立命館法学  一九九九年五号(二六七号)


◇資  料◇
韓国労働法の形成と展開
−政治および労働運動に関連して−

朴         洪    圭



は じ め に


  労働運動と政治、および法との関係についてはよく、西欧では労働者階級が社会的に認められ、労働条件や生活水準を向上させるという、政治的および経済的闘争の産物として法が発展したのに反し、韓国では逆に立法が先行して後から労働者勢力が成長したと言われる(1)。しかしこのような見解は誤りである。西欧において必ずそうであったかについても疑問であり、特に韓国の場合、労働者勢力は日本帝国主義(日帝)時代以前から今まで自生的に発生して成長しており、国家は法を通して労働運動を奨励することはおろか、常に労働運動を阻止して労働組合を政治的領域から排除し、労働組合が企業と対等な権利を持つことを妨げてばかりいた。
  この小論では、このような観点から韓国労働法の歴史を四段階に時代区分して考察する。その最初は、国家統制的労働法基盤の形成期として日本帝国主義時代と米軍政期、すなわち一九一〇年から一九四八年までである。二番目は、国家統制的労働法が成立した第一−三共和国期の一九四八年から一九七〇年までである。三番目は、国家統制的労働法がさらに強化される第四−五共和国時期の一九七一年から一九八七年までである。四番目は一九八八年以後現在までであり、国家統制的労働法の弛緩期だといえる。
  ここで注意すべき点は、韓国では労働問題が憲法を頂点とする労働法体系によってのみ解決されえないという点である。すなわち労働問題を規制する別途の治安法体系があるだけでなく、法領域外における労働問題に関しては、強大な治安関係国家機構とその活動が存在する。特に後者の場合、日本帝国主義時代における特高などの警察や、第三共和国以後の中央情報部をはじめとする国家保安機構が労働問題に広範に関与してきた。したがって、この点を無視して法規の変化のみにより韓国の労働問題を考察することはできないが、この小論ではそのような点についての考察は省略する。

T  国家統制的な労働法基盤の形成
−日帝(日本帝国主義)時代(一九一〇−四五)と米軍占領期(一九四五−四八)


(1)  日帝下、労働に関する法体系
  A  日帝下、雇用法と勤労条件法の不在と警察による国家統制
  日帝下、労働問題は民法の雇用契約と、それに関する紛争を解決するための民事訴訟法で解決するものと想定されたが、民事法の虚構的な前提の下に、使用者が一方的に決めた就労規則が実際の勤労条件を決定する規範として機能した。その他に日帝は勤労者の雇用や勤労条件に関する法をほとんど制定しなかった。また。日本で適用される雇用法や勤労条件法が朝鮮では一切適用されなかったし、国家が警察を通じて雇用を統制した。このような雇用法と勤労条件法の不在は国家統制的労働団体法とともに韓国の労働法の基盤を作った。
  B  日帝下、労働団体に対する国家統制
  朝鮮の労働運動は日帝以前から現われ、日帝時期に持続的に展開した。とくに、日帝下の弾圧にもかかわらず、根強く成長した(2)。それは、個別事業所における労働組合設立以前(したがって、団体交渉以前)の争議行為として現われ、すでに設立された全国、または地域別労働組合(3)の支援を受けた。そして、それはいつも企業による解雇と警察の弾圧によって失敗したが、地域の警察と労働組合、または商業会議所などの調停で解決した。
  (A) 労働団体に対する治安警察的規制
  労働団体を禁止した刑事裁判規範としては日本と共通した刑法、治安維持法、暴力行為処罰法など朝鮮にも適用されたが、団結を放任した治安警察法(4)は日本にだけ適用され、それが廃止された後、制定された労働争議調停法も朝鮮では実施されなかった。したがって、朝鮮では量刑が過多な刑法や朝鮮特有の保安法の抽象的な要件によって労働団体と労働運動が、さらに厳しく規制され、警察が常に強制的調停を行った。朝鮮では保安法のように、日本にはなかった朝鮮特有の刑事行政規範が労働問題に適用された。すなわち保安法(大韓帝国法  一九〇六)、政治屋外集会禁止令(一九一〇)、犯罪即決令(一九一〇)、集会取り締まりに関する件(一九一〇)、民事訴訟調停令(一九一〇)、警察犯処罰規則(一九一二)、笞刑令(一九一九廃止)などを通じて、警察が争議行為に直接介入し、体刑と罰金を課した。
  植民地全期間を通して、労働団体に対する政策は治安の次元で警察によって遂行された。これは解放後、現在までも同じである。したがって労働団体に対する法規制は刑法と保安法などの治安法規によった(5)。また、治安維持法(一九二五)は社会主義鎮圧法であり、労働運動を直接規制対象とするものではなかったが、朝鮮においては、いわゆる「赤色労働組合」事件だけでなく、大部分の労働団体に適用された。その後、「朝鮮思想犯保護観察令」(一九三六)、「朝鮮思想犯予防拘禁令」、「朝鮮臨時保安令」(一九四一)なども制定された。このような社会主義弾圧法は解放後、韓国において日帝の法より更に厳格に規定・適用された国家保安法体刑により今日まで続いている。日帝下における労働に対する厳格な統制は解放後、日本においては終息したが、韓国においては日帝の警察、軍隊組織の持続によって、かえって強化された。
  (B)  日帝下、労使協調体制の強要
  日帝は一九三〇年代に、家族主義的労使協調体制を強要し、国家統制下で労働現場を封建的な体制に維持しようと画策した。これは維新時代に工場セマウル運動を経て、今日、労使協議会体制として残存している。日帝の労働政策の中で現代韓国にもっとも根深く残っている制度の一つが、労使協議会制度だと言えよう。労働組合を弾圧するかわりに、強要された労使協議制度は労働組合を弾圧する労働団体法とともに韓国労働法の中心になってきた。

(2)  米軍政期の労働法(一九四五−一九四八)
A  労働運動に対する米軍政の統制(6)
  一九四五年八月一五日、日本の敗北の後、一九四八年八月一五日、大韓民国政府が樹立されるまで韓国は米軍に支配された。占領期間に米国は韓国に資本主義経済体制を確立し、米国の利益に最も適した支配体制を打ち立てようとした。それは、日帝からの民主的解放ではなくソ連を牽制するために、資本主義の基地を樹立するという戦略的目的にしたがって展開した。したがって、親米的右翼勢力を除いては、政治的自由が認められなかったし、反米的左翼労働運動も政治的弾圧の対象になった。したがって、労働運動に対する弾圧は日帝のそれを軌を一にしていた。
  解放直後、極度に悪化した経済状況下で労働者の闘争は生存権の確保のための自主管理運動、解散手当て闘争、失業者闘争などとして現れた。自主管理運動はいかなる組織の指令によるものではなく、自然発生的に展開された点に特徴があったが、一九四五年一〇月三一日に米軍政法令第一九条によって、公式的に否定された。その後、勤労者たちは一九四五年一一月五、六日に朝鮮労働組合全国評議会(全評)を組織し、その主導下に、さらに積極的な労働運動を展開した。
  B 米軍政期に雇用法の不在と勤労条件法の部分制定
  米軍政は労働者たちの要求にも拘わらず、最初の一年間は雇用保障、および勤労条件に関する法をほとんど制定しなかった。その後、一九四六年の九月ストの時に北朝鮮(7)のような民主主義的な労働法令の制定が主張されると、ようやく米軍政は一九四六年九月二〇日、法令第一一二号で「児童労働法規」を公布し、それは一九四七年五月一六日、法律第一四号「未成年者労働保護法」へと修正された(8)。続いて米軍政は、一九四六年一一月七日、最高勤労時間に関する法令第一二一号で一週四八時間制と五〇%の加算賃金を規定したが、労働部長は非常事態時にその適用を停止することができたし、児童労働法とともに実際にはほとんど適用されなかった。
  C  米軍政期の国家統制的労働団体法
  米軍政は日帝時代の弾圧法規を廃止して労働組合の自由を宣言したが(法令一一号、一九四五・一〇・九)、弾圧法は持続したし、労働の保護と言う美名の下に団体行動の抑圧および、強制調停制度(法令一九号第二条、一九四五・一〇・三〇)を実施した。まもなく公益事業において争議行為が発生すれば米軍政庁が別途に設置した労働調停委員会が解決するまで作業が継続しなければならず、同委員会の決定は最終的なものであり、拘束的なものと規定された。しかし、非公益事業の場合にも争議行為は自由に認められなかった。解放以後、一年間、一二九〇件のストが発生し、二六万七千名が参加し、二三三一名が解雇され、一〇九〇名が検挙された。
  米軍政は一九四六年七月二三日、法令第七九号を公布し、「民主主義的労働組合」の発展を奨励し、自主的な労働組合の組織権を認めるとした(9)。しかし、それは「政治運動をする団体や、その連合」を排除するものであり(一九四六・一二・九 通牒)、当時の全評を労働組合として認めないことを意味した。
  全評の非法化によって全評は従来のスト回避指令を撤回し、一九四六年九月二三日ー三〇日の間に九月ゼネストを繰り広げた。その要求事項の中で、失業者救済と勤労条件の改善、および結社の自由保障が最も重要なものであった。それは、一〇月一日から一一月まで一〇〇万人以上参加した一〇月暴動に続いていったが、二〇〇人以上の警察死亡、一〇〇名以上の官吏と民間人死亡、三万名以上の勤労者・農民の検挙で幕を下ろした。その後、一九四六年三月一〇日、結成された「大韓独立促成労働総同盟」が唯一の民主主義的労働組合として立ち現われることになった。全評が排除された後の一九四七年九月現在の単位労働組合の数は二六二、組合員数は四六、七四〇名に過ぎなかった。
 D  米軍政期の労働法と労働運動の評価
  米軍政は全評の主導の下での九月スト以後の一九四六年一〇月になって初めて、日帝が制定した政治犯処罰法である治安維持法、予備検束法などを廃棄した。これを見ても、当時の軍政とそれに従う親日勢力の労働政策の欺瞞性を推し量ることができる。また、米軍政下における雇用法は皆無であり、勤労条件法も極めて極めて未整備なものであった。しかし、労働団体法はその後に現れた労働法に比べて、相対的に相当、自由なものであったと評価することができる。全評の場合を除けば、労働組合の設立は自由であったし、特に、一九四六年の法令第九七号以後、複数労組が設立され、アメリカ式の交渉代表選挙が行われもした。しかし、その結果、締結された団体協約は政府樹立時まで、二つの企業に過ぎなかった。
 E  米軍政期労働法の韓日比較
  このような米軍政の労働弾圧政策は、同時期の日本で米軍政がアメリカ労働法を強制的に移植し、労働民主化を遂げたのとは対照的であった(10)。日本の労働民主化は一九四五年末に成立した労働法として現れた。それは、労働組合設立の自由、団体協約権、および団体行動権を保障し、労働組合運動を爆発的に発展させる契機になった。その結果、一九四六年前半期、六ヶ月間で全体労働者の約三〇%に当る三三〇万名が組織化され、一九四六年末には、約五〇%が組織化された。労働組合数も一九四五年一一月の七五が一年後には一六一七一に急増した。続いて、一九四六年九月に労働関係調停法が通過した。
  占領軍の労働政策は敗戦直後、最も頻繁に行われた生産管理闘争に現れた。一九四六年一月から五月まで、約一四万名がその闘争に参加したのだが、それは同期間の争議行為の約六七%に該当した。日本政府は、これを私有財産権の侵害であると非難したが、米軍政は団体行動権の行使として正当なものとみなした。しかし、労働運動が政治闘争化し、米軍政に打撃を与えるようになると、一九四七年一月、米軍政はこれを禁止し、共産主義系列の労働組合を弾圧する政策へと転換した。続いて、一九四八年、政令〇一号を宣布し、国家公務員法を改定し公務員の団体交渉権と団体行動権を剥奪し、公共企業体労働関係法を制定し、公共企業体の勤労者には団結権だけを認めた。このような変化は戦後、アメリカの保守化による一九四七年にタフト・ハートレー法と国家保安法の成立、および反共政策の強化に従うものでもあった。また、一九四九年の中国革命の成功の影響でもあった。しかし、このような変化は、すでに根を下ろした日本の労働運動にそれほど大きな影響を及ぼすことはできなかった。
  解放直後の韓国と日本の労働運動を比較してみると、韓国のほうがはるかに進歩的だったといえよう。例えば、生産管理運動が韓国の場合、一九四五年一一月ころに本格化するが、日本帝国主義の場合、そのころに始まった。また、当時、すでに韓国では全評が組織されたが、日本の総同盟は一九四六年一月、産別会議は八月になって組織された。しかし、韓国の民主的な労働運動は日本に比べて、さらに激しい弾圧を受け、挫折せざるを得なかった。日本では一九四九になって初めて行われる反労働組合政策が、韓国では解放直後、三ヶ月で行われ、三年後、全評はほとんど完全に瓦解した。これを図表で見れば次のようである。

