立命館法学  一九九九年六号(二六八)


フランス地方分権改革の源流(上)
一九七〇年代の都市コミューンにおける分権化要求運動

中 田 晋 自





は じ め に
第一章  政権戦略としてのレジオン改革
  第一節  ドゴールのレジオン改革における二つの目標
  第二節  反ドゴール的研究クラブの分権的参加デモクラシー論
  第三節  ミッテランの政権獲得戦略における地方分権改革の公約化
第二章  政権戦略としてのコミューン改革
  第一節  ジスカールデスタン戦略におけるコミューン改革の位置
  第二節  画期的改革構想の提出
            −ギシャール委員会報告書−
  第三節  ジスカールデスタン戦略の挫折
(以上本号)

第三章  グルノーブル市における分権型自治体政策の形成−地域民主主義改革の源流−
  第一節  都市構造と住民参加型都市政策決定
  第二節  自治体改革運動とGAM運動
  第三節  分権・参加法制改革における地域民主主義の位置
第四章  マルセイユ市における分権型自治体政策の形成−コミューン行政自由化改革の源流−
  第一節  都市の人口動態と湾岸地域経済構造
  第二節  地域政治の展開と転換
  第三節  ドゥフェールの地方分権改革像
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は  じ  め  に


  一九八一年に成立したミッテラン政権が「大統領任期セプトゥナをかけた大事業」と位置づけた「地方分権化(la de´centralisation)」の改革は、「重要産業・銀行の国有化」や「勤労者の労働生活条件の改善、社会の近代化・合理化を目指す民主的改革」とともに、この新政権の主要政策として掲げられ、同年の国民議会選挙において左翼が勝利を収め、国民議会内において支配的勢力を確保したことを背景に、実行に移されていった(1)。この地方制度改革は、その基本法たる「コミューン、県およびレジオンの権利と自由に関する一九八二年三月二日法律第八二ー二一三号(2)」(以下、「八二年法」あるいは「ドゥフェール法」と表記する)の成立をもって本格的に開始され、それ以降「一〇年余りにわたって続けられてきた分権化改革の掉尾を飾る立法(3)」と目される「共和国の地方行政に関する一九九二年二月六日の指針法律第九二ー一二五号(4)」(以下、「九二年法」と略す)が成立するまでの、およそ一〇年間にわたる一連の改革を指す(5)。とりわけ本稿は、この九二年法に「地域民主主義(la de´mocratie locale(6))」と題する編が置かれている点に注目する。すなわち、八二年法はその第一条において「地域世界ラィ・ローカルへの市民の参加の促進」を立法によってのちに定めるとし、その時点では一旦は先送りされながらも、「地方分権関連諸立法の延長線上に(7)」位置づけられるかたちで、九二年法は、第二編に地域民主主義にかかわる諸規定を置いているのである。このように、八二年法第一条と九二年法第二編を一本の線で結ぶことによって、われわれは、さまざまな側面をもつこの一連の改革のなかから、分権的参加デモクラシー改革としての側面を抽出することができるのである。従って本稿では、この一連の改革を「分権・参加法制改革」と呼ぶ。
  ミッテラン政権下における分権・参加法制改革の源流は、どこに求められるのか。言い換えるならば、この改革は、一体どのような社会的要求ないし要請によって推進されたものなのか。この問題を明らかにすることがここでの課題である。そのため本稿では、「都市型社会の成熟を背景に、地方政府が分権化=自律化の要求を高めていく」という仮説のもと、一九七〇年代に活発化を見せる都市コミューンの地方分権化要求が、一九八〇年代における分権・参加法制改革の実現に極めて大きな影響を与えた点を明らかにする。同時にわれわれは、こうした一九七〇年代フランスにおける都市コミューンの分権化要求が実現される際、中央政府の動向が無視し得ない規定要因となる点にも注意を払う。というのも、今日各国で押し進められている地方分権改革が、地方政府からの要請によるものであったにせよ、この改革自体は、中央政府レベルの地方制度改革という体裁をとらざるを得ないからであり、中央政府にとって、中央ー地方関係の有り様や地域政治構造の実態はなお戦略的位置を占め、こうした地域に対する政権基盤強化戦略が、地方制度改革という外観をとって実行に移されるものだからである。
  「地方分権改革関連一括法」の成立に見られるように、今日わが国の地方分権化も法制度レベルにおける進展が確認できる(8)。程度の差こそあれ、今日、多くの先進国において「地方の時代」が認識されるようになり、こうした新しい時代状況に適合させるための地方制度改革が試みられている。それゆえ、比較や類型化の作業を視野に入れた海外の地方分権改革研究は、今後ますます重要性を帯びてくるであろう。その点でいえば、わが国のフランス地方分権改革研究は、かなりの規模で行われきたと考えられる。しかし、そのアプローチの方法はもっぱら公法学的なものに集中し、この改革に関する政治学的研究は、その規模の点で限られているといわなければならない。この分権・参加法制改革のなかで行われた施策を、さしあたりレジオン・県・コミューンという地方行政の三段階に区分するならば、それらはおよそ次の三つの改革項目に整理できる。
  改革項目@  レジオンの地方公共団体化
  改革項目A  県知事から県議会議長への県執行権の委譲
  改革項目B  コミューンに対する知事の行政的・財政的後見監督制の廃止と地域民主主義の強化
そして、わが国の政治学的研究としては、改革項目@をめぐる歴史的経緯や運動的背景についての研究(9)、改革項目Aをめぐる行政エリートの対応に関する研究(10)などを挙げることができる。これに対し、改革項目のBに関する研究、とりわけ、これらの改革の推進を求める下からの運動的エネルギーについて検討したものは、管見の限りほとんど見あたらない状況である。フランス地方分権改革に関するわが国の研究動向として、この点の確認が重要である。
  ところで、ミッテランの分権・参加法制改革にどのような運動的源流があるのかという問いは、フランスにおいても、またわが国においても、従来、この改革が実施された一九八〇年代と、その前史にあたる一九六〇ー七〇年代との「連続性」の問題のなかで論じられてきた(11)。ここではさしあたり、次の四つの「連続性」に整理することができる。
  連続性@  地方制度改革を構想する中央行政エリート(12)
  連続性A  行政組織レベルにおける中央集権的実態(13)
  連続性B  地方自治体の分権的=自律的実態(地域政治構造)
  連続性C  地方制度改革を要求する政党・市民運動
上述の改革項目が、ここに示された複数の「連続性」によって媒介されることは、次の事例において明白である。すなわち、レジオン改革(改革項目@「レジオンの地方公共団体化」)を目指す動きが、フランス経済構造の近代化を模索する中央行政エリートの側の「レジオナリスム」(連続性@)としても、また、エスニック的なまとまりとしてレジオンを捉え、その文化的自律化を追求する市民運動の側の「レジオナリスム」(連続性C)としても活発であった点(14)がそれである。また、連続性の@からBまでを強調する議論は、一九八一年におけるミッテラン新政権の誕生を必ずしも前提としていない点で、ミッテラン政権による地方分権改革の意義を希釈するものとなるのに対し、連続性Cを強調する議論は、具体的には、現代フランスにおける地方分権改革において、ミッテラン率いる新生社会党(一九七一年のエピネー大会以降)とその周辺で活動していた市民運動が重要な役割を果たした点を強調することになる。
  ともあれ、本稿が主要な検討の対象とするのは連続性のBとCであり、一九七〇年代におけるその両者の結合である(都市型社会の成熟を背景とする市民活動と自治体改革運動の活発化)。連続性Bにおいて示唆される動向は、地域政治構造の変動として捉えることが可能であるが(15)、この点は、本稿における分析上の前提として極めて重要な意味を有している。事実、一九七〇年代フランスの都市部にはさまざまな新しい動きがみられた。組織社会学派の行政社会学者J・C・トエニは、かつて、「地方分権化」を特集した『プヴォワール』誌(一九九二年)において、「ドゥフェールの改革は、ビッグバンではなかった(16)」と述べている。これは、ミッテラン政権下で行われた地方分権改革がエネルギー・ゼロの状態から突然開始されたものではないことを示唆するものであるが、このことを裏付けるべく、彼は一九七〇年代フランスの地域世界にはすでに政治・行政の次元で変化がみとめられたことを、次の四点において指摘している(17)
  (a)  一九七〇年代の早い段階における諸都市の台頭。これらの都市は、内実を伴った技術的・社会的事業を創出し、活力のある「都市共同体」の形成や建築許可証に関する認可権限の獲得にも成功していた。
  (b)  地方公務員の近代化。職員の質的向上、近代的な行政管理方法の導入など。
  (c)  地方公共団体に対する国家の後見監督の緩和。その背景には、地方議員と国の地方出先機関(知事を含む)との間のより均衡のとれた関係整備を志向する動きがあった。
  (d)  レジオンのアイデンティティ確立と活動領域の構築。例えば、経済援助や経済介入は、地方公共団体が企業に対して援助を行うことを認めた一九八二年法を待たずして行われていた。
これらの点をふまえた上でトエニは、この改革を「既に現場で進行しつつあった一連の進展を、深部のところにおいて加速化し、合法化し、体系化した」改革であると結論づけている。ただし、こうした地域政治構造の変動は、地方政府の自律化運動など地域政治の新たな担い手の登場なしには、地方分権改革を実現する基盤となり得ない。フランスの場合、連続性Cにおいて示唆される社会党系都市コミューンの自治体改革運動や自治体自律化運動がそれに該当するが、もし、ミッテラン政権下における分権・参加法制改革の運動的源流が、一九六〇年代以降における都市の台頭とそこを主要な舞台とする市民の新たな動きのなかに見出されるとすれば、そうした視点は、かつて松下圭一氏が、「都市型社会の成立を背景とする市民活動の活発化」という視角を提示し(18)、また篠原一氏が、一九六〇年代以降また新たな形で都市が「政治の基礎単位」としてクローズアップされるようになり、「都市は市民参加の運動と制度の根拠地として、参加民主主義時代の戦略点」となっていったという事実認識を提示したことと(19)、深く関連していると思われる。こうしたトエニの地域行政社会学的分析、そして、松下や篠原の運動論的政治学の視角からわれわれが引き出すべきは、一九七〇年代における都市自治体や市民の新たな動向を、一九八〇年代の一連の改革と結びつけて捉える視点である。
  以上の議論をふまえ、本稿は、アプローチ方法としては、現代フランスにおいて提起される地方分権改革の問題を、制度論に偏することなく、中央政府サイドからの政権戦略の側面と地方政府サイドからの分権化要求の側面の両側面から、政治学的分析を通して明らかにしていくことを重視する。また、理論的視角としては、コミューンに対する知事の行政的・財政的後見監督の廃止や地域民主主義の強化など、従来解明されてこなかった地域行政の自由化や民主化に関わる改革の運動的源流を、都市(コミューン)の台頭や市民活動の活発化といった一九七〇年代の新たな動きのなかから抽出していく。
  これらの問題を検討するため、本稿は以下のような章構成をとる。
  本稿前半(第一章・第二章)では、政権戦略におけるレジオン改革およびコミューン改革の位置を、フランス第五共和政下における歴代政権の比較のなかから浮かび上がらせていく。まず第一章では、ミッテランが一九七〇年代を通じて展開した政権獲得戦略のなかで、地方分権化の公約化が極めて重要な意味をもっていたことをレジオン改革とのかかわりにおいて明らかにする。レジオンの地方公共団体化を想起するとき、まずわれわれは、次のような疑問に行き当たる。すなわち、レジオン改革に並々ならぬ意欲を見せていたドゴールが、かつて、レジオンの地方公共団体化を提起した際、彼はそれに失敗したにもかかわらず(一九六九年国民投票の否決)、なぜ、ミッテランはその改革に成功したのか、と。ここには一〇年以上の時間的推移がある。この間に政権を担当したポンピドゥーとジスカールデスタンの両政権がレジオン改革に消極的であったとすれば、この時期に何らかの政治的・経済的・社会的状況変化があったと推察される。この問題を解明するため、ここでは、その背景にミッテラン政権の支持基盤としての都市・市民勢力の存在を確認し、レジオン創設要求の思想的・運動的源流として「クラブ・ジャン・ムーラン」の分権的参加デモクラシー論とその後のレジオン主義的市民運動を設定する。一九六八年以降、ドゴールは、国民の「参加」要求を改革的気運と結びつけることによって、レジオン改革の実現を模索する一方、ドゴール体制に批判的な自主的研究クラブが市民階層のなかで数多く創設されていった。ミッテランは、一九七一年のエピネー大会を端緒に社会党の刷新作業を開始し、一九八一年の大統領選挙における自らの当選を準備する。反ドゴール主義的市民勢力の台頭とミッテランの政権獲得戦略は、社会党などフランス左翼諸政党とレジオン主義的市民運動との結合というかたちで、一つの流れとなった。レジオン創設を含む地方分権化は、フランス左翼諸政党の基本政策として定着し(一九八一年の大統領選挙における『ミッテラン候補の一一〇の公約』)、ミッテランはついに大統領に当選することになる。ついで第二章では、ジスカールデスタン政権の地方制度改革構想を紹介するとともに、この構想を彼の政権基盤強化戦略との関連において検討する。ここでは、地方制度改革と政権基盤の強化を結びつけようと企てたジスカールデスタン戦略の限界性が明らかにされ、ミッテラン戦略との対比が重要になってくる。国会内に極めて脆弱な大統領与党しか持たないジスカールデスタンは、政権基盤強化の観点から、当時、国政レベルの諸政党にはほとんど組織化されていなかった、政治的には「中道派」に位置する農村部の地方議員(地方名望家)の支持動員を必要としていた。従って、そこに提出された地方制度改革法案は、レジオン改革を回避し、もっぱら当時深刻な諸問題に直面していた農村コミューンの現状打開を企てるものであった。こうした事実に鑑みると、一九七〇年代後半のフランスには、政権の座にあったジスカールデスタンと政権の座を狙うミッテランとが、地方制度改革構想をめぐって対立していたことがわかる。これら二つの構想の比較から、ジスカールデスタン政権の支持基盤が有する農村的性格と、ミッテラン新政権の支持基盤が有する都市的性格が明らかになる。
