立命館法学 1999年3号(265号) 140頁




英米からみた日本の朝鮮支配(1)
- 戦間期領事報告を中心に -


梶 居 佳 広


 

 目    次

はじめに

第一章  朝鮮と英米の関係−日本支配期を中心に

第二章  斎藤総督−「文化政治」−期(一九一九−三一年)の報告  (以上本号)

第三章  宇垣総督期(一九三一−三六年)の報告

第四章  南総督−「皇民化」政策−期(一九三六−四一年)の報告

第五章  太平洋戦争勃発後(一九四二−四五年)の報告

お わ り に




は  じ  め  に


  周知のように、日本は欧米以外で近代植民地帝国を形成した唯一の国家であったが、それは欧米の事例を摂取した「模倣」の産物であった(1)。さりながら、一方で日本の植民地支配は欧米のそれとは「似て非なるもの」とのイメージ・評価が定着しているのもまた事実である。近年、欧米研究者の間で日本と欧米植民地の類似性を踏まえた研究も進められているが、植民地帝国日本を国際比較の中で検証する作業は未だ発展途上と言わざるを得ない(2)
  本稿は「比較」の視点から日本の植民地支配を考察する作業の「手掛かり」の一つとして、戦前日本にとって最重要の外交相手であり植民地保有国でもあった「イギリス・アメリカ(以下英米と略記)が日本の最重要植民地である朝鮮支配をどう見ていたか」について、一九一九年三・一運動以降を中心に検討する。本稿で検討する時期は、併合以前や「解放」以降と比べ朝鮮に対する英米の動向に関する研究は乏しく、三・一運動や太平洋戦争の戦後構想を除くと殆ど「空白」といってよい。三・一運動については、外交史料を用いた研究があり英米は朝鮮に同情は示したが具体的支援は行わなかったとしている(3)。また戦後構想については、カミングス氏ら多くの研究があるが、これらは「英米、特にアメリカは朝鮮をどう扱おうとしたか」に関心が集中しており、当時の英米が持っていた日本の朝鮮支配観についてはあまり触れられていないのである(4)
  さて、「比較」の視点から日本の植民地支配を考察する場合、冒頭で触れたように欧米の植民地支配との共通点(同質)・相違点(異質)の検討が重要な論点になると考えられるが、ここでは日本植民地支配の特異性(とされる側面)について最小限触れておきたい。
  即ち、日本植民地帝国の特異性としては、@植民地獲得が本国と近接した「同一」文明圏への同心円的拡大であった、A植民地支配の原則が「同化(assimilation)」であったことが指摘される(5)。特にAは第一次大戦後(「同化」を原則としていたフランス(6)も含め)欧米諸国が植民地自治に傾く中で「同化」に固執したこと、また三〇年代後半の所謂「皇民化」政策は被支配者の民族性を抹殺する性格を持ち「同化」の極限とされている。なお、第二次大戦中連合国が朝鮮の日本からの分離独立を初めて公式に承認したカイロ宣言では「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものとする」という表現になっているが、宣言中の「奴隷状態」は日本の植民地支配の持つ特異性をベースにしていたといえよう。
  私もこれらの特徴、就中日本の植民地支配の原則が「同化」であった事に異論はないが、留意すべき点もあるように思われる。まず「同化」について、百科事典での定義では「ある支配民族が他の集団を自己の文化になじませようとする(政策、考え(7))」となっているが、「同化」は文化的であると同時に法的・政治的なものでもある。また、「「同化」という言葉のインフレーションにより、植民地支配の理念も実態も見えにくくなっている(8)」という意見に代表されるように、実際日本の「同化」はほぼ一貫して唱えられたため却って曖昧な概念になった嫌いがある。近年、日本の「同化」について、@法制度の次元とA文化・イデオロギー的次元を区別して検証する作業が試みられており、既に幾つか研究がある(9)。この整理で「同化」について全てを説明できるかどうかはなお検討の余地もあるが、本稿では「同化」の本来の意味として「植民地を完全に宗主国の一部として統合しようとする政策・考えであり、具体的には法制面と文化面の二つが柱となる。そして法制・文化両面の同一化によって「同化」が完成することになる」と一応定義しておきたい。勿論、これはあくまでも一般的な定義であって、実際日本が進めた「同化」はこれとは異なる側面(例えば朝鮮人に対する差別待遇の維持)があったことは出来るだけ触れていきたい。
  一方、英米を含む欧米の場合、支配者=「文明国」が「未開」の植民地を「文明化」するという、所謂「文明化(の使命)」論によって支配を正当化していた。日本の場合、植民地独立を許容する論理になりうる「文明化」は採れなかったとされるが、例えば植民地参政権を日本が拒否する際、理由としたのは「内地」と「外地」の「民度」の差であった。つまり日本も「民度」≒「文明」の差異によって植民地支配を正当化しており「文明化」論と相通じる面を持っていたといえる(10)。この場合「同化」と「文明化」は対立するものではないと考えた方が自然であろう。
  そこで本稿では、「文明化」で植民地支配を正当化した当時の英米人に「同化」を原則にした日本の朝鮮支配はどう映ったのか、また先述のカイロ宣言での「朝鮮の奴隷状態」という認識がいつ、どのように形成されたかを可能な限り後づけながら進めていきたい。
  最後に、史料その他について(11)。本稿では在ソウル英米領事報告を中心に、本国官庁報告も対象とするが、イギリスの場合「年次報告書」が朝鮮について一九二〇年から三九年まであり主にこれを用いる。アメリカの場合『国務省記録』収録報告を検討するが、年次報告がなく、かつ『国務省記録』に未収録の報告も存在する。それ故、民間論説も一部加えたいが、全体にイギリス報告を軸にアメリカ報告にも言及する方法で進めていきたい。なお、本稿は「日本の統治を英米はどう見たのか」に重点を置いており、朝鮮人の動向や政治的側面以外については十分言及できない。また、今回は英米が描く日本の朝鮮支配観の「イメージ」の概観であり、「イメージ」と実際日本がとった政策の「実態」との間には当然乖離が見られることを予め強調しておきたい(12)

