立命館法学  一九九九年五号(二六七号)


「団体の慰謝料請求権」再考(二・完)

和 田 真 一




    目    次
は じ め に
第一章  わが国での団体の無形損害論の意義
第二章  ドイツ法での団体の一般的人格権に基づく慰謝料請求権  (以上二六六号)
第三章  団体の一般的人格権の内容的制限         (以下本号)
第四章  営業権による団体の保護
結びに代えて



第三章  団体の一般的人格権の内容的制限


一  序
  団体の人格権侵害が裁判実務では名誉毀損に集中していることは前章で見たとおりであるが、学説ではもう少し広く検討されている。しかしその場合でも、団体に対する権利は二段階で限定される。まず、一般的人格権に包摂される個別的人格権の種類が自然人に比べて限定される。そして次に、団体の一般的人格権の内容として認められる個別的人格権、たとえば名誉や信用について見ても、その保護の内容が団体に特有の限定を受けるのである。
二  権利の種類の限定
  団体の一般的人格権を肯定する学説でさえ、「人間たる性質と密接に結びつく法益を保護するもの、例えば人間の尊厳、生命、身体、健康、労働力、意思力、感情、精神的同一性、肖像」や精神的作品の創造者に付与される「著作者人格権」が団体には存在しないと考える(1)のは当然であろう。しかしさらに、「団体の活動領域、諸関係、保護されるべき利益に適合する人格権のみを、その団体は持つ」から、「団体のために考えられる人格権の内容と限界もその目的と法的地位に照らすべき(2)」だという考え方には注目されるべきである。ここには、団体の自然人との物理的な存在形態の違いによる権利の内容の相違以外に、法的な制約が存在することがすでに示されているからである。
  基本法に基づいて団体の一般的人格権の制約の根拠とすることも行われた。すなわち、基本法一九条三項は、基本権による保護は法人の本質に従って適用が可能な場合に限られると定めており、法人は従って確かに価値を有するが、人格や尊厳は持たないから(3)、精神的倫理的領域ではない部分でのみ法人には基本法二条の保護を認めるべきだというのである(4)。一般的人格権を基本法によって根拠づける見解ならば(5)、その制約原理がまた基本法に求められることは自然であろう。しかし一般的人格権と基本法のそのような関連づけには疑問もあるし、何より判例に見るように、より実質的な限定の基準が問われているのである。
  後にこの説明は形式的すぎるゆえに「算数的方法」であるとして批判された(6)。そしてむしろ、団体に人格権が認められるべき具体的な基準を提示しようと試みられた。団体は、独立の価値を有する統一体として理解されるのではなく、ただ複雑な諸事実、諸関係、諸規定を要約した、設計された概念にすぎない(7)。そして、この団体に認められる人格権保護の対象は、尊重要求(Achtungsanspruch)と参加要求(Teilnahmeanspruch)である。まず、団体の尊重要求について見ると、「人間の存在にかかわるような人格権、例えば人間の尊厳、生命、身体、健康、労働力、意思力、感情、精神的完全性、肖像や性格描写は、法人やその他の団体には認められない(8)。」同じことが身体活動の自由にもいえる。法人や団体の構成要素となっている自然人たる構成員に関わる法益の侵害による法人の機能の侵害は、構成員の損害賠償請求に解消され、法人がその範囲で人格権を有するかどうかという問題は起こらない。団体の尊重要求が考慮されるのは、それが法人の機能能力(Funktionsfa¨higkeit)〔与えられた役割を果たす能力〕に資するときに限られる(9)。次に、参加要求の内容として考えられているのは一般的な行為自由である。団体には、たとえ基本法二条の規定があるにしても、自然人たる個人企業家の経済的活動の自由が法人にも同様に認められるものではない。ここでも法人の目的と機能による制限を受けるのである。公益団体については営利活動が許されないことも、これを一般的人格権の不在から理由づけるのではなく、法律上公益法人に認められている目的と機能がそのような活動を許さないことから導かれるべきであるという(10)
  団体については一般的人格権の一定の部分がそもそも不在と考えるのか、一般的には存在するが団体の目的と機能から制限されると考えるのか、そして制限の根拠は基本法の法人の基本的人権に関する規定に基づくと考えるのか否かにより、理論構成は異なる。だが、団体の人格権が自然人と対比すれば制限されており、実質的にはその目的と機能の範囲内で認められるに過ぎないという点ではおよそ共通した結論に至っていると言えよう。
三  権利の内容の限定
  次に、このようにして団体にも認められ得る個別の人格権について、さらにその具体的な内容に関する議論を見る。
  1  名誉