  本稿後半(第三章・第四章)では、その特徴的改革(コミューンに対する知事の行政的・財政的後見監督の廃止と地域民主主義の強化)の運動的源流をたどるべく、二つの都市コミューン(グルノーブルとマルセイユ)を取り上げる。これら二つの都市コミューンは、一九七〇年代のフランスを代表する社会党系自治体であり、「分権型自治体政策」と呼ぶべき新しい政策決定スタイルを開発していった点が特筆すべき点である。しかし、その運動の志向性はかなり異なっている。すなわち、マルセイユ市の自治体自律化運動が、国家官僚主導の中央集権国家を批判し、メールを含む地方議員への権力付与を目標とする分権化を要求するのに対し(地域権力強化型)、グルノーブル市の自治体改革運動は、中央集権国家を批判しながらも、さらに、地域レベルにおける自主管理社会主義の理念に基づいて、地域権力を市民へさらに分割することを目標に掲げるのである(地域権力分割型)。まず第三章では、ミッテランの分権・参加法制改革のなかで地域民主主義強化が課題として明確化された背景を明らかにすべく、その運動的源流としてグルノーブル市における住民参加型都市政策の開発があった点に着目し、ユベル・デュブドゥ率いるグルノーブルの「自治体活動グループ(Groupe d’Action Municipale 以下GAMと略す)」が「地域民主主義」をスローガンに掲げて展開した自治体改革運動について検討する。グルノーブルの「分権型自治体政策」は、都市政策の策定過程における住民参加の模索という形で具体化されていった。こうした新しい自治体政策が開発されることによって、地方分権改革後の自律的地方自治体像は法制度改革に先行する形で形成されていたと考えることができる(都市コミューンにおける官治・集権型から自治・分権型への自治体政策の転換)。そして最後に、第四章では、コミューンに対する知事の行政的・財政的後見監督制の廃止というミッテランの分権・参加法制改革のなかで最も特徴的な施策が実現されるに至った背景を明らかにするため、その運動的源流として、ガストン・ドゥフェールの指導のもとマルセイユ市において進められた都市コミューンの自律化運動を仮定する。こうした都市における新しい動向は、中央統制に反対し、分権化を志向し、分権型自治体政策を開発していく地域政治構造の地殻変動を体現するものであり、とりわけマルセイユ市の場合、地域経済の構造的危機という一九七〇年代の地域社会が直面していた課題に対し、国家官僚に依存することなく、市当局が自ら対策に乗りだした点が重要であった。公的セクターによる公的領域への介入といえば、もっぱら国家による介入を想起する伝統の強いフランスにあっても、コミューンによる経済介入政策は、一つの時代的要請であったと言える。しかし、当時の内務官僚たちとマルセイユ市長ドゥフェールとの管轄をめぐって引き起こされた軋轢は、ドゥフェールをして地方分権改革(とりわけ、内務官僚や知事による行政的・財政的後見監督の廃止)への情熱をかき立てる結果となった。彼は、一九八一年にミッテランが大統領に当選すると、自ら、首相ポストではなく、内相(地方分権相兼任)ポストを欲し、地方分権改革の実現に立ち上がることになる。

(1)  岡村茂「地方分権化政策の光と影−ミッテラン政権下における地方行政改革の問題性−」(西堀文隆編『ミッテラン政権下のフランス』ミネルヴァ書房、一九九三年)、一七八頁。なお、分権・参加法制改革に関する氏の考察は、同「フランス地方分権化政策と公選職兼任−ミッテラン改革の評価をめぐって−」(龍谷大学社会科学研究所『社会科学研究年報』一九九一年)において、さらに詳細に展開されている。すなわち、この論文は、「地方分権化は、あたかも名望家による名望家のための改革の観を呈する」(五頁)との批判的見地から、国会議員職と地方議員職(多くは、大都市市長)を兼職する「名望家」層がこの改革を主導した問題性を、公職兼任を禁止ないし制限する法律が提案されながら結果的には骨抜きにされていった事実と結びつけることによって、明らかにしている。
(2)  Loi n゜ 82-213 du 2 mars 1982 relative aux droits et liberte´s des communes, des de´partements et des re´gions.
(3)  大山礼子「立法紹介・地方分権−一九九二年二月六日の指針法律第一二五号−」(『日仏法学』一九号、一九九三ー一九九四年)、九六頁。
(4)  Loi d’orientation n゜ 92-125 du 6 fe´vrier 1992 relative a` l’administration territoriale de la Re´publique.
(5)  この一〇年間に、全体で五〇以上の法律と三五〇以上のデクレが実施されたといわれる。これら地方分権改革関連の諸法律については、拙稿「ミッテラン政権下における『地域民主主義』の形成」(『立命館法学』一九九七年度第一号)の表一(一六三頁)を参照。
(6)  ここでいう「地域民主主義」は、もっぱらコミューン(ないしはその連合体であるコミューン連合区や都市共同体など各種の公施設エタブリスマン法人ピュブリーク)の段階におけるデモクラシーのことであり、実際には、ここを舞台とした市民のアクティヴな参加がイメージされている。こうしたフランス独自の「地域」イメージに関しては、次のものを参照。大津浩「フランス地方分権政と単一国主義ー歴史的背景とミッテラン改革」(宮島喬・梶田孝道編『現代ヨーロッパの地域と国家』、有信堂、一九八八年)、四五頁。
(7)  同法成立後、内務大臣から各県の県知事へ送られた「一九九二年三月三一日の通達」は、このように、九二年法の第二編を地方分権関連諸立法の「延長線上」に位置づけていた。CIRCULAIRE DU 31 MARS 1992 relative a` l’administration territoriale de la Re´publique (loi d’orientation n゜ 92-125 du 6 fe´vrier 1992, titre II), BO du ministe`re de l’inte´rieur n゜ 2/92. La de mocratie locale, juillet 1988, Les editions des Journaux officiels, p. 69. このことから、次のように言うことができる。すなわち、基本法としての八二年法を成立させたのち、関連する諸法律を順次成立させていった社会党政権は、シラク内閣の成立(一九八六年)によって、その改革事業を一時的に休止しながらも、ミッテラン大統領の二回目の当選とその後実施された総選挙での左翼の勝利(一九八八年)によって議会内の主導権を奪回し、九二年法を成立させることによって、分権・参加法制改革の基本方針を貫いた、と。しかしこれは、あくまでも一九九二年時点におけるロジックであって、本稿第三章において検討するように、ミッテランの新政権が成立した直後の一九八一ー八二年には、政権基盤確立の観点から、地方分権化(ミッテラン)と地域民主主義(デュブドゥ)は対立関係にあった。
(8)  一九九九年七月八日、「地方分権一括法案」が参議院を通過し、同法は成立するに至った。今後、全国の地方議会で機関委任事務の廃止に伴い必要となる条例や規則が整備され、二〇〇〇年四月には施行されることになる。
(9)  分権・参加法制改革が有する諸側面のなかでも、とりわけ、レジオン改革の思想的・運動的源流に関するわが国の政治学的研究としては、さしあたり次のものを指摘することができる。野地孝一「フランス地域政治の危機と分権改革−レジオンを中心として−」(日本政治学会年報『現代国家の位相と理論』一九八三年)。川崎信文「フランスにおけるリージョナリズムーその歴史と現状ー」(新藤宗幸編『広域行政の研究』、総務庁長官官房企画課、一九九二年)。野地論文は、「一九六〇年代後半より台頭した周縁のナショナリズム、いいかえれば『レジオナリスム・エトニーク(re´gionalisme ethnique)』」が、結果としてフランスの政治に無視できない影響を与え、そのなかで最も注目されるべきは、「フランス社会党を中心とした左翼の政策と発想に対する影響」(一九七頁)であったと述べて、レジオン主義的市民運動がミッテラン率いる新生社会党へと結集していくプロセスを明らかにし、そのことにより、フランスの地方分権改革がレジオン主義的な下からの要求・運動に基づくものであることを明らかにした。また、川崎論文は、欧州統合化の進行するなか、加盟諸国の「分権化」への趨勢が語られるようになる一方、フランスは「例外的に中央集権主義の強い」国と位置づけられ、この趨勢に逆らう多くのジレンマをかかえているとし、フランスのレジオン改革をめぐるこうした複雑な議論をふまえた上で、「自治体としての『地域圏』の設定に至る歴史的条件、戦後の制度改革史、現在の制度および今後の課題について検討」している。なお、川崎氏は、ドゴール政権期から活発に展開されたレジオンを基軸とするフランスの行政機構改革について、一連の論考において克明に検討を加えている。例えば、川崎信文「フランス地方行政における県知事の位置と役割−戦後の論争と一九六四年改革−」(田口富久治編『主要諸国の行政改革』勁草書房、一九八二年)。
(10)  例えば、川崎信文「フランスにおける地方制度改革と知事団」(『広島法学』第一一巻第三ー四号、一九八八年、『広島法学』第一二巻第四号、一九八九年)を挙げることができる。この論考において、氏は「この改革過程における内務省・知事団(Corps pre´fectral)の対応(思考と行動)の特質」を明らかにしている。というのも、「知事団は、この改革のいわばシンボルともいうべき、県(de´partement)および地域圏(re´gion)の執行権のそれぞれの議会議長への移行、県会そして市町村会に対する事前の後見監督権の廃止、さらに『知事(prefet)』という職名の廃止等が実施され、一九世紀以来のそのメンバーの二元的地位、すなわち国家の代表であるとともに、地方自治体としての県の代表でもあるという地位を失った」(その一の一八〇頁)ことから、こうした事態の展開に対する彼らの対応が極めて注目されるからであり、事実そこには様々な対応行動とその理念が認められるからである。
(11)  この点に関しては、川崎信文、前掲論文、一九八八年、一八〇頁および一八三頁の註(8)を参照。氏が指摘しているように、一九八二年の以前と以後の「連続性」は、「いくつかのテーマで、また異なる次元で語られて」おり、これを論じる場合には、レベル分けの作業が前提とされなければならない。
(12)  連続性@は、「地方公共団体責任権限促進」法案(一九七八年)と八二年法の法案の起草作業にあたった担当者が同一人物である点に着目し、政権は交代したものの、内務省内における地方制度改革への姿勢には変化がなかった点を示唆している。その担当者とは、フランスの地方公共団体の自立可能性を積極的に論じる典型的な「地方の時代」論者ピエール・リシャールのことである。彼は、八二年法の法案起草チームで重要な役割を果たした内務・地方分権省地方公共団体総局長の役職にあったことで知られているが、同時に彼は、かつてジスカールデスタン政権下の一九七八年に提出された「地方公共団体責任権限促進」法案の担当者でもあった(この七八年法案に関しては、本稿第二章において詳述する)。リシャールが八二年法の法案起草メンバーに加わった経緯に関しては、八二年法の成立過程を関連諸アクターたちの行動を通して検討している次の文献を参照。Jacques Rondin, Le sacre des notables:La France en decentralisation, Fayard, 1985. ロンダンによれば、この法案の起草にあたった内閣官房室が比較的若いメンバーによって構成されており、議会運営の経験に乏しかったことを危惧した内務兼地方分権大臣ガストン・ドゥフェールが、前政権下における地方制度改革において豊かな経験を蓄積していたリシャールを呼び寄せたとされる(ibid., p. 51)。