(1)  ピーター・ドウス[浜口裕子訳]「想像の帝国」(ピーター・ドウス、小林英夫編『帝国という幻想』青木書店、一九九八年)一三頁。なお本稿でいう「植民地」は法制上植民地とされる「公式帝国」をさす(台湾、朝鮮、南樺太)。
(2)  木畑洋一「英国と日本の植民地統治」(『岩波講座  近代日本と植民地』一  岩波書店、一九九二年)二七四頁。欧米の研究としては R. Myers, M.R. Peattie (eds.), The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, (Princeton 1984)、マーク・ピーティー[浅野豊美訳]『植民地』(読売新聞社、一九九六年)が代表的である。
(3)  朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社、一九七六年)と姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、一九七九年)が国務省を含むアメリカ国内の動きを触れている。ベルサイユ会議中の朝鮮人組織の活動は、長田彰文「ベルサイユ講和会議と朝鮮問題」(『一橋論叢』一一五巻二号、一九九六年)参照。欧文ではイギリス外務省史料を駆使した労作である Ku Dae−yeol, Korea under Colonialism (Seoul, 1985) 等を参照。
(4)  宮崎章「アメリカの対朝鮮政策(一九四一−一九四五)」(立教大学『史苑』四一巻二号、一九八二年)、ブルース・カミングス[鄭敬謨・林哲訳]『朝鮮戦争の起源』一(シアレヒム社、一九八九年)、クリストファー・ソーン[市川洋一訳]『米英にとっての太平洋戦争』全二巻(草思社、一九九五年)、李景a『朝鮮現代史の岐路』(平凡社、一九九六年)等参照。
(5)  山本有造「日本における植民地統治思想の展開」(『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会、一九九二年)、大江志乃夫「まえがき」並びに「東アジア新旧帝国の交替」(『岩波講座  近代日本と植民地』一、岩波書店、一九九二年)参照。
(6)  ただし同じ「同化」でもフランスと日本のそれとは相違点があるとされる。例えば、矢内原忠雄「軍事的と同化的・日仏植民政策比較の一論」(『国家学会雑誌』五一巻二号、一九三七年)、ピーティー、前掲書参照。
(7)  『世界大百科事典』第一九巻(平凡社、一九八九年)五三〇頁[星野昭吉執筆]
(8)  駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、一九九六年)一二頁。
(9)  春山明哲「近代日本の植民地統治と原敬」(春山明哲・若林正丈『日本植民地主義の政治的展開一八九五ー一九三四年』アジア政経学会、一九八〇年)、山中速人「朝鮮同化政策と社会的同化・上」(『関西学院大学社会学部紀要』第四五号、一九八二年)。山本有造、前掲書と駒込武、前掲書も参照のこと。
(10)  木畑洋一「イギリスの帝国意識」(『大英帝国と帝国意識』ミネルヴァ書房、一九九八年)参照。
(11)  史料について。イギリスの場合、日本並びに「植民地」の「年次報告書(Annual Report)」を集めた『駐日英国大使館報告資料集成(Japan and Dependencies:Political and Economic Reports 1906-1960)』(Archive Edition, 1994)があり、@第一一巻とA第一二巻が朝鮮関係である。以下、@を Annual Report Korea 1906-1923, Aを Annual Report Korea 1924-1939, と略記する。また、未公刊史料としてイギリス外務省(F.O.)史料のうち、大使館が外務省に送った文書 F.O. 371 General Correspondence:Political があり、以下、F.O. 371 と略記。一方アメリカは「国務省記録」デシマル・ファイルの内『朝鮮の国内情勢に関する国務省記録Records of the U.S. Department of State relating to the Internal Affairs of Korea』を用いる。@一九一〇ー二九年(Internal Affairs of Korea 1910-1929. Reel. と略記)。A一九三〇ー三九年(Internal Affairs of Korea 1930-1939. Reel. と略記)。B一九四〇ー四四年(Internal Affairs of Korea 1940-1944. Reel. と略記)。公刊史料は United States Department of States, Foreign Relations of the United States があり、以下、FRUS と略記。
(12)  なお日本の朝鮮支配に関する個別研究は膨大でありここで列挙するのは到底不可能である。差し当たり文献目録として戦前分は末松保和編『朝鮮研究文献目録』(汲古書院、一九八〇年)、戦後分は朝鮮史研究会『戦後日本における朝鮮史文献目録一九四五ー一九九一年』(緑陰書房、一九九四年)、それ以降は『朝鮮史研究会論文集』巻末の文献目録を参照。

第一章  朝鮮と英米の関係 −日本支配期を中心に

  本論に入る前に、英米が朝鮮にどの程度の関係を持っていたか、また日本の対朝鮮政策に対してどのような態度を取ったかについてごく簡単にみていきたい。

一  朝鮮在留英米人
  日本支配期、朝鮮在留欧米人は千数百人であった(表1参照)。これは朝鮮の総人口からみて極めて少数であるが、欧米人の中ではアメリカ、イギリスが一九四〇年まで一位、二位を占めていた。地域的には鉱山を除くと市部に偏りソウルを含む京畿道に約五百人在住していた。なお表1で慶尚南道、咸鏡道でイギリス人がアメリカ人より多いのはキリスト教(プロテスタント系)諸宗派間で布教地域を予め設定した結果である。職業別に分類すると、一九二一年現在、一二六五人中八五四人が宣教師関係、鉱山業一九九人、商業一〇四人となっている(1)。以下、これら職業について歴史的背景も含め簡単に触れておく。
  まず宣教師であるが、英米人の多くはプロテスタントに属しており、彼らは朝鮮各地に滞在していた。朝鮮におけるプロテスタントの本格的伝来は、一八八五年長老派アンダーウッド(H.G. Underwood)と監理教アペンゼラー(H.G. Appenzeller)入国に始まる。その後諸宗派が次々に朝鮮に入り信者も激増した。即ち、一八九五年に一五九〇人であったのが一九一〇年に二二万人(プロテスタントのみ)に達し(2)、日本支配期にはカトリックも含め最大五十万人にまで増加したのである。このような信者数急増の要因として、社会情勢の影響や布教活動の成果が挙げられるがここで詳細に検討することは行わない。ただ、朝鮮ではキリスト教が民族主義の宗教としての性格を持ち抗日・独立運動の拠点にもなったことは無視できぬ事実である。他方、日本にとってキリスト教は「要注意」であるが、外交上弾圧しにくい「厄介」な存在であった。ただ欧米人宣教師についていえば、彼らは非政治的立場を取り日本の朝鮮支配についても人道的立場からの要望に止めていた(3)
  次に、鉱山業について。日本の支配期に英米人が運営していた鉱山としては、雲山、陽徳、遂安等があげられる。これらは日清戦争後の中国で展開された「利権獲得競争」と同時期に獲得したものだが、中国と違い、朝鮮の場合鉱山が唯一といってよい利権であった。しかも一九一五年朝鮮鉱業令が制定されるなど、鉱山経営は日本による制約を受けるようになった。結局、三九年雲山売却を最後に朝鮮における英米の鉱山利権は消滅した(4)
  第三に商業についてだが、朝鮮進出の外国企業は鉱山業を除くとスタンダード石油会社、ライジング・サンなど極僅かにすぎず、通商についても、朝鮮の場合日本本国に集中し英米の占める比率は小さかった。この傾向は併合前からではあったが、一九二〇年代日本資本主義が発展したことで一層顕著なものとなった。例えば一九三〇年朝鮮への輸入の内、アメリカは二%、イギリスは「コンマ以下」であった(輸出はゼロに近い数字である)。
  なお、日本支配期朝鮮に領事館を設置していたのは英米の他、中国、フランス、ソ連であるが、このうち英米は総領事を筆頭に数名が赴任していた。表2は英米の主な領事をあげているが、ここで領事について触れておくと、イギリスは全員が横浜、神戸、長崎など日本各地の領事を経験した「知日家」(二〇年代前半までソウル総領事だったレイはむしろ「朝鮮通」といえるが)であり、特にレイ、ロイド、ホワイト、フィップスは日本の朝鮮支配について独自の意見を年次報告の中で展開していたのに対し、アメリカはアジアとは無関係の地域から赴任した領事もおり、日本や朝鮮の知識に乏しい者が多かった(尤もアメリカの場合も、三・一運動直後には国務省極東部長のミラーを総領事に任命しているし、また三〇年代前半に活躍したデイビスやラングドンのようにソウル駐在中に「朝鮮通」となる者もいた)。彼らは当然自国民の保護が主な職務であるが、同時に朝鮮情勢について情報収集し本国に報告していた。その際「情報源」となったのは朝鮮発行雑誌・新聞、総督府刊行物、それに宣教師や役人らとの接触などであった。

