のドイツ刑法一三条には不真正不作為犯処罰の総則規定が置かれ、こうした「法律主義」に関する問題は解決されるに至った。また、それによって、ドイツの不真正不作為犯論は、「保障人的義務」の根拠、つまり、「明確性問題」を中心課題とするようになった。
  これに対し、わが国では、前者、すなわち、不作為の作為同置性問題が真剣に議論されたことはない。わが国では、(1)一定の不作為は「禁止規範」に違反すると説明する見解(4)、(2)不真正不作為犯処罰は、「禁止規範」違反を「命令規範」違反に類推するものであるとする見解(5)、さらに、(3)作為犯処罰を原則とする規定には「禁止規範」ばかりでなく「命令規範」も含まれているとする見解(6)が併存し、なおかつ、各見解の間で真剣に議論がなされたことはないという状況にある。とりわけ、(3)に類される見解では、たとえば殺人罪の場合、「人を殺した」という構成要件が、作為ばかりでなく不作為によっても実現されうるといえるのはなぜなのか、その理由はかならずしも明らかにされていない(7)。しかもそこでは、不真正不作為は「禁止規範」違反であるとの説明は避けながら、たとえば「期待された行為がなされていたら結果を阻止しえた」という場合には、(不真正)「不作為の因果力」が認められると説明されている(8)。つまり、因果力のある作為による犯罪実現を予定している規定、すなわち、「禁止規範」違反の処罰規定で、因果力のない不作為による犯罪実現、すなわち、「命令規範」違反を処罰するという場合、「不真正不作為は『命令規範』に違反する」との説明が、不真正不作為の因果力の否定を意味するとはかならずしも考えられていないようである。それ故、わが国では、不作為の作為同置性問題がどのように認識されているかは疑問であるし、むろん、この問題に対する態度決定は、いまだ明らかではない。にもかかわらず、一定範囲での類推を肯定する「保障人説」が部分的に取り入れられ、不真正不作為犯は「保障人的地位」にある者の不作為が作為による結果発生と「同価値であるとき」に成立し、その課題は、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の範囲の「明白性」であるされているのである(9)。しかし、そのような解釈は、どのようにして導かれるのであろうか。また、「同価値であるとき」という判断はどのようなものなのだろうか。なぜ「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の「明白性」だけを問題としうるのだろうか。
  かつて、金沢文雄教授は、目的的行為論者であるアルミン・カウフマンの見解を引用して、「不真正不作為犯は命令規範に違反する不作為犯」であって、刑法上の禁止規範に違反する作為犯ではなく、このような不作為犯は刑法に規定されていないから不真正不作為犯は罪刑法定主義の原則からの疑問を免れがたいものとなる、つまり、不真正不作為犯は不作為による結果の不防止が作為による構成要件実現とその当罰性において同価値と認められる場合に作為犯の規定を類推して処罰される場合であると解されることになる、と指摘した(10)。その際、そこには、つぎのような宮沢浩一教授による論評が寄せられた。すなわち、「不作為を存在論的に検討して、作為犯とは存在構造が違うのだと考えるのは、たしかに一つの見方であり、それなりに真理をついていることはたしかであるが、それだけにまた一面的な真理でしかすぎない。不作為犯に対して、価値的な検討、刑法的評価の面からの考慮を加える立場も、また、等しい資格で他の面から真理に近づいている。『等価性の原則』とか『類推』とかの方法でもって、不作為犯の可罰性を考える立場も理由がないわけではない。」「したがって、結局いずれの主張がより良いかという判断は、いずれの説の方が罪刑法定主義に寄与するか、人権擁護に役立つ議論かという実戦的な基準によって判断せざるをえまい」と(11)。また、ここで問題となっている「不作為の因果力」に関して、西原春夫教授はつぎのように述べられた。すなわち、「不作為は、たしかにそれ自体、因果の経過に何の変更も加えず、ただ成り行きに委ねたにすぎないが、作為があれば因果の経過が別のものになりえた、という判断がなされる場合には、その不作為に結果の原因力を認めることができる」と(12)。要するに、作為犯と不作為犯との構造上の差異を前提に、両者が「当罰性」において価値的に等しい場合に不真正不作為の処罰が類推であることを正面から肯定する金沢教授に対して、宮沢教授は、類推を正面から認めるか否かはさておき、「価値的な検討」によって罪刑法定原則に資する判断をすべきであると主張されているようであるし、西原教授は、仮定される作為が結果を阻止しうる場合には、不作為に因果力を認めようとされているように見える。
  しかし、区別される二つの態様について、両者が「同価値」、すなわち、「価値的」に等しい場合には、一方に関する規定を他方に転用してもよいとする方法は、まさに「類推」と呼ばれるそれである。また、「期待された作為をしておれば結果発生を阻止しえた」という場合に不作為の因果力を肯定すること(13)については、この見解の提唱者であるリスト自身、つぎのような問題の存在を自覚している。すなわち、仮定される作為が結果を阻止しうる因果力を持つのであって、不作為が因果力を有するわけではない、あるいは、そのような形で認められる不作為の因果力とは、作為犯の場合に認められる因果力とは異なる性質のものなのではないかという問題(14)である。結局のところ、わが国の議論は、不真正不作為犯の処罰が類推問題に突き当たることをうやむやにしたまま、ドイツ刑法一三条を前提に一定範囲で類推を認める「保障人説」を取り入れ、論点を「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の範囲のみに移行させてしまっているのである。
  二  以上のようなわが国の状況の問題性は、罪刑法定原則の観点からの理論的なそれに尽きるわけではない。現在、社会的にも注目されているいくつかの問題に、不真正不作為犯論は深く関わっているのである。たとえば、近年ドイツで議論されている「刑事製造物責任」の問題(15)は、わが国でもいわゆる薬害エイズ事件をめぐり注目されるようになったが、そこでは、論点の一つとして、欠陥製品回収の不作為について先行行為にもとづく不作為犯の成立が争われた。また、近時、わが国で問題となっている一連のオウム関連事件では、教祖である夫の殺人現場に居合わせた妻が夫の犯行を阻止しなかったことについて、不作為による共謀共同正犯が成立するかが争われるなどしている(東京高判平成一〇・五・一四・公刊物未登載(16))。これらの事案においては、従来見過ごされてきたいくつかの問題が、「処罰か不処罰か」を線引きするそれとして、あるいは「正犯か共犯か」を画するそれとして、顕在化しているのである。それ故、そうした問題にわが国の不作為犯論が今後どのように応えていくかは、きわめて実践的な意味を持つ、重要な問題なのである。
  この点、ドイツでは、様々に変化する現実の状況にあわせて、あらたな不作為犯論がすでに展開されつつある。しかし、そのようなドイツの議論を取り入れようにも、従来の議論の筋道さえ十分に消化していないように見えるわが国の実情からすれば、困難な状況にあるといわざるをえない。わが国の議論が基礎に置いている議論の到達点を正しく理解し、わが国の議論とのギャップを自覚しないことには、現在、展開されているドイツの議論を有効に取り入れることは不可能である。
  それ故、わが国の不作為犯論にとって、まず必要と思われるのは、現在のわが国の不作為犯論が基盤としている「保障人説」がそもそもどのようなものであったのかを今一度、明らかにすることである。すなわち、右で述べた「同価値性」要件とはいかなるもので、なぜ「保障人的地位(義務)」の範囲の明白性を中心課題とする今日の議論状況がもたらされたのか、ドイツにおける「保障人説」の歴史的展開を、検討することである。そして、既存の議論によって今日的な諸問題に対処することは可能なのか、可能でないとすればどのようにすればよいのか、従来の「保障人説」の限界と、今後の不真正不作為犯論の進むべき方向性を探ることである。
  三  そこで本稿は、以下の手順によって「保障人説」の展開と限界を明らかにし、あらたな不真正不作為犯論の方向性を検討することにしたい。まず、第一章では、不真正不作為犯論における二つの課題、すなわち、いかなる不作為が処罰の対象となるのかという「可罰的不作為の画定」問題と、いかなる不作為が作為と同様に扱われるのかという「作為同置性」問題とに対し、「保障人説」がどのように取り組み、従来の試みがかかえた困難を乗り越えようとしたのか、「保障人説」の歴史的意義を明らかにする。つづく第二章では、「保障人説」の展開を追跡し、現在、「保障人説」を構成する二つの要件、すなわち「同価値性」および「保障人的地位」の要件がいかなる役割を果たしいかなる困難に出くわしたのか、「保障人説」の展開と限界を示す。その上で、第三章では、第二章において示された従来の「保障人説」の限界を克服すべく展開された近時の見解を検討することによって、不真正不作為犯論のあらたな方向性と課題を探ることにする。