(13)  連続性Aは、地方分権改革後も農村コミューンに対する県知事の後見監督が実質的に残存している点に注目し、中央集権的行政組織が八二年以降も継続している点を示唆している。ただし、こうした議論が必ずしも、分権・参加法制改革の不徹底性を「批判」する立場から論じられているわけではなく、同時にそれは、分権・参加法制改革によって既得権限を奪われた知事たちが画策する「失地回復」の動きと呼応するものでもある。分権・参加法制改革に対するこうした知事団の対応に関しては、川崎信文、前掲論文、一九八八年・一九八九年を参照。
(14)  こうしたレジオン改革の原動力をなす「レジオナリスム」の動きは、政治家、文化人、地理学者、法律家など多数が「超党派的に」参加したといわれる「フランス・レジオナリスト連盟」が一九〇〇年に結成されたことにも示されるように、第三共和政期には既に存在していたし、ドゴールがレジオン改革に並々ならぬ意欲を示し、レジオンを一つの拠点として地域政治構造の近代化をはかり、農村部の地方名望家たちと対決を試みたことも(ドゴールの「地方侵攻作戦」)、よく知られているところである。「地域の精神」が脈動する地域レベル・民衆レベルにおけるレジオナリスムの歴史研究(とりわけ、経済史的アプローチ)としては、遠藤輝明編『地域と国家ーフランス・レジョナリスムの研究ー』(日本経済評論社、一九九二年)を参照。
(15)  ここでいう「地域政治構造」とは、コミューンを中心とした地域の政治権力世界のことを指しているが、この概念については、より理論的観点から若干補足しておきたい。フランスにおける政治の科学シァンス・ポリティークとしての地方政治研究は、一九七〇年代にようやく本格化するのであるが、その理論史はまさに「地域システム理論の発展」として特徴づけられる。そして、この発展過程はA・マビローの「地域システム」論において一定の総合化が図られているといってよい。マビローは、その理論化作業を『フランスの地域システム』Albert Mabileau, Le systeme local en France (2e ed.), Montchestien, 1994.において行い、「地域システム」を次のように定義する。すなわち、これは「地方の公的諸機関と諸アクターの総体」であり、「組織的なまとまりを形成するため、両者の調整的諸関係を維持している」(ibid., p. 7.)と。こう定義した上で彼は、地方政府と呼ぶにふさわしい形で自律化を深める今日の地方自治体の動向を明らかにするとともに、地域システムのなかで「役割」あるいは「機能」を担ったアクターたちの存在を指摘する。マビローの地域システムとは、地域社会から入力されたインプット(社会的諸要求)を受けて、地方諸機関と地域のアクターたちがこれを処理し、地域の政策としてアウトプットしていく、いわば政治的コミュニケーションの場そのものであるといえる。そして、マビローによれば、地域権力(あるいは、地域諸権力)は、この地域システムにおいて、地域アクターたちにより分有されているとされる。ただ、マビローのこのモデルでは、アクターたちが担っている「役割」や「機能」は定義されるが、彼らの間で日々繰り広げられる地域システム内部での具体的政治過程が浮かび上がってこない。従って、本稿では、「地域政治構造」の特徴として、その絶え間ない自律化・多様化の志向性と、さらには、個別地域研究を通じた、その構造内部のより詳細な政治過程分析の必要性を強調するものである。ここで述べられた、フランスの地域システム理論の発展史とマビローの「地域システム」論に関しては、拙稿「フランス地方政治研究の動向」(『立命館法学』、一九九八年度第六号)を参照。本拙稿では、M・クロジェを旗手とするフランス組織社会学派による「地域政治・行政システム」概念を駆使した研究を、フランスにおける政治学としての地方政治研究の起点と位置づけ、その後の地方政治理論の発展を「地域システム理論の発展」と捉えている。この発展過程は、M・カステルの「都市システム」研究といったマルクス主義的アプローチをも包摂しようと試みた、マビローの「地域システム」論において総合化が図られているとしている。
(16)  Jean−Claude Thoenig,”La de´centralisation, dix ans apre`s, POUVOIRS n゜ 60, 1992, p. 8. なお、ここでいう「ドゥフェール改革」とは、「八二年法=ドゥフェール法」を基本法とする一連の地方制度改革のことである。
(17)  ibid., p. 8.
(18)  中央官僚主導の中央集権国家が地方分権化されていく原動力ないしは地殻変動的エネルギーを明らかにしている点で、松下圭一氏が提起するこの視点は、きわめて重要である。かつて氏は、わが国における「地域民主主義・自治体改革」の必要性を論じる際、官治・集権型から自治・分権型への政治・行政スタイルの転換を語り、その基底に「都市型社会」の成立、さらにはそれに伴う「市民活動の活発化」を見出した。そして氏は次のように述べている。すなわち、「市民ついで自治体の政治自立は、日本にかぎらずひろく都市型社会の成立を背景にはじまり、近代化を主導した国家単位の政治構造を、あたらしく分権化・国際化・文化化していく」と。松下圭一『現代政治の基礎理論』(東京大学出版会、一九九五年)、六〇頁。また氏は、一九九〇年代、日本で「政治・行政改革」が日程にのぼる背景として、次のような「政治の構造変化」があるとしている。すなわち、先進国からはじまる、@「都市型社会の成立、これにともなう地域・地球規模での市民活動の自立」、A「国の省庁行政の劣化に伴う絶対・無謬という国家観念の破綻」、B「政府概念の自治体、国、国際機構への三分化」という三つの変化である。松下圭一『政治・行政の考え方』(岩波新書、一九九八年)、一九五頁。
(19)  篠原一『市民参加』(岩波書店、一九七七年)、第V章「参加民主主義時代の都市」を参照。氏は次のように述べている。すなわち、「一九六〇年代に入ると、直接都市問題にとりくむ活発な運動が展開されるとともに、それに附随して政治の基本単位としての都市という、新しい問題もまた脚光を浴びるようになった。つまり、都市には各種の市民運動が噴出して、都市における政治の季節の到来を予言したが、それと同時に、マンモス化し、管理化した国の政治に対して、市民の参加を保障し、市民の生活要求に答える政治組織としての都市自治体の復権が声高く叫ばれるようになった。このようにして、都市は市民参加の運動と制度の根拠地として、参加民主主義時代の戦略点となった。従ってまた、政治の場としての都市がよみがえることなくして、民主主義をよみがえらせることは不可能となった」(同前、一六二頁)と。
  またこの時期は、民主主義理論の分野において参加デモクラシー論が大きく発展を遂げた時期にあたっており、このことからも、市民たちが分権化と政治参加の拡大を要求する運動が積極的に展開され、理論家たちが民主主義の政治理論のなかにこれらの現実を取り入れていくという当時の時代状況が推察される。例えば、ペイトマンは、一九七〇年に『参加と民主主義理論』を記している。Carole Pateman, Participation and Democratic Theory, Cambridge University Press, 1970. 邦訳は、C・ペイトマン著・寄本勝美訳『参加と民主主義理論』(早稲田大学出版部、一九七七年)。さらに、一九七七年の著作において、ベンサムに始まる自由民主主義の四つのモデルを歴史的かつ分析的に論じたマクファーソンが、自由民主主義の現代的再生のモデルを参加デモクラシーにおいて探り当てていたことは、あまりにも有名である。C.B. Macpherson, The Life and Times of Liberal Democracy, Oxford University Press, 1977. 邦訳は、C・B・マクファーソン著・田口富久治訳『自由民主主義は生き残れるか』(岩波新書、一九七八年)。もちろん、それ以降民主主義理論としての参加デモクラシー論が着実な発展を遂げていることは周知の通りである。その理論発展史をここで扱うことはできないが、本稿の関心からして最も重要と思われる点についてのみ触れておきたい。それは、これらの理論のなかで、市民の参加・結集の単位である地域コミュニティー空間や都市空間がどのように位置づけられているのかという点である。今後、これを一つの接点とした参加デモクラシーに関する理論研究と地域政治に関する実証研究の総合化が要請されている点を、確認しておきたい。


第一章  政権戦略としてのレジオン改革


  周知のように、ドゴールは、一九六九年、自らが提案した国民投票に敗北し、これをきっかけに大統領職を辞するに至る。この国民投票にかけられた案件の一つがレジオン改革であった(1)。ドゴールのレジオン改革構想が挫折してから一〇数年の年月が経過した一九八二年三月二日、ドゥフェール法が成立し、ミッテランの左翼政権の下でついにレジオンの地方公共団体化が正式に承認される。この時間的推移のなかで、一体何がこの改革を可能ならしめたのか。われわれは、それを、単に条文テクストの比較だけでなく、むしろ、両政権の政治的基盤の比較のなかで明らかにしなければならない。というのも、地方制度改革自体、各政権にとって、その基盤強化と結びついた戦略的位置を占めているからである(地方制度改革という外観をとった地域政治構造改革戦略)。従って、これら二つの地方分権改革は、ドゴールにとっては政権基盤強化戦略の一部として、ミッテランにとっては政権獲得戦略の一部として、捉えられることになる。結論から述べるならば、一九六九年にいったんは挫折したレジオン改革が、一九八二年に実現した理由は、一九七〇年代、都市・市民レベルにおいて醸成された改革要求のエネルギーが、ミッテランの政権獲得戦略と結びついた結果であると考えられる。
第一節  ドゴールのレジオン改革における二つの目標
  事実、全国規模の動きがわが国を新たな調和エキリブルへと向かわせている。何世紀にもわたる中央集権化の努力、これは、わが国に次々と統合されていった諸地域プロヴァァンスが多様性を帯びていたため、長い間、わが国の統一性を実現・維持するためには必要とされていた。いまや、こうした努力は必要とされていない。反対に、レジオンの諸活動こそが、明日を担うわが国の経済力の原動力であるように思われる。
  これは、フランス第五共和政の初代大統領シャルル・ドゴールがレジオン改革を基本軸とする地方分権改革への意思を表明した、有名な演説(一九六八年三月二四日、リヨン)の一節である。「フランス本土の中心に位置する中央権力と、地方の代表者たちが保有する周辺権力との間の『新たな調和』」を模索するドゴールのこの「政治ヴィジョン(2)」は、国民投票におけるレジオン改革法案として具体化される過程で明確化されていく。すなわち、一九六八年一二月一一日、国民議会において、国民投票の実施に関する趣旨説明をおこなった国務大臣ジャン・マルセル・ジャンネニーは、二〇世紀初頭におこなわれたクレマンソーの演説に着想を得つつ(3)、地方分権改革に市民の政治参加の増進と経済効率性(pratique)の追求という「二重の目的」を付加し、これを次のように説明した。すなわち、「国家およびレジオンの発展を目指すにあたって、ただ公民=市民だけでなく職能諸集団の代表者たちをも組織することは、真の経済的・社会的民主主義だけでなく効率性を追求する手段でもある」と(4)
  こうして、一九六九年の国民投票に託されたドゴールの願望は自ずと明らかになる。ドゴールは、フランス国家の近代化という至上命令のもと、既にレジオンを基礎単位とするフランス経済構造の改革を開始していた。これは、「職能諸集団の代表者たち」など地域の経済的イニシアティヴをフランス経済構造改革の担い手と位置づけ、彼らと中央官僚との結びつきを強めるための地方行政改革を推進することによって、逆に伝統的な農村型社会に安住する地方名望家層をせん滅せんとするものであったことから、地方名望家に対するドゴールの「地方侵攻作戦」と形容されてきた(5)。まさに一九六九年の国民投票は、従来からドゴールが推進してきたこの「作戦」をさらに徹底するものだったのである。そして後述するように、ここには、レジオン・レベルにおける職能代表制の導入も射程に入っていた。
  しかし、ドゴールの「地方侵攻作戦」も、一九六九年の国民投票が地方名望家たちからの強い反発によって否決されたとなれば、最終的には失敗に終わったと言わなければならない。以下、ドゴールが大統領職を辞任するきっかけとなったこの国民投票についてより具体的に検討し、ドゴールのレジオン改革の諸特徴と問題点について明らかにしていく。
第一項  フランスの経済発展と国家の役割−レジオン改革と上院改革の背景−
