立命館法学 1999年3号(265号) 103頁




不真正不作為犯について(3・完)
- 「保障人説」の展開と限界 -


平 山 幹 子


 

 目    次

は じ め に

第一章  「保障人説」の歴史的意義

第二章  「保障人説」の展開と限界
  第一節  総則規定施行前の展開−「同価値性」要件をめぐって (以上第二六三号)
  第二節  総則規定施行後の展開−「保障人的地位」をめぐって  
  第三節  他人の犯罪の不阻止と作為との同置性について  
  第四節  小  括−「保障人説」の限界  (以上第二六四号)

第三章  不真正不作為犯論の再構成  
  第一節  作為および不作為の統一的負責根拠としての「保障人的地位」  
  第二節  あらたな課題  

むすびにかえて  (以上本号)      






第三章  不真正不作為犯論の再構成


  本章では、従来の「保障人説」の限界を克服すべく唱えられた近時の見解を検討することによって、不真正不作為犯論のあらたな方向性と課題を明らかにすることにしたい。まず、第一節では、そのようなあたらしい見解(1)の代表ともいえる、ヤコブスによる「保障人的義務」の説明を示す。第二節では、右の見解を前提にした場合、従来の「保障人説」では十分に説明できなかったいくつかの事案が実際にどのように説明されるかを明らかにし、その作業を通じて、不真正不作為犯論のあらたな課題を探ることにする。

第一節  作為および不作為の統一的負責根拠としての「保障人的地位」

    従来、「保障人的地位」は、作為犯と不作為犯との構造的差異を補うことで、不作為犯と作為犯との同置を基礎づける、不作為犯独自の負責要件であると考えられていた。しかし、すでに述べたように、作為犯と不作為犯との構造的差異の補填を主眼とする議論は、「保障人的地位」の存在によって当該不作為が可罰的となる理由、つまり、法的(規範的)側面での説明を、十分に示しうるものではなかった。また、作為犯と不作為犯との同置が両者の負責根拠における同置に求められなかったために、作為犯と不作為犯とで異なった正犯概念を認めることになるといった矛盾が生じた。要するに、従来の議論では、「保障人的地位」が、作為と不作為との構造上の差異を補うための、不作為犯の特殊要件であると考えられていたために、不作為の可罰性についても作為同置性についても、十分な解決を示すことは困難であった。
  このような前提から、本節では、「保障人的地位」を作為および不作為の統一的負責根拠とし、そこに法的根拠としての説明をあたえることによって(2)、可罰的不作為の画定および不作為の作為同置性の問題を解決しようとする、ヤコブスの見解に注目することにしたい。
    まず、「保障人的地位」を作為犯および不作為犯に共通の負責根拠とする前提として、ヤコブスは、負責、つまり、刑法的評価にとって、作為か不作為かという行為の構造が重要ではないことをくり返し主張する。
  それによれば、行為の社会的意味が重視されることによって、客観的に帰属可能な行為が刑法的評価の対象となる(3)。そして、そのような法的評価にとっては、因果力のある作為と因果力の無い不作為との区別は重要ではない。たとえば、特定のパートを歌わなければならない歌手がそれを間違ったとき、間違った音階を歌ったたのか、歌わなければならない音階を歌わなかったのかは問題ではない(4)。また、自動車走行の際に、「アクセルを踏め」と運転手に呼びかけることは、「ブレーキをかけるな」と言う場合と異なる結果をもたらすわけではない。ヤコブスによれば、規範的期待が作為によっても不作為によっても裏切られるということは、日常においては普通のことであるし、日常において普通である作為および不作為の入り交じった状態が分裂して評価されねばならない理由もない(5)のである。つまり、ヤコブスの場合、因果力の有無によって作為犯か不作為犯か、つまり、禁止規範違反なのか命令規範違反なのかは区別されうるが、そのような区別は、負責の判断にとって重要ではないとされるのである。
  この点は、つぎのような例によっても説明されている。たとえば、食料を売る者は、適切な商品の販売に際し、買い手がその商品を毒殺のために準備しようとしていることを知っていても、殺人への関与を理由に負責されないし、タクシー運転手は、客が到着先で行う犯罪に関して、客が走行中に運転手にそのことを予告したとしても、負責されない。つまり、結果との因果関係が明らかな作為を行った者に故意あるいは過失が認められる場合であっても、その者に負責することがふさわしくない場合が存在する(6)というのである。そして、にもかかわらず、因果力の有無を負責にとって決定的な要素とし、両者への結果帰属という法的評価において、因果力の有無という観点から、両者を区別して扱うのは適切ではないとされるのである。
  そこで問題は、どのような根拠にもとづいて負責されなければならないか、である。ヤコブスによれば、関係する財への急迫の損害の回避に直接奉仕する「保障人的地位」がその根拠である。くり返し述べるように、ここで「保障人的地位」は、つぎのような例によって、作為犯においても負責の根拠(要件)として位置づけられている。たとえば、だれでも自分の保護の下にある子供の生命を保護せねばならないから、その者はその子供の殺害を決意した人に対して、それ自体害のない物あるいは情報を提供しないことによってしかその殺害を阻止できない場合には、それを与えてはならない。また、自分の義務を果たすために、なしうるかぎりで、自身の保護下にある者を第三者による活動の結果から守らねばならない。あるいは、ある人の保護を弱めた者は、保護が弱まったためにその人に損害が生ずることのないように配慮しなければならない(7)。つまり、「保障人」の作為または不作為が可罰的な態度として、刑法的評価の対象とされるのである。
  それでは、作為および不作為に共通する負責根拠である「保障人的地位」とはいかなるもので、なぜ法的な作為および不作為義務を基礎づけうるのであろうか。この点については、おおむね、以下のように説明される。
  ヤコブスによれば、「保障人的地位」すなわち負責根拠は、「組織化管轄(Organisationszusta¨ndigkeit)」および「制度的管轄(institutionelle Zusta¨ndigkeit)」から構成され、これらから生ずる義務によって、自由主義社会の形成にとって不可欠な要素の保護は可能になるとされる(8)。ここで用いられる二種の「管轄」という概念は、社会学において使用されているそれである(9)。もっとも、双方の管轄にもとづく義務の分類および内容それ自体は、それぞれ、アルミン・カウフマンによる「監視的保障」および「保護的保障」に類似するものである。
  まず、「組織化管轄」およびそれにもとづく義務については、つぎのように説明される。ヤコブスによれば、自由主義社会において、自由な人格がその身体を排他的に支配し、自由に動かす権限は、自由に身体を動かしたことによって、他人に被害が及ぶことのないよう、危険のない状態を保つ義務を前提とする。さもなくば他人が被害におびやかされるという場合、法の禁止だけでなく命令によって身体の状態を変更することは、自由主義社会における市民の本来的義務の一部、つまり、態度自由の代価は自身で払わねばならないという義務の一部なのである。そして、ヤコブスによれば、自由な人格が排他的に支配しているのは、その身体だけではない。権利を自由に所持する者の社会においては、人々はその処理が自身のみに帰属される領域、すなわち、自己の組織化領域を形成し、それは、土地、家、車など身体にとって重要なものや権利の使用を含む。そして、そのような組織化領域の自由な形成と引き換えに自己の組織化領域を他人にとって危険のない状態に保つことも、自由の代価を払うこと、つまり、市民の本来的義務の一部であり、何人も他人の負担において自己の組織化を拡張してはならないというのである(10)
  それ故、ヤコブスによれば、「組織化管轄」にもとづく義務とは、いわゆる社会安全義務のことであり、組織化によって具体的客体を支配する者は、その客体と他人との関わりが害のないものであるように配慮せねばならない。そして、すでに結果が生じてしまっている場合には、その取り消しが問題になる(11)。要するに、自己の社会に対する働きかけについての客観的な責任を基礎づけるのが「組織化管轄」であり、それは、態度自由と結果責任という観点から、法的責任の根拠として格づけられるのである。
  他方、「制度的管轄」およびそれににもとづく義務については、つぎのように説明される。すなわち、態度自由と結果責任の引き換えを通じた社会において、その法的描写である制度の内部に地位を有する者は、一定の役割を持続的に果たすことによって制度の存立を保障せねばならない。そして、そのような制度は、一部は抽象法から、一部は自由主義的な社会形態の分析から獲得され、その保障は「組織化管轄」の前提であるとされる(12)。つまり、ここで扱われているのは、社会的制度から導かれるような、一般的にまたは特定の危険に対して一定の法益を保護すべき義務である。それ故、このような義務の違反は、たとえば親子関係にもとづく義務の違反や公務員など(13)、一定法益に対し特別な義務を有する者に対しその義務の違反についての責任を問う、いわゆる義務犯となるとされる(14)
    以上がヤコブスの見解の大筋である。特徴的なのは、まず、作為犯と不作為犯との区別、つまり、禁止規範違反と命令規範違反との区別は維持されるが、その区別は負責判断にとって重要ではないとされる点である。作為犯か不作為犯かの区別ではなく、両者に共通する負責根拠の説明が、不作為の作為同置性と可罰的不作為の画定という二つの問題の解決にとって重要とされるのである。ここで「保障人的地位」は、作為犯および不作為犯に共通するがゆえに両者の「同置」を基礎づけ、また、結果帰属の法的根拠であるがゆえに、両者の可罰性を根拠づける要件であると理解される。つまり、かつてアルミン・カウフマンが「保障人的地位」と「同価値性」との二つの要件にふりわけた二つの機能が、「保障人的地位」という、作為および不作為に共通の負責要件に一括され、そこに法的根拠としての説明が与えられることによって、可罰的不作為の画定および作為同置性の問題が解決されようとしているのである(15)
  そして、そのような「保障人的地位」については、「組織化管轄」にもとづくものと「制度的管轄」にもとづくものとがあるとされ、前者は、態度自由と結果責任という観点から、後者は、態度自由と結果責任のひきかえを通じた社会の法的描写として、ともに法的義務の根拠として説明されるのである。
  次節では、右のような特徴を有するヤコブスの見解に依拠した場合、従来の「保障人説」が対処しきれなかった幾つかの問題、すなわち、先行行為にもとづく負責一般がどのように説明され、革スプレー判決における欠陥製品回収の不作為の問題がどのように処理されるのか、また、他人の犯罪に不作為で関与した者がどのように扱われるかを明らかにし、そこから導かれる不真正不作為犯論のあらたな課題を探究することにしたい。

