立命館法学 1999年1号(263号) 185頁(185頁)




必要的共犯についての一考察(1)

豊 田 兼 彦


は じ め に

第一章  必要的共犯学説の検討
  第一節  わが国の必要的共犯論
    一  戦前の学説
    二  戦後の学説
    三  小    括
  第二節  最近のドイツにおける必要的共犯論の概観
    一  現在の学説状況
    二  共犯の処罰根拠論の役割とその限界
  第三節  小    括    (以上本号)

第二章  法益保護の欠如により特定の者の関与行為が不可罰とされる犯罪
  第一節  問題の所在
  第二節  被害者の関与をともなう犯罪
  第三節  特定の者を構成要件から除外している犯罪
          −犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪−
  第四節  小    括

第三章  周辺的な関与行為が不可罰とされる犯罪
  第一節  問題の所在
  第二節  ドイツにおける「必要的共犯の理論」
  第三節  あらたな解決
  第四節  小    括

第四章  第三者的共犯
  第一節  問題の提起
  第二節  解決の方法

むすびにかえて



は  じ  め  に


  「必要的共犯」は今や刑法学の一般用語として完全に定着しているといってよい。しかし、これを独立かつ詳細に検討した文献は、わが国ではそれほどみあたらない状況にある(1)。本稿は、この共犯論の特殊領域(2)ともいえる必要的共犯にスポットをあて、そこに残された未解決の問題を扱おうとするものである。
  必要的共犯の問題の焦点は、片面的対向犯にあるといってよいであろう。片面的対向犯とは、構成要件実現のために数人の向かいあう関与者の行為が必要な犯罪(対向犯)のうち、立法者がそのうちの一方にしか処罰規定を置いていない場合のことである(3)(4)(わいせつ文書販売罪などがこれにあたるとされている)。ここでは、犯罪成立に必要な向かいあう関与行為のうちの一方について立法者は沈黙しているので、これについて、共犯規定の適用の可否、あるいは適用の範囲が、実際的な問題として(5)問われることになるのである(6)。必要的共犯の問題が「『共犯とは何か』という問題の一側面(7)」であるといわれるのは、そのためである(8)。ところで、片面的対向犯の問題は、正犯として処罰されない者について共犯の成否を問うものである、という見方もできる。そこで、自ら逃げ隠れしても処罰されない犯人が、自己の蔵匿を他人に教唆した場合に、犯人蔵匿罪の教唆犯として処罰されるのか、という問題も、それとの関連で論じられている。同じことは、犯人による証拠隠滅の教唆についてもいえる。
  このような問題に対して、学説はこれまでにいくつかの解答を用意してきた。なかでも、最近では、不処罰の根拠を違法性、有責性といった実質的な観点に求める見解(9)が有力になってきている(10)。そこでは、わいせつ文書の買主は被害者であり、その行為には違法性がないから不可罰であると説明され(11)、自己の蔵匿や証拠隠滅を教唆する犯人については、正犯として期待可能性がない以上共犯としても期待可能性はないから不可罰である、と説明されている(12)
  しかし、被害者であるから不可罰であるという説明は、社会的法益を保護する犯罪には使えない。被害者とはいえないからである(13)。同じ問題は、個人的法益と社会的法益の両方を保護していると解される犯罪についても生じる。社会的法益との関係では被害者ではないからである(14)。もちろん、このような場合はすべて共犯として処罰されるとするのも一つの考え方ではある。しかし、それでは、これらの場合にも不処罰の領域を認めている判例の立場(15)と矛盾してしまう。刑事政策的にみても、はたしてそこまで処罰することが妥当であるか、疑問なしとしえないであろう(16)。また、犯人による自己蔵匿の教唆は期待可能性がないから不可罰であるとの説明も、期待可能性はあるとする反対説(17)に対しては十分な説得力をもちえない。かりにこの点はおくとしても、同じ行為が虚偽犯罪の申告(軽犯罪法一条一六号)で処罰されうることを説明できない(18)。これらのことを考慮に入れるならば、被害者の地位や期待不可能性とは別の観点から、あらたな理論構成を考えてみる必要があるように思われる。
  また、必要的共犯(対向犯)に対する第三者の関与(第三者的共犯)の問題も、さらに解明される必要がある。これについては、「外部的関与者には、当然総則の共犯規定の適用がある(19)」とか、「対向者以外の第三者が、対向犯のいずれか一方の共犯になり得ることはもちろんである(20)」と述べられる程度で、それ以上の議論はなされていないようである。しかし、「当然総則の共犯規定の適用がある」とするのでは、たとえば、出資法三条(浮貸し等の禁止)に違反する融資の媒介を手伝った第三者を不可罰とした下級審の判例(21)を説明できないし、「いずれか一方の共犯になり得る」とするだけでは、いずれの共犯になるのかという問題は残されたままである(贈収賄罪のように法定刑に差のある対向犯の場合に実際的な問題が生じる(22))。
  そこで本稿では、先行研究の存在するドイツの議論を参考にしながら、必要的共犯をめぐる以上の諸問題に考察を加え、その解決の方向を探ってみたいと思う(23)。まず、第一章では、現在の必要的共犯論に残された課題を具体的に明らかにするために、わが国の必要的共犯学説を分析・検討し、あわせて最近のドイツの必要的共犯論を概観する。ついで第二章、第三章では、第一章で設定された問題領域区分にしたがって、片面的対向犯および犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆の問題をとりあげ、それぞれについて、被害者の地位や期待不可能性とは違った観点から、不処罰根拠の解明と不処罰範囲の明確化を試みる。ここでは、とくに、他人の利益や社会的法益を侵害する片面的対向犯(他者侵害的な片面的対向犯)をめぐって困難が予想されるが、これについても、あらたな観点からの試論を展開する。そして最後に、第四章では、これまでほとんど議論されてこなかった必要的共犯(対向犯)に対する第三者の関与(第三者的共犯)の問題を扱うことにする。