 

 

 

二  日本の朝鮮植民地化・支配に対する英米の態度
  次に、日本の朝鮮植民地化(とその後)に対する英米両国の態度を概観する。この問題については既に一定の研究(5)があるので、ここでは概略的事実を触れるに止めておく。
  @  併合(一九一〇年)前
  英米が朝鮮と国交を開いたのは、日本に遅れること数年、即ちアメリカが一八八二年、イギリスがその翌年であった。以降、韓国併合まで英米は朝鮮と関係を持つことになる。
  一九世紀後半以降、朝鮮半島は国際紛争地の一つであった。しかし朝鮮に直接関心を持っていたのは日本、中国(清)−清は朝鮮に対し宗主権を有していた−、ロシアであり、英米ではなかった。イギリスは一八八五年朝鮮南部の巨文島を二年間占拠する事件を起こしたが、これはロシアを牽制するためであり朝鮮に領土的野心をもっての行動とは言い難い。アメリカについても同様である。要するに英米共に朝鮮問題は二次的なものに過ぎず、故に日本にとって朝鮮「進出」のライバルは、やはり中国とロシアであり、日本はこの両国との戦争に勝利することで朝鮮における覇権を獲得した(その間に朝鮮における抗日の動きを弾圧したことは言うまでもない)。そして日露戦争では英米は日本支援に回ったのであった。
  一九〇五年日本は韓国を「保護国」としたが、イギリスは第二次日英同盟、アメリカは「桂・タフト協定」によって日本の行動を容認した。その後、満州問題で特に日米間で利害対立が発生することもあったが、この対立が日本の朝鮮「進出」に打撃を与えることはなかった。結果、一九一〇年八月日本は韓国併合を実行したが、その際日本は欧米諸国が旧韓国政府との間で得た経済権益の十年間維持を表明し、英米両国も承認したのであった。
  なお、併合時に日本が認めたこれら経済権益は、その後日本が不平等条約の完全撤廃を成就させたこともあり徐々に消滅することになるが、これに対し英米ら欧米諸国は日本との関係を悪化させるような抵抗を行っていない。このような態度の背景としてやはり朝鮮に対する関心の低さも関係しているように考えられる(6)
  A  併合後特に三・一独立運動(一九一九年)での対応
  韓国併合後、英米両国は日本の朝鮮支配については黙認の姿勢をとり、朝鮮独立を一度たりとも支持しなかった。そしてこの姿勢は、先に触れたカイロ宣言まで続くことになる。
  ただし、この間英米が日本の支配に対し何の行動も取らなかったわけではない。併合直後から日本の「圧政」に関する報告が領事館から本国へ時々送られ、外交問題に発展することもあった。ただしこれらはキリスト教徒や自国民の保護を目的としていた。しかし、三・一運動では英米、特にイギリスは日本に対し朝鮮統治の改善を要請したのであった。
  周知のように、三・一運動は民族自決やロシア革命、日本の圧政に対する反発を背景に、朝鮮全土で起こった文字通り全民族的運動であった。これに対して日本は軍事力を用い死者約七千五百人という血腥い方法で鎮圧した。しかし、あまりにも苛酷な弾圧、特に四月に発生した堤岩里虐殺事件をカーチス(R.S. Curcis)米国領事やロイド(W.M. Royds)英国領事らが報告することによって日本非難の声が俄に高まった(7)

1 アメリカ
  アメリカは「民族自決」を唱えるウィルソンが大統領であり第一次大戦戦勝国でもあった。それ故、アメリカは朝鮮人の期待を特に強く受けていた。事実、三・一運動参加者にはアメリカによる朝鮮の独立回復を期待する向きも少なからずあった。しかし、アメリカ政府が朝鮮独立を支持することはなかった。国務省当局は日本を弁護する主張を行い、ソウル総領事ベルグホルツ(L.A. Bergholz)に対し「朝鮮在住アメリカ市民が日本の内政に干渉することのないように」と再三指示していた(8)。新しい国際秩序の構築に奔走していたアメリカにとって、朝鮮というアメリカから見て「些細な」問題で日本との関係を悪化させたくなかったのが本音であったといえよう。
  しかし、提岩里事件が伝わるに従い、アメリカの各新聞は日本の行為を非難する記事を書き始め(9)、議会も六月に朝鮮問題を取り上げるようになった。このような状況に対し、ロング(B. Long)アメリカ第三国務次官は七月初め出渕駐米日本代理大使と面談し、朝鮮問題に対する意見と日本軍の「蛮行」に関する説明を求め、出淵から朝鮮支配を「リベラル」なものにするとの約束を引き出した(なおロングは、国務省としては朝鮮問題は日本の内政問題と考えるが、同時に日本の残虐な弾圧は人道上由々しき問題であるとも考えていると述べている(10))。会談後、出淵は朝鮮統治改革やキリスト教徒の待遇改善などの案を原首相に送り(11)、原首相も早速キリスト教会連合会東洋委員会に「統治の改善」を約束する電文を送った(12)。その後、上院では長老派教会ら作成の朝鮮に関する報告(米国キリスト教会連合協議会報告書)が議事録に収録され(13)、「朝鮮人同情法案」が提議されるに至った(ただし未採択)。なお、米国総領事のベルグホルツについては「鮮人カ自己ノ意見ヲ公表シ民族自決主義ヲ唱ウルハ人類ノ特権ニシテ彼ラノ主張ニ耳ヲ借リセス猥リニ高圧手段ヲ採ルハ当ヲ失ワセリ(14)」と主張したとして日本側が警戒する一方、欧米人宣教師の間では日本の弾圧に対して抗議を行わず「毎ニ吾人ヲ冷遇シ一点ノ誠意ヲ認ムル能ハズ(15)」と総領事更迭要求が持ち上がっていた。そのためか、彼はこの年の秋に総領事を離任している。