  ドゴールが、一九六九年の国民投票に敗北した原因の一つとして、案件の設定の仕方に問題があったといわれる。この案件の設定をめぐっては、当時、政府関係者のなかからも批判の声が聞かれたにもかかわらず、彼は自らの考えを変更することはなかった。すなわち、レジオン改革と上院改革がまとめて一つの案件として提出され、国民の審判にゆだねられたのである。そして、この改革案が上院の改革と抱き合わせで提案されたことは、結果として、地方議員からの激しい反発を惹起することになる(6)。しかし、レジオン改革と上院改革を抱き合わにするというリスクの高いこの提案は、決して思いつきやその場しのぎのものではなかった。この謎を解く鍵は、彼の考えるフランスの経済発展における国家の役割にあると思われる。まず、この点から見ていくことにする。
  共和国大統領としてのドゴールの最大の関心事は、世界における一流国としてのフランスの地位の確保にあったといわれる。とりわけ、彼が外交におけるフランスの優位を標榜するとき、そこには当然、経済力の復興が前提とされていた。つまり、繁栄が強調された「ドゴール時代とは、経済計画のもとで政治と大資本が結びつき、資本主義の急速な発達を見た時代だった」のである(7)。そしてドゴールの場合、こうした経済力の復興あるいは経済の計画化の手段は、国家の再構築、とりわけ公的機関の近代化(8)と結びつけられていた。この「計画化」という考え方は、戦後まもなく、経済「近代化」の推進のために、ジャン・モネのイニシアチブで開始されたものといわれ、彼の計画化構想は「政府、経営者、労働者、その他国民諸階層の協調のなかで経済の近代化を図ろうという理念に立つものであった」という(9)。ドゴールもまた、経済発展における国家の役割を重視する「計画化」論者の一人であった。
  オネによれば、ドゴールにとって国家の役割は、経済発展を指導するだけでなく、経済発展にともなう社会変革を推し進めることにもあった。ドゴールは一九六三年七月二九日の記者会見で、「企業内で労働と資本と技術部門の協調コーペラシォンを組織し、職能団体の代表者たちと権力サイドとの協調をよりよい形で組織化すること、これを進めていかなければならない」と述べている。こうした考え方のなかでは、社会的・経済的アクターにはこの協調体制を機能させる責任があり、国家は、行政機関や審議機関をこの新しい協調体制に適合させるための改革を通じて、この協調体制を組織化する責任があった(10)。この「協調体制」こそ、ドゴールがのちに提起する「参加」方式のことであり、レジオン改革と上院改革が提案された背景には、こうした考え方があったと考えることができる。
  一九六四年から一九六八年までの時期、賃金政策を中心とする経済政策問題が浮上すると、ドゴールは次の二つの計画を企てた。すなわち、一つは「経済・社会評議会を現状に適合させる計画」であり、もう一つは、「レジオン改革と上院改革に関する計画」であった。一九六三年の時点ですでに、政府の経済政策は高度成長にブレーキをかけるものとして、企業経営者たちは反発を強めていたが、ドゴール政権のこれらの提案が、経済領域に対する国家の不要な介入を許すものであるだけに、政権に対する彼ら経済エリートたちからの風当たりは強まるばかりであった。しかし、ドゴールはその方針を変更しなかった。むしろドゴールは、「いくつかのレジオンに活力や人口が集中し、他方で、経済発展が減速している」状況を回避すべく、第五次計画(一九六五ー七〇年)の実施によって、国土整備を推進し、所得政策を拡大する機会としなければならないと考えたのである(一九六六年五月二三日、リール)。かくして、経済・社会評議会の機能拡大が実行に移される。そして一九六八年二月、彼は、レジオン改革を進める意志を表明する。すなわち、社会の発展が一定の段階に到達したとき、フランスは「地方公共団体の代表者たちとレジオンで活動する人々アクティィテを、我が国の経済的・社会的秩序のなかにある様々な巨大組織に携わる人々とともに、一つの議会に集結させる」必要がでてくるであろう、と(11)
第二項  レジオン改革と上院改革
  一九六八年九月九日、ドゴールは自らのレジオン改革計画を明らかにした。すなわち、「レジオンがもつエスニック的・地理的性格、規模、リソースが、レジオンに固有の活力を与えている」がゆえに、レジオンは、「経済・社会領域にあっては、本質的に地域的要素として」立ち現れる、と。またこのとき、ドゴールは、レジオンが地方分権化と参加への道を開くに違いないとも考えていた。それは、彼の次の言明のなかから読みとることができる。
今や、地方分権化によって、レジオン知事がしかるべき行政諸手段を獲得しなければならない。レジオン議会もまた、地方公共団体の代表者と経済・社会・大学といった各活動分野の代表者を集結させなければならない。このレジオン議会は、レジオンの施設整備と開発にかかわるすべての計画が付託されなければならないし、資金運用にあたって、この議会はいくつかの財政的責任を負わなければならないし、財源は、国家、あるいは、とりわけレジオン内における課税や公債によって供給されなければならない。そして最後に、レジオン議会は、パリで地方公共団体を代表している上院議員たちの選出方法において、その首長まで、選ばれなければならず、それゆえ、われわれが全国レベルで組織されることを要求している経済的・社会的参加方式が、レジオン・レベルに創設を望んでいる経済的・社会的参加方式と関連づけられなければならない(12)
  他方、上院改革はどうであったか。レジオン改革と抱き合わせで提案されたこの上院改革は、「上院議員のほぼ全員と政治階級の大半から激しい反発を巻き起こしていた」。しかし、ドゴールにとって、一九四六年以降「かなり無力な地位」に「押しとどめられてきた」上院は、もはや真の権力を持っていなかった。とりわけ、大統領に優位な地位が与えられている第五共和政という制度枠組みの下では、国民議会が万一混乱に陥った際の「抑止力(contrepoids)」としての役割を、上院が果たす必要はなくなっていたのである。ドゴールの上院不要論はさらにつづく。たとえ、「フランスにおける新たな地域社会の現状」として、徐々に農村的性質が後退し、都市的性質が拡大しているとしても、上院は、こうした動向を「もはや、きわめて不十分にしか代表して」いない。政治的に不要となった上院は、従って、「性質上、諮問的なもの」となる必要がある、と(13)
第三項  ドゴールの政治的敗北
  一九六九年四月二七日、国民の審判が下され、ドゴール将軍は大統領職を辞する。国民投票を目前に控えた一九六九年初頭の状況については、ドゴール自身の発言を中心に、オネが詳細に検討を加えているところである(14)
  ドゴールは、この問題に関する最初の発言を、一九六九年二月二日に、カンペールでおこなったといわれが、そのテーマは「積年の地方分権化要求について」であったという。すなわち、今や国民的統一性が維持されているとしても、「わが国は、何世紀もかけながら、プロヴァンスの結集を通じて形成されてきたのであり、それぞれのプロヴァンスは、そこに自らの資源や忠誠心、魂や価値観を持ち寄った。そして、わが国は、大西洋、英仏海峡、北海、ライン川、アルプス山脈、地中海、ピレネー山脈に囲まれたフランス全土において、その新たな生き方を熱烈に全うしようと決意したのだ」と。さらに、ドゴールはつづける。「国土全体に対して国家がその活動を展開する」という従来の枠組みに変化が生じつつあり、情報やコミュニケーションの進歩といった近代化の進展によって、各レジオンでバランスのとれた参加や開発の方法・手段を見いだすことができるようになった。従って、レジオンは、それ以後、「ものごとを発議し、審議し、実行する新しい枠組み」になる、と。「参加」方式という基盤に立脚したレジオンを組織することは、レジオンの各決定機関が議員と社会的・経済的分野の代表者たちから構成されることを意味していたが、ドゴールは、その時点では、「その執行権は、レジオン知事によって維持される」と考えていた。さらに、この「革新事業」は、上述のような上院改革を通じて、「国家計画と同様の原則に沿って」実現される必要があった(15)
  一九六九年三月一一日、国民投票の日程は正式に四月二七日と定められた。主要諸政党の見解も明らかにされるなか、ドゴールは、フランスの「進歩」には参加方式とレジオン改革が必要になるという彼の信念を、テレビ・ラジオ演説で改めて主張する。すなわち、フランスが、自らの「歩みを、秩序と繁栄のなかで前へと」進めていくという目的のもと、「公正な判断力をもった人々は、参加方式の設置を要請している」のであり、それは、「レジオンへのわが国の組織化」と「実際には、徐々に付随的な役割へと縮小されてきた」上院の刷新を通じておこなわれる、と(16)
  さらに、投票の二週間前、ミシェル・ドロワのインタヴューに答える形で、ドゴールは、フランス国民に最後の訴えをおこなった。しかし、オネによれば、ドゴールはその時点で、「投票の結果について、もはやほとんど幻想を抱いていなかった(17)」という。ともあれ、この時点でのドゴールは、まずなによりも、上院の長い歴史のうえに築かれたその発展過程とその役割をふまえつつ、ただ、上院改革を「実現しようポジティェ」と企てていた。すなわち、「事実、第五共和政憲法を採択させることによって、最終決定の場面ではなく、諸法案の審議過程において、上院に対し、まず第一にその名称を、次いでは現実に機能する可能性を、復活させたのはこの私である。そして、私が意図していることは、今、上院に権威と形を与える新たな構成と権限を与えることによって、その建て直しをはかることである」と。次いでドゴールは、五月事件と「^近代的管理社会ソシェテ・メカニック・モデルヌ」の危機についても言及した。すなわち、「昨年の春、アジテーターたち」は「フランスの重病マレーズ・プロフォン」を説いたが、こうした重病を導いたのは、近代化そのものであった、と。しかし、まさにこうした重病という危機が原因となって、「フランスの道徳的・社会的安定性にとって、指導する側と指導される側のコンタクトや行動を新たに組織化すること」は、重要性を帯びてくる。従って、ここに、「参加」方式を組織する必要性が発生することになる(18)
  ドゴールは、最後に、レジオン改革計画について言及する。そして、これが最も重要な意味を持っていた。
  フランス革命は、これまで、地理的条件、歴史的条件、人々の気質に由来する、わが国のプロヴァンスから、フランス行政組織におけるあらゆる行政区画としての地位を奪い、数にしてその四倍ある諸要素へと、国土を強制的に切り分けたのである。すなわち、それは(・・)県である。しかし、プロヴァンスは、そうした形で、制度上は無視されてきたにもかかわらず、一七九年間にわたって、フランス人の精神と魂のなかに留まりつづけたのである。根だやしにするかのごとく、あらゆる混合的な配置転換があったとしても、オーヴェルニュ地方とオーヴェルニュ人たち、ブルターニュ地方とブルターニュ人たち、ロレーヌ地方とロレーヌ人たち、パリ地域とパリ人たち、プロヴァンス地方とプロバンス人たち、フランドルーアルトワ地域とノールの人たちは、いつもそこに居住していたのである、と(19)
  レジオンを基軸とする地方分権改革を実施するためにドゴールがおこなった、こうした最後の、そして、意外ともとれる発言についてオネは、「今日の時代的要請」に応えるべく、「伝統と近代化、『国民的エスプリ』と『プロヴァンス的エスプリ』、国民的統一性と地域の諸自由というそれぞれの歴史的和解を確固たるものとした(20)」と評価する。しかし、これが民衆の心をつかむには至らなかったことは、その投票結果が明らかにしている。
  とはいえ、ドゴールが地方分権改革を提起したことによって、従来の「ジャコバン国家」モデルとは異なるもう一つの政治方針が一九七〇年代へと継承されていったことも、また事実である。ブリュノ・レモンは、この政治的敗北劇の出発点となる一九六八年のリヨン演説を、暗雲立ちこめるフランスの未来に光を与える鋭い洞察力を示すものと評価し、この演説を通じてドゴールは「政治的ヴィジョンにおいてもう一つの国家像を提案し、もう一つのフランス地方行政機構イメージを予想した(21)」と述べるとともに、これにつづく「三つの手続過程」を指摘している。すなわち、第一には、一九七〇年一〇月三〇日、リヨン市役所でおこなわれたポンピドゥー大統領の発言であり、ドゴールの後継者はここで、「地方公共団体による自由な選択に基づく地域民主主義の組織化」について言及したとされる。第二には、一九七二年に締結された「社共共同政府綱領」の「第三章  地方公共団体」である。そして第三には、一九七六年、ジスカールデスタン大統領に対して提出されたギシャール委員会報告書『ヴィーヴル・アンサンブル』である(22)。政権のレベルにおける一九六〇年代から一九七〇年代への分権的潮流の継承を示す、この第一点目と第三点目の指摘に関しては、本稿第二章における検討に譲るものとし、ここでは、第二点目に示されたフランス左翼諸政党の動向について追っていくことにする。こうした左翼諸政党による地方分権論への傾倒を語る際、ミッテランの存在を抜きには語り得ないが、その原点は、むしろ、反ドゴールの立場から地方分権改革に市民の政治参加の増進と経済効率性の追求という二重の目的を付加した、研究クラブ運動にあった。節を改め、この点について検討していく。
