立命館法学 1999年1号(263号) 1頁(1頁)




公害・環境私法史研究序説(三・完)



吉村 良一


は じ め に

第一章  わが国における公害・環境法の展開と特質
  一  時期区分
  二  前史(戦前−戦後復興期)
  三  公害法制の成立と発展
  四  環境問題の広がりと環境政策・法の停滞
  五  一九九〇年代における変化
  六  小括    (以上、二六一号)
第二章  公害・環境私法理論・前史(戦前−高度成長・前期)


  一  戦前期の環境問題
  二  民法典の形成期
  三  無過失責任立法と法理論    (以上、二六二号)
  四  公害をめぐる判例と学説
    (1)はじめに
    (2)明治後期の法理論
    (3)明治末から昭和前期(戦前期)における理論展開
    (4)戦後の法理論(高度成長・前期まで)
お わ り に    (以上、本号)



四  公害をめぐる判例と学説


  (1)  は じ め に

  本章の課題は、わが国の公害(私)法が本格的な発展を遂げる一九六〇年代以降の前段階、すなわち、第一章の時期区分に従えば、戦前から戦後復興期(公害・環境法の前史にあたる時期)と、深刻な公害問題が社会的な関心を集めながら、なお本格的な立法や法理論の展開がなされたとは言えない高度成長・前期までの段階において、公害に対し法(私法)理論はどのように対応してきたのかを明らかにすることにあった。そして、前節までの検討において、いくつかの重要な点が明らかになった。まず第一は、公害問題は明治のかなり早い時期から発生し、特に、第一次大戦を契機としたわが国の重化学工業の発展の中で、規模的広がりにおいても質の多様性という点でも深刻なものとなったこと、さらに、この時期にわが国の近代的産業は、公害防止のために抜本的で新たな設備や技術を開発・導入することが必要な段階になったのにもかかわらず、日立鉱山における煙害対策のための高煙突建設のような先進的な例はあるものの、全体としては、殖産興業、さらには産業の軍事化の進行のなかで、企業自身の適切な対策もそれを企業に実施させる国の政策も十全にはとられなかったことが確認できた。
  他方、法理論面では、明治一〇年代からすでに無過失責任は知られていたが、旧民法も現行民法典も、民法典内部にこれを取り込むことはせず、民法上の不法行為については過失責任主義を貫徹した。そしてその理由として、例えば、法典調査会において穂積陳重起草委員は、「各人ノ働キ、自由ノ範囲」を確かなものとすること、「取引ノ発達」を害しないことを上げている。同時に、現行民法典には、過失要件とならんで権利侵害要件が挿入されたが、起草委員の説明では、これもまた、不法行為の「境ヒ」を明確にすることにより、人の活動自由に配慮したものであった。このように、現行民法典は、人々の活動の自由や経済活動の自由をできるだけ保障するという立場をとったわけであるが、同時に、鉄道・運送業・製造業等の危険な事業について特別法により無過失責任を認めることに否定的な態度はとっていない(92)。さらに、過失論においても、この段階では、過失の有無を判断する際に行為の社会的有用性や防止費用を問題にするといった考え方は見られず、また、権利侵害における権利としては、いわゆる絶対権に限らず広いものが考えられていた。つまり、二重の要件的な絞りはかけるが、「過失による権利侵害があれば賠償すべきである」とするのが起草者の立場であり、行為の社会的有用性等を考慮して不法行為の成立を限定するといった考え方は、少なくとも前面には出ていなかったのである。
  しかし、起草者が否定しなかった無過失責任特別法の制定は、わが国の場合、前節で述べたように、戦前から戦後にかけて一貫して不備であり、公害については一九三九年の改正鉱業法七四条ノ二が唯一のものであった。しかも、この規定は、住民の運動の中から形成されてきた賠償慣行の成立が前提となっており、そのような賠償要求がこれ以上他産業に広がらないように、一種の歯止めとして作られたという事情も存在した。無過失責任特別法のこのような事情から、危険責任立法が比較的早く整備されていったドイツのような国と比較して、わが国の場合、公害被害者の救済にあたっては、民法の不法行為規定の役割が大きくならざるをえないという状況が生じた。本節における課題は、以上のような無過失責任法の不備の中で、民法典成立以降の民法上の不法行為規定に関する判例や学説において、公害問題をはじめとする現代的な危険の結果としての被害を防止・救済するためにどのように議論がなされたかを検討することにある。ここでの理論展開が一九六〇年代後半以降の公害反対運動の高揚期における公害法理論発展の直接の前提となるため、その分析は、公害私法史研究において重要な意味を有している。
  あらかじめ簡単に検討対象の時期区分を行っておきたい。第一の時期は、民法典公布後の明治後期であり、この時期には、民法学全般において、起草者や起草関係者の考え方を中心に議論が展開するが、しだいに、それから離れる傾向も表れてくる(93)。公害問題について言えば、鉱害はすでに深刻な社会問題となっていたが、若干の例外を除いて、それに正面から取り組む判例や学説は見られない。第二の時期は、明治末から昭和前期(戦前期)である。この時期には、前述したようなわが国の産業の状況を反映して公害問題が本格化し、その中で、それに正面から取り組む判例や学説が登場する。例えば、浅野セメント工場の降灰被害の問題を検討した鳩山秀夫博士の論文「工業会社の営業行為に基く損害賠償請求権と不作為の請求権」(一九一一年)や、大阪アルカリ事件に関する判決(大審院判決は一九一六年)などがその代表的なものである。そして、そのような判例・学説の展開の中で、ある種の特色を持った理論枠組みが形成され、それが戦後に引き継がれ、一九六〇年代における公害不法行為法論の(よかれあしかれ)基礎となるのである。第三は戦後期(昭和三〇年代頃まで)であり、この時期には、右に述べたように、基本的には戦前の理論枠組みが継承されるが、公害問題が深刻化する中で、下級審を中心に実務が積み重ねられ、同時に、次の時期につながる萌芽的な議論も登場してくる。

  (2)  明治後期の法理論

  民法典公布(一八九五年)から明治末の時期には、すでに鉱毒事件等の問題が発生していたが、直接その賠償問題を扱う業績は見当たらない。そこで、ここでは、問題を公害に限定せず、不法行為の基本要件の理解と、それを危険な活動(鉄道・電気事業等)にともなう事故事例にどうあてはめようとしたかを中心に検討してみることにしたい。まず、民法典起草者や起草作業関係者の見解を見てみよう。起草委員が体系書レベルで不法行為にふれたものは多くない。例えば、梅謙次郎博士は、その大著『民法要議』において、民法七〇九条の説明として、不法行為については、他人の権利を侵害した以上は損害が発生しなくても賠償義務を課す主義(英法)と損害を必須の要件にする主義(大陸法)があるがわが国は後者の立場をとったこと、したがって、七〇九条の要件は権利侵害と損害であると述べているだけで過失については言及せず、権利侵害における権利の意味についても説明していない(94)。ただし、第二節で紹介したように、公刊されたものではないが、鉱毒事件に関する梅博士の文書が存在すること、そこでは、公的規制の有無を問わず、通常の鉱業権者の注意(「普通ノ鉱業人カ為スヘキ注意」)を遵守しなければ賠償義務を負うことがありうるとしていることが注目される(95)。さらに、起草委員の一人であった富井政章博士の『民法原論』は、債権法の部分の公刊が一九二九年になるが、関連するのでここで紹介しておく(96)。博士はまず、過失がないのに損害賠償責任を負わせるのは「正義ノ観念ニ反シ且日常生活ノ自由及ヒ安全ヲ保障スルコト」ができないとして過失責任主義の意義を説明し、その上で、過失を、「結果ヲ予見スルコトヲ得ヘカリシニ怠リテ之ヲ予見セサリシコト」と定義している。そして、結果予見に必要な注意の程度は「各場合ニ於ケル注意義務ノ程度ヲ標準トス」とする。
  さらにこの時期には、起草委員ではないが、法典調査会委員や起草委員補助として起草に関係した人々の注釈・解説書がいくつか存在する。その中の一つ、長谷川喬、岸本辰雄両法典調査会委員の著書には、過失について次のような叙述がある(97)。すなわち、諸国の立法例には原因主義と過失主義の二つがあるが、前者は「各人活動ノ妨害」となるのでわが国では後者を採用した。したがって、侵害結果を発生させないように「十分ノ注意ヲ尽クシ疎慮又ハ懈怠タル過失」がなければ不法行為とはならない。その結果、不可抗力によるものや「自己ノ権利行使ニ出ツル行為」は不法行為とはならない。後者の点は、一見すると、権利行使の絶対性をいうもののようにも思われるが、著者が説明のためにあげているのは、他人が自分を殺傷しようとしたので防衛のためにその他人を殺傷した事例や、他人の家が倒壊して自分の身体・財産が害されようとしている場合にその家屋の一部を毀損するという、いずれも民法七二〇条が適用されるケースであり、許可を受けた(その意味で適法な)鉱山や工場の操業が他人に損害を発生させたといった事例が念頭に置かれているわけではない。さらに、法典調査会において起草委員の補助をつとめた松波仁一郎、仁保亀松、仁井田益太郎の三氏の共著である『帝国民法正解』には、不法行為の要件に関して次のような叙述がある(98)。まず、不法行為の第一の要件は「他人ノ権利ヲ侵害シタルコト」である。すなわち、私法上の不法行為は「各人相互ノ間ニ生スル違法ノ行為」であり、法律が各人の権利を認めてその利益を保全したる以上は、他人の権利の侵害は、その権利を保護する法律または命令に違反するものとして不法行為責任が発生する。ここにいう権利は単に財産権だけではなく広く「生命、身体、自由ノ如キ所謂人身権ヲモ包含スヘキ」は疑いがない。さらに、不法行為が成立するためには、権利侵害が「故意又ハ過失ニ基キタルコト」を要する。故意・過失は「心意上ノ状態」を考察するものであり、過失とは「不注意ニ因リテ害ヲ加フルニ至リタルコト」を言う。以上の叙述においては、故意・過失が「心意上ノ状態」とされていること、さらに、権利侵害要件がすでに行為の「違法」性と結びつけて理解されていることが注目される。
  以上の、何らかの意味で民法典の起草に関与していた者による解説以外にも、すでにこの時期、いくつかの不法行為ないし損害賠償法についての教科書・体系書が公刊されている。ここでは、菱谷精吾『不法行為論』と団野新之『損害賠償論』を取り上げてみよう。まず前者は、不法行為の要件を、不法の存在(権利侵害と故意・過失)と実害の発生に分けた上で、ドイツ民法八二三条二項や八二六条のような規定を欠くわが国においては、権利侵害は「頗ル広汎ノ意義ヲ以テ之レヲ解釈」すべしとする(99)。そして、過失については、「消極及積極ノ注意義務アル場合ニ之レカ注意ヲ欠クコトニ因リ権利侵害ノ事実ヲ予メ認識シ得ヘキニ認識セサルノ心理状態」として、それを心理状態における不注意と解しつつも、単なる緊張の欠如といった抽象的なものではなく、何らかの注意義務を前提にしたものと考えている。本稿の視点から興味深いのは、その注意の程度は、注意をなすべき対象によって異なるので客観的に定めるべきであり、「火薬庫ニテ点火スルト庭園ニ於テ点火スル」のでは注意の程度は異なるとして、行為の危険性に応じた注意義務の程度の確定という主張を行っていることである(100)。一方、後者においては、まず、損害賠償は権利侵害行為により発生するものであり、権利侵害は法律上の「違法阻却原因ノ存セサル限リ違法」となるとして、権利侵害要件に結びつけて違法概念を使用している点が目をひく。そして本書でも、権利侵害にいう権利は「一切ノ権利」であり、「法律上権利トシテ承認セラルルモノハ対世的効力ヲ有スル」のでそれが侵害されれば不法行為が成立すると、広く解されている(101)。他方、故意とは「違法ノ結果ノ総括的予見」であり、過失は「相当ノ注意ヲ用ヰタランニハ当該結果ヲ予見シ得ヘカリシニ意思活動ニ際シ其注意ヲ欠缺セルニ因リ之ヲ予見セサリシコト」として、主観的要件としての位置づけを明確にしている(102)
  以上の検討によって、この時期の学説の主流は、権利侵害(=違法もしくは不法)と故意・過失要件を二元的に区別し、前者を「一切ノ権利」等と広く解し、後者については「予見=心理状態」であるが、その前提として注意義務を措定し、その内容を行為の性質によって確定するという立場をとっていたこと、そして、権利侵害があっても(明確な阻却事由がないのにもかかわらず)行為の社会的有用性等を考慮して賠償を否定する考え方や、結果の予見可能性があるにもかかわらず過失を否定するといった理論をとっていないことが確認できた。ところで、これらの学説は、近代的な産業の発展にともなう新しい被害について直接に論ずるものではなかったが、この時期すでに、このような問題を正面から扱い、注目すべき見解を述べる論文がいくつか存在している。例えば、前節ですでにふれた磯谷幸次郎「不法行為ニ要スル過失ノ程度」は、自己の行為、自己の管理経営する事業のために他人に損害を加えながら故意過失がないとしてその損害の全部を被害者の負担にさせることが果たして衡平と言えるか、不法行為が刑事的懲罰の要素を失い、同時に、商工業の発達によって様々の危険が増大するにつれて、過失責任主義への疑問が生じたとして、プロイセン鉄道法、同鉱山法、責任義務法、イギリスの「ライランド対フレッチャー事件」などをあげ、立法論として無過失責任の必要性を指摘している。その上で、同論文は、解釈論としては「過失ノ程度如何」を問題にし、「危険ナル工作物ヲ有スル者ハ其危険ヲ予防スルノ絶対的義務アルモノトセハ苟モ之ヲ怠リ他人ニ損害ヲ加ヘタル以上ハ是レ即チ過失ノ状態ニアルモノト云ハサルヲ得ス」という見解を述べている(103)。この主張が具体的に念頭に置いているのは電線架設にともなう事故だが、企業活動の危険性の高まりに即応して防止義務を高度化し、危険な企業に「絶対的危険予防義務」を課すという議論は、もしそれを公害事例に当てはめれば、被害者救済にとって極めて大きな意義を持ちうるものであった。しかし、ここでは、公鉱害問題は直接には検討されていない。
  さらに、過失の立証責任についても注目すべき主張がある。すなわち、山田三良博士の見解である。博士は、漏電による失火につき被告の過失の立証責任は被害者にあるとした大審院判決(大判明四〇・三・二五民録一三・三二八だと思われる)を批判し、「電燈ガ損害発生ノ原因タリシ事実ヲ証明シタルトキハ、既ニ被告ニ過失アルコト即チ電燈ノ装置ニ欠点アリシ結果タルコトヲ一応証明セシモノト謂フベシ」、なぜなら、「電燈ノ装置ニ欠点ナキ限リハ斯ル災害ハ発生スルノ理ナキヤ明白ナレバナリ」とする(104)。同時に博士は、危険な事業に従事する者は「最上ノ注意」を払うべきとして、磯谷論文と同様の注意義務論をも主張している。両方の点で、公害の賠償を考える上では興味深い主張である。ただし、ここでも、公鉱害は念頭に置かれていないようである。
  最後にこの時期の判例について検討を加えておこう。まず、一九一六年の大阪アルカリ事件大審院判決まで、大審院レベルで七〇九条の過失の有無が争点となった判例はそれほど多くなく、そのうち、不法行為者が一定の権限があると誤信して行為し他人に損害を与えたという事例が複数あり、そこでは、権限ありと信じたという行為者の心理状態が過失の核心とされている(105)。しかし、危険な活動による人身事故については、大審院も、活動の危険性から一定の回避義務を設定し、その違反をもって過失とする考え方を示している。例えば、電線架設にともなう事故に関する大審院判決(大判明治三二・一二・七民録五・一一・三二)は、被告会社側からの、過失の有無はこの工事が取締規定を遵守したものか、あるいは、監督官庁の容認したものかどうかによるべきだとの上告を、行政官庁の許可は私法上の責任を免れさせるものではないとした上で、「電線架設ノ如キ危険予防ノ設備ニシテ欠クル所アランカ之レカ為メニ損害ヲ蒙リタル者アル場合ニ於テ其賠償ノ責ヲ免ルルコト能ハサル」としている。
  ただ、この時期、加害行為が権利行使にあたることや行政上許可された行為であることを理由に、不法行為の成立を否定する判例が存在することも目を引く。例えば、一九〇二年に大審院は、被告が土手を築いたために原告の田畑に浸水し被害が生じたという事案において、被告が土手を築くのは「古来ノ慣行ニ因リ取得シタル権利」であり、その権利行使によって被害が発生しても賠償責任を負わないとしており(大判明治三五・五・一六民録八・五・六九)、さらに、土地の掘鑿によって他の土地の温泉に影響を与えた事案で、大審院はやはり、土地所有者は法令の制限内において自由にその土地を使用収益処分する権利を有するのであるから、土地の掘鑿によって他人の土地の温泉に影響を与えても不法行為にはならないとする(大判明治三八・一二・二〇民録一一・一七七〇二)。後者に類似したケースは、本章第二節において紹介した、旧民法の解説書等でも設例としてあげられていたが、そこでは被害を受けた者の利益が権利といえるかどうかが主要に問題とされていたのに対し、ここではむしろ、行為者の権利行使にあたることが不法行為不成立の根拠として強調されていることが注目される。この点に関連して、時期的には、ここで検討しているよりもう少し後の、大阪アルカリ事件大審院判決の直前になるが、電鉄会社が軌道設置工事において原告の漁業権を侵害した事例において、鉄道企業の「特許」は一般私人が経営できない企業を実施することができる権利を付与するものにすぎず、他人の権利を無視する権利を付与したものではないとして責任を認めた原審を破棄して、被告は軌道条例その他の法令により軌道を布設することを特許され、その命令に従って架橋したものであり、たとえ原告の漁業権を害したとしてもそれは行政命令のしからしむるところであり、被告の不法行為にはならないとした大審院判決がある(大正五・五・一六民録二二・九七三)。これに対しては、美濃部達吉博士の、軌道設置の特許は国家と企業との間にのみ効力を有し、第三者の権利侵害を許容したものではないとする厳しい批判がある(106)が、これらの一連の、適法な権利行使は原則として不法行為とならないとする判決には、後の大阪アルカリ事件以降の公害事件においてしばしば主張されるのと類似した思考様式が存在する。しかし、それが、民法典の起草者以降の明治期の判例・学説の主流の考え方と相いれるものであったかどうかには疑問がないわけではない。