(1)  もっとも、「不真正不作為犯」という概念の定義自体、問題となりうる。ここで、何をもって「不真正不作為」とするかによって、議論の仕方も異なりうるからである。本稿では、ひとまず、殺人罪のように、「法の規定は作為を予定しているようにみえる犯罪が不作為によってなされる場合」(平野龍一『刑法総論T』(一九七二)一四七頁)を「不真正不作為」の定義として用いることにし、必要な場合には、そのつど説明を加えることにしたい。
(2)  平野・前掲注(1)一四八頁。
(3)  Vgl. G. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, S. 10ff.;Jescheck/Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, 1993, S. 618ff.
(4)  平野・前掲注(1)一四九頁、中山研一『刑法総論』(一九八二)一五八頁以下、西原春夫『刑法総論・改訂版〔上巻〕』(一九九四)二九七頁、前田雅英『刑法総論講義[第三版]』(一九九八)一二九頁、佐久間修『刑法講義〔総論〕』(一九九七)七〇頁、曽根威彦『刑法総論[新版補正版]』(一九九六)二一五頁他。
(5)  金沢文雄「不真正不作為犯の問題性についての再論」広島政経論集二一巻五〇六号(一九七二)二七一頁他、香川達夫『刑法総論講義〔総論〕[第三版]』(一九九六)二一頁以下。
(6)  大塚仁『刑法概説(総論)〔改定増補版〕』(一九九五)一四〇頁、大谷實『刑法講義総論(第四版補訂版)』(一九九六)一五八頁他。なお、「殺人罪の規定は『人を殺した』ことだけを要件としており、作為による遂行が構成要件要素となっているわけではない。不作為による場合が直ちに排除されるわけではないのである」とする山口教授の見解(山口厚『問題探究刑法総論』(一九九八)三一頁)、「殺人罪の規定は、作為ばかりでなく、一定の不作為も当然に予定しているというべきであり、そのかぎりでは罪刑法定主義違反の疑いは生じない」(井田良・丸山雅夫『ケーススタディ刑法』(一九九七)七二頁以下)とする井田良教授の見解、「殺人罪の処罰規定(刑一九九条)の背後にあると考えられる規範は、行為によって人の死を惹起することの禁止であり、作為のみがその対象であるとすることはできない」とする町野教授の見解(町野朔『刑法総論講義案T[第二版]』(一九九五)一二六頁)も、ここに属するものであろうかと思われる。
(7)  もっとも、たとえば大谷教授は、「作為の形式で定められている構成要件も単に作為を標準として規定されているにすぎず、禁止も命令もともに法益保護の目的に向けられた規範であるから、いずれも同一構成要件に含まれていると解すべき」であるとされる(大谷・前掲注(6)一五八頁)。しかし、そのように考えると、たとえば不退去罪(一三〇条)や保護責任者による不保護罪(二一八条)など、不作為による犯罪実現についても明記された規定がなぜ設けられたのか、説明できなくなる、という問題が指摘されている(松宮・前掲注(4)八三頁)。
(8)  たとえば、大谷・前掲注(6)一八八頁、山口・前掲注(6)三二頁など。
(9)  平野・前掲注(1)一五三頁、山口・前掲注(6)三二頁、大谷・前掲注(6)一五八頁他。
(10)  金沢「不真正不作為犯の問題性」佐伯千仭博士還暦祝賀『犯罪と刑罰(上)』(一九六八)二二四頁以下。
(11)  法律時報四二巻一〇号一六六頁以下。
(12)  西原・前掲注(4)一〇四頁。
(13)  前掲注(7)の各見解のほか、平野・前掲注(1)一四九頁以下、前田・前掲注(4)一三一頁など。
(14)  Vgl. F. v. List, Lehrbuch des Deutschen Strafrechts, 22 Aufl;1919, S. 129.
(15)  製造物の欠陥によって発生した被害についての製造・販売業者等の刑事責任の問題。ドイツでは、これを背定する判決がすでに存在している(Vgl. BGHSt. 37・106)。この問題および右の判決については、第二章第二節以下で言及することにしたい。
(16)  大山弘・松宮孝明「判批」法学セミナー五二九号(一九九九)七六・七七頁参照。

 