「ホ.72モ1」第二節  反ドゴール的研究クラブの分権的参加デモクラシー論
第一項  自主的研究クラブ「クラブ・ジャン・ムーラン」
  フランス第五共和政の成立以後、ドゴール体制に対する批判的な立場から数多くの研究クラブが結成されていた。P・A・ガーヴィッテは、市民活動の活発化によって社会的流動性が高まった一九七〇年代の状況を、「組織的なものの危機」と表現したが、まさに彼は、そこに既成左翼政党の解体状況と「二つの運動」の形成プロセスを看取したのだった。彼が指摘する二つの運動とは、一つは「研究クラブ」運動であり、もう一つは「GAM」運動であるが、「活力をもった新興勢力に属する人々は、既成諸政党にほとんど関心を抱かないため」、そのエネルギーを「二つの運動」にさし向けるようになったとされる(23)。これら二つの運動は、いずれも、中央集権主義的弊害に悩まされていたフランスの公的諸機関(官僚組織)を変革する重要な原動力として捉えられ、とりわけ研究クラブ運動は、レジオン創設・都市政策・都市計画・国土整備など、中央・地方関係の再編を軸とするフランス政治経済の改革に関する精力的な出版活動で貢献していたし、当時二一あったレジオン(未だ地方公共団体の地位は得ていなかったが)の強化・活性化、県知事によるコミューンの後見監督の廃止、公的な近隣住区システムや都市政府の創設など広い分野で様々なアイディアを提供していた(24)
  とりわけ、知識人からテクノクラートまで多様なメンバーが参加し、自主的研究クラブとして最も旺盛な活動を展開したのが、「クラブ・ジャン・ムーラン」(以下CJMと略す)であった。彼らCJMは、地方制度改革構想として「一二のレジオンと二〇〇〇のコミューン」を主張したが、その背後には、制度疲労を起こしていたフランス中央集権制に対する極めて鋭い批判的視点があった。それは、行政単位の広域化=合理化を実現することによって、地方公共団体における決定過程への市民参加をより実効性のあるものにしようとする考え方に基づいている。そして最も重要な点は、彼らが地域を単位とした市民参加にフランス社会の新たな活路を求めていたことにある。つまり、彼らの研究活動を通して分権的参加デモクラシーの理論が発展を遂げたのであり、彼らの活動は、都市コミューンにおける分権型自治体政策の発展に、理論的側面から寄与したと考えられるのである。
  研究クラブ運動は、パリだけでなく、地方においても、一九六〇年代にはすでに何百の単位で結成されていたという。まさに「クラブ」をシンボルにして、諸組織が広範に結集していたのだった。後述するように、そのうちの幾つかは、様々なアイディアを提供することによって諸政党(とりわけ、左翼諸政党)に影響を与えていた。その最も典型的な例が、CJMの地方制度改革構想である(25)。CJMは、「現存の政治勢力に絶望し、既成理論の再検討を必要とした知識人、大学教授、高級官吏、カトリック、テクノクラット、労働組合のリーダー、大学生などの合理主義者」によって一九五九年に創設され、当時三五〇名に及ぶメンバーで構成されていたといわれる(ただし、所属メンバーの匿名主義をとっていたため、一連の旺盛な研究活動が誰の手によるものなのかは定かでない(26))。その数多くの著作のなかでも、『権力を市民の手に−一二のレジオンと二〇〇〇のコミューン−』(一九六八年(27))は、フランスに分権的参加デモクラシーの時代が到来しつつあることを、言い換えるならば、地域政治構造が変動期にあることを、精緻な分析と理論をもって印象づけたといえよう。
第二項  一二のレジオンと二〇〇〇のコミューン
  『権力を市民の手に』では、まず冒頭の「問題提起(Pour poser le problem)」において、彼らがフランスの政治や行政に対してもっている現状認識(28)、さらには、変革の方向性が集約的に指し示されている。なかでも、「D.権限の再配分」(29)において、「地方分権化」(30)の必要性を展望した彼らの考え方が、最も鮮明に表明されていると考えられる。以下、その内容についてみていこう。
  フランスにおける中央集権システムは、堅固な様態を示しつつも衰退過程にあるのであって、フランス社会の今日的な変容のもとでは、抜本的な地方分権化を推し進めることにこそ道理がある。ここでいう社会の変容とは、社会発展が市民たちのあらゆるリソースの動員を要請していることを指し、そうしたリソース動員は、「地方に位置し、真に民主的な、言い換えるならば、自律的で、責任ある中間段階(relais)」を媒介としてのみ行われうるものである。従って、今後の発展が展望されるのは、主には、次に要約するいくつかの理由による。すなわち、第一には、中央集権システムが、実際には非効率となっているにも関わらず、このシステム自体は自浄能力を欠いている点であり、第二には、アクティヴで責任ある地方行政当局の必須性が強まっている分だけ、中央集権システムの非効率性は耐え難いものとなっている点であり、第三には、中央集権システムに対する根本的な検証が常に厳格に行われることで、指導者たちの信念が揺らぐ一方、新たな手法や技術の普及によって、従来の中間的行政諸段階が破壊されつつある点、そしてつまるところ、中央集権システムは根底から揺さぶられている点である。これらの点をふまえると、地方分権化(権力の分割)を押し進める次のような幾つかの意義が、想起されてくる。
  @  政治的意義地方公共団体とデモクラシー
  A  行政的意義地方公共団体と効率性
  B  経済的意義国家計画への奉仕者・補助者としての地方公共団体、一貫性と最適性、行政法人と個人的欲求の充足
  C  財政的意義地方公共団体と開発経費
  D  地方分権化と市民参加県、コミューン、そして新たな地域的枠組み
  地方分権化を実施する意義の第五点目として市民参加が強調され、「参加」という理念的目標を内実化させるための方策として、地方自治体の広域化=合理化=効率化(コミューン間協同、レジオンなど)が想定されている点は、CJMが独自に有している改革構想の核心部分に当たるものである。そして彼らは、次のように主張する。
将来における地方公共団体の枠組みや理想的な行政的・財政的構造を描いてみる以前に、われわれが改めて認識すべき点は、各行政段階において自らに関わる諸決定へ市民が参加できるよう、地方公共団体は、何らかの政治的な地方分権化の基盤にその強固な足場を築いていなければならないということである。地域諸権力の実在性は、その地域の市民たちによって是認され、正当化される必要がある。地方分権化は、今後、新しい内容が与えられ、新しい形態をとることになるであろうが、しかし依然として、その主要な存在理由はデモクラシーの実践エグゼルシスにある(31)
  以上のように、フランスの政治・行政の現状に対するCJMとしての認識と問題打開の方向性が提示された後、地方制度再編成に関する諸原則(32)が確認され、これらの確認事項に基づいて、具体的な地方制度改革の道筋がより精緻に論じられる。すなわち、まず、制度構造的側面と財政的側面に関して議論されるが、ここでは、国を含む公的諸機関の役割や公的アクターたちの役割が定義され、地方税制の再編を含む地方財政の近代化へ向けた様々な提案がなされ、次いでは、これらの改革の実施が国民生活にどのように作用するかに関する多角的な検討が加えられるのである。
  そして最後に結論として、「一二のレジオンと二〇〇〇のコミューン」の創設が主張される。つまり、「合理的な数の責任ある実体を構築するためのコミューン再編成と、開発政策により適合的で、自治的法人格を担いうる行政区画を整備するための真のレジオン改革」が追求されるのである(33)。このように、『権力を市民の手に』のなかで展開されているCJMの地域政治構造改革構想は、当時のフランス中央集権システムを行政的・経済的効率性の観点から痛烈に批判する合理主義者としての側面と、市民参加の観点からフランスにおけるデモクラシーの深化を追求する理想主義者としての側面とを併せ持ち、この両者のまことに絶妙なバランスの上で、フランス社会の新たな動向や実態に基づく変革の方向を指し示すという、極めて重要な内容を有していた。
第三項  既成諸政党への影響
  CJMを代表格とする研究クラブ運動に限らず、市民サイドからの様々な活動的エネルギーの発揚が、既成政党に影響を与えないはずはなかった。ガーヴィッテの評価に従うならば、「とりわけ、社会党や急進党に対する影響が大きく、共産党(PCF)にはさほどでもなかった」とされるが、社会党や急進党内部の少数派閥は、党内における勢力拡大の理論的武器として活用すべく、それらの運動との関係を模索していた(34)。のちに社会党のリーダーとなるM・ロカールは「社会主義者集会(Rencontre Socialiste(35)」)をグルノーブルで開催し、ここに提出されたロカール報告は、機能性を基準とした行政諸権限の再配分、「カルティエ(住区)」やコミューン共同体(village)の自治体化、「後見監督制」やレジオン知事制の廃止、すべての行政段階における選挙制度の公正化、財源の拡充など、かなり広範な分野での変革を訴えるものであった。また、レジオンを完全な地方公共団体として基盤整備していこうとする議論も、この時期に登場する(36)
  アカデミズムの世界でも、この時期には、レジオン主義や地方分権化に強い関心が向けられていく。最も代表的な研究としては、M・クロジェ率いる組織社会学派の研究がある。なかでも、P・グレミオンの研究は、「地域政治・行政システム」をキー概念として、県知事と地方名望家との「共生」関係を明らかにするとともに、ドゴール政権のもとで実施された一九六四年改革(デクレによるレジオン制度の創設など)がもたらした結果と残された課題について解明するものであった(37)。また、ガーヴィッテが強調しているように、彼ら研究者の側にも現実政治へコミットする姿勢が見られた。すなわち、クロジェは、CJMを通じて活動していたし、彼の共同研究者たちのうちの何人かは、統一社会党やより左翼的党派性を帯びた研究クラブとともに活動していた。さらに、この時期の地方政治研究において、特筆すべき点は、国土開発庁(以下DATARと略す)が、レジオン問題に関する年鑑を刊行するため、グルノーブルの政治学研究学院(IEP)と提携をはかり、「この年鑑には、関連文献目録から、公的諸施策の概略や分析的評論に至るまで、あらゆることがらが盛り込まれた」ことである(38)
  以上のような市民活動(とりわけ「GAMー研究クラブ運動」)の展開を、ガーヴィッテは「諸政党との融合」として捉える。そして彼は、その融合過程の起点を一九六八年の五月事件に求め、その背景として、運動サイドの「かなり決定的な政治化」と政党サイドの「信頼や組織的堅実性の動揺」とがあったとみる。運動サイドの政治化に関していえば、例えば、GAMのなかの何名かの活動家たちは、一九六八年五月以前からすでに自らの無党派主義的スタンスに現実性があるのかを問題にしていた(39)。では反対に、政党サイドの「信頼や組織的堅実性の動揺」が、「GAMー研究クラブ運動と諸政党との融合」に、どのような作用をおよぼしたのか。これは、ミッテランが一九八一年の大統領選挙へ向け、どのような政権獲得戦略を展開したのかという問題と関わっている。第三節では、この問題について検討していくことにする。
第三節  ミッテランの政権獲得戦略における地方分権改革の公約化
  ドゴールの改革構想が一九六九年の国民投票における敗北によって挫折し、その挫折から十数年の時を経て、フランスにおける地方分権改革を、ミッテランが実施したことは既に述べたとおりである。そこで問われるべきは、この分権・参加法制改革が、ドゴール改革構想の単なる再来なのか否かである。レモンは、次のように問いかける。「法制度改革や政治・行政的実践が積み重ねられてきたこの一五年とは反対に、この同じ地方分権化は、レジオン財政の明確化やレジオン行政様式の修正とは別に、近い将来、一九八二年三月二日法の第一条が規定し、予告した責任ある市民たちの共和国を方向付け、組織することができるのか(40)」と(傍点は引用者による)。この分権・参加法制改革は、単に中央権力と周辺権力の「新たな調和」をはかる改革に過ぎないのか、それとも、「新しい市民の徳性ヌーェル・シトワィァンテ(41)に立脚した「責任ある市民たちの共和国」を創造する改革だったのか。実は、この改革に何らかの独自性を認めるか否かの分岐点もここにある。「地方分権改革の政治学的分析」を標榜する本稿は、この問題を、政権戦略と地方制度改革との関係性において分析していく。
  既に述べたように、ミッテラン政権は、その成立当初から地方分権化を主要政策として掲げていた。この地方分権化政策は、一九八一年の大統領選挙におけるミッテラン陣営の主要公約だったばかりでなく、一九七〇年代からミッテランが思い描いていた社会党の自己刷新作業を含む政権獲得戦略全体のなかで、極めて重要な位置を占めていた。
第一項  レジオン主義的地方分権論への転換
