立命館法学 1999年2号(264号) 80頁




必要的共犯についての一考察(2)

豊 田 兼 彦


目    次


は じ め に

第一章  必要的共犯学説の検討
  第一節  わが国の必要的共犯論
  第二節  最近のドイツにおける必要的共犯論の概観
  第三節  小    括     (以上二六三号)

第二章  法益保護の欠如により特定の者の関与行為が不可
    罰とされる犯罪
  第一節  問題の所在
  第二節  被害者の関与をともなう犯罪
    一  不処罰の理論的根拠と範囲
    二  特殊問題−複数の法益を保護する犯罪への関与
  第三節  特定の者を構成要件から除外している犯罪
        −犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪−
    一  犯人による自己蔵匿・証拠隠滅の教唆の不処罰


    二  予想される疑問とそれへの解答
  第四節  小  括

第三章  周辺的な関与行為が不可罰とされる犯罪
  第一節  問題の所在
  第二節  ドイツにおける「必要的共犯の理論」
    一  概  観
    二  問題点    (以上本号)          
  第三節  あらたな解決
  第四節  小  括

第四章  第三者的共犯
  第一節  問題の提起
  第二節  解決の方法

むすびにかえて



第二章  法益保護の欠如により特定の者の関与行為が不可罰とされる犯罪



第一節  問題の所在

  前章でみたように、「惹起説」からは、法益が特定の者に対して保護されていない(特定の者に対しては法益保護が欠けている)場合には、その者の関与行為は不可罰になる。本章が対象とする犯罪は、このような関与行為をともなう犯罪である。すなわち、一般に「被害者」とよばれる者(法益の主体(1))の関与行為が犯罪成立に必要な(もしくは通常随伴する)犯罪(2)、および司法に対する罪である犯人蔵匿罪(刑法一〇三条)、証拠隠滅罪(同一〇四条)である。
  「被害者の関与」について、平野博士は、つぎのように述べておられる。「必要的共犯のなかには、実質的に考える必要があるものもある。それは必要的共犯を処罰しない理由が、共犯者に違法性がないか、責任がないかのどちらかである場合である。違法性がないのは、共犯者が被害者である場合である(3)」。つまり、博士の見解は、被害者の関与行為は「違法性を欠く」から不可罰である、とする見解であるといってよい。しかし、第一章で指摘したように、そこでは、「なぜ被害者であれば違法性が欠けるのか」という点は必ずしも明らかにされていない。博士のいわれるように、「共犯も、正犯と同じく、結果を発生させたことを根拠として処罰されるもの(4)」であり、「正犯の行為が違法であれば共犯の行為も違法である(5)」のならば、被害者の関与した正犯行為が違法な行為である以上、被害者の関与も違法となるはずである(6)。にもかかわらず、被害者の関与は「違法性を欠く」というのであるから、そこには何らかの特別な理由がなければならない。
  そこで、ドイツの学説に目を転じてみると、この問題に対する解答が用意されていることに気づく。法益の「処分権」を掲げる見解がそれである(7)。しかし、ドイツでは、このような「処分権」構成をとらずに、構成要件該当結果の「他人性」(構成要件によって保護された法益が自分以外の他人の攻撃から保護されていること)に着目して被害者の関与の不処罰を導く見解もある。「惹起説」の主張である(8)。はたして、いずれの見解がより優れているのであろうか。今のところ後者であると予想しているが、本章では、まず、この点が検討される。
  さらに、被害者の関与については、つぎのような特殊問題があることに注意しなければならない。すなわち、被害者の関与した一個の犯罪が同時に複数の法益を保護している場合はどうなるか、という問題である。被害者の利益を保護すると同時に、被害者に属さない社会的法益や他人の利益をも保護していると解される犯罪−被害者の利益を含めた複数の法益を「重畳的」に保護する犯罪(9)−においては、被害者は「一部被害者、一部加害者」ともいうべき地位に置かれる。この場合、被害者は、もっぱら自分の利益だけを保護する犯罪の場合と同じように不可罰であるとは当然にはいえないであろう。現に、リューダーセンは、売春仲介罪の保護法益は「一般性(性風俗)」と「他人の性的完全性」の両方であると解したうえで、被仲介者(売春の相手方)といえども「一般性(性風俗)」を侵害することはできるので、仲介を教唆する被仲介者は可罰的であるとしている(10)。また、複数の法益を保護する犯罪の中には、複数の法益を「択一的」に保護する犯罪(複数の保護法益のうちいずれか一方でも侵害されれば犯罪が成立すると解されるもの)もある(11)。このような犯罪に加担した場合はどうなるのであろうか。本章では、これらの問題についても検討が行われる(以上第二節)。
  ついで、本章第三節では、犯人が自己の蔵匿・証拠隠滅を他人に教唆した場合の犯人の可罰性が検討される。被害者の関与については(一部の例外的なケースを除けば(12))関与の程度を問わずすべて不可罰であるという点で学説は一致しているが、犯人が自己蔵匿・証拠隠滅を他人に教唆した場合の犯人の可罰性については、議論は単純ではない。判例は大審院以来一貫してこれを肯定している(13)。他方、学説においては厳しい見解の対立がみられる。可罰説は、他人に教唆する場合は一人で逃げたり証拠を隠滅する場合と違って期待可能性は認められるとする(14)。これに対し、不可罰説は、正犯として期待可能性がないのだから共犯としてはなおさら期待可能性がない、と主張する(15)
  しかし、このように期待可能性の有無を争うだけでは、水掛論であろう(16)。また、このような状況は、共犯の処罰根拠からのアプローチを行ったとしても、共犯不法の従属性(連帯性)を重視するわが国の惹起説(因果共犯論)を前提とするかぎり、ほとんど変わらないといえよう(17)。これまでとは違った観点から、あらためてこの問題を検討し直してみる必要があるように思われる。そこで、本章では、この問題に関する比較的最近のドイツの学説−ドイツでは被拘禁者の解放(ドイツ刑法一二〇条)および処罰妨害(同二五八条)において議論されている−を参考にすることにした。そこには、この問題を解決する有効な手がかりがあると考えられるからである。
  見通しを先に述べるならば、この問題が既に本章に位置づけられていることからも明らかなように、ここでも、被害者の関与におけるのと同じように、構成要件該当結果の「他人性」に着目する「惹起説」にしたがって、犯人の関与は不可罰であると解すべきように思われる(18)。ただ、このような見解に対しては、すでにドイツで何人かの論者から−わが国でも十分に予想される内容の−批判がなされている(19)。本稿の見通しが誤りではないことを証明するためには、この批判に反論しておく必要があるだろう。

(1)  被害者(Opfer)の意義は必ずしも明確ではない。それは、「刑罰法規の保護の客体」という意味で用いられることもあるが、最近では、法益と関連づけて「法益の主体(保持者)」として理解されることが多いようである。両者にどのような実際上の相違があるかは問題とする余地があるが、本稿ではさしあたり後者の理解にしたがっておく。
(2)  嘱託殺人罪(刑法二〇二条)など。もっとも、後の検討から明らかになるように、被害者の関与が不可罰となるのは、嘱託殺人罪のような「必要的共犯」の場合に限定されない。たとえば、自分の所有物を(誰の所有物か分からないようにして)盗むよう他人に教唆する行為も、窃盗の教唆として処罰されない。
(3)  平野龍一『刑法総論U』(一九七五年)三七九頁。
(4)  平野龍一「責任共犯論と因果共犯論」同『犯罪論の諸問題(上)』(一九八一年)一六八頁。わが国で「因果(的)共犯論」とよばれている考え方である。
(5)  平野・前掲注(3)三五五頁。「違法の連帯性」とよばれている命題である。
(6)  山中敬一『刑法総論U』(一九九九年)七四一頁。山中教授は、「せいぜい可罰的違法性が欠落するにとどまるであろう」と説明される。
(7)  Harro Otto, Straflose Teilnahme?, in:Festschrift fu¨r Richard Lange, 1976, S. 211ff.;Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 139ff.
(8)  Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 166ff.;Erich Samson, in:SK, Bd 1, 1993, Vor § 26 Rdn. 17, 24;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 2, 38. リューダーセンの見解を紹介したわが国の文献として、相内信「クラウス・リューダーセン著『共犯の処罰根拠について』(一九六七年)」金沢法学一九巻一・二号(一九七六年)一〇〇頁、大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)一二九頁。リューダーセン、ザムゾン、ロクシンの見解を紹介した文献として、高橋則夫『共犯体系と共犯理論』(一九八八年)一四一頁、一五七頁、中義勝「違法の連帯性と要素従属性」同『刑法上の諸問題』(一九九一年)四五五頁、斉藤誠二「共犯の処罰の根拠についての管見」下村康正先生古稀祝賀『刑事法学の新動向・上巻』(一九九五年)一頁、松宮孝明「『共犯の処罰根拠』について」立命館法学二五六号(一九九八年)七四頁。
(9)  たとえば、弁護士法七二条(非弁活動の禁止)違反の罪がそれである。最高裁の判例では、弁護士法七二条の目的は、「当事者その他の関係人らの利益をそこね、法律生活の公正円滑な営みを妨げ、ひいては法律秩序を害する」ことの防止であるとされている(最判昭和四六年七月一四日刑集二五巻五号六九〇頁)。これを前提にするならば、本罪の保護法益には、非弁活動を依頼する一方の当事者の利益だけでなく、相手方当事者その他の関係人らの利益や「法律秩序」そのものをも含んでいると解される。これについては、さらに、日本弁護士連合会調査室編著『条解弁護士法』(第二版補正版・一九九八年)五二一頁以下参照。
(10)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 8) S. 195f.
(11)  必要的共犯ではないが、学説によっては、たとえば虚偽告訴罪(刑法一七二条)がそのような犯罪と解される余地がある(被告訴者の同意のある虚偽告訴について本罪の成立をみとめる見解からはそのように解されよう)。
(12)  以下に検討するように、たとえば、複数の法益を保護する犯罪に被害者が関与する場合がこれにあたる。
(13)  犯人蔵匿・隠避に関するものとして、大判昭和八年一〇月一八日刑集一二巻一八二〇頁、最決昭和三五年七月一八日刑集一四巻九号一一八九頁、最決昭和四〇年二月二六日刑集一九巻一号五九頁、最決昭和六〇年七月三日判例時報一一七三号一五一頁。証拠隠滅に関するものとして、大判昭和一〇年九月二八日刑集一四巻九九七頁、最決昭和四〇年九月一六日刑集一九巻六号六七九頁。
(14)  佐伯千仭「必要的共犯」同『共犯理論の源流』(一九八七年)二九一頁、団藤重光『刑法綱要各論』(第三版・一九九〇年)九〇頁、福田平『全訂刑法各論』(第三版・一九九六年)三四頁、大塚仁『刑法概説(各論)』(第三版・一九九六年)六〇一頁、内田文昭『刑法各論』(第三版・一九九六年)六五二頁、六五七頁、香川達夫『刑法講義(各論)』(第三版・一九九六年)八八頁、佐久間修『刑法講義(各論)』(一九九〇年)二七二頁、前田雅英『刑法各論講義』(第二版・一九九五年)五一二頁、五一六頁(ただし、理由づけは異なる。後掲注(17)参照)など。
(15)  平野・前掲注(3)三八〇頁、大越・前掲注(8)二六〇頁、西田典之「必要的共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)二六七頁、中谷瑾子「犯人による偽証教唆」西原春夫・宮澤浩一・阿部純二・板倉宏・大谷實・芝原9845爾編『刑法判例研究・第七巻』(一九八三年)七二頁、中山研一『刑法各論』(一九八四年)五三二頁、大谷實『刑法講義各論』(第四版補訂版・一九九八年)五五六頁、曽根威彦『刑法各論』(新版・一九九五年)二八五頁、二八七頁、虫明満「偽証罪・証憑湮滅罪と共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第六巻』(一九九三年)三七〇頁など。
(16)  酒井安行「犯人蔵匿罪−犯人等による犯人蔵匿・証拠隠滅・偽証の教唆」岡野光雄編著『刑法演習U(各論)』(一九八七年)二四八頁、今上益雄「犯人による犯人隠避・証拠隠滅の教唆と共犯の処罰根拠論」東洋法学四二巻一号(一九九八年)一七頁。最決昭和六〇年七月三日判例時報一一七三号一五一頁における谷口裁判官の反対意見においても、「責任論の立場で事を論ずるとすれば、しょせん見解の相違ということになろう」と指摘されている。
(17)  惹起説(因果共犯論)の陣営に属される前田教授は、犯人による自己蔵匿・隠避の教唆について、「犯人による蔵匿・隠避の教唆の場合は、法益侵害性の高まりも無視できないのである」として、可罰説を支持される。前田・前掲注(14)五一二頁、五一三頁。他方、犯人による証拠隠滅の教唆については、「司法作用の侵害性に類型的に決定的な差があるとは思われない」としつつも、つぎのように述べて、可罰説に立たれる。「『犯人自身の証拠隠滅行為』も『真実発見』という意味での刑事司法作用を侵害していることは確認しておかなければならない。それを処罰しないのは、黙秘権などの被疑者・被告人の権利や、刑事司法作用の合理的な運用の観点から、被疑者・被告人(一方当事者)の『一定の範囲の行為』を政策的に不可罰とすると考えたと解すべきである。それ故、『被疑者・被告人として政策的に保護すべき範囲』を超えた行為に出た場合には、処罰されることになるのである。そして、『他人に働きかけてまで証拠を隠す行為』を、『わが国の刑事司法の中では許容し得ない』と考えてきた実務の政策判断は、尊重すべきもののように思われる」。前田・前掲注(14)五一六頁。
(18)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 8) S. 169;Roxin, aaO (Anm. 8) Rdn. 39;Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und
Vortatteilnehmer, 1999, S. 52ff. わが国では、斉藤(誠二)教授と松宮教授が、この立場に立つことを明言されている。斉藤・前掲注(8)三三頁、松宮・前掲注(8)八九頁。
(19)  Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 346;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 197f. なお、内田文昭『刑法概要・中巻(犯罪論(2))』(一九九九年)四二六頁。