(1)  不作為犯を取り扱った論文は、一九九〇年代に出されたもののうち、著者の目にとまったものに限ってみても、多数存在する。Vgl. M. Kahlo, Das Problem des Pflichtwidrigkeitszusammenhanges bei den unechten Unterlassungsdelikten, 1990. K. Stoffers, Die Formel ’Schwerpunkt der Vorwerfbarkeit’ bei der Abgrenzung von Tun und Unterlassen?, 1992, G. Freund, Erforgsdelikt und Unterlassen, 1992, G. Jakobs, Die strafrechtliche Handlungsbegriff, 1992, ders., Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, J. Vogel, Norm und Pflikt bei den unechten Unterlassungsdelikten, 1993, R. Hohmann, Persona¨litat und strafrechtliche Zurechnung, −Die Konstitution des strafrechtlichen Handlungsbegriffs auf der Grund der Hegelschen Rechtsphilosophie, 1993, F. Dencker, Ingerenz:Die defizita¨re Tathandlung, in:FS Stree und Wessels, 1993, S. 159ff., W. Kagl, Unterlassene Hilfeleisutung (§ 323c), −Zum Verha¨ltnis von Recht und Moral, GA 1994, S. 247ff., Internationale Dogmatik der objektifen Zurechnung und Unterlassungsdelikte, Ein Spanisch−deutsches Symposium zu Ehren von Claus Roxin, 1995, D.
Birnbacher, Tun und Unterlassen, 1995, H. Koriath, Grundlagen strafrechtlicher Zurechnung, 1994, G. Gu¨ntge, Begehen durch Unterlassen, −Der gesetzliche Anwendungsbreich des § 13 StGB, 1995, J. Jaschinski, Die Entwicklung des Begriffs ‘Erfolg’ in Abs. 1 StGB, −Ein Beitrage zur
Geschichte des unechten Unterlassungsdelikts, 1995, Arbrecht, Begrundung von Garantenstellungen, 1999.
(2)  本文でも若干言及したように、ヤコブスのほか、「保障人的地位」の説明に関しては、フロイントが類似した見解を示す。Vgl. Freund, Erforgsdelikt und Unterlassen, 1992, G. Jakobs, Die straf rechtliche Handlungsbegriff, 1992, S. 51ff., S. 85ff.
(3)  Vgl. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, S. 15ff;ders., Der strafrechtliche Handlungsbegriff. なお、前者については、立命館法学二五三号(一九九七)二一八頁以下に、松宮孝明・平山幹子による紹介が掲載されているほか、後者についても、立命館法学二二七号(一九九三)九八頁以下に、上田健二・浅田和茂両教授による翻訳がある。
(4)  Jakobs, Zusta¨ndigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt. Zur A¨uβserlichkeit der Unterscheidung von Begehung und Unterlassung, S. 1. なお、右は、一九九二年に関西大学で行われた研究会での報告原稿の該当箇所であって、公刊されてはいないが、一九九三年の関西大学法学論集に、山中敬一教授による翻訳が掲載されれている。山中敬一訳「不作為犯における組織による管轄−作為と不作為の区別の表見性について−」関西大学法学論集四三巻三号二七一頁以下参照。
(5)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 17ff. なお、ここで示した例と同様の例を示すことによって、作為か不作為かの区別が負責にとって決定的でないとするものには、Roxin, Kriminalpolitik und Strafrechtssystem, 1970, S. 19f., ders., Ta¨terschaft und Tatherschaft, 6. Aufl., 1994, S. 460, Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht und das Garantenprinzi p, 1972, S. 53, やや古いものでは、Tra¨ger, Das Problem der Unterlassungsdelikt im Straf− und Zivilrecht, in:FS Ludwig Enneccerus, 1913, S. 12, Bo¨hm, Methodishe Probleme der Gleichstellung des Unterlassens mit der Begehung, JuS 1961, S. 81ff などがある。
(6)  Vgl. Jakobs, Akzessorieta¨t. Zu den Voranssetungen gemeiner Organisation, GA 1996, S. 260f. これに関しては、立命館法学二五三号(一九九七)一九六頁以下に、松宮孝明・豊田兼彦による紹介がある。
(7)  Jakobs, a. a. O., S. 262f.
(8)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 19ff;ders., Strafrecht AT. 2. Aufl. 1991, 29/29ff., 29/57ff.
(9)  Vgl. Luhmann, Das Recht der Gesellschaft, 1993;ders., Wissenschaft der Gesell−schafr, 1990. ヤコブスが「組織化管轄」および「制度的管轄」という社会学上の概念を用いたことは、方法論的には、戦後における社会科学の発展と普及により、とりわけ一九六〇年代頃に隆盛をみせた「社会学的法学」のアプローチの影響を受けてのことと思われる。もっとも、社会の構成員の役割に着目し、また、法現象を社会現象として捉る手法は、エンギッシュやE・シュミット、さらには、いわゆる「(新)ヘーゲル学派」の見解にも見出しうる。ヤコブスの刑法理論はルーマン流のシステム論であるともいわれるが(山中敬一訳「不作為犯における組織による管轄−作為と不作為との区別の表見性について−関西大学法学論集四三巻三号二九三頁における山中教授コメント参照)、ヤコブスの理論そのものがルーマンに依拠して展開されているのかどうかは、なお、検討が必要であろう。むしろ、ここでは、「組織化管轄」あるいは「制度的管轄」といった社会学上の概念の名のもとで、ヤコブスがどのような解釈論を展開しているか、つまり、諸概念のヤコブス自身による使用方法が重要であろうかとおもわれる。
(10)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 21;ders., Der strafrechtliche Handl ungsbegriff, S. 20.
(11)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 22.
(12)  Jakobs, a. a. O., S. 31ff.
(13)  ヤコブスは、夫婦関係にもとづく義務については、もはや制度的管轄によって説明されるべき義務ではないとしている。ヤコブスによれば、夫婦間の結びつきは、すでに刑法的保護を失っており、法の承認を伴う夫婦も、一般に、切り離し可能な結びつきとして理解されているし、夫婦間の絆を「緊密な生活共同体」の絆に置き換えようとすることも誤りである。ヤコブスによれば、「生活共同体」は、法的に形成されるのではなく任意に形成され得るのであり、社会的アイデンティティーの決定には貢献していないとされる。Vgl. Jakobs, a. a. O., S. 33;ders., Die Zusta¨ndichkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt. Zur A¨uβserlichkeit der Unterscheidung von Begehung und Unterlassung, S. 18ff;ders., Beteiligung bei Herrschaftsdelikten und bei Pflichtdelikten. 後二者は、一九九二年に関西大学で行われた講演原稿および東北大学で行われた講演原稿の該当箇所である。山中・前掲および阿部純二・緑川邦夫訳「支配犯および義務犯における関与」東北法学五七巻三号四〇頁以下参照。
(14)  義務犯構想については、本章第二節において、やや詳しく示すことにしたい。
(15)  もっとも、ここでいう「可罰的不作為」には、ドイツ刑法一三八条(不通告罪)や三二三条C(不救助罪)における不作為が含まれていないことには、注意が必要である。ヤコブスによれば、これらの不作為は、同じ危険結果ないし侵害結果に関する作為犯の量刑に比べてたいへん軽い刑罰しか科されていないため、作為と同置することはできないし、したがって、「保障人的義務」すなわち「組織化管轄」ないし「制度的管轄」にもとづく義務を根拠に可罰性が基礎づけられる不作為ではない。換言すれば、「組織化管轄」ないし「制度的管轄」という負責根拠によって画定されるのは作為同置の不作為であって、すべての可罰的不作為ではないのである。その意味で、可罰的不作為の画定および作為同置性の問題は、あくまで異なる二つの問題であり、刑法一三条の適用に関するかぎりで、同時に解決されうるものである。なお、ヤコブスは、ドイツ刑法一三八条や三二三条Cは企行犯、すなわち、未遂と既遂とが一緒になった犯罪であり、そこにおける不作為によって侵害されるのは、万人の最小限の連帯性であって、「組織化管轄」にもとづく義務や、「制度的管轄」にもとづく義務、すなわち、制度的に保護された連帯性の問題とは区別されねばならないとする。もっとも、この点については、後述する「義務犯」の特別義務の内容に関する問題と併せ、稿を改めて検討することにしたい。Vgl. Jakobs, Strafrecht AT., S. 779ff.

 