2 イギリス
  イギリスも朝鮮独立を認めない立場であった。周知のように当時イギリスはエジプトやインドでの独立運動に手を焼いており、民族自決にも否定的であった。このためロイド総領事代理は朝鮮に関する報告を度々打電していたが(16)、当初政府が朝鮮情勢に関心を示すことはなかった。
  しかし、アメリカと同様提岩里事件を契機にイギリス政府も五月頃から政策の見直しを進め、七月になり元インド総督であるカーゾン(E. Curzon)外相が珍田駐英大使に対し統治の改善を要請するに至った(17)。なおこの要請の際カーゾンは外務省極東部(Far Eastern Department)のミュラー(M. Muller)作成の「朝鮮における日本の政策に関する覚書」を用いている。この「覚書」について要約すると、運動発生の潜在的要因として(1)日本の統治が朝鮮を「日本化」するものであったこと(ここでいう「日本化」とは日本人が朝鮮の全分野を独占することをいう)、(2)日本語を強制したこと、(3)日本人の入植活動への反発、4裁判の不公正さを挙げている。そして、「処方箋」として「朝鮮独立は考慮の範囲外」であるが、@武官総督を文民に入れ替える、A何らかの自治の容認、B朝鮮語を日本語と同等の扱いにする、C言論・集会・出版の自由の容認を求めている(18)。イギリスの要請は断続的に翌年始めまで続けられたが、徐々に人道上の問題に力点が変化したとされる(19)。
  以上、英米は三・一運動時日本に対し統治改善の要請を行ったが、その際アメリカよりイギリスの方が具体的な統治改善を要請していた点は興味深い事実ではある。これに対し、日本は長谷川好道総督を引責辞任させ、後任に海軍出身の斎藤実を任命し「文化政治」と称する改革に着手することになった。この「改革」については次章に委ねるが、「文化政治」への政策転換を齎した要因として原首相の持論(内地延長主義)の他に英米の要請への対応もあったことは否定できないであろう。

(1)  朝鮮総督府「在鮮欧米人氏名表」一九二一年三月(国立国会図書館憲政資料室『斎藤実文書』一一〇ー一三)。
(2)  柳東植『韓国のキリスト教』(東京大学出版会、一九八七年)四七頁。
(3)  閔庚培『韓国キリスト教会史』(新教出版会、一九八一年)、韓国基督教歴史研究所『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版会、一九九五年)等参照。
(4)  S.J. Palmer,”American Gold Mining in Korea’s Unsan District. Pacific Historical Review 31 (1962) pp. 379-391 等を参照。
(5)  山辺健太郎『日韓併合小史』(岩波書店、一九六六年)、森山茂徳『近代日韓関係史研究』(東京大学出版会、一九八七年)、長田彰文『セオドア・ルーズベルトと韓国』(未来社、一九九二年)、海野福寿『韓国併合』(岩波書店、一九九五年)等参照。
(6)  Ku Dae−youl, Korea under Colonialism (Seoul, 1985) pp. 20-23.
(7)  韓国基督教歴史研究所編著[信長正義訳]『三・一独立運動と堤岩里教会事件』(神戸学生青年センター出版部、一九九八年)に領事・宣教師報告が収録されている。Ku Dae−yeol, op. cit., pp. 169-198 も参照。
(8)  朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社、一九七六年)二八八頁、姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、、一九七九年)七〇ー七一頁。FRUS, 1919, Vol. II, pp. 458-463.
(9)  朴慶植、前掲書、二八六ー二九一頁、姜東鎮、前掲書、七一、八七ー九〇頁。なお朴殷植[姜徳相訳注]『朝鮮独立運動の血史』二(平凡社、一九七二年)によると、一九二〇年九月までにアメリカの新聞が載せた朝鮮関係記事は九千回以上という。
(10)  B. Long,”Memorandum of Conversation with the Japanese Charge D’Affairs, July 3, 1919, 895. 001/−, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3. 日本側史料では6月下旬出淵は国務次官と面談し、その内容を本国政府に送っている。外務省外交資料館所蔵『韓国ニ於ケル統監政治及同国併合後帝国ノ統治策ニ対スル論評関係雑纂』二二八頁。「内田外務大臣宛出渕代理大使報告」。
(11)  同『韓国ニ於ける統監政治及び同国併合後帝国ノ統治策ニ関スル論評関係雑纂』二三八ー二四一頁。同報告。
(12)  同『韓国ニ於ケル統監政治及同国併合後帝国ノ統治策ニ対する論評関係雑纂』二七一ー二七三頁。「米国東洋委員部宛原敬書簡案(七月一〇日)」。
(13)  朴殷植、前掲書、一三三ー二一四頁に収録されているのを参照。
(14)  『現代史資料』二六「朝鮮」(2)(みすず書房、一九六七年)、四三四頁。
(15)  『現代史資料』二五「朝鮮」(1)(みすず書房、一九六七年)、三八七頁。
(16)  Ku. Dae−yeol, op. cit., p. 142. なおロイドの活動は日本側史料でも確認できる。『現代史資料』二六「朝鮮」(2)、三三五ー三四二頁参照。
(17)  Ku. Dae−yeol, Ibid, pp. 155-160.
(18)  Memorandum by Mr. Max Muller on Japanese Policy in Korea. July 5, 1919, F.O. 371/3818 (F106971/7293). なお、Ku, Dae−yeol, Ibid, pp. 149-152. も参照。
(19)  イギリス政府は一九二〇年七、八月段階で朝鮮状況は概ね「改善」したと判断している。Ku, Dae−yeol, Ibid, pp. 235-246, 298.