U 韓国労働法構造の形成

−第一ー三共和国(一九四五ー一九七〇)

(1)  第一、二共和国(一九五〇年代)の労働法令: 国家統制的労働法の形式的成立
A  第一共和国憲法と違憲的法律の制定
  一九四八年五月一〇日の総選挙によって制憲国会が構成され、憲法起草委員会が憲法制定に着手した。第一共和国憲法は第一七条で勤労の権利と義務、勤労条件基準の法定、女子と少年の勤労の関する保護を規定し、第一八条は法律留保はあるが、労働団体権の保障と私企業における利益分配均沾権を、そして第一九条は労働能力の喪失により生活維持の能力の無き者は法律により国家の保護を受けると規定した。このような労働基本権の規定は韓国歴史上初めてのことであった。
 第一共和国憲法第一八条は法律の範囲に中で労働団体権を保障した。同第二八条は、その法律の制定は秩序維持と公共の福利のために必要な場合に限ると規定した。労働団体権が法律留保の形態で規定された点には、日帝憲法式の残滓が残ったものと評価できるが、利益分配均沾権が規定されたのは生産管理運動をした当時の勤労者の意志がある程度反映されたものと言うことができよう。その後、如何なる法律の制定もなされず、死文化した。
  憲法制定と同時に、一九四八年一二月一九日、国家保安法が公布され、一九四九年一二月までの一年間、総起訴件数一〇万件のうちの八割が同法違反で処罰された。特に、全評に加入した労働組合員は、それだけで国家保安法に違反した(11)。このような労働運動を国家保安法により処罰する政策は日帝から始まったものであり、その後、労働政策の基本になってきた。
  また、一九四九年八月一二日に公布された公務員法は公務以外の集団的行動を禁止し、政治行動は勿論、労働団体権が否定された。これは、地方公務員の場合も同じように解釈された。国家公務員法は単純労務従事の公務員と教師には適用されないと規定されたが、公務員の場合、団体行動権は否定され、教師も教育公務員法によって、教育公務員は勿論、私立学校教員にも労働団体権は認められなかった。このような政策は現在までも不変である。

 B  第一共和国労働法
  (A) 第一共和国労働法の制定経過一九四八年八月一五日、大韓民国の政府樹立と共に、憲法による労働法制定が論議され始まったが、政府の態度は消極的であったし、それすらも朝鮮戦争によって中断した。しかし、戦争が終了する前に、李承晩の再選のための改憲が行われた後の一九五三年、大統領直接選挙で勤労者の票を集める手段の一つとして、労働法が避難地であった釜山で急造された。したがって、勤労条件法が先に制定される外国とは異なり韓国では労働争議調停法(以下、労争法とする)、労働組合法(以下、労組法とする)、労委員法(以下、労委法とする)が一九五三年三月八日、制定され、同年五月一〇日、勤労基準法(以下、勤基法とする)が制定された。
  (B) 第一共和国労働法と日本の労働法四つの労働法は基本的に、当時の日本の労働法を模倣したものであったが、日本のものよりは国家統制が更に強いものであった。しかし、その後、韓国の労働法と比較するとき、それははるかに民主的なものと評価される。特に、労働組合の自由設立主義が認められたが、その後、それは国家による許可主義に変わっていった。また、労働争議の調停制度において、韓国のものは日本の法に比べて、初めからはるかに強い国家統制、特に、行政府の介入を許容するものであった。例えば、日本の法は労働委員会による手続きであったが、韓国の法は斡旋から、行政機関によって処理されるものであった。
  (C)  第一共和国勤労条件法の構造
  勤労条件法の基本法である勤基法は一九五三年制定以来、九次にわたって改定されたが、その骨格はそのままである。したがって労組法と労委法が一九六三年、全面改定されたのに比べ、総体的に制定以来の同一性がそのまま維持されているといえる。これは一九五三年以来、勤基法に対する政権の利害関係が大きくなかったことを示している。その内容は日本の労働基準法を模倣したものである。
  まず、日帝民法の雇用契約という規定が無意味なものであるので、一九五三年の勤基法に勤労契約という新しい概念が登場し、それに対する公法的な規制が強まったのは当然である。しかし、勤労契約が勤基法に規定されているにもかかわらず、雇用契約は、一九五八年に制定された新民法に再び規定された。このような規定方式は、次に見る労働団体法の場合にも同じである。これは労働法を日帝下に強要された民・刑法の特別法と見ることを意味する。このような思考方式は現在までも韓国の労働行政と労働司法を支配している。
  勤労契約に対する公法的な規制として勤基法は解雇などを正当な理由がある場合にだけ認めており、解雇手当として三〇日分の平均賃金を支給し、勤続年数が二年以上であれば、毎年、三〇日分を、一〇年以上であれば、毎年六〇日分を積み立てて、支給するようにした点で日本の法と異なった。すなわち、解雇の自由を制限した点において日本より進歩的ではあったが、退職金を強制した点では後進的であった。また、最低賃金制は規定されたが、一九八六年まで実施されなかった。そして、一週八時間制と一二時間の延長、月次有給休暇および年次有給休暇、女性の生理休暇および産前・産後の休暇を認めたが、国際的に見ると極めて後進的であった。使用者が一方的に決める就業規則に対して、勤労契約が規範的効力を持つようにした。しかし、事実上、勤労契約はほとんど存在せず、就業規則が勤労契約の内容を決定した。
(D)  第一共和国の労働団体法の国家統制的構造
  労働団体法は労組の自由設立と不当労働行為制度を認めた点などにおいてアメリカ法と日本法を模倣したものであったが、その他の国家統制的要素は外国には見られない韓国独自のものであった。
  (A)  労組法の国家統制構造
  a  労組の自由設立労組法は複数労組を当然なものとして前提しており、公務員が勤労者であるという前提の下に、軍人、軍属、警察、刑務官、消防手の団結権だけを認めたが、それも一九四九年に制定された国家公務員法が公務員の労働団体権を全面否定したのと矛盾し、一九六三年の法改定で削除された。労組法は申告時に労働組合が設立されるとし、自由設立主義をとったが、この規定は六三年の法改定で削除され今日に至っている。日本で一九四五年法の申告制を撤廃して、資格審査制を置いたのに比べ後進的ではあるが、韓国現行法の申告畢証の交付による設立という許可主義よりはるかに進歩的であった。労使協議会は一九五三年法には規定が無かったが、一九六三年、法改定で導入され、一九八〇年に労使協議会法が制定された。
  b  政治活動および第三者との連帯労組法は労働組合の政治活動および第三者との連帯を禁じなかった。政治活動の禁止は一九六三年の法改定で、第三者介入禁止は一九八〇年の法改定で導入され、一九九七年の改定の時まで維持された。ただ、一九五三年法でも、政治資金の徴収とその資金の政治的流用を禁じた。これは外国ではまれな規定であり、労組の政治家に対する拒否感をあらわしている。また、労働組合費を賃金の二%と定めたが、これは一九九七年法改定時まで維持された、外国では見られない規定であり、労組活動を制限しようとするものであった。
  c  行政官庁の介入労組法は規約の変更と取り消し、解散命令を規定している。前者は現行法(第二一条)に残っているが、後者は一九八七年に削除された。このような行政官庁の介入は外国ではほとんど見られない。
  d  労働組合の団体交渉権委任認定と団体協約の事業所単位での強制労働法は団体交渉権の委任を認めたが、一九八九年の第三者介入禁止規定によって否認され、一九九七年の法改定により再び部分的に認められるようになった。また労組法は団体協約の締結単位を工場、作業場、その他職場単位として企業別協約を強制した。これは一九六三年の法改定で削除されたが、企業別協約はそのまま維持されている。そして労組法は団体協約に規範的効力が認められている。
  e  不当労働行為制度労組法は使用者の不当労働行為を規定し、同時に労働組合の不法労働行為も禁止していたが、これは一九六三年の法改定で削除された。五三年法においては処罰規定を置いたのだが、一九六三年に現状回復主義に転換し、一九八六に、ふたたび科罰主義が併科された不当労働行為の例外として組合の組織力強化に寄与するものとして導入された。これは一九八〇年の法改正によって廃棄され、八七年法改正で部分的に認められ今日に至っている。
  (B)  労争法の国家統制的構造
  a  公益事業の制限労争法は公益事業を運送、通信、水道、電気、医療などの事業に局限した。これは、一九六三年法改正以後、逓信、専売、造幣、油類、証券取引、銀行などへ拡大された。
  b  単純労務公務員の団体行動権労争法は単純労務公務員の団体行動権を認めたが、一九八〇年ので禁止された。これは一九九三年、大法院で違憲判決がなされ、一九九五年末効力を失い、九七年法で削除された。
  c  冷却期間労争法は冷却期間として、一般企業の場合三週、公益事業は六週とした。これは一九六三年法改定でそれぞれ二〇日、三〇日に変更され、現行法では一〇日、一五日と規定されている。
  d  民・刑事免責労争法はすべての争議行為に起因する損害賠償を禁止したが、判例上、単純労務提供拒否に対しても損害賠償が認められている。また、争議期間中、勤労者は現行犯以外には拘束されないと規定した。
  e  調停手続き労争法は行政官庁の職権斡旋を規定したが、一九九七年法で削除された。また労働委員会による職権調停を規定し、成立した調停は確定判決と同一の効力があると規定した。さらに、当事者の申請、および職権による仲裁を規定し、行政訴訟が提起されない場合、仲裁裁定が確定判決と同一の効力を持つと規定した。一九五三年の労争法は緊急調停を規定していなかったが、六三年法に規定され今日に至っている。
  E  第1共和国の労働法評価
  (A)  水準の評価第一共和国労働法は欧米のものと比べても遜色が無く、当時の現実からすると分に過ぎるほど水準の高いものであるという評価がある(12)。しかし一九五三年当時の先進国労働法令に比べて、決して水準が高いものではなかったし、当時の国際労働法と比べて、格差が大きかった。例えば、勤労条件法においては、なによりも退職金のような国家の社会保障義務を企業に一任したこと、勤労時間と休息を勤労者の権利と認識することができず、企業管理の側面から規定したことなどの問題点を指摘せねばならない。また労働団体法は労働組合を危険視する反共主義的政策判断に根拠を置いて、国家的規制をしようとする国家統制的な立場に立つものと見なさなければならない。従って、それはアメリカのワグナー法ほど「多元主義的」であったという評価(13)も、後者の不当労働行為の継受という一面だけを強調したものに過ぎない。
  (B) 第一共和国労働団体法の特徴
  a  国家の厳格な統制第一共和国憲法上、労働団体権が規定されているが、法律の留保によって制限することができた。しかし、上記の諸項目はそもそも憲法上の法律留保の限界である「秩序維持と公共福利に必要な場合」であるとは言えない。労働団体法は出発から、とてつもなく国家統制的要素を帯びていた。すなわち国家ははじめから団結の内容を法定し、団体の形成、運営、組合費、解散に至るまで徹底して後見人的監督体制を樹立した。これは、基本的に労働団体の自治を無視したものである。国家によって禁止された労働団体は国家の保護を受けることができなかった。すなわち民・刑事免責の正当性を持つことができず、国家公務員法や国家保安法などの厳格な規制を受けた。国家統制は一九六三年、労働団体法の改定以後、ますます強まり、ついに五三年法が認めた複数主義、自由設立主義、公務員労組の禁止、政治活動の禁止、交渉権委任の制限、労使協議会による労働組合の代替、緊急調停の設置などの方向へと向かっていった。
  b  国家統制の派生原理
  (a)  経済目的に限定第一共和国憲法上、労働団体権は経済的地位の向上だけに限定されなかったが、労組法と労争法は経済的地位の向上にその目的を限定した。その後、政治活動の全面禁止へと向かった。
  (b)  企業別組織の強制一九五三年労組法は団体協約の締結単位を企業別に局限した。これは六三年法改定時で削除され、法は産別組織を規定したが、それは労働管理統制のためのものに過ぎず、実際に企業別組織および交渉という形態を無くすことにはならなかった。
  (c)  団体行動の抑制五三年労争法は事実上団体行動を禁止したもので、その後も、継続して強化された。
  (d)  公務員の排除五三年労組法と労争法は相当数の公務員の労働組合結成と一部公務員の団体行動権を保障したが、公務員法などによって事実上は無意味なものであった。六三年法改定で、ますます規制された。
  c  労働運動の実際上述した労働法がまともに適用されたとは考えがたい。勤労基準法の適用はほとんど行なわれなかった。組合の組織率、団体交渉の締結率、争議行為の発生率もおおむね低かった。一九五〇年代の緩やかな成長は労働法のおかげというよりは労働運動の成果だといえよう(14)。特に、当時の李承晩大統領は労働法が制定された二年後の一九五五年七月一五日、談話文を発表しストを全面禁止し、スト参加者は共産主義者とみなすと脅迫した。