第二節  あらたな課題

    本節では、ヤコブスの見解に依拠した場合、先行行為にもとづく負責がどのように説明され、革スプレー判決における欠陥製品回収の不作為の問題がどのように処理されるのか、また、他人の犯罪に不作為で関与した者がどのように扱われるかを明らかにし、その作業を通じて、不真正不作為犯論のあらたな課題を探ることにしたい。
    (1)  まず、先行行為にもとづく「保障人的義務」と革スプレー判決がどのように説明されるのか、見てゆくことにしよう。
  ヤコブスによれば、先行行為にもとづく「保障人的義務」は、前節で示した「組織化管轄」にもとづく義務の問題として取り扱われる。すでに示したように、そこでは、侵害経過を組織化していた場合、あるいは、すでに生じた結果の取り消しについて管轄を有する場合が問題となる(1)。しかし、その場合、すべての侵害経過には、理論的には行為者と被害者という二人の者が関与しているし、また実際には、任意の方法で侵害経過に影響を及ぼした第三者が見いだされるとされる。つまり、ある侵害経過やその結果には、その原因が見いだされうる常に複数の組織化領域が競合しているというのである。そこで、負責の際には「誰が管轄を有しているのか」が問われねばならないとされる(2)。ここで、行為者が自己の行為の全結果を考慮することを義務づけられない理由は、さもなくば行為者は他人のためにあらゆる側面にわたって配慮しなければならなくなって、彼の態度自由が抑制されてしまうからであるという。それ故、ヤコブスは、行為者が責任を問われるのは、行為者自身の組織化自由への叱責によってのみ説明されるような、つまり、(被害者も含めた)その他の関与者の組織化自由への叱責によって説明されるべきでないような侵害経過の防止についてだけであるとする(3)
  このように、「組織化管轄」にもとづく負責では、「誰が管轄を有するのか」によって結果帰属が判断される。それ故、負責根拠としての先行行為に着目する場合には、同じことがつぎのように説明される。すなわち、先行行為にもとづく義務は、先行行為と結果との事実的な結びつきだけで認められるべきではなく、(被害者を含む)他の関与者の答責性によっては説明されないような侵害経過の保護についてだけ認められるとされる。それ故、公道に穴を掘る者は誰もそこに落ちないよう配慮せねばならないし、赤ん坊をふざけて宙に放り投げる者は再び受け止めねばならない。その一方で、たとえば行為者が販売したアルコールの飲用によって他人が交通事故を起こした場合については、他人がアルコールの飲用によって事故をおこさないよう配慮することは、行為者の義務ではない。すなわち、たしかにアルコールは危険な物かもしれないが、答責的な人間がそれを飲むことは法的に制限されていないのだから、彼が答責的に行為するかぎり、その行為の結果は彼の責任となるのであって、彼に対する酒の提供は、生じた結果の回避までも義務づけないというのである(4)。そして、通常、アルコールの販売は、その日常性ゆえに販売行為でもってその社会的意味は尽きているのだから、共犯としての責任も帰属されない(5)。また、交通事故における被害者の救助については、「許された危険な行為」を禁止すれば態度自由が帳消しにされるという考え方は不作為についても当てはまる、との前提から、「許された危険」な運転行為が行為者の救助義務を根拠づけるか否かは、被害者が彼自身に課される保全を行ったかどうかによるとされる。さらに、先行行為が正当防衛や緊急避難などの正当化される行為である場合には、正当化される侵害行為を行う責任が行為者にあるのか被害者にあるのかによって判断し、行為者自身に責任がある場合にのみ、行為者に被害者を救助すべき保障人的義務が課されるという。したがって、ヤコブスによれば、先行行為が正当防衛である場合は、行為者が正当化される侵害行為を行ったのは被害者の責任であるため行為者に保障人的義務は課されない一方で、先行行為が緊急避難である場合は、行為者には保障人的義務が課される(6)
  このようにヤコブスの見解では、関与者の管轄が考慮されることによって、先行行為と後続の不作為とが一体的に評価されるだけでなく、判例が「義務違反性」によって説明しようとした事例群への負責排除も基礎づけられている。と同時に、先行行為が適法であるというだけでは不作為による負責は排斥されないことが、明らかにされている。つまり、それ自体は同じように適法とされる行為であっても、たとえば、公道に穴を掘ったり赤ん坊を放り投げたりする行為と正当防衛行為とでは異なる扱いを受けるように、適法ではあるが義務を根拠づける先行行為とそうではないものとが区別されるのである。換言すれば、適法とされる先行行為は、(1)他人への安全配慮義務(穴に他人が落ちないようにすること)あるいは被害が発生した場合の救助義務(受け損ねて怪我をした赤ん坊を病院へ運ぶこと)を条件に適法と評価される行為と、(2)そのような義務を条件としない、はじめから被害者の責任でなしうるような適法行為とに区別されるのである(7)。いうまでもなく、この区別は、「義務違反性」要件によってはなしえない。それ故、ここに、革スプレー判決をめぐる論争の原因と解決の方向を見いだしうるのである。
  すなわち、革スプレー判決については以下のように説明される。まず、本判決をめぐる論争の発端は、無過失でそれ自体は適法な製造・販売行為からは、製品回収義務を基礎づけられない点にあった(8)。しかし問題は、製造・販売行為は、消費者への安全配慮あるいは害が生じた場合の救助ないし手当てを条件に適法とされているものなのかどうかなのである。
  それ故、この問題において、欠陥製品の使用による被害が何の落ち度もない被害者によって負担されるべきものではないことは明らかである。すなわち、製品の製造・販売行為は、それによって消費者に害が及ばないよう安全性に配慮すること、および、被害が生じた場合には製品を回収し手当てすることを条件に「適法」と評価される。この場合、製造・販売行為が無過失でなされたことは、消費者に被害を負担させるための根拠とはならない(9)
  (2)  以上が、ヤコブスによる先行行為にもとづく不作為犯および革スプレー判決の取扱いである。ここで注目されるのは、ヤコブスのいう「組織化管轄」にもとづく義務は、ヤコブス自身が述べるように、民法上の社会安全義務に類似した内容のものとなっている点である(10)。態度自由と結果責任という観点から法的義務を根拠づけるヤコブス流のアプローチに対する批判は、まず、この点に関連してなされている。
  たとえば、支配という事実的な概念によって負責根拠を説明しようとするシューネマンは、近時、作為同置性問題に関する今日的な諸見解について論ずる中で、ヤコブス流のアプローチを規範的アプローチと名付けた上で、おおむね、つぎのように述べている。すなわち、そのような規範的アプローチにおける負責の基準は、「組織化管轄」にせよ「制度的管轄」にせよ、それによって刑法上、作為と同置に扱われるべき不作為を示しうるものではない。シューネマンによれば、「保障人的義務」のヤコブス流の説明は、なんらかの法的義務の発生を根拠づけてはいても、ただちに特殊刑法的な義務を根拠づけるものではなく、それ故、空虚な規範主義にもとづく規範的要因の一方的な強調にすぎないとされるのである(11)
  もっとも、右のシューネマンの批判についていえば、かならずしも的をえたものではないようにおもわれる。というのも、ヤコブスによる(シューネマンの言葉を借りれば規範的な)アプローチの重点は、従来、義務の発生を根拠づけると考えられてきた諸事情について、規範的側面からの説明を付け加えた点にあると考えられ、かならずしも規範的要因の一方的な強調とはいえないからである(12)。むしろ、重要なのは、ヤコブスの場合、「保障人的義務」が認められるとされる事情について民法上の義務が認められる場合との類似を認め、双方の義務をパラレルに理解する方向が伺えるが、このような「保障人的義務」論の方向に対して、あくまで刑法独自の作為義務論を展開せねばならないのか、そうだとすれば、どうすれば可能かである。たとえば、ゼールマンは、近時の「保障人的地位(義務)」の説明について、それは民事的な負責の方向になじむものであるとした上で、つぎのように述べている。すなわち、そのような説明は、社会生活の変動に伴う帰属範囲の変動とともに負責の判断が難しくなったために不作為犯の刑事政策的意義が増加した結果、可罰的行為の領域が拡大された、という不作為の可罰性のジレンマによって展開されたものであるという(13)。そして、近時では、民法上の義務も広くなりすぎているのだから、刑法的観点から負責範囲を限定する必要があるとする(14)
  この点、たとえばヤコブス同様、「保障人的地位」を作為犯および不作為犯に共通する負責根拠とした上で、それを「組織化管轄」および「制度的管轄」によって基礎づけるとともに、以下のような説明を示すフロイントの見解に注目することができる。フロイントによれば、構成要件に内在する規範は態度規範と制裁規範とに区別され、それぞれの規範について行為自由を制限しうる正当化根拠が存在しなれば、特定の態度の処罰は許されない(15)。すなわち、まず、態度規範違反は、行為者の態度自由と被害者の保護利益の衡量に加えて、「組織化管轄」あるいは「制度的管轄」にもとづく法益保護の必要性についての特別な答責性によって基礎づけられ、それは、作為と不作為とで変わりないとされる。そして、そのようにして基礎づけられた態度規範違反が構成要件該当性を根拠づけるには、さらに、当該態度が制裁規範に違反し、刑法的重要性があたえられていることを必要とする。具体的には、規範違反的態度に対する否認評価が刑罰を基礎づける諸々の要素と内容的に対応していること、つまり、現に生じた侵害経過が、まさに違反された態度規範を根拠づける種類のものであることを必要とする(16)
  以上のように、フロイントの見解は、当該規範違反を態度規範と制裁規範との二段階で判断することにより、刑法的観点から負責の限定を試みるものであって、ヤコブスによる「保障人的義務」の説明に存する問題に対して一定の解決を示すものと評価することも可能であるようにも見える(17)。もっとも、フロイントが右のような形で当該態度の制裁規範違反性を考慮したのは、実際のところ、そうすることによって、不作為犯による共犯の成立をめぐるいくつかの問題に対処するためである(18)。すなわち、フロイントは、制度規範という概念を用いて、現に生じた侵害経過についての責任を問題とすることで、不作為犯における正犯と共犯との分類に関し、侵害をもたらす事象の答責的な不回避について全体が非難されうる場合が正犯的に構成要件該当的態度であり、答責的な不回避が単に侵害をもたらしそうな事象の一定の関与部分に関わる限りで非難される場合が、幇助的に構成要件該当的な態度であり、他人により完全犯罪的に責任を負わされるべき侵害をもたらす経過が始動せられたことについて非難される場合が、教唆的に構成要件該当的な態度であるとする。そして、答責的な第三者が介在する場合には、不真正不作為犯は成立しない(19)と説明するのである。