第二節  被害者の関与をともなう犯罪

  一  不処罰の理論的根拠と範囲
  ここでは、まず被害者の関与の不処罰を法益の「処分権」に着目して説明する見解(オットー、グロップの見解)を概観し、ついで構成要件該当結果の「他人性」に着目する見解(リューダーセン、ザムゾン、ロクシンの見解)を紹介する。そのうえで、いずれの見解がより優れているかを検討し、あわせて不処罰の範囲について若干の考察を加えてみることにする。
  (1)  オットーの見解    オットーは、共犯の本質(Wesen der Teilnahme)をめぐる議論から被害者の関与の不処罰を導くことはできないという前提から出発する。「法律が犯罪の関与者を保護の対象としている場合であっても、『必要な役割』(notwendige Rolle)を超過した教唆者ないし幇助者の不処罰は、共犯の本質から根拠づけることはできない。決定づけられた犯罪行為の正犯ではありえないという事実だけから共犯にもならないということは推論できないので、ある法益の直接的な侵害が不可罰であるならばそれと同一の法益の間接的な侵害も可罰的ではありえないという一般化された推論も、正しくないのである(1)」。
  そこで、彼は、関与者のもつ処分権(Verfu¨gungsmacht)を出発点として、その不可罰性を説明する。まず、保護法益に対して関与者が「完全な処分権」をもつ場合は、直接的な法益侵害と同様に間接的な法益侵害も不可罰であるとする。「たとえば、住居の所有者からその住居に立ち入る権利を与えられている者が、正当な理由なくその住居へ侵入することを他人に決意させる場合は、住居侵入の教唆により可罰的であることは疑いない。つまり、共犯者が保護法益に対する完全な処分権をもっている場合にのみ、間接的または直接的な法益侵害は不可罰となるのである。それは、不法ではなく、法秩序によって承認された処分権のあらわれなのである(2)」。
  しかし、一般に不可罰と考えられている被害者に法益の完全な処分権が与えられていない場合は少なくない。オットーは、法益の自由な処分が制限されている場合を二つの場合に分けて説明する。ひとつは、保護を命じられた者の性的乱用(一七四条)における未成年者、暴利罪における暴利行為の相手方のように、法益を処分する自由のない者に対して、本人の意思とは無関係に保護がなされている場合である。この場合、刑法的保護と対立する本人の意思は共犯行為との関連では法的に重要なものとはみとめられないから、保護されている者は不可罰である(3)。もうひとつは、処分の制限が社会全体(soziale Ganze)に対して妥当する場合である。この場合には、「被害者の特別の心理状況」(besondere psychische Situation des Opfers)が被害者の不処罰を導く。要求による殺人(二一六条)を教唆する被殺者にはこれが認められる。「自分が生きる意味を失ったことに納得している者を、刑罰規定によってさらに生きるよう動機づけることはできない」からである(4)。これに対して、違法な同意傷害(二二六条a〔現二二八条〕)を教唆する被害者は可罰的であるとされる。「法共同体は、個人の身体的完全性の一般的尊重(allgemeine Achtung)を保護しようとしている。この尊重要求は正犯者によって侵害される。共犯者はその侵害行為に加担する。責任を減少させる意味のある共犯者の特別の心理状況も通常はみとめられない。それゆえ、教唆者または幇助者を犯行の共犯として処罰することは、まったくもって正しいのである(5)」。
  以上のように、オットーの見解は、法益の「処分権」を出発点として、被害者に法益に対する完全な処分権がある場合と、法益の処分の自由が制限されている場合とに分け、後者については、被害者の意思は共犯行為との関連で法的に重要か、責任を減少させる特別の心理状況が被害者に認められるか、といった観点から、被害者の不処罰を個別的に説明する見解である、ということができよう。

  (2)  グロップの見解    グロップも、「共犯者は、構成要件に類型化された不法を構成する利益の全部または一部について処分権(Dispositionsbefugnis)を与えられている場合は、不可罰である」ということから、強要罪、強姦罪、強盗罪、恐喝罪などにおける被害者の関与の不処罰を説明する(6)。問題は、被害者に法益の処分権が与えられていない場合−(彼によれば)要求による殺人・暴利罪など−の不処罰の根拠であるが、これについてグロップは、つぎのように説明する。「自分自身を間接的に侵害する特別関与者(Sonderbeteiligte)は、正犯行為の構成要件に含まれている価値要求(Wertanruf)の名宛人ではない。なぜなら、正犯行為の構成要件によって保護されている利益は、類型化が欠けているためにその担い手の攻撃からは刑法的に保護されていない共犯者自身の利益だからである(7)」。
  つまり、グロップの見解は、被害者(彼によれば「自己の利益を侵害する者」)の関与を、法益に対する「処分権」がある場合(資格ある自己侵害)とそれがない場合(単純な自己侵害)とに分け、前者については「処分者に有利にはたらく正当化根拠(8)」である「処分権」から、後者については「正犯者によって侵害された法益が被害者に対しては保護されていない」ことから、被害者の関与の不処罰を説明する見解であるといってよい。この見解が先にみたオットーの見解と決定的に異なるのは、「処分権」で説明できない場合に、グロップ自身が認めているように(9)、「法律の意味における共犯は、共犯者が彼に対しても保護されている法益を侵害する場合にのみ存在しうる」と解するロクシンの見解(10)を援用していることである。つまり、グロップは、この限度では、構成要件該当結果の「他人性」に着目して、被害者の関与の不処罰を説明しているのである。

  (3)  リューダーセンの見解    以上の見解に対し、リューダーセンは、共犯の処罰根拠に関する「惹起説」を基礎に、被害者の関与の不処罰を構成要件該当結果の「他人性」から一元的に説明しようとする。彼は、「惹起説」の次のような理解から出発する。「惹起説とは、共犯者は自己の不法と責任に対して罪責を負う、という結論に帰着する見解である(11)」。ここにいう「共犯者の自己の不法」とは「共犯者もまた構成要件該当的に行為すること」にほかならない(12)。なぜなら、「刑法上の不法が存在するか否かは、刑法典の各則の構成要件のみから明らかになるからである(13)」。したがって、共犯が処罰されるためには、「正犯が構成要件に該当する行為をしたことでは足りない。その法益侵害が共犯者の一身においても(in der Person)構成要件該当的であることがまさに重要である(14)」。では、「法益侵害が共犯者の一身においても構成要件該当的である」とはどういうことか。リューダーセンによれば、それは「共犯者が彼に対して保護されている法益の侵害または彼によって保護されるべき法益の放置に寄与する」ことであり、これは「ほとんど、そしてこの場ではまったく、理由づけを要しない命題のひとつである(15)」。
  このようにして、リューダーセンの見解においては、被害者の不処罰は、正犯によって侵害される法益が被害者自身の攻撃からは保護されていないということから、一元的に説明することができるのである(16)