  a  名誉は、八二四条でも、そして官庁や政治団体が侮辱を受けうるとされている刑法一九六、一九七条を保護法規とする八二三条二項でも保護の対象となっている権利である。さらに、いわゆる中傷の場合に救済を認める不正競争防止法一四条や、営業上の誹謗の場合に罰則を加え、民法八二三条二項の保護法規にも数えられる不正競争防止法一五条、最後に、不正競争防止法一条と民法八二六条という一般条項による保護も考えられる。従って、これらと矛盾のない説明を行うためには、たとえ法人擬制説をとる立場にあっても、団体の名誉というものを一切否定することはできないとされる(11)。「名誉保護は、団体の固有の性質と機能から導かれる。団体は、個人の目的を持った集まりとして社会的通用要求を持っているので、団体を担いまたは団体に関与する個人のために、名誉への違法な侵害から保護される」し(12)、また、「団体も社会的に表明を行っている。この社会的表明は団体の機能に当たり、団体はそれにより法的に完全にまたは一定程度独立化されている。表明を歪曲したり誤ったものにすることは、団体の活動への侵害にあたる(13)。」
  b  問題は、団体の名誉権を認めることによって、右の法律規定に加えてどれだけ保護を広げるかということである。団体のどんな名誉もどんな局面でも一般的に保護されるものではない。それはその団体の目的や機能にあくまで限定されたものである。
  裁判例でもいくつかの基準を用いながら、団体の名誉侵害の成立範囲を制限している。その一つの例は、団体の目的の範囲で名誉を認めるとするものである。例えば【3】は次のように述べる。「商事会社も会社の目的の保護に必要な限りで名誉保護を受ける。その必要性は一般的には株式会社の場合なら株式法三条に書かれている会社の目的である・・団体や会社は極めて多様であるが、しかし常に目的を限定して創設されるものである。したがって、立法者は団体の目的を定款に明示するよう定めている(民法五七条、株式法二三条)。これに対して自然に与えられた自然人の「目的」は常に包括的である。商事会社のための名誉保護は経済目的が唯一の目的であるときにはそれに限定される。」
  また、宗教法人が原告である【11】は、「社団又は団体が名誉侵害的な事実主張から保護されるための要件は、社団又は団体が法的に承認された社会的(または経済的)課題(「社会的機能」)を果たしていることである。その際、社団又は団体が、特に際だった、そして倫理的観点から価値のある働きをおこなっている必要はない。むしろ、定款に従い合意により選択された課題が法的に認められ、許容されるものならば十分である。人格保護は、保護価値のある社団の目的又は団体の目的の限りで与えられる。自然人の場合には、何人も包括的な人格保護を享受することが明白である。このことは法人にも定款に従った目的の範囲内で妥当する。被告が主張するように、原告がかりに実質は経済的団体であったとしても[被告は原告宗教団体が不動産取得に熱心である等と批判していた]、原告は上述の限定された範囲で人格保護を受けることになろう。」
  これらは定款に所定の法人の目的と、それに基づいて当該法人が果たしている社会的働きの領域に限って、法人の名誉が観念されるとしている。同じ様な意味で、「通用要求」という言葉が用いられる。例えば【8】は、政党であるSPDの名誉毀損を理由とする仮処分申立に対し、「申立人はソビエトのアフガニスタンでの人民殺害に沈黙しているとの不実の事実主張によって、八二三条一項の意味での権利たる一般的人格権を侵害されている。それによって、申立人が理解しているように、申立人の通用要求が損なわれるからである。一般的人格権がすり替えられた表明によって侵害されることは判例で認められている。このことは、ある者によって一定の態度が表明されることが期待されているある点について沈黙していたと、事実に反して語られる場合にも妥当する(14)。」
  判例では団体の目的、機能、社会的通用要求という判断基準で名誉侵害の成立範囲を限定しようとする傾向が読みとれる。そして、これら三つの基準は矛盾するものではないであろう。機能や通用要求と言っても現に今存在し、行われているそれらではなくて、法の要請と団体の目的から規範的に導き出されるべきものだからである。
  2  名誉以外(1)
  名誉以外の人格的法益で、名誉毀損と併存的にまたは関連して生じやすい氏名、商号、肖像、秘密の保護について、次のように考えられている。
  a  氏名や商号
  @  人格の対社会的な徴表である氏名と商号も、名誉と同様に明文で保護されている(BGB一二条、HGB三七条)。「氏名は人間の社会的存在状態での個別化と差異化の手段であるという考えから出発して、判例と学説は氏名と商号の保護を、法的に規定された言葉による徴表から商号の徴表、商号の構成要素、商号の略称、商標などに拡大し、例えば創業の表示や屋号も取り込んできた。紋章や家紋、サインや電報宛名も今日では区別させる力のある限り、つまりメルクマールとしての性格を有する限りはBGB一二条によって保護される・・法人の氏名権は確かに明文では規定されていない。しかし法人も自然人と同様に法的に個別化されることと、取り間違われないことについて利益を有する。法人の氏名は、共同決定によって団体に生じる、つまり団体の生活に直接に依拠している法益なのである。氏名保護は自然人の特別の性質に基づくのではなく、人が社会的共同生活において権利主体として認識されることに基づいている(15)。」団体の氏名や商号の保護は、法的主体性の徴表という意味を有する限りでは、自然人に比べて特に保護を制限する理由もないと言えよう。