  それ故、ヤコブスの見解に対するフロイントの見解の実際的な意義を知ろうとするならば、制裁規範という概念が用意されていないヤコブスの見解では、右のような不作為による共犯の成立問題がどのように扱われるのかについても視線を向ける必要がある。また逆に、「保障人的義務」の刑法的観点からの制限についても、共犯の成立問題等を含めて論ずるなかで、その妥当性を問わねばならない。以下では、右の意味からも重要とおもわれる不作為による共犯の成立範囲の問題−とりわけ、他人の犯罪に不作為で関与した者の取扱いをめぐる問題に関するヤコブスの見解を見てみることにしたい。
    (1)  すでに明らかなように、ヤコブスの場合、他人の犯罪への関与が正犯として可罰的なのか共犯として可罰的なのかという判断においても、関与の形態が作為か不作為かは重要な要素ではない。作為であれ不作為であれ、正犯あるいは共犯としての負責にとって重要なのは、関与者が管轄を有するかどうか、それはいかなる管轄なのかであるとされる(20)。それ故、この問題においても、関与者が「組織化管轄」にもとづく義務あるいは「制度的管轄」にもとづく義務を有しているか否かが決定的となる。
  すなわち、ヤコブスによれば、侵害経過を正犯者の組織範囲へと結びつける経過について関与者が「組織化管轄」を有する場合、関与者は「組織化管轄」にもとづき、そのような経過に対する責任を負わねばならない。ここで、関与者の関与が作為であるか不作為であるかは重要ではないし、また、関与者が被害の回避に向けられた企てをしなかったことも重要ではない。いずれにせよ、関与者は、自身の形成した組織範囲についての責任を負わねばならない(21)。そして、たとえば自己の管理する毒物が殺人のために持ち出されることを知りながらそのまま放置する者も、あたかも殺人者にその手段として自己の管理する毒物を交付する者も、殺人者と侵害経過とを結び付ける経過について「組織化管轄」を有しており、そのかぎりで共犯者として責任を負う。ここで共犯者は、犯行手段の用意に対して責任を負うが、その後の作為または不作為が総じて、正犯の行為と同価値の、組織化領域の共同形成に十分である場合には、共同正犯になる。いずれの場合も、関与者には自身の形成した組織化領域から許されざる危険が生ずることのないよう安全に配慮すべき義務が存在し、にもかかわらずそのような役割を破っているがゆえに、負責されうるという(22)
  もっとも、ヤコブスによれば、つぎのような場合には負責は制限される。まず、社会的接触の際に基礎づけられ、一方のパートナーが共同をこえて追求する目的がもう一方によっては考慮される必要がない場合、両者の共同性は制限され、負責されない。すでに述べたように、たとえば物品の購入は品物と金銭の交換において、また、債務の履行は債権の抹消に尽きており、買い主が購入した品物によってさらに何を企てるのかは、売り主には関係しない。また、自己危険にもとづく作為、すなわち、被害者による組織化態度が問題となる場合、負責は制限されうる。というのも、ヤコブスによれば、ここで自ら行為支配によって事象を経過させる被害者は自己答責的であり、そのような者を保護することは、連帯責任を強制されない対等な者の間での関係とは折り合わないからである。それ故、ヤコブスの場合、たとえば自殺の不阻止が問題となった事例について、自己の責任ある行為によって自身を危険に曝した被害者は、結果を完全に一人で負わねばならず、故意であれ過失であれ、彼を救助しなかったからといって、責任を問われることはない、との結論が導かれる(23)
  これに対し、関与者が「制度的管轄」を有する場合には、事情は異なる。くり返し述べるように、ここでは、被保護者の法益を一般的にまたは特定の危険に対して保護すべき特別義務の違反が問題とされる。つまり、負責根拠は財との制度的な結びつきであり、この結びつきはつねに無媒介的(unvermittelt)で、その違反は正犯的に行われ、いわゆる義務犯が成立する。また、同様のことは、別の言葉では、つぎのようにも述べられている。すなわち、関与者に連帯が義務づけられている場合には、彼にできることは連帯的にふるまうかあるいはそうしないかであり、他人の企図の幇助にとどまらない。したがって、ヤコブスによれば、「制度的管轄」にもとづく特別義務者は、その他の正犯の資格が彼に欠けていない場合には、正犯者となる(24)
  それ故、ヤコブスによれば、たとえば、被後見人の財産を管理すべき後見人が、その財産がいまにも損なわれることを知っていたが、この事態に介入しなかった場合、彼は背任、すなわち、正犯として可罰的である。また、両親がその子供の生命に対する攻撃を誘発する場合(教唆)、またはそのような攻撃に際して援助する場合(幇助)、彼らは殺人に対する共犯者ではなく、いわゆる義務犯の同時正犯になるとされる(25)。同様に、だれかが自己侵害の回避のための制度的管轄を有する場合、彼には、構成要件のない従属共犯とならんで、つねに義務犯の正犯が成立するという(26)
  (2)  以上が、ヤコブスによる他人の犯罪に不作為で関与した者の取扱いである。すでに指摘したように、特徴的なのは、保障人的義務の根拠が組織化管轄にもとづくのか制度的管轄にもとづくのかにしたがって、それぞれ、作為の支配犯と義務犯とに対応した正犯概念が妥当するとされている点である。そうすることによって、他人の犯罪に作為で関与した場合には共犯である者が不作為で関与した場合には正犯として評価されるという矛盾を回避し、作為と不作為との同置ないし同価値性が充たされているのである。
  もっともここで、作為犯の領域においても義務犯と評価されるべき領域が存在し、行為支配によって正犯性が判断される支配犯とは異なった取扱いがなされるべきとすること(27)自体、一般には受け入れられておらず、議論の対象となりうる(28)。それ故、以下では、正犯と共犯との区別問題において義務犯と支配犯との区別をはじめに明らかにしたロクシンの見解を振り返り、この問題についてのヤコブスによる負責の根拠づけの意義を、いわば間接的に確認するとともに、その作業を通じて、「保障人的義務」をめぐる議論のさらなる課題を探ってみることにしたい。
  (3)  すでに示したように、ロクシンによれば、行為者の態度の態様ではなく、特別な義務の侵害のみが決定的とされるような構成要件が存在し、行為支配は正犯の統一的原理ではない(29)。たとえば、ある者が官吏に無理やり供述の強制をせしめたという場合、通常ならば、彼は事象に対する行為支配を有すると考えられる。しかし、刑法三四三条は、官吏が取調べをなすにあたり、供述の強制をした場合のみを罰しているので、彼は、本罪の正犯者とはならない。ここで、三四三条の正犯となるために必要なのは、官吏としての身分ではなく、その役割を侵害したこと、つまり、官吏が彼に与えられている適切な審問をなすべき具体的かつ特別の義務を侵害したことであるとされる(30)。同様のことは、刑法三〇〇条の秘密侵害罪や刑法三四〇条の公務員による傷害罪等についてもいえる。すなわち、前者の主体となる医師や弁護士は、その職務において具体的に取り扱った事項に関する沈黙義務を侵害した場合にのみ問題とされ、この関係を離れたところにまで本罪の効力は及ばない。また、後者についても、公務員は、その職務の執行にあたり虐待におよんではならないという公法上の義務に違反するが故に、通常よりも刑が加重される。ロクシンによると、以上のような犯罪は、いずれも特別義務の侵害という点で一致しており、また、その特別義務は、刑法規範から直接に導かれる義務ではなくて、刑法以外の領域から導かれる、刑法外のそれである。立法者は、右であげたような犯罪については、そのような特別義務を有することによってその者を行為事象の中心形態とし、行為支配とは異なる、義務侵害という基準によって正犯を成り立たせている、というのである(31)
  以上のような義務犯という概念を描きだすことによって、ロクシンは、まず、作為と不作為との区別問題に関し、つぎのような帰結を導き出している。ロクシンによれば、義務犯において可罰性の根拠が行為者の有する義務の侵害にあるとすれば、義務の侵害が作為によって行われたのか不作為によって行われたのかはあきらかに同じである。たとえば、逃走援助罪において、看守がわざと扉にカギをかけずにいるか、あるいは、カギを密かに渡すことによって囚人を逃がすかは同じである。こうした場合について、立法者は、義務の侵害によって構成要件が充足されるよう設定しているのであり、構成要件の実現にとって、各々の態度が作為なのか不作為なのかという態度形式は無関係である、というのである(32)
  このように、作為であっても義務犯とされる場合に関しては、ロクシンとヤコブスの見解との間で際立った相違はない。いずれにせよ、作為の義務犯が不作為によっても実現されうることについては、問題はないとされる。問題は、通常、支配犯が問題となる構成要件について存在する。すなわち、一般的な見解によれば、そのような構成要件は、構成要件に該当する行為の明確な記述にもかかわらず、作為のみならず、刑法一三条の存在のもと、不作為によっても実現されうる。この点についてロクシンは、つぎのような例を挙げている。すなわち、鉄道官が二台の列車の衝突を、誤ったポイントの切り替えをしたこと(作為)によって引き起こした場合と、ポイントの切り替えをしなかったこと(不作為)により引き起こした場合とでは、同罪であるとする。ロクシンによれば、ここで関連する構成要件では特別な刑法外の義務はまったく示されておらず、また、特定の精密にスケッチされた態度が提示されているので、通常の支配犯が成立するが、もちろんこの支配犯は、不作為によっても行われうる(33)。しかし、不作為によって、作為であれば支配犯となるものが行われた、という場合に関しては、ロクシン自身が指摘するように、以下のようなジレンマが存在する。すなわち、考慮されるべき構成要件−たとえば、身体傷害、財の侵害等々−が支配犯の成立を予定した文言内容である一方で、不作為犯においてはまったく支配は認められず、少なくとも、作為の領域で妥当していた支配概念を使用するわけにはいかないというジレンマである。前章においても指摘したように、侵害経過の重要な支配は、積極的な態度を前提としているが、それは、不作為にによる可罰的行為においては存在しないのである(34)
  この問題を解決すべく、ロクシンは、まず、つぎのことを問題としている。すなわち、介入可能性という意味で、あるいは、社会的行為支配という意味で修正された行為支配概念ならば、不作為犯においても妥当しうるかである。