(2)  第三共和国(一九六〇年代)の労働法令
  国家の介入による労働統制の実質的設立

A  第三共和国労働法の背景
  一九六〇年四月一九日の学生革命の後に成立した第二共和国において、自由党時代の御用労組に過ぎなかった労総は崩壊し、自主的な労組が多数登場した。その結果一九五〇年代末期に、六〇〇前後であった労組は八〇〇以上に増加し、組合員も二〇万名前後から三〇万名を上回るようになった。また、一年平均、一〇〇件ほどであった争議件数も二〇〇件以上に増加した。しかし、この時期に労働法の変化はなかった。したがって、当時の労働運動の発展は法のお陰を被ったものではなかった。
  一九六一年五月一六日に、軍事クーデタで労組をはじめとするすべての政治・社会団体は政府布告令第六号(六一年五月二一日)により解散させられた。その後、中央情報部は韓国労働組合総連盟を結成し、その下部団体として一二の産別労組を構成したが、それは「勤労者の団体活動に関する臨時措置法」(法令第六七二号、一九六一年八月二〇日)によってその活動を再開した。労働法も政府布告令第六号で、効力が停止された。一九六一年一二月に勤労基準法の制定をはじめに労働法を改定した。続いて一九六二年一二月二六日に制定された第三共和国憲法は、第二八条で勤労の権利を保障する雇用増進の国家義務を規定し、利益均沾権を削除し、第二九条は公務員の労働団体権を制限した。これを軍事政権は「労働政策の重要性を再認識し、労働問題を真摯に扱おうとする態度」をとったと評価する見解がある(15)。しかし、その内容は、そのように評価できるものではない。
  以下に、労働法の展開を概観するが、その後、労働問題に適用された法は労働法以外にも、従来の刑法、国家保安法と公務員法、そして一九六一年と六二年にそれぞれ制定された「暴力行為に関する特別措置法」、および「集会と示威に関する法律」などがあったことに注意せねばならない。これらの法は今日に至っている。
B  第三共和国雇用法の制定
  憲法に雇用増進の国家の義務が規定される前に、一九六一年に職業安定法が制定され、六七年には職業訓練法が制定された。しかしこれらのほうは失業対策のためのものではなく、個別勤労者の労働力の質的な向上を図るものに過ぎなかった。
C  第三共和国勤労条件法の国家統制的改悪
  一九六一年、勤労基準法は改悪された。すなわち、退職金は三〇日分に縮少され、変形勤労時間制、休憩変更の特例が認められた。勤基法違反の罰則が強化された。軍事政権の労働法改定において一貫して現われる罰則強化現象は、一般的な刑罰強化の現象と共に全体主義国家の政策不在の現われである。当時の現実に合った改定であるとする説(16)もあるが、疑問である。
D  第三共和国労働団体法の国家統制的改悪
  労働団体法は更に徹底して改悪された。それは日帝、および米軍政以後の反共主義的立場から労働組合不信を露骨にし、労組を国家の完全な統制下に掌握して争議行為を事実上禁止し、代わりに労使協議会と言う日帝末期の御用機構で代替しようとするものであった。第一共和国の李承晩親日官僚政権の労働政策は少なくとも自由主義的原則なりとも守ろうとするものであったが、日帝の軍人として育った朴正煕の軍事政権は日帝末の全体主義的労働政策への回帰を図った。
  (A) 労組法の国家統制的改悪
  労組法は一九六三年の二次にわたる改定により、米軍政から認められていた複数労組の存立を否定し労組の自由設立主義を許可主義に変え、労組の政治活動を禁止した。このような立法は憲法上の労働団体権の保障を侵害するものであったが、法院や学会は勿論、労働運動界でも違憲の声が上がらなかった。
  まず、第二労組設立のための労組の民主化を徹底的に封鎖し、政府がでっち上げた韓国労総中心の労働統制組織だけを認定したことは、第三共和国以来、一九九七年の法改正まで不変の政策となった。それは、一企業一労組、一産業一労組、全国一労組という軍隊式指揮系統の形式を取るもので、軍事政府が捏造した全国ひとつの労組を軍隊式に統制しようとする思想から作られたものである。産別労組やユニオンショップを認めたのも、このような考え方からだった。御用労組だけを育成するために、従来の申告時に労組を認める設立主義を放棄して、施行令に設立申告書の差し戻し制度を置いて、国家の選別による労組許可制を規定した。
  次に、五三年法が軍人、軍属、警察、刑務官、消防手の労組加入だけを制限しているが、六三年法は事実上すべての公務員の労組加入を禁じた。
  三番目に、労組の政治活動を禁止し、労組が国会議員選挙等、すべての公職選挙に介入することを禁じた。これは五三年法にもなかったことで、六三年法改正以来、今日に至っている。今日にも、選挙法などで禁止されている。
  四番目に労組の臨時総会招集権者の指名権を行政官庁に与え、労組自治への国家の介入を許した。これも六三年法改正以来、今日に至っている。
  五番目に、不当労働行為の処罰を放棄し原状回復主義を規定した。これは使用者の不当労働行為を厳格に規制した五三年法からの明らかな後退である。この規定は、一九七四年の緊急措置令以後、処罰主義を併科するように改定され、五三年法に復帰した。
  最後に、労使協議会の設置を新たに規定した。労使協議会はその後、ますます重用され第五共和国に至って単一法律になった。これは第三共和国以来、現在までの軍事政権が労働組合の代わりに利用したもので、変わりなく維持されてきた。
  (B) 労争法は一九六三年、三回も国家統制的改悪され公益事業の場合を始め争議行為を事実上禁止する水準にまで改悪された。
  まず、公益事業は五三年法で運輸、水道、電気、ガス、公衆衛生、および医療事業などにだけ限定されたが、六三年法改定により、逓信、専売、国家に損益が直接帰属する油類事業、証券取引所、および銀行にまで拡大され、それ以外の事業も国家は公益事業として指定できるようになった。
  次に、争議をする時に産別労組の事前承認と労働委員会の適法審査を受けるようにし、二重の統制が可能であるようにし、労働委員会の斡旋、調停、仲裁裁定と再審に対して団体協約の効力を付与し団体交渉権を侵害し、五三年法に規定された斡旋、調停、仲裁以外に、六三年法に緊急調停制度を新設した。また公益事業の場合、三〇日間の冷却期間(一般は二〇日)、職権による強制仲裁と緊急調停の認定、仲裁回付時の二〇日間の争議行為禁止、緊急調停回付時の三〇日間の争議行為禁止などを規定している。その結果争議行為は産別労組の承認、争議申告、適法判定、冷却期間、斡旋、調停、仲裁裁定などの複雑な手続を経ねばならず、事実上不可能になった。
  E  第三共和国の労働法と労働運動の評価
  第三共和国法制度において雇用保障と勤労条件の保護は期待し難かった。また、労働組織と団体交渉、争議行為は第二共和国においてよりも萎縮した。政府は産別体制に労働組合を下降編成したが、これは西欧式の労組発展のためではなく労働統制のための軍隊式組織編成に由来するものである。これは、一九七〇年代に産別体制による労働統制が問題を引き起こすと、企業別にすぐに切り替えたのを見ても分かる。
  しかし、組合組織率と団体交渉締結率は徐々に上昇した。例えば、繊維産業の場合、一九六二年から七一年に組合員数と団体交渉の締結率が二倍以上に増加した。全体として、一九六三年の労組数が一、八七〇、組合員数二二四、四二〇名、一九六五年には、それぞれ二、二五〇組合と三〇一、五三三名、一九七一年には三、〇六二組合、四九七、〇〇〇名に増加した。六〇年代に、組織率は一二%ほどであった。しかし、争議行為は極度に萎縮し、一九六六年ー一九七一年の争議六七五件(17)のうち争議行為に入ることができたのは六六件だけであった。
  このような変化、例えば団体交渉の増加に、唯一の団体交渉を保障した労組法が重要な役割を果たしたという見解(18)があるが、正確ではない。六〇年代の団体交渉の増加は労働法の影響というより、労組の定着過程で現われたものである。
  したがって例えば、一九六三年の労組法を一九六〇年代の産業発展の水準において見る場合、かなり進歩したものであるとか(19)、一九六〇年代に組織上の自律性をはるかに多く享有しており、一九六三年の労働法は大体において制限的というより、より労働保護的な性格が強かったと見る見解(20)は、誤ったものである。このような見解は、産業発展が低い場合は労働組合に対して法的統制が加えられることを進歩的と見るという、実に間違った前提に立っており、制限と保護という評価を、極めて主観的に考えるからである。