第一章  「保障人説」の歴史的意義

  本章では、不真正不作為犯論における二つの課題、すなわち、いかなる不作為が処罰の対象となるのかという「可罰的不作為の画定」問題と、いかなる不作為が作為と同様に扱われるのかという「作為同置性」問題(Gleichstellungsproblem)とに対し、「保障人説」がどのように取り組み、従来の試みがかかえた困難を乗り越えようとしたのか、「保障人説」の歴史的意義を明らかにしたい(1)。手順は以下のとおりである。まず、「保障人説」が登場する以前の不真正不作為犯論が右の二つの課題をどのように捉え、どのように取り組んだのか、また、そこにはどのような問題があったのか、従来の議論の限界と「保障人説」登場の背景を探る。その上で、「保障人説」が従来の議論のかかえた困難をどのように回避し、二つの課題に応えようとしたのか、それは従来の不真正不作為犯論にどのような変化をもたらしたのかを検討する。
  一  不作為犯論がその理論的発展をみせた一九世紀初頭から一九三八年に「保障人説」が登場するまでの議論を一括すれば、その関心は、「法的義務と倫理的義務の区別」および「不作為の因果力の証明」にあった(2)。というのも、「可罰的不作為の範囲」は、いかなる場合に法的作為義務が発生するかによって画定されねばならないし、不作為の「作為同置性」は、一定の不作為が作為と同様に「禁止規範」に違反すると論証することによって示されねばならないと考えられていたからである。もっとも、これらの問題は、かならずしも明確に区別して論じられていたわけではなかった。そこでは、以下でみるように、「可罰的不作為とは、可罰的な作為と同置しうる不作為である」との考えにもとづき、二つの問題が同じ一つの問題として捉えられていた。そして、もっぱら「可罰的不作為」を基礎づける法的作為義務の発生根拠が論じられたり、あるいは、可罰的な作為と同様に因果力を有する不作為について説明しようと試みられていた。
  まず、一九世紀後半から実務を中心に展開された「形式的三分説」は、「作為義務違反の不作為は結果に対して因果力を有する」という「期待説(3)」を基礎に、もっぱら法的義務を基礎づける法源の形式、すなわち、法律、契約、慣習法に着目することによって、法律、契約、先行行為にもとづく義務に違反する不作為は可罰的であり、因果力を有する、と説明した。
  この見解は、やはり一九世紀後半からヴァイマール期前半にかけて支配的であった自然科学的思考方法のもとで展開された「先行行為説(4)」や、「他行為説(5)」、「干渉説(6)」などの試みに対する批判を背景に有力となったものである。すなわち、「先行行為説」、「他行為説」、「干渉説」は、一定の不作為には、可罰的な作為と同じように、因果力が認められる、と説明するものであった。しかし、これらの説では、結局のところ、「不作為に先行する作為」や作為の決意を妨げる「他の作為」、「意思活動」など、不作為以外のものに因果の起点が求めれていた。そのため、不作為自体の因果力を示したことにならないとの批判が向けられていた(7)。また、たとえば、「先行行為説」では、およそ幼児を殺すようなことをしていない母親の作為義務が説明できないように、実際の処罰要求と比較して負責範囲が狭すぎるという問題があった(8)。それ故、判例および以後の不作為犯論は、可罰的不作為には因果力が認められると説明する方向−したがって、可罰的不作為の画定を中心的課題とする方向へと進んだのである(9)
  たとえば、ヴァイマール期後半から有力に主張されるようになった「違法性説」では、可罰的不作為の範囲を違法性の段階で絞ることにより、法形式を越えて全法秩序から広く作為義務を引き出すことが試みられた。その場合、不作為の因果力は、「花が枯れたのは水をやらなかったからである」というような日常用語法や、当該行為が当該結果を引き起こしたことが自然科学および社会生活上の法則にかなっている場合に条件関係を認める「合法則的条件公式」によって簡単に肯定された(10)
  このように、「可罰的不作為の画定」と「不作為の作為同置性」の問題とを同じ一つの問題として説明する考えは、もともと、倫理的色彩の強かったプロイセン一般ラント法を批判する自由主義的な立場から、一九世紀初頭に展開されたフォイエルバッハの見解によるものとされる(11)。すなわち、フォイエルバッハによれば、市民の本来的義務は作為による権利侵害を行わないことのみを目指さねばならず、損害を防止する義務、すなわち権利維持の企てには、特別な法的根拠が必要とされる。それ故、作為による権利侵害は本来的義務によってすべて禁止されるが、救助活動によって権利を維持することは、法律や契約などの特別な根拠がある場合にのみ例外的に命令されると考えられる(12)。つまり、フォイエルバッハによれば、作為犯処罰が原則で、不作為犯処罰は例外なのである。それ故、この考えからは、作為犯を基準に、不作為の可罰性を作為と同置する条件によって基礎づけ、あるいはまた、不作為の可罰性が明らかであれば作為との同置を認める(「可罰的不作為」の範囲と「作為同置の不作為」の範囲は一致すると考える)見解が導かれるのである。
  しかし、「形式的三分説」や「違法性説」のように、不作為の可罰性が認められる場合にその因果力を肯定しようとする説明には、無理があった。まず、「作為義務に違反した不作為は因果力を持つ」という「期待説」に依拠した「形式的三分説」の説明は、「処罰の対象となるのは因果力のある不作為である」という以上のものではなく、どのようにしたら不作為に因果力が認められるのかを説明していなかった。また、日常用語例や社会生活上の法則に依拠した「違法性説」による説明は、本来の因果概念と一致しなかった(13)。もっとも、だからといって、不作為の自然主義的な意味での因果力を正面から説明しようとする試みに無理があることは、「先行行為説」をはじめとする一九世紀後半の試みを振り返ってみれば、すでに明らかであった。結局のところ、一九世紀から「保障人説」が登場する直前のナチス期までの間、法的義務と倫理的義務との区別によって可罰的不作為の範囲が説明されたことはあったとしても、不作為の因果力について十分な論証がなされたことはなかった。つまり、不作為の「作為同置性問題」が解決されたことはなかったのである。
  もっとも、「保障人説」が登場する直前のナチス期に入ると、事態はますますひどくなった。この時期、判例は、「健全な民族感覚」および「隣人愛」を作為義務の根拠とする「緊密な生活共同体判決(14)」を出すなど、倫理的義務にまで作為義務の範囲を広げた。また、学説においても、いわゆる「キール学派」によって、倫理義務違反と法的義務違反との区別の解消が主張された(15)。つまり、法的義務と倫理的義務との区別による「可罰的不作為」の基礎づけも、不作為の因果力の証明による「作為同置の不作為」の説明もなされないまま、不真正不作為犯の成立が肯定されたのである。このような状況のもと、ナーグラー(T. Nagler)の「保障人説」は現れたのである。
  それ故、「保障人説」がかかえた課題は、二つであった。一つは、法的義務と倫理的義務との区別を復活させつつ、いかにして実務における処罰要求に対応するかであり(16)、もう一つは、そのような処罰の対象となる不作為と作為との同置性をどのように説明するかであった。いうまでもなく、困難は、後者にあった。というのも、「不作為の因果力の証明」というくり返された試みがいずれも不成功に終わったことは、すでに明らかだったからである。
  二  そこで「保障人説」が示した解決方法は、刑法典の規定自体の中に同置の根拠を求めるというものであった。すなわち、遺棄罪(ドイツ刑法二二一条)などの各則規定が、作為と「結果が発生しないよう保障する者の不作為」とを同等に処罰していることを、同置の根拠としたのである。いいかえれば、一定の各則規定から、「結果の不発生を保障する者の不作為は、万人の作為と同様に処罰される」という趣旨を引き出し、これを他の結果犯の規定にも類推した(17)のである。こうして、結果の不発生を保障すべき人物の不作為が不作為犯の実行行為であるとされ、それは作為犯の実行行為と同置できるという結論が導かれた。そして、いかなる者が「保障人的地位」に立つかについては、「具体的な生活関係の社会的倫理的評価」にもとづき、最終的には個々の具体的ケースごとに決定されるべきであるとされた(18)。これによって、「緊密な生活共同体」のような一定の倫理義務が法的義務に格上げされて、実務の認める処罰範囲を説明することができた(19)
  このように、ナーグラーの「保障人説」は、不作為の「作為同置性」の説明において、それまでの見解とは根本的に性格の異なるものであった。従来の見解が「因果力のある不作為」は作為と同置できると説明するものであったのに対して、「保障人説」は、刑法各則の構成要件が「保障人の不作為」と作為の実行行為とを法的に同等に扱っているので、因果力が証明されなくても「保障人の不作為」であれば作為と同置できる、としたのである。つまり、ここでの同置は、実定法にもとづく価値的な同置であり、因果力の証明による構造上の同置ではなかった。もっとも、ナーグラーは、後の「保障人説」とは異なり、不真正不作為は「禁止規範」に違反する、すなわち、「保障人の不作為」は、「保障人的地位」を備えることよって「禁止規範」に違反するので処罰の対象になる、と考えていた(20)。要するに、作為と不作為との同置を価値的に説明する「保障人説」においても、作為と不作為との構造的差異(それ故、構造上の同置)に規定された従来の議論と同様に、処罰の対象となるのは原則作為であり、不作為は、不作為者が「保障人的地位」という特殊な要件を備えることによって、例外的に処罰の対象になるとされていたのである。
  三  ここで、「保障人説」がもともとどのようなものであったかを本章の冒頭で示した不真正不作為犯論の二つの課題と照らしてくり返すならば、つぎのようにいえよう。すなわち、「保障人説」は、刑法各則を根拠に、刑法は「保障人の不作為」を処罰の対象としているとして可罰的不作為を画定し、同時に、刑法は「保障人の不作為」を作為と「同置」しているとして両者の同置を価値的に説明することにより、作為同置性問題を解決しようとしたのであった。もっとも、作為および不作為の構造的差異に着目する従来の議論と同様、そこでは、作為犯処罰が原則であると理解されていた。そのため、「保障人」ないし「保障人的地位」は、「可罰的不作為」と「作為と同置の不作為」とを基礎づける特殊要件であった。