  そしてまず、介入可能性、すなわち、結果回避の可能性のみが不作為者の行為支配を基礎づけうるとする説明については、おおむねつぎのように批判している。すなわち、介入可能性という意味で修正された行為支配概念では、不作為者に結果を回避するための作為が可能であるかぎり、彼は事象に対する行為支配を有していると考えられる(35)。しかし、そのような結果防止の潜在的支配は、現実的行為支配とはなんら関係しない。かりに結果防止の潜在的支配が実際の行為支配を意味しているとすれば、結果回避の可能性を有する者はすべて不作為による正犯者となりうるが、行為経過においてまったく従属的な意義しか持たない者を作為的介入により結果を回避しえたが故に行為支配者とみなそうとするならば、教唆や幇助は存在しないことになる。たとえば、自殺に対する不可罰の幇助は、不作為によって、要求による正犯的な殺人へと変えられとしまう。そして、結局のところ、結果防止の潜在的支配に加えて保障人的地位という要件が加わることによって正犯者となるという見解に行き着くことになってしまう。しかし、不作為による正犯原理は、義務をはたして結果を回避しうるのに、その違反によって結果を生ぜしめた、というところに求められねばならない、とする(36)
  さらに、ロクシンは、社会的意義の上で、作為による法益侵害とまったく同義であるような不作為に関し、社会的行為支配という意味での行為支配の存在を認める見解については、つぎの点を批判する(37)。すなわち、そのような見解では、たとえば、母親がその子供を飢死させた場合、社会的判断によって、母親は子供を「殺した」のであり、事象を支配しているとされ、母親が十分に子供を養った場合には、あたりまえのことをしたものと評価される。これに対して、水中に落ちてしまった子供を助けなかった父親については、社会的判断によっても父親は子供を殺したのではなく、結果を回避しなかっただけであるとされ、子供を助けた場合には、称賛される。つまり、前者のように、一定の行為をすることが社会的機能の枠内にある場合には、そのような行為の不作為は実質的に作為と同一のもの、つまり、社会的行為支配を有するものと考えられ、後者のように、一定の行為が事故等の故障の是正のために法秩序によって命ぜられている場合には、その不作為は社会的意味の上でも秩序の不回復、つまり、不作為であるとされる(38)。しかし、ロクシンによれば、右のような区分自体は可能であるが、前者の場合のみ支配を認めること、つまり、それを原理とする正犯の認定は、誤りである。というのも、社会的見解によると不作為が作為の一現象形態として現れうることは認めるが、後者の場合の父親が故殺者とされることに異存はなく、また、不作為犯の通常事例は、むしろ、そのように、非日常的事情によって迫ってくる侵害に対するエネルギーを投入しなかったという場合だからであるとする(39)
  それ故、ロクシンは、不作為者を正犯者たらしめるのは、結果回避義務とならざるを得ないとする。つまり、構成要件に記述されている結果を回避するための具体的義務を有する者のみが正犯であり、この意味で、不作為犯はすべて義務犯であるとするのである。
  (4)  以上が、義務犯という、支配犯とは異なる正犯原理の妥当するカテゴリーの存在をはじめに明らかにしたロクシンの見解の基本的な部分である。このような義務犯構想に対しては、義務犯では刑法外の特別な義務の侵害が正犯基準とされる結果、個々人の自由は支配犯の不作為義務をこえて制限され、法の許されないモラル化につながってしまうのではないかという批判(40)や、行為支配を不作為犯にも妥当する正犯基準とする見解だけでなく、特別義務の侵害に行為支配を組み合わせて基準にしようとする見解(41)からの批判等も向けられている。それ故、そのような義務犯構想の発展形態であるヤコブスの見解(42)を取り入れようとするならば、これらの批判を回避することもまた、必要となる。
  さて、義務犯構想のこのような基本部分を確認した上で、ここであらためて問題にすべきなのは、ロクシンによれば、すべての不作為犯は義務犯であるとされるのに対して、ヤコブスによれば、不作為犯内部においても支配犯に対応するものと義務犯に対応するものとの区別が存在するとされる点であろう。くり返し述べるように、このような相違は、まさに、不作為による共犯の成立問題、とりわけ、作為の故意犯に対し、作為で関与した場合には共犯(支配犯における関与)と評価されるべき保障人が不作為で関与したという場合の取扱いにおいて、とりわけ明らかとなる。と同時に、それは、作為と不作為との同置ないし同価値性問題の取扱いに直接関係する。
  すでに示したように、ロクシンは、右のような場合について、つぎのように説明している。すなわち、不作為による関与は原則として正犯として評価されるが、たとえば、一身専属的な義務犯や加重された支配犯罪への関与において、結果回避義務はあっても一定の構成要件を正犯的に充足しえない場合には、正犯は成立しえず、不作為による共犯が成立する。ここで、不作為による共犯が成立する積極的理由は、行為支配を有する作為者が介在する場合、不作為者はつねに義務犯の正犯としての側面と支配犯罪の幇助者としての側面という二重の側面を持ち、通常ならば競合原理にしたがって正犯の背後に退いている幇助者(共犯)としての性質が、不作為者が構成要件を正犯的に充足しえない場合にはおもてに現れてくるからであるとされる。ロクシンの場合、作為であれば支配犯であるような犯罪の場合、それは、作為犯としては支配犯であるが不作為犯としては義務犯であるという二重構造を有し、それぞれ別個の正犯概念が妥当すると考えられる。そして、不作為正犯は、作為正犯と社会倫理的価値違反性という性質においては同置されるが、責任の程度や個別的な当罰性の点では同置されえないのであり、行為支配を有する作為犯が介在する場合、不作為正犯は作為幇助と同じ重さで処罰されうる。つまり、作為の行為者に対し、不作為で関与する保障人は、不作為の正犯として幇助の刑で処罰され、作為で関与する場合には、不作為構成要件の存在にかかわらず、作為犯への幇助としてのみ処罰されるとする(43)
  しかし、関与が不作為であれば正犯が成立するのに、作為であれば共犯が成立するとの説明は、たとえ量刑に関する矛盾を回避しているとしても、やはり同一の関与行為についての評価矛盾であることには違いない。そもそも、価値的に同置できるものであっても当罰性の点で同置できないというのは、刑法一三条の存在によって一定範囲で受け入れられている不作為犯論の基本的な理解に反しているし、不作為犯と作為犯との正犯原理とを統一的に説明したことにはならず、両者の同置ないし同価値性を無視することになってしまう。また、作為幇助と並ぶと不作為正犯は退くとの説明は、義務犯としての不作為犯の正犯性を刑法外の特別義務違反に求めた基本的立場とは一致しない(44)。さらに、作為幇助と不作為正犯との競合を認める点に関しては、正犯と共犯の基本的構造の差異を無視しているのではないか、つまり、結果回避にのみ関係する不作為正犯と、つねに他者の行為を前提とする共犯とは、主観および客観の両面において競合することはありえないのではないか、との批判も向けられている(45)
  もっとも、同一の関与行為について正犯と共犯(幇助)との競合を認めることに対して向けられる批判は、つぎのような場合には、ヤコブスの見解に対しても当てはまるように見える。ヤコブスによれば、たとえば、自分の子供を殺害しようとしている行為者にナイフを手渡す母親は、それによって子供が行為者に殺された場合、制度的管轄にもとづく子供の保護義務に違反するとされることにより、義務犯の正犯として殺人罪を実現したと評価されると同時に、支配犯の共犯、すなわち、行為者による殺人罪の実現を幇助した者と評価されるのである(46)
  (5)  以上、ロクシンによる義務犯構想の展開と、すべての不作為犯を義務犯とすることに対する若干の批判をふり返ることによって、不作為による共犯の成立問題に関するヤコブスの説明の意義と課題を探ろうと試みた。もっとも、ここでは、ロクシンが不作為犯すべを義務犯であるとした点については、作為犯と不作為犯との同置ないし同価値性の徹底という観点からの批判にとどめ、かならずしも十分な検討は行わなかった(47)。また、不作為による共犯の成立問題として考慮したのは、とりわけ、作為の行為者に外部的態度としては不作為で関与した者の取扱いについてであり、他の多くの関与形態についての具体的な処理や問題については、ほとんど検討の対象としなかった。ここでは、少なくとも、作為と不作為との区別は負責にとって重要ではないとし、また、作為および不作為に共通する正犯基準を示すことによって両者の同置を徹底しようとするヤコブスの見解の前提たる構想を確認し、そこに存在する基本的な問題を示そうと試みたにすぎない。
  しかし、そのようにはなはだ不十分な検討によっても、「保障人的義務」論のさらなる課題として明らかと思われるのは、つぎの点である。作為と不作為との同置問題、あるいは、不作為による共犯の成立問題ないし正犯と共犯との区別問題にとって、すでに幾らかその有効性が示されたとおもわれる負責根拠の二元的な説明について、さらに検討を深めることである。具体的には、まず、ロクシンによる義務犯およびヤコブスによるその展開の意義を整理し、それに依拠する保障人的義務論から導かれる帰結および問題点を明らかにすることにより、本構想にもとづく議論を深化させることである。その際、手掛かりとなるのは、不作為による教唆・幇助・共同正犯、あるいは、不作為犯に対する共犯の成立問題などである。はたしてこれらの場合についても、「保障人的義務」を作為犯および不作為犯に共通の負責根拠とし、支配犯か義務犯かの区別を重要とすることによって、不作為の作為同置性ないし同価値性、あるいは、可罰的不作為の範囲が無理なく説明できるのかが問題となる。また、それと同時に、この構想に向けられた幾つかの批判、たとえば、義務犯構想によって特別義務の侵害を処罰することは、法的義務のモラル化につながるのか、といった点についても検討する必要があろう。もっとも、ここで、義務犯における特別義務は、ヤコブスによれば、制度的管轄にもとづいて基礎づけられる保障人的義務にほかならない。それ故、右の保障人的義務が、少なくとも「制度的管轄」にもとづく法的義務であることは、すでに幾分認められているところであるようにもおもわれる。ただ、ヤコブスのいう、「組織化管轄」にもとづく義務に関して指摘したように、負責を根拠づける義務の内容が法的義務であるだけでなく、刑法的な義務でなければならないというのであれば、刑法外の義務の侵害を問題とする義務犯構想はもはや受け入れ難いと考えられなくもない。しかし、フロイントが制裁規範概念によって「保障人的義務」にもとづく負責範囲を刑法的義務に違反していると判断しうる場合に制限しようとしたのも、実際のところ、共犯の成立をめぐる問題に対処するためであった。それ故、重要なのは、むしろ、(とりあえずは刑法外の)特別義務の侵害を負責の重要要素とする義務犯構想およびその展開としての「保障人的義務」論について、共犯論を視野にいれながら、その有効性と射程を明らかにしてゆくことであろうかとおもわれる。