  (4)  ザムゾン、ロクシンの見解    ザムゾンも、このようなリューダーセンの主張を受けて、構成要件該当結果の「他人性」から被害者の関与の不処罰を一元的に説明しようとする。「正犯行為の結果は、共犯者によって惹起され共犯者に帰属されるべき法益侵害であるから、法益は共犯者に対しても保護されていなければならない。自分自身が所有する物の損壊を他人に教唆する者は、器物損壊の教唆を遂行するものではない。同じことは、刑法二一六条の枠内で自分自身の殺害を要求する者についてもいえる。彼自身の生命は彼自身に対しては法的に保護されていないのである(17)」。
  さらに、このような見解は、ロクシンからも主張される。「法律の意味での共犯は、共犯者が彼に対しても保護されている法益を侵害する場合にのみ存在しうる(18)」。したがって、「暴利行為を受ける者が自己に対する暴利行為を正犯に教唆する場合、可罰的な共犯はすでに欠如している。なぜなら、被害者の財産は被害者自身に対しては保護されていないからである。同様に、誰も自分自身の性的完全性を刑法的に重要な方法で侵害することはできないから、一七四条以下の被害者のあらゆる共働行為は不可罰である(19)」。さらに、被害者の不処罰は、「被害者が被侵害法益を自由に処分できない場合または法益侵害に対する明示の同意が無効とされる場合にもみとめられる。それゆえ、未遂に終わった要求による殺人(二一六条)の被害者のほか、同意があるにもかかわらず良俗違反ゆえに可罰的な傷害(二二六条a〔現二二八条〕)を教唆した被害者も不可罰である(20)」。

  (5)  検  討    以上、被害者の関与の不可罰性について、「処分権」を出発点として説明する見解(オットー、グロップ)と、「惹起説」を基礎に構成要件該当結果の「他人性」に着目してこれを説明する見解(リューダーセン、ザムゾン、ロクシン)をみてきた。つぎに、これらの見解の検討に移ることにしよう。
  まず、オットーの見解についてであるが、ここには、無視しえない矛盾が含まれているように思われる。彼は、要求による殺人が未遂に終わった場合の被害者の不処罰の根拠を「被害者の特別の心理状況」に求める。生命に対する「処分権」は認められないからである。しかし、要求による殺人において「被害者の特別の心理状況」を不処罰の根拠にすることはできないというべきであろう。というのも、要求による殺人の要件である「明示の真摯な要求」は、特別の心理状況にある者によっては不可能だからである(21)。また、良俗違反ゆえに違法な同意傷害を教唆する被害者を可罰的とすることも問題であろう。なぜなら、良俗違反の自傷行為を自ら行ったとしても、法はこれを不可罰としているからである(22)
  では、オットーと同じく「処分権」から出発するグロップの見解はどうか。彼の見解の特徴は、「処分権」で説明できる場合は「処分権」で説明し、それでは説明できない場合は「惹起説」に依拠して構成要件該当結果の「他人性」から説明するところにある。彼が「処分権」にこだわったのは、彼自身、もっぱら共犯規定及びそれを前提とする共犯理論に依拠した演繹的な説明方法をとることに懐疑的だからである(23)。しかし、彼においても、「処分権」を使えない場合には「惹起説」に依拠した説明がなされているわけで、そうであるならば、むしろ「処分権」で説明できる場合も「惹起説」から説明するほうが、一貫していて分かりやすい。
  オットー、グロップの見解をみれば明らかなように、「処分権」に依拠して被害者の関与の不処罰を説明しようとしても、それだけでは不処罰を説明できない場合がどうしてもでてくる。その場合、「処分権」構成をとる立場からは、それとは別の不処罰の理由をもってこざるをえない。そのために、オットーは、「刑法的保護と対立する被害者の意思は共犯行為との関連では法的に重要でない」とか、「被害者の特別の心理状況が責任を減少させる」といい、グロップはロクシンの見解を援用するのである。しかし、このようなやり方は迂遠であろう。しかも、オットーの主張には、矛盾が含まれていたのである。したがって、被害者の不処罰の説明としては、「処分権」から出発するよりも、「惹起説」を基礎に構成要件該当結果の「他人性」から一元的に説明するほうが、より優れているように思われる(24)

  (6)  不処罰の範囲    以上のように解するならば、被害者の関与は、それが「犯罪成立に必要な最小限度の範囲」をこえるものかどうか(25)、「必要的共犯の形態」をとっているか、といったことと関係なく、不可罰になる。被害者に対して法益保護が欠如する範囲は、その関与の程度や必要的共犯形態の有無によっては左右されないからである。たとえば、暴利罪にあたる金銭貸借を高利貸しに執拗に要求しても、暴利罪の教唆犯は成立しないし、自分の所有物の窃取を(自分の所有物であることを隠して)他人に教唆しても、窃盗罪の教唆犯にはならない。
  もっとも、被害者の関与の不処罰にも例外はある。被害者の関与が同時に他人の利益を害する(危険のある)行為でもある場合は、当然に不可罰であるとはいえない。とりわけ抽象的危険犯においては、そのような事態が生じていないか注意する必要がある。たとえば、労働基準法は、労働者の健康等の利益を保護するために、「使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない」(三二条二項)と規定し、これに違反した者に対して刑罰を科している(一一九条)。たしかに、ある労働者が本規定(および就業規則等において認められた労働時間の延長)に違反する長時間労働を「自分だけ」にさせるように使用者を教唆しても不可罰である。しかし、その教唆行為が自分だけでなく同時に「他の労働者」の利益をも危険にさらすような態様でなされる場合には、もはや当然に不可罰であるとはいえないであろう(26)
  このように、もっぱら個人的法益のみを保護する犯罪であっても被害者の不処罰の例外はみとめられるのであるが、さらに注意しなければならないのは、被害者に属する個人的法益以外の超個人的な法益(社会的法益・国家的法益)をも同時に保護している犯罪が少なからず存在するということである。たとえば、「当事者その他の関係人らの利益」だけでなく「法律秩序」をも保護すると解されている弁護士法七二条(非弁活動の禁止)違反の罪(27)、国家的法益と個人的法益の両方を保護すると解されている虚偽告訴罪(刑法一七二条)などがそれである。このような犯罪に被害者が関与した場合、被害者の可罰性はどうなるのであろうか。つぎに、この問題について検討してみよう。

(1)  Harro Otto, Straflose Teilnahme?, in:Festschrift fu¨r Richard Lange, 1976, S. 211.
(2)  Otto, aaO (Anm. 1) S. 211.
(3)  Otto, aaO (Anm. 1) S. 211f.
(4)  Otto, aaO (Anm. 1) S. 212f.
(5)  Otto, aaO (Anm. 1) S. 213.
(6)  Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 139ff.
(7)  Gropp, aaO (Anm. 6) S. 172.
(8)  Gropp, aaO (Anm. 6) S. 144.
(9)  Gropp, aaO (Anm. 6) S. 172.
(10)  Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 2.
(11)  Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 25.
(12)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 11) S. 25.
(13)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 11) S. 25.
(14)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 11) S. 25.
(15)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 11) S. 166.
(16)  リューダーセンのように、共犯者が彼の攻撃から保護されている法益を侵害することに共犯の処罰根拠を求め、これを徹底させると(純粋惹起説)、ドイツでは犯罪類型化されていない自殺関与は、殺人罪の共犯として可罰的になる。というのも、自殺者の生命は自殺関与者から見れば「他人の生命」であって、それは関与者の攻撃からは保護されているからである。Lu¨derssen, aaO (Anm. 11) S. 168, 214f. これに対して、このような「正犯なき共犯」をみとめることを否定するのが、ザムゾンやロクシンらの主張する「混合(折衷)惹起説」である。それは、共犯従属性を、共犯の不法は正犯の不法を前提にするという意味に理解することにより、自殺関与などの「正犯なき共犯」を否定する見解である。Erich Samson, in:SK, Bd 1, 1993, Vor § 26 Rdn. 14f;Roxin, aaO (Anm. 10) Rdn. 4f. しかし、以下にみるように、彼らの見解も、共犯者が彼の攻撃から保護されている法益を侵害すること(共犯者から見た構成要件該当結果の惹起)を共犯処罰の根拠とする点では、リューダーセンのそれと何ら異なるところはない。
(17)  Samson, aaO (Anm. 16) Rdn. 24.
(18)  Roxin, aaO (Anm. 10) Rdn. 2. Vgl. auch ders., Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 370ff.
(19)  Roxin, aaO (Anm. 10) Rdn. 38.
(20)  Roxin, aaO (Anm. 10) Rdn. 38.
(21)  Roxin, aaO (Anm. 18) S. 371.
(22)  Roxin, aaO (Anm. 18) S. 371.
(23)  彼は、共犯規定の歴史的生成過程をあとづけたうえで、つぎのように述べている。「いわゆる『必要的共犯』の問題は−正犯により実現された不法と共犯により実現された不法との質的な等置可能性の必要性から考えるならば−演繹的に、すなわち共犯規定を参照することによっては満足には『解決』されない。というのも、犯罪関係的な不可罰的関与行為(deliktsbezogen−straffreie Beteiligung)は、『総則』が成立する際にはまったく役割を果たさなかったからである。共犯理論の発展、とりわけ一九七五年刑法典二五条以下ができる以前の共犯理論の発展の際には不処罰の関与をともなう諸犯罪の特殊性は考慮されなかったので、その点において総則は、欠陥があり、完成させる必要のある、そして完成させることのできるものである。それゆえ、犯罪関係的な不可罰的関与行為は、そのかぎりにおいて、帰納的にのみ、すなわち関係しうる各則の構成要件からのみ展開することができる」。Gropp, aaO (Anm. 6) S. 121.
(24)  たとえば、以下の論者も、基本的にこの見解を支持しているようである。Rolf Dietrich Herzberg, Ta¨terschaft und Teilnahme, 1977, S. 133ff.;Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 345;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 62ff.
(25)  「必要的共犯の理論」の内容と問題点については、次章(第三章)第二節参照。
(26)  労働基準法三二条二項と類似するドイツの労働時間法(Arbeitszeitordnung)三条について、Gropp, aaO (Anm. 6) S. 170f, 182 を参照。
(27)  最判昭和四六年七月一四日刑集二五巻五号六九〇頁。

  二  特殊問題 −複数の法益を保護する犯罪への関与−

  第一節「問題の所在」で簡単に述べたように、複数の法益を保護する犯罪には、大別すると、複数の法益を「重畳的」に保護する犯罪(複数の法益を不可分一体のものとして保護する犯罪)と、「択一的」に保護する犯罪(複数の法益のうちいずれか一方でも侵害されれば成立する犯罪)とに分けることができる(1)。まず、前者からみてみることにしよう。