(1)  わが国には必要的共犯を直接のテーマとするモノグラフィーはないようである。もっとも、それに匹敵する研究として、佐伯千仭「必要的共犯」宮本博士還暦祝賀『現代刑事法学の諸問題』(一九四三年)所収をあげることができる。なお、この論文は、のちに佐伯千仭『共犯理論の源流』(一九八七年)二二一頁以下に収録された。以下では、後者を引用する。
(2)  必要的共犯の問題の特殊性は、これに関する研究が(少なくとも共犯論の他の諸領域に比べ)少ないという研究状況のほかに、問題の性格として、それが必ずしも純粋な総論、共犯論の問題ではないところにもある。必要的共犯という名称は、構成要件が実現されるために数人の行為者の関与行為が必要な各則上の犯罪に対する総称だからである。佐伯・前掲注(1)二二六頁。必要的共犯が、刑法総則(総論)と各則(各論)との中間的な位置を占めているといわれるのは、そのためである。Berthold Freudenthal, Die nothwendige Theilnahme am Verbrechen, 1901, S. 2;Richard Lange, Die notwendige Teilnahme, 1940, S. 12, 95f.;Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 344;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 14;Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 3;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor §26 Rdn. 33. なお、必要的共犯の定義が争われることがあるが、本稿は、必要的共犯の厳密な定義は必ずしも必要ではないと考えている。その理由については、第三章第三節で述べる。
(3)  片面的対向犯という名称を用いる文献として、鈴木義男『刑法判例研究U』(一九六八年)一五一頁、西田典之「必要的共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)二六一頁、井田良「判批」判例時報一六四九号(一九九八年)二四〇頁(判例評論四七七号六二頁)、松宮孝明「判批」立命館法学二五五号(一九九八年)三一七頁、山中敬一『刑法総論U』(一九九九年)七三六頁など。これに対し、「不真正な対向犯」と呼ぶ見解もある。西村克彦「必要的共犯とは何か−賄賂罪に関連して−」同『犯罪形態論序説』(一九六六年)一二〇頁、亀山継夫「破産犯罪に関する二、三の問題(その二)(1)」警察研究四〇巻二号(一九六九年)七二頁。
(4)  一部には、片面的対向犯を必要的共犯のカテゴリーから排除する見解もみられるが、これは妥当ではなかろう。井田・前掲注(3)二四〇頁、松宮・前掲注(3)三一七頁。たしかに、対向する関与行為のうちの一方しか処罰されないのに、これを対向「犯」と呼ぶのは不適切かもしれない。しかし、それだけでは、これを必要的共犯のカテゴリーから排除する十分な理由にはならないし、歴史的にみても、これまで必要的共犯という用語の下でもっとも議論されてきたのは、片面的対向犯の問題なのである。ドイツにおける必要的共犯論の歴史的展開については、Gropp, aaO (Anm. 2) S.14ff. を参照。
(5)  片面的対向犯を扱った判例(下級審の裁判例を含む)は、少なからず存在する。個々の判例については、以下の考察のなかで適宜ふれていく予定である。
(6)  佐伯・前掲注(1)二二七頁、平野龍一「必要的共犯について」同『犯罪論の諸問題(上)』(一九八一年)一八八頁、中山研一「必要的共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法1共犯論』(一九九七年)一四二頁。
(7)  平野・前掲注(6)一八四頁。
(8)  もっとも、本稿の直接の目的は、必要的共犯をめぐる未解決の問題に考察を加え、その解決の方向を探ることにある。したがって、共犯の処罰根拠や共犯従属性といった共犯の一般理論については、右の目的の達成に必要なかぎりでしかふれない。しかし、考察の結果、従来の共犯理論に対して何らかの影響を与えうる事柄がみつかる可能性はある。これについては、付随的な成果として、本稿の最後にふれることにしたい。
(9)  平野龍一『刑法総論U』(一九七五年)三七九頁、大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)二三七頁、二六〇頁など。
(10)  中山・前掲注(6)一四五頁。
(11)  平野・前掲注(9)三七九頁、大越・前掲注(9)二六〇頁。
(12)  平野・前掲注(9)三八〇頁、大越・前掲注(9)二六〇頁、西田・前掲注(3)二六七頁、中谷瑾子「犯人による偽証教唆」西原春夫・宮澤浩一・阿部純二・板倉宏・大谷實・芝原9845爾編『刑法判例研究・第七巻』(一九八三年)七二頁、中山研一『刑法各論』(一九八四年)五三二頁、大谷實『刑法講義各論』(第四版補訂版・一九九八年)五五六頁、曽根威彦『刑法各論』(新版・一九九五年)二八五頁、二八七頁、虫明満「偽証罪・証憑湮滅罪と共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第六巻』(一九九三年)三七〇頁など。
(13)  西田教授は、弁護士法七二条(非弁活動の禁止)違反の罪、わいせつ物販売罪を例にあげて、それぞれの保護法益を、弁護士の職業上の利益、個人を超越した社会全体の性的モラルの健全性と解するならば、必要的関与者である非弁活動の依頼者、わいせつ物の買主は、共同加害者として当然に処罰されることになってしまうであろう、と指摘される。西田・前掲注(3)二六八頁。
(14)  判例の解釈を前提とすれば、たとえば、弁護士法七二条(非弁活動の禁止)違反の罪がこのような場合にあたる。というのも、判例は、「当事者その他の関係人らの利益をそこね、法律生活の公正円滑な営みを妨げ、ひいては法律秩序を害する」ことを防止するのが弁護士法七二条の目的であると解しているからである。最判昭和四六年七月一四日刑集二五巻五号六九〇頁。これについては、さらに、日本弁護士連合会調査室編著『条解弁護士法』(第二版補正版・一九九八年)五二一頁以下を参照。
(15)  たとえば、注(13)および(14)にあげた弁護士法七二条違反の罪に関する最判昭和四三年一二月二四日刑集二二巻一三号一六二五頁、債権者庇護罪(破産法三七五条三号)に関する大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁、出資法三条(浮貸し等の禁止)違反の罪に関する東京地判平成六年一〇月一七日判例時報一五七四号三三頁など。
(16)  法益保護の最後の手段(ウルティマ・ラティオ)であるべき刑法を効果的に運用するためには、すべての社会的逸脱行為を処罰するのではなく、危険の中心をなしているそれに絞って処罰することが要求されるからである。Vgl. Gropp, aaO (Anm. 2) S. 4, 206ff.
(17)  佐伯・前掲注(1)二九一頁、団藤重光『刑法綱要各論』(第三版・一九九〇年)九〇頁、大塚仁『刑法概説(各論)』(第三版・一九九六年)六〇一頁、内田文昭『刑法各論』(第三版・一九九六年)六五二頁、六五七頁、香川達夫『刑法講義(各論)』(第三版・一九九六年)八八頁、佐久間修『刑法講義(各論)』(一九九〇年)二七二頁など。
(18)  判例で実際に犯人蔵匿・隠避の教唆として処罰されてきたのは、具体的には、身代わり犯人を立てる場合がほとんどであるが、このような行為は、虚偽犯罪の申告(軽犯罪法一条一六号)によって処罰されうる。身代わりを立てる犯人には期待可能性がないという説明は、このことと矛盾するように思われる。
(19)  北野通世「必要的共犯」松尾浩也・芝原9845爾・西田典之編『刑法判例百選T総論』(第四版・一九九七年)一九八頁。
(20)  臼井滋夫「特別刑法犯と共犯」伊藤栄樹・小野慶二・荘子9845雄編『注釈特別刑法・第一巻・総論編』(一九八五年)四八一頁。
(21)  東京地判平成六年一〇月一七日判例時報一五七四号三三頁(前掲注(15))。
(22)  ドイツには、贈収賄にかかわった第三者を収賄の幇助犯とした原判決を破棄して、これを贈賄の幇助犯とした判例がある(BGHSt 37, 207)。
(23)  盗品等に関する罪が必要的共犯として扱われることがあるが、本稿では扱わない。


第一章  必要的共犯学説の検討

 第一節  わが国の必要的共犯論


 一  戦前の学説

  現在のわが国の必要的共犯学説を分析し、その到達段階と問題点を明らかにするためには、戦前の学説を大まかにでも知っておくことが必要である。とりわけ、戦時中に発表された佐伯博士の見解(1)は、戦後の必要的共犯学説の主要な方向を基礎づけた点で、とくに重要である。もっとも、その前に、戦前の通説(2)をみておかなければならない。佐伯博士の見解は、通説を批判し克服しようとするなかで展開されたものだからである。

 (1)  戦前の通説   戦前の通説は、必要的共犯と通常の共犯(任意的共犯)とを明確に区別して、前者については共犯規定(刑法六〇条以下)はいっさい適用されないと解していたようである。すなわち、そこでは、賄賂罪のように対向する双方に処罰規定がある場合に共犯規定の適用がないというだけでなく、わいせつ文書販売罪のように対向関係にある一方にのみ処罰規定がある場合についても、処罰規定を欠く必要的関与者には共犯規定の適用はないとされていたのである。たとえば、牧野博士は、必要的共犯を「法律上数人ノ共同ヲ必要トスル場合(3)」と定義したうえで、つぎのように述べておられる。「蓋、必要的共犯ノ場合ニ於テハ、論理上犯罪者ノ複数ナルコトヲ予定セサルヘカラスカ故ニ、法律カ単ニ其ノ一方ニ付テノミ処罰ノ規定ヲ設ケタル場合ニ於テハ、他ノ一方ハ之ヲ処罰セサルモノト解スルヲ穏当トスヘシ」。そして、贈賄者を処罰する規定のなかった旧刑法の賄賂罪について「旧刑法上ノ贈賄ヲ以テ罪ト為ラサルモノト為スヲ妥当」と解するとともに、現行法のわいせつ文書販売罪についても「猥褻ノ文書ヲ買受ケタル者ハ第一七五条ノ犯罪ノ共犯ト為ルコトナカルヘシ」と主張されたのである(4)
  もっとも、この牧野博士の見解では、処罰規定のない必要的関与者の関与の程度が犯罪成立に必要な限度をこえる場合については、その共犯の成否は必ずしも明らかにされていない。しかし、つぎの瀧川博士の見解では、この場合もやはり共犯として処罰されないという主張が明快になされている。博士は、「或犯罪を行うにあたり概念上数人の関与を必要とする場合が必要共犯である(5)」と定義したうえで、つぎのように述べておられる。「学説において必要共犯が論議にのぼるわけは、謂ゆる必要共犯の概念に存する凹凸が考慮に価ひする一つの原則を導くがためである。例えば法律が必要的に関与した二人の中の一人のみを罰する場合には、他の一人が概念上必要であるよりも以上の行為を行うたとしても罰せらるべきではないという原則がこれである」。そして、このことは、「正犯として罰せられない者は共犯−教唆犯または従犯−として罰せられないことに一層強い理由があるという思想に基く(6)」。
  このように、瀧川博士の見解へと至る戦前の代表的な学説の流れは、一方に処罰規定を欠く場合も含めて、必要的共犯にはおよそ共犯規定は適用されないという方向へ向かっていたとみなしてよい。