  A  しかし、営業活動を促進する目的で利用され、営業上の実績と信用の徴表となるトレードマークとなると別である。確かに今日企業が使用するトレードマークが保護に値する法益であることは否定できない(16)。自然人の営業活動上用いられるペンネームや芸名の他人による利用からの保護(z. B. BGH 18. 3. 1959, BGHZ 30, 7.)と同様に、一般的人格権によって保護されると考えられるが、限定されるのである。自動車会社BMW(Bayerische Motoren−werke)の著名なトレードマークがパロディー商品に用いられた【9】事件が良い例である。
  【9】は次のように述べる。「自然人の場合、自己の肖像が承認なしに第三者の営業上の利益のために使用されるのを忍受する必要はない。これは、肖像が広告目的で使用されるときにとどまらず、他の方法で営業上の利益のために使用されるときにも妥当する。人の自己決定とその尊厳が、その意思に反するような方法で肖像を用いることを禁ずるのである。これに対して、法人が一般的人格権の一部として肖像権を有効に請求できるのは、法人がその活動領域でエンブレムを使用されることで経済的企業としての社会的通用の内で侵害されるときだけである。」
  このような制限を法人企業について加える解釈を示し、その基準に照らすと本件では名誉侵害が不在であるという。なぜなら、被告が発売した原告のマークに付された文句「Bums Mal Wieder と原告の社会的通用の性格やとりわけ経済的企業としての名声は関わりがない。シールは全体的には原告の製品の品質に関する叙述でも、原告の経済生活における活動に関する叙述でもない。特に、名誉侵害的で、中傷的な批判を含んではいない・・唯一の原告との関連は、被告が原告の略称号の綴りを解釈に用い、それが略称号の本来の意義をゆがめ、かくして冗談として受けとめられる所に認められる・・確かに、一般的人格権による範囲で、株式会社が経済的自己決定を求める権利も保護されている。にもかかわらずこの権利は、これを侵害する第三者の市場での全ての行為に対してではなく、経済的展開の保護領域が本当に争われる場合にだけ要求されるのである。本件で原告に負担となっているのは、被告が−原告の略称のゆがんだ解釈の可能性を利用して−性的な行為を連想させる卑俗な言葉に原告の名称を使用したことにある。このように原告の名称をゆがめることは、社会からは冗談として受け取られ、そのようなものとしてのみ買主はシールを購入する。もし自然人の名前をこのようにゆがめることが問題になっているならばともかく、本件のような名称のゆがめは黙過されうる」からである。
  つまり、BMWの徴表に対する権利の存在は一般論としては認めるものの、本件のようなパロディ商品への利用の場合、BMWの営業上の利益を侵害するものではないとして、権利侵害を否定したのである。BMWの権利の内容は、その営業活動に関連する範囲、BGHの表現で言えば、「社会的通用要求」の存在する限りで認められるに過ぎない。この意味で、本件では一般的人格権侵害よりも、本当は営業権の侵害が問われたと評された(17)のも理解できるのである。
  b  肖    像
  自然人のように身体、顔かたちそのものについて、団体が肖像権を持たないことは言うまでもない。しかし、自然人の過去及び現在の生活がみだりに公開されない権利が認められるとすれば、団体にも成立や発展の歴史、成功や失敗に関する肖像権は考えられないではないという(18)。しかし、そのようなものは団体の社会的な名誉として保護すれば十分であるとも考えられる。また他方で肖像は、個人の生活の秘密にも関わる。自然人がそもそも生活肖像の保護を受けるのは、一つは私的な生活領域の保護のためであり、もう一つは権利の行使に対する個人の決定権限を尊重するためである。しかし次に見るように団体の私的生活領域の保護には否定的(とりわけ企業の場合)であり、決定権限についても自然人と異なって認めるべきではない。というのも、団体は永久的に存続する可能性があり、少なくとも自然人より長期の存続が考えられるから、団体に自己の生活肖象の利用に関する排他的権限を与えることは不当だからである(19)
  c  私的生活領域・秘密