  フランス左翼が、第二次世界大戦後地方分権論へと立場を転換させた点について語る際、まず何よりも、レジオンの問題が取り上げられなければならない。J・ローリンとS・マーゼイは、フランス左翼諸政党が、一九四五年の時点では、「民主的平等の第一義的保証人や実効的な経済計画化に欠くことのできない要件とみなされる中央集権的行政国家を擁護する立場で一致していた」が、一九六〇年代に至って彼らフランス左翼に次のような「二つのシフトが生じた」ことを指摘している(42)。すなわち、第一には、「何名かの左翼知識人が、レジオン型地方分権化を声高に主張するその支持者となった」点であり、統一社会党(PSU)のリーダーでのちに社会党員となるミシェル・ロカールなど、彼らの多くはのちに、フランソワ・ミッテランによって一九七一年に設立された新生社会党へ参画していくことになる。第二には、「レジオン主義グループが、政治的スペクトラムを左方向へとシフトした」点である。これら二つのシフトが生じた背景の一つとして、ローリンとマーゼイは、フランス左翼が長い間野党の地位に甘んじてきたことから、本来右翼のイデオロギーである地方分権論とは区別される左翼としての新しい地方分権論を打ち出す必要に迫られていた点を指摘している。それはまさに、「一九六八年五月以降、国家ー社会諸関係を調整する一手段として自主管理という言葉が流行していた時期」にあたっていた。また、戦後フランスの高度経済成長を支えてきた「中央集権的な計画化に対する幻滅が広がっていた」ことも、左翼にとっては重要な状況の変化であった。すなわち、「地域間の経済格差が拡大し、一九七〇年代を通じて国際経済が停滞したことから、左翼陣営に属する多くの人々は、レジオンを単位とする経済計画に立脚したレジオン型経済発展戦略を発展させる必要性を認識した」のである。こうして、フランスにおけるレジオン主義の思想と運動は社会党と蜜月関係を形成し、従来レジオンをめぐってたたかわされてきた経済や産業の論争は、しだいに「中央集権化された資本主義国家に対するレジオンを拠点とした抵抗」という色彩を帯びていった。
第二項  市民勢力との融合
  上述のように、ガーヴィッテは「GAMー研究クラブ運動と諸政党との融合」過程の起点を、さしあたり一九六八年の「五月事件」に求めている。しかし、この点については、やや注意が必要である。というのも、研究クラブにおける政治化の動きは、すでに一九六八年以前から部分的に確認されるからである。すなわち、「ミッテランは、一九六五年の大統領選挙におけるドゴールとの一騎打ちを演じるなかで、彼ら研究クラブのメンバーの多くを恒常的な党派的闘争へと引き込んだ」のである。また、もう一つの事例としては、一九六七年の国民議会選挙における「民主主義・社会主義左翼連合」の経験がある(43)。つまり、この連合体を軸として、研究クラブと政党との共闘が模索されたのである。従って、「GAMー研究クラブ運動と諸政党との融合」過程の起点を一九六八年の「五月事件」に求めるガーヴィッテの定式化をより正確に理解するためには、この「五月事件」以降、左翼諸政党の関係が悪化し、一度は大左翼連合路線が破綻したものの、そこから関係回復の動きが開始されるなかで、本格的な大左翼連合路線の探求が始まったと捉えなければならない。
  このように、大左翼連合への機運は、一九六八年の「五月事件」、またそれに続く一九六八年六月の国民議会選挙において衰退してしまう。左翼諸政党が相互に結束を図ることができたのは、あくまでも、ドゴール政府の打倒という消極的目標においてであって、「誰がドゴールに取って代わるのか」という具体的課題に関して一致を図ることは、極めて困難だったのである。かつて一九六五年の大統領選挙の際には、あらゆる組織がミッテランのまわりに結集した。しかし一九六八年の五月以降、左翼諸組織の関係は悪化の一途をたどり、それは結局、一九六九年の大統領選挙での左翼の惨憺たる敗北をもたらした。選挙結果は、ドゴールの継承を掲げる最有力候補のポンピドゥーに対して、左翼としての統一候補を立てることができず、各組織が独自の候補者を立てた結果、第一回投票では、J・デュクロは共産党を中心とした有権者を組織し二一・二七%の票を獲得したものの、ガストン・ドゥフェールはフランス社会党にとって屈辱ともいえる五・〇一%の得票に止まったのであり(ロカールとA・クリヴィーヌも、それぞれ僅かばかりの票を獲得したに止まった)、多くの投票者は、中道派のA・ポエルにスウィングし、第二回投票へ左翼からは一人の候補者も残すことができなかったのである(44)
  左翼諸政党のこうした関係悪化は、左翼陣営のあらゆる政治組織に危機感を与えるものであった。すなわち、彼らとしても、「このまま従来型の政治を続けたならば、世間から孤立し、時代から取り残されてしまうであろうし、いずれ中道や右翼に、完全に主導権を奪われてしまうであろうという認識(45)」をもたざるを得なくなったのである。それゆえ、大左翼連合の再構築へ向けた相互の努力が焦眉の課題となっていた。当時の社会党(社会主義労働者インターナショナル・フランス支部、以下SFIOと略す)は、地方自治体や労働組合に基盤をおく有力者たちの群雄割拠状態にあり、この党組織の再建を図ることは、すなわち、新しい戦略の採用し、新しい党の機構を再建することを意味していたのである。こうした新しい党の機構は、できるだけ多くの新しい党員、グループ、個人、研究クラブ、そして、市民諸団体に対して開放されることを要請していた。こうして、新生社会党(PS)は、SFIOと様々な研究クラブや政治化した市民諸団体との合同から生まれることになる(46)
第三項  社共両党と地方分権改革
  (1)  社会党と地方分権改革
  後述するように、フランスの中央集権システムを批判すると同時に、自治体改革運動を通じて独自の自治体運営方式を開発していったGAM運動が一定の成功をおさめたことは、結果として、「地方分権化に期待をかける理由が、左翼にもたらされた」とジャック・ロンダンは評価する(47)。というのも、「一九七〇年代の初頭まで、地方分権化に関して左翼は与党ほど完全に理論武装しておらず、この問題について整合的で革新的な計画を提案することができなかった」からであり、また、フランス南部の農村部に多くの基盤を置いていた左翼のもとには、「コミューン再編とレジオン段階における計画化という二つ企てに対し、地域の自律性擁護の名の下にいきり立って抗議する名望家たちの一群しかいなかった」からである(48)。しかし、社会党系左翼は、こうした守旧的な政治組織や名望家体質とは別のところに原動力と展望を見いだした。それが、都市現象としてのGAM運動であった。
  新生社会党は、市民のエネルギーを組み入れていくなかで、着実に地方分権論的立場へと接近していく。
  新生社会党へと新たに結集してきた人々は、ガーヴィッテが指摘したように、本来、「社会主義と国家組織との結びつきに関する伝統的理解に対抗的立場をとってきた人々(49)」であった。グルノーブルの事例は、まさに、このプロセスの典型である。すなわち、社会党は、一九七〇ー七一年に様々な争点に関するオープン・フォーラム形式の集会をフランスの各地で開催していた。党員間のオープンな議論を通じて、自らの立場を確立し、党の結束を高めていくという進め方そのものが、共産党とは対照的であった。地方制度改革問題に関する討論集会が、一九七一年の秋、リヨン近郊で開催された際には、社会党員だけでなく、それ以外の「関心をもった」人々も招待された。そのなかには、当時グルノーブル市長だったH・デュブドゥを含むグルノーブルGAMのメンバーの名前もあった。社会党は、研究クラブやGAMの主張の多くを採用した。すなわち、地方政府は、国家内における市民参加の細胞=単位であるとか、市民がそういった役割を果たすことを可能にするためには、地方分権化は至上命題であるとか、レジオン政府は、民主化され、強化されるべきであるといった議論が活発に交わされ(50)、その後まもなく、デュブドゥは正式に国民議会選挙に社会党から立候補することを受け入れた(一九七三年、彼は国民議会に当選した(51))。
  (2)  フランス共産党と地方分権改革
  共産党も、最終的には、地方制度改革に関して社会党と類似した立場に到達する。しかし、それは幾らか異なったルートを経由していた。すなわち、レジオン問題は、共産党の主張によれば、資本主義に由来するものなのであり、これらの問題を解決する唯一の道は、資本主義体制を打破することであった。共産党にとって、この問題の解決は国有化を意味していたのである。資本主義廃止論を基軸に据えた共産党の経済民主主義理解のなかには、地方分権化された地方政府を進展させようとするものは見られず、逆に、彼らは、強力で、集権的な国家装置を志向していた(52)
  地方制度改革に関する共産党のこうしたスタンスは、むしろ、別の論理に由来するものであった。この点についてガーヴィッテは、共和主義的伝統の問題を指摘する。すなわち、共和主義的伝統に基づくならば、権力は人民主権に由来するのであり、地方レベルと国政レベルの如何を問わず、政府は普通選挙に基づかなければならなかった。従って、確かに、県議会議員の定数不均衡の問題や県の執行権が普通選挙によらない県知事のもとにあるといったように、当時の県制度は、共産党の共和主義的基準に沿わないものであった。しかし、新たに創設されるレジオンが、直接普通選挙によって選出される議会をもつ地方公共団体となるならば、この新しい地域単位は、共産党の基準を満たすはずである。しかし、レジオン制度の創設に関して、共産党は、SFIOと同様、反対の立場を貫いてきた。要するに、共産党の立場は、資本主義が残存している限り、基本的にレジオンは不要であるけれども、レジオン政府が何らかの形で創設された場合、それらは普通選挙に基づくものでなければならないというものであった(53)
  上述のように、一九六八ー六九年における一連の出来事があって以降、左翼諸政党間の関係は悪化していた。しかし、共産党が大左翼連合への参加を決定したことによって、地方制度改革に関する「新たなプラットホーム」が発展の方向へと動き始める。つまり、「共同して左翼陣営のヘゲモニー確立を目指す」べく、プラグマティックな連携が図られたのである(54)。社会党との交渉を準備するに当たって、共産党は「人民連合民主政府のための綱領」(一九七一年)を作成した。そのなかでは、社会党の新しい立場にかなり近い路線に沿った「レジオン改革の実施」が主張されたのだった(55)
  (3)  社共共同政府綱領のレジオン主義的傾向
  以上のように、本章では、ドゴールのレジオン改革案を現代フランスにおける地方分権改革の出発点と位置づけ、これが一旦挫折しながら、なぜミッテラン政権の下で実現されたのかとの問いをたてた。そして、ミッテランが一九七〇年代に展開した政権獲得戦略のなかで、都市・市民勢力のエネルギーを動員すべく、地方分権化を選挙公約に掲げるに至るプロセスを明らかにした。つまり、一九八〇年代に実現を見るミッテラン政権の一連の地方分権改革は、「長い間、社会主義者たちによって討議されてきたもの」であり、「これらの改革の多くは、一九八一年に行われた大統領選挙の運動期間中、『ミッテラン候補の一一〇の公約』のなかに盛り込まれていった」のである(56)。この一〇年にわたるミッテランの政権獲得戦略プロセスのなかで、社共両党が地方制度改革に関する同一のスタンスに到達したことは、一つのステップアップを意味するものであった。一九七二年に署名された「社共共同政府綱領」のなかで、地方分権化の課題は次のように叙述されている(57)
「地方公共団体と地方分権化」
第三部「諸制度を民主化し、自由を保障し、発展させる」
第三章
  全ての者が自己にかかわりのある決定に真に参加することを保障するために、よりすすんだ地方分権化の手続きをとる。
  このことは、調査、決定、管理、資金調達という国の重要な諸手段を地方公共団体に移譲することを通じて、地方公共団体の自律性が強化されることを想定している。
  これは地域民主主義の発展、つまり、市民がこれらの地方公共団体のあり方に参加する可能性の発展を意味する。
  県およびコミューン議会の選挙制度を改正し、いかなる場合にも、県およびコミューンの住民が民主的に、より忠実に代表されるようにする。
  しかし、この共同政府綱領の地方分権化に関する記述に対しては、「県とコミューンを残すものとしながら、各段階間での権限、機能、そして財源の再配分についてはほとんどふれられていない」との批判もある(58)。確かに、一九七〇年代前半における左翼の地方分権論は、レジオン主義的傾向を帯びており、県およびコミューンをめぐる現実的諸問題に関する議論は、不完全なままにあった。その点ではむしろ、県とコミューンの問題に関する具体的検討が深められたのは、ジスカールデスタン政権下におけるギシャール委員会の報告書や一九七八年の「地方公共団体責任権限促進法案」であった。さらにわれわれは、そうした中央政府レベルでの動きを乗り越えるかたちで登場する、社会党系都市コミューンの行政自由化や地域民主主義を模索する運動についても見ていくことになる。

(1)  このとき提出された改革案に関しては、次のものに全文が掲載されているので、そちらを参照されたい。クラブ・ジャン・ムーラン編(荻田保監訳)『広域行政−権力を市民の手に−』(鹿島出版会、一九七〇年)、一五四ー一六八頁。ただし、原書にはこの案は掲載されていない。
(2)  Bruno RE´MOND, Lacn de l’Etat jacobin?, L.G.D. J, 1998, p. 7.