(1)  G. Jakobs, Die Zusta¨ndigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt, −Zur A¨uβserlichkeit der Unterscheidung von Begehung und Unterlassen, S. 7f., ders., Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlasssen, 1996, S. 22.
(2)  Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 22.
(3)  Vgl. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 22f. 26ff.
(4)  Vgl. Jakobs, a. a. O., S. 14, 22. 26ff;ders., Strafrecht AT. 2. Aufl., 29/39ff;ders., Die Zusta¨ndichkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt _ Zur Auβerlichkeit der Unterscheidung von Begehung und Unterlassund, S. 10ff. もっとも、右は、一九九二年に関西大学で行われた講演原稿の該当箇所を示すものである。山中敬一訳「不作為犯における組織による管轄−作為と不作為の区別の表現性について−」関西大学法学論集四三巻三号(一九九三)二七一頁以下参照。
(5)  ヤコブスは、このような日常取引の諸事例について、適合する名称は「遡及禁止」であるとする。Vgl. G. Jakobs, Akzessorieta¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA, 1996, S. 262.
(6)  G. Jakobs, Strafrecht AT. 2. Aufl., 29/43.
(7)  やはり関与者の自己答責性によって負責範囲を画そうとするシュトラーテンベルトは、正当防衛では行為者に侵害権が与えられているため、行為者は侵害行為によって危険を創出してもかまわないが、許された危険行為には侵害権が結びつかないから、具体的な危険が発生した場合にはそれに対処しなければならず、そのかぎりで、先行行為は違法あるいは義務違反でなくともよいとする。Vgl. Stratenwerth, Strafrecht AT, 3. Aufl., 1981, Rn. 1009. なお、ヤコブスは、違法な先行行為だけが救助義務を基礎づけるわけではないことの説明として、次のようにも述べている。たとえば、正当化緊急避難の例で説明すれば、自分の家の家事を消すためにやむを得ず隣家の水道栓を開け、そのために隣人の花壇を水浸しにした場合、損害は賠償しなければならないが、家屋の焼失を免れるために水を手に入れることは許される。しかし、火が消えれば水道栓を閉めねばならず、水道栓を開く行為の適法性を指摘して栓を閉じる義務を免れることはできない。つまり、違法な先行行為だけが救助義務を基礎づけるというのでは狭すぎるのであって、違法か適法かにかかわらず、特別な危険を要求したかどうかが重要なのである、とする(右の説明は、一九九九年十一月に立命館大学で行われた「刑法における作為と不作為」と題する講演においてなされたものでる。これに関しては、近く、立命館大学誌上で紹介する予定である)。
(8)  Vgl. BGHSt. 37. 106ff. 本稿、第二章・第三節参照。
(9)  Vgl. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 22, 26ff., ders., Die Zusta¨ndichkeit kraft Organisation, S. 10ff. その他、同様の結論を導き出すものとして、Vgl. Stratenwerth, a. a. O., Rn. 1009., Otto, NJW 1974, S. 528ff., Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht und das Garantenprinzip, 1972, S. 282ff.
(10)  Vgl. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 21. さらに、社会安全義務との関わりに関しては、K. Seelmann, Privatrechtlich begru¨ndete Garantenpflichten?, in:Schmidt (hrsg.). Vielfalt des Recht − Einheit der Rechtsordnung?, 1994, S. 85. なお、松宮孝明「『不真正不作為犯』について」『西原春夫先生古希祝賀論文集・第一巻』(一九九八)一七二頁および一八一頁・注(44)参照。
(11)  B. Schu¨nemann, Zum gegenwa¨rtygen Stand der Dogmatik der objektiven Zurechnung und der Unterlassungsdelikte, − Ein spanisch−deutsches Symposium zu Ehren von Claus Roxin, 1995, S. 50ff., 59ff.
(12)  同旨の指摘をするものとして、葛原力三「不真正不作為犯の構造の規範論的説明の試み」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一三七頁。
(13)  Seelmann, Opferinteressen und Handlungsverantwortung in der Garantenpflichtdogmatik, GA 1989, S. 247f.
(14)  Vgl. Seelmann, Privatrechtlich begru¨ndete Garantenpflichten?, S. 95ff.
(15)  G. Freund, Erfolgsdelikt und Unterlassen, 1992, S. 33ff.
(16)  Freund, a. a. O., S. 85ff.
(17)  ヤコブスによる「保障人的義務」の説明が、刑法的な義務の根拠であることの説明としては不十分であるのに対して、フロイントによる「保障人的義務」の説明では、「制裁規範の概念が用意されており、その点で Jakobs の見解を一歩進めるものである」とするのは、葛原・前掲注(12)一三七頁。
(18)  Freund, a. a. O., S. 109ff., 235f., 311ff.
(19)  Freund, a. a. O., S. 235f.
(20)  Vgl. Jakobs, Stra¨frecht AT., 2. Aufl., S. 783, ders., Die Zusta¨ndich keit kraft Organisation, S. 16.
(21)  Jakobs, Akzessorieta¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA, 1996, S. 262f.
(22)  Jakobs, Zusta¨ndigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt. − Zur A¨uβerlichkeit der Unterscheidung von Begehung und Unterlassung, S. 16ff.
  さらに、この点に関してヤコブスは、つぎのようにも述べている。すなわち、複数人の共働の場合、先行行為者が回避すべきは、後行行為者の態度に対する注意が先行行為者の役割に含まれる場合であり、したがって、これは客観的帰属の問題であるという。つまり、そのルールにしたがって、どの態度が自然の継続可能な誘発を理由に許されないかが決定され、それ故に、継続する出来事が開始する場合、結果が帰属されるという。Vgl. Jakobs, Akzessorieta¨t, S. 258, Lesch, ZStW 105, S. 271ff.
(23)  Vgl. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung, S. 19.
(24)  Vgl. Jakobs, Beteiligung bei Herrschaftsdelikten und bei Pflichtdelikten, S. 4ff. なお、右は、一九九二年に東北大学で行われた講演原稿での該当箇所を示すものである。本論文の全文については、東北法学五七巻三号(一九九三)に、阿部純二・緑川邦夫両教授による翻訳が掲載されている。さらに、Jakobs, Zusta¨ndigkeit kraft Organisationbeim Unterlassungsdelikt, S. 19. ders., Strafrecht, AT,, 2. Aufl., 1991, S. 820ff.
(25)  Jakobs, Zusta¨ndigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt, S. 19. ders., Beteiligung bei Herrschaftsdelikten und bei Pflichtdelikten, S. 5. ここでヤコブスは、多数の特別義務者が共同して行動する場合、それが同時犯とされるべき理由について、つぎのように述べている。すなわち、そのような場合、各行為者はそれそれ共同性に対する自らの義務を履行しておらず、被害者と行為者自身との共同性を欠如せしめたのであって、他の行為者が被害者から負わされた共同性を拒絶することを助けるに止まるわけではないからであるとする。
(26)  Jakobs, Zusta¨ndigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt, S. 19.
(27)  本文ですでに何度か言及したように、この義務犯という犯罪類型は、ロクシンによって展開された。Vgl. C. Roxin, Ta¨terschaft und Tatherschaft, 1. Aufl., 1963, S. 352ff., 459ff., 6 Aufl, 1994, S. 352ff., 663ff.
(28)  Stein, Die strafrechtliche Beteiligungsformenlehre, 1988, S. 209ff.
(29)  Roxin, in LK, § 25, Rn. 36. やはり、行為支配を統一的な基準とすることに困難を示すものとして、たとえば、R. Bloy, Die Beteiligungsform als Zurechnungstypus im Strafrecht, 1985, S. 213, Scho¨nke/Schroder−Cramer, § 25ff. もっとも、これらは、義務犯論を批判的に取り扱ってる。
(30)  Roxin, a. a. O., S. 352.
(31)  Roxin, a. a. O., S. 384ff.
(32)  Roxin, Kriminalpolitik und Strafrechtssystem, 1970, S. 18f., ders., Ta¨terschaft, S. 460, また、すでに言及したように、Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht und das Garantenprinzip, 1972, S. 53, Tra¨ger, Das Problem der Unterlassungsdelikt im Straf− und Zivilrecht, in:FS Ludwig Enneccerus, 1913, S. 12, Bo¨hm, Methodische Probleme der Gleichstellung des Unterlassens mit der Begehung, JuS 1961, S. 81ff. などでも、ここで示したような例について同様の言及がなされている。
(33)  Roxin, Kriminalpolitik, S. 19.
(34)  Roxin, Ta¨terschaft, S. 463. 同旨 Bloy, a. a. O., S. 214f., Otto, Die GrundLagen der strafrechtlichen Haftung des Garanten wegen Unterlassens (1), Jura 1987, S. 250. Vogel, Norm und Pflicht, S. 257, Stratenwerth, Strafrecht AT I, 1981, Rn. 1062.
  なお、すでに指摘したように、ドイツの学説の中には、「行為支配」を不作為の領域にも転用しうると考えるものもある。Vgl. Gallas, Strafbares Unterlassen im Fall einer Selbstto¨tung, JZ 1960, S. 687, Jescheck, Lehrbuch des Strafrechts, AT, 5. Aufl., 1996, S. 641ff., Kielwein, Unterlassung und Teilnahme, GA 1955, S. 227.
(35)  ロクシンは、連邦裁判所判決の中には、実際のところ、この見解を示すものも存在すると指摘する。Vgl. BGH 2, 150, BGH MDR 1960, S. 939f. なお、学説では、Kielwein, a. a. O., S. 227
(36)  Vgl. Roxin, a. a. O., S. 463ff., ders., in LK, § 25, Rn. 205.
(37)  Roxin, a. a. O., S. 465ff.
(38)  Roxin, a. a. O., S. 463ff.
(39)  Vgl. Roxin, a. a. O., S. 463ff., ders., Kriminalpolitik, S. 19.
(40)  Vgl. Seelmann, Solidarita¨tspflichten im Strafrecht?, in:Recht und Moral− Beitra¨ge zu einer Standortbestimmung, 1991, S. 299.
(41)  Vgl. Freund, Erforgsdelikt, S. 72f., 177, 274ff.
(42)  ロクシンによる義務犯論およびその展開としてのヤコブスの見解を取り扱っている最近の文献として、J. Sanchez−Vera, Pflichtdelikt und Beteiligung. −Zugleich ein Beitrag zur Einheitlichkeit der Zurechnung bei Tun und Unterlassen, 1999 が挙げられる。
(43)  Roxin, a. a. O., S. 483ff., 501ff.
(44)  Herzberg, a. a. O., S. 265.
(45)  Vgl. Ranft, Garantiepflichtwidriges Unterlassen der Deliktshinderung, ZStW94, 1982, S. 855ff.
(46)  ヤコブスは、このような場合に、母親の関与行為について、義務犯の正犯としての側面を問題にすべき理由は、行為者が子供を殺害するのをただ見守っていただけの母親、つまり、不作為によって関与しただけの母親についても、不作為によって子供を保護すべき義務(制度的管轄にもとづく義務)に違反したとして義務犯の殺人正犯(刑法二一二条・一三条)が成立しうることとの比較において明らかであるとする。ヤコブスによれば、あらゆる特別義務者(制度的管轄にもとづく義務を有する者)は、つねに、直接的に、それ故、何かに従属することなく義務的であり、その他の正犯資格が欠けていない場合には、正犯者であるし、逆に、特別な義務をを有さない者は、けして正犯者にはならず、質的に制限的に従属的に関与するのみである。
  さらに、ヤコブスは、作為犯罪が制度的管轄にもとづく義務を有する者によって行われる場合、支配犯と並んで義務犯も成立するが、それは、支配犯における従属的責任が義務犯の場合の従属性を超越する責任よりも低い場合であるとする。
  なお、多数の特別義務者が共同して行動する場合については、ヤコブスは、各行為者はそれぞれ連帯性に対する自らの義務を履行しておらず、被害者と行為者自身との共同性を欠如せしめたのであって、他の行為者が彼と被害者との連帯性を拒絶するのを助けるに止まるわけではない、と説明しているのに対して、ロクシンは、共同でしか履行できない義務の共同の侵害の場合には、共同正犯の成立を認める。
  Vgl. Jakobs, Beteiligung bei Herrschaftsdelikten und bei Pflichtdelikten, S. 5. Strafrecht AT, 2. Aufl., 655ff., ders., Zusta¨ndigkeit kraft Organisation beim Unterlassungsdelikt, S. 19, Lesch, Das Problem der sukzessiven Beihilfe, 1992, S. 268f, 288ff. Roxin, Ta¨terschaft, S. 527. こうしたケースも含めて、不作為をめぐる様々な共犯形態の成立問題に関しては、稿をあらためて検討することにしたい。本稿ではヤコブスのように考えれば、義務犯の場合についても、作為か不作為かの区別は重要ではなく、統一的に説明されうることのみ、示すにとどめる。
(47)  ロクシンが、不作為犯すべてを義務犯としたことについては、つぎのような批判も存在している。すなわち、ロクシンによれば、義務犯の正犯性を基礎づける特別な、個人的義務のメルクマールが欠ける場合、共犯者の場合も、刑法二八条一項により、刑を減軽される。ここで、義務犯の基礎にある刑法外の特別義務は、特別な、個人的義務なので、義務犯である保障人以外の関与者はつねに刑を減軽されることになる。しかし、たとえば、保障人的義務のない通行人が転轍係を教唆して、誤ったポイントの切り替え(作為)による列車事故を生ぜしめたという場合、転轍係は、器物損壊あるいは身体傷害などの正犯であるとされるし、通行人は、刑法二六条により教唆者であるとされ、正犯と等しく罰される。その一方で、通行人が転轍係を教唆して、ポイントの切り替えをしないこと(不作為)によって事故を生ぜしめたという場合、転轍係は、器物損壊あるいは身体傷害などの正犯であるとされるが、通行人は、刑法二八条一項および四九条によって減刑されることになる。結果を回避すべき保障人的義務は、ロクシンによれば、特別な個人的義務のメルクマールであり、教唆者にはそれが欠けているからである。しかし、教唆者は、通常、転轍係が作為によって事故を実現するか不作為によって実現するかは知らずに教唆しているのに、右のような結論に至るのは奇妙であり、また、そのような評価矛盾に陥ってしまう原因は、不作為犯すべてを義務犯であるとしたところにある、とされるのである。
  Vgl. Roxin, a. a. O., S. 515, Sanches, a. a. O., S. 49f.