V  国家統制的労働法の本格的展開
−第四ー五共和国

(1)  第四共和国(一九七〇年代)の労働法令
国家介入による労働介入の強化

  A  第四共和国の労働法令の背景
  一九六〇年代の一〇年間、労働運動は法的制限により、賃金引き上げにだけ取り組み、実質賃金は持続的に成長した。争議行為は上で見たようにほとんど無かったが、いくつかの大規模なデモが外資企業を中心に発生し、特に一九七〇年一一月一三日、ソウルの平和市場で裁断師の全泰壱が焼身自殺をして大きな衝撃を与えた。
  一九七〇年代の労働法は、憲法の規定を覆した三選改憲(第三共和国憲法は三選を禁じていた)で、軍事政権が長期執権を目論むにしたがって、全面的な国家統制へと突っ走った。まず、一九七〇年代に入ると、外資企業で労働団体権を事実上剥奪する法が制定された。一九七一年一二月六日、国家非常事態宣言宣布と共に、「国家保衞に関する特別措置法」が施行され、憲法上補償された団体交渉権と団体行動権は禁止された。この法は一〇年間施行され、維新時代と第五共和国初期の労働政策の根幹を成した。
  そしてそれは、一九七二年一〇月一七日にいわゆる一〇月維新が断行されて維新憲法(一九七二・一二・二七)が制定されると、労働団体権の法律留保が規定され(第二九条一項)、また公務員と国家・地方自治団体・国営企業体・公益事業体、または国民経済に重大な影響を及ぼす事業体に従事する事業体の勤労者たちの団体行動権は法律の定めるところにより、これを制限したり、認めないこともできるように規定した(第二九条三項)。一九七三年三月一三日、労働団体法の全面的改定がなされ、さらに明らかな国家統制的性格を持つようになった。
  一九七〇年代の労働団体法は家族主義に根を置く工場セマウル(新しい村)運動や職場予備軍制度と同じく国家統制の極端な現われであった。また、韓国労総は問題支部を指定して、合法的委員長を否定し、臨時委員長を任命する形で国家統制を加えた。特に、中央情報部は、一九六〇年代から、絶え間なく労働組合と争議に介入した(21)
  一方、このような労働団体権の弾圧をごまかすために、雇用法や勤労基準法の若干の技術的な改正があった。これは、オイル・ショックの時に顕著に表れた。
B  第四共和国雇用法の改定
  一九七三年、職業訓練法が改正され、勤労の質を向上させる職業訓練体制をある程度、改善し補完したが、内容は雇用保障とは無関係であった。
C  第四共和国緊急措置と勤労条件法の改定
  オイル・ショック以前には、一九七三年の産業災害法の適用範囲が拡大し、企業主の負担を軽減したこと以外は勤労条件法の改定はなかった。オイル・ショック以後の一九七四年一月四日、「国民生活安定のための大統領緊急措置」第四章で賃金債権の優先的弁済と勤労基準法違反者に対する罰則の強化という形で現われた。しかし賃金債権の優先的弁済は質権、抵当権、公課金に優先できないと規定し、その実効性に疑問があった。罰則の強化について言えば、罰則は六〇年代から引き続き強化されており、労働政策の不在を露わにした強圧策だけを示すものであった。緊急措置は一年で効力が消滅し、七四年、勤労基準法改定時に吸収された。
D  第四共和国勤労団体特別法制定と労働団体法の国家統制的改悪
  (A)  外国人投資企業の労働組合、および労働争議調停に関する臨時特例法大部分の後発資本主義国のように、韓国の経済開発も外国資本の誘致によるものであった。特に、一九六〇年代後半、不良企業問題が表面化し、外資償還など経済危機が押し寄せると、馬山と裡里に輸出自由地域を設立し外資の本格的導入を図った。外国資本は投資の条件として、なによりも労働運動の停止を望んだ。
  一九六八年のオーク電子の韓国からの撤退とシグネックス社の紛糾に労働庁が直接介入し労働組合の解散を警告したことから兆候が現われた。七〇年代にはいって、全世界的に第三世界で同様の法が作られた。これは、当時の中心部資本主義国の要求が共通していたことを示している。韓国においても、一九七〇年一月一日、「外国人投資企業の労働組合および労働争議調停に関する臨時特例法」が制定され、外資企業における労働運動は実質的に禁止された。
  この法は、外国人が一〇万ドル以上投資した電気・電子・化学・油類・製鉄・金属・機械・繊維・窯業・輸送、および鉱山業と、投資額が一〇万ドル以下であっても、製品全部を輸出する事業に適用された。
  このような企業には労働組合設立での特例が認められ、労働争議に強制仲裁が適用され、労争法は適用されなかった。この法は一九八六年五月九日まで、一六年半も存在した。
  (B)  国家保衞に関する特別措置法この法は団体交渉権と団体行動権を行使する場合、まず主務官庁の調停を申請し、その調停に従わねばならないとしており、大統領は国家安保を危うくしたり国家動員に支障を与える勤労者の団体行動権を規制するために特別措置を取ることができると定めている。事実上、団体交渉権と団体行動権を全面否定するものであった。この規定は労働庁の例規にあるが、施行令も無しに例規の形式を取ったものとして法体系の面からも適法性を認めることができないものであったが、七〇年代労働政策の基本法になり、後に労組法改正時にそのまま挿入された。
  (C)  一九七三年の労働団体法の改悪労組法は従来の産別労組体制から、企業・事業所別の労組体制へと転換を試み、労組の組織性と民主性を弱体化させ、使用者の効果的な労組支配を可能にした。このような試みは、労使協議会を定着させようとする政府の態度に結びつく。これを平和的な労使関係定立の模索であるとし、七〇年代の労働法令の特徴を見出す見解(22)もあるが、疑問である。また公益事業の範囲を行政機関が無制限に広げられるよう労争法は改悪された。
  (D) 一九七四年労働団体法改定オイル・ショック後の大統領緊急措置令第三号は、団体協約を守らぬ者や不当労働行為を処罰するものであったが、これは国家保衛法によって、国家が統制する労働団体権の行使に対する処罰を意味したが、それを保障するものではなかった。不当労働行為に対する処罰は、五三年労組法への復帰だと見ることもできるが、すでに労働団体権が極度に統制されていた状況下では無意味であった。団体協約に対する処罰も、国家統制を強化するものであった。緊急措置以外にも、施行令によって労使協議会の設置、申告、組織方法、定期会議開催を強制し、関係公務員を出席させ意見を述べられるように規定し、労使協議会を労働統制手段として利用しようとした。
(E) 第四共和国労働法と労働運動の評価
  第四共和国においては、憲法上の労働団体権が全般的に侵害された。国家保衛法などで団体交渉権と団体行動権だけを制限したように見えるので、団結権は侵害されなかったという見解もあるが(23)、皮相な観察に過ぎない。先に考察したように、団結権は既に第三共和国労働法で侵害され、七三、七四年改定でも侵害されてきた。
  実際に使用者による団結権の侵害はますます強化された。これは、七一年から七四年まで四年間に地方労働委員会が処理した三四二件のうち八七・二%が不当労働行為であった点からも推し測れる。これに従い、同期間中、労組の成長は沈滞した。しかし、七四年の緊急措置令三号によって不当労働行為に対する処罰が強化された後、組織率が前年より二%以上増加し、七〇年代末まで一六%前後の組織率を維持した。