  私的生活領域については、個人の家族生活に類するものは団体には考えられない。しかし、営利企業であればその事業活動や、思想団体であれば団体内部の生活など、当該の個人への権利侵害が問題になるだけではなく、団体自身への侵害が問題になる場合は考えられるという(20)。私的生活領域や個人情報について、団体であってもその意向に背いて公開されたり利用されたりしてはならないことは言うまでもない。しかし、法が団体に対して、自然人よりもはるかに情報のディスクローズを求めていることも忘れてはならない。「秘密の主体は、思想、見解、発見、状態、行為やその他隠したいと思っていることについて明らかに秘密保持の意思を有し、客観的な秘密保持の利益を有している者である。複数の者が共同的にそして団体の構成員として有する秘密は団体の秘密と考えられる。秘密には、経済的でない秘密と、経済的な秘密が考えられる。法人の経済生活の秘密領域には、例えば、事業の組織、利益の源泉、顧客名簿、製造上の秘密が入る。・・しかしながらこの保護は特に経済的領域では弱められざるを得ない・・経済生活で活動している者は、彼の活動に関して事実に即するならば報じられても仕方がないし、秘密領域を援用して批判から身を引くことはできないのである(21)。」「法は多くの点で団体を「透明な」ものにしようとしており、つまり社会に明らかにされない領域を否定しようとしている。例えば法人の設立の際には様々な登記義務があり、さらに株式会社や有限会社の公開法や、とりわけ年度末決算や営業ないし状況報告の作成に関する貸借対照表基準法に基づく諸義務がある。同様の理由から、法人にはBDSG(連邦データ保護法)の適用もない。本法は二条一項で、自然人の個人関連データのみに適用されるとしている・・不正競争防止法一七条から二〇条aの企業秘密の特別な保護は、特に重要だと思われる特定の侵害形態に制裁を加えるものと考えられており、不正競争防止法一条や八二六条による補完の他、一部は営業権や独自の事業権や営業秘密権を定立することで補完されている。しかしこれら全ては団体と同様自然人にも当てはまることであり、加えて、自然人と共通に保護したのではカバーされないような、団体の構造から導かれる固有の利益は存在しないのである(22)。」
  3  名誉以外(2)
  a  生命・身体・健康
  生命・身体・健康は八二三条一項で明文で保護の対象とされているが、団体は自然人と同じような生命・身体・健康を享有しない。構成員の身体・生命・健康への侵害があってもそれは団体への侵害とはみなされておらず、あえて構成するなら間接損害として理解される(23)。「生命と健康」を組織自体の「存立と変更」の保護として読み替えることは全く不可能というわけではなかろう。しかし、企業についてはここでも特別の注意が必要である。たとえそうしたとしても、経済的集中やコンツェルン組織には、企業秘密同様に法律上の制約が多いため、このような権利を認めることによって、法的に原則的に保護されることになるとは考えられないのである(24)
  b  自    由
  同じく八二三条一項に規定される自由は、通説的解釈では身体活動の空間的、物理的な自由であり、そうだとすると、身体が実在しない団体への適用は考えられない。団体活動の自由として読み替えられるとすると、これは財産の一般的な保護をあまりに拡大しすぎる(25)。ここでも企業活動が特に問題なのである。経済的活動の自由、すなわち競争の自由と契約の自由、譲渡の自由と譲受の自由、生産の自由と消費の自由は、企業が事業の開始の際に、妨害やボイコット、それらの呼びかけによって、または産業上の保護権に基づく不当な警告によって、信用毀損的な表現やその他の措置によって妨害される範囲では保護される(26)。もっともそれにしても、経済的活動を求める権利を認めることによって独占の危険を生じ、それは「自然人の場合より法人の場合に一層憂慮されるべきことは明白である(27)。」そこで利益衡量によって限界付けられねばならず、「この衡量の場合にはまず再び法人の目的と構造並びにそれの法生活における地位が役割を果たす。例えばある利益侵害の場合、問題の利益が法人の目的実現に関わっていないとすると、経済的活動を求める権利による保護は考慮されない。法人そのものによって行われた目的の指定に照らして保護されるべき利益が不在なのである・・最後に公開企業の場合にはとりわけ新聞による活動への客観的批評が非公開企業より行われやすい。公開企業は社会との関連性ゆえに非公開企業より高度の情報利益や情報付与利益に服することになるのである(28)。」この営業活動の自由は何より次章の営業権との関係でも検討されねばならない。
  同様の制約は結社の自由についても言うことができる。かりにそのようなことを認めようとしても、競争制限法二七条や、公正な市場を実現するためには一般条項の適用によって必要に応じ限定されざるを得ないのである(29)
四  小    括
  ドイツの判例と学説は、団体の一般的人格権を否定するわけではないが、自然人に比べて極めて限定された範囲であり、とりわけ判例では名誉や信用でほとんど限定的に問題になっているに過ぎない。その名誉についても、団体の社会的通用要求の範囲、団体の目的の範囲、団体の社会的機能の範囲で保護されるに過ぎない。
  どの程度保護されるのかは、したがって、どんな種類の団体の権利が問題になっているのかによって異なってくるのである。特徴的なのは、商法や経済法、消費者法領域での規制を念頭に置きつつ、営利団体である企業について特に制限的な説明が目に付くことである。しかし他方で、企業は営業権(もちろんこれは自然人にも認められているが)による保護を享受している。企業の保護が、営業権によってどれほど拡大される可能性があるのかを最後に触れることにする。

(1)  Hubmann, Das Perso¨nlichkeitsrecht, 2. Aufl., 335.