 

む す び に か え て

    以上、本稿では、ドイツにおける「保障人説」の展開と限界を検討することによって、「保障人説」を中心とした従来の不真正不作為犯論の限界と、あらたな理論構築の方向性を明らかにしようと試みた。まず、第一章では、不真正不作為犯論における二つの課題、すなわち、いかなる不作為が処罰の対象となるのかという「可罰的不作為の画定」問題と、いかなる不作為が作為と同様に扱われるのかという「作為同置性」問題とに対し、「保障人説」がどのように取り組み、従来の試みがかかえた困難を乗り越えようとしたのかという問いを通じて、「保障人説」の歴史的意義を明らかにした。つづく第二章では、「保障人説」の展開を追跡し、現在、「保障人説」を構成する二つの要件である「同価値性」および「保障人的地位」の要件がいかなる役割を果たし、また、いかなる困難に出くわしたのか、「保障人説」の展開と限界を示した。その上で、第三章では、第二章において示された従来の「保障人説」の限界を克服すべく展開された近時の見解を検討し、今後、深化されるべき議論の方向性を探究した。以上の手順によって導かれたことは、つぎの通りである。
  まず、「保障人説」は、処罰の対象となる行為は原則作為であるとの理解のもと、刑法各則を根拠に、「保障人的地位」にある者の不作為は可罰的であり作為と価値的に同置しうると説明することで、可罰的不作為の画定問題と不作為の作為同置性問題とを解決しようとするものであった。そこでは、「保障人的地位」は、それが備わった不作為を可罰的作為と同置するための、不作為に特殊な要件と解されていた(第一章)。
  そして、戦後、目的的行為論者によってあらたに加えられた「同価値性要件」とは、「保障人的地位」の有無によって当該不作為が処罰の対象となるかどうかを判断することとは区別して、当該不作為の当罰性ないし可罰性の程度が作為と同等か否かを判断することにより、「保障人的地位」を介した類推による処罰を、その不作為が作為と同等に当罰的である場合、すなわち、「同価値」である場合に制限するものであった。それ故、「同価値性」は、「保障人説」による同置の基準であり、また、許される類推の範囲を示す基準であった。
  それ故、総則規定制定後の議論は、もっぱら「保障人的地位」にもとづく同置の条件、すなわち、作為と「同価値」の不作為を基礎づける「保障人的義務」はいかなる場合に認められるかという問題をめぐって展開した。しかし、そこでは、「保障人的地位」は作為と不作為との構造的差異を補填し、両者を同置するための特殊要件であると理解されていたため、結局は、不作為によって作為犯が実現されたと考えられる場合の事実的側面ばかりが「保障人的地位」の内容として注目され、それがなぜ法的義務を基礎づけるかについての説明が蔑ろにされてしまった。また、他人の犯罪に作為または不作為で関与した者については、作為犯と不作為犯とで異なった正犯概念を認めることになってしまい、両者の同置性を説明できなかった。換言すれば、従来の「保障人説」の限界は、「保障人的地位」という特殊要件を備えることによって不作為犯と作為犯との構造的差異ないし区別が解消され、両者は同置されるし、不作為の可罰性が基礎づけられる、と考えられていた点に見いだされた。
  このような従来の「保障人説」の限界にかんがみると、作為犯と不作為犯との同置が何に求められねばならないかがつぎに問題となるが、この問題は、そもそもなぜ作為犯と不作為犯との構造的差異が問題となったのかということの裏返しである。そして、作為か不作為かという行為の構造が重視されたのは、そのような構造が負責の判断において重要な要素、すなわち、重要な負責根拠と考えられたからであった。しかし、不作為犯における正犯と共犯との区別問題に関する議論を概観すれば、作為なのか不作為なのかという行為の構造が負責判断にとって決定的でないことは明らかであったし、また、不作為犯に関しては、「保障人的地位」ないしその種類が負責にとって重要な要素となっていることも、明らかであった。
  したがって、作為犯と不作為犯との同置は、両者の負責根拠における同置、つまり、共通の負責根拠によって基礎づけられねばならず、不作為犯の負責が「保障人的地位」によって基礎づけられることを前提とすれば、「保障人的地位」は作為犯の負責根拠でもなければならないし、そうすることによってのみ、作為および不作為に共通の正犯概念を確保し、両者の同置ないし同価値性を徹底することができると考えられた(第二章)。
  そこで注目できるのは、近時、客観的帰属論の立場から、「保障人的地位」を作為および不作為に共通する負責根拠として捉えなおした上で、そこに法的根拠としての説明を与えるヤコブスの見解であった。それによれば、重要なのは、作為犯か不作為犯かの区別ではなくて、支配犯か義務犯かの区別であり、「組織化管轄」にもとづく「保障人的義務」を負うのか「制度的管轄」にもとづく「保障人的義務」を負うのか、という、負責根拠における区別であった。そして、作為の支配犯およびそれに対応する不作為犯、つまり、自己の組織化領域を他人にとって害のないものに保つべき「組織化管轄」にもとづく義務の違反については、正犯と共犯との区別が可能であり、限縮的正犯概念が妥当するとされた。これに対して、作為の義務犯およびそれに対応する不作為犯、つまり、一定法益との間で直接的に認められる特別な義務を内容とする「制度的管轄」にもとづく義務の違反については、原則、正犯として評価され、拡張的正犯概念が妥当するとされた。「保障人的地位」をこのように説明することによって、作為犯と不作為犯との同置が徹底され、また、たとえば先行行為にもとづく不作為犯の成立範囲の問題など、従来の「保障人的義務」論では対処しきれなかった負責範囲の説明が可能となった。
  もっとも、右のような説明では、「保障人的義務」が法的義務であることは示されても、刑法的義務であることは、かならずしも論証されていなかった。また、義務犯すなわち「制度的管轄」にもとづく義務に関しては、刑法以外の特別義務が負責を根拠づけているのだから、それは法的義務のモラル化に絡がるのではないか、といった問題があった。ただ、刑法的な「保障人的義務」の根拠づけを試みる見解が、結局は、それによって不作為による共犯をめぐるいくつかの問題に対処することを意図している点などを考慮すれば、重要なのは、むしろ、共犯規定の適用をめぐる諸問題も視野に入れた「保障人的義務」論の理論的深化をはかる中で、刑法外的な義務の侵害によって負責を根拠づける構想の実際上の有効性ないし射程を明らかにしてゆくことである、との考えが導かれた(第三章)。
    以上のように、本稿では、(1)不真正不作為犯の二つの課題、つまり、可罰的不作為の画定および不作為の作為同置性問題とに対し、従来の「保障人説」の説明は、「保障人的地位」を介した類推にもとづく処罰を、その不作為が作為と同等に当罰的である場合、すなわち、「同価値」である場合に制限するという以上のものではなく、「保障人的地位」にもとづく同置の条件については何も明らかにされていなかったこと、(2)「保障人的地位」が不作為犯の可罰性を根拠づける特殊要件であると理解されていたために、作為犯と不作為犯とで異なった正犯概念を認めることになるなど、両者の同置を説明しきれなかったことを示すことによって、(3)不真正不作為犯の二つの課題を解決しようとするならば、「保障人的地位」は作為犯および不作為犯に共通の負責根拠でなければならないし、(4)負責根拠である「保障人的地位」の法的説明が必要であること、(5)近時の見解によれば、そのような「保障人的地位」には「組織化管轄」にもとづくものと「制度的管轄」にもとづくものとがあって、両者の区別は支配犯と義務犯との区別に対応し、作為犯および不作為犯における正犯概念の統一的な説明を可能にすること、さらに、(6)右のような負責根拠の説明によって、たとえば先行行為にもとづく不作為犯の成立範囲がどのように説明されるかの検討を通じて、右の負責根拠の説明がかならずしも刑法独自の作為義務論を展開しているわけではなく、この点に関しては、共犯論も踏まえながら、さらに議論を深化させねばならないことを明らかにした。
  さて、このような検討結果全体を通じてみれば、本稿では、さらに、つぎの点が断片的に示されているようにもおもわれる。すなわち、目的的行為論にもとづく存在論的考察の限界と、客観的帰属論にもとづく理論構築の有効性である。もっとも、本稿での検討は非常に限られた範囲でのそれにすぎなかったのだから、このような見方をするのは、早計かもしれない。しかし、少なくとも、不作為犯の領域で、不作為の因果力を論証しようとする試みや、因果力を補填しようとする試みが限界にきていること(1)は、本稿によっても幾分示されたようにおもわれるし、作為犯の領域においても、結果との因果関係ないし惹起力がかならずしも決定的ではないことは、わが国でも実際上、すでに認められているようにおもわれる。たとえば、自分がその場を離れたら被害者を共犯者が殺害することを予測・認容しながらその場を離れた関与者について、共犯者の殺害行為を阻止すべき義務を有していたとして不作為による幇助を認めた判例では、関与者が共犯者の犯行を阻止すべき義務を有していたことが負責にとって重要な要素とされている(2)一方で、日常的な取引行為によって行為者による結果惹起に関与した者については、その関与行為と結果発生との因果関係が明らかであり、また、故意・過失などの要素が欠如していない場合であっても、共犯としての責任も問うことはできないと考えられている(3)のである(4)
  本稿で示したドイツの近時の見解では、右のような作為および不作為について、「だれがいかなる管轄を有するか」を判断することで、負責を根拠づけたり排斥したりすることを可能にしている。もっとも、本文において示したように、そのような「管轄」の有無による負責の根拠づけや、「管轄」の種類による負責の区別に、いくつかの問題点が存在していることはいうまでもない。また、法益侵害およびその惹起に着目し構築されたわが国の議論に、「管轄」にもとづく負責の根拠づけは簡単には馴染み難いようにおもわれる。しかし、本稿はしがきおよび本文でも言及した刑事製造物責任をめぐる不作為犯の問題は、わが国でも社会的に注目されているにもかかわらず、従来のわが国の不作為犯論が対応しうるものではないし、本稿で示したように、作為および不作為の負責を「管轄」によって根拠づける試みがこのような問題を視野に入れて展開されたものである点にかんがみても、そのような負責根拠の説明は、なお、注目に値するものであるというべきであろう。
    それ故、われわれがつぎに取り組むべき課題としては、とりわけ以下の点が重要であるようにおもわれる。
  まず、諸管轄にもとづく義務が、かならずしも刑法的義務を内容とするものではないとされる点や、「制度的管轄」にもとづく義務ないし義務犯に関しては、刑法外の特別義務の侵害が負責の根拠とされる結果、法的義務のモラル化に絡るのではないかという問題についての検討である。この問題については、民事的義務と刑法的義務の接近ないし刑法の射程に関する議論とも関連してドイツでも幾分議論されているが、まずは、「管轄」にもとづく負責ないし負責の排除によって、実際にどのような問題がどのように解決されているかを検討し、その射程を明らかする作業から始めることにしたい。
  つぎに、右の点とも関連するが、「管轄」の種類による負責の区別が実際上もっとも意味を有するであろう共犯の成立範囲をめぐる問題について検討することにしたい。本稿では、おもに、作為の故意犯に対する不作為による幇助の問題をめぐるドイツの議論について言及したが、わが国の判例(5)および学説も素材にし、再度この問題について整理・検討するとともに、わが国ではこれまであまり議論されてこなかった(6)不作為によるその他の共犯の成立問題についても、順次、検討を重ねることにしたい。
  さらに、不真正不作為犯処罰の総則規定のないわが国において、本稿および右で示した課題の検討全体を通じて得られた成果を実際にどのような形で展開すればよいかを検討せねばならないだろう。この点は、わが国における不真正不作為犯の総則規定の設置をめぐる議論(7)の検討とあわせて、最終的に明らかにすることにしたい。