(2)  第五共和国(八〇年代前半)
国家の介入による極端な労働統制

 A  第五共和国労働法の背景
  一九七九年、維新政権の崩壊後、争議は爆発的に増加した。一九八〇年一月から四ヶ月間の労働争議は八四八件で、前年の一〇五件の八倍である。しかし、八〇年五月の軍のクーデターで「国家保衛非常対策委員会」が設置され、労働運動への弾圧がほしいままにされた。そこで、「浄化」の名の下に、産別労組委員長(一二名)と労組幹部(一九一名)が追放され、地域支部(一〇六)が解散させられた。その結果、一九八〇年末労組員は九四八、一三四名で、前年度より約一五万人が減少し、組織率は二%も下がった。八七年に至って、ようやく七九年の水準を回復する。
  一九八〇年一〇月二二日、改正された第五共和国憲法は、維新体制を否定することを謳ってはいたが、実際は連続であった。憲法第三〇条は勤労者の雇用増進と適正賃金の保障(同一項)、人間の尊厳性保障のための勤労条件基準の法定(同三項)、女性および少年勤労の特別保護(同四項)、国家有功者などへの勤労機会の付与(同五項)を規定している。しかし、第五共和国期間、適正賃金の保障に関する法は制定されなかったし、勤労基準においても、健保が新しく規定した「人間の尊厳性」保障という理念は何の機能もしない飾り物に過ぎなかった。
  憲法第三〇条で、唯一新しいのは第五項「国家有功者などへの勤労機会の付与」であるが、このような規定は世界に類が無い。外国にも国家有功者、傷痍軍人、戦没者などがいようが、彼らに特別、優先的に雇用機会を与えるのは、憲法の平等権に違背することである。
  憲法第三一条、労働団体権の目的と性格を「勤労条件の向上のための自主的な」ものに限り、団体行動権の行使を法律で留保し(同一項)、従来の団体行動権の制限に加え、防衛産業での団体行動権の禁止を付け加え、維新憲法より改悪された。
  国家保衛立法委員会によって八〇年一二月三〇日、改定された労働法は米軍政以来悪化しつづけてきた労働法の極致だといえよう。世界史に類を見ない(唯一の類例は、日帝が制定した警察犯処罰規定)、第三者介入禁止という制度を作り、労組を圧迫し、労使協議会を通じて労働統制を極端に強化した。八一年一二月一七日、「国家保衛に関する特別措置法」が廃止され、労働団体権を労使当事者が行使できるようになったが、国家の介入は依然そのままであった。八一年四月八日、政府組織法が改正され保健社会部の下にあった労働庁が労働部に昇格したのも、国家介入の極大化と関連する。
  一九八〇年に、大幅に改悪された労働法は、八四−八六年に一部改定されたが、極めて部分的であった。斜北事件(炭坑夫の暴動事件)などをへてなされた八六年末の改定は政治的には一九八四年の総選挙で巨大野党が登場したこと、三低現象による好況、労働法改正の社会的な強い要求などによるものである。
  B  第五共和国の雇用法
  新しく制定された雇用法は、上述した「国家有功者などに関する法律」だけである。
  C  勤労条件法の改悪
  改定された勤基法の内容は、若干の補完こそあれ、実際は改悪であった。特に当事者の合意によって一週四八時間内で、一日八時間制度を変形できるようになった。この期間の最もめぼしい業績は、最低賃金法の制定であった。しかし、これは常時一〇名以上を雇用する製造業に制限的に適用された。最低賃金は最低賃金審議会が審議・議決し、労働部長官が決定する行政府主導のものであった。
  D  労働団体法の国家統制的改悪
  (A)  労組法の改悪初めに、企業別組織の強制と労組設立の極端な抑圧である。一九八〇年、法改正によって企業別労組の形態を強要しただけでなく、単位労組の設立も三〇名以上もしくは全体勤労者の五分の一以上の賛成が必要であると規定し、設立を抑圧した。これは米軍政以来、二人以上であれば、自由に労組を作ることができる原則の撤廃であり、また一九七三年の法改定以後の政府による産別組織否定傾向の極致であった。これを、勤労者の意思に反する労組設立を抑制するためのものとする見解(24)があるが、疑問である。また労組組織の強制のための労働慣行であったユニオンショップ制を廃止し、労組の弱化を企図し、労組の福祉団体的性格を強化した。
  次に、労働団体法の全体を貫徹する、第三者介入の禁止は労組の組織と活動の面でも規制した。これは、七〇年代に宗教団体が、労働運動に介入するのを禁止する治安上の観点から立法化された。七〇年代末、維新崩壊の起点になったYH事件を契機に立法予告していたものを含むものであった。これを労使当事者の自律的解決のためのものとする見解(25)があるが、問題である。八六年末の改定で、上級連合団体だけが、第三者から除外された。また、一九八〇年の改定による第三者介入禁止と関連して、労組が第三者に団体交渉を委任できるとした従来の規定が削除されて労使当事者だけが団体交渉をすることができるとし、弱い立場にある労組の団体交渉を不可能なものにした。
  第三番目に、従来労組法に規定されていた労使協議会が、八〇年一二月三〇日、労使協議会法の制定に伴い、労働統制機構としての労使協議会が法律次元の国家機構として位置づけられた。労使協議会法は拘束力の無い協議だけを規定したもので、労働統制の手段として機能するだけだった。
  (B) 労争法の国家統制的改悪労争法は八〇年に改悪され、八六年改定で、元に戻った。
  まず、公益事業の対象範囲に石炭鉱業、産業用燃料事業、放送通信事業をを追加した。
次に、国家地方団体、国公共企業、および防衛産業での争議行為、そして作業場の外での争議行為が禁止された。前者は従来の法の拡大だといえようが、後者は争議行為が出勤停止など、本来職場の外で行われる原則を無視したものであり、争議行為自体を根源的に禁止するものであった。冷却期間は、従来の一般企業の二〇日、公益事業の三〇日から、それぞれ一〇日ずつ延長され、争議行為を更に困難にした。斡旋期間も、公益事業の一五日、一般企業の一〇日から五日ずつ延長されたが、八六年改正で元に戻った。また公益事業の労働争議にだけ職権仲裁があったのを一般企業にまで拡大し、行政の介入を強めた。
  最後に、八〇年改正では争議期間中の第三者介入が禁止されたが、八六年改正では第三者概念から産業連合団体のみが除外された。
  E  労働法と労働運動の評価
  第五共和国労働法は、韓国労働法史において国家統制が極大化した時期であった。そのせいで、労働組合の組織率は一九八〇年の一四・七%から八六年の一二・三%にまで凋落した。しかし争議は継続して増加し、八二年に八八件、八六年には二七六件にいたり、ついには八七年の民主化闘争により、「六・二九宣言」以後の三ヶ月の間に、三、二五〇件の争議が起こったが、政府は手をこまねいて傍観するばかりであった。
  しかし、使用者は救社隊(スト破りのゴロツキ)を組織し、労労闘争の形を取ってこれに対応し、警察の労働統制が更に強化された。しかし、八七年七月一三日、アメリカは韓国など六カ国に対する労働団体権侵害調査と一般特恵関税(GSP)の撤廃をほのめかした。八四年に制定されたアメリカの貿易関税法は国際的に公認された労働団体権を侵害する国には、八八年一月から関税特恵を撤廃するとした。これによって労働法の改正が急務であるとの認識が高まった。

W  国家統制的労働法の緩和

−第六共和国ー金泳三政権(一九八八ー九八)

(1)  第六共和国の労働法
国家介入による労働統制の極端な展開の緩和(一九八八ー一九九二)

  A  背景
  第六共和国は八七年一〇月二九日に公布された、第九次改憲で成立した。第六共和国憲法は、第三二条と第三三条で労働基本権を規定した。しかし、第三二条は三項で最低賃金制を明示したこと、四、五項で女性、少年勤労の特別保護を分離規定し、女性の差別を禁止した点を除いては第五共和国の憲法条項と変わり無かった。最低賃金制はすでに八六年に制定されているので、第六共和国憲法で特にこれを規定する意味はないが、男女雇用平等法はこの憲法から由来するものであるといえる。
  憲法第三三条は、団体行動権に対する従来の法律留保を削除し、労働団体権を留保なしに認める形式を取ったが、三七条で一般的な留保が認められる限り、依然として法律留保が存在しているのである。また公務員の労働団体権(同二項)と防衛産業に対する団体行動権も留保されている(同三項)。
  改憲にしたがって労働法も改正されたが、しかし基本的には第五共和国労働法の継承であり、多くの問題があった。すなわち、八〇年に改定された第三者介入禁止、政治活動禁止規定などが存続していた。その結果、八八年の第六共和国出帆以来九一年一二月までに、労働組合運動を理由に拘束された勤労者は一、六三四名、一日平均一・二名で、九一年に拘束された勤労者数は四七一名、九一年末現在一八五名にのぼっている。
  B  雇用法
  第六共和国で制定された労働法である男女雇用平等法は、募集と雇用、教育、配置、昇進、定年退職、解雇における差別を禁止し、幼児のある女性勤労者に一年一回の育児休暇を認め、就労時における授乳・託児など育児に必要な施設の提供を雇用者の義務とした。男女雇用平等法は八九年に補完改定された。一九九〇年には障害者雇用法が制定され、障害者を勤労者総数の一〇〇分の二以上雇用するように規定した。
 C  勤労条件法の改善
  八七年、勤労基準法の改定で、適用範囲が常時一〇名以上雇用する作業場へと拡大され、八九年改定で五名以上に、さらに拡大された。また企業倒産に当たって、最終賃金の三ヶ月分を最優先的に弁済するようにし、変形勤労時間制が廃止された。八九年改定で、一週四八時間が四四時間に短縮され、有害危険作業も三六時間から三四時間に短縮された。
 D  労働団体法
  (A)  八七年労働団体法改定まず、労働組合法は改定され、複数労組禁止が強化され、労組の設立要件は八〇年法以前に戻り、ユニオンショップが部分的に認められるようになった。行政官庁の介入も緩和され、団体協約の有効期間が三年から二年に短縮された。また、労働争議法が改定されて公益事業の範囲および争議行為禁止対象範囲が縮小され、冷却期間および争議行為禁止期間が短縮されて、争議に対する行政機関の斡旋機能が労働委員会に移管された。
  (B)  八九年労働団体法改定論議労働団体法の問題点は、八七年改定による若干の改善にも拘わらず、やはり第三共和国以来の労働統制の枠を抜け出すことはできなかった。第一共和国の労働団体法の水準どころか、最小限の毒素条項だけでも改定しようとした八九年の労働組合法と労働争議法改定案は、韓国最初の大統領による拒否権行使で挫折した。そのうえ、国会は再決議をせず、死蔵されてしまった。その要点は以下の如くである。
  労働組合法改定案は、六級以下の公務員に団結権と団体交渉権の保障(五三年法は軍人を除く除外するすべての公務員に認定)、労働組合が指定した弁護士や公認労務士を第三者から除外すること(八〇年までは第三者介入禁止自体が無かった)、労組の設立を申告時に認めること(五三年法の通り)、一年一回以上の総会招集(八〇年以前と同じ)、労組役員の身分保証、団体協約の有効期間を一年に短縮(七一年以前と同じ)などであった。これは五三年法よりも後退したものであり、八〇年以前の水準にも及ばないものであったが、大統領は拒否した。この点から見れば、第五、六共和国の労働法令は基本的に同じものである。
  労働争議法改定案の場合も同じである。防衛産業を公益事業体とみなし(八〇年以前に同じ)、弁護士などを第三者から除外する(八〇年以前に同じ)などであった。

(2)  金泳三政権の労働法
国家介入による労働統制緩和の変形(一九九三ー一九九七)