  (3)  明治末から昭和前期(戦前期)における理論展開

    イ.浅野セメント事件と鳩山論文

  明治末から日本の民法学は新しい時代に入ったとされる。すなわち、「立法者(起草者)の考えによる民法典の解説・注釈」の時代から「ドイツ法学の全盛」の時代への転換である(107)。同時に、この時期には、各地の鉱毒事件、東京・深川の降灰事件や大阪の煤煙問題等の公害が社会問題化し、それと正面から取り組む学説や判例が登場する。まず最初に、浅野セメント事件をきっかけに公害問題を正面から検討した鳩山秀夫博士の論文(108)を取りあげてみよう。一八八三年に工部省から民間に払い下げられた浅野セメント深川工場は、その直後から降灰問題を発生させたが、特に、一九〇三年の回転窯の運転開始にともない被害が深刻化し、地元での公害反対運動の結果、一九一一年には、五年後(後に一年延期)に工場を移転させるという協定が締結されている。鳩山論文が公表されたのは、以上の経過の中で言えば、被害の深刻化の中で地元の運動が高揚し、工場側に移転を約束させるにいたる時期なのである(109)
  鳩山博士はまず、今日いうところの「先住性」の問題について、加害者が従来「人煙極めて稀」な土地で当該行為を継続してきたからといって、それはこれまでそのことによって他人の権利を侵害する機会がなかっただけであり、将来に向けて他人に損害を加える権利を取得したものではないとし、原則としてこの点は加害者を免責するものではないとする(110)。その上で博士は、この事件では「損害の予期に付ては殆んど一言を費すの要無かるべし」とし、不法行為の成否はもっぱら、法律において「認許」されたセメント製造という権利行使が「不法性」を有するかどうかにかかっているとする。そして、フランスの権利濫用論等を紹介検討した後に、「権利の行使も唯適当の範囲に於てのみ権利の行使となるものにして、其適当の範囲を越ゆる場合換言すれば善良の風俗に反するものと認むべき場合には既に権利の行使に非ず即ち権利行為には非ずして転じて不法行為となる」と結論づけるのである。この考え方を浅野セメント事件にあてはめるならば、セメント製造それ自身は適法行為であるので「通常の場合に於ては不法行為とならず、唯其製造の方法等に於て適法行為の適当なる範囲を越ゆる場合に於てのみ」、すなわち、周囲の住民に与える損害が「善良の風俗に反すと認むべき程度に達したる場合に於てのみ不法行為となり」、良俗に反するかどうかは「国民一般の観念」によって決まることになる(111)
  この論文の特徴は、故意・過失については、損害発生の予測ないしその可能性の有無によるという、(2)で検討した従来の通説的理論を維持する結果、工場の操業にともなう降灰のような継続的な被害については予測不可能ということは考えられないため、不法行為の成否はもっぱら「不法性」の有無によることになるとした上で、その判断において、侵害された住民の権利からではなく、侵害行為の側から問題をたて、それが権利行使であるにもかかわらずどのような場合に不法性を有するかという思考方法をとったことである。したがって、そこでは、住民の権利を侵害すれば原則として不法行為となり、何らかの阻却事由が存在する場合にのみ適法性が確保されるというのとは逆転した論理がとられているのである(112)。しかし、このような原則・例外の逆転構造によるにせよ、加害者の権利行使といえども不法行為になりうるとの考え方は、例えば、すでに紹介した、権利行使によって被害が発生しても賠償責任を負わないとする一連の大審院判決(前掲大判明治三五・五・一六、前掲大判明治三八・一二・二〇)の存在を考えるならば、公害被害の救済にとって意義のある見解であったことも間違いない。
  鳩山論文のもう一つの特徴は、同事件において住民の工場移転要求が強かったことが背景になっているものと推測されるが、公害の差止めを正面から論じたことである。それは次のような考え方であった。すなわち、不法行為に対する救済が損害賠償につきるとすると被害者は将来に対してはただ拱手傍観しなければならないことになるが、もし将来に対してなお損害の継続するおそれがある場合には、「将来に対して適当の処分」をなすことを裁判所に請求できる。その場合の法的根拠は「絶対権の本質と占有訴権に関する規定の準用」であり、したがってその請求は絶対権の侵害行為があって始めて生ずるものである(113)。このように、博士は差止めを不法行為の効果としてではなく絶対権の効力として認めるのであるが、その特徴は、絶対権侵害があればそれを差止める不作為請求権が発生するが、その請求権は他の民法上の不作為請求権と同様に民法四一四条三項により強制執行をなすことになり、その場合、差止めが同条項にいう「適当の処分」にあたるかどうかについては、やはりここでも「国民一般の観念」に照らして「善良の風俗」に反するかどうかを考慮すべきであるとする点にある。したがって、「工業会社の社会に齎らすべき利益頗る大にして隣地所有権者の被るべき損害些少なる場合に於て其工業を廃止せしむるが如きは勿論適当の処分と謂ふべからず」ということになり、絶対権侵害の効果として不作為請求権が発生するとしつつ、結局のところ、「侵害行為の性質と侵害せらるる権利の性質とを比較して合理的判断を下すべき」ということになるのである(114)
  以上のような本論文での主張は、浅野セメント事件における被害の救済と、立ち退き要求に応ぜざるをえない状況に立ちいたっていた会社側の立場のバランスを確保しうる柔軟な枠組みということができるが、同時にそれは、被害者の権利の侵害から出発して、それがあれば(故意・過失が必要なことは当然として)原則として不法行為が成立するとしていた明治期の学説の主流とは明らかに異なるものでもあった。しかし、このような加害行為の性質(社会的な有用性等)を考慮して不法行為の成否を決するという考え方は、これ以後、判例がそれを採用し、学説上も通説化していくのである。

    ロ.大正期における大審院の動き

  鳩山論文のきっかけとなった浅野セメント事件とほぼ同時期に、大阪で一つの大気汚染事件が裁判紛争へと発展している。大阪アルカリ事件がそれである。大阪における大気汚染問題が明治期から深刻であったことはすでに本章第一節で述べたが、その中でもこの事件は、被害の原因が化学工業の展開の中で発生したこと、そしてそれが損害賠償請求訴訟として大審院まで争われたことにおいて大きな特徴を有している。本件については、川井健教授の優れた研究が存在する。それによれば(115)、大阪アルカリの前身である硫酸製造会社が設立されるのは一八七九年であるが、同社は、硫酸製造技術を造幣局から伝授され、さらに造幣局から払い下げを受けて設立された硫曹会社と一八八九年に合併していることなどから、「官営的色彩」の強い会社であった。同社はその後、過リン酸石灰の製造を始めるなど順調に活動を続けたが、その中で、亜硫酸ガスにより一九〇六、一九〇七年度に工場周辺(工場から二丁ほど離れた地区)の農地の稲と麦に大きな被害を発生させたのである。農民とその農地の地主らが大阪アルカリ会社を被告として一九〇八年に損害賠償を求めて提訴する(116)。そしてこの訴訟は最終的には大審院の審理するところとなり、わが国の公害不法行為理論に大きな意味を持つ判断を引き出すことになったのである。
  この事件で大阪控訴院は、農作物の被害を克明に明らかにした鑑定結果、被告工場と被害地の地理的関係、測候所等の風位調査、亜硫酸ガスの植物に及ぼす作用に関する知見等の詳細な検討に立って被告の排煙と被害の因果関係を認定した上で、次のように述べて会社の責任を肯定した(大阪控判大正四・七・二九新聞一〇四七・二五)。

  「控訴人の如く亜硫酸を製造し銅を製錬する等化学工業に従事する会社に在りて其代理人たる取締役等が・・是等の瓦斯が付近の農作物其他人畜に害を及ぼすべきことを知らざる筈もなく若し之を知らざりとせば・・調査研究を不当に怠りたるものにして・・過失あるものと認むるを相当とするが故に控訴人は被控訴人の右損害に付き不法行為者として賠償の責任あるものとす」。控訴人は「今日技術者の為し得る最善の方法を尽くせるが故に控訴人に責任なしと論ずれども控訴人の製造したる硫煙が被控訴人の農作物を害したる以上は・・被控訴人の被害は控訴人の行為の結果なるが故に控訴人は之に対して責任を有することは多弁を要せず」。

  ここでは、大阪控訴院が、それまでの学説における過失論にならい、被害結果の予測可能性を過失の中核としつつ、その上で、予測の前提として「調査研究」を問題にしていることに注目したい(117)。本判決に対しては、塩田環弁護士が、もし控訴人が最善の防止方法をつくした事実が挙証されたにもかかわらず責任を認めるという趣旨ならば、過失責任主義をとった民法の解釈としては問題であるとの批判を行っている(118)。しかし、この批判は的を射たものとは言えない。なぜなら、まず第一に、大阪控訴院は被告が最善の防止措置をとったと認定しているわけではない。さらに第二に、本判決は、調査研究を前提とした被害発生の予測可能性こそが過失の核心だと見ているわけであり、この立場からは、防止措置の問題は、環氏の言うような意味では過失の中に入ってこないのである。
  大阪アルカリ側はこの判決を不服として上告したが、その理由の第二点は(第一点は不明)過失ではなく「不法性」に関するものであった。すなわち、不法行為が成立するにはその行為に「不法性」があることが必要であり、複雑な多数の権利が併存する社会にあっては権利行使が他人の権利に不利益な影響を及ぼすことは日常目撃するところであるため、適法行為により他人に不利益な結果を発生させても不法行為にはならない、本件において被告の操業は法律上認容された権利行為であって「不法性」はないというものであった。また上告理由は、権利濫用として不法性を帯びるのは他に適当な方法があるのにもかかわらず濫りに他人に損害を及ぼすような方法を行使した場合であり、本件では被告は最善の方法をとっていること、大阪は工業の中心地であって係争地付近には無数の工場や汽船の煙突といった汚染源があり、そのような状況の下では被告の行為は社会通念上許容されるものであるとも主張する。全体として、前述の鳩山論文に示された、権利行使はそれが「善良な風俗」に反する場合にのみ不法行為となるとする考え方の影響が色濃く見られるが、同時に、複雑な多数の権利が併存する社会にあっては権利行使が他人の権利に不利益な影響を及ぼすことはよくあることだとして、化学工場による付近住民への一方的な加害である本件を、あたかも平等な立場の権利者間の相互の権利調整のごとくとらえた議論を展開している点が特徴的である。
  これに対し大審院は、上告理由とは異なる論理で、すなわち過失論において以下のように述べて原審を破棄し、事件を大阪控訴審に差し戻したのである(大判大正五・一二・二二民録二二・二四七四)。

  「化学工業ニ従事スル会社其他ノ者カ其目的タル事業ニ因リテ生スルコトアルヘキ損害ヲ予防スルカ為メ右事業ノ性質ニ従ヒ相当ナル設備ヲ施シタル以上ハ偶々他人ニ損害ヲ被ラシメタルモ之ヲ以テ不法行為者トシテ其損害賠償ノ責ニ任セシムルコトヲ得サルモノトス何トナレハ斯ル場合ニ在リテハ・・故意又ハ過失アリト云フコトヲ得サレハナリ」。