  (1)  複数の法益を「重畳的」に保護する犯罪    「惹起説」から被害者の関与の不処罰を説明するリューダーセンは、売春仲介罪(Kuppelei)について、「一般性(性風俗)」(一身的でない法益)と「他人の性的完全性」(一身的な法益)の両方をその保護法益と解したうえで(2)、つぎのような主張を展開している。「売春仲介が少なからぬ一般性の侵害を意味し、もしくはその直接的な危険を創出するものであることを承認すべきであるならば、同時に被仲介者でもある、仲介者に教唆する者またはこれを幇助する者もまた、売春仲介の構成要件の一部を充足する。一身的に条件づけられた法益はたしかに彼に対しては存在しないが、『一身的でない』法益は存在するのである。正犯にとってはこの法益の侵害のみでは不十分だが、これに対して、それが共犯としての軽い処罰を根拠づけることは可能なのである(3)」。つまり、リューダーセンは、一身的な法益と一身的でない法益の両方を保護する犯罪においては、正犯が成立するためには両方の侵害が必要だが、共犯が成立するためには後者の侵害のみで足りる、と主張するのである。
  しかし、このような主張を、「構成要件該当結果の惹起」に共犯の処罰根拠を求める「惹起説」から導くことができるのであろうか。ある犯罪において、正犯の成立にとっては複数の保護法益のうちのいずれかの侵害のみでは足りないということは、その犯罪の構成要件該当結果は「複数の法益をいずれも侵害すること」である、ということにほかならない。つまり、売春仲介罪の構成要件該当結果は(同罪の保護法益をリューダーセンのように解した場合)、「一般性の侵害または他人の性的完全性の侵害」ではなく、「一般性の侵害および他人の性的完全性の侵害」である。そうだとすれば、共犯の処罰根拠を「構成要件該当結果の惹起」に求める「惹起説」に立つ以上、共犯の成立にとっても、「一般性の侵害」だけでは足りないはずである。「惹起説」に立ちながら、共犯の成立には「一般性の侵害」だけで足りるとするリューダーセンの主張には、矛盾がある、といわざるをえない。
  「構成要件該当結果の惹起」に共犯の処罰根拠を求めるならば、「可罰的な共犯は、正犯行為の不法を構成する利益の『すべて』が共犯者に対しても保護されている場合にのみ存在する(4)」と解するのが、一貫した解釈であろう。一部の法益に関してのみ被害者である関与者も、完全な被害者と同様に、他の法規範に違反しないかぎり、共犯として処罰されることはないのである(5)。
  (2)  複数の法益を「択一的」に保護する犯罪    もっとも、複数の法益を「択一的」に保護する犯罪については、被害者的な地位にある関与者も共犯として可罰的と解される余地がある。
  この問題は、ドイツでは虚偽告訴罪(ドイツ刑法一六四条)を例に議論されている(6)。ドイツでは、虚偽告訴罪は、一方では被害者が不適正な国家的措置を受けないように個人を保護し、他方では無駄な捜査による侵害から国内の司法を保護することを目的とするものと一般に解されている。問題は、「個人」と「司法」という二つの保護法益の相互関係であるが、これについては争いがある。通説は、構成要件の充足のためには双方の法益のうちの「いずれか一方の侵害」があれば足りるとしている(択一説)。つまり、構成要件該当結果を「個人的利益の侵害」または「司法の侵害」と解するのである。このように解した場合、自分に対する虚偽告訴を他人に教唆する者は、「惹起説」からも、「司法の侵害」の共犯として可罰的となる。このことは、司法の侵害が原則的に必要であり、かつ構成要件の充足にとってはそれで十分であって、個人的利益の保護はその反射にすぎないと解するいわゆる「司法説」をとった場合も、同様である。自己に対する虚偽告訴の教唆が不可罰となるのは、反対に、司法の保護は個人の保護の反射にすぎないと解する「個人的法益説」によった場合にかぎられよう。

(1)  Vgl. Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 91ff.
(2)  Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 195f.
(3)  Lu¨derssen, aaO (Anm. 2) S. 196.
(4)  Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 180. Vgl. auch Sowada, aaO (Anm. 1) S. 91f.
(5)  したがって、たとえば、最判昭和四六年七月一四日刑集二五巻五号六九〇頁のように、弁護士法七二条(非弁活動の禁止)違反の罪は「当事者その他の関係人らの利益」だけでなく「法律秩序」をも保護するものであると解したとしても、自己の法律事務について非弁活動を依頼する者は、教唆犯として処罰されることはない。
(6)  Vgl. Gropp, aaO (Anm. 4) S. 158ff, 335ff.;Sowada, aaO (Anm. 1) S. 93f.

 

第三節  特定の者を構成要件から除外している犯罪−犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪−

  一  犯人による自己蔵匿・証拠隠滅の教唆の不処罰
  犯人蔵匿罪(一〇三条)および証拠隠滅罪(一〇四条)は、犯人がみずから隠れたり自分の刑事事件に関する証拠を隠滅することをその構成要件から排除している。その理由は、自分が逃げ隠れしたり証拠を隠滅するのを思い止まるよう期待することはできないという点(期待不可能性)に求められている。では、犯人が自己の蔵匿・隠避や自己の刑事事件に関する証拠の隠滅を他人に教唆した場合は、教唆犯として処罰されないのであろうか。

  (1)  判例・学説の状況    判例は、「防禦権の濫用」などを根拠に、これまで一貫して犯人に教唆犯の成立をみとめてきた。大審院は、犯人隠避の教唆について、「犯人カ其ノ発見逮捕ヲ免レントスルハ人間ノ至情ナルヲ以テ犯人自身ノ単ナル隠避行為ハ法律ノ罪トシテ問フ所ニ非ス所謂防禦ノ自由ニ属スト雖他人ヲ教唆シテ自己ヲ隠避セシメ刑法第百三条ノ犯罪ヲ実行セシムルニ至リテハ防禦ノ濫用ニ属シ法律ノ放任行為トシテ干渉セサル防禦ノ範囲ヲ逸脱シタルモノト謂ハサルヲ得サルニヨリ被教唆者ニ対シ犯人隠避罪成立スル以上教唆者タル犯人ハ犯人隠避教唆ノ罪責ヲ負ハサルヘカラサルコト言ヲ俟タス」と論じ(1)、証拠隠滅の教唆についても、「犯人カ自己ノ刑事被告事件ニ関スル證憑ヲ湮滅スル為他人ヲ教唆シテ證憑湮滅ノ行為ヲ為サシメタルトキハ刑法第百四条證憑湮滅罪ノ教唆犯ヲ以テ論スヘキモノナルコト既ニ久シク本院ノ判例トシテ是認スルトコロナリトス蓋シ證憑湮滅罪ハ国家刑罰権ノ行使ヲ阻害スルノ罪ニシテ公訴事実ノ有無ヲ判断スル妨ト為ルヘキ一切ノ行為ヲ処罰ノ対象ト為シタルモノナルモ犯人自ラ為シタル證憑湮滅ノ行為ヲ罰スヘシト為スハ人情ニ悖リ被告人ノ刑事訴訟ニ於ケル防禦ノ地位ト相容レサルモノアリトシ刑事政策上之ニ可罰性ヲ認メサルモノニ係ル然ルニ他人カ他人ノ刑事被告事件ニ関スル證憑ヲ湮滅スルノ行為アリタルトキハ刑法第百四条ノ罪ヲ構成シ而シテ其ノ證憑湮滅ノ行為ニ出テタル目的カ刑事被告人ヲ庇護スル為其ノ利益ヲ図ルニ在リタルトスルモ同罪ノ成立ヲ是認スヘキモノナル以上自己ノ刑事被告事件ニ関スル證憑ヲ湮滅セシムル為他人ヲ教唆シテ犯罪ヲ実行セシメタル者ニ対シテハ教唆犯ノ罪責ヲ負担セシムルヲ以テ正当ト為セハナリ」としている(2)。そして、このような立場は、そのまま現在の最高裁にも受け継がれているのである(3)
  学説においても、判例に賛成する見解が少なくない(4)。たとえば、団藤博士は、「他人に犯人蔵匿・証憑湮滅の罪を犯させてまでその目的を遂げるのは、みずから犯すばあいとは情状がちがい、もはや定型的に期待可能性がないとはいえない。正犯について犯人蔵匿・証憑湮滅罪が成立する以上、教唆者が自分に関することであるとはいえ、教唆犯の成立を否定するだけの根拠はない(5)」とされ、大塚博士も、「他人を教唆して犯人蔵匿・証拠隠滅罪を犯させる行為は、犯人・逃走者自身がこれを行う場合とは情状が異なり、他人を罪に陥れるものであるから、もはや期待可能性がないとはいえないのが一般であろう(6)」として、教唆犯の成立を肯定される。また、最近では、前田教授が、犯人蔵匿・隠避罪について「単に犯人が逃げ隠れするのと、他人を身代わり犯人に仕立てるのとでは、刑事司法作用を害する程度にかなりの差がある。それ故、自ら行えば不可罰の行為を教唆することが可罰的となり得るのである(7)」とし、証拠隠滅罪について「『被疑者・被告人として政策的に保護すべき範囲』を超えた行為に出た場合には、処罰されることになるのである(8)」とされているのが注目される。
  しかし、これらの見解に対しては、犯人は正犯として期待可能性がない以上、共犯としてもやはり期待可能性はない。したがって、犯人は教唆犯としても不可罰と解すべきである、とする見解も有力である(9)。たとえば、大越教授は、「犯人は犯人蔵匿・証憑湮滅を教唆した場合でも不可罰になる。自ら行ったときでも期待可能性がないとする以上、より軽い犯罪形式である教唆を行った場合でも、当然に期待可能性がないことになるからである(10)」とされ、西田教授も、「証憑湮滅や犯人隠避・蔵匿等の行為は、犯人自身によって行われる場合でも国家の司法作用を害するものとして違法であることに変りはない。にもかかわらず、犯人自身が正犯から排除されている理由は、期待可能性がないからであろう。だとすれば、正犯としてすら期待不可能な行為は共犯としても期待不可能といわねばならない。それが、共犯を自己の犯罪実現の方法的類型と解することの帰結である(11)」とされている。さらに、大谷教授も、「自己が他人を教唆して犯人蔵匿・証拠隠滅罪を犯させるのは、みずからを蔵匿させるについて他人を利用するにほかならず、また、自己の刑事事件につき他人を教唆して証拠隠滅を犯させるのは、自己の証拠隠滅行為について他人を利用するに他ならないから、犯人・逃走者みずからが犯人蔵匿・証拠隠滅を行った場合と同一の根拠で、この場合の共犯を不可罰とするのが妥当である。通説は、犯人・逃走者みずからが犯人蔵匿・証拠隠滅を行う場合と他人にこれを行わせる場合とでは情状が異なるとするが、期待可能性が乏しいという点では同じであると解すべきである(12)」と主張されている。
  以上のような論争は、本稿が前節で採用した「惹起説」(「共犯者からみた構成要件該当結果の惹起」に共犯の処罰根拠を求める見解)からは、どのように解決されるのであろうか。