  (2)  佐伯博士の見解   佐伯博士は、このような通説の流れに対抗して、ドイツの諸学説を詳細に検討し、必要な加担の程度をこえる場合にはなお共犯規定の適用がありうると主張された(7)。博士は、構成要件該当性、違法性、有責性という犯罪論体系にしたがって必要的共犯の問題を考えるベーリング流の方法論に着目し、「不可罰的な必要的加担者の不処罰の理由は、これを違法性または責任性の阻却減軽の事由である点に求めねばならない」とされる。そして、必要な程度をこえた加担が共犯として処罰されるかどうかについては、「必要の加担の程度を超えた加担が、相手方に対する教唆、従犯の型に該当する限り一応これを共犯とみるべきであり(ベーリングと同じ)、ただそれらが共犯として可罰的であるかどうかは、その必要の程度を超えた加担行為について、さきに必要的加担行為について彼を不可罰的とした違法または責任の阻却減軽事由が、なお、妥当するかどうかを検討して決すべきである。必要的加担行為をして罰されないからといって、必要の程度を超えた教唆、幇助行為についても当然に処罰されえないとするようなことは断じて正当でない。前者が罰されないことには罰されないだけの相当の理由(適法性、責任性の欠如)があるからで、同じ事情は後者についても当然に存在するということはできないからである」とされるのである(8)
  たとえば、わいせつ文書販売罪における買手は、販売者に比べ違法性および期待可能性が低く、それゆえ処罰されていないのであるが、「積極的なる造意者」として販売者に強く働きかける場合は、このような事情はみとめられないから、共犯として可罰的であるとされる(9)。また、犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆についても、「期待不可能は無限に認められるものではなく、むしろそれが認められるには一定の限界がある」として、その可罰性を肯定されている(10)
  以上のような佐伯博士の見解は、少なくとも次の二点において、戦後の必要的共犯論の主要な方向を基礎づけたように思われる。ひとつは、当時の通説に反対して、犯罪成立に必要な程度をこえる加担については共犯として処罰される場合があることを認めた点であり、他のひとつは、処罰規定を欠く必要的関与者が処罰されない実質的な理由を解明し、それをベーリング流の犯罪論体系(構成要件、違法性、有責性)に対応させて説明しようとした点である。前者は団藤説(11)に、後者は平野説(12)に、それぞれ受け継がれていくのである(13)(14)

(1)  佐伯千仭「必要的共犯」宮本博士還暦祝賀『現代刑事法学の諸問題』(一九四三年)所収。前に述べたように、この論文は、佐伯千仭『共犯理論の源流』(一九八七年)二二一頁以下にも収められている。本稿では、後者に収録されているものを引用する。
(2)  わが国の戦前の文献で必要的共犯について論究したものはさして多くない。したがって、どのような見解が当時の通説かを確定することは困難であるが、ここでは、必要的共犯について比較的詳細に言及している文献の見解を通説と呼んでおく。
(3)  牧野英一『日本刑法上巻』(重訂版・一九三七年)四四〇頁。
(4)  牧野・前掲注(3)四四一頁。同旨、泉二新熊『日本刑法論』(総論第四〇版・一九二七年)六四〇頁。
(5)  瀧川幸辰『犯罪論序説』(一九三八年)三一六頁。
(6)  瀧川・前掲注(5)三一七頁。
(7)  このような結論が採用された理由について、のちに佐伯博士は次のように述べておられる。「私が戦時中にこの問題をとりあげた動機は、さきにも一言したように価格統制違反の買手まで皆処罰するような立法を阻止するためで、私にとっては、いわゆる対向犯の一方だけが罰せられ他方は罰せられないことには何らかの実質的理由があるはずであるから、それを明らかにすれば、その不処罰の限界、射程範囲を画すること、従って必要な場合の処罰も可能であろうという考えと、さらにその底には実際に生起する問題のなかには立法に頼るよりもむしろ裁判所による法解釈に委ねる方が適当な場合が少なくなく、この問題もそのひとつではないかという思いが強かった」。佐伯・前掲注(1)「序にかえて」一二頁。
(8)  佐伯・前掲注(1)二八六頁以下。
(9)  佐伯・前掲注(1)二九五頁以下。
(10)  佐伯・前掲注(1)二九〇頁以下。
(11)  団藤重光『刑法綱要総論』(第三版・一九九〇年)四三二頁。
(12)  平野龍一『刑法総論U』(一九七五年)三七九頁。
(13)  その意味で、佐伯博士の見解が戦後の学説の展開に与えた影響は少なくなかったといわなければならない。もっとも、戦前の通説的見解が戦後にまったく主張されなくなったというわけではない。瀧川博士は、従来からの主張を戦後もそのまま貫いておられる。瀧川幸辰『犯罪論序説』(第六版・一九五二年)二四〇頁。
(14)  もっとも、あとで紹介するように、平野説も、必要な程度をこえる関与について共犯の成立をみとめないわけではない。関与者が違法性、有責性において欠けるところがない場合には、共犯としての処罰が肯定されている。平野・前掲注(12)三七九頁。ただ、平野説の場合、このことを説明する際にも、違法性、有責性といった実質的観点が強調されている。ここに、団藤説との大きな相違がみられるのである。


 二  戦後の学説

  わが国の戦後の必要的共犯論は、団藤博士の「立法者意思説」と平野博士の「実質説」を対立軸として整理されることが多い。しかし、両博士の見解は、右にみた佐伯博士の見解の二つの側面をそれぞれ継受したものであるから、このように対立関係にあるものとして整理される必然性はない。また、このような対立図式が問題解決にとって必ずしも有益でないことも、最後に示すとおりである。しかし、さしあたっては、この図式にしたがっておくことにしよう。以下では、まず団藤、平野両博士の見解を検討し、ついで平野博士の見解を基本的に継承していると思われる大越、西田両教授の見解を検討していくことにする(1)

  (1)  団藤博士の見解   団藤博士は、佐伯博士の見解のうち、必要な程度をこえる加担は共犯になりうるとの主張をいれ、これをより一般化した形で定式化された。「対向犯的な性質をもつa・bという二つの行為の中で、法律がa行為だけを犯罪定型として規定しているときは−当然に定型的に予想されるb行為を立法にあたって不問に付したわけであるから−b行為は罪としない趣旨だと解釈しなければならない。したがって、b行為がa罪の教唆行為または幇助行為にあたるばあいでも、それがa罪に対する定型的な関与形式であるかぎりは、これをa罪の教唆犯・幇助犯として罰することは許されないものと解するべきである。その限度で、六一条・六二条は適用を制限されることになる(2)」。たとえば、わいせつ文書を「売ってくれ」と頼む行為は、単純な買主としての定型的な申込みにすぎないかぎり不可罰であるが、「相手に対してとくに積極的に働きかけて目的物を売るように仕向けたばあいは、教唆犯の成立をみとめるべきことになる(3)」。
  この見解の特色は、当然に定型的に予想される行為を立法者があえて不問に付したことに必要的関与行為の不処罰の根拠を求め、定型的に予想される行為の範囲内にあるかという一元的な基準で共犯の成否の問題を解決しようとするところにある。この見解が「立法者意思説」とか「形式説」と呼ばれる理由はそこにある(4)。裏を返せば、佐伯博士の実質的・個別的観点からのアプローチ(違法性・有責性といった実質的観点から個別的に共犯の成否を論じる方法)は、ここでは少なくとも正面からは採用されていないということである。
  しかし、団藤説に対しては、平野博士から次のような問題点が指摘された。すなわち、団藤説は、不可罰の関与行為を「必要な行為」に限定することからくる不都合(単に「売ってくれ」という行為も「必要な行為」の範囲をこえているので可罰的となってしまうという不都合)を避けるために、それを「定型的に予想される行為」(平野博士によれば「通常の行為」)にまで広げているが、第一に、「通常の行為」という基準は不明確である。第二に、関与者が被害者である場合、あるいは関与者に責任がない場合には、不当に関与者を処罰することになる。第三に、関与者が違法性、有責性において欠けるところがない場合には、処罰すべき行為まで不可罰にされてしまう(5)
  さらに、平野博士は、団藤説の理論的基盤である「立法者意思」についても、「法が他の関与者について処罰規定を設けなかったのは、正犯としては処罰しないというだけの趣旨であって、他の関与者に対する教唆・幇助としても罰しないという趣旨まで含むものではない、という解釈も可能(6)」であり、「他の関与者についての特別の処罰規定がないからといって、教唆・幇助をしても処罰しないのが法の趣旨であるという推論は、必ずしも必然的なものではない。少なくとも必要な限度を超えた通常の行為についてはそうである(7)」と指摘されたのである。