(2)  ders., a. a. O., 335f.
(3)  Leβmann, Perso¨nlichkeitsschutz juristischer Personen, AcP170, 266, 268f.
(6)  Schwerdtner, Das Perso¨nlichkeitsrecht in der deutschen Zivilrechtsordnung, 118.
(7)  ders., a. a. O., 119.
(8)  ders., a. a. O., 119.
(9)  ders., a. a. O., 120.
(10)  ders., a. a. O., 122.
(11)  Leβmann, a. a. O., 288f.
(12)  Klippel, Der zivilrechtliche Perso¨nlichkeitsschutz von Verba¨nden, JZ 1988, 631.
(13)  ders., a. a. O., 632.
(14)  もっとも、この直後に、そもそも人格権は、法人の背後にある自然人とのつながりゆえに意味があるときに法人にも認められ、そして、政党の場合には、そこに帰属する政治家が共に侵害されるので、この権利を原則として認めるという、RG時代に戻ったかのような説明(第2章一1)をしている。
(15)  Leβmann, a. a. O., 287.
(16)  Klippel. a. a. O., 633.
(17)  ders., a. a. O., 633.
(18)  Leβmann, a. a. O., 284.
(19)  Klippel, a. a. O., 632.
(20)  Leβmann, a. a. O., 285.
(21)  ders., a. a. O., 285f.
(22)  Klippel, a. a. O., 632.
(23)  Leβmann, a. a. O., 273.
(24)  Klippel, a. a. O. 630.
(25)  ders., a. a. O., 631.
(26)  Leβmann, a. a. O., 275f.
(27)  ders., a. a. O., 276.
(28)  ders., a. a. O., 279.
(29)  ders., a. a. O., 282f.


第四章  営業権による団体の保護


一  序
  営業権も人格権と同様に判例による権利創造の成果であり、法律規定の欠缺を補充する役割を担ってきた。個別の営業保護に関する明文がある場合には明文規定が優先すると考えられている。問題は、同じように権利創造の成果である営業権と人格権との横の相互関係である。一般的人格権が認められた初期にあっては、営業権と人格権の関係は並列の関係ではなく、営業も人格の発現形態の一つであると考える見解もあった。しかし、後に営業権は財産権、いわばある種の無体財産権であるという見解、ないしはこのような権利の性質については特に問題にしないことが主流を占めるようになり、今日に至っていると思われる。営業権の発展の歴史は一般的人格権と同様に長く、蓄積されている判例は最上級審だけでも相当数に上る。これの既存の研究(1)に基づいて、まず企業の営業権の特徴をごく簡単に見ることにする。
二  営業権の保護対象
  営業権(Recht am Gewerbebetrieb)の保護対象は、営業の存立(Bestand)であるとか、営業が設立されかつ稼働中(eingerichteten und ausgeu¨bten)でなければならないと言われてきた。最初は営業権に基づく差止請求事件が問題となり、損害賠償請求事件のリーディングケースは「クリミヤ絨毯事件」判決(RG 27. 2. 1904, RGZ 58, 24)である。本件は、絨毯製造の産業上の保護権(Schutzrecht)がないにもかかわらず誤ってこれを行使し、同業の製造会社の営業を中止させたため、相手方から逆に営業権に基づいて損害賠償請求があった事件であった。裁判所はこれに対して損害賠償請求を認容した。
  しかし、営業活動自体の停止に至らない、競業行為により顧客が離れることによって生じた営業利益の減少の事件では、その競業行為そのものが不正競争に当たらない限り救済の対象にならず、営業権侵害ひいてはそれによって生じた損害の賠償が認められることはなかったのである。保護権行使の例以外で営業権侵害に基づき財産損害の賠償が認められるのは、店舗に対して威力によって物理的に営業妨害が行われたようなケースである。これはしかし、侵害態様が意図的な良俗に反するものであるとも認定されていて、したがって八二六条によっても対処し得ないものではない(2)