  A  背景
  いわゆる「文民政府」と称する金泳三政権は第六共和国の労働法をそのまま維持し、競争力強化と言う次元で九三年末雇用法を制定(雇用政策基本法、雇用保険法)、改定(職業安定法、職業訓練法)した。それは「派遣勤労者保護に関する法律」の制定と同時に推進されたが、「派遣勤労者保護に関する法律」は勤労者の反対にぶつかり挫折した。また国民年金などの基金を公共資金として使用するために公共資金管理基金法を制定しようとしたが、これもやはり挫折した。
  九六年末、与党の単独採択、大統領の法律公布、労働者の二ヶ月間のゼネスト、九七年三月の与野合意案による再改定により、労働法の制改定がなされた。それは、一〇年前の一九八七年の改定以後も続く、労働者の要求と ILO や OECD への加盟に伴う国際的圧力が生んだものであり、いずれも労働者の人権を保障すべきものであった。しかし、それは全く受け入れられず、国際基準はおろか半世紀も前の五三年法にも及ばず、かえって政府と使用者側は労働市場の弾力化という本来の目的を達したのである。
  九八年二月、いわゆる IMF 事態の克服という名目で、それまで論議があった雇用調整(整理=リストラ)の要件を緩和して即刻施行するために勤労基準法が改定され、派遣法が制定されて、企業倒産による未払賃金を解決するために賃金債権補償法が制定された。また雇用不安を解消するために雇用政策基本法と雇用保険法、中小企業勤労者福祉振興法が改定された。「労働組合および労働関係調停法」も一部改定された。九九年から、六級以下の公務員の団結権を認める「公務員職場協議会設置・運営に関する法律」も制定された。
  (A)  一九九三ー四年、雇用法の制定および改定一九九三年に制定された雇用政策基本法(以下、雇基法と略す)は、雇用に関する国家施策の樹立と施行に関わる基本法が、大部分は努力規定に止まっている。また一九九三年に制定された雇用保険法(以下、雇保法と略す)は、失業者に対する失業給与と就職促進手当てを規定し、その費用の負担と雇用保険基金、審査および再審査請求を規定する。そして雇用関連事業として雇用安定事業、職業能力開発事業を規定する。これは我が国の歴史上最初の失業時の所得保障法であり雇用事業法である。
  (B) 一九九六年、労働法の再改定一九九二年、労働部傘下に構成される労働関係法研究委員会を中心とした労働法改定事案の作成は、数次の延期を重ねた。数年間完成しなかったが、一九九六年五月に新しく労使関係改革委員会が構成されて一二月に政府改定案を確定し、一二月三〇日に改定法律が公布された。旧労組法と労争法は「労働組合および労働関係調整法」として全文改定および統廃合され、旧労協法も「勤労者参与および協力増進に関する法律」に改称、全文が改定された。また勤基法、雇保法が改定されて「建設勤労者の雇用改善等に関わる法律」が制定された。
  a  勤労条件法の改悪勤基法の改定内容は、最低就業年齢を一三歳から一五歳に調整したことの他には改悪された部分しかない。すなわち、短時間勤労者の勤労条件、雇用調停、退職金中間精算制を規定した。また変形勤労時間制と選択的勤労時間制、および裁量勤労時間制を導入し、実質的な賃金下落と勤労条件悪化を招きうるようになった。
  b  労働団体法の改定労組法の改定内容は、改善された部分と改悪された部分とに分けるられる.まず改善された部分は次のようになる。第一に、労働組合の政治活動禁止規定を削除し、他の社会団体と同じく政治関連法令の規定に従うようにしたが、これは事実上、改善というよりは法体制上の整備といえる。第二に、複数労組の設立を許容したものの、上級団体は二〇〇〇年から、単位事業所の場合は二〇〇二年から許容し、各々三年、五年を猶予した。したがって、事業所単位の団結権は二〇〇二年まで行使できないことになった。また第三者の介入禁止規定を削除したものの、支援可能者を事前に申告するようにした。国民が自らその意思を表明して他人に影響を及ぼす自由である、表現の自由は依然として制限されている。
  第二に争議行為について、防衛産業体勤労者の内、電力、用水および主として防産物資を生産する者に限って争議行為をできないようにし、従来の防衛産業体の争議行為を全面禁止したものについて、部分的に改善した。また旧法の争議行為場所の制限を削除した。その代わり、生産施設およびこれに準ずる施設の占拠、保安作業に対する争議行為、ピケを禁止する規定をおいた。
  第三に労働争議の斡旋と調整を、調整に一元化して調整および仲裁を経た後に争議行為ができるようにし、公益産業の場合にのみ職権仲裁をできるように規定して、従来、公益事業全般に対して職権仲裁を強制していたものを、部分的に改善した.また使用者が中央労働委員会の救済命令を不服として抗争訴訟を提起した場合、法院が緊急履行命令を下すようにした。
  次に、改悪された部分は次のようになる。第一に、解雇勤労者の組合員資格を、中労委の不当労働行為再審判定があるまでとした。これは一九八七年の労組法改定時、大法院確定判決が出る時まで解雇者の組合員資格を否認してはならないと新設した規定を縮小した改悪である。行政審判に過ぎない中労委の再審判定だけで組合員資格を否認することは、司法制度を否定する論理である。
  第二に、労組専任者は使用者からの給与支給を禁止されており、不当労働行為と規定されるが、法施行当時給与が支給された場合二〇〇一年までその適用を猶予した。これは労使間で自律的に定める問題であるばかりでなく、従来の判例が、給与支給が労組の自主性を毀損しないならば不当労働行為に該当しないと見ていたことさえ否定した改悪である。一九九四年末、我が国の労組の平均組合員数は二三六名で組合財政は一一八万ウォンに過ぎず、組合員一〇〇人未満(組合費は五〇万ウォン未満)である労組が全体労組の六三%に達しており、この規定によりこの先は組合運営が事実上不可能となった。
  第三に、労組の代表に団体協約締結権があることを明示した。これは従来、労組総会が団体協約案に対する承認投票をして、最終的に確定していた慣行を否定するという改悪である。また団体協約の最長有効期間を二年として、団体協約の解釈または履行方法に関わる紛争は、労委が判定するようにした。これは、賃金協約の場合、従来一年に有効期間を定めていたものの改悪である。
  第四に、争議行為期間中、従来禁止されていた外部の勤労者による代替と新規の下請を許容した。また争議行為に参与した勤労者に対する賃金支給義務を否認して、労組は賃金支給を貫徹するために争議行為をできないようにした。これは、労使間の自律決定事項であるものを法制化し、現実的に労使間の葛藤を助長しうる点において改悪である。
  第五に、公務員と教員の労働団体権は依然として認められず、別の法律で定めると規定した。ILO 条約違反で国内外において問題となったこれは、一九五三年、労組法制定時に認定した公務員の労働団体権を一九六三年に否認してから今まで維持されてきており、一九八九年以来一五〇〇余名の解職教師を生み出しつつ各種弾圧を受けてきた全教組は勿論、一万名に及ぶ公務員が、初歩的な団結権さえ持ち得ないようにしている。
  (C)  一九九七年、労働法の制・改定一九九六年の改定法の内容に対する労働側の反発によって一九九七年三月に改定法律は廃止され、一九九七年、新しい労働法が制定された。しかしながらその内容は、一九九六年末のそれとほぼ大同小異である。まず勤基法の改定内容の内、改善された部分は雇用調停実施を二年間猶予したという点であり、残りは一九九六年末の改定法と同じである。したがって実質的に勤基法では改定された部分がほとんどない。次の労組法の改定内容も、一部改善されたものの大同小異である。改善された部分は、三年間猶予とした上級団体の複数労組を即刻許容し、争議行為期間中、従来は禁止されていた外部勤労者による代替と新規の下請けを許容したものを、従来通りに修正した。そして、争議行為に参与した勤労者に対する賃金支給義務を「禁止」したものを「否認」するものと直し、必須公益事業の内、市内バス運送事業と韓国銀行を除外した銀行事業を二〇〇〇年末まで適用することにした。
  (D) 一九九八年労働法の再・改定
  a  勤労条件法の再・改定第一に勤基法が改定され、従来一九九九年三月までと猶予されていた雇用調停の施行を即刻実施するようにし、その要件に、経営悪化の防止のための事業の譲り受け、引き渡し、合併の場合等が含まれた。また、解雇しようとする日から六〇日前までに、勤労者代表に解雇基準等を通報して協議しなければならず、解雇対象選定過程において性別が基準とならないように規定し、一定規模以上の解雇時には労働部長官に申告するよう規定された。そして解雇日から二年以内に勤労者を採用しようとする時は、解雇勤労者を優先的に雇用するよう努力しなければならないと規定された。
  第二に派遣法が制定され、製造業の直接生産業務を除外し、専門知識、技術または経験等を必要とし、一時的に人員を確保する必要がある業務を対象に派遣勤労者制度が導入された。使用者は一時的業務等に派遣勤労者を充てようとする場合、労組や勤労者代表と事前に誠実に協議しなければならず、派遣期間は原則的に三ヵ月または一年以内とし、一回に限り一年以内の延長ができ、勤労者派遣事業は労働部長官の許可を受けた場合に限り、三年に制限されるが更新許可をできるよう規定された。
  第三に、賃金債権保障法の制定により賃金債権保障基金が設置され、不渡り、破産等で退職した勤労者が、基金から最終三ヵ月の賃金と最終三年間の退職金を受けられるようになった。
  b  労働団体法の改定労組法の改定はほとんど無いまま「公務員職場協議会の設立と運営に関する法律」が制定され、一九九九年から公務員の団結権を部分的に認める公務員職場協議会の設立が認められた。

(3)  第六共和国および金泳三政府の労働法の評価と労働運動の実際
A  第六共和国および金泳三政府労働法の評価

  一九八〇年代以後の政府の労働政策に対して、全国労組幹部一九六名は第五共和国に四三点、第六共和国に四七点、金泳三政府に二三点を賦与した。そして九三・九%は、文民政府が労使関係において使用者側に偏り、八七・七%が一九九七年の労働法改定で労働基本権が伸張されなかったと答えた(26)。このような世論は、一九九七年の労働法改定直後に金泳三大統領が、労働基本権を伸張し、労働市場の柔軟性を高める法改定であったと主張したのとはあまりにも異なる。
  一九八〇年代の雇用法は、依然として失業保障等に関わる積極的な法制を持ち得なかったが、一九九三年末の雇用保険法および雇用対策基本法の制定により、基本的な立法は準備された。しかしながらその施行には未だ多くの問題点があり、雇平法もその実効性に幾つかの疑問が提起されている。勤労条件法も、最低賃金法の場合ごく僅かな額が決定されて低賃金解消に積極的な機能をし得ない等の問題が多く、勤基法は第三共和国以来認められて来た多くの例外規定によって実際には原則が例外により無意味となる具合であり、長時間労働、低賃金、産業災害が日常化されている。労働団体法も一九九七年に幾つかの毒素条項が削除されたが、公務員労働団体権の否定等、一九八九年の改定案より低い水準に止まっている。
  現行勤労基準法は未だに国際的基準に及ばず、労組法は従来より改定論議の標的になってきた複数労組の部分的認定、第三者介入禁止の部分的撤廃、労組の政治活動禁止の削除(これは法形式の整理に過ぎず、関連法にまわされたが依然として禁止されている)等により若干の前進を見た事は事実であるが、公務員労組の否認(一九九九年から公務員職場協議会が設置されたが労働組合ではなく、公務員の自由な団結権と団体交渉権および団体行動権は依然として禁止されている)と団体行動権の制限および禁止等、未だに問題が多数残されており、やはり国際基準には及ばない。労協法の内容もほぼ旧労協法のままである。
  勤労基準法は勤労時間の弾力化を理由に、幾つかの変形時間制を新たに認定している。しかしながらそれは、本来一九三五年からの国際的な週四〇時間制条約採択とその普及を背景にして生まれたものであるにも拘わらず、我が国の場合は、旧法のように週四四時間制という原則があるが、数多くの例外条項により延長の認め、原則を破っており、世界最長の勤労時間を記録する中で成り立っているので問題となっている。同じ理由で採択された短時間勤労制も、先進国では失業問題の解決のため企業に社会保障の特恵を与えようと認められたものであって、その待遇を通常勤労者より低くしようというものではないが、我が国の場合、その待遇を不利にすることのみによって立法化された。個別勤労条件の付与も、例えば産前後休暇が、国際基準は一二週であるのに我が国の場合八週に止まるなど、依然として国際基準に届かない部分が多い。
  特に労組法は、従来の悪法規定は勿論、学説上論議が入り乱れていた中でも憲法に反する最も保守的な立場を無理に法制化しており、世界でほぼ唯一、とんでもない刑罰量を過去よりさらに付加したという点において非難を免れ得ない。労働組合は依然として設立許可主義によって規制され、その運営に対する国家の干渉も相変わらずである。むしろ旧法下では認められていた総会の団体協約案承認投票を否定しようとし、団体協約の有効期間を一年から二年に延長し、事前の申告のない者などの団体交渉支援を禁止し、違反時は三年以下の懲役などに処している。しかしながら最も問題となるのは、争議行為と労働争議の調停に関わるものである。
  憲法によって団体行動権は勤労者に認められるものであるが、現行法は新たに労働組合に基づかない団体行動を禁止し、その違反時には三年以下の懲役等に処している。団体交渉時と同じく事前に申告しない者などの団体行動支援を禁止し、やはり違反時は三年以下の懲役等に、旧法と同じく投票によらない団体行動を一年以下の懲役等に、防衛産業体での団体行動を最高刑である五年以下の懲役等に処している。また団体行動に参与した者の賃金支給義務を否認し、その支給を要求する団体行動を二年以下の懲役等に処している。旧法の事前争議禁止期間は、名前が冷却期間から調停期間に変わっただけで、依然として一般事業一〇日、公益産業一五日とあり、旧法とは違い現行法では当事者協議によってその二倍に延長できるようして団体行動は二〇、三〇日ずつ禁止されており、仲裁の場合一五日間の争議行為禁止期間も相変わらずであり、緊急調停の場合その禁止期間は従来の二〇日から三〇日に増え、その全ての違反時に、各々一年または二年以下の懲役に処される。その上、緊急調停により争議行為禁止に違反した場合、旧法では首謀者だけ処罰するよう規定されていたものを現行法では削除し、違反者全員を二年以下の懲役などに処罰する。また労働争議の調停時に受諾された調停案や仲裁裁定に対する争議行為も禁止され、その違反時にはやはり罰則がある。
  この他にも憲法に反する数多くの規定があり、その上その違反時には多くの刑罰が賦課される。このような、憲法による労働団体権の行使に対する刑事処罰は、国際条約において強制労働として禁止されるものであり、日本のように軽い罰金刑を賦課する場合でもその条約違反が問題となっているが、我が国の場合、五年以下の懲役または五千万ウォン以下の罰金がほとんど全ての重要な法規定違反時の刑罰として賦課されており、懲役刑は除いて罰金刑だけ比較しても、日本法の数百倍、数千倍となる程である。我が国では実務でも学界でもこの点をほとんど問題としておらず、実にその無知と無感覚は驚くべきである。とにかく我が国の労働法は、可能な限り徹底して憲法の労働団体権を制限または禁止しており、その違反時には世界でも類例のない極刑をもって処罰している。
B  第六共和国および金泳三政府下労働運動の実際
  (A)  組織の概況
  下の〈表2〉で見られるように、一九八七年以後継続して増加していた組合員数と単位労組数は一九九〇年に若干減少し、一九九三年末には一五・六%で一九八〇年以後最低値を記録している。しかしながら次の〈表3〉で見ると、事業体規模別の労組組織化比重は大規模であるほど高い。即ち中小企業における組織率は低いが、大企業の組織率は先進国の水準に肉薄している(一九九〇年一二月末基準)。つまり三〇〇人以上の事業体は五四・二%が組織されており、五〇〇人以上の事業体の場合八一・七%が組織されている。