  (2)  平野博士の見解    平野博士は、佐伯博士の見解のうち、必要的関与者が処罰されない実質的な理由を解明し、それをベーリング流の犯罪論体系(構成要件、違法性、有責性)に対応させて問題を処理する方法を採用された。この見解は、団藤説とちがい、違法性、有責性といった実質的な観点を正面から考慮に入れるところから、団藤博士の「立法者意思説」ないし「形式説」に対して、「実質説」と呼ばれている(8)
  平野博士の見解をもう少し詳しくみてみよう。博士は、「欠くことのできない」関与行為については不可罰と解すべき場合があるとの留保をつけたうえで(この限度では不処罰範囲の形式的な確定基準を維持されている)、次のように述べておられる。「必要的共犯のなかには、実質的に考える必要があるものもある。それは必要的共犯を処罰しない理由が、共犯者に違法性がないか、責任がないかのどちらかである場合である。違法性がないのは、共犯者が被害者である場合である。わいせつ文書の販売の場合も、買受人は被害者だから処罰されないのである(9)」。「相手方が被害者でないにもかかわらず処罰されないこともある。それは相手方の責任がない場合である。たとえば、犯人蔵匿の場合、犯人が自己を蔵匿してくれるように頼んでもその犯人は犯人蔵匿の教唆犯として処罰されないと解すべきであるが、それは犯人に責任がないからである(10)」。
  つまり、平野博士は、自ら指摘した団藤説の問題点を回避するために、第一に、不可罰の関与行為の範囲を「定型的に予想される」行為から「欠くことのできない」行為にまで限定し、第二に、違法性または責任の欠如という実質的な観点から、被害者や責任のない者(犯人蔵匿罪における犯人)の不処罰を説明されたわけである。そして、その裏返しである団藤説の第三の問題点に対しても、秘密漏泄罪を例に、「秘密を知っただけであるならば、『欠くことのできない』行為であるから処罰されないが、自己に洩らすように教唆した場合には、漏泄の教唆または幇助として処罰されうる(11)」として、ひとつの解答を提示されたのである。
  しかし、注意しなければならないのは、実質的観点(違法性、有責性)を強調した点において平野説と佐伯説とは共通するにもかかわらず、具体的帰結においては、両者のあいだに見のがせない相違があることである。第一に、わいせつ文書の買主は、平野説では「被害者」であることを根拠にいっさい不可罰とされているが、佐伯説では「消極的、受動的地位を去って積極的なる造意者」として販売者に働きかける場合にはもはや不可罰ではないとされている。第二に、犯人による犯人蔵匿または証拠隠滅の教唆は、平野説では責任(期待可能性)の欠如により不可罰とされているのに対し、佐伯説では可罰的とされている。
  このことは、違法性、有責性といった実質的観点によるアプローチ(実質説)をとればそれだけで一定の結論(不処罰)が担保されるわけではないことを意味する。たとえば、わいせつ文書の買主が「被害者」といえるかどうかは、わいせつ文書販売罪の保護法益をどう解するかによって左右される。通説のように、これを「健全な性的風俗」と解するならば、買主は「被害者」ではなく、むしろ「加害者」ということになる(12)。佐伯説はこのような前提に立っているのである。責任(期待可能性)の欠如による不処罰も、「正犯として期待可能性がないのだから共犯としてはなおさら期待可能性はない(13)」という前提を承認してはじめて肯定できるものであろう。佐伯博士は、この前提をとらないがゆえに、犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆を可罰的とされるのである。
  また、平野博士は、団藤説の「立法者意思」による推論について、「他の関与者についての特別の処罰規定がないからといって、教唆・幇助をしても処罰しないのが法の趣旨であるという推論は、必ずしも必然的なものではない」と批判されるが、その際、「少なくとも必要な限度を超えた通常の行為についてはそうである」との留保をつけておられる。これは、平野説の「必要な行為」(「欠くことのできない」行為)の不処罰を正当化するためであろう。このことは、「法が除外しようとした行為以外の行為は、共犯として処罰される。その除外される行為は、『必要な行為』に限られるであろう(14)」という博士自身の記述からもうかがえる。つまり、博士は、「必要な限度を超えた行為」については「立法者の意思」による推論を批判しながら、他方で「必要な行為」については「立法者の意思」からの推論を肯定されるのである。しかし、これは矛盾ではなかろうか。「必要な限度を超えた行為」に対する批判は、後者の「必要な行為」についても同様にあてはまるはずだからである。実際、最近のドイツでは、「立法者の意思」から「必要な行為」を不処罰とする通説に対して批判がなされているのである(15)
  さらに、博士は、「共犯も、自己の行為によって違法な結果を発生させたことについて責任を問われるものである」とし(因果共犯論)、「正犯の行為が違法であれば共犯の行為も違法である」とされるが(違法の連帯性(16))、これを素直に解するならば、わいせつ文書の販売を教唆した買主の行為は違法であるということになろう。正犯である販売者の行為は違法だからである。しかし、そうなってはいない。博士はその理由を、買主が被害者であることに求めておられる。しかし、被害者であれば、なぜ違法の連帯性が82e4断されるのであろうか。たしかに、「法規がその者の保護を目的とした場合は、必要的共犯行為に違法性がない場合である。すなわち、正犯者にとっては違法であるが、必要的共犯者にとっては違法でないという、相対的違法が認められるべき場合である(17)」との説明はなされている。けれども、それは結論であって、法規がその者の保護を目的とした場合に違法性が欠けることの理由を説明するものではないように思われる(18)