(1)  もっとも、これについては、松宮孝明「『保障人』説について」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一六五頁以下、同「『不真正不作為犯』について」『西原春夫先生古希祝賀論文集・第一巻』(一九九八)一五九頁以下などにおいてほぼ明らかにされているほか、「保障人説」の紹介は、中谷瑾子「不真正不作為犯の問題性に関する一考察(一)(二・完)」法学研究三〇巻四号(一九五七)一四頁以下、一二号(一九五七)四〇頁以下、中森喜彦「保障人説について」法学論叢八四巻四号(一九六九)頁以下、名和鐵郎「ドイツ不作為犯論史(二)−方法論的問題に関して−」静岡大学法経研究二二巻一号(一九七三)二七頁以下などでも検討されている。しかし「保障人説」の限界とそれを克服する方向を探るという本稿の目的にとって、そもそも「保障人説」はどのような形で主張されたものであったのかを確認することにはなお意義を見いだしうると判断し、検討を重ねることにした。
(2)  この間の不作為犯論をめぐる理論史を扱った日本語文献としては、前掲注(1)にあげた各文献のほか、日高義博『不真正不作為犯の理論』(一九七九)、堀内捷三『不作為犯論』(一九七八)などがある
(3)  Liszt, Lehrbuch des deutschen Strafrechts, 21. u. 22. Aufl., 1919, S. 126-129.
(4)  クルーク、グラーザー、メルケルらによって提唱された。Vgl. A. Krug, Abhandlungen aus dem Strafrechte, 1855, S. 30f.;Glaser, Abhandlungen aus dem o¨sterrischen Strafrecht 2. Bd. ゞ¨ber strafbare Unterlassungen, 1858, S. 287ff.;Adolf Merkel, Kriminalistische Abhandlungen, 2. Bd., 1867, S. 76ff.
(5)  ルーデンによって提唱された。Vgl. H. Luden, Handbuch des deutschen gemein und partikularen Strafrechtes, 1. Bd., 1842, S. 221f. なお、ルーデンがこの説を最初に明らかにしたのは、H. Luden, Abhandlungen aus dem gemeinen deutschen Strafrecht, 2. Bd. ゞ¨ber den Tatbestand des Verbrechens, 1840, S. 221ff. であるとされる(堀内・前掲注(2)三三頁の注(4)参照)。
(6)  ブーリー、ビンディング、ヘルシュナーらによって提唱された。Vgl. v. Buri, Verursachung und unterlasseneVerhinderung, GS 29, S. 109f., 196ff.;W. Schwarz, DieKausalitat bei dew sogenannten Begehungsdelikten durch Unterlassung, 1929, S. 43ff.
(7)  もっとも、「先行行為説」は「他行為説」が意思活動に因果の起点を求めたことを批判して、不作為自体の因果力を説明すべく展開されたし(Vgl. Krug, a. a. O., S. 30f;Mu¨ller, a. a. O., S. 317)、「干渉説」は「先行行為説」を不作為犯の可罰性を後発的故意(dolus subsequens)によって基礎づけるものであると批判して展開されたものであった(Vgl. Schwarz, a. a. O., S. 15-17, 20-24)。
(8)  また、「干渉説」や「他行為説」は、過失不作為のように干渉的な意思活動を伴わない不作為の場合の説明に窮した。Vgl. Schwarz, a. a. O., S. 35ff. それ故、裁判官でもあった「干渉説」の提唱者ブーリーは、一八七八年の論文で「干渉説」の射程と実務上の処罰の要請とのギャップを指摘し、「実務に対して権威を有しているフォイエルバッハの見解に回帰」すべきであると主張した(Buri, a. a. O., S. 111.)。もっとも、その際、フォイエルバッハの見解がそのままくり返されたわけではなかった。すなわち、ブーリーによれば、作為義務は法律上の義務であることを要するが、しかし、かならずしも法律に明白な根拠が存在するものにかぎられるわけではなく、自己の行為によって結果発生の危険を生ぜしめた者も因果関係に関する一般的な原則より演繹すれば、法律上の義務を生ぜしめる原因としての意味を持つとして(Buri, a. a. O., S. 111.)、法律、契約、先行行為の三つが作為義務の発生根拠であるとされた。
(9)  一八八四年一月一四日の判決(RGSt. 10, 101)では、契約違反の不作為について、単なる契約違反それ自体が作為義務を基礎づけるのか、損害賠償義務のみが発生し作為義務は生じないのかが争われたところ、契約上引き受けられた債務は契約当事者の法的義務を基礎づけ、その違反が「同時に刑法典に違反する違法な結果を惹起した場合」、当事者はその義務に違反する不作為とその結果に対して完全に責任を負わなければならない、つまり、「義務によって命ぜられた行為の不作為は、刑法典の意味においては可罰的作為と完全に同置される」とされた。つぎに、同年一〇月二一日の判決(RGSt. 11, 153)では、農場の納屋から穀物を窃取した三人の農奴とそれを共同所有しようという彼らの要請にもとづき彼らが窃取するのを阻止しなかった農場の管理人について、(犯罪を通報しないことや犯罪を阻止しないことのように)全くの消極的態度は原則として処罰の対象とならないが、法律上の作為義務が不作為によって侵害される場合には刑法上の意味において行為となり、事件の原因または共働原因になるとして、幇助の成立が認められた。また、一八八六年一〇月一九日の判決(RGSt. 14,362)では、住居内での事故について住居所有者の過失責任を認められるなど、いくつかの判例において、工作物、危険物あるいは住居内の出来事に対する所有者あるいは管理者等の責任が、営業令や監視権あるいは刑法一二三条において保護される住居権にもとづいて認められていった(RGSt. 16, 49, RGSt. 16, 290, RGSt. 18, 73)。もっとも、一八九一年における営業令の改正により安全配慮義務全体が緩和された結果、労災に関する過失不作為犯の成立は縮小傾向へと方向転換された(この点を指摘するのは、松宮『刑事過失犯論の研究』(一九八九)八頁)。しかし、その他、とりわけ、夫婦間や親子間における犯罪の不阻止については、家族法上の規定に依拠しつつ法の趣旨や目的から不作為犯の成立が認められていったし、先行行為にもとづく不作為犯が問題となる場合には、慣習法に義務発生の形式的根拠を求めることで不作為の処罰が基礎づけられていった。後者に関しては、一八九三年一〇月二〇日判決(RGSt. 24, 339)および一九一二年十一月十一日判決(RGSt. 46, 337)がリーディングケースと考えられている。
(10)  Vgl. K. Engisch, Die Kausalita¨t als Merkmal der strafrechtliche Tatbestand, 1931, S. 30f.
(11)  Vgl. G. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, S. 12ff. ヤコブスは、フォイエルバッハが可罰的不作為を作為と同置の不作為であるとして、二つの異なる問題を一つの問題として扱ったところに、今日の不作為犯論が錯綜した原因があるとする。
「゙50」(12)  Vgl. G. Jakobs, a. a. O., S. 18ff.;O. Clemens, Die Unterlassungsdelikte im deutschen Strafrecht von Feuerbach bis zum Reichsstrafgesetzbuch, 1912, S. 11.;Glaser, a. a. O., S. 376ff.
(13)  さらに、これらの説明によって「すべての可罰的不作為は禁止規範に違反する」と考えることは、一定の不作為については真正不作為犯として処罰規定が用意されていること、つまり、立法者が「命令規範に違反する」ような可罰的不作為を予定していることに矛盾していたと指摘するのは、松宮・前掲注(1)一六九頁、一七二頁以下。
(14)  Vgl. RGSt. 69, 321., ドイツ判例における「緊密な生活共同体」概念については、堀内捷三・町野朔・西田典之編「判例によるドイツ刑法(総論)」三一頁以下参照。もっとも、すでにライヒ裁判所による一九三二年一月四日の判決において、妊娠中の婚約者を人里離れた場所へ連れてゆき、そこで出産させ、その後、嬰児に対して必要な保護をあたえなかったために死亡させた被告人について、「人間性」、「生活習慣」あるいは「社会共同体の意思より展開された法に対する表象」を根拠に作為義務が認められていた(RGSt. 67, 72)
(15)  一九三五年には、倫理的義務違反を処罰の対象とする不救助罪(三三〇条C)も新設された。Vgl. Gu¨nter Spendel, Unterlassene Hilfeleistung, Strafgesetzbuch. LK 10. Aufl., 1988, S. 397ff.;Welzel, Zur Dogmatik der echten Unterlassungsdelikte. Insbesondere des §330C StGB, NJW 1953, S. 328ff.
(16)  この点を明確に指摘するのは、松宮・前掲注(1)一六頁他。
(17)  Nagler, Die Problematik der Begehung durch Unterlassung, GS 111, 1938, S. 55ff. また、松宮・前掲注(1)一六六頁、中森・前掲注(1)四頁。
(18)  Nagler, a. a. O., S. 60f.
(19)  それ故、「保障人」概念は白地概念としての機能を持っていたと指摘するのは、松宮・前掲注(1)一六五頁。また、「保障人」概念は、前述の「違法性説」における場合と類似した社会的観点にもとづくものであったとも指摘されている。Vgl. Rudolphi, Die Gleichstellungsproblematik der unechten Unterlassungsdelikte und der Gedanke der Ingerenz, 1966, S. 47ff.
(20)  Vgl. Nagler, a. a. O., S. 19.

 

第二章  「保障人説」の展開と限界

  「作為同置性」問題を不作為の因果力の論証によらずに解決した「保障人説」は、不作為の因果力を否定する目的的行為論者に支持されたこともあって、戦後ドイツの学説および判例に取り入れられていった(1)。一九七五年には、「保障人説」にもとづく不真正不作為犯の総則規定(刑法一三条)が施行されるに至っている。もっとも、そこに行き着くまでには、目的的行為論者により「不真正不作為は『本物の』不作為であって『命令規範』に違反する」との修正が施される(2)一方で、罪刑法定原則の観点からは、その類推的な方法や明確性についての問題性に批判が加えられた。それに伴い、「保障人的地位」と並んで「同価値性」が、「保障人説」を構成するあらたな要件として加えられた。
  本章では、このような「保障人説」の展開を追跡し、現在、「保障人説」を構成する二つの要件、すなわち「同価値性」および「保障人的地位」がいかなる役割を果たしいかなる困難に出くわしたのか、「保障人説」の展開と限界を明らかにしたい。まず、第一節では、戦後、罪刑法定原則の観点から加えられた批判に対抗すべくあらたに主張された「同価値性」要件がいかなるものであり、不真正不作為犯の総則規定の立法化作業においてどのような意義が見いだされたのか、また、それによって不真正不作為犯論にいかなる問題がもたらされたのかを示す。つぎに第二節では、第一節で明らかにした問題状況を前提に、今日までの「保障人的地位」ないし「保障人的義務」をめぐる議論の整理をおこない、「保障人説」のかかえる困難と、それを克服すべく取り組まねばならない具体的問題を示す。そして第三節では、第二節で示された問題をあらためて検討することによって、従来の「保障人説」の限界を明らかにする。  

 第一節  総則規定施行前の展開−「同価値性」要件をめぐって

  一  戦後ドイツにおける「自然法ルネッサンス」は、罪刑法定原則の再興となって現れた。罪刑法定原則の否定、国民感情という観点からの類推を許容するナチス刑法二条が削除され、一九四九年にはボン基本法一〇三条二項において罪刑法定原則が明記された。また、旧刑法二条一項においても同様の規定が置かれた(3)。このような状況をうけて、類推を積極的に認める「保障人説」に対しても、それを支持する目的的行為論に対しても、罪刑法定原則の観点から批判がむけられるようになった(4)
  これに対して、「保障人説」を維持すべく主張されたのが、「保障人的地位」であり、不作為の作為「同価値性」であった。