  営業に対して同業者やマスコミなどから批判がなされ、それによる営業への支障が営業権侵害に当たると判例が考えるようになったことは、戦後に顕著な特徴である(3)。その嚆矢となった「コンスタンツェ事件」判決(BGH 26. 10. 1951, BGHZ 3, 270ff.)は、判決理由中で、営業はその存立のみならず諸相(Erscheinungen)の形態で保護を受けなければならないと述べ、原告が発行する婦人雑誌コンスタンツェに対する批判行為が営業権侵害にあたることを認めたのである。本件では、差止請求の他、損害賠償義務の確認も求められているが、賠償義務の具体的な中味や根拠は(慰謝料であるかどうかを含めて)明かではない(4)。営業権侵害のBGH判例で慰謝料が請求され、しかもこれが肯定されたのは、当該営業が個人店舗の営業(原告は織物商店所有者)であり、被告グラビア週刊誌による営業主の家主としての態度への批判と店舗のボイコットの呼びかけが同時に行われた場合である(BGH 10. 5. 1957, BGHZ 24, 200.)。本件の原告は損害賠償を請求し、その根拠として重大な営業上の収入減が生じたことと、この騒ぎで原告の病が悪化し医者の手当が必要になったことを上げている。ここでは実質的には、営業への侵害ではなく、営業主個人の人格への侵害が問題になっていると見ることができるのである(5)。これに対して、法人企業である銀行が名誉毀損を受けた場合には、一万マルクの慰謝料請求は棄却された(BGH 24. 10. 1961, BGHZ 36, 77.)。もっともこの結論は、批評行為の違法性をそもそも認めなかった結果であり、法人企業の営業権に基づく慰謝料の是非を直接判断した結果ではない(6)。その後の判例では、信用毀損による営業上の財産的損失が賠償請求されており、営業を行う団体のみが問題となったときに、営業権に基づいて明確に慰謝料の請求がなされることはなかったのではないかと思われる。商品に対する放送局による批判(BGH 20. 6. 1969, NJW 1980, 187.)や商品テスト財団による、当該企業にとっては好ましくない試験結果の公表(BGH 9. 12. 1975, BGHZ 65, 325.)でも、いずれも営業上の財産的損失(前者ではその一部として一〇〇万マルク)が請求されているにすぎない。しかも、営業権侵害の違法性は他の法益と、例えば商品テストが持っている公益性との利益衡量の結果判断され、営業権に基づく不法行為責任の成立範囲がそもそも狭められる傾向にある(7)
三  一般的人格権との異同
  以上の営業権による保護の内容と照らし合わせると、団体が営業主体となる場合に、その名誉や信用については一般的人格権と営業権に基づく保護が考えられることになる。団体の一般的人格権、名誉は、当該団体の目的や機能に限定される。そうすると、企業の名誉というのはその営業上の信用にほかならず、営業権に基づく信用保護と重なるのである。一般的人格権に関する判決例の中には、【7】のように、団体に対する名誉毀損行為が営業関連性(Betriebsbezogenheit)を有しているかどうかを判断しているものがある。これは営業権侵害でもBGHが度々使ってきた要件であり、営業に侵害行為が向けられているかどうかを問うものである(8)。このことも、営業権と一般的人格権の信用保護領域での近接ぶりを示している一例であろう(9)
  しかし一般的人格権と営業権では与えられる救済効果が異なる。営業権を根拠としては慰謝料は認められないし、というよりそもそも営業権に基づく非財産的損害というのは考えられていない。一般的人格権によって認められなかった企業の信用毀損に基づく慰謝料請求は、営業権によって理論的に正当化されることもなければ、実際に認められた例もないのである。
  戦後の営業権に関する判例が展開した信用保護の分野でも、一般的人格権による名誉保護を超えるものではない。そして、保護権潜称行為に対する営業権に基づく差止請求や営業停止により生じた損害の賠償請求のような限られた侵害類型を除けば、一般的人格権の範囲を超えて営業権によって企業に保護を与えるような傾向にはないのである。

(1)  営業権に関する研究としては、錦織成史「ドイツにおける営業保護の法発展−判例に見る民事不法二元論の一局面−(上)(下)」判タ三五二号四頁以下、判タ三五三号一一頁以下(一九七七年)、中村哲也「『営業利益』とドイツ不法行為法−営業権概念と社会生活上の義務論をめぐって−」法政理論二四巻二号一頁以下(一九九一年)、同「営業批判とドイツ不法行為法」法政理論二五巻三号一頁以下(一九九三年)(以下中村前掲注(1)で引用)、和田「ドイツの不法行為法における権利論の発展−判例法上の営業権を中心として−」(一)立命館法学二〇四号(一九八九年)四六頁以下、「同」(二)同二〇七号四七頁以下、「同」(三・完)同二〇八号二五頁以下。