  (3)  大越教授の見解   大越教授は、団藤博士の「立法者意思説」を批判し、平野博士の「実質説」を採用される(19)。しかし、大越説は、少なくとも次の二点において、平野説とは異なっている。
  第一は、平野説で維持されていた「『必要な行為』は不可罰である」という形式的な基準が−少なくとも文献にあらわれたかぎりでは−まったく採用されておらず、必要的共犯の不処罰がもっぱら違法性または責任の観点から説明されている点である(20)。この意味において、大越教授の見解は、平野博士の「実質説」をより徹底させたものということができる。
  第二は、このことが、「共犯の処罰根拠」と関連づけて論じられていることである。大越説の最大の特徴は、この点にあるといってよい。大越教授は、次のような問題提起から出発される。「必要的共犯の問題を実質的な観点から解決しようとする場合には、必要的共犯の問題は、共犯の処罰根拠の問題であることが判明する。共犯として処罰されるかどうか、ということは、共犯はなぜ処罰されるのか、という問題が明らかにされて、はじめて解明されうる性質の問題だからである(21)」。そして、刑法の任務を法益保護に求め、違法論において法益侵害説をとる以上、基本的には、違法の相対性(違法判断が関与者ごとに異なること)を否定し、共犯者は正犯者と共に違法な結果を惹起するので処罰されるとする「修正された惹起説」に立脚すべきであるとされる(22)。しかし、結論的には、法益侵害説は違法の相対性をまったく認めないわけではない(23)ということから、違法の相対性を一定の限度において認める「第三の惹起説」が妥当であるとされる(24)。そして、以上のことから、次のような結論が導かれるとされる。「必要的共犯は不可罰になる。猥褻文書販売罪の買い手、弁護士法七二条違反の罪の依頼者の場合には、相手方の行為が違法であっても、被害者の地位に基づいて相対的に違法性が阻却されるので、不可罰になる。また、犯人は犯人蔵匿・証憑湮滅を教唆した場合でも不可罰になる。自ら行ったときでも期待可能性がないとする以上、より軽い犯罪形式である教唆を行った場合でも、当然に期待可能性がないことになるからである(25)」。
  大越説の特色は、以上のように、「実質説」を徹底しつつ、「共犯の処罰根拠」という観点を全面に出した点にあるが、第一に、そこで採用されている「第三の惹起説」と、平野博士の「因果共犯論」との異同が問われなければならない。大越教授は、「共犯者は正犯者と共に違法な結果を惹起するので処罰される」とする「修正された惹起説」を基本的に支持される。これは、「共犯も、自己の行為によって違法な結果を発生させたことについて責任を問われるものである」とする平野博士の「因果共犯論」と異なるところはないといってよい。もっとも、大越教授は、最終的には、違法の相対性を一部認める「第三の惹起説」を主張されるのであるが、それは「被害者は違法性がないから不可罰である」とする平野博士の主張を「被害者の地位に基づいて相対的に違法性が阻却される」という言葉に置き換えて説明した「因果共犯論」である。そのかぎりで、両者の見解の間に決定的な相違はないのである。そうだとすれば、「第三の惹起説」には、平野説と同様、必要的共犯の不処罰と共犯理論との整合性の問題(被害者であればなぜ違法の連帯性が遮断されるのか)が残されていることになる。
  第二に、すでに指摘した、「実質説」をとればそれだけで一定の結論が担保されるわけではないという問題点は、「第三の惹起説」に対してもあてはまる。大越教授は、わいせつ文書の買主や自己蔵匿を教唆する犯人は「第三の惹起説」からは不可罰になるとされるが、このような結論は「第三の惹起説」をとれば当然に導かれるというわけではない。大越教授の論証には、「わいせつ文書の買主は被害者である」とか「正犯として期待可能性がないのだから共犯としてはなおさら期待可能性はない」といった、「共犯の処罰根拠」とは別の観点が混入されているからである。もし、このような観点を採用せずに、もっぱら「共犯者は正犯者と共に違法な結果を惹起するので処罰される」と解するならば、佐伯博士の見解と同じように、わいせつ文書の買主や自己蔵匿を教唆する犯人を可罰的と解することも可能になるのである(26)
  第三に、「『必要な行為』は不可罰である」という命題を採用せず、もっぱら違法性または責任の観点から必要的関与者の不処罰を説明しようとする大越教授の見解では、必要的関与者が被害者でなく、かつ必ずしも期待可能性がないとはいえない事例がうまく説明できない。このような事例が存在しなければ問題ないのであるが、その保障はまったくない。実際、たとえば金融・経済犯罪には、この種の事例が少なからず含まれている。一例をあげれば、債権者庇護罪(破産法三七五条三号)は、特定の債権者を利する債務の弁済を行った債務者を罰するものであるが、相手方となった債権者には処罰規定が置かれていない。しかし、この場合の相手方債権者は、被害者どころか、むしろ総債権者の利益を侵害する加害者である。また、犯人蔵匿罪における犯人のように当然に期待可能性がないというわけでもない。そのため、ドイツでは、この場合の債権者はつねに共犯として処罰されるとする見解も(少数ながら)有力である(27)。「『必要な行為』は不可罰である」という命題を採用しない大越説からも、そのような主張に至るであろう。しかし、わが国の下級審の判例では、相手方債権者が共犯としても不可罰となる余地がみとめられている(28)。不処罰の根拠を「被害者の地位」や「期待不可能性」に求めるだけでは、この不処罰の領域をうまく説明できないのである。

  (4)  西田教授の見解   この点、大越説では(少なくとも明示的には)採用されなかった「『必要な行為』は不可罰である」という形式的な基準の必要性を再確認した、西田教授の見解が注目される。西田教授は、「実質説は基本的に妥当な方向を示すもの」としつつ(29)、「共犯行為についても、違法・責任の両面において当罰的であってもなお可罰性の枠外に置かれる領域を認めることは十分可能だといわねばならない」として、「ある犯罪が成立する場合に概念的に当然必要とされる関与行為」は不可罰であるとされる(30)。「概念的に当然必要とされる関与行為」とは、平野博士の「必要な行為」と同義とみてよいであろう。この見解によるならば、債務者からの債務の弁済を単純に受領したにすぎない債権者は、債権者庇護罪の共犯としては処罰されないということになる。単に弁済を受け取るだけの行為は、「債権者庇護罪が成立する場合に概念的に当然必要とされる関与行為」だからである。
  しかし、これで問題がすべて解決されたわけではないように思われる。第一に、西田教授は、「実質説を採る場合であっても、立法者意思説の意味における必要的共犯の概念はなお維持すべきものと思われる(31)」として、「概念的に当然必要とされる関与行為」は不可罰であるとされる。しかし、このような説明だと、あらたな問題が生じてくる。「概念的に当然必要とされる関与行為」の不処罰をはたして「立法者の意思」から導くことができるのかという問題である。もちろん、西田教授の場合、平野博士とちがい、「正犯として処罰されないからといって当然に共犯として処罰されないということにはならない」という批判は慎重に回避されているので、「概念的に当然必要とされる関与行為」の不処罰を「立法者の意思」によって根拠づけることそれ自体に矛盾はない。しかし、問題は、このような根拠づけに十分な説得力があるかである。すでに指摘したように、現に最近のドイツでは、この点を疑問視する見解が現れてきているのである(32)
  第二に、西田教授は、団藤博士の「定型性・通常性」という基準はかなり曖昧なものであり、処罰範囲は不明確なものとならざるをえないと考え(33)、不処罰の範囲を「概念的に当然必要とされる関与行為」にまで限定される(この点は平野博士とまったく同様である)。しかし、この「概念的に当然必要とされる関与行為」という基準も、程度の差こそあれ、やはり不明確であろう(34)
  そして、第三に、違法性・有責性の観点だけでは不可罰といえない必要的関与行為の不処罰の範囲を「概念的に当然必要とされる関与行為」にまで限定することは、債権者庇護罪における債権者の不処罰の範囲を「通常予想される関与行為」にまで広げているわが国の下級審判例の立場(35)と矛盾する。たとえば、債権者が債務者に債権者庇護罪を教唆した場合、判例では通常予想される範囲内の行為であるかぎり不可罰であるが、西田説ではつねに可罰的になるのである。もちろん、判例の考え方がそもそも誤りであるといってしまえばそれまでである。しかし、それならば、不処罰の範囲を判例で認められたそれよりもことさら狭く解すべき理由はどこにあるのかが問われることになろう。