(1)  わが国における不作為犯の因果論的構成の試みとしては、生田勝義「不作為による作為犯についての一考察(一)」立命館法学一七一号五九一頁以下、梅崎進哉「いわゆる不真正不作為犯の因果論的再構成」九大法学四四号三一頁以下などがあるほか、これらの試みも踏まえて、因果論的構成の可能性と限界について論じているものとして、酒井安行「不真正不作為犯のいわゆる因果論的構成の可能性と限界」『西原春夫先生古希祝賀論文集・第一巻』一三三頁以下などがある。なお、ドイツにおいて、因果論的不作為犯の挫折は歴史的に明らかであるとするのは、Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S. 286.
(2)  大阪高裁昭和六二・一〇・二判例タイムズ六七五号二四六頁以下、『刑法判例百選T総論』(第三版・一九九二)一七二頁以下参照。
(3)  この問題については、松宮孝明『刑法総論講義』(第二版・一九九九)二六三頁以下、斉藤誠二「共犯の処罰根拠についての管見」『刑事法学の新動向・上巻』(一九九五)一頁以下などを参照されたい。
(4)  なお、作為・不作為といった行為態様が負責判断にとって重要ではないとして、ヤコブスは、本稿第三章で示した以外にも、つぎのような例を挙げて説明している。たとえば、末期患者に対して、担当の医師はレスピレーターの取り付けなど集中治療方法の導入がもはや義務づけられていないという検査結果にもとづいて、それまでなされていた治療を積極的に中止してもよいのかという問題では、ヤコブスによれば、誰の組織化管轄に集中治療が帰属するのかが重要である。患者の管轄に帰属するとすれば医師は治療を中止してはならないし、医師の組織化管轄に帰属し、かつ治療が義務づけられていないとすれば、組織化領域の内側がいかなる状態になるかはどうでもよいことであって、治療は中止されてもかまわない。つまり、作為か不作為か、作用するものが身体活動か機械の自動装置かは、重要ではないとされる。Vgl. G. Jakobs, Die Strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen, 1996, S. 36ff.
  右のようなレスピレーターの遮断の問題を素材に作為と不作為との区別問題について論じたものとして、金沢文雄「人口呼吸器の遮断と刑法」広島大学政経論叢二六巻五号一一三頁以下、神山敏雄「作為と不作為の限界に関する一考察−心肺装置の遮断をめぐって−」平場博士還暦祝賀『現代の刑事法学(上)』九九頁以下、中森義彦「作為と不作為の区別」平場博士還暦祝賀『現代の刑事法学(上)』一二六頁以下参照。なお、中森教授は、そこでの検討を通じて、「『作為と不作為との区別』という問題は仮象問題であるといってよい」と述べておられる。
(5)  この問題を正面から扱った判例として、前掲注(2)が挙げられるほか、最近では、被告人が親権者である三歳の子供を同棲中の男性がせっかん死させた事案において、被告人には暴行を制止して子供を保護する措置を採るべき義務があるのに、その措置を採ることなくことさら放置したとする傷害致死幇助罪の公訴事実について、被告人には不作為による傷害致死幇助罪は成立しないとして無罪を言い渡した、釧路地判平成一一・二・一二判例時報一六七五・一四八頁、某ビル内にあるパチンコ店から売上金を集金した集金人に対して、暴行を加え、現金を奪い取り、集金人に傷害を負わせたという傷害致傷の犯行に関して、同ビル内のゲームセンターの従業員で、強盗の実行行為者らに当日集金車が来ることを知らせるなどし、強盗致傷罪の共同正犯が成立するとされた被告人Aから、強盗の計画を明らかにされたが、警察等に通報するなどしなかった同ゲームセンターの従業員である被告人Bについて、「従業員として従事していた具体的な職務との関連において」も、また、「従業員たる地位一般」からも保護義務および阻止義務を導くことはできないとして、不作為による幇助犯の成立を否定したもの(東京高判平成一一・一・二九判例時報一六八三・一五三頁)がある。これら二つの判例については、稿を改めて検討することにしたい。
(6)  犯罪の不阻止の事例など不作為による共犯の問題に関して、取り扱った主要な研究としては、中義勝『刑法上の諸問題』(一九九一)三二九頁以下、神山敏夫『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)、宮澤浩一『刑法の思考と論理』(一九七五)一〇九頁以下などが挙げられる。
(7)  これに関しては、内藤謙『刑法改正と犯罪論・上』(一九七四)二六頁以下が比較的詳しい。

  本稿は、平成一〇年度(一九九八年度)および平成一一年度(一九九九年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。