  下の〈表4〉に見られるように、労働争議と団体行動は一九八七年以後減少し、特に団体行動は一九九一年の場合、民主化以前である一九八六年のそれよりも減少していて一九九三年にはその半分程度になった後、継続して減少している。これは単位労組および組合員数の減少現象と一致している。しかしながら三〇〇人以上大規模雇用事業場の場合、団体行動は一九八八年から一九九一年まで毎年二四・〇%、二四・八%、三四・八%、四七・四%と増加している。
以上の統計は、労働運動が全般的に弱化しているものの大企業中心では先進国水準に至っており、その運動も強化されていることを示している。即ち勤労条件が劣悪な中小企業の労働団体は弱化していたり微弱であるが、勤労条件がより擁護されている大企業の場合、労働運動が強化されているのである。
  (B)  団体行動の概況
  下の〈表5〉に見られるように、団体行動の原因としては賃金引き上げが毎年最も多く、一九八九年以来それは団体行動の半分を占めている。その次が団体協約関係である。不当労働行為や勤労条件に関連した団体行動は一九九〇年以降急激に減っており、景気不振で企業の倒産が続出したにも拘わらず、休廃業および解雇に関連した団体行動も著しく減少している。これは、労使関係がかなり合理的に慣行化されていることを物語る。
  上の〈表6〉に見られるように団体行動は激減しており、参加者数と生産目標未達成、特に輸出目標未達成は増えている。一九九三年の場合、「現代」系列社の団体行動のため、前年度に比べて輸出質額などが増えている。
いずれにしろ一九八九年以来、団体行動の平均持続日数は二〇日前後であることを示している。

  (C)  刑事処罰
  団体行動の激減は、労働運動に加えられる物理的暴力の結果であることが拘束勤労者数の増加から分かる。年度別の拘束勤労者数に対する統計は正確ではない。まず、政府が労働法違反で拘束された勤労者について現況を報告したものは、次の〈表7〉のようになる。
  しかしながら全労協が発表した、労働法以外の法による拘束者まで含めた資料は次の〈表8〉のようになる。
<../BOKU/ src="hyo4.GIF" align="left">
  上の〈表8〉によると、一九九一年の一年間に拘束された勤労者数は四五一名であるが、法外組合の構成員を含めると四九五名に及んでいる。拘束者の大部分は、大企業労組によるストライキに公権力が投入された所で捕った者ある。拘束勤労者を適用法条文別に見ると次の〈表9〉のようになる(拘束勤労者は一、五九九名であるが、同一人に二つ以上の法条文が適用されたせいで合計は二、六〇三名を越えている。)
  拘束勤労者は、労組幹部と労組員および労組以外の労働団体構成員であるが、上に表れた一九八八年から四年間の拘束者数は、第五共和国の下での七年間の拘束者数をはるかに凌駕しており、南米や南部ヨーロッパの民主的開放を経験した国でも類例が見られない程の数である。
 上の統計中、労争議法違反は三九三名で、結局労働法の次元で問題となったものは一五%に過ぎず、残りは全て刑事罰で処罰されている。特に一九九二年四月の場合、業務妨害が全体の四七%に該当し、そこに暴力行為を合わせると七六%以上になる。業務妨害が多い理由は、団体行動は勿論、休日勤労拒否、残業拒否、定時出退勤等の準法闘争にも業務妨害を適用しているためであり、暴力行為も、些少な小競り合いまで含んでいるためである。これは、団体行動は原則的に刑事免責されると定める憲法の理念に反している。勿論、違法集団行為の場合もあるが、大部分の刑事処罰は組合員を一定期間隔離するための手段として利用されている側面も見せている。すなわち拘束勤労者は大部分三−六ヶ月間拘束され、一審で執行猶予等になっている。一九九一年の場合、拘束勤労者四七一名中の六六%は同年に赦され、釈放された勤労者の九一%である二三八名は拘束されて五ヵ月以内に釈放された。上の拘束者数を団体行動件数で分けて見ると、団体行動一件あたり拘束者が分かる。その結果は次の〈表10〉のようになる。
  上の統計は、団体行動は減少したが拘束者数は大量増加したことを示している。一九九〇年の場合一九八八年に比べて三七倍、一九九一年の場合一九八八年の五〇倍に及んでいる。第六共和国が出帆した一九八八年三月から一九九一年一二月までの拘束組合員数は総一、六三四名で、一日平均一・二名が拘束された。
  一方勤基法等違反による使用者の立件または拘束現況は、次の〈表11〉のようになる。
  以上の統計は、使用者に対する拘束と勤労者に対する拘束とが顕著な差を見せていることを雄弁に物語っている。
  (D)  民事賠償
  一方、以上の刑事処罰以外に民事損害賠償も、最初は一九八九年、株式会社「統一」において器物破損を理由に八千余万ウォンの損害賠償が請求され、一九九〇年七月は大邱のコンファ株式会社争議行為に関わる裁判で会社が最初の勝訴をし、一九九〇年一〇月二二日に労働部長官が損害賠償請求を指導してから一九九一年一〇月現在一七の事業場において提起された。

 例えばコンファ労組の場合使用者側の不当解雇が認定されながらも、冷却期間が経過しない状態で団体行動をしたという理由で勤労者二人に使用者請求額の三〇%である五三八万ウォンの賠償判決(大邱地法)が下され、労組は瓦解し解雇勤労者は復職をあきらめ、労働部はこれを模範事例として提示し、損害賠償に関わる公式指針を下した。その後一九九一年には、過去の訴訟件数を合計した一一件の二倍を越える二三件の損害賠償請求訴訟が提起された。
  しかしながら民事訴訟の乱発は、それが実効性のないもので、むしろ労使関係を悪化させるという政府と企業側の判断によって一九九二年を峠に減少し始め、一九九三年五月には政府も損害賠償請求行為を抑制するよう行政指導をすると明らかにした。
  まず会社側は、訴訟に勝っても実際に執行したことはなかった。一九八九年から一九九三年四月まで提起された四五件の損害賠償請求訴訟中、会社側が敗訴した九件と一九九四年一〇月現在係留中である事件三件を除外した三六件中において、六一%に及ぶ二二件が裁判の途中で会社側の訴追取り下げで終り、三件は会社側が勝訴した後で訴えを取り下げた。このうち損害賠償が実際に執行されたものは、一九九〇年の真星電子の場合のみである。この会社は労組幹部五名を相手に三千七三万ウォンの損害賠償を請求し、法院で五二四万ウォンの勝訴判決を受けて五名の退職金から五〇万ウォンづつ二五〇万ウォンを控除した。
  その他の場合は労組幹部の退職を条件にして終結したり、団体交渉過程において労組との協議により訴えが取り下げられた。例えば上のコンファの場合、損害賠償判決と解雇者復職判決が各々下され、復職しないことを条件に賠償額を執行しないことで終結した。
  ところで一九九四年一月六日、昌原地方法院はストライキを主導した勤労者九名に対して三〇億ウォンの損害賠償判決を下した。サンミ総合特殊鋼が行ったこの訴訟において、法院は五九億余ウォンの損害を認めて原告の請求額全額に対する賠償を認めた。この額は損害賠償判決の最大額として、勤労者一人に三億三千三百万ウォンを賠償するよう命じたものである(27)