(2)  和田前掲注(1)(一)五八頁以下。
(3)  中村前掲注(1)六頁以下、和田前掲注(1)(二)六四頁以下。
(4)  公式判例集の最後の頁には、原告のような会社が名誉毀損によって侵害される可能性があるのかどうかに触れているが、慰謝料との関係で述べられているのではない(BGHZ 3, 285.)。
(5)  和田前掲注(1)(二)七二頁。
(6)  和田前掲注(1)(二)七四頁。
(7)  中村前掲注(1)一一頁、和田前掲注(1)(三)二五頁以下。
(8)  事実的侵害類型での営業関連性判断であるが、和田前掲注(1)(二)七四頁以下参照。
(9)  中村前掲注(1)二八頁参照。同四二頁は、にもかかわらず学説が営業権と一般的人格権による名誉保護を一体化しないのは、「個人と法人という中心になる利益享受主体の相違が要因になっている」と指摘する。


結びに代えて


  1  わが国の団体の慰謝料請求に関する議論は、昭和三九年の最高裁判決を契機に、一般的に「団体の慰謝料」を論じ、そして、専ら慰謝料なり金銭賠償なりを原則的に肯定する方向で理論構成しようとした。つまり、団体についての名誉侵害の可能性自体は疑われず、専ら金銭賠償の対象となる精神的損害、無形損害、非財産的損害が考えられるか、それを否定するとしても、慰謝料の制裁的機能や調整的機能によって金銭賠償を認められるかという議論であった。団体の慰謝料をともかく正当化しようとすることは不当であるが、必要に応じて損害概念を柔軟に理論構成することは、決して消極的に評価されるべきではない。金銭賠償の対象となる損害が計算可能な具体的なものであるか、精神的苦痛に対する慰謝料と構成されるかのどちらかでなければならないとする考え方では、存在するとみなされる損害などあり得ないことになるが、そのような損害の理解の仕方は硬直的すぎるであろう。損害賠償の目的や要求される具体的な賠償方法によって、むしろ損害の捉え方を変容させることも考えねばならない(1)
  しかしそれには、必要性がどこに存在するのかを検討することが、まず前提問題となるのである。そして、団体の慰謝料請求権を考えるに当たってのこの必要性は、二つの観点から検討しなければならない。一つは、権利侵害のレベルであり、もう一つは、慰謝料ないしは金銭賠償の対象となる損害のレベルである。
  2  ドイツでは、まさに前者の必要性の判断、つまり団体の権利主体性や権利の内容を専ら問題にしている。このような角度から検討して、団体に認められる一般的人格権は自然人よりも限定され、認められる具体的人格権である信用毀損についても、自然人のような包括性はなく、団体の目的や社会的機能上必要な範囲に限定されるのである。その結果団体の種類に従って保護の広狭を生じ、公益団体よりも営利団体である企業の方が厳しい制約の下に保護される。企業の信用にしても、「営業批判において、そこでの被侵害利益は被害者に排他的に帰属しているものではなく、市場という公共物の中での営業活動を通して獲得されるもの」なのである(2)
  実はわが国でも団体の人格権の保護については、制限的な評価が加えられている。団体の目的や社会的機能は、間接的に、団体の名誉を侵害する行為が公共の利害に関するものかどうかという違法性阻却事由の判断において考慮されている。例えば、社会的に影響力の大きい企業の活動に対する批判は、批判内容が公共の利害に関わることであるから、結局侵害行為の違法性は認められないという構成になるのである(3)
  どちらにしても結論は変わらないとも言えるが、ドイツのように人格権や営業権の範囲の問題として捉えるのか、わが国のように、侵害行為の違法性阻却事由として捉えるのかでは、団体そのものを権利の享有主体としてどう理解するのかという基本態度において異なってこよう。個別的な利益衡量による違法性判断−これはドイツでも必要とされている−の全ては否定できないが、団体の人格権の範囲の問題として客観的類型的に取り上げられる部分はそのような扱いをしてゆくべきである。もっともその意味では公益団体に信用毀損の成立の可能性および金銭賠償請求の可能性は残されるとしても、公益団体であるからこそ、より自由な批評や報道にさらされるべきだとも言えるのであり(4)、結果的にはそれもかなり限定されたものにならざるを得ない。
  3  次に、慰謝料請求権およびその前提となる損害についてである。一般的人格権の侵害が−たとえ限定された範囲であれ−肯定されるならば、差止請求や慰謝料請求という効果は一般論として導かれる。現に、権利侵害が継続する場合やそのおそれがある場合の差止請求については自然人と団体との間で区別はないのである。しかし、慰謝料となると、それを企業には認めない理由も、公益団体について積極的に肯定する理由もはっきりしない。ドイツの場合、一般的人格権に基づく慰謝料は満足的慰謝料であるが、企業に満足が無いという理由で慰謝料を認めないなら、公益法人である宗教団体にも本来慰謝料は認められないはずである。しかし理論的には説明がつかないが、宗教団体については企業と異なり慰謝料が肯定された。