(1)  以上のほかに、必要的共犯に関する比較的詳細な研究として、西村克彦「必要的共犯に関する試論」刑法雑誌二五巻二号(一九八三年)一四一頁をあげることができる。そこでは、片面的対向犯(西村博士自身は「不真正な対向犯」と呼んでおられる)において処罰規定を欠く必要的関与者が相手方の共犯としても不可罰になるのは、そのような者は「共犯者(教唆犯もしくは従犯)となりうる資格を欠くからである」と説明されている(一四五頁)。贈収賄罪において収賄者が贈賄罪の共犯、贈賄者が収賄罪の共犯にならないのは、いずれも共犯者となりうる資格を欠いているからであって、このことは、同じく対向関係にある片面的対向犯についてもあてはまる、というのである。しかし、これに対しては、贈収賄罪の場合は贈賄者が正犯として処罰されるからこのようにいえるのであって、そうでない片面的対向犯の場合にはなお共犯の成否を論じる余地がある、との反論も可能である。これに答えるためには、さらに、共犯者となりうる資格が欠ける実質的な根拠を解明する必要があろう。サ
  なお、必要的共犯について詳述した最近の文献として、内田文昭『刑法概要・中巻(犯罪論(2))』(一九九九年)四二〇頁以下、山中敬一『刑法総論U』(一九九九年)七三五頁以下がある。
(2)  団藤重光『刑法綱要総論』(第三版・一九九〇年)四三二頁。
(3)  団藤・前掲注(2)四三三頁。
(4)  中山研一「必要的共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法1共犯論』(一九九七年)一四五頁。
(5)  平野龍一「必要的共犯について」同『犯罪論の諸問題(上)』(一九八一年)一九四頁。
(6)  平野・前掲注(5)一九五頁。
(7)  平野・前掲注(5)一九六頁。
(8)  中山・前掲注(4)一四五頁、大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)一九頁、西田典之「必要的共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)二六六頁など。
(9)  平野龍一『刑法総論U』(一九七五年)三七九頁。
(10)  平野・前掲注(9)三八〇頁。
(11)  平野・前掲注(9)三七九頁。
(12)  西田・前掲注(8)二六八頁。
(13)  大越・前掲注(8)二六〇頁、西田・前掲注(8)二六七頁。
(14)  平野・前掲注(5)一九〇頁。
(15)  Gu¨nther Jakobs, Strafrecht, Allgemeiner Teil, 2. Aufl., 1991, S. 696 Anm. 13;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 118ff. この点について詳しくは第三章で検討する。
(16)  平野・前掲注(9)三五四頁以下。
(17)  平野・前掲注(5)一九〇頁。
(18)  山中教授も、「因果的共犯論に立つならば、法益侵害ないしその危険が認められる場合、被害者を保護する規定でもあるからといって、被害者自身の共犯行為に『違法性』が完全になくなるわけではない」と指摘される。山中・前掲注(1)七四一頁。なお、ドイツでは、「違法の連帯性」を自明のドグマとせずに、はじめから、正犯行為の違法性は連帯する場合としない場合とがあるとの主張がなされている。ザムゾン、ロクシンらの「混合惹起説」がそれである。Erich Samson, in:SK, Bd 1, 1993, Vor §26 Rdn. 11ff.;Claus Roxin, Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 365ff.
(19)  大越・前掲注(8)一八頁以下。
(20)  大越教授は、「必要的共犯が処罰されない理由は、実質的にみると、必要的共犯者に違法性がないか責任がないかのどちらかにあると思われる」とされるのみで、形式的な基準についてはとくに触れられていない。大越・前掲注(8)二三七頁。また、「立法者意思説は、この問題解決に有効でないように思われる」とも述べられている。大越・前掲注(8)一九頁。実際、西田教授は、このような大越教授の見解を、違法性、有責性の観点のみで問題を解決しようとする見解であるとみなしておられる。西田典之「大越義久著『共犯の処罰根拠』」法律時報五三巻九号(一九八一年)一二八頁。
(21)  大越・前掲注(8)二〇頁。
(22)  大越・前掲注(8)二五七頁。
(23)  大越・前掲注(8)二五九頁。
(24)  大越・前掲注(8)二六〇頁。
(25)  大越・前掲注(8)二六〇頁。
(26)  たとえば、後者について、前田雅英『刑法各論講義』(第二版・一九九五年)五一二頁。
(27)  Rolf Dietrich Herzberg, Ta¨terschaft und Teilnahme, 1977, S. 138f.;Jakobs, aaO (Anm. 15) S. 696;Sowada, aaO (Anm. 15) S. 166ff.
(28)  札幌地判昭和四一年七月二〇日下刑集八巻七号一〇二一頁、大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁。
(29)  西田・前掲注(8)二六八頁。
(30)  西田・前掲注(8)二六八頁以下。同旨、北野通世「必要的共犯」松尾浩也・芝原9845爾・西田典之編『刑法判例百選T総論』(第四版・一九九七年)一九九頁。
(31)  西田・前掲注(8)二六九頁。
(32)  Jakobs, aaO (Anm. 15) S. 696 Anm. 13;Sowada, aaO (Anm. 15) S. 118ff.
(33)  西田・前掲注(8)二六六頁。
(34)  この点について、詳しくは、第三章第二節で説明する。
(35)  たとえば、前掲大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁。この判例の概要は第三章で紹介する。


  三  小    括

  以上の検討から、つぎのことがいえるであろう。それは、現在のわが国では、「立法者意思説」(団藤説)、「実質説」(平野、大越、西田説)のいずれの立場においても、必要的共犯をめぐる理論的な問題は必ずしも解決済みではないということである。
  すなわち、「立法者意思説」には、可罰・不可罰の限界とされる「定型的な関与行為」の枠が不明確であること、正犯として処罰されないのだから共犯としても(「定型的な関与行為」であるかぎり)処罰されないという「立法者の意思」による推論は必然的でないこと、などの問題があり、また、「実質説」にも、違法性、有責性といった実質的観点によるアプローチをとれば当然に一定の結論(不処罰)が担保されるわけではないこと、犯罪成立に「必要な行為」については形式的に一律不可罰であるとする考え方を維持するならば(平野、西田説)、「立法者意思説」と同様の批判(「立法者の意思」による推論は必然的でない)があてはまること、「実質説」を徹底してもっぱら違法性ないし有責性から不処罰を説明するアプローチをとるならば(大越説)、違法性、有責性の欠如がみとめられない必要的共犯(債権者庇護罪など)の不処罰が説明できないこと、などの問題があったのである。
  このことは、同時に、従来の「立法者意思説」対「実質説」という対立図式が問題解決にとって必ずしも有益でないことをも示している。また、共犯の処罰根拠からのアプローチ(大越説)も、そこで主張される「違法の連帯性」と必要的共犯の不処罰との整合性の問題が残されている。あらたな視点から、もう一度必要的共犯をめぐる理論的な問題について考え直してみる必要があるように思われる。
  そこで、つぎに、最近のドイツの学説に目を向けてみたいと思う。必要的共犯をめぐる諸問題がそこでどのように解決され、あるいは未解決のまま残されているのかを知ることは、わが国の必要的共犯論の発展にとって有益であると考えるからである。もっとも、個々の学説を詳細に検討する必要はない。さしあたっては、通説的な見解を軸にしながら、現在のドイツの学説状況を概観すれば十分であろう。

 

 第二節  最近のドイツにおける必要的共犯論の概観

  一  現在の学説状況

  (1) 問題領域と不処罰の範囲    最近のドイツの文献で扱われている必要的共犯(片面的対向犯)の問題領域は、基本的には次の三つの領域に整理できるように思われる(1)。すなわち、@必要的関与者が犯罪の被害者である場合(被害者の関与)、A犯人・被拘禁者による被拘禁者の解放(一二〇条)の教唆および処罰妨害(二五八条)の教唆、Bそれ以外の必要的共犯、である。@とBに分類されている犯罪を具体的にみてみると、@には、要求による殺人(二一六条)、暴利罪(二九一条〔旧三〇二条a〕)、保護を命じられた者の性的乱用(一七四条)、未成年者の奪取(二三五条)などが、Bには、債権者庇護罪(二八三条c)、依頼者に対する背信行為(三五六条)などが、それぞれ例示されている。
  つぎに、各領域ごとに、必要的関与者が不可罰とされている範囲をみてみよう。まず、@とAの場合は、必要的関与者の関与の程度を問わず、つねに不可罰であると解されている。この点についてはドイツの学説は一致しているとみてよい。しかしながら、Bの場合は、学説上争いがある。通説は、犯罪実現(構成要件実現)に必要な最小限度の範囲内にあるかぎり必要的関与行為は不可罰であると解している(2)(本稿ではこのような考え方を「必要的共犯の理論」とよぶことにする)。たとえば、債権者庇護罪の場合、債務者からの優遇弁済を単に受領したにすぎない債権者は、共犯としても不可罰であるとされている(3)。判例も同様である(4)。これに対し、反対説は、必要的関与者の関与が犯罪実現に必要な最小限度の範囲内にある場合であっても、共犯の成立要件をみたす以上、共犯として可罰的であるとする(5)。そこでは、たとえば、優遇弁済を単純に受領したにすぎない債権者も、債権者庇護罪の共犯として可罰的であるとされている。