  この大審院判決について、本件上告理由がその説に依拠したと見られる鳩山博士は、次のような判例批評を行っている(119)。すなわち、本判決は故意・過失の有無を問題にするが、他人の権利の侵害を認識しておればたとえ防止のために最善の方法をとっても故意があることは否定できない、問題はむしろ不法行為の「客観的要件」を具備しているかどうかであり、その点は、会社の権利行使行為が「人類ノ共同生存ヲ害セザル範囲」にとどまるかどうかを、会社の行為を適法と認めた法律と「社会一般ノ見解」によって決すべしとするのである。しかし、このように判決の論理を批判しつつも、鳩山博士は、損害賠償を否定した大審院の結論そのものは不当ではないとする。
  しかし、今日では、この判決は、産業保護的時代思潮に基づいて、過失の認定に、被害発生の予測可能性に加えて「相当ナル設備」の欠如という枠をかぶせ、その成立を狭めたものとして批判されている。例えば川井教授は、大審院判決の背景として、明治以来の富国強兵という時代思潮が一般的に控えており、とりわけ本件においては、大阪アルカリの「官営的色彩」が影響していたことを指摘している(120)。さらに、太田知行教授は、「事業ノ性質ニ従ヒ相当ナル設備」をしたかどうかを決め手とする過失論は、一方に、ある行為をする際に予見さるべき権利侵害の種類と発生の蓋然性を、他方に、その権利侵害を回避するコストを置き、両者を比較衡量してその行為をなすべきであったかどうかを決すべきという趣旨と考えられるとする(121)。判決理由がこのような比較衡量を明示しているわけではないが、農業被害という被害者の権利侵害が明確にもかかわらず、「相当ナル設備」を施していたならば過失はないとしたことは、加害事業の社会的有用性や防止措置の難易といった要素の考慮を差戻審に求めたものであると見ることは、それほど的外れではないであろう。また、ここでの防止義務は、後の水俣病事件判決(新潟地判昭和四六・九・二九判時六四二・九六、他)等に見られるような、企業の操業短縮や操業停止までをも含むものとは考えられていない。いずれにせよ、本判決の産業保護的性格については、この他にも多くの論者が指摘しているところであり(122)、ここでは、一般的な産業優位・富国強兵といった思潮に加えて、本判決の時期に、日本の重化学工業は、そこから発生する環境汚染を防止改善するために、本格的で新しい(したがって大きな投資をも必要とする)設備や技術の導入が必要な段階に立ちいたっており、そのことが、不法行為の成否について防止の難易や企業の社会的有用性等を考慮する過失論を生んだ背景にあったこと、そして、大気汚染による産業公害を相隣関係的な被害と区別しなかった当時の公害認識がそれを可能としたこと(123)をつけ加えておくにとどめたい。なお、本判決の過失論の理論的ルーツについて、近時、瀬川信久教授は、明治末年まで東京帝国大学で英米法を教えていたヘンリー・T・テリー教授の学説の影響があることを明らかにしている(124)
  続いて、大阪アルカリ事件大審院判決に対する鳩山博士の批判が問題にした加害者の権利行使の不法性(違法性)について重要な判断を示したのが、信玄公旗掛松事件である。この事件についても川井教授の詳細な研究があるが(125)、それによると、問題の松に約四間ほど隔てて国が線路(中央線)を施設し、さらに、その後、松のわずか一間未満のところに回避線が設けられ、汽車の煤煙や脱線事故による損傷のため松が枯死し、その所有者が一九一七年に国に対し損害賠償を求めたのが本件である。これに対し、東京控訴院は、石炭の煙煤が樹木に害を及ぼすことは予見できるはずであるのに「煙害防止の為め相当なる設備を為さ」なかったことは被告の過失にあたり、また、汽車の運転は権利行使であるが、「煙害予防の方法を施さずして煤烟に因りて他人の権利を侵害したるときは・・権利の濫用にして違法の行為なり」とし、国の責任を認めた(東京控判大正七・七・二六新聞一四六一号一八頁)。過失論について大阪アルカリ大審院判決の「相当ナル設備」論がとられているが、結論的には、過失と違法性の両方が肯定されている。
  国の側が上告したが、上告理由の要点は、@原審は相当なる設備を施していないとするが、具体的に何をすべきかを述べていない、A鉄道の運転は被告の権利行使でありその必要の限度を越えない限りはたまたま沿線の樹木を枯らしても権利濫用により違法とはならないという二点であった。これに対して大審院は、次のように述べて国の責任を認めた(大判大正八・三・三民録二五・三五六)。

 上告理由@について本件の松は停車場に接近し線路からわずか一間未満の地点にあるものであり、「山間僻地ノ地若クハ沿道田畑等ニ生立スル樹木ト同一視スヘキモノ」ではなく、「煤煙ヲ癒断スヘキ障壁」や線路を数間遠ざけるといった方法が可能であり、この点において原審の判断は正当である。
 同Aについて「社会的共同生活ヲ為ス者ノ間ニ於テハ一人ノ行為カ他人ニ不利益ヲ及ホスコトアルハ免ルヘカラサル所ニシテ此場合ニ於テ常ニ権利ノ侵害アルモノト為スヘカラス・・然レトモ其行為カ社会観念上被害者ニ於テ認容スヘカラサルモノト一般ニ認メラルル程度ヲ越ヘタルトキハ権利行使ノ適当ナル範囲ニアルモノト云フコトヲ得サルヲ以テ不法行為ト為ル」。汽車の運転は騒音・振動・煤煙の飛散等を当然にともなうのであり、「蒸汽鉄道カ交通上缺クヘカラサルモノトシテ認メラルル以上ハ沿道ノ住民ハ共同生活ノ必要上之ヲ認容セサルヘカラス」。しかし、本件における汽車の運転による加害は「社会観念上一般ニ認容スヘキモノト認メラルル範囲ヲ超越シタルモノ」であり、この点で原判決は正当である。

  「国は悪をなさず」という考え方が強かった時代に、防止措置としてきめの細かい配慮を要求し、結果として国の賠償責任を認めた点で、この判決は積極的な意義を有している。しかし同時に、本判決が、鉄道の操業はその活動の重要性から見て、「適当ナル範囲ヲ超越」しなければ沿線住民に被害を発生させても不法行為とはならないとしていることには注意する必要がある(126)。この判決が、結果として過失を認めたものの、大阪アルカリ事件大審院判決の「相当ナル設備」論を採用していること、さらに、「社会的共同生活ヲ為ス者ノ間ニ於テハ一人ノ行為カ他人ニ不利益ヲ及ホスコトアルハ免ルヘカラサル所ニシテ」として、対等な権利者間の権利調整の問題と本件のような事例を区別していないことにも留意しておきたい。
  最後に、大阪アルカリ事件と信玄公旗掛松事件における大審院判決の関係を見ておこう。川井教授は、前者には第一次大戦中の事件でもあり多少の損害が農作物に生じようとも工業の発展の尊重が優先するという時代思潮が、後者には人々の財産尊重という意味での広義の人権尊重の時代思潮が反映しているとする(127)。確かにこの時期、大正デモクラシーに代表されるような時代思潮の変化があり、そのことが判決の結論に影響したことがあるのかもしれない。しかし、責任の存否に関する結論を別にすれば、両判決は、社会的に有用な権利行使は一定範囲(社会通念上許容される範囲)においては他人の権利を侵害しても不法行為にはならないという考え方では共通している。むしろ、大阪アルカリ大審院判決が、過失要件についてのみこの思想を法律要件に反映させたのに対し、信玄公事件大審院判決は、過失要件に加えて不法性(違法性)要件においても社会通念上の相当性判断が必要であることを明示したのであり、両者はいわば一組のもの、あるいは、大阪アルカリ事件で明確になった方向が信玄公旗掛松事件で完結したと見るべきなのではなかろうか。

  ハ.判例の展開

  大阪アルカリ事件と信玄公旗掛松事件の大審院判決によって確立した枠組みは、その後の判例を規定することになった。しかし、その理論が公害事例において加害者を免責するために機能したとは言えないとの指摘がこれまで、様々の論者から行われている(128)。以下、大正から昭和前期の裁判例を見る中で、この点を確認してみよう。まず第一に取り上げるべきは、大審院の「相当ナル設備」論により原告勝訴の判決を破棄され差し戻された大阪控訴院の判断である。大阪控訴院は、次のように述べて、再び大阪アルカリの責任を認める(大阪控判大正八・一二・二七新聞一六五九・一一)。

  控訴人の工場設備中にはすでに長年月を経過し改造の時期に達したものが多く、これを改造するなどすればガスの流出を減少させることが出来た。また、「当時に於ける智識を以てするも遁逃瓦斯を高く大気中に放散せしむるに適当なる高さを有する煙筒を設備するに於ては」被害を防止することができた。しかも、このような「設備を為す事は経済上に於ても左迄困難ならざるに不拘控訴会社の取締役等は僅に百尺乃至百弐拾尺の煙筒により有毒瓦斯を遁逃せしめたるものなるが故に・・其当時技術者の為しうる適当の方法を尽したりと云ふを得ず」。もし右のような方法を講じていないのに適当な方法を講じたと信じたとすれば過失があると断定できる。
  また、控訴人の行使する権利は「他人の耕作物をして其収穫を皆無又は甚大なる減少を来さしむべき損害を被らしむる権能を包含するものに非ざるを以て、営業権を行使する場合に在りても斯る結果を来たさない様注意し斯る結果を防止し得べき場合には其手段を構ずべきは当然の理なるに」かかわらず、そのような措置を講じないで多大な損害を発生させた以上は賠償責任を免れない。

  この判決の最大の特徴は、大審院の「相当ナル設備」を施さない場合にのみ過失になるという枠組みは尊重しつつ、被害発生当時の技術水準において(しかも経済上もそれほど困難なく)可能であった措置(129)を被告がしていないとして再び責任を認めたことである。さらに、信玄公旗掛松事件で問題となった、加害者の権利行使が不法行為たりうるかという点にも触れ、控訴人の営業権は他人への損害発生の権能を含むものではなく、したがって適切な防止措置を講じないで被害を発生させた以上は責任が発生すると明言している。なお、本判決においても、差戻前の控訴審判決と同様、被害および因果関係の認定は極めて詳細である。特に本件では、他の汚染源として考えられる同地域における他の工場や川を通行する船からの影響についても検討し、操業開始時期、被害地との距離、飛散する物質の種類等からこれを否定した上で、大阪アルカリの排煙が原因であることを明確にしている。本判決や差戻前の控訴審判決における因果関係の認定を、因果関係の証明はかなりの程度の蓋然性の証明で足りるとする蓋然性理論の実践例とする理解がある(130)が、これには疑問がある。なぜなら、確かにこれらの判決では、様々の事実の積み上げから因果関係の存在を認定している。しかし、大気汚染と被害の因果関係については、それを直接証明することはほぼ不可能であり、様々の間接的な事実を積み上げていってその存否を明らかにするしか方法はないのであり、しかも、現実に判決が行っている詳細な認定は、「かなりの程度の蓋然性」を超え、「高度の蓋然性」(最判昭和五〇・一〇・二四民集二九・九・一四一七)に達していると見るべきであろう(131)
  大阪控訴院は、大審院の枠組みを前提にした上でなお(大審院の期待を裏切って)被害者救済の立場を維持したわけだが、同裁判所は、ほぼ同時期に、やはり大気汚染事件で興味ある判断を示している。肥料工場(多木肥料)の亜硫酸ガスと弗化水素酸ガスによる農業被害が問題となった多木肥料事件がそれである。この事件で大阪控訴院は、おそらくは、大阪アルカリ事件での、防止措置について論じた上告理由を意識したものと思われるが、防止措置の問題をも取り込んだ以下のような責任論を展開し、被告の責任を肯定しているのである(大阪控判大正五・一〇・二四新聞一一九三・二四)。

  被控訴人が「稲を植付けある田地の付近に於て右有毒瓦斯を発生せしむるが如き方法に依り肥料及硫酸の製造を為す以上は其遁竄を防止するに足る十分の設備を為し稲を害することなからしむるは其製造業に伴ふ当然の義務と云ふ可く」、しかも、稲を害さない程度の防止設備の設置は不可能ではなく、「只之に必要なる十分の設備を為すときは時に営業上損害を蒙ることある可き虞ありと云ふに過ぎざること明白なるが故に」、被控訴人が稲に被害を発生させた以上は、特別な事情がない限り、「被控訴人は其防止を為すに必要なる注意」を怠ったものと認めるのが相当である。

  この判決の特徴は、被害の防止措置に着目し、それをしなかったことが過失にあたるとして、防止設備論を中心に議論を組み立てていることである(132)。さらに、防止措置の困難さとは結局のところ営業上の損失に過ぎないとしている点も注目に値する。
  大阪アルカリ事件大審院判決の理論を再確認しつつも、最終的には大審院自身が責任を認めたものとして広島ポンプ事件がある。この事件は、広島市が設けた灌漑用の電動ポンプの振動が隣接する家屋を損傷したため、その家屋の所有者が損害賠償を求めたものである。この請求に対し広島控訴院は、大阪アルカリ大審院判決後であったにもかかわらず、ポンプ「の運転が此の如き結果を生ずることは通常予想し得べきことなれば・・少なくとも過失により他人の権利を侵害したるものと云ふべく」として、むしろ大阪アルカリ事件控訴審判決と同様の過失論をとって賠償を認めた(広島控判大正七・一〇・一九新聞一四七九・二四)。これに対し被告は、大阪アルカリ大審院判決を援用して、防止設備について判断すべきとして上告し、大審院は、次のように述べて原判決を破棄した(大判大正八・五・二四新聞一五九〇・一六)。

  「或機械の据付及運転に因りて生ずることあるべき損害を予防するが為めに右工事の性質に従ひ最善の方法を尽して其設備を為したるに拘わらず尚他人の財産に対して損害を及したる場合は民法七百九条に所謂故意又は過失ありと謂ふこと」はできない。しかし原判決は、予測可能性だけで過失を認めており、この点で破棄を免れない。

  本判決は、予見可能性だけで過失を認める考え方を廃し、防止措置の問題として過失論を構成することを再度明言している。ただし、防止措置の程度は、大阪アルカリ大審院判決の「相当ナル設備」から「最善の方法」に変わっている。この点について、それは、より厳しい注意義務を企業に課したものであり「一歩進んだ考え方」だとの評価がある(133)。確かに、「相当」と「最善」ではかなりニュアンスが異なる。しかしこの判決は、「最善の方法」を尽くしていないから過失があるとしたものではなく、あくまで過失を認容した原審を破棄する際の理由づけとして、「最善の方法」という表現を使っている。したがって、この違いをあまりに重要視することは問題なのではなかろうか。
  この判決の差戻審で広島控訴院は、再び責任を肯定する判断を下した(広島控判大正一一・六・二二新聞二〇二七・一五)。すなわち、ポンプの隣地にある「空地ヲ利用シ隣地トノ間ニ隔壁ヲ設クル等相当ノ設計ヲ為サバ多少ノ経費増加ヲ生ズベキモ如上ノ損害」を発生させることなくポンプを設置をすることができたにもかかわらずそのような施設を設けなかったのは、「損失ヲ予防スルニ付相当ノ注意ヲ為サザリシ過失アリ」としたのである。この事件はさらに、このポンプは市の行政行為として設置されたので私法上の責任はないとの理由で再上告されたが、大審院は、ポンプに対する市の所有権または占有権は純然たる私法関係であり、市は「土地ノ工作物ヲ所有シ又ハ占有スルト同様ノ地位ニ立ツ」として、あらためて責任を認めた(大判大一三・六・一九民集三・二九五)。
  以上のような、大阪アルカリ事件とほぼ同時期の判決の検討からだけでも、大審院レベルでは過失と違法性の両方について加害行為の社会的有用性や防止措置の難易等を考慮した責任論が確立しつつも、それらが下級審で必ずしも企業免責的には機能しなかったことが明らかとなった。さらに、その後の公害判決についても、沢井裕教授は、大阪アルカリ、広島ポンプ両事件に関する大審院判決にもかかわらず、無過失だとして責任を否定した判決は一件もないとし(134)、瀬川教授も、「相当の防止措置による免責」の考え方は維持されたが、実際に防止費用を理由に過失を否定する考え方は、公害事件では定着しなかったとする(135)。以下では、このような裁判例の分析を前提としつつ、公害事例に労災事例を加えて、今日の視点から興味深い議論を展開している若干の裁判例を整理検討しておこう。