  それには侵害行為に対する慰謝料の制裁的な機能が重視されたという見方も成り立つかも知れない。しかし侵害行為ではなく、被害者並びに被侵害法益からの説明として、加えて参考にされるべき考え方は次のようなものであろう。団体の有している権利への侵害の際に、金銭賠償を認めないとすることに対して不当感を生じるとすれば、その真の要因は侵害された権利が有する完全性の保持への要求にほかならない。そのために損害賠償請求が認められねばならず、そのための損害が発見されねばならないのである。ドイツにおいて損害を正当化する規範として、権利追求の考え方があると言われる。「これによれば「権利侵害」があれば、具体的な「損害の発生」がなくとも、その被侵害法益の最少価値として客観的価値の賠償が認められることになる。したがって、ここで直接問題となるのは、加害者の行為様式ではなく、個別の被害者に帰属する権利や法益である」という(5)
  わが国で言えば、このような意味での損害は、規範的な損害または権利侵害と近い観念になろう。そして、それは名誉や信用毀損の場合の損害賠償を統一的に説明するにも好都合である。裁判所は、金銭賠償の方法が選択されればそのような損害を金銭評価して損害賠償を認め、原状回復が選択されれば、そのような損害を原状に回復するのに必要な手段を認めればよいのである。
  この前提として、少くとも公益団体の場合、差止請求や、事後的ならば原状回復請求による救済のみでは十分ではないという基本的な判断がある。これは先述の団体に対する評価から結論付けられるものであるが、さらに付加するなら、次のような実際的な二つの問題を解決するためにも金銭賠償は肯定されるべきである。まず、救済に時間を要すると、現実には被害者にとっては救済がなされない分だけ迷惑や困難も大きいと考えられるのに、原状回復の必要性(民法七二三条)は時間が経過した分だけ少なくなってしまっている可能性が高くなり、結局、権利侵害があったのに救済は認められないということになりかねない。これも、原状回復請求の実現方法を改善すれば済む問題と言われるかも知れないが、名誉や信用の毀損の救済にこの種のジレンマは皆無にはならないであろう(6)。また、企業活動が妨害されて財産損害が発生した場合には救済対象になるが、公益団体の活動の妨害の場合には金銭賠償が無いというのも、公益的活動に対する保護の方が手薄になってしまい、適当とは思えない。
  4  このように考えると、営利団体の名誉毀損によって生じた損害は財産損害に還元し、公益団体についてのみ無形損害に対する慰謝料を認めるとするわが国の学説(第二章二4c)に再度注目して良いように見える。しかし、企業に財産損害以外に金銭賠償請求が認められないのは、企業の損害が財産損害に還元され、慰謝料を認めるべき無形損害はないという理由からではない。そうではなく、企業に人格的保護を与えるについては、わが国でもドイツと同じような法的な制約と限定が伴わざるを得ず、金銭賠償についても、財産損害に対する賠償以上のものを与える必要性が認められないからである。そして、繰り返しになるが、この必要性の判断は、権利侵害や違法性の判断によって枠付けられるべきである。

(1)  中井美雄「損害賠償にいわゆる「損害」とはなにか」奥田昌道他編『民法学4[改訂版]』(一九七二年・有斐閣)九六頁及び一〇一頁、若林三奈「法的概念としての「損害」の意義−ドイツにおける判例の検討を中心に−」(一)立命館法学二四八号(一九九七年)一〇九頁以下参照)。
(2)  中村哲也「営業批判とドイツ不法行為法」法政理論二五巻三号四一頁。
(3)  中村「営業批判と名誉毀損法−違法性類型をめぐって−」鈴木禄弥=徳本伸一編『幾代通先生献呈論集・財産法学の新展開』(一九九三年・有斐閣)四七九頁以下、和田「法人・団体の名誉毀損とその公共性」立命館法学二三一・二三二合併号(一九九四年)四二一頁以下。さらにつけ加えるならば、憲法学における団体の基本的人権論についてみると、やはり自然人よりも限定的であるし、企業の人権についてはより慎重に限定する態度が示されているようである(例えば、最近までの動向を概観するものとして、大久保史郎「「法人の人権」論」公法研究六一号(一九九九年)一一一号以下参照)。
(4)  和田前掲注(3)四二七頁以下。
(5)  若林前掲注(1)(三・完)立命館法学二五二号九二頁。
(6)  和田「名誉毀損の特定的救済」山田卓生編集代表=藤岡康宏編集『新・現代損害賠償法講座2』(一九九八年・日本評論社)一二二頁。