  (2)  不処罰の根拠    必要的共犯の問題領域は右のように三つに整理することができるが、不処罰の根拠をめぐる学説状況はやや複雑である。
  まず、@の「被害者の関与」では、関与者が被害者であること、つまり刑罰法規がその者の保護を目的としていることそれ自体を不処罰の根拠とする見解がある(6)。従来の通説である。わが国の「実質説」(平野、大越、西田説など)の主張に対応するものといってよい。これに対し、最近では、被害者(法益の主体)に対しては法益は保護されていない(したがって被害者は法益侵害を惹起しえない)ので、共犯としても処罰されないとする見解が有力になってきている(7)。たとえば、被殺者に対しては自分の生命は保護されていないので(法益保護の欠如)、被殺者は要求による殺人(二一六条)の(未遂の)共犯にはならない、と説明される。
  つぎに、Aの場合、つまり犯人・被拘禁者による被拘禁者の解放(一二〇条)または処罰妨害(二五八条)の教唆については、まず、責任減少(緊急避難類似状況)に不処罰の根拠を求める見解がある(8)。期待可能性の欠如を根拠とするわが国の見解(平野、大越、西田説など)に対応するものといってよい。これに対し、刑事訴追・刑の執行という法益は犯人や被拘禁者に対しては保護されていないこと(法益保護の欠如)に不処罰の根拠を求める見解も有力である(9)
  最後にBであるが、ここでは、@およびAで妥当した不処罰の根拠はあてはまらない。それゆえ、この場合には、必要的関与者はつねに共犯として処罰されるとする見解が存在するわけである。これに対し、通説は、構成要件実現に必要な最小限度の関与は不可罰であるとしている。問題はその理論的な根拠であるが、これについては、わが国の「立法者意思説」(団藤説)とほぼ同様の論証がなされている。たとえば、ロクシンは、「立法者は対向犯において双方の関与行為を可罰的と宣言する場合つねにこれを明文で規定するのであり(たとえば一七三条〔親族間の性交〕または三三一条以下〔贈収賄〕)、その反対の結論として、構成要件上必要な最小限度の関与行為の不可罰性は明白である」と述べている(10)
  ところで、必要的共犯の問題は共犯(教唆・幇助)の成否の問題であるから、共犯の処罰根拠をめぐる議論と無縁ではない。実際、ドイツの共犯処罰根拠論は、必要的共犯の不処罰との理論的整合性を論点の一つとして展開されてきた、との指摘もある(11)。その意味では、必要的共犯の問題について考える際に共犯の処罰根拠論をまったく無視するわけにはいかない(12)
  そこで、共犯の処罰根拠という観点から右の議論をながめてみると、つぎのことが明らかになる(13)。第一に、@とAにおいて、「被害者」「責任減少」を根拠に必要的関与者の不処罰を説明する見解は共犯不法の正犯不法への従属性(連帯性)を重視する「不法共犯説」ないし「修正惹起説」(ヴェルツェル、イェシェックなど)を採用しているのに対し、「法益保護の欠如」を不処罰の根拠とする見解は共犯者からみた構成要件該当結果の惹起を共犯処罰の必要条件とする「純粋惹起説」(リューダーセン)ないし「混合惹起説」(ザムゾン、ロクシン)を採用しているということである。第二に、Bの場合には、このような対応関係は必ずしも存在しないということである。いったい、このことは、何を意味するのであろうか。つぎに、この点を解明してみたいと思う。この作業によって、必要的共犯の問題に対して現在のドイツの共犯の処罰根拠論が果たしている役割とその限界を明らかにすることができると考えるからである。

(1)  Vgl. etwa Hans−Heinrich Jescheck/Thomas Weigend, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 1996, S. 698f.;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor §26 Rdn. 34ff.;Gu¨nther Jakobs, Strafrecht, Allgemeiner Teil, 2. Aufl., 1991, S. 695f. なお、イェシェック・ヴァイゲントの教科書については、西原春夫監訳『ドイツ刑法総論・第五版』(一九九九年)五四八頁以下参照。
(2)  Roxin, aaO (Anm. 1) Rdn. 34.
(3)  Vgl. etwa Roxin, aaO (Anm. 1) Rdn. 37;Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 345.
(4)  BGH NJW 1993, 1278.
(5)  Jakobs, aaO (Anm. 1) S. 696;Rolf Dietrich Herzberg, Ta¨terschaft und Teilnahme, 1977, S. 138f.;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 166ff.
(6)  Jescheck/Weigend, aaO (Anm. 1) S. 699;Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 123.
(7)  Roxin, aaO (Anm. 1) Rdn. 38;Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 131f, 167;Erich Samson, in:SK, Bd 1, 1993, Vor §26 Rdn. 17, 24.
(8)  Jescheck/Weigend, aaO (Anm. 1) S. 699;Welzel, aaO (Anm. 6) S. 123.
(9)  Roxin, aaO (Anm. 1) Rdn. 39;Lu¨derssen, aaO (Anm. 7) S. 169ff.
(10)  Roxin, aaO (Anm. 1) Rdn. 37.
(11)  松宮孝明『刑法総論講義』(第二版・一九九九年)二七四頁。
(12)  現に、必要的共犯に関する比較的最近のモノグラフィーでも、共犯の処罰根拠は扱われている。Sowada, aaO (Anm. 5) S. 67ff.;Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 69ff.
(13)  共犯の処罰根拠に関する学説の整理の仕方は必ずしも統一されていないが、本稿では、つぎの文献を参考にした。Samson, aaO(Anm. 7) Rdn. 4ff.;Roxin, aa O (Anm. 1) Rdn. 1ff.;高橋則夫『共犯体系と共犯理論』(一九八八年)九一頁以下、斉藤誠二「共犯の処罰の根拠についての管見」下村康正先生古稀祝賀『刑事法学の新動向・上巻』(一九九五年)一頁以下、松宮・前掲注(11)二七三頁以下。なお、ドイツの共犯の処罰根拠論を分析・検討した最近の文献として、増田豊「共犯の規範構造と不法の人格性の理論−共犯の処罰根拠と処罰条件をめぐって−」法律論叢七一巻六号(一九九九年)一頁以下がある。

 

  二  共犯の処罰根拠論の役割とその限界

  現在のドイツでは、共犯の処罰根拠に関する学説として、不法共犯説、修正惹起説(従属性志向惹起説)、純粋惹起説、および混合惹起説が主張されている。以下、それぞれについて、必要的共犯(片面的対向犯)の問題がどのように処理されているかを見てみることにしよう。

  (1)  不法共犯説、修正惹起説    「不法共犯説」とは、正犯不法(構成要件に該当する違法な行為)を誘発または促進した点に共犯の処罰根拠を求める見解である(1)。これを純粋に貫くならば、被害者の関与、犯人による処罰妨害の教唆は可罰的となる。それらの行為も正犯の不法を誘発または促進することに変わりはないからである。しかし、それでは、通説と結論が異なってしまう。そこで、不法共犯説の論者は、関与者が「被害者」であることや「緊急避難類似状況」にあることを根拠に、その不可罰性を説明するのである(2)
  「修正惹起説」の論者も、右のような説明方法を採用する。ここにいう「修正惹起説」とは、構成要件上の法益侵害の惹起に共犯の処罰根拠を求めつつ、他方で共犯不法の正犯不法への従属性(連帯性)を重視する見解である(3)。「従属性志向惹起説」ともよばれる(4)。「共犯不法の正犯不法への従属」とは、共犯不法は正犯不法から導かれる(正犯不法に規定される)という意味である(5)。共犯不法の従属的性格が重視されるこの修正惹起説(従属性志向惹起説)からは、本来ならば、被害者の関与、犯人による処罰妨害の教唆は可罰的となる。正犯不法が存在する以上、共犯不法も存在すると解されるからである。しかし、このような結論は採りえない。そこで、修正惹起説の論者は、「被害者の地位」「緊急避難類似状況」といった、共犯の処罰根拠とは別次元の根拠を援用して、これらの不処罰を説明するわけである(6)
  このように、不法共犯説・修正惹起説では、共犯不法がもっぱら正犯不法によって規定されることになるため、共犯の処罰根拠とは別の外在的な理由によって必要的共犯(被害者、犯人の関与)の不処罰を説明せざるをえなくなる。つまり、ここでは、共犯の処罰根拠それ自体は必要的共犯の問題解決に役割を果たすどころか、むしろそれと矛盾する内容を含んでいることになる。

  (2)  純粋惹起説、混合惹起説    これに対し、共犯者が自分自身に対して保護されている法益を侵害すること(共犯者から見た構成要件該当結果の惹起)に共犯の処罰根拠を求める「純粋惹起説(7)」および「混合惹起説(8)」からは、被害者の関与、犯人による処罰妨害の教唆の不可罰性はストレートに導かれる。なぜなら、そこで問題となる法益は被害者や犯人以外の者の攻撃から保護されているのであって、被害者や犯人に対しては保護されていないからである(9)。純粋惹起説と混合惹起説は、被害者や犯人の関与の不処罰を根拠づける役割を十分に果たしているといってよいであろう。
  ところで、純粋惹起説と混合惹起説の違いはどこにあるのだろうか。結論からいえば、正犯不法の存在を不要とするのが純粋惹起説、必要と解するのが混合惹起説である(10)。たとえば、純粋惹起説からは、ドイツでは処罰規定の置かれていない自殺関与も殺人罪の共犯として可罰的になる。なぜなら、自殺者の生命は自殺関与者に対しては保護されており、関与者はこれを侵害することができるからである(11)。これに対し、混合惹起説からは、自殺関与は不可罰になる。正犯不法が存在しないからである。つまり、純粋惹起説が共犯者から見た構成要件該当結果の惹起(共犯固有の不法)のみで共犯処罰は可能であるとするのに対し、混合惹起説は共犯固有の不法に加えて正犯による構成要件該当結果の惹起(正犯不法)の存在をも要求するのである。ここに両説の違いがある。
  しかし、両説は、共犯者から見た構成要件該当結果の惹起(共犯固有の不法)を共犯処罰の必要条件とする点ではまったく共通している。「惹起説とは、共犯者は自己の不法と責任に対して罪責を負う、という結論に帰着する見解である(12)」とすれば、これは当然のことであろう。つまり、「惹起説」とは、本来、共犯者から見た構成要件該当結果の惹起(共犯固有の不法)を共犯処罰の必要条件とする見解なのである(13)。たしかに、修正惹起説(従属性志向惹起説)も「惹起説」という名称を共有してはいるが、それは、共犯不法の正犯不法への連帯という意味での従属性原理によって本来の「惹起説」を修正したものである(14)。その意味で、修正惹起説は「惹起説」ではない。そこで、本稿では、以下、純粋惹起説、混合惹起説をあわせて「惹起説」とよぶことにする。