@  東京地判昭和五・七・四(新聞三一七二・九)
  地下鉄工事で井戸が涸れた事例につき、被告は「相当ナル注意」をすれば被害を予見できたとして過失を認めた上で、官庁の許可を受けた行為であってもそれだけで適法となるものではなく、権利の行使も「適当ナル範囲」を越えれば「権利濫用」として不法行為になるとして責任を肯定。
A  大阪地判昭和六・一一・一二(新聞三三三九・五)
  建築工事による振動・地盤沈下被害につき、損害結果を予見しうべかりしであったのに予見しなかったならば過失があり、また、権利行使による他人の権利侵害は常に違法となるわけではないが、「如何なる権利侵害の行為が其違法性を阻却せらるるやは一に其行為に基く不利益が社会観念上被害者に於て之を甘受若は認容すべきものと一般に認めらるるものなりや否やにより決すべきもの」であり、本件のような被害は、被害者が甘受すべきものとは認めがたいとして責任を肯定。
B  東京地判昭和一〇・一二・二七(新聞三九四四・三)
  地下鉄工事による地盤変動で建築物に被害が生じた事件で、このような大工事は「工事の性質上他人に損害を與ふる危険性が少なからず且損害防止の設備に瑕疵あるに非ざれば他人に損害を與ふること稀にして加ふるに加害者のみ能く工事の瑕疵其の他故意過失を確知し得べく被害者に於て之が証明を為すこと極めて困難」であるため、「被害者に於て其の蒙りたる損害が右の如き特殊行為に基因するものなることを明かにしたる以上加害者は却て加害に付自己に故意過失なきこと証明せざる限り損害賠償の責を免るることを得ざるものと為すを相当とす」と判示。

  以上の三つの判決のうち、@は、信玄公旗掛松事件と同じく、侵害は原則適法で「適当ナル範囲」を逸脱した場合にのみ違法となるとしつつ、過失については「相当ナル注意」による予見の問題としている。これに対し、Aは、予見可能性のみで過失を認めており、さらに、信玄公旗掛松事件大審院判決のような「権利侵害=原則適法」論をとらず、加害者の権利行使を違法性阻却の問題とし位置づけている。そしてBでは、工事の性格や被害者による過失証明の困難さから、過失の推定がなされているのである。

C  大判昭和二・五・二七(新聞二七〇九・一二)
  落盤による負傷事故につき原審が、周到な注意の下で作業の指揮監督をしていても被害を防止することができたかどうかは疑問として請求を認めなかったのに対し、大審院は、「危害予防ニ適当ナル支柱其ノ他ノ設備ヲ為シ危険予防ノ方法ヲ講スヘキ」でありこれを講じなければ「業務ノ性質上此ノ種ノ危害予防ニ付相当ノ注意ヲ怠ラサリシモノト云フヲ得サルヤ明ナリ」として原審を破棄。
D  名古屋地判(判決年月日不詳)(新聞三〇八九・九)
  職工が工場内のシャフトに巻き込まれて死亡した事件について、「苟モ職工ヲ使役シテ工場ヲ経営スル者ハ其工場ニ設置サルヘキ機械等ノ諸設備ニ人命ニ関スル危険ノ惹起スル恨アルカ如キモノ存スルトキハ可能ナル範囲ニ於テハ之カ防止ノ為メ万全ノ施設ヲ為スヘキ」として使用者の責任を肯定。
E  大判昭和一三・一二・二三(判決全集六・二・四)
  炭坑の出水事故で鉱夫が死亡した事件について、被告側の、突発的な出水は予見不可能であり不可抗力だとの主張を、「原審判決ノ認定シタルカ如キ危険ナル個所ニ於テ坑夫ヲシテ作業セシムル場合ニ於テハ本件ノ如キ災害ヲ予防スル為危険ノ除去ニ専心シ又ハ一時作業ヲ休止セシムルカ如キハ当然ノ義務ニ属シ之レカ為其収益ノ幾分ヲ犠牲ニ供セサルヘカラストスルモ巳ムヲ得サル所ナリ鉱業ノ経営ヲ成リ立タシムル為ニハ坑夫ノ生命ニ対スル危険モ之ヲ顧慮スルノ要ナシト為スヘキ理アルコトナシ」と述べてしりぞけ、その責任を肯定。

  Cは大阪アルカリ事件大審院判決の過失論そのままであるが、鉱業という危険な「業務ノ性質」に着目して「相当ノ注意」を判断している点が興味を引く。また、Dも基本は同様の過失論を採用しているが、工場の機械の危険から人身被害が発生しないように「万全ノ施設」という高度の注意義務を課したものである。これらに対し、Eが、一時作業を休止しても、そして収益を犠牲にしても危険の除去に専心すべきであるとしていることは、炭坑における出水の危険の性質(その具体性と深刻さ)という点から見て、他の事故に一般化できるかどうかは別にして、大阪アルカリ事件大審院判決とは異なる過失論であり、極めて注目すべきものである(136)
  以上のいくつかの判決を見るだけでも、大阪アルカリ事件や信玄公旗掛松事件で大審院判決が示した枠組みは、企業の責任を実際に否定するという形では機能しなかったことが明らかとなろう。しかし、以上のものは、具体的な被害の深刻さや防止措置の不十分さから結果として責任が認められたケースが圧倒的であり、また、防止措置と言っても、そこでは、企業活動の社会的意義からそれを継続させることが前提となっている。その意味で、(Eを例外として)操業の停止を含めて損害発生を防止すべき義務は企業にはないとする点では、大正期に確立された枠組みが、理論としては、基本的に維持されていたと見ることもできるのではなかろうか。

    ニ.大正から昭和前期の学説

  すでに述べたように、公害問題に始めて本格的に取り組んだ明治末の鳩山論文では、企業の損害賠償責任の有無と差止めの可否の両者において、社会通念(善良の風俗)による柔軟な判断が要求された(博士の場合、差止めについては請求権の発生段階ではなく執行段階で)。しかし、そこでは同時に、損害結果が予測できれば過失があるとの伝統的な過失論が採用されていた。このような過失論は、大阪アルカリ事件大審院判決の「相当ナル設備」により過失を判断する考え方とは異なるものであったが、判決以降も、学説においてはなお通説の地位を譲ることはなく、大正から昭和前期には、この過失論をベースにしつつ、危険をともなう企業については予見に関する注意義務を高度化するという方法が多くの学説で支持されたのである。以下、その例をいくつかあげてみよう。
  末弘厳太郎博士は、一九一八年の教科書において次のように述べている(137)。過失とは「注意ヲ缺クコト」を言い、「結果発生ヲ予見シ得ルニ拘ラズ注意ヲ缺キタルガ為メ之ヲ予見セザリシ場合」「結果発生ノ可能ハ之ヲ予見スレドモ注意ノ欠缺ニ因リテ結果発生スルコトナカルベシトノ希望ヲ以テ行為ヲ為シタル場合」がこれにあたる。過失における注意は事業の種類により異なり、「危険ナル事業ニ従フ者ノ加フベキ注意ハ自ラ強度ノモノトナラザルベカラズ」。また、一九三五年の宗宮信次『不法行為論』も、過失は「注意の欠缺により結果の発生を是認せざること」という心理状態であるが、これを外部の行為により観察すれば、「相当の注意により避け得べき危険より避けざることなり」とした上で、「他人に危険を生ずる事業に関しては、最高度の注意」をはらわなければ過失があるとする(138)。さらに、明治期の論文で、企業に危険を予防するための「絶対的義務」を課すべきとした磯谷幸次郎氏も、この時期の著書『債権法各論』で、過失とは「自己ノ不注意ニ因リ其行為ノ結果ヲ予見セサル心理状態」であり「危険性ヲ有スル業務ヲ行フ者に在リテハ特ニ慎重ナル注意ヲ要スル」と述べ、「蒸気力又ハ電気力等ヲ応用セル工業的大企業」においては「営業者ハ百万努力有ラユル方法ヲ以テ其損害ノ発生ヲ防止スヘキ」であり、このような措置を講ずることなく損害結果を予見しながら事業を継続するのは故意である、防止のために多大の費用を要するとしてもこれは事業費として計算すべきであり免責の理由にはならないとする(139)
  しかしこの時期の学説は、以上のような過失論を展開しつつ、同時に、近代的な産業や交通機関等にともなう危険に対しては無過失責任が必要であることを、異口同音に主張する。例えば、鳩山博士は、民法が過失責任主義を原則としたことは立法論として正当だが、例外として「結果責任」を認める範囲が狭すぎる、「異常ナル危険ヲ生ズベキ生活関係」については「危殆化責任」が広く認められるべきだとする(140)。その他の無過失責任論については前節で述べたので再論は避けるが(141)、この時期の一つの特徴は、無過失責任論が立法論として主張されるだけでなく、解釈論として、すなわち、民法七一五、七一七条の理解と要件論の変化として表れたことである。民法典の起草者が、この両条の責任の性質についても過失責任と考えたことについては第二節で述べたが、このような理解が、大正後期から昭和初期にかけて変化するのである。例えば、七一五条については鳩山博士が、本条の使用者の責任は、ある事業のために他人を使用することにより自己の活動領域を拡張したものに「被害者保護ノ為メ特殊ノ責任ヲ認ムル」ものだとし、そのような責任の性質の理解を前提に、「事業ノ執行ニ付キ」要件を、被用者の意思いかんにかかわらず「客観的ニ執行行為又ハ之レト牽連シタル行為」と解すべきとする(142)。そして、このような学説の転換を受けて、判例も、この要件を厳格に解するいわゆる「一体不可分説」をすてるのである(143)。また、七一七条についても、末弘博士が、設置・保存の瑕疵とは「客観的事実ニシテ過失ノ有無ハ問ハサルモノトス」、所有者の責任は「絶対的ナル最後ノ責任」であり過失がないことを証明しても免責されないとして、それを無過失責任とする見解を採用し(144)、それが通説となっていく。そして、このような責任の性質に関する理解の変化は、「土地ノ工作物」という要件をできるだけ広く解するという解釈論的変化を生んでいったのである(145)
  昭和に入ってからは、我妻栄博士が次のような立法論・解釈論を展開する。すなわち、立法論的に見れば、多数人を使用する大企業の責任を規律するものとしては、七一五条のように選任監督に過誤なしという免責事由を認めるのは甚だしく不十分であり、解釈論としては、企業の担当者による加害行為の場合はできる限り厳格に解し、「その過誤なしといふ挙証は容易にこれを認めざるを至当とする(146)」。また、七一七条について言えば、立法論的には「危険責任に立脚する無過失責任を土地の工作物の所有者に限局することは甚だしく狭隘に失する」ものであり、解釈論としても、土地工作物は広く解し「土地を基礎とする企業施設の総てを含むものと見るべきであ」り、さらに、機械的な労務に従事する者が原因となる場合にも、これを企業の「人的瑕疵」として工作物責任を認めることができるのではないかとの主張を行っているのである(147)
  以上のような過失に関する議論とは別に、この時期の学説が企業の操業による被害に関して主要に議論したのは、「適法に」行われている操業から被害が発生した場合、はたして不法行為が成立するか、すなわち、鳩山論文が問題とした、不法性ないし違法性の問題であった。以下、代表的な議論を簡単に紹介・検討しておこう(148)。まず、善良な風俗を不法行為成否の決め手とする点では鳩山説を評価しつつ、その不十分性を批判し、結果として一種の不法行為要件解体論にいたるのが牧野英一説である(149)。すなわち牧野博士によれば、「不法行為即ち法規違反の行為とは、賠償責任といふ法律的制裁を正当ならしめる行為といふことに帰着」し、ここにいう「法規に違反するとは、他人の権利を侵害することではなくして、公の秩序善良の風俗に反して行動すること」である(150)。このような視点からは、権利侵害が要件として不要になるだけではなく、過失要件も必要なくなる。なぜなら、過失責任と結果責任はどちらが原則でどちらが例外と考えるべきではなく、「公の秩序善良の風俗」に反する行為であれば過失の有無を問題にせず賠償を認めるべきだからである(151)。このように、牧野博士は、「『権利侵害』要件、および『過失』要件の限界ということから、『公序良俗違反』一本の、要件の全面解体論へ行ってしまった(152)」のであり、その意味で特異な説ではあるが、不法行為の成否を「公序良俗違反」という柔軟な枠組みにかからしめる点では、不法性判断を「善良の風俗」によらしめた前述の鳩山論文と共通の発想に立っている。
  これに対し、「適法行為による不法行為論」という主張を行ったのが末弘博士である。博士は、賠償義務の根拠を「違法性」に求める場合には権利行使が必然的に他人を害する場合に適切な解決をもたらすことはできない、権利の存在が必然的に他人の権利を害するにもかかわらずその権利行使が社会経済上の利益から要求される場合には、侵害によって生じた損害の賠償を与えつつ権利行使そのものは許容し、そのことによって両者の調整をはかるべきであるとする。そしてこの場合を、適法である(したがってその権利行使は許容される)が賠償しなければならないという意味で、「適法行為による不法行為」と呼ぶのである(153)。ここでは、企業の操業(営業権行使)はもはや違法な行為とはならず、ただ一定の賠償(むしろ補償というべきか)を給付しなければならないだけのものと位置づけられている。すなわち、「従来まがりなりにも『違法』であった侵害行為を『適法』としてその法的優越性を確認し、もって被害の存在と継続を無限定に許すことになりかねない可能性を持っている(154)」と批判される特徴をこの理論は備えているのである。しかし同時に、この理論は、企業活動による権利侵害をただちに違法と見るのではなく社会通念や善良の風俗から判断する鳩山理論や信玄公旗掛松事件大審院判決に始まり、それを過失論にも広げた牧野理論との連続線上にある考え方でもあることには留意しておきたい。
  最後に、我妻博士の見解を見ておこう。博士は、不法行為の指導原理が「個人活動の最少限度の制限たる思想から、人類社会に於ける損失の公平妥当なる分配の思想へ」変化し、そのことによって、故意過失および権利侵害という要件も絶対性を失うにいたったとする(155)。さらに、権利侵害要件について、それを違法性と解する説に賛意を表した上で、違法性は「被侵害利益の種類と侵害行為の態様との相関々係」によって決まるとする、有名な「相関関係説」を提示する(156)。そして、損害の公平な分担という理念からは、社会的に有用な活動が不可避的に被害を発生させる場合にそれを違法ということには問題があるが、だからといって適法行為による賠償責任という考え方を正面から認めるべきではなく、むしろ、「賠償せずしてこれを為すことが公序良俗に反する」という点で「違法」な行為と考えるべきとした上で、「その企業の有する社会性、害毒の種類・程度、四周の状況等」により損害を填補しないこと(損害を発生させたことではない点に注意)が違法にあたるかどうかを判断すべしとする(157)。言葉の上では適法行為による賠償という考え方は採用しないが、実質的には「適法行為による不法行為論」と大差はない。さらに博士は、不法行為の理念のこのような変化によって過失責任は絶対性を失い、特に、人の注意や施設をもっては防止しえない不可避の危険を有する近代的な企業については、無過失責任こそが妥当するとして、すでに述べたような、民法七一七五、七一七条の解釈論を展開するのである(158)