  二  目的的行為論の立場から「不真正不作為は命令規範に違反する」として「保障人説」を修正するとともに、「同価値性」要件を明確に主張したのは、アルミン・カウフマンであった(5)
  カウフマンはまず、ナーグラーが「不真正不作為犯は『禁止規範』に違反する」としたことを二つの点で批判した。一つは、(不真正)不作為が禁止規範の構成要件、つまり、作為構成要件に該当するとされたことに対する批判である。すなわち、ナーグラーの「保障人説」では、「書かれざる保障人構成要件」が作為犯規定に追加的に読み込まれることで、(不真正)不作為の処罰が基礎づけられる。これに対して、カウフマンは、作為犯では必要とされない「保障人的地位」という特別な要素を充足した場合にだけ不作為が作為構成要件に該当するとすれば、同一の構成要件が場合によって「保障人的地位」という要素を必要としたりしなかったりすることになるが、そのようなことはありえないと批判したのである(6)。もう一つは、「保障人」の不作為は「禁止規範」に違反するとされたことに対してである。すなわち、アルミン・カウフマンによれば規範が「禁止規範」なのか「命令規範」なのかは、規範の要求が一定の行為に出ないことなのか出ることなのかという規範対象の構造による区別であるとされる。そして、不真正不作為犯では一定の行為に出ることが要求されており、その行為に出ないという不作為が犯罪を構成するのだから、不真正不作為は「命令規範」に違反するのであって、「禁止規範」に違反するのではないとしたのである(7)
  このようにナーグラーを批判して、カウフマンは「保障人説」を修正した。つまり、不真正不作為犯は「不作為犯の真正な場合」であって、作為犯の構成要件とは独立の「書かれざる不作為犯の構成要件」、すなわち、「保障人命令の構成要件」に該当すると改めた。そして、「不真正」不作為犯は、構成要件が法規によって類型化されていない不作為犯であるという点において「不真正」であり、その把握と限界づけが法政策的に困難で法治国家的にみて疑わしい場合をいうと主張した(8)
  もっとも、右のように修正された場合、「保障人説」の類推的方法はいっそうあからさまになる。それ故、不真正不作為犯の構成要件を確定するにあたり、何らかの方法でそのような類推の範囲を制限できないかが問題となる。そこで主張されたのが「同価値性」要件なのである。すなわち、カウフマンは、不真正不作為犯の構成要件を確定するには、法益侵害を処罰する作為構成要件および法益侵害の防止を内容とする法的命令が存在すること(「保障人的地位」)に加えて、そのような法的命令の違反が作為と同程度の違法性および責任を持つこと、したがって不作為が作為と同程度の当罰性(Strafwu¨rdigkeit)を持つことが必要であるとし、この当罰性の同等こそ本来の(eigentlich)同置問題であって、保障関係の存否はこの要件によって決まるとしたのである(9)
  こうして、ナーグラーが「保障人的地位」の存否に一括した二つの機能、すなわち、(1)結果回避義務に違反し、処罰の対象となる「可罰的不作為」の根拠を示す機能と、(2)当罰性の程度が作為と同等の不作為であり、作為と同等に扱われてもよいという「作為同置性」の根拠を示す機能とが、アルミン・カウフマンによって「保障人的地位」および「同価値性」という二つの要件にふり分けられた。そして、「保障人的地位」にあるか否かによって当該不作為が処罰の対象となるかどうかを判断することとは区別して、当該不作為の当罰性ないし可罰性の程度が作為と同等であるかどうかを判断することによって、「保障人的地位」の類推にもとづく処罰を、その不作為が作為と同等に当罰的である場合、すなわち、「同価値」である場合に制限したのである。それ故、「同価値性」は、「保障人説」による「同置」の基準であった。要するに、「保障人説」が特定の各則規定の趣旨を類推することで作為と不作為とを同置しても(=同等に処罰しても)、作為と不作為との「同価値性」という「本来の」同置性が認められるのであればかまわないとされたのである(10)。いいかえれば、「同価値性」要件によって、「可罰的不作為の範囲」に加え「許される類推の範囲」が示されたのである。
  以上のようなカウフマンの主張は、直接的には、刑法改正作業における「保障人説」の立法化を意識してなされたものであった(11)。カウフマンがその見解を明らかにした時期、学説では、一九五六年草案における不真正不作為犯の一般規定に対して、その修正ないし削除が主張されていた。そのような状況の中で、「保障人的地位」の要件(義務の根拠)とは区別された「同価値性」要件の機能は脚光を浴び、一九六〇(六二)年草案第一三条において採用され、一九七五年施行の刑法総則一三条にまで引き継がれた。以下では、そのような刑法改正作業の状況も考慮して、今日の不作為犯論の前提となっている二つの要件の意義は何であったのか、その導入によって「保障人説」に何がもたらされたかを、あらためて検討することにしたい。

  三  まず、一九五六年草案におかれた不真正不作為犯の処罰規定は、つぎのようなものであった。

 「第一三条(不作為による遂行)  (1)  結果の回避をなさなかった者は、法規により結果防止を義務づけられ、且つ、事情上結果の不発生を保障しなければならなかった場合に限り、これを作為により結果を招来した正犯者または共犯者と構成要件該当の側面で同等とする。
  (2)  結果防止義務は、自己の挙動によって結果発生の高い蓋然性を招来した者、または、切迫した結果を発生させない保障を引き受けた者にも、また、存在する(13)。」

  このように、一九五六年草案の規定は、「事情上結果の不発生を保障しなければならなかった場合」にだけ不真正不作為犯の成立を認めている点で、「保障人説」の立場をとるものであった。そしてこれに対しては、(1)「保障人説」ではまさしく「保障人的地位」そのものが結果防止義務の根拠なのではないか、(2)「事情上」という「保障」の要件からは評価の基準が何も与えられないのではないか、(3)草案一三条は結果防止義務の発生事由を制限的に列挙しているが、結果防止義務はそれ以外の事由からも発生しうるし、また、そのような事由があっても発生しない場合もあるのではないか、(4)作為犯の規定から不真正不作為犯の成立を認める場合には、作為犯の規定における行為態様の差異が「結果の不回避」に均等化される結果、構成要件の意味がつくりかえられてしまうのではないか、などの批判が加えられた(14)
  これらの批判に対して、アルミン・カウフマンの主張の意義は、つぎの点にあった。すなわち、不真正不作為は「不作為構成要件」に該当するとした上で、その構成要件の確定において「同価値性」を要件とすることで、(書かれざる)保障人構成要件要素を制定法で具体的に記述するようなむりをせずに、作為構成要件における侵害行為の多様性に応じうる構成要件該当性についての基準をあたえることができる点である。
  こうした「同価値性」要件の意義は、一九五六年草案への批判とともに、他の学説においても自覚されるようになっていった(15)。そして刑法大委員会第二読会においては、ガラスがその導入を求める提案をなし、採択された(16)。その結果、一九六〇(六二)年草案では、不真正不作為犯規定はつぎのように修正された。

  「第一三条(不作為による遂行)  刑罰法規の構成要件に属する結果の回避をなさなかった者は、結果の不発生を法的に保障しなければならず、且つ、その挙動が事実上作為による法定構成要件の実現と同価値である場合には、これを正犯者または共犯者として罰する。」