  (2)「惹起説」からの帰結    前節で明らかにしたように、「惹起説」とは、共犯固有の不法、つまり「共犯者からみた構成要件該当結果の惹起」を共犯処罰の必要条件とする見解である。共犯の処罰根拠を「共犯自身の攻撃からも保護されている法益の侵害」に求める見解が「惹起説」である、といってもよい。このような見解に立つならば、犯人による自己蔵匿・証拠隠滅の教唆は不可罰となる。これが「惹起説」からの帰結である。
  たとえば、リューダーセンは、わが国の犯人蔵匿にあたる人的庇護(ドイツ旧刑法二五七条)、および被拘禁者の解放(ドイツ刑法一二〇条)において、国家の刑事訴追および刑の執行という法益は犯人または被拘禁者に対しては保護されていないので、犯人または被拘禁者はいかなる手段を用いても不可罰であるとする(13)。ロクシンも、被拘禁者の解放やわが国の犯人蔵匿・証拠隠滅にあたる処罰妨害(ドイツ刑法二五八条)が保護する「刑事訴追および刑の執行」という法益は、犯人や被拘禁者が自己をそこから逃れさせようとすることに対しては保護されていないということから、犯人または被拘禁者の可罰性を否定する(14)。このように、「惹起説」からは、犯人は犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪の保護法益である国家の刑事訴追および刑の執行という利益(司法作用)を侵害しえない(犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪の構成要件該当結果である「他人の蔵匿」「他人の刑事事件の証拠の隠滅」を惹起しえない)以上、犯人が自己の蔵匿・証拠隠滅を他人に教唆しても、不可罰と解されるのである(15)
  もっとも、このような説明の仕方に対しては、「刑事訴追および刑の執行という法益はやはり犯人に対しても保護されているのではないか」との疑問が、ヴォルターとゾヴァダから提起されている。たしかに、法益を「司法作用一般」ととらえるのが正しい理解であるとすれば、彼らのいうとおりかもしれない。しかし、ここで問題となる法益は、彼らが理解するような「司法作用一般」ではなく、あくまで「犯人蔵匿・証拠隠滅罪によって保護されている司法作用」である。そして、犯人蔵匿・証拠隠滅罪の構成要件から犯人が除外されている以上、この法益は犯人の攻撃からは保護されていないと解すべきではなかろうか。最後に、この点について検討する。

(1)  大判昭和八年一〇月一八日刑集一二巻一八二〇頁。
(2)  大判昭和一〇年九月二八日刑集一四巻九九七頁。
(3)  最決昭和三五年七月一八日刑集一四巻九号一一八九頁、最決昭和四〇年二月二六日刑集一九巻一号五九頁、最決昭和四〇年九月一六日刑集一九巻六号六七九頁、最決昭和六〇年七月三日判例時報一一七三号一五一頁。
(4)  たとえば、佐伯千仭「必要的共犯」同『共犯理論の源流』(一九八七年)二九一頁、団藤重光『刑法綱要各論』(第三版・一九九〇年)九〇頁、福田平『全訂刑法各論』(第三版・一九九六年)三四頁、大塚仁『刑法概説(各論)』(第三版・一九九六年)六〇一頁、内田文昭『刑法各論』(第三版・一九九六年)六五二頁、六五七頁、香川達夫『刑法講義(各論)』(第三版・一九九六年)八八頁、佐久間修『刑法講義(各論)』(一九九〇年)二七二頁、前田雅英『刑法各論講義』(第二版・一九九五年)五一二頁、五一六頁など。
(5)  団藤・前掲注(4)九〇頁。
(6)  大塚・前掲注(4)六〇一頁。
(7)  前田・前掲注(4)五一二頁。
(8)  前田・前掲注(4)五一六頁。もっとも、これにつづいて、「ただし、証拠隠滅罪の場合、『犯人の他人に対するあらゆる証拠隠滅行為の依頼』を可罰的とする必要はないであろう」と述べておられる。
(9)  たとえば、平野龍一『刑法総論U』(一九七五年)三八〇頁、大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)二六〇頁、西田典之「必要的共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)二六七頁、中山研一『刑法各論』(一九八四年)五三二頁、大谷實『刑法講義各論』(第四版補訂版・一九九八年)五五五頁、曽根威彦『刑法各論』(新版・一九九五年)二八五頁、二八七頁など。サ
  なお、不可罰説のなかには、対向犯の理論から不可罰性を基礎づける見解もある。たとえば、前掲最決昭和六〇年七月三日判例時報一一七三号一五一頁における谷口裁判官の反対意見は、「責任論の立場で事を論ずるとすれば、しょせん見解の相違ということになろう」としたうえで、対向犯の理論から犯人による犯人隠避教唆の不処罰を論じておられる。すなわち、「同罪が、蔵匿し隠避させる者と蔵匿・隠避される犯人の両者を関与形態として予定し、しかも同罪が成立するについては、後者から前者への働きかけをするのが通常の事態というべきであり、立法事実としても当然そのような事態を考えたであろうと思われるのに、刑法は前者についてのみ処罰規定を置いているのである。本件はまさに右の通常の事態にあたる。そうだとすると、対向的必要的共同正犯としてとらえられる犯罪について、法が一方の関与行為者のみを処罰している場合他方の関与者は不処罰とした趣旨であると考える思考形式がここでもあてはまる」とされる。また、鈴木享子「判批」警察研究三三巻四号(一九六二年)一三九頁も、「対向犯的な性格をもつ蔵匿隠避行為と犯人の教唆は、構成要件の概念必然的にではないが、当然予想されている」として、犯人による犯人蔵匿の教唆を不可罰とされている。しかし、対向犯の理論(「必要的共犯の理論」)から不処罰を根拠づけることには問題がある。この点については、次章(第三章)第二節で明らかにする。
(10)  大越・前掲注(9)二六〇頁。
(11)  西田・前掲注(9)二六七頁。さらに、西田典之『刑法各論』(一九九九年)四三二頁、四三六頁をも参照。
(12)  大谷・前掲注(9)五五五頁。
(13)  Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 169ff.
(14)  Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 39;ders., Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 370f. さらに、Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 52ff.
(15)  同様に解するわが国の見解として、斉藤誠二「共犯の処罰の根拠についての管見」下村康正先生古稀祝賀『刑事法学の新動向・上巻』(一九九五年)三三頁、松宮孝明「『共犯の処罰根拠』について」立命館法学二五六号(一九九八年)八九頁。

  二  予想される疑問とそれへの解答

  (1)  ヴォルター、ゾヴァダからの批判とそれに対する反論    ヴォルターは、刑事訴追の利益が犯人自身に対しても保護されている証拠として、勾留状をあげる。彼は次のようにいう。「刑事訴追の利益は、たとえば勾留状によって貫徹されている。言及されている逃走中の犯人、つまり第三者に対して隠れ場所を要求する犯人は、場合によっては、逃亡(の危険)を理由に勾留されることがある。その他の場合には、罪証隠滅のおそれという勾留理由が役割をはたす(1)」。したがって、刑事訴追の利益が犯人自身に対しては保護されていないとみることはできない、というのである。
  他方、ゾヴァダは、ロクシンの論証は被害者の不処罰の正当化と対応するものとみたうえで、つぎのように批判する。すなわち、ロクシンの理解は、被害者の関与の不処罰が正当化される場合との根本的かつ理論的な相違を見のがすものである。被害者の不処罰は、法益保持者には自己に属する法益の侵害は不可能であるという認識にもとづいている。しかし、被拘禁者の解放(一二〇条)の場合は、犯人は法益の保持者ではない。なぜなら、一二〇条は(より広い意味においては)国家司法の保護に奉仕し、ここではとりわけ刑事司法の領域におけるそれを保護するからである、と(2)。つまり、彼は、特定の関与者に対して法益保護が欠如する根拠として、被害者の不処罰の場合は法益主体性をあげることができるが、一二〇条の場合には法益主体性はみとめられず、したがって被害者の不処罰と対応させて法益保護の欠如を主張するのは誤りである、と批判するのである。
  しかしながら、彼らの批判は正鵠を射たものではないように思われる。まず、ヴォルターからの批判についてであるが、ロクシンは、およそ刑事訴追ないし刑の執行の利益は犯人の攻撃からは保護されていない、と主張しているのではない。彼は、刑事訴追ないし刑の執行の利益は、「被拘禁者の解放(一二〇条)または処罰妨害(二五八条)によっては、犯人に対しては保護されていない」と主張しているのである。
  そもそも刑法は、社会生活上不当とされる行為のすべてを禁止しようとするものではない。それは、そのような行為のうち、刑罰というもっとも厳しい法的制裁を科するに値する行為のみを禁止するものである。したがって、刑法によって保護されるべき利益は断片的なものとなるし、同一の利益に対する侵害であっても「誰による侵害か」が問題となりうる。このことは、たとえば自殺の不処罰(自殺未遂の不処罰)をみれば明らかである。刑法は、同じく人の生命の侵害であっても、自分の生命を奪うことまで禁止していない。いいかえれば、刑法は人の生命を他人の攻撃から保護しているのであって、自分の攻撃からは保護していない、ということである。つまり、刑法が保護しようとしているのは人の生命一般でなく、あくまで「他人の生命」なのである。では、刑法が誰の攻撃からどのような利益を保護しようとしているのかを知る手がかりは何か。それは、各則の構成要件をおいてほかにないであろう。たとえば、人の生命が自分の攻撃からは保護されていないこと(自殺の不処罰)は、殺人罪の構成要件の「人」とは「他人」を意味すること、自殺の構成要件が存在しないことなどから導かれる。このように、刑、法、上、の、保護法益は、構成要件の射程(保護範囲)によって決まるものなのである。そうだとすれば、処罰妨害罪(犯人蔵匿・証拠隠滅罪)の保護法益は司法作用一般ではなく、「犯人以外の者の攻撃から保護されている司法作用」と解さなければならない。なぜなら、処罰妨害罪の構成要件は、犯人自身による処罰妨害を構成要件から排除しているからである(3)
  また、ゾヴァダからの批判も適切なものとはいえない。ロクシンは、法益主体性を根拠に、被拘禁者の解放(一二〇条)、処罰妨害(二五八条)の保護法益は犯人または被拘禁者に対して保護されていない、といっているのではない。ロクシンが被害者の不処罰の論証につづけて自己逃走・処罰妨害の教唆の不処罰を説明しているのは、被害者や犯人に対しては法益が保護されていないという結論が共通するからであって、その理由(法益主体性)が共通しているからではないのである。ある特定の者に対して法益保護が欠如するのはその者が法益の主体である場合にかぎるとする必然性はない。「犯人や被拘禁者は法益の保持者ではないが、刑法は彼らに対してそれとは別の理由(期待不可能性など)から法益保護を断念した」と解することも、十分に可能なのである。