    ホ.差止めに関する学説

  ここで、これまでの叙述と重なる部分がないわけではないが、差止めについての議論を整理しておこう。わが国の民法典は、差止めを直接規定した条文を持たない。そのため、その法的根拠については今日にいたるもなお争いがあるが(159)、明治期には、例えば水利をめぐる紛争において、「慣習上の権利(水利権)」の存否により差止めの可否を判断する判例があった(大判明治三二・二・一民録五・二・一等)。そして、一九一一年の鳩山論文は、すでに紹介したように、「絶対権の本質と占有訴権に関する規定の準用(160)」により不作為請求権の成立を認めるという立場を鮮明にした。差止めを権利(絶対権)の効力によって根拠づける考え方は、当時のドイツ法学の影響の強さともあいまって判例・通説の支持するところとなるが(161)、この考え方には二つの問題があった。一つは、絶対権の侵害にあたらない場合に差止めは認められないのかという問題であり、もう一つは、これとは逆に、絶対権侵害があれば常に差止めが認められるのかという問題である。この問題に学説が答えを出すのは大正中期から昭和初期である。すなわち、まず後者については末川博博士が、土地の利用にあたって放散される煤煙・臭気・音響等が隣地に間接的な影響を及ぼす場合は原則として適法(したがって隣地所有者が忍容すべき)であり、それが公序良俗に反する場合に差止請求権が発生し、どちらにあたるかは「其地域の慣例、土地の地位、性状等に鑑みて」判断すべきとする見解(162)を打ち出すことにより、執行段階で諸事情の比較衡量を主張した鳩山説と異なり、差止請求権の発生そのものに関しても一種の受忍限度的判断が要求されるとする説が有力となった(163)。他方、前者の問題については、昭和に入って、かつて支配権の性質から差止請求権を根拠づけていた末弘博士が、物権的請求権理論そのものをすてて、すべての権利に対する保護手段としてこれを認めるべきであり、その要件は、「権利の性質、権利の目的物、侵害の種類態様、侵害の結果被害者がこうむるべき損害の程度態様、妨害排除を実現するため加害者に要求せらるる犠牲の程度等に応じて」定められるべきであるとするようになる(164)。このようにして、差止請求権の根拠として絶対権侵害が要求されない反面、差止請求権の存否もやはり、具体的事情の比較衡量によることになったのである。

    ヘ.ま  と  め

  この時期の学説に共通する特徴は、(若干の例外を除いて)近代的産業にともなう被害は不可避的なものであり、被害者は救済されるべきだが、安易に企業に負担をかけることや、まして、その操業をストップさせることはできないという発想を有していることである。そしてこの発想を最もシンボリックに示したのが、末弘博士の「適法行為による不法行為」という考え方であった。これに対し、予見可能性を中心に過失をとらえ、企業に高度の注意義務を課す(あるいは過失を推定する)といった理論も教科書・体系書レベルではむしろ有力であったが、そのことと右の発想のギャップはあまり意識されず、こと公害問題に関しては右の発想が強く、鉱害は鉱山の操業に不可避的にともなう被害であるからこそ、そこには過失(あるいは故意すら)が存在するとの主張が一部の鉱業法研究者を中心に主張されはしたが、それは、ついにこの時期、公害不法行為理論の主流を占めることはなかったのである。
  それでは、学説の主流がこの時期、右のような特徴を持ったものとなったのはなぜか。まず第一に考えられるのは、すでに判例の展開に関して指摘した、この時期の産業優位の時代思潮から学説も自由ではありえなかったことである。例えば、末川博士は、前述の論文の中で、本来、煤煙・臭気・音響等が隣地に及ぼす影響の問題は、まず公法によって防止につとめるべきとしつつ、「(工業上の設備経営等に関する取締を余り厳密ならしめんか)そは却って殖産興業の健全なる発達を阻止するの虞無しとせざるが故に、其間には、自ら国民経済上の必要に基く制限あるべき」と、産業保護の立場を率直に語っている(165)。そして第二に、このような時代思潮が法理論に反映することを可能としたのが、重大な被害を発生させ、しかも、加害者と被害者に立場の平等性や相互互換性がない公害問題を、土地所有者間の相隣的な権利調整の問題と区別せずに論じるという議論の仕方であり、そのようにしか問題をとらえきれない当時の公害問題に関する実態認識の水準だったのではないか。なぜなら、相隣的な権利調整の問題だと考えれば、多少の被害を相互に受忍すべきはある意味で当然のことになるからである。第三に指摘しなければならないのは、大正期から昭和初期にかけての「権利論の解体」ともいうべき現象である。すなわち、この時期、「権利侵害から違法性へ」というテーゼで語られる不法行為法上の理論転換があった。この理論転換は、一方で、例えば日照・通風に関する利益のように、従来は権利侵害要件に乗りにくかったものに不法行為法上の保護対象となる道を開くという意味では、公害・環境問題に積極的な意味を持たなかったわけではないが、他方では、不法行為の成否の判断にあたって加害行為の社会的有用性や防止設備設置の困難さ(費用)等のファクターを考慮するのに適した枠組みであり、権利が侵害されても違法でない(とりわけ差止めとの関係で違法でない)との判断を可能とすることによって、公害被害の救済にマイナスの影響をも持ちうるものだったのである(166)
  ただし、このようにこの時期の学説の主流を特徴づけたからといって、そのことは必ずしも、当時の学説が被害者救済を軽視したということを意味するものではない。例えば、無過失責任の必要性を指摘しつつそれを民法七一五条や七一七条の解釈論に持ち込む説の有力化、あるいは、牧野博士の「公序良俗」への不法行為要件の一元化や末弘博士の「適法行為による不法行為論」がもう一つの側面として、過失の有無を問うことなく賠償を認めようという狙いを有していたこと等に見られるように、近代的産業にともなう被害の救済そのものについては、この時期の学説の主流も決して消極的であったわけではない。ただ、それが、あくまで企業の操業(「殖産興業」)に決定的なマイナスとならない範囲にとどめるという思想を大前提として展開されたのである。

  (4)  戦後の法理論(高度成長・前期まで)

    イ.学説の状況

  第二次大戦後から昭和三〇年代頃までは、第一章でも述べたように、戦後復興とともに公害問題が再び発生し、さらに、高度成長が開始する中で深刻化しはじめるが、なお一九六〇年代半ば以降のような公害反対運動の高揚は見られず、政策的にも有効な公害対策がとられなかった時期である。そのことを反映したためか、この時期の法理論の基本は昭和前期までの理論枠組みの継承であり、率直に言って、公害問題を正面から取り上げた法理論が活発に主張されるという時期ではなかった。しかし、一九六〇年代後半からのわが国の公害不法行為法の本格的な展開の直前の時期であり、したがって、その理論的特質を解明する上では重要な意味を持った時期でもある。また、公害問題の深刻化にともなって、いくつかの注目すべき主張、次の時期におけるあらたな展開の芽も見られる。
  まず、この時期に公表された不法行為ないし債権法の教科書・体系書等から、全体的な特徴を見てみよう。一九四九年の勝本正晃『債権法概論(各論)』には次のような叙述がある(167)。民法七〇九条は権利侵害を要件とするが、これは「解釈論として、行為の違法性をもって一般の不法行為の本質を為す成立要件としなければならぬ」。違法性とは、「ある行為が健全なる法律観念上、賠償責任を認むべき程度において、非難せらるることをいう」。「正当に発生した権利と雖も、その行使方法にして、一定の限度を超える場合には違法性を生ずる」。その限度を示す標準として民法一条二項、三項がある。したがって、いわゆる「インミッション」の場合、「如何なる程度の権利行使が濫用となるかについては、憲法一二条、民法一条二項の対照からは、それが公共の福祉に反するが如き方法、程度なるを要するという結論が出る」。「過失とは、不注意によって、行為の違法性を認識しないことをいう」。近時、危険な事業が発達するにともなって「社会生活上要求せられる注意力が著しく高められ、遂には、無過失責任に到る傾向がある。・・事業より生ずる危険が予見せられる以上、特殊な技能を有するものが、危険を防止するについて必要なる、あらゆる注意力が要求せられる」。以上、予見を中心とした過失論、権利濫用論による違法性論とも、戦前の学説の主流と変わらないが、過失における「注意力」の高度化の延長線上に無過失責任を置いていること、戦後の書物らしく、憲法一二条や民法一条二、三項等に言及している点が特徴である。
  次に、一九五一年の我妻博士と有泉亨博士の共著では、以下のような説明がなされている(168)。不法行為の指導原理は、「個人の自由活動の最少限度の限界を画する」ものから「社会に生ずる損害の負担を公平妥当に分配する」ものへと変わった。「大企業その他とくに危険と利益とを伴う生活関係においては、利益と損失とを一致せしめ、危険な施設に対して、絶対の責任を負わしめることが公平に適する。従って、或いは過失責任の要件を緩和し、或いはそれぞれに応じて報償責任と危険責任とを援用すべきである」。このような指導理念からすれば、権利侵害要件は「違法に他人に損害を加えるという意味に解さなければなら」ず、それは「侵害される利益の性質と侵害する行為の態様の両面から相関的に判断し、公の秩序善良の風俗を標準として決定すべき」である。ここで述べられているのは、戦前の教科書で我妻博士が述べたのと全く同じ考え方である。
  さらに、同じく戦前に不法行為法の体系書を公刊している宗宮博士のこの時期の債権各論の教科書に、以下のような叙述がある(169)。二〇世紀に入って、「不法行為を以て社会に生じた損害を公平妥当に分担する制度」と考えるようになり、したがって、七〇九条の「権利」は「法の根基を為す条理に照して、その保護を要すと思惟される利益」でたりる。過失とは、「行為者が行為に際し予見し得べき加害を不注意により予見せず、また仮に未必的に予見しても、その発生を是認しない心理状態である」。しかし、加害者が賠償責任を負うべき場合を過失ある場合にのみ制限することは、公平正義に反する結果を生ずることがある。例えば、「危険なる企業を営んで事業の利益を受ける場合に、過失がある場合のみに責任を負い、企業より必然に生ずる損害を被害者に負担せしめるのは公平正義に反する」。また、企業上の事故については、原告が被告の過失を証明するのが至難であるので、「裁判所は、間接の事実によって過失を推断し得られ、また原告が故意・過失を推断すべき事実を立証したときは、反証なき限り、被告の故意・過失を推定し得る」。一方で過失を予見可能性において理解しつつ他方で(公平正義の見地から)無過失責任の必要性を説くこと、不法行為の理念を損害の公平分担に置くこと等において、戦前の主流の考え方と共通しているが、戦前の著書で主張された過失の推定論があらためて述べられている。
  以上は、いわば戦前における通説的見解との連続線上にあるものの例だが、以下の二つはそれとは異なる見解を含むものである。まず吾妻光俊『債権法』は、「純粋な損害の分担という思想は、保険制度においてのみ貫徹されるものであって、・・不法行為については、個人の過責による損害の填補という基本観念に即しつつ、その観念を醇化し、技術化することが」問題の焦点であるとして公平分担論に疑問を呈しつつ、生産にともなう煤煙・震動、有毒物の放出によって第三者に損害を加えたような場合には、「その損害予防に相当な注意をし、適当な設備をしたとしても、過失ありと認定し得る場合も存する。畢竟、それら企業の自由な活動を、外部の者の損害を不問に付してまで、保障する合理的根拠があるかどうかの判断を含めて、過失の有無が決定さるべきである」とする(170)。さらに、明確にそれまでの学説の主流と異なる見解を主張するのが来栖三郎『債権各論』である。ここでは、「権利侵害を要件とすると不都合が生ずるのは、権利の概念をことさら狭く解しようとしたからに過ぎない」、しかし、「民法七〇九条の権利は従来の学説が解していたよりも遥かに広い概念である。のみならず、社会の発達に伴い発展しうる概念である。従って社会秩序上保護すべき新たな個人の利益が生じたら権利の概念の拡大として、その侵害に対しては、不法行為の保護に浴せしめうるであろう」という考え方が述べられている(171)。この見解は、権利濫用論から違法性論を通じて形成されてきたわが国の不法行為論を、新たな視点から再構築しうる可能性を含んだ理論であったが、その後、これを発展させる議論は見当たらない。
  一九五七年に、加藤一郎教授の『不法行為』が現れる。本書は、一面では、鳩山説から我妻説へと展開されてきた戦前の通説的見解の継承という性格を持っているが、他面では、それ以後の不法行為論(とりわけ公害不法行為論)の展開にとって手がかりとなる新しい主張をも含んでいる。前節における加藤教授の無過失責任論を検討する際の叙述と一部重複するが、以下、やや詳しく内容を見てみよう。まず教授は、高速度交通機関や危険な設備をもつ企業については、その危険から生じた損害を賠償させるのが公平と正義にかなったことだと考えられるが、科学の最高水準の技術を用いてもなお損害が生じた場合や、科学の最高水準の技術を用いれば損害を防げるが、それには多額の設備資金を要する場合には過失があるとは必ずしもいえないであろうとして、大阪アルカリ事件大審院判決を援用しながら過失責任主義の限界を説く(172)。しかし同時に教授は、過失を、「その結果することを知るべきでありながら、不注意のためそれを知りえないで、ある行為をするという心理状態である」とした上で、かりに相当な設備という点に過失はなくとも、「適切な防除設備がなく他人に被害を与えるような工場を設置したこと自体に過失があるとして、その損害を賠償させるべきである」という興味深い主張をも行っている(173)。この考え方によれば、危険をともなう工場の立地・操業によって生ずる公害事件の場合、過失の認定はかなり容易になるはずである。ただし、このような過失論と(公害不可避論に基づく)前者の大阪アルカリ事件大審院判決の肯定的評価がどう整合的に解されるのかは不明確である。さらに教授は、違法性要件については、「被侵害利益の種類・性質と、侵害行為の態様との相関関係から違法性を判断していこうというのが、現在の学説の到達点である」として我妻説を採用することを明言する(174)。この限りでは、戦前の通説的見解と同じである。しかしここでも教授は、わが国では、いちおうは加害者の正当な権利行使の範囲内であるが権利濫用になる場合に違法性があるという考え方が強いが、「自己の支配する土地の外に影響が及ぶならば、それは権利の行使の範囲内というべきではなく、ただ、社会生活上受忍すべきだと考えられる範囲内では、他人の権利を侵害しても違法性がないというにすぎない」、このようにすれば、権利濫用論とは「原則と例外を逆にした形になって、違法性の認定が容易になるであろう」という指摘を行っている(175)。加えて、本書における注目すべき点は、その共同不法行為論である。企業活動による公害において汚染源が複数であることは珍しいことではないが、そのような場合に、共同不法行為の規定がどう機能しうるかについては、これまでほとんど論じられることはなかった(176)が、教授は、「各人の行為と損害発生との間に因果関係がありそこに共同性が認められれば、共同の行為という中間項を通すことによって、損害の発生との間に因果関係があるといってよい」として、共同不法行為が因果関係要件の緩和機能を有することを指摘しつつ、二つの会社の放流した薬品が相合して被害を与えたような場合に共同不法行為成立の可能性を肯定しているのである(177)。公害問題への共同不法行為規定の本格的な適用は、山王川事件最高裁判決(最判昭和四三・四・二三民集二二・四・九六四)をへて四日市公害訴訟判決(津地四日市支判昭和四七・七・二四判例時報六七二・三〇)の登場を待たなければならないが、ここでの問題指摘の意義は評価されてよい(178)
  このように、昭和二〇−三〇年代の教科書・体系書を見る限り、不法行為の目的を損害の公平な分担に求め、公害等の現代的な危険にともなう被害はある程度不可避であることを前提に、一方で無過失責任の必要性を指摘し、他方で違法性論において、相関関係説、あるいは受忍限度を超えて始めて違法になるという、いわゆる受忍限度論を主張するのが主流であったこと、しかし同時に、いくつかの、それ以後の公害不法行為論の発展において手がかりとなる主張が存在することが明らかとなった。そこで次に、論文レベルで特に注目すべきものを検討しておこう。
  まず第一は、英米法のニューサンス法理を参考に、隣地の住人の権利を侵害してもそれが権利の濫用でなければ違法とはならないとする考え方を批判した戒能通孝博士と四宮和夫博士の主張である。戒能博士は、「英法は被害者の権利をどう認めるかという立場からこの問題に接近し、大陸法は加害者の地位をどう理解するかという立場からこの問題を取扱っていたようである」とした上で、イギリスにおいて「古い形での権利概念を維持しつつ、ともかく産業革命を乗り越え得たこと」に注意する必要があるとして、わが国の判例・通説が「権利濫用もしくは権利相対性の理論」に傾いたことへの反省を示唆している(179)。さらに四宮和夫博士も、わが国の判例と英米法のニューサンス法理を比較した上で、両者は「利害調節の原理が加害者の権利と被害者の権利のどちらに重点を置いているか、という差異があるにとどまる(しかし、この差異は重大である!)」とし、このような差異は「両国民の権利意識の差異の反映にほかならない」と断ずる(180)。いずれも、生活妨害事例において、「侵害=原則適法、権利濫用になる場合にのみ違法」とする戦前からの主流的な見解への反省を迫るもので、その意味で、権利行使であっても被害が発生すれば原則として違法であり受忍限度内であることは被告が証明しなければならないとする前述の加藤教授の受忍限度論とも共通している。ただし、戒能、四宮説においては、被害者の「権利」が議論の出発点となっていることが特徴的である。その意味でこの両者の説は、比較法的系譜は異なるが、後に、ドイツにおける権利論を解明することによって、古典的権利の今日的意義を明らかにした原島重義教授の見解(181)にも通ずる見解であり、特に、わが国の判例・通説が被害者の権利から出発しなかったことの原因は「国民の権利意識」にあるとした四宮博士の指摘は重要である。なぜなら、一九六〇年代後半以降の公害反対運動とその中で確立してきた人格権や環境権の考え方は、まさに、この「国民の権利意識」の変化にその基礎を求めることができるからである。
  最後に、内容的にはむしろ公害不法行為法の本格的な展開期のものと位置づけるべきかもしれないが、この時期の終わりごろに主張された、徳本鎮教授の因果関係に関する主張を取り上げておこう。教授は、鉱害やその他の企業損害については、損害態様の特殊性のために加害行為と損害の因果関係の証明が困難であるにもかかわらず、その問題をそれほど深く検討した学説はほとんどないとした上で、ドイツの鉱害賠償における証明程度の緩和論(「確定的な証明から蓋然的証明へ」)を紹介し、因果関係証明における蓋然性説を主張するのである(182)。確かに、徳本教授が指摘するように、これまで、因果関係の証明負担の軽減を正面から論じた学説は存在しなかった。しかし、現実の訴訟では、例えば、鉱害において、因果関係の証明困難を理由に訴えを取り下げる例があったことに端的に示されているように、因果関係立証は、過失とならんで(ある意味ではそれ以上に)被害救済に対する大きな障壁だったのである。もちろん、すでにふれたように、戦前の大阪アルカリ事件の二つの控訴審判決(大阪控判大正四・七・二九新聞一〇四七・二五、同大正八・一二・二七新聞一六五九・一一)は、間接的な事実の積み重ねから因果関係を認定しており、また、後に紹介するように、戦後の水質汚染事件において、被害発生の機序がすべて明らかでなくとも因果関係を認定しうるとする興味深い裁判例も存在したが(甲府地判昭和三三・一二・二三下民集九・一二・二五三二)、それを理論的に根拠づけるという点では学説はいわば立ち遅れていたのであり、この段階で、正面から問題に取り組んだ徳本論文の意義は大きい。なお、一九六四年になって、加藤一郎教授も、公害の公的規制や私的救済を考える場合に、「因果関係が必ずしも厳密に証明されていることを要しない」としている(183)。これらを出発点として、公害法の次の段階では、この因果関係の証明問題は、最も激しい論議がたたかわされる論点となっていくのである。