 

第二章  斎藤総督  −「文化政治」− 期(一九一九−三一年)の報告

  本章は斎藤実総督、所謂「文化政治(1)」における英米報告を検討する。厳密には、斎藤は一九二七年四月ジュネーブ軍縮会議に出席後総督を辞任し、一九二九年八月に再登板するまで山梨半造が総督であった。しかし山梨は在任二年弱に過ぎず、辞任直後に朝鮮米の取引をめぐる収賄事件で起訴されている。故に二〇年代の朝鮮支配は斎藤によって特徴づけられるといってよい。
  ところで、前述のように三・一運動に対し英米は朝鮮独立は支持しなかったが、日本の弾圧には批判的であり何らかの統治の改善を要請していた。それ故英米にとって新総督斎藤については、まずこの「要請」にどう答えたかに関心があったといえる。

一  「諸改革」とその「成果」
  斎藤は朝鮮総督に就任するや様々な「改革」に着手した。このうち英米の要請に対応するものとしては総督府官制改革、地方制度改革、教育改革等が該当する。以下、総督府も「文明政治」の基礎とした警察・教育・地方三改革に関する英米報告をみていく。
  @  残酷な刑罰廃止と警察制度改革
  まず、三・一運動弾圧の際、英米が問題視した残虐な刑罰(鞭打ち刑)廃止と警察改革についてであるが、鞭打ち刑は一九二〇年三月に廃止された。当初鞭打ち廃止に日本は慎重であったが、英米側は鞭打ちが「野蛮」な刑罰であり、また朝鮮人のみに科される事もあげ廃止を強く要求した。従って鞭打ち廃止は当然の事ながら英米共に歓迎している(2)。
  次に警察改革、即ち憲兵警察から普通警察へ、行政機構から独立した警務総監部から総督府直属の警務局への転換は、一九一九年八月官制改革の一環として実施された。この改革について、イギリスは一九二〇年報告(レイ)で「国境地帯」を除き普通警察が実施され、警官数が増加した事実を紹介しているが、警官増大の是非は言及していない(3)。そしてその後の報告では警察改革を「朝鮮統治上重要な改革」と評価している。例えばアメリカ(デイビス)は「平時でも殆ど軍事政府のような異常かつ専制的であった警務総監部が廃止され、ほぼ西洋と同様の警務局になった(4)」と評していた。
  また、これらに関連して朝鮮人への拷問があるが、イギリス報告では拷問が「改革」後も存続し宣教師が見聞した事例紹介をしている(5)。ただ拷問の事実を否定してきた総督府対応の変化や暴力警官への裁判実施により一九二二年「朝鮮人の扱いに改善がみられる(6)」とも判断しており、二〇年代後半には拷問に関する言及がなくなっている。
  A  教育制度改革 −第二次教育令(一九二二年)−
  英米宣教師による朝鮮の教育への要請は大きく二点、即ち(1)専門学校に格下げされ宗教教育も禁止されたキリスト教系学校の待遇の改善、(2)(上級学校に進学できない)修学年限での差別、絶対的に少ない学校数など教育面での朝鮮人の待遇改善を挙げることができる。これらは第一次教育令(一九一一年)と諸規則に基づく制度の改定を必要としていた。
  これに対し総督府は一九一九年から改革に着手し、一九二二年第二次教育令を公布した。この改革は、(1)学制をほぼ日本本国と同一とし大学教育を認可、(2)朝鮮語教育を保障したが、それ以上に日本語教育を重視、(3)宗教教育を公認したが、ミッション系は専門学校のまま(ただし「条件」を満たす学校は普通学校=「指定学校」扱い)、(4)学校整備等を特徴とする。故にこの改革は教育拡充を掲げつつ朝鮮人を漸進的に「同化」させ、一方で朝鮮人を日本人の補助的存在として「教育」する狙いがあったとされる。
  この改革にも英米は高い関心を示し、法的整備終了の一九二二年頃迄報告を出している。イギリス報告では順次実施された改革を紹介し、新教育令公布では先に挙げた特徴に触れつつ「明確な進歩」と評していた(7)。ただ(3)についてはミッション内に戸惑いが見られたとしている(8)。というのも、宗教教育の未実施が普通学校の「条件」とされたことで教会内に混乱が生じたからである。一九二三年報告では「ミッション系も「指定学校」になるのが増える(9)」とみていたが、この点長老派は「専門学校」に甘んじたのであった(10)。
  一方、アメリカ(ミラー)も度々報告を出したが、一九一九年の時点で改革=「進歩」とみていた(11)。新教育令公布の際は学校・宗教関係者らとの接触を通じ「現実に運用される迄に評価を下すのは時期尚早だが、この教育制度は好意的に受け止められている。ミッション系学校の新制度への適応もうまくいくだろう(12)」とみている。翌年ミラーは「朝鮮における教育」との報告を作成した(13)。この報告は李朝期には未発達の教育が発展する過程を整理したものであるが、興味深い点としてアメリカ領フィリピンやイギリス保護国エジプトの例を挙げつつ朝鮮の現状を検討していることである。ミラーはエジプトの支配者クローマー(L. Cromer)の著作(14)を援用しつつ報告を進めている。即ち、植民地教育の問題として@物質的成長は急速だが「モラル」の成長は時間が掛かる。A学校整備は多額の資金が必要で却って教育の発展を阻害する。B高等教育は現地民の「政治的覚醒」を喚起する危険があると指摘し、日本も同様の問題に直面しつつあるとしている。ただミラーによると、日本の場合(1)学校整備に本国から援助を受け負担軽減がなされている。(2)実業教育が重視されている。(3)朝鮮の就学率はエジプトより高くフィリピンより低いが、現地民の教育熱は高く収容能力以上の志願者で溢れているのが実情としている。
  なおイギリスは二〇年代後半も年次報告で教育問題に言及しており(15)、一九二八年報告(ホワイト)では、教育を「朝鮮の三大問題」の一つとして財政事情ゆえに学校整備が遅れ朝鮮人に不満が燻っていることを強調している(16)。
  B  地方制度改革   −第一次改革(一九二〇年)・第二次改革(一九三〇年)−
  特にイギリスの要請では何らかの「自治」を朝鮮に与えるべきとしていたが、総督府は、一九二〇年七月の制令で地方制度改革を実施した。即ち、道(日本の府県にあたる)、府(日本の市にあたる)、邑・面(日本の町村にあたる)に公選諮問機関を設置した(但し、面は所謂「指定面」のみ公選。道評議会は2/3が府面協議会員が選んだ候補者から、残りは知事任命で構成)。何れも選挙権は原則五円以上の納税者に限られていた。
  第一次改革の評価であるが、報告に「自治(Self−government)」という表現を用いていることから、英米共この改革を朝鮮に対する自治権付与と考えたようである。但しイギリス(レイ)は「(地方制度が)実際どうなるかについて語るのは時期尚早(17)」とし、その後年次報告では一九二九年まで地方制度の記事が姿を消すことになる。一方、アメリカ(ミラー)は第一、二回(一九二三年)選挙に関し簡単な報告を出したが(18)、第一次改革施行後も「自治」問題に注目していた。例えば、一九二五年十一月副島道正京城日報社長が論説「朝鮮統治の根本義」で「朝鮮議会」設置・朝鮮人「自治」は考慮すべきであると主張した(19)のに対し、ミラーは「全面的に同意する」としていた(20)。
  一九二九年斎藤が総督に再任すると制度改正が検討され、翌年一二月に第二次改革が公布された。この間の事情−総督府は「朝鮮議会」も検討したという−は、先行研究も有りここでは触れないが(21)、結論から言えば、朝鮮議会は見送るが、府協議会・指定面評議会を議決機関に、道評議会を公選制(選挙権は各議員のみ)議決機関に拡充するものであった。
  第二次改革について、イギリス(ホワイト)は改革前から注目しており、第一次改革で実現した諮問機関は意外に影響力を持つが限定的な権限しか与えられていない。納税制限も問題である(条件を緩和するか、朝鮮人が金持ちになるしかないと皮肉っている)。そして第二次改革は評価できるが、現状を大きく変えるものでもないとする。というのも朝鮮地方制度は行政権優位の日本のそれを踏襲したものと考えられるためである(22)。なお一九三一年第二次改革施行については事実紹介(ロイド)に止まっている(23)。一方、アメリカはデイビスが報告をまとめており、改革は「成果」といえるが、納税制限で大半の朝鮮人の政治参加を閉ざしたため朝鮮人の感情とは隔りがある。とはいえ今回の改革は朝鮮人の「自治の実験」であり、改革の将来は制度を上手に行使し得る朝鮮人の能力と朝鮮人の活動を許容する日本の度量にかかっているとしている(24)。