(3)  当時首相兼内相の職にあったジョルジュ・クレマンソーは、一九〇六年一〇月、行政改革にこめられた目的を次のように述べている。Cite´ par Bruno RE´MOND, op. cit., p. 25.
        県機構に関する一八七一年法とコミューン機構に関する一八八四年法は、ナポレオンの中央集権化事業のなかで生み出された著しい亀裂に、既に修復の手を施してきた。この修復作業を続行しなければならない。多様なレジオンの独自性(leur propre vie)強化の実現。今や、地理的条件によっても、レジオンの要求によっても、コミュニケーションの現状によっても正当化することなどできない、時代遅れとなった縦割り行政の廃棄。新たな形態での地域のさまざまなイニシアティヴの喚起・組織・発展。地域住民と行政との連携強化。あるいは、民主主義は、人々が自らの主人となることを想定している以上、むしろ地域住民自身による行政。これらは、ボーヴォー広場において実現が準備されている地域行政の再編成を指導する観念を構成しており、その目指すところは、より効率的で、より公正で、またこうした再編成が行政の人員削減と結びついている以上、より経済コストの低い、よりよい行政である、と。
(4)  Cite par Bruno RE´MOND, op. cit., p. 25-26.
(5)  川崎信文氏は、当時の時代状況と「地方行政改革」とさらにドゴールの政権戦略の三つを、次のように関連づけている。すなわち、当時の政治状況としては、「一九五八年、対内的(経済財政)危機、対外的(アルジェリア戦争)危機、さらに、EEC共同市場の形成という戦後フランス資本主義の一大試練を歴史的与件として成立した第五共和制政権は、すぐれて執行権の優位した統治構造上の特質とともに、『国家と地方社会のズレ』とも表現される特異な政治的構成をもつものとして出発した」のであり、「カリスマ的ゴーリズムの国民議会レベルでの支持勢力としてのU・N・Rを中核としたドゴール与党の圧倒的優位(一九六二年総選挙)に比較して、地方政治(市町村議会・県議会)のレヴェルにおいては、とりわけ農村県における、穏健中道諸党、急進社会党、社会党などの反ドゴール諸政党の確固たる勢力維持がみられ、EEC発足に促迫されたフランス国民経済の近代化=高度生産力体系の構築を達成せんとし、第四共和制以来の経済計画・国土整備政策をさらに一層、推進し、徹底化することにとって、これらの諸党派が重大な障害をなしていた」と。そして、ここに「一つの政治戦略としての地方行政改革が構想され、実施される客観的根拠が存在する」とされる。第五共和政下におけるゴーリストの地方戦略は、「地方侵攻作戦」と呼ばれ、この作戦を牽引し、完成するものとして、「地方行政機構の再編改革政策」が位置づけられている。つまり、ドゴール政権は、国民議会における大統領与党の圧倒的優位とは反対に、地域的基盤の脆弱性に悩まされ、こうした現状を背景としてこの作戦を構想していくのである。彼は、「計画化」に基づく国家行政主導の経済構造改革政策をフランス全土へと推し進めて行くにあたり、中央・地方関係の媒介的役割を知事(県知事・レジオン知事)に期待した。当時、大都市を中心的支持基盤とする議員政党にすぎず、地方議会など地域的な基盤が未だ脆弱だったゴーリスト政党(大統領与党)では、名望家体制と称されるフランスの農村型地域政治構造と、その伝統的支配層たる地方名望家を駆逐することができなかったのである。従って、ドゴールの「地方侵攻作戦」とは、まさに、県行政機構を刷新し、経済的調整能力を備えた県知事を配置するとともに、広域行政圏としてのレジオンを創設することによって、経済的ディリジスム政策を推進することにあった(一九六四年改革)、と。川崎信文、前掲論文、一九八二年、二一九頁。
(6)  川崎信文「現代フランスの地方自治」(中木康夫編『現代フランスの国家と政治』、有斐閣、一九八七年)、一六五頁。
(7)  渡邊啓貴『フランス現代史』(中公新書、一九九八年)、一三〇ー一三一頁。
(8)  Jean−Marc Ohnet, Histoire de la decentralisation franCaise, Librairie Ge´ne´rale Francaise, 1996, p. 121.
(9)  渡辺和行・南充彦・森本哲郎著『現代フランス政治史』(ナカニシヤ出版、一九九七年)、一九四頁。
(10)  Jean−Marc Ohnet, op. cit., p. 121.
(11)  ibid., p. 121-122.
(12)  Cite´ par Gilles Marchandon et Patrice Noailles dans De Gaulle et la technologie, Ed. Seillans, 1994. 彼らによれば、レジオン創設は、ドゴールにとって、「技術的効率性と、経済的規模と、個人の自由を調整可能とする単なる地域の組織化にすぎない」ものであったし、その性質は、より多くの側面を、フランスの発展と近代化に対するドゴール自身の意志に負っている、とされる。Jean−Marc Ohnet, op. cit., p. 124.
(13)  ibid., p. 124-125.
(14)  ibid., p. 126-128.
(15)  ibid., p. 126.
(16)  ibid., p. 126-127.
(17)  ibid., p. 127.
(18)  ibid., p. 127.
(19)  ibid., p. 127-128.
(20)  ibid., p. 128.
(21)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 7.
(22)  ibid., p. 25-26.
(23)  Peter Alexis Gourevitch, Paris and the provinces:The politics of local government reform in France, George Allen & Unwin, 1980, p. 163-.
(24)  ibid., p. 167-168.
(25)  ただし、それ以外の研究クラブにも、精力的な研究活動とその成果が認められる。ガーヴィッテによれば、例えば、次のような研究クラブ運動が存在したとされる。すなわち、アラン・サヴァリーの「社会主義と民主主義」運動は、もっぱら「既成政党の外にいて、ある局面において一時的に左翼の立場をとるある特定の個人の政治的意思伝達手段」として機能したし、「フランス労働民主同盟」のメンバーであったアンドレ・ジャンソンやアルベール・デトラが、「労農団」にも所属していたという事例が示しているように、政治的志向あるいは党派を異にする人々(カトリックや社会主義者)に対話の地平を提供する研究クラブも現れたのである。反対に、幾つかの研究クラブは諸政党のなかで活動していたという。すなわち、「社会主義教育研究センター」は、社会主義労働者インターナショナル・フランス支部(SFIO)内の一研究クラブとして一九六六年に結成されたが(その初代会長はギ・モレ)、このクラブこそまさに、ジャン・ピエール・シュヴェーヌマンの指導のもとで、一〇年後にフランス社会党(PS)内の有力な非主流左派を形成した組織である。ibid, p. 164.
(26)  クラブ・ジャン・ムーラン編(荻田保監訳)『広域行政ー権力を市民の手にー』、鹿島出版会、一九七〇年、「訳者はしがき」より引用。原書は以下の通り。Club Jean Moulin, Les citoyens au pouvoir:12 regions 2000 communes, Le seuil, 1968.
(27)  Club Jean Moulin, op. cit., 1968.
(28)  彼らが問題とするフランスの現状とは、まずなによりも、コミューンや県が弱体化している点である。その原因としては、行きすぎた中央集権制、コミューンが細分化されすぎている点と県が「社会・経済的な連帯性を基準として区分されていない」点、さらに、政策執行上、財政上の制度的問題点などが指摘される。そのため、本来地方公共団体が担うべき政策プロセスに、国家が介入するようになっている点が指摘される。しかし同時に、彼らが主張する地方自治体の広域化=合理化の考え方を勢いづかせる様々な取り組みも見られる点が強調される。例えば、「レジオン経済開発委員会(CODER)」が各地域に創設され、独自の活動を開始しつつあることや、農村部におけるコミューン間共同の取り組み、さらには、都市部におけるカルティエを単位とした住民の活動や、「都市圏(agglome´ration)」の形成などが指摘される。次いで、地方財政制度の麻痺状態が告発され、改革の行く手を阻む勢力として、地域に構造化された知事と地方名望家の「顧客の集団」の存在が指摘される。ibid., p. 13-41.
(29)  ibid., p. 42-50.
(30)  ibid., p. 42.
(31)  ibid., p. 50.
(32)  ここでは、五つの原則が提示される。すなわち、@責任ある地方公共団体の定義(メジャーな公共団体として、コミューン間共同体とレジオンを、マイナーな公共団体として都市部におけるカルティエや農村部におけるヴィラージュやブールを、機能的団体として複数のコミューン間共同体やレジオンからなる連合体を、それぞれ定義している)、A内実ある決定諸権限の付与、B整理・統合を通じた財源の大規模化、C政策の統一性と合議システムの組織化、D地方公共団体に対する一定のコントロール、である。ibid., p. 52-67.
(33)  ibid., p. 134.
(34)  ブルターニュ研究連絡協議会(CELIB)がその一例である。また、ブルターニュの諸組織で長く活動していたM.フィリップノーは、彼の著作(『左翼とレジオン』)や活動を通じて、社会党員や急進党員の意識高揚を促進するものであった。Peter Alexis Gourevitch., op. cit., p. 168.
(35)  ガーヴィッテによれば、左翼政党の間では、「この集会が、のちに、よりレジオン志向が強く、反ジャコバン主義的な立場へと移行していく主要なターニングポイントの一つ」として認知されているとされる。ibid., p. 168.
(36)  一九六二年に、ピエール・マンデス・フランスは『近代的共和政』を刊行したが、この著書は、一〇の大規模レジオンと職能代表制のための幾つかの行政区画を提案していたし、エスニック・マイノリティーの立場を代表するR.ラフォンの『地域主義革命』やCJMの『権力を市民たちの手に一二のレジオンと二〇〇〇のコミューン』などが、次々と刊行されていった ibid., p. 168.