    ロ.裁判例の状況

  最後に、昭和二〇−三〇年代の裁判例を見ておこう。この時期、公害問題に関する最高裁判決は存在しないが、騒音・振動被害を中心に、相当数の下級審判決が存在する。そしてその中には、次の時期の議論につながる注目すべき内容のものも少なくない。
  まず最初に全体像に関しては、沢井裕教授の詳細な研究(184)を紹介するにとどめよう。沢井教授によれば、この時期の裁判例は防止措置を問題にしているが、そのほとんどにおいて、十分な設備をしていないという理由で賠償責任を肯定している。その場合、三つのタイプがあり、第一は、期待可能な防止措置の懈怠を過失と見るもの(大阪アルカリ事件大審院判決の論理)であり、第二は、防止措置の欠如を違法性の根拠にするもの(信玄公旗掛松事件大審院判決の論理。ただし、沢井教授は、正面からこのような論理構成をとったものは少ないとする)、そして第三は、判文中で防止措置の欠如を論じているが、故意・過失論や違法性論上いかなる意味を有するかについて触れずに、総合して責任を認めているものである。他方、防止措置をしているから責任はないとする判決は極めて例外的であり、責任を否定する際の論理としては、被害が受忍限度以下だからとするものが多数であると沢井教授は指摘している(185)
  このように、この時期の裁判例では防止措置が(ある場合には過失論で、ある場合には違法性論で、さらに場合によればどちらとも明確にせず)考慮されるが、それはその他の様々の要素と総合的に判断され、そして、最終的には「受忍限度」を越えるかどうかという点に判断結果が集約されるという考え方が主流となっていたのである。この意味では、戦前の鳩山・我妻説から戦後の加藤説にいたる学説の流れと共通のものが見られるが、ただ注意すべきは、裁判例のとる受忍限度論においては、加藤教授のそれのように公害被害が発生しておれば一応違法性を認め、受忍限度内であることが証明されれば免責されるという考え方はなお少数であり、その意味で、「イミシオン自由の原則」がとられていたことである(186)
  以上の整理を前提にしつつ、以下、特徴的な、あるいはその後の公害法の発展にとって先駆的な意味を持つ裁判例をいくつか検討してみよう。

@  津地判昭和三一・一一・二(下民集七・一一・三一〇一)
  隣接する精麦工場の騒音・振動被害に対し、土地家屋所有権に基づいて差止め(日没後日の出前までの精麦機械の運転停止、防音工事等)と精神的苦痛に対する慰謝料を請求。差止請求に対しては、「都会生活をする以上、多少の騒音、震動、塵埃等はこれを耐忍しなければならない」とした上で、被告の側でも可及的に被害防止の設備をしたのだから「原告としてもこの程度で我慢しなければならない」として請求を棄却。しかし、被告としては住宅街の中に精麦工場を設置する以上、「必要な設備を成したうえこれを操業すべき」であって「その設備をなさずして漫然しかも深夜操業するが如きは、法律的にも又徳義上からも許されるべきことではない」、また、「被告は自己の工場より発生する騒音、震動、塵埃により他人が損害を蒙ることは知り又は知り得べかりし筈であ」り故意または過失があるとして、防止設備を講ずるまでの慰謝料を認容。
A  佐賀地判昭和三二・七・二九(判時一二三・一)
  隣の製氷工場の騒音に悩まされた原告が、占有権に基づいて防音壁の設置を、不法行為に基づいて慰謝料を請求。裁判所は、「通常の日常生活から発生する通常の音響である限り、音源の隣地居住者は社会協同生活上これを受忍すべき義務を有することは自明とするところである」とした上で、厚生省の基準や福岡県騒音防止条例の基準等を考慮して、住宅地において昼間六〇ホーン夜間四五ホーン程度が基準となるとし、現在では被告の防音施設等によりそれ以下になっているので防音壁設置の請求は認められないが、そのような施設設置以前の被害には慰謝料を認めるべきとした。
B  大阪地判昭和三七・四・七(下民集一三・四・六七四)
  ビルの建設工事によるじんあい・震動・騒音等のために営業が妨害されたとして、近隣店舗の所有者が施工者に損害賠償を請求。裁判所は各種被害を認定の上、故意・過失と違法性について次のように述べて損害賠償を認容した。被告は施工にあたって「原告等の営業を直接妨害することのなきよう、周到な注意を払い、もって原告等の営業収益を減少せしめざるべき義務」があるにもかからず、適切な防止設備をとることなく、したがって「被告のこのような行為は・・必要な注意を怠ってなしたものであることは明らかであるから、原告等に営業収益減収による損害を生ずべきことを認識しなかったとしても右の如き損害発生の蓋然性は当然予見しうべきものであり被告は過失の責を免れることはできない」。
  また、被告は、本件工事は行政庁の確認を受けた正当な権利行使であり、完全な防備施設をなしたのであるから違法性を欠く旨主張するが、「正当な権利行使行為もしくは法律上許された行為と雖も権利行使の方法もしくは行為の態様において、法律上保護せられる権利もしくは利益に対し社会通念上一般に受忍すべきものとせられる限度を超えた過大な侵害を生ずべきものである場合には不法行為上は違法の評価を免れない」。
C  東京高判昭和三七・五・二六(判時三〇一・一一)
  原告が賃貸していたアパートを被告印刷会社が買い受けてそこで新聞の印刷を始めたため、発生する騒音・震動・臭気等によって精神的苦痛を受けたとして慰謝料を請求。原審(東京地判昭和三四・一一・七判時二一二・一八)は、騒音等は「一般の認容限界」を超えるとして(過失には言及せず)慰謝料を認めたが、控訴審では、「印刷工場の操業にともない音響、震動、臭気等の不可量物質を発散することは、この種企業の性質上已むを得ないものであるから、それが他人の利益を害することがあっても、社会共同生活上一般に忍容すべき限度を超えない限りにおいては違法性を有しないものというべきである」が、それを超える場合には「一応違法性」があるとし、その基準を東京都の条例における基準に求め、さらに、そのような違法な被害を防止しなかったことに過失があるとして、原告の請求を認めた。
D  東京地判昭和三九・六・二二(判時三七五・四七)
  夜間の都営地下鉄工事による騒音のため安眠を妨害された住民が損害賠償を請求。裁判所は、「このような場合における行為の違法性は、騒音発生の原因となった行為自体が適法なものであるかどうかではなく、侵害を受けた生活上の利益が法的保護を受けるに値するものであるかどうかおよび侵害がその態様、程度からみて社会生活上各人が受忍しなければならない限度を逸脱しているかどうかの観点から判断すべき」であり、また、「経済的に合理的な範囲で工事騒音を防止する技術的な方法が無いからといって、そのことのみで不法行為の成立を否定すべきではなく、そのことは・・受忍の限度を画するための一の資料として斟酌すべき要素となるにとどまるものというべきである」とし、騒音の大きさ、夜間であること等から見て、本件の騒音は社会上受忍すべき限度を超えた著しい騒音と認めるのが相当であり、賠償義務を免れないとした(判決は過失については言及せず)。

  以上は騒音・振動被害の事例の一端である。この、隣地からの騒音・震動問題は、しばしば相隣関係的紛争の典型として理解されるが、注意すべきは、ここで取り上げた事例において騒音・振動源となっているのは工場の操業や大規模な建築工事であり、隣の家のピアノの音がうるさいといった、市民生活における相互的なものではないことである。その上で、@判決は、被害発生後に被告が講じた措置をも考慮すれば「我慢」しなければならない程度であるとして差止めをしりぞけたうえで、慰謝料については、「防止に必要な設備」なしに操業したことが「法律的にも又徳義上からも許されるべきことではない」(違法性をさすのか?)、被害発生を予見できたはずであるので故意または過失があるとする。前者が違法性をさすとすれば、防止設備を違法性の部分で考慮するという枠組みをとっていることになる。Aは、やはり受忍限度論に立ちつつ、その基準として行政の基準を重視しているが、慰謝料請求については被害にふれるのみで過失や違法性要件について言及していない。Bは、違法性要件については受忍限度論に立ちつつ、被告のとるべき防止措置を詳細かつ具体的にあげ、その欠如を過失に帰着させている点が特徴的である。Cは、Aと同様に行政の基準を重視しているが、さらに、「この種企業の性質上已むを得ないものであるから、それが他人の利益を害することがあっても、社会共同生活上一般に忍容すべき限度を超えない限りにおいては違法性を有しないものというべきである」として、沢井教授いうところの、「イミシオン自由」の原則を明言している。
  これらに対しDは、受忍限度論をとりつつも、その判断において加害行為自体(その公共性等)にではなく被害や侵害の程度・態様にもっぱら目を向けていること、しかも、「経済的に合理的な範囲で工事騒音を防止する技術的な方法が無いからといって、そのことのみで不法行為の成立を否定すべきではなく、そのことは・・受忍の限度を画するための一の資料として斟酌すべき要素となるにとどまる」としている点で、極めて重要なものである。なぜなら、前者は、地下鉄工事という公共性の強い事業であっても深刻な被害を発生させた場合は賠償責任を負うべきことを意味し、後者については、たとえ経済的・技術的に防止が不可能であっても被害の程度しだいではやはり賠償責任が発生することになるからである。本判決が、一九六四年という、すでに公害が深刻な問題として社会的に意識されるようになっていた時期(本稿の時期区分からすれば公害不法行為法の本格的な展開期直前の時期)のものであることによるのであろうが、沢井教授はこの判決を、「伝統的な考え方を破るもの」「大審院の責任論を完全に脱却したもの」と高く評価している(187)。ただし、ここでは差止めは請求されていないため傍論となるが、判決が、防止方法が未開発であったり、その採用が「経済的に著しく不合理」である場合、あるいは、発生原因となる行為が「社会的に正当な理由」を持つ場合には、差止請求まで容認される例は極めて少ないだろうとしている点には注意する必要がある。なぜなら、一九七〇年代以降の差止訴訟で争われるのはまさにこの点だからである。

E  甲府地判昭和三三・一二・二三(下民集九・一二・二五三二)
  パルプ製造業者の廃液による河川の汚染により養魚業者の鯉が死滅したとして、損害賠償と廃水の流出禁止を求めた事件。裁
「ノ4.5」判所はまず因果関係について、流水経路、パルプ廃液の成分、廃液を混入しない流水との比較、被告は適切な浄化装置を設けずに廃液を流出させていたこと、以前に他の養鯉業者が被告から鯉の死滅による補償を受けたことがあったこと等の様々の事実から、「原告の鯉の死因は、被告等会社の排出するパルプの廃液中に含まれた繊維が、流水に乗って原告の養魚堀に流入し、沈下堆積したため次第に繊維が養鯉の鰓に付着し、呼吸作用を喪失させ遂に窒息死に致らせたものであるか、さもなくば、パルプ繊維が、堀底に沈下堆積のうえ醗酵して水中の酸素の欠乏を招き遂に斃死するに至らせたものであることを推認するに難くない」(下線、筆者)とした。
  さらに、被告の過失については、「もともと工場等より排出する廃液中には、化学薬品その他の有害な物質が混入していて、これをそのまま河川等に放出すれば、水棲動植物に対し、危害を及ぼすことは、巷間しばしば散見するところであるからパルプ製造業者である被告等会社においても、パルプ生産より発生するパルプ廃液をその工場より付近の河川に放出する場合には、事前に右廃液の下流動植物に対する影響の有無を科学的に調査し、有害である場合には、これを防止するに必要な手段を講じ、以て廃液の河川放出による危害を防止すべき注意義務を有する」が、被告はこの注意義務を怠り危害を防止するに足りる手段を講ずることなく廃液を放出しており、過失があるとした。
  なお、原告は流水使用権に基づいて廃液の放流禁止を求めているが、これに対しては、原告は「流水を排他的、独占的に使用する権利」を有しないので、差止めは認められないとした。
F  東京高判昭和三九・四・二七(下民集一五・四・九五七)
  河川(山王川)上流にある国営のアルコール製造工場の廃液により水稲に被害が発生したとして、農民らが損害賠償を請求。原審(水戸地土浦支判昭和三七・八・三一判時三三二・二五)が国家賠償法上の責任を認めたため国の側が控訴。控訴審も、以下のように述べて責任を肯定した。まず、廃液の排出経路、河川の汚染状況、被害が出たとされる年度の収穫状況の県内他地域との比較等から因果関係を認定。さらに、工場が古くから河川を排出路として使用していたからといって、「一般人の忍容限界を超えて他人の水の利用を著るしく害することまでも許されることにはならない」。工場の側は廃液をさらに稀釈するか原告らのために別個の水源を提供すれば水田耕作の被害を防止できたにもかかわらず、そのような措置を講じないで河川を汚染することは、工場の設置または管理に欠陥があり、また、水質分析により川の水質が灌漑用水として不適当であることは容易に知りうることでありながら「かかる汚染防止の手段をとらず漫然工場廃水を排出していたのであるから、少なくとも過失がある」。