二  朝鮮国内の諸状況
  @  朝鮮在留英米人との関係
  次に、朝鮮状況一般に関する報告に入るが、その前に朝鮮在留英米人と総督府の関係について触れておく。在留英米人と総督府の関係は三・一運動で険悪なものとなり、斎藤就任直後もその「余波」、即ち「アペンゼラー事件(三・一運動一周年の学校デモによるミッション系校長解任(25))」「ショー事件(独立運動援助容疑による在中国イギリス人逮捕(26))」の発生があった。しかし両事件が解決(アペンゼラーの校長復帰、ショーの釈放)すると、在留英米人と総督府の関係は良好なものへ変化した。イギリス報告では一九二一年頃から総督府の「誠意ある対応」により「明白な変化」=関係が良好になったとしている(27)。そして多数の反日的宣教師が方針転換したことや特に斎藤は宣教師に好意的であることなど、両者の良好な関係はその後も続くことになる(28)。なお一九二五年朝鮮神宮鎮座式出席を教会側が拒否し総督府が譲歩した事件がその例として英米報告の中で触れられている(29)。ただ総督府との関係とは「反比例」するように朝鮮人の反欧米感情が表面化した(一九二三年報告(30))。イギリス報告ではまず一九二四年(「反英米」が目的ではないが)領事館爆破未遂が発生した(31)。次いで二六年はアメリカ人宣教師暴行事件や救世軍内の朝鮮人信者除名事件(32)、二九年はイギリスの協力による独立運動家呂運亭逮捕に対する朝鮮人の反発を紹介している(33)。要するに、親日的になった英米に対する朝鮮人の失望が反外国感情を促したといえよう。
  A  朝鮮国内についての報告
  「文化政治」期の朝鮮の諸状況に関する英米報告は広範にわたっており、全てを紹介するのは到底無理である。ここでは幾つかのポイントに絞って整理することにしたい。

1  相対的安定
  まず英米共に朝鮮は安定の方向に向かっていると認識していた。まずイギリス報告によると「不穏な状況が続いた」朝鮮も「目立った出来事の無い」状況になり、斎藤総督の下「穏健な統治」が進行していることが二〇年代を通じ指摘されている(34)。一方アメリカの場合朝鮮情勢に関する報告自体一九二一年以降激減している。三・一運動時は大量の報告を打電した事を考えると、この事からもアメリカが朝鮮情勢を「安定」と認識した根拠になるといえる。なお一九二五年治安維持法適用に合わせ作成したミラー報告では、「改革」の結果平和が国境を除き達成され、争点が政治から経済・社会にシフトしたとしている(35)。
  しかし、これら状況の安定は相対的なものに止まっていると英米側はみていた。即ち、国内の安定は多くの朝鮮人が「外国による独立回復の可能性が消え、日本統治以外に選択984cが無くなったことからの諦め(36)」や「直接行動で独立回復は得られないと理解した(37)」ためであり「独立を求める感情、日本に対する感情に大きな変化はなかった(38)」のである。
  それでも、一連の「改革」で総督府が一部朝鮮人を取り込むのに成果をあげたのも事実であった。その点、イギリス報告では一九二四、二五年「親日派」の動向(39)や一九二九年地方制度に対する朝鮮人有権者の関心の高まりを紹介している(40)。また併合後十年以上経ち、日本支配しか知らない若い世代と古い慣習に固執する旧世代との対立が現れたが(一九二八年報告(41))、これは「一枚岩」と見られた朝鮮人内部で「民族分裂」傾向が生じた一例であり、日本にとって支配を維持するのに有利な状況になったことを意味した。
  なお朝鮮総督府発行の『朝鮮』には、この時期多くの外国人論評を紹介しているが(42)、欧米でも朝鮮支配についての論評が現れている。例えば一九二四年『フォーリン・アフェアーズ』にミシガン大学教授ヘーズン(R. Haydon)が「朝鮮と台湾における日本の新施政」を発表し(43)、またアイルランド(A. Ireland)が一九二六年『新しい朝鮮』を著したが(44)、両者とも、日本統治、特に「文化政治」を「フィリピン統治に引けを足らない(ヘーズン)」「李朝より遥かに成果を挙げた(アイルランド)」統治と主張していた。