  このように六〇(六二)年草案では、「保障人的地位」が結果回避義務の根拠として規定されるとともに、義務の発生事由を列挙することはやめて、「同価値性」があらたな要件として加えられた。このように修正された本規定について、一九六二年ドイツ刑法草案理由書(17)ではおおむねつぎのように述べられている。
  理由書では、まず、刑法には、作為によって実現される構成要件だけでなく、不作為によって実現される構成要件も存在するが、法規が構成要件に該当する挙動として明瞭に不作為を記述していない場合であっても不作為犯は成立することが指摘される。しかし、各則の構成要件は作為による遂行を対象として規定されているため、重婚(一九四条)のように不作為で犯すことのできない犯罪行為もあれば、不作為による構成要件の実現では不法内容が十分ではない場合もあり、不真正不作為犯については一般的な法律上の規制が必要になるとされる。そして、この規制によって「構成要件に該当する結果の不回避が誰に帰責されるのか(保障人の問題)、また、いかなる場合にそのような不作為が作為による構成要件の実現と同等にあつかわれるべきか(同価値性の問題)についての基本原則と基準があきらかになる。この問題を取り扱っているのが一三条である」とされる。そしてこの規制は、「実務を確固とした基盤の上に立たせ」、「刑罰構成要件の法律上の明確性の原則(基本法第一〇三条第二項)について繰返し表明されてきた疑問を除去するという法治国家的諸根拠から推賞される」と述べられる(18)
  このような規定の趣旨のもと、「保障人的地位」および「同価値性」要件については、以下のように説明される。まず、「保障人的地位」は、単なる作為義務および活動命令があるというだけでは不作為の可罰性が基礎づけられないことを示すものであり、不作為の処罰範囲を画する要件である、とされる。そして「保障人的地位」の存在する場合を列挙することについては、それらを確定的に挙げることは、法文に必要とされる簡潔さの点からも「もともと達成しがたいものと考えられる」とされる。また、これに関しては、とりわけ、先行行為および引き受けの場合に「保障人」の義務の詳細な要素を明瞭にすることは判例の発展にゆだねられねばならず、そのためここでは、「保障人的地位」が実質的な制限となると説明される(19)
  つぎに「同価値性」要件については、「この要件は、特別諸構成要件の不法が所為に内在する法益侵害およびこれによって招来される結果によってのみならず、構成要件の上で前提とされる所為行為の特色によっても特徴づけられるという思想にもとづくものである」とされる。そして、各則ではそれぞれの構成要件の特別な行為要素によって不法評価も変化するため、不作為による遂行の場合には不法評価がどのように考慮されるべきかという問題が生ずるが、その解決にこの要件が必要であることが、売春仲介の構成要件を例にして説明される。すなわち、売春仲介の構成要件は、行為者が「自己の仲立によって、または機会を保障することもしくはこれを供与することによって他人とのわいせつ行為を助勢する」ことを前提とする(二二六条)ところ、わいせつ行為を阻止しない者は、その不作為によって彼が助勢したのと同様の結果を招来するが、単なる不作為は、二二六条のいう「助勢」と常に同等とされるわけではなく、介入が期待されるべき特殊な事情のもとにおいてのみ「助勢」と同等とされると述べられる。さらに、不作為の処罰範囲を拡張しすぎる判例の傾向については、不作為が作為と不法の点で同等であるのかどうかその検討に関してかならずしも必要な注意を払ってこなかったことに原因があるとされ、それ故、不真正不作為犯の場合には「不法評価においてその不作為が作為による遂行と同じ重さであること」が必要であると説明される(20)
  また、つぎのようにも述べられる。すなわち、草案は不作為による従犯の可能性を認めているが、不作為の正犯者であるか共犯者であるかは、一般的な区別の要素および「同価値性」の観点を基準にして判断されると述べられる。そして、故意に行為する第三者の作為によって招来される結果を不作為によって防止しない場合は、原則として、作為による従犯と「同価値」であるとされる(21)
  さらに、「同価値性」の判断については、構成要件の特別な行為要素だけでなく、個々の事案についての全事情も考慮して総合的評価によりなされるものであるとされる。それ故、従来判例が作為の期待不可能性によって処理してきた事案では、「同価値性」の考慮によって構成要件該当性が否定されると説明されている(22)
  以上からすれば、「保障人的地位」および「同価値性」で構成される「保障人説」の立法化においては、(1)作為犯規定による不作為犯の成立を許容し、かつ、それが許される場合を明確にして罪刑法定原則に対応することに加え、(2)判例における処罰範囲を制限することが意図されていたといえる。それ故、ここでは草案理由書のいう「拡張しすぎ」た処罰範囲を示す判例とはいかなるものであったかを明らかにせねばならない。もっとも、草案理由書では、判例における処罰範囲の広さが何度か指摘されてはいるものの、刑法改正作業の中で具体的に判例が挙げられて論争されたという形跡はとくにみあたらない。そこで、この時期に学説で議論されていた判例と、理由書が意識していた事案等とを照らし合わせてみると、つぎの四種のものが浮上してくる。すなわち、(1)不作為による偽証幇助を認めた判例、(2)自殺を黙認して阻止しなかった場合に、不作為による殺人罪の成立を認めた判例、(3)不作為による「重いわいせつ行為の周旋」を認めた判例、(4)泥酔した運転手の運転を阻止しなかった場合に、不作為による殺人罪の成立を認めた判例である。
  (1)に類別される判例は、戦前においても多くみられたものである。ライヒ裁判所は、妻の偽証を阻止しなかった夫に対して、民法一三五三条を根拠に、不作為による偽証幇助の成立を認めたり(RGSt. 74, 285〔1940. 9. 16〕)、姦通した夫が、その後の離婚訴訟において、愛人である証人が不貞関係の存在について虚偽の供述をするのを阻止しなかったという場合に、妻の主張に対して真実に反して争うことで証人を虚偽の供述をおこなう危険に陥れたとして、その夫を不作為による偽証幇助で処罰したりしていた(RGSt. 75, 271〔1941. 6. 26〕)。戦後、連邦裁判所は、偽証を阻止すべき義務を、訴訟当事者が訴訟追行上の措置だけでなく、訴訟外の挙動によっても偽証の特殊な危険を基礎づけた場合に制限しようとする傾向をみせた(BGHSt. 2, 129〔1951. 12. 21〕;BGHSt. 4, 327〔1953. 8. 20〕)ものの、やはり多くの不作為に偽証幇助の成立を認めている。事案は、離婚訴訟において証人の偽証を阻止しなかった訴訟当事者の責任を問うたものが多いが(Vgl. BGHSt. 1, 22〔1951. 1. 9〕BGHSt. 3, 18〔1951. 10. 11〕BGHSt. 2, 129〔1951. 12. 21〕;BGHSt. 14, 229〔1960. 4 . 29〕;BGHSt. 17, 321〔1962. 4. 6〕)、それ以外にも、夫婦間の偽証阻止義務を「生活共同体」によって根拠づけ、別居離婚状態にある場合には阻止義務を認めないとしたもの(BGHSt. 6, 322〔1954. 10. 15〕)などがみられる。
  (2)に属される「自殺関与」の事例は、一九五二年に最初の判決(BGHSt. 2, 150〔1952. 2. 12〕)がだされて以来、ドイツの学説においてもっとも議論されているテーマの一つとなっているものである。その発端となった一九五二年連邦裁判所判決は、おおむねつぎのようなものであった。夫婦間の不和等を苦にした夫が首つり自殺をはかり、すでに意識を失っていたがまだ救助ができたというときに、その場に来て夫の状態を知ったが、そのまま放置して夫を死に至らしめた妻に対して、@婚姻共同体にもとづく義務があり、A「事象についての完全な支配もしくは大部分の支配」を有しており「干渉することによって決定的な転回をあたえる」ことができたことを根拠に、不作為による殺人罪または過失致死罪の成立を認めたというものである。本判決を契機に、連邦裁判所は、婚約者の自殺を不注意によって防止しなかったという場合にも、不作為による過失殺の成立を認める判決をだしている(JR 1955, S. 104〔1954. 9. 2〕)。また、一九五六年には、失恋した女性が劇薬を飲んで自殺をはかった時、知らせを受けてその場に駆けつけた男性が、その女性の懇願により十分な救助措置を尽くさなかったために死亡させた事案について、男性がその女性とかつて恋人同士であり、自殺の動機が彼に対する失恋という先行行為にあるとして、彼を過失致死罪で処罰している(BGH JR 1956, 347〔1956. 5. 8〕)ほか、一九六〇年にも、婚約者の自殺を阻止しなかった女性に対し、男性が自殺行為をした後は完全かつ単独の行為支配および「正犯者意思」を有していたとして、不作為による殺人罪を成立させている(NJW 1960, S. 1821,〔1960. 7. 5〕)。もっとも、その一方で、姑の自殺を傍観していた婿について、姑の死は姑自身によってひきおこされたのであって、婿はその事情を支配しようとしなかったのであるから「正犯者意思」が欠けるとして、不作為による嘱託殺人罪の成立を否定して、緊急救助義務違反(旧三三〇条C)で処断しているものもある(BGHSt. 13, 162〔1959. 5. 15〕)。
  (3)に属する判例は、しばしば「住居所有者」あるいは「親子間」の犯罪阻止義務(23)の問題として扱われるものである。もっとも、「同価値性」要件との関係で重要なのは、猥褻行為の周旋という事案の行為態様であり、その構成要件である。この時期、連邦裁判所は、同居の娘と婚約者との性交を黙認して阻止しなかった母親について、婚約者間の性交は婚姻の本質に反し原則として猥褻行為にあたるのであり、親には娘の猥褻行為を防止すべき法的義務が認められるとして、不作為による重い猥褻行為の周施(旧一八一条)罪の成立を認めている(BGHSt. 6, 46〔1954. 2. 17〕)。
  (4)は、先行行為にもとづく不作為犯の成立範囲をめぐって、とりわけ、先行行為のいわゆる「義務違反性」要件との関連で議論されているものである(24)。議論のきっかけとなった一九五三年の連邦裁判所の判決(BGHSt. 4. 20〔1953. 1. 22〕)は、酒場の経営者が自動車の運転手にアルコールを販売し、当該運転手の酩酊運転により交通人身事故が生じたという事案について、「酒の販売により惹起されるであろう有害な結果発生に対する条件が作用しないようにできるかぎりのことを法的に義務づけられている」として、経営者に過失致死傷罪の成立を認めた。また、一九五八年四月二四日の判決では、一緒に飲み歩いた飲酒仲間には、一緒に飲み歩いたことを根拠に酩酊した仲間による自動車の運転を阻止すべき義務や、酩酊し人事負傷に陥った仲間を介抱する義務を基礎づけられることはないとされた一方で、交通警察官という地位にある者にとってはそうではないとされた。さらに、一九五七年には、飲酒のうえ自動車を運転中、歩行中の七歳の少年を道路の側溝にはね飛ばし、重傷を負わせたにもかかわらず救護措置をとらずに逃走したために少年を死亡させたという被告人について、故殺の責任が認める判決がだされている(BGH VRS 13, 120〔1957. 5. 14〕)。
  以上、理由書が問題としていたとおもわれる判例の状況を概観すれば、結局のところ、問題は、他人の犯罪ないし自殺を阻止しなかった者の取り扱いにある。つまり、そのような不作為は可罰的なのか、それも正犯としてか共犯としてかである。それ故、草案では、とりわけ(不真正)不作為における正犯と共犯とを区別し、少なくとも正犯の成立を排除することが意図されていたと考えられる。草案の基礎となる提案をなしたガラスは、(2)の「不作為による自殺関与」をめぐる連邦裁判所判決に対する論評において、不作為がその内容において作為の正犯と「同価値」であるときに正犯、作為の共犯と「同価値」であるときに共犯を認めようとする立場を示すとともに、故意の作為正犯が存在する場合にはその行為支配が優越するとして、不作為者は原則として幇助にとどまるべきであるとの帰結を導いている(23)。そして理由書も、不作為による正犯または共犯を区別する機能を「同価値性」要件に見いだしているのである。
  したがって、立法論としての「保障人的地位」および「同価値性」要件の意義をくり返すならば、それは、第一に、罪刑法定原則の要請に応えること、第二に、不作為における正犯と共犯との区別による処罰範囲の制限であったといえる。具体的には、「保障人的地位」の機能は、負責されるべき不作為の基準を示すことにあり、「同価値性」要件の機能は、負責されるべき不作為が作為犯規定で処罰されうる不作為かどうかの基準を示すこと、そのかぎりで、「保障人的地位」にもとづく「同置」の基準を示すことであった。それによって「明確性」および「法律主義」という罪刑法定原則の要請に対応することが意図されていた。さらに、「同価値性」要件の機能は、それによって「同置」を徹底することで、不作為による正犯と共犯とを区別することであった。そこでは不作為正犯の成立範囲を狭めることが意図されていた。
  しかし、いずれの機能にも問題があった。第一の機能については、とりわけ「同価値性」要件が「保障人的地位」にもとづく「同置」の「明確な」基準を示すものではない点に問題があった。たとえば、一九六二年草案をめぐる論争においてバウマンやロクシンが述べたように、「同価値性」要件は「よるべき尺度に欠けている」のであり、かりに「保障人的地位」の要件に追加される要件として「同価値性」要件が取り入れられたとしても、それは法治国家的に明確な限界づけには役立つものではない(26)のである。また、後にフロイントが評するように、「同価値性」要件を作為同置の基準としても、それによって「同価値のものが同一に評価されるというトートロジー」が示されるにすぎず、そこから同置の条件である保障人的義務の根拠を読み取ることはできない(27)のである。
  同様に、不作為による正犯と共犯の区別という第二の機能にも難点があった。というのも、「保障人説」を支持する目的的行為論者が、一般に、不作為による共犯の成立を否定する(28)ように、不作為犯において正犯と共犯とを区別すること自体が争われているからである。