  EとFは、それほど多くない水質汚染事件の裁判例であり、いずれも化学工場の廃液が問題となっている。うち、Eは、二つの点で興味深い判断を示している。すなわち、第一は、@−Dのような隣地からの騒音・振動による被害等と比べて因果関係の証明に困難がともなう水質汚染事例において、さまざまの間接的な事実の積み重ねから汚染経路を認定した上で、最終的な鯉の斃死の機序を特定することなく(二つの可能性を指摘している)因果関係を認定したことである。第二は、過失の前提として、化学工場においては、排出する廃液から動植物に被害がでないように科学的に調査し、必要な防止措置を講ずべき義務があるとしている点である。前者について言えば、廃液が鯉に致命的な作用を及ぼしうることが明らかとなれば、最終的な死にいたる機序の解明は法的責任の前提としての因果関係の認定には不要であることを明らかにしたものであり(生命・健康被害という点で事案は異なるが、四大公害事件でも、因果関係の証明に健康被害にいたる病理機序の解明が必要かどうかが争いとなっている)、また、後者の、化学工場の廃液の一般的な危険性から調査研究義務を前提とした防止義務を課すという考え方も、後の水俣病訴訟等で確立される考え方の先駆となるものとして注目すべき判断である(もちろん水俣病判決の「最高度の調査義務」あるいは「操業停止を含む防止義務」とはなお大きな距離はあるが)。ただし、原告の請求の根拠づけの問題があるにせよ、養鯉が斃死するという重大な被害が発生しているにもかかわらず、原告に水利権がないことにより差止めを否定したことに問題がないわけではない。Fはいわゆる山王川事件としてその後最高裁でも争われることになる事件である。因果関係において他地域の収穫状況との比較といった手法をとっている点、別個の水源の提供という被害者の領域に立ち入った防止措置を論じている点に特徴があるが、「一般人の忍容限界」を超えること、さらに、防止措置を怠ったことを要件としていることから、理論的な枠組みとしては、むしろ戦前の判例のそれに近いものである。
  以上を簡単にまとめるならば、まず第一に、この時期の判決例としては騒音・振動等による被害が多い。このタイプの公害は、一面で相隣的な性格を持つが、すでに指摘したように、実際に裁判になっているケースは、被害者と加害者にいわゆる「お互いさま」という関係が成立するようなものではなかった。さらに、被害としては、騒音等により安眠を妨げられたといった人格的な被害も見られるが、四大公害訴訟に典型的なような明確な健康被害は、裁判上は浮かび上がってきていない。また、汚染と被害の因果関係の証明問題は、水質汚染事例を中心に争点となってきているが、その証明困難を緩和するための意識的な取り組みは裁判例においてもなお本格化しているとは言えない。最後に、差止めと賠償の両者において、違法性ないし受忍限度論が有力なこと、過失については、予見を中心に組み立てるもの、相当の設備論をとるもの等があるが、いくつかの判決で、調査義務が意識され始めていることが興味深い。


(92)  以上、『法典調査会議事速記録』(学術振興会版)四〇巻一四四丁以下、一七一丁、一五一丁以下参照。
(93)  この時期の民法学史上の位置づけについては、星野英一「日本民法学史(1)」法学教室八号(一九八一年)三七頁以下参照。
(94)  梅謙次郎『民法要議巻之三』(有斐閣書房一八九七年、引用は三三版(一九一一年)を底本とする復刻版(有斐閣一九八四年)による)八八四頁。
(95)  法政大学図書館所蔵・梅謙次郎文書「意見書類(A5aー29)」綴りの中の「足尾銅山鉱毒問題」名文書(前出注(35))参照。
(96)  富井政章『民法原論第三巻』(有斐閣一九二九年)二一五頁以下。
(97)  長谷川喬・岸本辰雄『民法講義第三巻』(講法会一八九八年)七五頁以下。
(98)  松波仁一郎・仁保亀松・仁井田益太郎(穂積陳重・富井政章・梅謙次郎校閲)『帝国民法正解第二巻』(日本法律学校一八九七年)一四四九頁以下。
(99)  菱谷精吾『不法行為論』(清水書店一九〇五年)四二頁。
(100)  菱谷前出注(99)九四頁、一一二頁。
(101)  団野新之『損害賠償論』(巖松堂書店一九〇九年、引用は一九一〇年の改訂再版による)一三〇頁以下、五六〇頁。
(102)  団野前出注(101)五八、一七〇頁。
(103)  磯谷幸次郎「不法行為ニ要スル過失ノ程度」法学新報一三巻三号(一九〇三年)七頁。
(104)  山田三良「感電即死事件ト大審院ノ判例」法学協会雑誌二五巻九号(一九〇七年)一二九四頁。
(105)  これらの判例については太田知行「大阪アルカリ事件−故意・過失」『民法判例百選U債権(第二版)』(一九八二年)一六三頁、瀬川信久「民法七〇九条」広中=星野編『民法典の百年V』(有斐閣一九九八年)五六九頁参照。
(106)  美濃部達吉「行政上ノ特許ニ基ク他人ノ権利ノ侵害」法学協会雑誌三五巻三号(一九一七年)五七一頁。
(107)  星野前出注(93)三九頁。
(108)  鳩山秀夫「工業会社の営業行為に基く損害賠償請求権と不作為の請求権」法学協会雑誌二九巻四号(一九一一年、引用は、同『債権法における信義誠実の原則』(有斐閣一九五五年)による)。
(109)  浅野セメント事件については、神岡浪子「日本資本主義の発展と公害問題」ジュリスト臨時増刊一九七〇年八月一〇日号『特集公害』一一頁以下、加藤9845興「戦前の公害問題」『公害と人間社会』(大月書店一九七五年)二四二頁以下等参照。
(110)  鳩山前出注(108)四二七頁以下。ただし、博士は、後述するように、工場の操業が不法行為となるかどうかは「善良の風俗」に反するかどうかにより決まるとするのであるが、その判断においては、従来問題なく当該行為を継続してきたことは不法行為の成立に影響するとしている(同論文四二八頁)。
(111)  鳩山前出注(108)四三三頁以下。
(112)  この点は、すでに、原島重義「わが国における権利論の推移」法の科学四号(一九七六年)六七頁以下、中山充「公害の賠償と差止に関する法的構成の変遷」磯村還暦『市民法学の形成と展開(下)』(有斐閣一九八〇年)二二三頁以下、神戸秀彦「公害差止の法的構成の史的変遷に関する考察(一)」都立大法学雑誌二九巻二号(一九八八年)九一頁以下等、いくつかの文献において批判的に指摘されているところである。
(113)  鳩山前出注(108)四三四頁、四三八頁。
(114)  鳩山前出注(108)四四二頁。
(115)  川井健『民法判例と時代思潮』(日本評論社一九八一年)第五章。
(116)  この事件は、公害紛争が民事訴訟の形をとった点で、戦前では珍しいものと言えるが、その理由として川井教授は、原告らの代表者であった地主の外村与左衛門の「商人的計算に基づく商人の権利主張の性格」が大きかったのではないかとし(川井前出注(115)二三三頁以下)、淡路剛久「公害紛争の解決方式と実態」『註釈公害法大系四巻』(日本評論社一九七三年)二八頁も、大阪アルカリ事件が訴訟になったプロセスを「被害者が公害問題の解決を地域の支配構造にのった形で有力な第三者に預け、この第三者が裁判へのチャンネルを有しているなどして訴訟になる場合」にあたるとしている。これに対し、大河純夫教授は、地主外村の役割が大きいことを認めつつ、公害による減収を小作料減免の形で解決しようとする小作人の動向を工業に向けさせる性格をも持つのではないかとしている(大河純夫「民法学のあゆみ川井健『大阪アルカリ株式会社事件−民法判例と時代思潮』」法律時報五三巻一一号(一九八一年)一五二頁)。
(117)  富井利安『公害賠償責任の研究』(日本評論社一九八六年)一三頁がこの点の意義を指摘している。
(118)  塩田環「不法行為に関する大阪控訴院の判例に就て」法律新聞一〇〇四二号(一九一五年)四頁。
(119)  鳩山秀夫「工業経営ニ基ク損害ノ賠償責任」法学協会雑誌三五巻八号(一九一七年)九三頁。
(120)  川井前出注(115)二二五頁以下。
(121)  太田知行「大阪アルカリ事件」『民法判例百選U』(一九七五年)一六五頁。瀬川信久「危険便益比較による過失判断」星野古稀『日本民法学の形成と課題(下)』(有斐閣一九九六年)八一一頁も、本判決の過失論を、過失判断に加害行為の有用性や損害回避に必要な費用を考慮すべきことを提起したものと解する。
(122)  沢井裕『公害の私法的救済』(一粒社一九六九年)二五九頁、下森定「大阪アルカリ事件」別冊ジュリスト『公害・環境判例百選(第二版)』(一九八〇年)一一頁、他。
(123)  この点はすでに、吉田9845彦「過失の意義と違法性」別冊ジュリスト『民法判例百選U(第四版)』(一九九六年)一六二頁が指摘している。
(124)  瀬川前出注(121)八三五頁以下。
(125)  川井前出注(115)第六章。
(126)  原島前出注(112)七〇頁は、この判決においても、イミッシオーンは原則的に適法であり、「権利濫用」になるとき始めて違法という「逆立ちした発想」が前提となっていると批判する。
(127)  川井前出注(115)一六頁。
(128)  沢井前出注(122)二五九頁、牛山積『公害裁判の展開と法理論』(日本評論社一九七六年)六六頁、他。
(129)  本判決が防止措置にかかわって、本件被害発生後の一九一四年に完成された日立の高煙突に言及していることから、本判決は実質的には無過失責任に近い重い責任を企業に課したものであるとする理解がある(野村好弘『公害の判例』(有斐閣一九七一年)八六頁)。しかし、本判決は確かに日立の高煙突にも触れているが、それを過失の決め手にしているわけではなく、老朽施設の改造といった措置にも触れ、さらに高煙突にしても、一八八九年のドイツの例等をもあげ、被害発生当時の技術や知見から高煙突の有効性は知られていたにもかかわらず、「僅に百尺乃至百弐拾尺の煙筒により有毒瓦斯を遁逃せしめた」ことを過失としているのであり、右の評価はあたっていない。
(130)  野村前出注(129)一四頁。
(131)  沢井前出注(122)三九三頁は、「ここまで立証されておれば、まさに確実な立証である」とするが、同感である。
(132)  大河前出注(116)一五二頁は、本判決のこの法論理に、大阪アルカリ事件において、大審院判決にもかかわらず大阪控訴院がその結論を維持しえた「内在的理由」の鍵があることを指摘する。
(133)  野村前出注(129)九〇頁。
(134)  沢井前出注(122)二八〇頁。
(135)  瀬川前出注(105)五七三頁。ただし、同教授は、鉄道踏切事故では加害行為の有用性や回避費用を正面から考慮して鉄道会社の責任を否定するものがあることも指摘している(五七三頁以下。大審院判決としては、例えば大判大正一五・一二・一一民集五・八三三がある)。
(136)  四宮和夫「業務上の過失」『総合判例研究叢書民法ヒ』(有斐閣一九五八年)一六五頁は、この判決は、「人間の生命に対する危険が予見されるかぎり、企業者には最高の科学的水準による危険防止設備が要求されねばならない」という方向を指向するものとして注目されてよいとする。
(137)  末弘厳太郎『債権法各論』(有斐閣一九一八年)一〇六八頁以下。
(138)  宗宮信次『不法行為論』(有斐閣一九三五年)六二頁以下、一一二頁。さらに興味深いのは、本書において、企業上の事故については過失の証明は第三者には至難であるため、「裁判所は間接の事実により過失を推断」することができるという、過失の推定論が主張されていることである(同書八三頁)。
(139)  磯谷幸次郎氏『債権法各論(下)』(巖松堂書店一九二九年)八五〇頁以下、八三七頁以下。なお、同書も、過失の立証困難を理由に、原告は「被告ノ為メ自己ノ被リタル権利侵害ト損害発生ノ事実ヲ立証スルヲ以テ足ル」として、過失の立証責任の転換を主張している(八五二頁)。
(140)  鳩山秀夫『日本債権法各論下巻』(岩波書店一九二四年、引用は一九三一年増訂一一刷による)八四七頁以下。
(141)  なお、この時期、学説の多くが、前述したように、一方で損害の予見を中心に故意・過失を論じつつ、他方で近代産業による危険には無過失責任が必要だとすることについては、論理的整合性という点に関して疑問が残らないわけではない。なぜなら、前者の主張を貫くかぎり、公害のように継続的な行為によって損害が発生する場合、損害発生の予見は決して難しいことではなく、したがって、多くは過失(場合によれば故意)があるとして責任が認められることになるからである。しかしこの点についての説明は、鉱業法の「無過失賠償規定」について、その本質は過失責任であり被害者の立証負担を軽減するために無過失責任の形式を採用したものに過ぎないとする、前節で触れた鉱業法研究者のもの(例えば、平田慶吉「鉱害賠償規定解説」民商法雑誌九巻五号(一九三九年)七七七頁等)があるだけである。
(142)  鳩山前出注(140)九一〇頁以下。
(143)  大判大正一五・一〇・一三民集五・七八五。なお、民法七一五条における判例・学説の変化について詳しくは、田上富信「使用者責任」星野他編『民法講座六巻』(有斐閣一九八五年)四七三頁以下参照。
(144)  末弘前出注(137)一〇九二頁以下。
(145)  民法七一七条の性質に関する判例・学説の変化について詳しくは、植木哲「工作物責任・営造物責任」星野他編『民法講座六巻』(有斐閣一九八五年)五四三頁以下参照。
(146)  我妻栄『事務管理・不当利得・不法行為』(日本評論社一九四〇年)一六三頁以下。
(147)  我妻前出注(146)八〇頁以下。
(148)  以下で検討する諸説についてはすでに優れた分析が複数存在する。例えば、原島前出注(112)六七頁以下、中山前出注(112)二二五頁以下、大塚直「生活妨害の差止に関する基礎的考察(一)」法学協会雑誌一〇三巻四号六二二頁以下、神戸前出注(112)九八頁以下等。本稿の叙述はこれらに負うところが大きい。
(149)  牧野英一「権利の観念の転回に就いて」法学志林二六巻七、八号(一九二四年)。
(150)  牧野前出注(149)七号一一頁、八号一六頁。
(151)  牧野前出注(149)七号一七頁以下、八号二〇頁以下。
(152)  原島前出注(112)七一頁。
(153)  末弘厳太郎「適法行為による『不法行為』」法律時報五巻七号(一九三三年)八頁。
(154)  神戸前出注(112)一一八頁以下。
(155)  我妻前出注(146)九五頁以下。
(156)  我妻前出注(146)一二五頁。
(157)  我妻前出注(146)一〇一頁、一〇五頁。
(158)  ただ同時に博士は、故意とは「違法と評価せられる事実を生ずべきことを認識しながら敢へてこれをなす心理状態」であり、「過失とは不注意の為め右の事実の生ずべきことを知らざることである」という古典的な故意・過失論を展開し、鉱害の場合は常に故意がある(ただし、賠償責任があるかどうかについては違法性の判断が必要)と述べている(前出注(146)一〇三頁以下)。このような故意・過失論と、本文で紹介した近代的産業による事故における過失責任主義の限界の主張との間の整合性について疑問がないわけではないことはすでに指摘した。
(159)  現行民法典の起草過程における差止めに関する議論については、大塚前出注(148)論文「第二章第一節第一、二款」「第二章第二節第一、二款」参照。
(160)  鳩山前出注(108)四三八頁。
(161)  例えば、末弘前出注(137)一一〇二頁は、不法行為の効果としての不作為請求権を否定した上で、「支配権夫レ自身ノ効力トシテ妨害除去乃至予防ノ請求権発生スルモノト云ハザルベカラズ」とする。
(162)  末川博「権利の濫用に関する一考察」『権利侵害と権利濫用』(岩波書店一九七〇年)一三四頁以下(初出は法学論叢一巻六号(一九一七年))。
(163)  例えば、我妻栄『物権法』(日本評論社一九二九年)三四〇頁も、妨害除去請求権の要件として、妨害が正当視されるものでないこと(物権者にその侵害を忍容すべき義務がないこと)をあげている。
(164)  末弘厳太郎「物権的請求権理論の再検討」法律時報一一巻五号(一九三九年)四六頁。
(165)  末川前出注(162)一一九頁以下。
(166)  池田恒男「日本民法の展開(1)民法典の改正−前三編」広中=星野編『民法典の百年T』(有斐閣一九九八年)五五頁以下は、この転換を、権利概念の「規範的軟化」であり、結果として「権利侵害が当然に違法評価を受けるという近代市民法の原則が曖昧化され」たとする。
(167)  勝本正晃『債権法概論(各論)』(有斐閣一九四九年)二八四頁以下、二九七頁。
(168)  我妻栄=有泉亨『法律学体系コンメンタール篇債権法』(日本評論社一九五一年)五二六頁以下、五四二頁。
(169)  宗宮信次『債権各論』(有斐閣一九五二年)三七〇頁以下、三七五頁以下、三七九頁以下。
(170)  吾妻光俊『債権法』(弘文堂一九五四年)二九五頁、二九八頁。
(171)  来栖三郎『債権各論』(東京大学出版会一九五三年)二二六頁以下。
(172)  加藤一郎『不法行為』(有斐閣一九五七年)九頁以下。
(173)  加藤前出注(172)六四頁、九四頁。
(174)  加藤前出注(172)一〇六頁。
(175)  加藤前出注(172)一二六頁以下。この点での加藤説の特徴は、すでに、中山前出注(112)二四〇頁以下や神戸前出注(112)四五三頁が指摘している。
(176)  ただし、前節で紹介したように、平田慶吉博士は、多数の鉱業権者の「共同加害作業(その意思の共同の有無、作業の同時、異時を問はない)」によって鉱害が発生した場合には民法七一九条により連帯責任を負うとしている(平田慶吉『鉱害賠償責任論』(日本評論社一九三二年)一二一頁以下)。
(177)  加藤前出注(172)二〇七頁以下。
(178)  加藤教授の共同不法行為論の意義については、神田孝夫「共同不法行為」星野他編『民法講座六巻』(有斐閣一九八五年)五六九頁、五八六頁以下参照。
(179)  戒能通孝「権利濫用とニューサンス」『戒能通孝著作集八巻』(日本評論社一九七七年)二六五頁、二七一頁(初出は法律時報二五巻二号(一九五三年))。
(180)  四宮和夫「ニューサンス法における違法性と過失」法律時報三二巻三号(一九六〇年)八頁。
(181)  原島前出注(112)参照。
(182)  徳本鎮「鉱害賠償における因果関係」『企業の不法行為責任の研究』(一粒社一九七四年)五一頁以下、五九頁(初出は法政研究二七巻二=四合併号(一九六一年))。
(183)  加藤一郎「『日本の公害法』総括」ジュリスト三一〇号(一九六四年)一〇四頁。
(184)  沢井前出注(122)「第三部  裁判例編(その一)」「第四部  裁判例編(その二)」。
(185)  沢井前出注(122)二九二頁以下、二九八頁以下。なおこの時期の裁判例の動向については大塚直「公害・環境の民事判例」ジュリスト一〇一五号(一九九三年)二四八頁も参照。
(186)  沢井前出注(122)三五五頁、大塚前出注(185)二四九頁。
(187)  沢井前出注(122)二九五、三〇八頁。「゙50」