2 「社会不安」・「危険思想」
  三・一運動以来の「社会不安」は「文化政治」になっても存続し、イギリス報告では、度々事例紹介をしている。一九二〇−二六年の事例を簡単にみると以下の通りである。
一九二〇年「社会不安継続、法律違反者・容疑者検挙は年中。三月独立運動一周年により各地で示威行動。学生ストは六、十月発生。八月平壌総督府施設と新義州鉄道ホテルに爆弾。アメリカ議員団の朝鮮訪問中、議員に面会を求めた朝鮮人と当局の衝突。九月元山で陰謀発覚(45)」
一九二一年「社会不安は相対的に沈静化。九月釜山で爆弾。六月ボルシェビキの陰謀発覚。十月ソウルでカリキュラム改善要求の学生スト(46)」
一九二二年「学生スト(主にカリキュラム上の問題)がたびたび発生(47)」
一九二三年「一月義烈団の爆弾テロが発生。学生ストは減少。中国人労働者問題(48)」
一九二四年「義烈団による事件、十一月ソウルで独立運動派の陰謀発覚。領事館爆破未遂。主な学生ストは二つ。ウラジオストックや臨時政府の動き(49)」
一九二五年「臨時政府の動き、「三・一」前後とメーデーにおける一斉検挙。共産主義者事件。幾つかの学生スト。二月ソウル、三月平壌で労働スト(50)」
一九二六年「六月前皇帝葬儀での小規模衝突。十二月義烈団の銀行爆破事件(51)」
  全体に、「直接行動」の数が減り未然の摘発・検挙など警察の活動が巧妙になったことが窺える。ほぼ毎年発生していた学生ストはミッション系でも多発したが、(1)抗日運動としての性格と(2)学校「改善」要求(設備や「指定学校」の条件である宗教教育廃止)の性格を持っていた。これに対し英米領事は、特に(2)では学校当局の立場に立っており、必ずしも学生に同情的ではなかった(52)。
  一九二九年発生の学生運動に関して、イギリス報告は原因・運動の拡大・警察の動向について紹介している(一九二九、三〇年報告)。そして@運動参加者は学生であるが、単なる学生運動ではなく朝鮮支配への抗議である、A朝鮮全土への運動拡大はこの運動が組織的であることを暗示している、B大規模な運動でありながら死者が出なかったのは日本側の巧妙さにあったとしている(53)。一方アメリカは、一九三〇年東京からの報告があり、内容はほぼイギリスと同様であるが、学生は独立願望と共産主義の影響を受けていること、検挙者は二五〇〇人にのぼり多くの学校が閉校になったと言及している(54)。
  次に学生ストとも大いに関連するが、共産主義とそれに基づく「陰謀」が二〇年代を通じ増加傾向にあり、イギリスも動向に注目していた。「共産主義」は一九二一年報告で登場したが(55)、二四年報告では学生の思想傾向を「独立と親ボルシェビキに分けられ、両者は反日で結束している(56)」と見ていた。そして二八年報告では、総督府のいう「危険思想」が、教育・経済と共に「三大問題」と見なされ、共産主義拡大の要因(アメリカへの失望、ソ連の宣伝、経済問題)や若年層への浸透、「陰謀」が紹介されている(57)。
  一方、アメリカの報告は、特に一九二〇年以降断片的なものしかない。ただ先述の一九二五年報告では、共産主義拡大について「経済的貧困が原因であり、朝鮮人が本当に共産主義を理解しているとは思えない(58)」とし、三年後の報告では「朝鮮は表面上平和だが、経済的貧困から「不穏思想」が広まっている(59)」と指摘していた。

3 経済不況
  「共産主義」拡大の要因として挙げられた、経済問題について。まずイギリスは、一九二八年報告で経済問題を「三大問題」の一つとして重視し、特に小作人について、総督府の改善策にもかかわらず小作人は苦境が続いているとしている(60)。二九、三〇年報告では、日本人の富の集中、世界恐慌下の不況にも触れている(61)。一方、アメリカは前述の報告で「朝鮮人の多くは生計を立てるのにあくせくしている」「経済困難のため故郷を捨てようとする農民もいる(62)」と触れているが、ミラーは一九二九年農民に関する報告をまとめている。内容はこれ迄の報告と類似しているが、ただ大半が小作人である農民貧困の要因として、過去の世代の「遺産」、そのような状況に長年馴染んだ無気力、近年朝鮮でも発生した経済状況、世界的不況を挙げている。ただし、総督府の対応については経済困難に対する改善策=「努力」面のみを強調している(63)。

4  「同化(assimilation)」について
  総督府が標榜する「同化」についてこの時期の報告は余り触れていない。ただ、特にイギリスは「同化」には懐疑的であった。レイは識字率や日本・朝鮮人間の婚姻数から「日本は「同化」に固執しているが、成果は殆ど挙がってない(64)」としていた。またホワイトは、一九二八年報告で「理論上は朝鮮人が高官に占める割合が高いはずだが実際は異なる。また理論上は言論・出版の自由があるはずだが実際は厳しい検閲下にある(65)」と述べ、又二年後には、朝鮮は長い歴史を持ち慣習も日本と異なるが故に朝鮮が完全に日本の一部になることはないのではないかとする松田拓相発言に注目し、「同化」は日本にとっても建前に過ぎないのでないかと指摘している(66)。以上のように、特にホワイトは「同化」を疑問視していたが、その特徴は「権利の平等」は認めずに文化の強要のみが進められがちであること、また(彼の言う)「同化」ならあり得ない朝鮮人への差別に対する批判にあった。

5 間島・北部国境情勢
  朝鮮と満州の国境である間島は朝鮮・中国間の係争地であったが、国境紛争については一九〇九年の間島条約で一応決着していた。しかし日本の朝鮮支配確立と共に、間島は朝鮮国内から逃れてきた抗日朝鮮人の拠点となった。これに対し総督府は間島を特別地帯として多数の警察を駐留させ、朝鮮人への大弾圧を行った。故に、イギリスは間島を「無法地帯」と見なして(67)、年次報告でほぼ毎年国境情勢について紹介している。ここで詳細に検討する余裕はないが、報告の内容は、日本の弾圧、朝鮮人の動向、中国側動向に整理でき、特に日本の弾圧と朝鮮側の抵抗は詳しく紹介され、間島が極めて危険であることを強調している(68)。一方アメリカは、一九二八年報告で朝鮮の深刻な問題として国境情勢を取りあげていた(69)。
  結局、度重なる弾圧にもかかわらず抗日朝鮮人は根絶できなかった。日本にとり国境地帯の政情不安は、朝鮮支配の安定化や満州の日本利権にも障害になると見なされた。故に三〇年代に日本が満州侵略に走った背景の一つとして国境地帯の政情不安を挙げることができよう。


三  斎藤総督への評価
  最後に斎藤に対する評価を簡単にみていくが、これ迄の報告からも大凡明らかなように英米の評価は大変高い。まず領事の批評を挙げるとミラーは「斎藤は賢明でリベラルな統治」を行ったといい(70)、「同化」に批判的なホワイトも「斎藤が総督に再任されたことは朝鮮にとって幸運なこと(71)」と述べている。さらに三・一運動の目撃者であるロイドも斎藤の統治を「寛大で穏健」と評していた(72)。確かに、斎藤による宣教師との関係改善や諸改革は、これ迄の報告から推測するに英米とも概ね評価していたといえる。また斎藤自身アメリカ滞在の経験を持ち、英米との関係を重視していた。その「成果」もあってか、斎藤は個人的にも信用され、それはたとえ朝鮮を巡る様々な問題が発生しても変わらなかったのであった。
  一九三一年六月、斎藤は高齢と病気等を理由に総督を辞任したが、これに対しアメリカのデイビスは、斎藤引退は残念なことである。彼の統治は効率の良さと朝鮮人の幸福に配慮したものであり、改革は朝鮮発展に寄与するものであったと辞任を惜しんでいる(73)。斎藤はその後五・一五事件直後の「挙国一致内閣」の首相にもなった(一九三二−三四年)が、一九三六年二・二六事件で青年将校の凶弾に倒れた。なお二月二五日斎藤は駐日米国大使グルー(J.C. Grew)の晩餐に招かれ暗殺される数時間前まで団欒の一時を送った。グルーは斎藤について次のように述べている「(彼は)好戦的争闘の時代にあって偉大な叡知と広い自由主義的な意見を持っていた(中略)私は彼が朝鮮の学校問題(神社参拝問題を指す\引用者)解決に影響力を行使することが出来ればいいと思っていた(中略)斎藤子爵は常に米国の宣教師を支持していた(74)」。