  (2)「虚偽犯罪の申告」(軽犯罪法一条一六号)との関係    また、そのように解さないと、同じ行為が虚偽犯罪の申告(軽犯罪法一条一六号)で処罰される場合があることを説明できない(4)。わが国の判例で実際に犯人蔵匿罪の教唆として処罰の対象とされてきたのは、犯人が自分の身代わりを立てる場合がほとんどであるが、じつは、そのような行為は、軽犯罪法一条一六号の「虚構の犯罪の申告」によって処罰されうる。犯人による自己蔵匿・証拠隠滅の教唆の不可罰性の根拠を一般的な犯罪成立阻却事由である期待不可能性に求めることは、この事実と矛盾するといわざるをえないであろう。したがって、犯人による自己蔵匿・証拠隠滅が構成要件から排除されている理由は、類型的にみて適法行為の期待可能性がないということに求められるが、しかし、その結果として、「犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪によって保護されている司法作用」という法益は、犯人自身の攻撃からは保護されていないと解すべきなのである。

(1)  Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 346.
(2)  Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 197f.
(3)  たしかに、犯人の処罰妨害行為は司法の活動を害する。しかし、そのことと、刑法上の法益である司法作用を害することとは別である。刑法は、類型的にみて犯人に期待可能性が認められないことを考慮して、犯人自身の攻撃からは司法作用を保護することを断念したのである。構成要件から犯人が除外されているのは、このことの表れにほかならない。したがって、犯人が「刑法(処罰妨害罪)によって保護された司法作用を害する」ことは不可能なのである。同旨、Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 52ff.
(4)  松宮孝明「『共犯の処罰根拠』について」立命館法学二五六号(一九九八年)八九頁。

第四節  小      括

  本章の結論をまとめると以下のようになる。
  被害者の関与は、それが同時に他の法規範に違反するものでないかぎり、関与の程度を問わず不可罰である。それは、「共犯者からみた構成要件該当結果の惹起」を共犯の処罰根拠とする「惹起説」を基礎に、構成要件該当結果の「他人性」(正犯によって侵害される法益が自分の攻撃からは保護されていないこと)から説明することができる。これによると、たとえば、未遂に終わった嘱託殺人の被害者が共犯として処罰されないのは、嘱託殺人罪の構成要件該当結果である「他人の死」を被害者自身は惹起しえないからであると説明される。このことは、被害者の関与した犯罪が「必要的共犯」でなくても同様である(たとえば自分の所有物であることを秘してその損壊を他人に教唆する場合)。そして、以上のことは、被害者の関与した犯罪が複数の法益を保護するものであっても変更されない。もっとも、複数の法益のうちいずれか一方でも侵害されれば犯罪が成立すると解されている場合には、被害者の関与が可罰的となる余地がある。また、一個の個人的法益を保護する犯罪であっても、とりわけ抽象的危険犯については、被害者の自己危殆化が同時に他者危殆化でもある場合が考えられ、そのような場合には、可罰的な共犯が成立する可能性がある。
  右の「惹起説」を支持するならば、犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆は不可罰になる。「自己の蔵匿」「自己の刑事事件に関する証拠の隠滅」を教唆しても、犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪の構成要件該当結果である「他人の蔵匿」「他人の刑事事件に関する証拠の隠滅」は惹起しえないからである。学説のなかには、一般的な犯罪成立阻却事由である「期待不可能性」から犯人の不処罰を説明するものがあるが、そのような方法は、同じ行為が虚偽犯罪の申告(軽犯罪法一条一六号)によって処罰されうることを説明できない点に問題がある。
  以上が本章の結論であるが、「必要的共犯」としてこれまでに議論されてきた犯罪は、本章が対象としてきた諸犯罪にかぎられない。本章で展開された考え方によっては必要的関与行為の不処罰を説明できない「他者侵害的な片面的対向犯」(他人の利益や社会的法益を侵害する片面的対向犯)は、けっして少なくないのである。むしろ、「他者侵害的な片面的対向犯」にこそ、全力をあげて取り組むべき困難な課題が残されているように思われる。次章では、この「他者侵害的な片面的対向犯」の問題について考察することにしよう。

 


第三章  周辺的な関与行為が不可罰とされる犯罪


第一節  問題の所在

  本章で扱われるのは、共犯の処罰根拠に関する「惹起説」によってもこれまで十分には不処罰が説明されてこなかった「他者侵害的な片面的対向犯」である。たとえば、わいせつ文書頒布・販売罪(刑法一七五条(1))、債権者庇護罪(破産法三七五条三号(2))、児童福祉法三四条一項六号違反の罪(児童に淫行をさせる罪(3))、出資法三条(浮貸し等の禁止)違反の罪(4)などである。
  これらの犯罪では、処罰規定のない必要的関与者も正犯と共に他人の利益や社会的法益を侵害する(他者侵害)。つまり、ここでは、前章のように構成要件該当結果の他人性により共犯の不成立を説明することはできない(5)。そこで、これらについて、いかなる根拠から必要的関与行為の不処罰を説明するか、不処罰の範囲に限界はあるか、あるとすればどこまでか、どのような基準でそれを判断するかが問題となる。
  ここでまず想起されるのは、「必要的共犯の理論」による説明である。すなわち、犯罪の成立に必要不可欠な関与行為、あるいは通常(定型的に)予想されるような関与行為は不可罰であるが、それをこえる関与行為については共犯として可罰的であるとする考え方である(6)(7)。そこで、まず、このような考え方のルーツであるドイツの「必要的共犯の理論」について検討することから考察を始めることにしよう。

(1)  大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)二六〇頁は、「第三の惹起説」からわいせつ文書の買い手は「被害者の地位」に基づいて不可罰であるとされるが、これはとくに惹起説によらなければ不可能な説明というわけではない。むしろ、共犯の処罰根拠とは別次元の説明というべきである。第一章第二節二(1)参照。また、わいせつ文書の買い手をそもそも「被害者」といいきれるかも疑問である。中山研一「必要的共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法1共犯論』(一九九七年)一四六頁参照。
(2)  本罪は、破産の際に債務者が特定の債権者に対して優遇弁済を行うことを処罰するものである。債権者の弁済受領行為は構成要件の実現にとって必要不可欠であることから、ドイツにおいては古くから「必要的共犯」のひとつとされてきた。わが国の代表的な裁判例として、札幌地判昭和四一年七月二〇日下刑集八巻七号一〇二一頁、大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁。おもな文献に、亀山継夫「破産犯罪に関する二、三の問題(その二)(1)(2)」警察研究四〇巻二号(一九六九年)、同三号(一九六九年)一〇七頁、同「破産法」伊藤栄樹・小野慶二・荘子9845雄編『注釈特別刑法・第五巻・経済法編T』(一九八六年)七〇一頁、臼井滋夫「特別刑法犯と共犯」伊藤栄樹・小野慶二・荘子9845雄編『注釈特別刑法・第一巻・総論編』(一九八五年)四八五頁などがある。
(3)  本罪は、児童に淫行をさせる行為を処罰するものであるが、淫行の相手方については処罰規定が置かれていない。そこで、淫行の相手方について、共犯の成否が問題となる。もっとも、判例は、淫行の相手方は本罪の正犯として処罰することができるとみているようである(最決平成一〇年一一月二日刑集五二巻八号五〇五頁)。おもな裁判例として、東京家判平成一〇年四月二一日家裁月報五〇巻一〇号一五六頁、東京高判平成八年一〇月三〇日判例時報一五九六号一二〇頁、神戸家判昭和六〇年五月九日家裁月報三七巻一二号七七頁、東京高判昭和五八年九月二二日判例時報一一〇一号一二頁、名古屋高判昭和五四年六月四日判例時報九五五号一三六頁。判例研究として、最決平成一〇年一一月二日刑集五二巻八号五〇五頁につき、加藤久雄「判批」平成一〇年度重要判例解説(一九九九年)一六四頁、黒川弘務「判批」研修六〇九号(一九九九年)九頁、同「判批」警察学論集五二巻六号(一九九九年)一六八頁、東京家判平成九年七月一一日(公刊物未登載)につき、吉田統宏「判批」警察学論集五〇巻一〇号(一九九七年)一九七頁、前掲東京高判平成八年一〇月三〇日判例時報一五九六号一二〇頁につき、大山弘・松宮孝明「判批」法学セミナー五一五号(一九九七年)七四頁、鈴木彰雄「判批」判例時報一六四〇号(一九九八年)二三九頁(判例評論四七四号六一頁)、前掲名古屋高判昭和五四年六月四日判例時報九五五号一三六頁につき、中森喜彦「判批」同志社法学三三巻四号(一九八一年)九六頁、内田文昭「判批」研修三八四号(一九八〇年)三頁。
(4)  本罪は、受信業務を行う金融機関の役職員等が、その地位を利用して、自己または当該金融機関以外の第三者の利益を図るために、サイドビジネスとして金銭の貸付、金銭貸借の媒介または債務保証をすることを処罰するものである。ここでは、これらの行為の相手方(必要的関与者)を処罰する規定がないため、これについて、共犯の成否が問題となる。融資の媒介の相手方について言及した裁判例として、東京地判平成六年一〇月一七日判例時報一五七四号三三頁がある。本罪の性格、要件等については、山口裕之「出資法三条(浮貸し等の禁止)違反の罪」金融法務事情一二七五号(一九九一年)一七頁、芝原9845爾「浮貸し等(出資法三条違反)の罪」法学教室一七〇号(一九九四年)四九頁、岩原紳作「浮貸しの罪の要件(上)(中)(下)」金融法務事情一四二九号(一九九五年)六頁、同一四三一号(一九九五年)一一頁、同一四三二号(一九九五年)二二頁、上嶌一高「浮貸し等の罪」西田典之編『金融業務と刑事法』(一九九七年)一一三頁、齋藤正和『出資法』(一九九八年)七七頁、小林敬和「『浮貸し』の罪に関する機能的考察−金融犯罪対策を中心にして−」高岡法学一〇巻一・二号(一九九九年)六五頁などを参照。
(5)  この点については、第一章第二節二参照。
(6)  犯罪成立につき「定型的に予想される」関与行為を不可罰とする見解として、団藤重光『刑法綱要総論』(第三版・一九九〇年)四三二頁、福田平『全訂刑法総論』(第三版・一九九六年)二四二頁。犯罪成立に「通常必要な」関与行為を不可罰とする見解として、臼井・前掲注(2)四九二頁。犯罪成立に当然予想される「類型的な」関与行為を不可罰と解する見解として、大谷實『刑法講義総論』(第四版補訂版・一九九六年)四〇五頁。以上の見解では、不処罰の範囲は犯罪成立に「必要不可欠な」関与行為よりも拡張され、たとえば売買契約の際の買主の「売ってくれ」という行為は不可罰となる。これに対し、不可罰の範囲を犯罪成立(構成要件実現)に「必要不可欠な」関与行為(受動的な関与行為)に絞る見解も少なくない。たとえば、佐伯千仭「必要的共犯」同『共犯理論の源流』(一九八七年)二九四頁(とくに債権者庇護罪に関する記述)、平野龍一『刑法総論U』(一九七五年)三七八頁、西田典之「必要的共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)二六九頁、北野通世「必要的共犯」松尾浩也・芝原9845爾・西田典之編『刑法判例百選T総論』(第四版・一九九七年)一九九頁。なお、亀山・前掲注(2)「破産犯罪に関する二、三の問題(その二)(2)」一〇七頁以下は、不処罰の範囲を「構成要件上必要とされる最小限の関与行為」とされるが、他方で、債権者庇護罪における債権者の関与行為については「通常正当であると是認されるような程度の債権者としての要求にとどまる限り」不可罰と解すべきだとされる。つまり、この見解は、「必要最小限」の範囲を「必要不可欠」の範囲よりも広く解し、「通常必要な」関与行為を不可罰とする見解と、結論において一致するものとなっている。しかしながら、後に見るように、もともと「構成要件上必要とされる最小限の関与行為」というのは、このような広い意味で用いられてきたものではない。
  判例は、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為」を「原則として」不可罰としているが、具体的な事案との関連で判例の結論をみるかぎり、不処罰の範囲は「必要不可欠の関与行為」よりも広いようである。というのも、そこでは、かなり積極的に教唆行為を行った被告人が不可罰とされているからである。最判昭和四三年一二月二四日刑集二二巻一三号一六二五頁(弁護士法七二条違反の罪の教唆犯が成立しないとされた事例)。のちに最高裁は、「通常予想される行為に止まるもの」は不可罰であるとも述べている。最判昭和五一年三月一八日刑集三〇巻二号二一二頁(導入預金の媒介者と通じた「特定の第三者」を不可罰とした事例)。債権者庇護罪に関する下級審判例にも、債権者が処罰されないのは「通常予想される関与行為についてである」として、債権者の債権取立行為を不可罰としたものがある(前掲大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁。
(7)  もっとも、必要な程度をこえる関与行為も含めて(処罰規定のない)必要的共犯は不可罰であるとする見解もある。たとえば、瀧川幸辰『犯罪論序説』(第六版・一九五二年)二四〇頁は、「学説において必要共犯が論議にのぼるわけは、謂ゆる必要共犯の概念に存する凹凸が考慮に価いする一つの原則を導くがためである。例えば法律が必要的に関与した二人のうちの一人のみを罰する場合には、他の一人が概念上必要であるよりも以上の行為を行うたとしても罰せらるべきではないとゆう原則がこれである。前掲の猥褻物の購買者、庇護を受けた債権者が販売者または破産者を教唆して売却または庇護させた場合においても、罰せられないとゆうことになる。正犯として罰せられない者は共犯(教唆犯または従犯)として罰せられないことに一層強い理由があるとゆう思想に基く」とされる。野村稔『刑法総論』(補訂版・一九九八年)三八〇頁も、「わいせつ文書販売罪の教唆は、実質的には、わいせつ文書購入罪を想定すればその正犯に外ならないものであり、これを処罰していない以上、わいせつ文書販売罪の教唆としても処罰すべきではない。また、教唆犯を正犯の一態様と考える本書の立場においては、およそ自己が購入する限り、積極的かつ執拗に働きかけたとしても、これは、同罪が予想する行為であり、不可罰と解するべきものである」とされる。さらに、生田勝義「必要的共犯」別冊法学セミナー法学ガイド一〇刑法T(総論)(一九八七年)一七八頁においても、「刑法解釈は行為原理や罪刑法定主義という近代刑法原則に従う必要がある。行為原理からすると、外部的行為のもつ社会侵害性の大小や直接性・間接性が第一義的な位置を占める。共犯に比べその社会侵害性が大きい正犯として不可罰な者は、同じ行為に関しては共犯としても不可罰とされるのがすじであろう。また、当罰性のある行為であっても明文化されてはじめて可罰的になるというのが、罪刑法定主義の要請である」とされている。