お わ り に


  今まで見てきたように、韓国の労働法令は一九五三年に形式的に成立してから現在まで継続して悪化しており、一九九七年に若干の進歩を見せた。しかしながら現実は法令以上に悪化している。法を通じた労働統制以上に、政府と企業による統制が続いてきた。一九五三年法は日本の労働法を模倣したものであったが、日本のそれは過去半世紀間ほとんど変化なく適用されてきたが、韓国の場合、上で見たように勤労基準法が一〇回の改定と制定、労働組合法が八回の改定と制定、労働争議法が九回の改定と制定、労働委員会法が七回の改定および制定を経て、五年に一度づつ際限なく改定された。それも向上ではなく、一貫して悪化してきた。究極的に、その悪化は軍事政権による労働統制、いや労働団体権の蹂躪と考えるべきである。このことは、憲法を無視し法体系の基本秩序さえ破壊したという点において、根本的な問題点を抱いている。
  我が国の法体系が、日本帝国主義植民地時代のそれに基づいているのは周知の事実である。日本は一九四五年以後、それなりの民主化を不完全ではありながらも成し遂げたといえるが、我が国は植民地時代の法的土台をそのまま維持しながら、今日の日本において公務員に適用される労働法の水準を、一般勤労者に要求している。したがって韓国の勤労者は、日本の法次元で見るならば、公務員として扱われているようなものである。勤労条件に対する例外条項の氾濫のみならず、特に労働団体権に対する極度の制限および禁止、そして政治活動の禁止が、公務員はもちろん私企業の勤労者にまで適用されることは、日本の公務員関係労働法と同じである。このように韓国の国家主義的労働法は、基本的に勤労者を公務員として扱う態度に立脚している。
  ところが公務員に対する日本の労働法は、国際的にあまりにも後進的なものであり、諸外国からの非難は勿論のこと、ILOをはじめとする国際機構の批判をも受けてきた。したがってそれ自体に問題があるのに、そのようなものを一般勤労者にまで適用する韓国の労働法はさらに大きな問題点を持つものである。まして我が国の労働法は、構造的にさらに大きな問題点を抱いているのである。
  すなわち国家は、雇用をはじめとする勤労条件一般において憲法上の国家義務を遺棄し、企業をしてその責任を担当せしむるよう要求することにより、企業が勤労者に犠牲を強要することを幇助している。たとえば、この世で唯一韓国の法にのみ存在する法定退職金制度は、本来国家が義務的に遂行しなければならない社会補償を、勤労の見返りとして当然支給すべき勤労者の賃金に肩がわりさせるものである。のみならず職業訓練や雇用保険をはじめとする、雇用法や勤労条件一般において国家が遂行すべき政策義務を放棄し、勤労者の犠牲を前提として企業に責任を転嫁している。また勤労時間や休暇などをはじめとするあらゆる勤労条件について、企業能率ないし人事管理の側面で制度化し、それらが勤労者の基本的な権利であることを否定している。また勤労条件の基本である人事をはじめとする多数の勤労条件事項を、労働法の適用事項において最初から除外し、企業秩序などの観念によって保守的な法院が徹底的に企業の肩を持つことを放置している。また国家は、自らが使用者として臨まねばならない公務員に対し、労働法の適用自体を排除して封建的な労使関係を維持している。
  本来積極的に介入すべき雇用と勤労条件を、はなから関心対象から除外した国家は、中立的な立場に立つべきであり、統制してはならないとされる労働団体に対して、徹頭徹尾国家統制主義的方式で介入し、労働団体権を徹底して制限し、規制している。国家は、労働団体権が企業内でのみ働くように囲いをし、いわゆる第三者介入を厳重に処罰して経済的事項ではない政治的事項に対する一切の関心を封鎖する。しかもそれは国家保安法などによって思想的な理由で処罰されもし、些少な行政的規制に違反しても刑法の各種犯罪として処罰されもすれば想像を超えるほどの損害賠償の民事判決が下りたりもする。また経済的事項の中でも、人事・経営権に対する労働団体の関連をはじめから拒否し、これに違反すればやはり民・刑司法が適用される。ひいては労働団体権を拒否するための装置として、労使協議会をデッチあげる。そしてそれを合理化するための財産権理論などが動員されている。これらの国家主義的統制は、企業便宜主義体質と一致するものである。
  以上の企業主義的な、そして国家主義的な我が国の労働法の構造は、一九五三年の労働法制定以来さらに強化され、今日国家ー企業の労働弾圧法になっている。またそれは、国家統制と企業主導による、国家管理と企業便宜のための労働抑制法である。その結果、我が国の労働法は、勤労者の勤労者のための勤労者による労働法ではない。すなわち、労働法が勤労者の人権を保障するための法だという、労働法の基本精神が徹底して欠如しているのである。これは韓国法の基本的な問題点だと言え、その中でも特に労働法が含まれている社会法の問題点だといえる。これは根本的に憲法の無視、憲法精神の忘却、憲法実践の不在から始まっている。一般に、それを韓国人の権利意識の不在だと説明する見解が法哲学ないし法社会学という名の下に行われているが、それは重大な誤りである。それは支配権力の構造と体質によって、権利主張を剥奪されたことの結果にすぎない。したがって国家機構全般の民主化、特に司法の民主化が必然的に要求される。
  ひところ、法の内容は良いがそれを企業が遵守せず、政府がそれを放置することが問題だとも言われていた。しかしながらしばしば指摘される勤労基準法、労働組合および労働関係調停法、公務員法などのようなものばかりでなく、憲法自体において多くの問題がある。憲法は勿論、法令も装飾的なものとして認識される傾向があり、その装飾さえも、例えば公務員を労働法の適用対象から排除するという、前近代的な国家主義による封建的な秋霜(厳罰主義)の遺制から抜け出せないでいる。このような秋霜は政治的状況により、恣意的に適用され極めて無力であったり極めて強力に作用するという極端な矛盾を見せてもいて、さらには憲法を超える国家保安法や刑法などの存在により、法のヒエラルキーまで揺るがす傾向まで露呈してきた。
  労働法を始めとする社会法の場合、このような惰性はさらに顕著である。その根拠となる憲法の人権規定自体をプログラムとして理解し、政府が千年後にでも関係法を作れば充分であるという、奇怪な論議が学問という美名の下に存在したりもした。その上、憲法が国家保安法や刑法、および労働法などにより蹂躪されても構わないという論理が支配的であった。ひいては、民・刑法の近代法原理に立脚した各種の時代錯誤的な態度が、労働法の上に相変わらず君臨しているのである。

(1)  例えば、崔章集『韓国の労働運動と国家』(ナナム、一九九七、一二七頁)
(2)  日本帝国主義下の労働運動に関しては、韓国側の資料としては金潤煥『韓国労働運動史一』(日本帝国主義下編、チョンサ、一九八二)、北朝鮮側の資料としては金インゴル、姜ヒョノク『日本帝国主義下朝鮮労働運動史』(朝鮮労働党出版社、一九六四)(南朝鮮での復刊はイルソンジョン、一九八九)参照。
(3)  日本帝国主義下の労働組合は、解放後に形成されたような企業別組合ではなく、共済組合的性格の濃い地域組織が中心であり、団体交渉や争議行為を主導した組織ではなかったという点において、現在の労働組合とは性格が異なる。
(4)  治安警察法は、労組の結成や争議行為の禁止等を具体的に明示し、一−六ヶ月の禁固または三円以下の罰金に処する特別刑法であったが、朝鮮にはそれが適用されなかった。
(5)  植民地全期間を通じて労働団体に適用された保安法(一九〇六年七月)は、集会および結社の許可を警察官に委任した悪法であり、安寧秩序の維持のための結社の解散(第一条)、集会示威の制限禁止(第二条)、文書等の掲示や頒布の禁止(第四条)等を規定した。そのため、大部分の経済的目的の労働組合や労働運動さえ弾圧を受ける事になった。特に第六条は、「財物を売買したり労働力を受給するのに暴行、脅迫または詐欺の手段でその価格を不当に増減させる」ことを禁止して、労働運動に直接適用された。また警察犯処罰規則は第一条で団体加入の強請(八号)、故意の面会強請および講談、脅迫(四号)、争議行為の勧誘および教唆(一八号)等を禁止し、その違反者は拘留または科料に処すると規定した。(第一八号は一九八〇年以後現在まで、韓国において所謂第三者介入禁止という形態で、争議行為だけでなく団結と団体交渉においても法制化されており、韓国の場合、拘留ではなく三年以下の懲役または五百万ウォン以下の罰金に処している。)
(6)  米軍政期の労働運動に関しては、金テスン「米軍政期労働運動と全評の運動路線」(『韓国社会研究』第三巻、ハンギル社、一九八七)、シン・クヮンヨン『階級と労働運動の社会学』(ナナム、一九九四)参照。
(7)  北朝鮮はすでに、一九四六年六月二四日に「労働者および事務員に対する労働法令」を制定し、八時間労働(第一条)、未成年者の労働禁止(第四条)、同一労働同一賃金の原則(第七条)、義務的な社会保険(第一八条)等を規定した。
(8)  前者は一四歳未満の児童を公私の商工業に雇用することを禁止し、一二歳未満の児童の雇用は一切禁止した。そして一八歳未満の児童を有害危険作業に雇用することも禁止した。勤労時間も一六歳未満者の場合一日八時間、一週四八時間に制限し、午前七時以前や午後七時以後の労働を禁止し、一八歳未満者の場合一日一〇時間、一週五四時間に制限し、午前六時以前や午後一〇時以後の労働を禁止した。
(9)  「民主主義的労働組合」とは、組合員の総意をもって組織され、組合員全体の支持を受ける組合員全体のための組合として、組合員全体によって運営されるものと定義される(一九四六・一二・九  ソウル市長および各道知事への通牒)。それは、労働組合の規約が公開会議において組合員過半数の賛成をもって決定され、全ての組合員の公選により任命される任員が規約に依拠して組合業務を執行する組合として規定された(一九四七・五・二  労問第一四八号ソウル市長および各道知事への通牒)。
(10)  シン・クヮンヨン『階級と労働運動の社会学』(ナナム、一九九四)二四七−二八三頁参照。
(11)  事例は、朴元淳『国家保安法研究2』(歴史批評社、一九九二)二六五頁以下。
(12)  金ヒョンベ「韓国労働法の変遷」(『韓国の労働経済』林ジョンチョル、ペ・ムギ編、文学と知性社、一九八〇)二六七頁。以下「金ヒョンベ変遷」と引用。
(13)  崔章集、前掲書一〇五頁。
(14)  一九四七年末当時、組合数六八三、組合員数一二七、六六二名であったのが、一九五五年にはそれぞれ九一四、三二一、〇九七名となり、組合員数はほぼ三倍以上増加した。また争議件数は、一九五四年は二六件に過ぎなかったが、一九五九年には九五件に増加した。しかしこのような緩慢な成長は、当時、日本における労働法成立後の爆発的な成長に比べ、非常に遅滞したものであった。日本に比べて韓国の労働法は弾圧的であったため、労働運動の成長には役立たなかった。
(15)  金ヒョンベ『労働法』(博英社、一九九〇年)七五頁。以下この本は金ヒョンベ労働法と引用。
(16)  金ヒョンベ変遷二七〇頁。
(17)  労使紛糾または労働争議という概念は、正確ではない。例えば、集団請願、食事拒否、法定公休日や休憩時間の作業拒否等も含まれるからである。しかし労働争議は、労争法上、団体交渉の決裂による紛争状態のみをいう。それら法的定義による労働争議に関する統計は、必ずしも正確ではない。
(18)  崔章集、前掲書二九八頁。
(19)  崔章集、前掲書一〇五頁。
(20)  崔章集、前掲書一〇八頁。
(21)  崔章集は中央情報部が一九六〇年代には労働運動に関与しなかったとしているが(前掲書一〇八頁)、疑問である。
(22)  金ヒョンベ変遷、二七八頁。
(23)  崔章集、前掲書一一一頁。
(24)  金ヒョンベ、労働法八四頁。
(25)  金ヒョンベ、労働法八四頁。
(26)  ハンギョレ新聞一九九七年一〇月二日。
(27)  ハンギョレ新聞一九九四年二月八日。


正    誤    表
一九九九年一二月二五日発行
一九九九年第四号(通号、第二六六号)
執筆者紹介(四番目)
〔誤〕  崔 鉉一    立命館大学法学研究科博士過程
〔正〕  崔 鉉一    立命館大学法学研究科博士課程
    右の通り訂正し、お詫び致します。