(1)  「文化政治」全般をテーマにした著作・論文については、中塚明「日本帝国主義と朝鮮」(『日本史研究』八三号、一九六六年)、姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、一九七九年)、糟谷憲一「朝鮮総督府の文化政治」(『岩波講座  近代日本と植民地』二、岩波書店、一九九二年)等を参照。
(2)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 277. Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, April 6, 1920, 895. 13, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 5.
(3)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 273.
(4)  Consul General, Seoul(J.K. Davis),”Extension in the system of local self−government in Chosen and its significance, July 30, 1931, 895. 01/31. Internal Affairs, Korea 1930-1939, Reel. 1.
(5)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 277, 311, 411, 523-524. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 109-110, 126-129.
(6)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 411.
(7)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 276-277, 309, 413-414, 518-522.
(8)  Ibid, pp. 414, 521-523.
(9)  Ibid, p. 522.
(10)  韓国基督教歴史研究所編『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版社、一九九五年)八七ー九二頁。
(11)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, December 18, 1919, 895. 42/22. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(12)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State. April 14. 1922, 895. 42/29. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(13)  Consul General, Seoul (R.S. Miller),”Education in Chosen (Korea), December. 14, 1923, 895. 42/31. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(14)  L. Cromer, Modern Egypt, VoL. 2 (London, 1908). クローマーについては木畑洋一「英国と日本の植民地統治」(『岩波講座  近代日本と植民地』一  岩波書店、一九九二年)二七九ー二八一頁にも紹介されている。
(15)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 130, 180.
(16)  Ibid, pp. 450, 452.
(17)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 276.
(18)  Consul General, Seoul (R, S. Miller) to Secretary of State, December 3, 1920, 895. 00/688, 並びに、Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, November 22, 1923, 895. 00/700. 何れも Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3. 収録。
(19)  『京城日報』一九二五年十一月二六ー二八日。
(20)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, December 18, 1925, 895. 01/22. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 4.
(21)  姜東鎮、前掲書、三七九ー三九五頁、駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、一九九六年)二一四ー二一八頁など参照。
(22)  Annual Report Korea 1924-1939 pp. 465-467, 476-477.
(23)  Ibid, pp. 489-490.
(24)  前掲(4)デイビスのレポート(895. 01/31)参照。
(25)  FRUS, 1920, Vol. III, pp. 44-48.
(26)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 280, 281, 314.
(27)  Ibid, pp. 277-278, 313-314.
(28)  Ibid, pp. 314, 411, 412, 525-527. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 120, 175-176.
(29)  Ibid, pp. 163-164. Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, October 19, 1925, 895. 413, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(30)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 527
(31)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 118-119.
(32)  Ibid, pp. 299-302.
(33)  Ibid, pp. 471-472.
(34)  一九二二年報告で「平穏」とみている。Annual Report Korea 1906-1923, p. 409.
(35)  Consul General, Seoul (R. S, Miller)”Political and social conditions and organizations in Chosen.−The Public Safety Act, May 25, 1925, 895. 00/705 Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3.
(36)  Annual Report 1906-1923, p. 409.
(37)  Ibid, pp. 311-312, 510-511. 前掲(35)のミラー報告(895. 00/705)参照。
(38)  Ibid, pp. 311-312, 409, 507-509. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 111-112, 172.
(39)  Ibid, pp. 120, 173-174.
(40)  Ibid, pp. 465-466.
(41)  Ibid, p. 450.
(42)  なお朝鮮総督府調査資料『外人の観たる最近の朝鮮』(一九三二年)はこれら「親日的」論評を集めた本であるが、中にはブルンナーの農村調査(S. Brunner, Rural Korea)のような実証研究も含まれる。
(43)  R. Haydon,”Japan’s New Policy in Korea and Formosa. Foreign Affairs 2 (1924) pp. 474-487.
(44)  A. Ireland, The New Korea. (New York, 1926)
(45)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 279-280.
(46)  Ibid, pp. 309, 311-312, 314-315.
(47)  Ibid, pp. 413-415.
(48)  Ibid, pp. 510-511, 522, 532-533.
(49)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 111-112, 115-119.
(50)  Ibid, pp. 168-170, 178-179. 181-183.
(51)  Ibid, pp. 297-298.
(52)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 414-415. Ibid, p. 247.
(53)  Ibid, pp. 460-461,468-470, 476, 479-480.
(54)  ただしこの報告によると、ソウル領事館からステファン副領事報告が打電されたことが確認できる。Embassy, Tokyo (W.R. Castle) to Secretary of State, January 27, 1930, 895. 00B/2, Internal Affairs of Korea 1930-1939, Reel. 1.
(55)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 312.
(56)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 110.
(57)  Ibid, pp. 453-455.
(58)  前掲(35)のミラー報告(895. 00/705)参照。
(59)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, June 8, 1928, 895. 00/711, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Rell. 3.
(60)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 450-451
(61)  Ibid, pp. 467-468. 478-479.
(62)  前掲(35)ミラー報告(895. 00/705)並びに前掲(59)のミラー報告(895. 00/711)
(63)  Consul General, Seoul (R.S. Miller),”The Farmers and farm lands of Chosen (Korea) in 1928, September 7, 1929, 895. 61/5, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 8.
(64)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 235.
(65)  Ibid, p. 451.
(66)  Ibid, pp. 477-478.
(67)  Ibid, p. 482.
(68)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 280, 312, 313, 410, 511. Annual Report Korea 1924-39, pp. 108, 109, 162, 163, 457.
(69)  前掲(59)のミラー報告(895. 00/711)。
(70)  前掲(13)のミラー報告(895. 42/31)。
(71)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 462.
(72)  Ibid, p. 498.
(73)  Consul General, Seoul (J.K. Davis) to Secretary of State, June 20, 1931, 895. 001/19, Internal Affairs of Korea 1930-1939, Reel. 1.
(74)  ジョゼフ・グルー[石川欣一訳]『滞日十年』(毎日新聞社、一九五八年)二二七ー二三一頁。