第二節  ドイツにおける「必要的共犯の理論」

  一  概  観
  ドイツの判例・通説は、必要的関与者の関与の程度が「構成要件実現にとって必要(最小限)である」という基準をこえない場合はすべて不可罰であるとする点では一致している(1)。問題は、このように解する理論的な根拠と不処罰の具体的範囲であるが、これについて考える手がかりとしては、さしあたり債権者庇護罪(ドイツ刑法二八三条c)を取りあげるのが適切であろう。というのも、「構成要件実現にとって必要である」という基準は、債権者庇護罪に関するライヒ裁判所の判例をきっかけに発展してきたものだからである。
  そこで、以下では、債権者庇護罪に関するライヒ裁判所の判例の展開を簡単に追ったうえで、不可罰となる「構成要件実現にとって必要最小限度」の関与とは具体的にどの範囲までか、学説が「構成要件実現にとって必要最小限度」の関与の不処罰をどのように根拠づけているかを分析して、ドイツの「必要的共犯の理論」の特徴を探ることにしよう。

  (1)  債権者庇護罪(ドイツ刑法二八三条c)をめぐる判例の展開    ライヒ裁判所の判例の展開を見る前に、債権者庇護罪に関する立法の動きを見ておく必要がある(2)。債権者庇護罪は現在では刑法典二八三条cに規定されているが、もともとは破産法に規定されていたものである。注目されるのは、一八五五年のプロイセン破産法では債務者だけでなく庇護される債権者も処罰の対象とされ(三〇九条)、この処罰規定は一八七七年のライヒ破産法成立の際にも意識的に継受されたにもかかわらず、一八七九年のライヒ破産法施行法では一転して廃止されたという事情である。そして、債権者を処罰する規定はそれ以降も復活せず、そのまま現在に至っているわけである。
  さて、このような事情を背景として、一八八〇年一一月に最初のライヒ裁判所(第二刑事部)の判断(3)が出される。それは、まず、総則の共犯規定は特別法にも適用されるが、その適用は特別法に共犯規定適用と対立する立法者の意思が読みとれない場合にかぎられるとしたうえで、施行法によって債権者の処罰規定を廃止したライヒ破産法の立法者はかつてのプロイセン破産法が予定していたよりも債権者を寛大に扱おうとしており、債務者の債権者庇護に対する債権者の幇助行為(単なる弁済の受領)を共犯として処罰することは立法者の意図するところではないから、このような債権者を共犯として処罰するのは誤りであるとした。これに対して、翌年一月に出された第一刑事部の判決(4)は、第二刑事部よりも債権者の不処罰を制限的に解し、債権者庇護罪の幇助を理由とする原審の有罪判決を追認した。続く同年一二月の第三刑事部判決(5)では、単純な弁済の受領が幇助として不可罰となる根拠は教唆の場合にはあてはまらないとされ、翌一八八二年には、第二刑事部も、債務者に自己の庇護を教唆する債権者は不処罰の枠をこえるものであると判断するようになった(6)
  以上の段階では、まだ必要的共犯概念による根拠づけはみられないが、少なくともその原型を読み取ることはできる。すなわち、立法者の意思から、弁済を単に受領したにすぎない場合は不可罰だが、それをこえる関与行為、とりわけ教唆は可罰的とされていることである。そして、このような傾向は、やがて必要的共犯の概念と結合し、最近のBGHの判決(7)において確認されるに至る。すなわち、「刑法二八三条cの構成要件の充足が債権者の関与行為、とりわけ弁済の受領による関与行為を概念上前提とするかぎりにおいて、庇護される債権者は必要的共犯の観点から不可罰であるということは正しい。しかし、他方において、債権者の不処罰はその加担の必要性(Notwendigkeit)以上に広がるものではない。それゆえ、債権者の行為が債務者によって任意になされた担保の供与(Sicherung)の単純な受領に限られない場合は、可罰性が問題となる」。このようにして、判例における「必要的共犯の理論」が確立されたのである。

  (2)  債権者庇護罪に関する通説的見解    ドイツの通説も、判例と同様、「刑法 二八三条cの構成要件の充足が概念的に債権者の関与を前提とする限りにおいて、つまり弁済(担保の供与または債権の満足)が債権者の共働なくしては達成できないという範囲内において、債権者は必要的共犯の観点から不可罰である」とする(8)。そこでは、不処罰の範囲は債務者による庇護に対し純粋に受動的に関与する場合に限られるとされ、具体的には、不正な弁済を単純に受領したにすぎない場合のほか、譲渡物件の受領、債権法上の担保設定契約の締結などがあげられている(9)。他方、債務者の庇護行為の際の単純な受動的共働をこえる債権者の関与行為については、教唆または幇助として可罰的であるとされ、とりわけ他の債権者より利する債権の満足または担保の供与のイニシアチブが債権者にあるときは教唆犯として可罰的であるとされている(10)。この点も判例と同様とみてよい。
  このような通説の理論的な根拠は、対向する必要的関与行為の双方を処罰する規定(たとえば賄賂罪)の反対解釈に求められているようである。たとえば、ロクシンは、「立法者は対向犯において双方の関与行為を可罰的と宣言する場合つねにこれを明文で規定するのであり(たとえば一七三条または三三一条以下)、その反対の結論として、構成要件上必要最小限度の関与行為の不可罰性は明白である」と主張する(11)。また、この主張を支持するヴォルターは、債権者庇護罪に関して、すでに見た破産法における債権者処罰規定の撤廃という歴史的経緯から債権者の単純な弁済受領行為は不可罰であるとする立法者の意思を読みとることができるとして、ロクシンの見解を援護しようとする(12)

  (3)  ドイツの「必要的共犯の理論」の特徴    以上の議論を手がかりにして、「必要的共犯の理論」は、ドイツの判例・学説において、必要的共犯に関する一般理論としての地位を獲得するに至ったわけである。ここで、ドイツの「必要的共犯の理論」の特徴を再度確認しておこう。
  まず、「構成要件実現にとって必要である(notwendig)」ということの意味であるが、これは、構成要件の実現にとって「必要不可欠である」という極めて狭い意味のようである。したがって、これによれば、不可罰となるのは受動的な幇助行為に限られ、それをこえるような幇助行為は可罰的となる。また、教唆は構成要件の実現に必要不可欠な関与行為を明らかにこえるものであるから、やはり可罰的ということになる。つまり、ドイツの「必要的共犯の理論」によれば、教唆はもはや不処罰の範囲には入らない(すなわち可罰的)ということである(13)
  次に、このような「必要的共犯の理論」を支える理論的根拠であるが、これは、対向する必要的関与行為の双方を処罰する規定(賄賂罪など)の反対解釈に求められている。あるいは、必要的な関与行為についてあえて処罰規定を置かなかった立法者の意思に求められているといってもよいであろう(14)