  四  しかし、このような問題を抱えた「保障人説」にもとづく総則規定(一九六〇・六二年草案の不真正不作為犯規定)は、その後、一九六六年対案を基礎に、(1)「同価値性」要件の表現が「準ずる(entsprechen)場合にかぎり」に変更され、(2)「正犯者または共犯者として罰する」という部分から「正犯者または共犯者」という文言が削除され、(3)刑の裁量的減軽規定が追加されるなどの修正をうけながらも、基本的な構造を大きく変化させることはないまま引き継がれ、一九七五年施行の新総則に至った。新総則では、つぎのような不真正不作為犯規定が設けられたのである。

  「第一三条(不作為による遂行)  (1)  刑罰法規の構成要件に属する結果を回避することを怠った者は、その者が結果の発生しないことを法的に保障しなければならず、かつその不作為が作為による法律上の構成要件の実現に準ずる場合にかぎり、その法規によりこれを罰する。
  (2)  その刑は、第四九条第一項により、これを減軽することができる。」

  もっとも、「同価値性」要件の理解にあたっては、新総則における修正はいずれも無視できるそれではあり得ない。まず、その表現の変更((1)の修正)および減軽規定の追加((3)の修正)については、それが「同価値性」要件の内容の変更を意図しているのか、また「同価値性」要件と刑の裁量的減軽は矛盾しないのかという疑問(29)が生ぜられる。さらに「正犯者または共犯者として」という文言が削除されている((2)の修正)ことについては、新総則における「同価値性」要件の機能が、それによって正犯と共犯との区別をなそうとした六〇(六二)年草案の場合とどのくらい異なるのか、問題である。
  しかし、これらの点について刑法特別委員会の「報告書」は、かならずしも十分な説明を示していないのである。まず、「準ずる」という「中立的な」表現を採用した理由については、作為による構成要件の実現と同等でなければならないという点に固執すると、通常作為による結果の実現よりも重大さの少ない不作為について、刑を減軽する余地がなくなってしまうからであるとするだけである。また、「正犯または共犯として」という文言を削除したことについては、不作為犯においては正犯と共犯との区別がそもそも可能であるかどうかという学説上の論争問題に介入しないためである、との説明にとどまっている(30)。これに関連して、判例における処罰範囲の制限をくり返し主張していた六二年草案理由書とは異なり、「報告書」には、新総則によって不真正不作為犯の成立を拡張しすぎている判例の傾向を限定しようとする意図は、とくに見あたらない。
  結局のところ、新総則規定は、「保障人的地位」および「同価値性」要件によって不真正不作為犯の成立を基礎づけようとしている点で六〇(六二)年草案と同様の構造を示しながら、「同価値性」要件についてはその機能をむしろあいまいにした結果、処罰範囲の「法治国家的に明確な限界づけ」という問題は、いっそう困難をともなうものとなった。また、「不作為による正犯と共犯の成立範囲の画定」という問題についても、不作為による共犯の成立そのものから、さらに議論されねばならなくなった。
  もっとも、「保障人的地位」あるいは「同価値性」という要件は、もともとは「保障人説」が「類推」を正面から認めたことにむけられた批判を緩和すべく主張されていたものである。この点、「保障人説」にもとづく総則規定が施行されたことにより、一定限度での「類推」が許容されることについては、もはや争う必要はなくなった。その意味で、総則規定の施行によって、不真正不作為犯論が、いまや「法律主義」からの疑問を回避しうる点には、「保障人説」の成果を見いだしうるともいえる。しかしそうであったとしても、総則規定によって許容される「類推」の範囲は、不明なままなのである。それ故、総則規定施行後も、不真正不作為犯論は、「明確性原則」の観点からいぜんとしてその成立根拠と範囲の問題に悩み続けねばならなくなったのである。
  次節では、「保障人説」にもとづく総則規定のもと、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の発生根拠をめぐって、不作為犯論がどのように展開されていったかを追跡することにしたい。

 