  (3)  共犯の処罰根拠論の限界    さて、「惹起説」からは、右にみたように、被害者の関与や犯人による処罰妨害の教唆の不処罰が容易に導かれた。そのかぎりで、「惹起説」が必要的共犯の問題に果たす役割はたしかに大きい(15)。しかし、必要的共犯には、もう一つの領域が残されている。債権者庇護罪(二八三条c)や依頼者に対する背信行為(三五六条)などである。これらの犯罪では、法益は必要的関与者に対しても保護されている。したがって、ここでは、法益保護の欠如に着目する「惹起説」からは不処罰をただちに導くことはできない。
  そこで、「惹起説」の主張者も、この場合は「必要的共犯の理論」(構成要件の実現に必要な最小限度の関与は不可罰であるとする考え方)を援用せざるをえなくなる(16)。不法共犯説、修正惹起説の場合はなおさらである。ここに、現在の共犯の処罰根拠論の限界があるといってよい(17)

(1)  Vgl. Erich Samson, in:SK, Bd 1, 1993, Vor §26 Rdn. 6.
(2)  たとえば、Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 123.
(3)  Vgl. Samson, aaO (Anm. 1) Rdn. 10;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor §26 Rdn. 17;高橋則夫『共犯体系と共犯理論』(一九八八年)一六五頁、松宮孝明『刑法総論講義』(第二版・一九九九年)二七四頁。
(4)  Roxin, aaO (Anm. 3) Rdn. 17.
(5)  Samson, aaO (Anm. 1) Rdn. 10;Roxin, aaO (Anm. 3) Rdn. 17.
(6)  たとえば、Hans−Heinrich Jescheck/Thomas Weigend, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 1996, S. 699.
(7)  Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 117ff.
(8)  Samson, aaO (Anm. 1) Rdn. 11ff.;Roxin, aaO (Anm. 3) Rdn. 1ff.
(9)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 7) S. 131f, 167, 169;Roxin, aaO (Anm. 3) Rdn. 38f. 犯人に対して司法作用(刑事訴追・執行)が保護されていないという主張については、第二章で検討する。
(10)  松宮孝明「『共犯の処罰根拠』について」立命館法学二五六号(一九九八年)八二頁。
(11)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 7) S. 168, 214f.
(12)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 7) S. 25.
(13)  松宮・前掲注(10)八〇頁、八二頁。
(14)  なお、この点につき、山中敬一「因果的共犯論と責任共犯論」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)九九頁参照。
(15)  Claus Roxin, Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 370.
(16)  Roxin, aaO (Anm. 3) Rdn. 37, 41.
(17)  したがって、「惹起説からは必要的共犯は不可罰になる」という説明は不正確である。それは、被害者の関与や犯人による処罰妨害(犯人蔵匿・証拠隠滅)の教唆にかぎり、という限定つきなのである。


 第三節  小      括

  以上の検討から明らかになったことを整理すると、つぎのようになろう。
  まず、わが国の学説状況については、すでに該当箇所の小括で簡単なまとめをしておいたが、再度結論だけ述べておくと、第一に、「立法者意思説」と「実質説」のそれぞれに理論的な問題が少なからず残されていること、第二に、「立法者意思説」対「実質説」という対立図式そのものが問題の解決にとって必ずしも有益でないこと、第三に、共犯の処罰根拠(因果共犯論)からのアプローチにも未解決の問題が残されていること、を指摘できる。
  つぎに、最近のドイツの学説状況からは、第一に、必要的共犯(片面的対向犯)の問題領域が大きく分けて三つの領域(被害者の関与、犯人による処罰妨害の教唆、その他)に整理できること、第二に、不処罰の範囲について、被害者の関与、犯人による処罰妨害の教唆の場合は関与の程度を問わずつねに不可罰とされているが、その他の場合(債権者庇護罪など)は学説上争いがあり、通説は構成要件実現に必要な最小限度の範囲内にあるかぎり不可罰であるとする立場(「必要的共犯の理論」)をとっていること、第三に、不処罰の根拠については、共犯不法の正犯不法への従属性(連帯性)を重視する不法共犯説ないし修正惹起説では「被害者の地位」「緊急避難類似状況」といった共犯の処罰根拠とは別の観点から被害者の関与、犯人による処罰妨害の教唆の不可罰性が説明されているのに対し、共犯者からみた構成要件該当結果の惹起(共犯固有の不法)に共犯の処罰根拠を求める「惹起説」(純粋惹起説、混合惹起説)からはこれらの不処罰がストレートに導かれること、第四に、しかし「惹起説」も第三の領域(共犯者からみた構成要件該当結果の惹起では必要的関与者の不処罰を説明できない債権者庇護罪など)では「必要的共犯の理論」を援用せざるをえず、ここに「惹起説」さらには共犯の処罰根拠論の限界があること、が明らかになったように思われる。
  さて、以上のことをふまえて、つぎはいよいよ解決策の検討に移らなければならないわけであるが、ここであらかじめその手順と内容を簡単に示しておこう。まず、第二章、第三章では、わが国およびドイツでこれまでに議論されてきた必要的共犯の問題を、本章で明らかにしたドイツ学説の整理(三つの領域)にしたがって順に検討する。第二章では、被害者の関与、犯人による処罰妨害(犯人蔵匿・証拠隠滅)の教唆が扱われる。この二つの領域は、ドイツの学説では結論が不可罰で一致しており、また、本稿においても、従来の「惹起説」から統一的に処理できるのではないかと予想されるからである。ついで、第三章では、第三の領域、すなわちこれまでの「惹起説」では不処罰の根拠と範囲を十分に説明できなかった領域(債権者庇護罪などの「他者侵害的な片面的対向犯」)を扱う。ここでは、まず、ドイツの「惹起説」(および不法共犯説、修正惹起説)の論者が援用する「必要的共犯の理論」の概要をおさえ、その問題点を明らかにする。そのうえで、これに代わるあらたな解決方法はないか探究する。そして最後に、判例上問題となった個別事例の紹介と検討を行い、これまでの検討からはこれらの事例がどのように解決されるべきかを明らかにする。
  さらに、本稿では、これまで十分に検討されてこなかった、必要的共犯(対向犯)に対する第三者の関与(第三者的共犯)の問題をも扱う(第四章)。必要的共犯(対向犯)の周辺に第三関与者が存在することはしばしば予想される事態であり(1)、実際、ドイツのみならず、わが国においても、第三者の関与を扱った判例が登場しているのである(2)。第四章では、第三者的共犯についての問題提起を行ったうえで、この問題の解決に向けた一試論を展開してみたいと思う。

(1)  Vgl. Joachim Bohnert, Beteiligung an notwendiger Beteiligung am Beispiel der Mietpreisu¨berho¨hung (§5 WiStG), in:Geda¨chtnisschrift fu¨r Karlheinz Meyer, 1990, S. 519. そこでは、不当に高価な賃料で住居を賃貸する行為を秩序違反とするドイツ経済刑法五条(§5 WiStG)について、今日では、新聞広告、友人、知人、隣人の紹介など、第三者が関係する場合がほとんどであると指摘されている。
(2)  BGHSt 37, 207(贈収賄への関与)、東京地判平成六年一〇月一七日判例時報一五七四号三三頁(出資法三条違反の罪への関与)。


本稿は、平成一一年度(一九九九年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。