(1)  Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 34.
(2)  ドイツの債権者庇護罪の歴史については、Thomas Vormbaum, Probleme der Gla¨ubigerbegu¨nstigung, GA 1981, S. 101ff. を参照。
(3)  RGSt 2, 439.
(4)  RGSt 4, 1.
(5)  RGSt 5, 275.
(6)  RGSt 5, 435.
(7)  BGH NJW 1993, 1278. 本判決の評釈として、Christoph Sowada, Der begu¨nstigte Gla¨ubiger als Strafbarer 》notwendiger《 Teilnehmer im Rahmen des § 283c StGB?, GA 1995, S. 60;曲田統「特定債権者庇護罪への関与」比較法雑誌二九巻二号(一九九五年)一六九頁がある。
(8)  Klaus Tiedemann, in:LK, 11. Aufl., 1996, § 283c Rdn. 38.
(9)  Vormbaum, aaO (Anm. 2) S. 131f.
(10)  Tiedemann, aaO (Anm. 8) Rdn. 38.
(11)  Roxin, aaO (Anm. 1) Rdn. 37.
(12)  Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 345.
(13)  この点は、わが国の「必要的共犯の理論」が必ずしも教唆を不処罰の範囲から排除していないこととの関連で注目される。わが国の「必要的共犯の理論」については、本章第一節注(6)参照。
(14)  このかぎりでは、ドイツの「必要的共犯の理論」は、わが国で「立法者意思説」とよばれている考え方と同一の基盤に立つものと考えられる。もっとも、注(13)で述べたように、そこから導かれる不処罰の範囲には、両者の間で若干のずれが見られる。

  二    問  題  点

  (1)「必要的共犯の理論」に対する批判    しかし、以上にみてきた通説的な「必要的共犯の理論」(以下「通説」とする)に対しては、最近、ゾヴァダとグロップから批判が加えられた。そこで、つぎに、債権者庇護罪に関する彼らの批判を聞いてみることにしよう。
  ゾヴァダは、通説が「構成要件の実現にとって必要な最小限度をこえない関与は不可罰である」とする点について、次のように批判する。理念的に考察すれば、不処罰の余地を一部に残すことは、規範の一般的妥当(generelle Normgeltung)を弱める。とりわけ債権者庇護罪の場合、この懸念は現実的である。「必要最小限度をこえたか否か」という基準は、刑法実務を解決不能なさまざまな立証上の問題に直面させる。債務者と債権者の共働は、裁判の時点では必ずしも十分には解明できない。したがって、弁済を単に受領したにすぎない債権者は「必要な最小限度の範囲内にあるから不可罰である」とすることは、事実上、「必要な最小限度」をこえた債権者の関与をも不可罰とするのも同然である(1)
  つまり、彼は、「構成要件の実現にとって必要な最小限度をこえない関与は不可罰である」という通説の基準は実務の適正な運用に耐えうるものではなく、債権者庇護罪については、単純に弁済を受けたにすぎない場合も含め債権者の関与はすべて共犯として処罰すべきであると批判するのである(2)
  他方、グロップは、基本的には通説と同様に不処罰の領域をみとめつつも、「必要な最小限度をこえない関与」の基準から「教唆」を可罰的とすることは矛盾をきたすと批判する。すなわち、通説は債務者からの弁済を単純に受領したにすぎない場合は必要な最小限度内の関与として不可罰であるとするが、しかし、単純な弁済の受領も形式的には通説が可罰的とする教唆にあたるはずである。債務者からの申込みは、申込みの段階ではいまだ「一般的な」覚悟と決意を表明するにとどまる。債務者の決意が「具体的な」決意となるのは、債権者が債務者の申込みを承諾した段階である。したがって、債務者からの申込みを承諾した債権者は債務者の「具体的な」決意を惹起したことになる。そうだとすれば、債務者からの申込みを承諾しただけの場合も、形式的には教唆にあたるはずである。なぜなら、教唆とは構成要件該当行為の「具体的な」決意の惹起と解されるからである(3)
  つまり、通説が不可罰とする受動的な幇助も、形式的には通説が可罰的とする教唆にあたるはずであり、これは矛盾ではないか、と彼は批判するのである。もっとも、通説が形式的に教唆にあたるものをすべて可罰的と考えているかは明らかでない。教唆の成立に関しても、たとえば債権者の側にイニシアチブがあるか否かによって、ある程度の取捨選択はなされているかもしれない。しかし、問題は、幇助の場合も含め、その判断基準が必ずしも明らかにされていないことにある。「壊れやすい最小限度の理論に横たわっている、結論の妥当性をはかるために実務によってこれまで少なくともうわべだけは克服された矛盾(4)」をつく彼の批判の趣旨は、この点にある。

  (2)  検  討    以上がゾヴァダおよびグロップの批判の要点である。つぎに、これを手がかりに、通説の「必要的共犯の理論」にどのような問題があるか、検討してみよう。
  まず、可罰・不可罰の限界である「構成要件実現に必要な最小限度をこえたか否か」の判断は、ゾヴァダの指摘するとおり、現実の裁判実務において決して容易ではないように思われる。というのも、「必要最小限度」の枠は、どうしても不明確なものとならざるえをえないからである。すでにみたように、通説は、債権者庇護罪について、純粋に受動的な債権者の共働は必要な最小限度の範囲内にあるとし、いくつかの具体例をあげてはいるが、不可罰的な「純粋に受動的な共働」と可罰的な幇助行為との限界はなお明らかにされていない。また、教唆は本当にすべて可罰的なのか、教唆にも不可罰の場合がありうるのか、不可罰の場合があるとすれば可罰的な教唆と不可罰なそれとの限界はどこにあり、それをどのように判断するのか、といった問題も残されたままである。
  さらに、「必要的共犯の理論」は、それを支える理論的基盤にも問題をかかえているように思われる。すでにみたように、通説は、「必要最小限度の関与は不可罰である」との原則を、対向する双方に処罰規定のある犯罪(たとえば賄賂罪)の反対解釈(一方に処罰規定を置かなかった「立法者の意思」)に求める。しかし、反対解釈という方法に対しては、「対向犯において双方を処罰する場合には明文で規定されるはずであるという基礎づけは、循環である(5)」との批判が可能である。立法者が対向する必要的関与者双方に処罰規定を置くのは、たとえば、そうしないことによって一方に従犯規定が適用されて従犯減軽がなされるのを避けるため(同一の刑を定めるため)、あるいは一方が他方の教唆犯として同一の刑の下に置かれるのを防ぐため(たとえば贈賄罪のように軽い刑を定めるため)であって、そうでない片面的対向犯に対しては原則どおり共犯規定が適用されると考えることも論理的に十分可能である(6)。さらに、(歴史的な)「立法者の意思」を不処罰の根拠とすることについては、「立法者の意思」を立法当時と同様に解する必要はないと考える者に対しては十分な説得力をもたないという弱点を指摘できる(7)
  このように、ドイツの通説である「必要的共犯の理論」は、その実際の運用においても、理論的な根拠においても、無視しえない問題をかかえている。そして、このことは、基本的にドイツの「必要的共犯の理論」をモデルとするわが国の「必要的共犯の理論」にもあてはまる。「必要な最小限度の関与行為は不可罰である」とか「定型的に予想される(通常予想される)関与行為は不可罰である」といった基準を立て、これによって問題の解決を図ろうとすることは、妥当でないように思われる。
  もっとも、だからといって、債権者庇護罪におけるゾヴァダの主張のように、「不処罰の領域」をまったく認めないとすべきかは、また別問題である。そこで、つぎに、この問題も念頭に置きながら、「必要的共犯の理論」に代わるあらたな解決方法はないか、探ってみることにしよう。

(1)  Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 173.
(2)  もっとも、単純な受領も処罰すべきであるとの主張は、すでにヘルツベルクによってなされていた。彼は、庇護される債権者は、他人を害する故意をもって債務者からの提供を受けることを通じて意識的に犯罪完成への決定的な寄与を行っており、かつ責任を阻却する緊急避難類似の心理的圧迫も認められないのであるから、このような債権者も可罰的であるとしている。Rolf Dietrich Herzberg, Ta¨terschaft und Teilnahme, 1977, S. 138f. ヤコブスも、故意がないとか遡及が禁止されるといった例外的な場合を除き、原則的にヘルツベルクの結論を支持している。Gu¨nther Jakobs, Strafrecht, Allgemeiner Teil, 2. Aufl., 1991, S. 696.
(3)  Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 228.
(4)  Gropp, aaO (Anm. 3) S. 228.
(5)  Jakobs, aaO (Anm. 2) S. 696 Anm. 13.
(6)  Vgl. Sowada, aaO (Anm. 1) S. 118ff. 現にわが国の下級審判例には、納税者が滞納処分の執行を免れる目的でその財産に係る負担を偽って増加する行為を処罰する国税徴収法一八七条(滞納処分妨害罪)が、その三項において、情を知ってこの行為の相手方となった者を処罰する規定を特に設けていることをあげて、そのような規定のない強制執行妨害罪(刑法九六条の二)における仮装債務負担の相手方の関与行為は定型的に予想される範囲内にあるかぎり不可罰であるとした原判決に対して、国税徴収法一八七条の存在を根拠に強制執行妨害罪における仮装債務負担について刑法総則の共犯規定の適用が排除されると解すべきではなく、仮装債務負担の相手方を不可罰とみるべき理由はないとしたものがある(東京高判昭和四九年五月二八日判例時報七五七号一二四頁)。学説にも、滞納処分妨害の相手方を処罰する国税徴収法の規定をあげて、このような規定のない強制執行妨害罪については、仮装債務負担・仮装譲渡の相手方は共犯になるとするものがある。江家義男『増補刑法各論』(一九六三年)二九頁、柏木千秋『刑法各論(上)』(一九六〇年)八九頁。
(7)  ゾヴァダは、債権者庇護罪に関して、「(債権者処罰規定の廃止)以降につづく多数の破産犯罪の新設は、立法者意思を当初のように解する根拠を失わせている」と指摘する。Sowada, aaO (Anm. 1) S. 168.

  本稿は、平成一一年度(一九九九年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。

[訂正とお詫び]
前号(二六三号)の次の箇所につき、以下のように訂正いたします。
一九三頁三行目「責任性の欠如」→「責任性の欠陥」