(1)  中森喜彦「保障人説について」法学論叢八四巻四号(一九六九)一〇頁注@参照。なお、目的的行為論に立ちながらも、「保障人説」の立法化については反対していたのは、G. Gru¨nwald, Zur gesetzlichen Regelung der unechten Unterlassungsdelikte, ZStW 70, 1958, S. 413ff.
(2)  Vgl. Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 240.
(3)  堀内捷三『不作為犯論』(一九七八)六〇頁。
(4)  まず、「保障人説」を含め、不作為犯の可罰根拠を作為義務の存否に求めている判例および学説の主張は罪刑法定原則に反しているのではないかという疑問が、ヘルムート・マイヤーによって提示された。彼は、たとえば「保障人説」では、「保障人的義務」のある者の不作為が処罰の対象とされるが、その義務は犯罪構成要件に明記されておらず、実定法の根拠を欠く慣習法に求められることを指摘した。そして、そのような「保障人的義務」を認めることは構成要件の拡張であって、その義務に反する不作為を処罰することは、作為犯の犯罪構成要件の類推適用にほかならないと批判した(Vgl. Hellmuth Mayer, Strafrecht AT, 1953, S. 118f.)。また、「保障人説」を支持する目的的行為論者に対しては、彼らによれば「行為ではない」(不真正)不作為を、「保障人説」によって「行為」を前提とする作為犯規定で処罰することは、「犯罪は行為である」とする規定(刑法一条)に違反する、との批判がむけられた(Vgl. Baumann, Strafrecht AT, S. 227.)
(5)  Armin Kaufmann, a. a. O. このモノグラフィーにおけるアルミン・カウフマンの主張については、以下の諸文献で詳しく紹介されている。中森喜彦「保障人説について」法学論叢八四巻四号(一九六九)一一頁以下、同「不作為犯論と逆転原理(一)(二)(三)」法学論叢一〇七巻五号、一〇八巻四号、一〇九巻四号一頁以下、金沢文雄「不作為の構造」広島大学政経論叢一五巻一・二号(一九六五)、同「不作為の因果関係」広島大学政経論叢一五巻四号(一九六六)、同「不作為犯における故意および過失」広島大学政経論叢一六巻五・六号(一九六七)、同「不真正不作為犯の問題性」佐伯千仭博士還歴祝賀『犯罪と刑罰(上)』(一九六八)二二四頁以下、荘子邦雄「目的的行為論と不作為犯」法律時報三三巻七号(一九六一)二〇頁以下。
(6)  Armin Kaufmann, a. a. O., S. 251ff.
(7)  a. a. O., S. 256ff.
(8)  a. a. O., S. 274f.
(9)  a. a. O., S. 283ff.
(10)  一定限度で罪刑法定原則の矛盾を許容してもかまわないとするのは、Welzel, Das deutsche Strafrecht, 1l Aufl. S. 195, 209f. ヴェルツェルは、制定法の構成要件の中で不真正不作為犯が成立する状況をすべて書き表すのは技術的に不可能であるとして、罪刑法定原則の内在的限界を主張している。
(11)  アルミン・カウフマンは、「保障人的義務」に違反する不作為が作為犯の構成要件を充足するということを明確に定めたとしても、保障人による結果回避命令の侵害は、結果の惹起を包括している当該禁止構成要件を充足するのではないとして、作為犯の構成要件に「保障人的地位」というメルクマールを付け加えることで作為犯と不作為犯とを同置する一九五六年草案を批判しているようである(Armin Kaufmann, a. a. O., S. 251ff., 273.)
(12)  「保障説」の立法化の過程についてもすでに以下に挙げる諸文献でとりわけ詳しく紹介されている。宮澤浩一『刑法の思考と論理』(一九七五)一八頁以下、内藤謙『刑法改正と犯罪論(下)』(一九七五)四三二頁以下、堀内・前掲注(3)一一八頁以下。
(13)  訳文は、斉藤金作「一九五六年ドイツ刑法総則草案」早稲田大学比較法研究所紀要第三号を引用した。なお、内藤・前掲注(12)四三二頁。また、一九五六年草案については Vgl. Entwurf des Allgemeinen Teils Strafgesetzbuchs nach den Beschlu¨ssen der Grossen Strafrechtskommission in einer Lesung mit Begru¨ndung 1956, S. 20f. これについては、斉藤金作「一九五六年ドイツ刑法総則草案理由書(上)(下)」早稲田大学比較法研究所紀要第四号、五号参照。
(14)  Vgl. Niederschriften U¨ber die Sitzungen der Gro βen Strafrechtskommission 12. Bd., 1959, S. 475f., Gru¨nwald, a. a. O., S. 419ff. S. 424., Welzel, a. a. O., S. 195;ders., Zur Problematik der Unterlassungsdelikt, JZ, 1958, S. 495. 宮澤・前掲・七七頁以下、内藤・前掲・四三三頁以下。
(15)  Vgl. H. Henkel. Das Methodenproblem bei den unechten Unterlassungsdelikte. Msc hrkrim 1961, S. 178f. 184ff.
(16)  Niederschriften 12. Bd., S. 478ff. なお、宮澤・前掲注(12)八九頁以下、内藤・前掲注(12)四四五頁注(5)、堀内・前掲注(3)一四二頁以下に詳しく紹介されている。
(17)  Entwurf eines Strafgesetzbuchs(StGB)E 1962 mit Begru¨ndung.(法務省刑事局訳「一九六二年ドイツ刑法草案理由書」刑事基本法令改正資料一〇号)サ
  なお、一九六〇(六二)草案と一九五六年草案との相違は、本文で挙げた点のほかに、一九六〇(六二)草案では刑の裁量的減軽が規定されていない点が挙げられる。刑の裁量的減軽を規定することは、アルミン・カウフマンをはじめ多くの学説によって主張されていたが(Vgl. Armin Kaufmann, a. a. O., S. 300ff;Gru¨nwald, a. a. O., S. 107. その他、アルミン・カウフマンの前掲書三〇一頁の注に挙げられている各文献)、「同価値性」要件と矛盾するのではないかとの疑問がよせられたことにより、削除された(Vgl. Niederschriften 12. Bd., S. 244.)。
(18)  E 1962, Begru¨ndung. S. 124. 前掲理由書九四・九五頁。
(19)  E 1962, Begru¨ndung. S. 124. 前掲理由書九六・九七頁。
(20)  E 1962, Begru¨ndung. S. 125. 前掲理由書九七・九八頁。
(21)  E 1962, Begru¨ndung. S. 126. 前掲理由書九八・九九頁。このように述べて理由書は、たとえば、泥棒が工場の構内から物を盗むことを仕遂げさせようとする見張りは「保障人」であるが、その不作為は窃盗の幇助と同置であるとする。なお、このような事案を扱った判例としては、一八八四年一〇月二一日のライヒ裁判所判決(RGSt. 11, 153)がある。
(22)  E 1962, Begru¨ndung. S. 125. 前掲理由書九八頁。
(23)  Vgl. C. Landscheid, Zur Problematik der Garantenpflichten aus verantwortlicher Stellung in bestimmen Raumlichkeiten, 1985. なお、この問題をめぐるドイツでの議論を紹介したものとして、岩間康夫「住居所有者の保障人的義務について−(西)ドイツにおける議論を素材に−」愛媛法学会雑誌一六巻三号(一九八九)三一頁以下がある。
(24)  「義務違反性」要件をめぐっては、ここで問題となっているように、第三者が日常行為によって侵害者による侵害結果の創出の原因をつくった者の作為義務のほかに、正当防衛によって侵害者に負傷させた防衛者の作為義務、自動車運転など、適法な許された危険な行為(先行行為)によって通行人に負傷させた者の作為義務などが問題となる。一九八〇年代ごろからBGHでは、これらの場合は先行行為に(違法性や過失などの)「義務違反性」が認められないとして、不真正不作為犯の成立が否定されるようになっていったが、無過失でなされた欠陥製品の製造・販売行為を根拠に、製品回収の不作為を処罰した「革スプレー判決」(BGHSt. 37・106)が出されて以来、先行行為にもとづく不作為犯の成立を「義務違反性」要件によって制限することには疑問がもたれるようになっていった。
(25)  Vgl. JZ. 1952. S. 372., Gallas, Strafbares Unterlassenim Fall einer Selbstto¨tung, in Beitra¨ge zur Verbrechenslehre, 1968, S. 186ff.
(26)  Baumann, Strafrecht Allgemeiner Teil, 3. Aufl., 1964, S. 219., Roxin, Literaturbericht, Allgemeiner Teil, ZStW. 78. Bd., 1966, S. 246f.
(27)  G. Freund, Erfolgsdelikte durch Unterlassen, 1992, S. 1, 43f.
(28)  Armin Kaufmann, a. a. O., S. 186ff., 291ff., Gru¨nwald, Die Beteiligung durch Unterlassen, GA, 1959, S. 110ff., Welzel, a. a. O., S. 115.
(29)  六二年草案理由書によれば、六二年草案は、この点を理由に刑の裁量軽減規定を設けなかった。E 1962 , Begru¨ndung. S. 126. 前掲理由書九九・一〇〇頁。
(30)  Zweiter Schriftlicher Bericht des Sonderausschusses fu¨r die Strafrechtsreform, Drucksache V/4095, S. 8、内藤・前掲注(12)四八四頁以下。

本稿は、平成10年度(1998年度)および平成11年度(1999年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。