お  わ  り  に


  本稿は、わが国の公害・環境法を新しい世紀にふさわしいものに発展させていくためには、その理論史研究、すなわち、これまでの公害・環境法発展の特質や到達点を明らかにする作業が必要だとの課題意識に基づいて、序論的な検討を行ったものである。まず第一章では、明治期以降の公害・環境政策と法のあらましを、前史(明治期から一九五〇年代半ばまで)、公害法制の確立期(一九五〇年代後半から七〇年代前半)、環境政策と法の停滞期(一九七〇年代後半から八〇年代)、そして新たな発展の動きが始まる一九九〇年代以降の四つの時期に区分し、それぞれの時期の特徴を概観した。その結果、わが国の公害・環境法の発展にとって重要な意味を持つのが第二の時期、とりわけその後半期であり、そこでは、一九六七年の公害対策基本法に始まり様々の立法がなされ、法理論的にも、四大公害訴訟等の公害裁判を契機に活発な議論が行われたこと、この時期のわが国の公害・環境法において私法、とりわけ不法行為法(差止めを含む)が重要な役割を果たしたこと、そしてそのことがよかれあしかれわが国の公害・環境法の特質を規定したことが明らかとなった。
  そこで第二章では、一九六〇年代後半からの不法行為法を中心とする公害私法理論の特質をより明確にし、その今日的な意義と限界を明らかにするための予備的作業として、明治期以降一九六〇年代前半頃までの法理論(立法・判例・学説)を検討した。その結果、まず、明治前期から民法典の起草期においては、公害・環境問題を正面から扱った議論は存在しなかったが、不法行為法の基本要件にかかわって、近代的産業のもたらす危険にどう対処するかという課題がすでに意識されていたこと、民法典は過失責任主義を採用したが、起草者自身、無過失責任特別法の制定を否定的に考えてはいなかったこと、さらに、民法典起草前後の議論においては、故意・過失要件と権利侵害要件により人々の活動(とりわけ経済活動)の自由を保障するが、そのことは、決して、自己の行為が他人の権利を侵害することを予見しまたは予見可能でありながら行為したものの責任を、例えば、行為の社会的有用性や防止措置の困難さ等を理由に免ずるといったことを意味しなかったことが明らかとなった(第二章第二節参照)。しかし、明治末から大正期に、不法行為の基本要件である故意・過失と権利侵害に関して理論的な変化が起こる。すなわち、過失責任に関して言えば、一方では、近代的産業にともなう危険に対処するには過失責任では対処できないとして無過失責任を説く学説が増加するとともに(第二章第三節参照)、他方で、大審院によって、損害発生が予見しえたとしても「相当ナル設備」をしておれば過失はない(したがって過失の有無においては当該活動の危険や防止措置の難易、さらにはその活動の有用性等の総合的な判断が必要になる)という過失論が説かれ、少なくとも理論的枠組みとしてはその後の判例を規定していくことになる。さらに、権利侵害要件に関しても、一方で、その要件は多様な利益の保護には狭すぎるとして、権利侵害を違法性に読み替える理論が提唱されるが、他方では、適法な権利行使である操業によって損害が発生した場合に、その企業になお賠償責任を課しうるかという問題設定がなされ、他人に被害を発生させる活動も一定の範囲を超えて(善良な風俗に反する、権利濫用となる、受忍限度を超える等々)始めて不法・違法となるという考え方が確立したのである。ただし、右の二つのことが現実の訴訟においてどの程度企業免責的に機能したかは別の問題であり、公表された下級審判決を見る限り、多くは過失や違法性を認め企業の賠償責任を肯定している。また、過失を予見可能性によって構成する限り、損害発生の危険が高くかつ継続的に被害を発生させる公害(あるいは鉱害)のような場合、過失は容易に認めうるとする説や、危険な活動の場合には過失の前提としての注意義務(特に調査義務)としては高度なものが要求されるといった説が、一部ではあるが有力に主張されていたことにも留意する必要がある(以上については第二章第四節(3)参照)。とはいえ、前述のような過失や違法性に関する基本構造は、理論的枠組みとしては戦後に継承される。しかし、戦後において、特に昭和三〇年代頃には、公害問題がようやく大きな社会問題となってきたことをも反映して、例えば、問題を被害者の権利の視点からとらえなおそうとする動きなど、次の発展期につながる理論的胎動もすでに開始されていた(第二章第四節(4)参照)のである。
  ところで、わが国の不法行為の歴史について、民法典やその起草時期の学説は過失責任主義や権利侵害要件の設定に見るように自由主義的で、それが公害等の現代的な事故に対応できなくなって権利侵害の違法性への読み替えや無過失責任論が出てきたという理解が語られることがままある。しかし、本稿の検討を踏まえれば、右の理解はやや不正確である。確かに、民法典は、自由主義的立場から不法行為責任要件の絞り込みを行っているが、予測可能な権利侵害による損害発生には責任を肯定するという点では、無限定な企業活動の自由擁護の立場ではなく、加害行為の社会的有用性や防止措置の難易・費用等を考慮して企業が免責されることがありうるという立場は、明治期においては必ずしも一般的ではなかったのである。むしろそのような考慮を可能とする枠組みを作ったのは大正期以降の判例・学説であった。そしてその背景に、一般的に言えば産業優位(「殖産興業」)の時代思潮、公害問題に即してより正確に言えば、「汚染が、一定の除害装置を励行したとしても、その本格的な防除は相当困難であり、したがって、除害そのものが一つの重要な技術上の課題となった段階に到達したことと、他方では、そうした除害技術の完成を後回しにして生産の継続・向上を実現するための行政的、思想的措置が全面的に追求されるようになった(1)」という当時の日本資本主義の発展段階と社会の状況が存在したのではないかと思われる。このような状況は戦後復興期から高度成長期においても基本的には維持され、その克服は、本稿の時期区分に即して言えば、公害法制確立期の後半、すなわち一九六〇年代半ば以降を待たなければならなかったのではないかというのが、本稿のさしあたりの結論であった。
  本稿で検討したこの時期の公害法理論の特徴として、さらにいくつかの点をあらためて指摘しておきたい。第一は、この時期における議論の主流が、化学工場や鉄道さらには大規模な工事のような汚染源が付近住民の被害を与えるといった事例を、隣接する土地所有者同士の相互的な権利行使の調整原理である相隣関係法理ないしその延長上で考えていることである。しかし、例えば大阪アルカリ事件にせよ信玄公旗掛松事件にせよ、そこには一方的な加害・被害構造があるだけであり、相隣関係におけるような「お互いさま」の関係は存在しない。第二に、この時期、騒音等による睡眠妨害といった被害は問題になっているものの、健康侵害を正面から取り上げた事例は皆無と言ってよい。このように、深刻な健康被害が念頭に置かれなかったことが、加害行為の有用性や防止措置の困難さを理由に免責を肯定しうる前述したような通説的な理論枠組の暗黙の前提になっているものと思われるが、鉱毒事件を見るまでもなく、この時期に健康被害が発生していなかったとは考えにくい。むしろ、それが顕在化されえなかったことにこの時期の問題の深刻さがあるのではなかろうか。第三に、一九六一年に徳本鎮教授が鉱害における因果関係立証に関して、いわゆる蓋然性説(2)を主張するまで、公害における因果関係の立証困難から被害者をどう救済するかという議論はまったくといってよいほどなされてこなかった。そしてこのことが、おそらくは発生していたであろう健康被害が裁判上取り上げられなかった(被害者から見れば取り上げさせることができなかった)一因になったのではないか。さらに、操業の縮小や場合によれば停止にまで進みうる差止めの問題も、いくつかの訴訟で請求されたものの、多くは被告の権利行使はなお権利濫用とは言えない、受忍の限度を超えていないとしてしりぞけられ、学説上も、この問題に関してそれほど突っ込んだ議論がなされて来なかったのが実際のところであった。
  さて、このようにこの時期の理論の特徴を押さえることができるとすれば、次の課題は、一九六〇年代半ば以降において、これらの理論がどう踏まえられ、その弱点がどう克服され、新たな発展を遂げていったのかを分析することである。この課題は別の機会に譲るが、ここで、次の時期の理論を検討する際の若干の留意点を述べておきたい。最大のポイントは、次の時期の法理論が公害問題の現実(被害の実態や被害者と加害者の関係等)をどれだけ正確に認識し、相隣関係型の理論の限界を乗り越えていったかである。当然そこでは、加害・被害の関連が比較的明確な相隣的な紛争と異なり、因果関係論が大きな争点となる。さらに、高度成長政策の進行にともなう公害問題の一層の深刻化は、公害被害の中心に人身被害があることを誰の目にも明らかにした。その結果、人身被害、しかも大量の被害者が発生する集団的な人身被害に対する効果的な救済論確立の課題と差止請求の緊急性が浮かび上がってくるが、これらは、それまでの時期の理論では十分には対応できない課題であった。また、社会の複雑化にともない複数の汚染源が複合した場合の対応も重要な課題となる。
  一九六〇年代後半以降、学説や判例は、それまでの到達点を踏まえつつ、新たな法理論の構築に向かうが(3)、その際、本稿で検討してきた時期における理論動向との関連で言えば、大きく二つの流れが存在したのではないか。すなわち、鳩山説から我妻説へと形成されてきた主流の枠組みである、賠償責任の有無を様々の要素の総合判断(違法性、受忍限度等)によって決するという立場を維持しつつ、その中で被害者救済を重視していく流れ(この流れは同時に過失責任の限界を強調し立法論・解釈論の両面から無過失責任の方向を追求することになる)と、戦前における鉱業法研究者などに見られた、予見可能性を過失の中心にすえ企業の責任を追及しようとする(さらには被害者の侵害された権利を重視する)ある意味で古典的な理論を、例えば、予見の前提として(高度な)調査研究義務を設定するなどして現代的に発展させようとする流れの二つである。この二つの流れに四大公害訴訟等の裁判例、さらには各種の立法がどう絡み合ってわが国の公害不法行為理論が形成されていったのか、そしてその特質、あるいは意義と限界は何であったのか。この点を次の課題として確認して、本稿をひとまず終えることにしよう。

(1)  小田康徳『近代日本の公害問題』(世界思想社一九八三年)一〇三頁。
(2)  徳本鎮「鉱害賠償における因果関係」法政研究二七巻二=四合併号(一九六一年)。
(3)  ちなみに、加藤一郎教授を中心とし、淡路剛久、野村好弘教授らといった、一九六〇年代後半以降の公害法論において大きな役割を果たす研究者が参加した「公害研究会」が活動を開始するのは一九六四年であり、一九六七年には私法学会が「公害」についてシンポジウムを行い、同じく六〇年代後半以降の公害法に多大な寄与をする、沢井裕、西原道雄教授らが報告を行っている。