(37)  フランス組織社会学派の精力的な研究活動の成果については、拙稿「フランス地方政治研究の動向」(『立命館法学』一九九八年度第六号)を参照。
(38)  その結果、グルノーブルは、「若い研究者たちが、都市化、都市計画、コミュニティーにおける共同決定の機構などに関する、批判的マルクス主義とより新しい応用社会科学の方法や考え方との、いわゆる総合化を試る」ような、地方政治研究の一大センターとなっている。Peter Alexis Gourevitch, op. cit., p. 169.
(39)  ibid., p. 170. GAM運動内部に現れた「無党派主義」への疑問について、ガーヴィッテは次のように説明する。すなわち、彼らが進めようとしている地域改革にとって障害となっているものが、もし中央政府にあるとするならば、非政治主義にこだわることによって、政府に対する政治的コントロールを回避することが本当に妥当なのか。彼らはこのことを問題にしたのだと。彼らGAM運動にとって、純粋に地域のみを対象とした分析に止まることは不可能となり、問題とすべき対象は、「政府の財政担当者、投機家、企業、そして外国資本の様々な行動」へと拡大していく。
(40)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 8.
(41)  地方分権改革に関して、一九八一年七月八日、モーロワ首相が国民議会に対して提出した一般政策表明の標題。Cite´ par Bruno RE´MOND, op. cit., p. 45.
(42)  John Loughlin and Sonia Mazey,”Introduction, Loughlin and Sonia Mazey (Ed.), The End of the French Unitary State?:Ten Years of Regionalization in France (1982-1992), FRANK CASS, LONDON, 1995, p. 1-2.
(43)  Peter Alexis Gourevitch, op. cit., p. 170.
(44)  ibid., p. 170-171. ただし、各候補者の得票率に関しては、中木康夫・河合秀和・山口定『現代西ヨーロッパ政治史』(有斐閣ブックス、一九九〇年)、二三四頁を参照した。
(45)  Peter Alexis Gourevitch, op. cit., p. 171.
(46)  ibid., 1980, p. 171-172.
(47)  Jacques Rondin, op. cit., 1985, p. 46.
(48)  ibid., p. 44.
(49)  Peter Alexis Gourevitch, op. cit., p. 172.
(50)  ibid., p. 172-173.
(51)  こうしたグルノーブルの事例と類似した経験は、フランスの各地に見られるようになり、非共産系の左翼勢力が息を吹き返す。しかし、一九七一年に自己刷新をはかったとはいえ、新生社会党は「脱マルクス主義的包括政党」へと脱皮したわけではなかった。この点についてガーヴィッテは、ドイツ社民党が一九五九年におこなった政策転換と比較している。すなわち、「一九七一年にフランス社会党が経験したことは、一九五九年当時のドイツ社会民主党にとって『ゴーデスベルク綱領』が意味しているものとは違っていた」と。むしろ、社会党は、自らの社会主義的闘争という目標をさらに発展させたのである。とりわけ、社会党の目標のなかで、市民参加にかかわる一群のテーマが突出していたことは、特筆すべき事実である。彼らの社会主義像は、産業社会のあらゆる側面を民主化することにあった。たしかに、イデオロギー上の理由から、経済領域(自主管理と主要産業の社会化)の問題が優先されていたことは否めないが、社会党内の多くの人々にとって、経済民主主義は、もし他の領域の権力構造−政党と国家−が同時に民主化されないならば、全く意味をもつはずのないものであった。社会党の地方分権論的立場は、このように、自主管理といった経済領域に関する分析が、「国家組織分野をめぐるジャコバン・モデルの批判へと結びつく」形で確立されていったのである。ibid., 1980, p. 173.
(52)  ibid., p. 173.
(53)  ibid., p. 173-174.
(54)  ibid., p. 175.
(55)  Programme pour un gouvernement de´mocratique d’union populaire du parti communiste francaise, Edition sociale, 1971. 本稿では、次の邦訳を引用した。「フランス共産党の人民連合民主政府のための綱領」(『統一戦線と政府綱領』、新日本出版社、一九七四年)。このなかで、「レジオン改革」の目的は、「市民がそのレジオンの経済的・社会的生活に積極的に協力することを保障する」ためであると定義されている。また、主要な要求項目として、比例代表制の普通選挙に基づき選出された公選議会の設置が掲げられるとともに、レジオン段階への諸権限の委譲と、レジオン段階における諸決定の分権化が要求されている(一〇四頁)。
(56)  John Loughlin and Sonia Mazey, op. cit., p. 1.
(57)  Programme commun de gouvernement du Parti communiste francaise et du Parti socialist, Edition sociale, 1972. 本稿では、次の邦訳を引用した。「フランス共産党および社会党の共同政府綱領」(『統一戦線と政府綱領』、新日本出版社、一九七四年)。
(58)  Peter Alexis Gourevitch, op. cit., p. 176.


第二章  政権戦略としてのコミューン改革


第一節  ジスカールデスタン戦略におけるコミューン改革の位置
第一項  新政権の成立
  ポンピドゥーの死去に伴って実施された一九七四年五月の大統領選挙は、独立共和派の主導者ジスカールデスタンの勝利をもって終結した。ドゴール以後の大統領選挙を早くから目指していたと言われるジスカールデスタンは、「一九六六年の蔵相の辞任後、もともと地方名望家を中心とする穏健右翼の古典的幹部政党であった『独立共和派』(RI)を近代的テクノクラートと実業家の党に転換させようとし、短期間にそれに成功」する(1)。このように、リベラルで親ヨーロッパ的なイメージを帯びた「近代主義的中央右派」としてのジスカールデスタンは、選挙戦で中道諸派との連合に成功し、ドゴール派のシャバン・デルマスより優位に立つにいたる。また、ドゴール派の非主流派シラクの「造反」にも助けられて、決選投票で保守統一候補となるが、第二回投票における彼の勝利は、左翼統一候補ミッテランに追い上げられた結果、僅か二%という極めて危ういものであった。ともあれ、この選挙結果は、第五共和政下で初めて、「非ゴーリスト」大統領が誕生したことを意味しており、しかも、彼が依拠する政党は、もはやもっとも強大なドゴール派でなく、独立共和派という議会内少数勢力であったことから、結果として彼は、ドゴール派、ジスカール派、中道諸派の「多数派三脚台」に乗ることになった(2)
  ジスカールデスタン新政権が成立した背景には、中央政界レベルにおける、こうした自党の編成替えと保守系諸党派の連携があった。しかし、この新政権には、さらにそれ固有の弱点と矛盾があった。すなわち、独立共和派は大衆的組織基盤をもたないだけでなく、選挙・議会におけるその勢力は二〇%前後にとどまり、ドゴール派との連携を成功させない限り、議会内の安定多数を確保することはあり得なかったのである。このように、ジスカールデスタンを議会内で支える大統領与党は極めて脆弱であったため、彼は、自派へのドゴール派の吸収を通じて大統領多数派を形成しようと考えたのである(3)
第二項  政権基盤強化戦略
  ジスカールデスタン体制は、これらの矛盾を抱えながら、政権基盤強化戦略をどのように設定し、それにいかなる活路を見出そうとしていたのか。ジスカールデスタン政権がとった政権基盤強化戦略と地方制度改革は、フランスの政治学者Y.メニィによって次のように関係づけられる。すなわち、「地方分権化やレジオン創設にかかわる問題は、ただ単に、技術的問題や国家組織の最適化を図るための政治的選択だったのではなく、ジスカールデスタンが彼の重要な目的の達成をはかる諸手段の一つでもあった」のであり、その目的とは「強固な中道政党を構築し、共産党やゴーリスト政党を可能な限り最小規模へと縮小することにあった」と(4)。そして、「コミューンや県に対する中央政府のコントロール(とりわけ、財政的コントロール)を変更することなく、いかにして、中道派の地方議員たちを満足させるのか」を念頭におきつつ、「ドゴールが一一年間かけて取り組みながら、実現できずにいた改革事業を、それとは別の手法および手段」すなわち、「周辺部をコントロールすることによって、大統領与党により強固な地域的基盤を確立し、大統領与党が権力を行使する上で必要となる政治的リソースをより効率的に利用できるようにすること」によって進めていく(5)。まさにこれが、ジスカールデスタンの地方制度改革を媒介とした政権基盤強化戦略であった。
  ところで、こうしたジスカールデスタンの戦略は、ドゴールのそれよりもむしろ、ポンピドゥーのそれとの間に共通性が見出される。すなわち、メニィが指摘したように、ポンピドゥーもジスカールデスタンも、農村部の地方名望家たちと「和解」することが要請されていたのであり、そのため彼ら二人の大統領は、あえて「性急に過ぎる変化を拒否」し、「野心的で包括的な改革への不信感をあらわにした」のである。「ただ地方名望家たちのみが、地域の草の根ネットワークを用いることによって、ゴーリスト政党組織との調和を図ることができた」当時の状況からすれば、こうした政治戦略は、名望家との和解なしには成就し得ないものであった(6)。このように、大統領与党は自らの性格を一定変更させたとはいえ、ジスカールデスタンの政治戦略の背後には、依然として、地方議員からの支持をどのように調達するのかという配慮があった。それゆえ、彼のもとでは、地方制度改革の諸課題は「もはや、どのような改革が、最も理想的で、最も合理的で、あるいは最も自由主義的かということではなくて、最も効果的な懐柔策を定めること(7)」へと変化してしまったとの見方さえある。
  ともあれ、ジスカールデスタン政権に与えられた政治的条件は、彼らの政権基盤強化戦略の展開を余儀なくし、結果として、画期的改革構想を評価されるギシャール委員会報告書の具体化に歯止めをかけることになった。このプロセスについて、節を改めて検討していく。
第二節  画期的改革構想の提出−ギシャール委員会報告書−
第一項  ギシャール委員会の設立
  一九七五年一一月、ジスカールデスタン大統領は、「地域責任権限促進委員会(Commission de de´veloppement des responsabilite´s locales)」(以下、ギシャール委員会と略す)の委員長として、当時ドゴール派の国民議会議員であったオリヴィエ・ギシャールを指名した。地方制度問題との関わりにおいて注目すべきは、いうまでもなく、彼がドゴール政権下で一九六三年に設置されたDATARの初代長官であったという点である。ギシャールにあてた大統領の書簡(一九七五年一一月二六日付(8))は、要約すれば、次のような内容となっている。すなわち、戦後フランス社会に生じたさまざまな根本的な変化が、「公共サーヴィスに対する住民の要求の高まり」や地域における「公的管理に参加したいという市民たちの新たな願望」など、地域生活に影響を与えているにもかかわらず、フランスの地方制度は一九世紀に構築されたものであるがゆえ、そうした社会的変化に不適応をおこしている。そこでジスカールデスタンは、「フランス人の日常生活の改善や彼らの願望充足」というものは、市民参加の拡大、地方サーヴィスの充実、さらに地方財政の強化に支えられた、「地方自治体当局の責任強化を通じて実現される」とし、「これら地方公共団体が直面している新しい諸問題に対し有効な解決策を打ち出すことができるよう、現実的な能力をこれら地方公共団体に−また、これらを通じて市民たちにも−与えていくことが重要である」と述べる。それは、「二〇世紀末を、よりよいかたちで迎えることができるようにする」ため、地方公共団体の個別的な改善の努力にとどまらず、「地方公共団体が自律性を発揮する現実的諸条件について総括を加えるべき時がきている」からである。従って、いまや必須の作業であるフランス地方制度の「抜本的総括」をギシャール委員会に託すことにした。この委員会に期待することは、上述のような現状分析を「より明確にし、地方諸機関に関する全般的で、発展的で、専門的な改革の大筋を策定する」ことであり、「この改革は、政府のイニシアティヴのもと、国民的論議の対象となるであろう」と。
  ただし、われわれには注目すべき点がもう一つある。すなわちそれは、この書簡がレジオン問題の検討に関して一切触れていない点である。この点は、後述するように、ミッテランの分権・参加法制改革における主要改革点の一つとして、地方公共団体としてのレジオンの創設が設定されていたことと、明確な対照をなしている。さらに、この委員会は、議員九名(上院議員、国民議会議員、レジオン評議会議員)と、レジオン経済・社会評議会評議員一名、ある地域の農業会議所の代表一名、名誉知事(pre´fet honoraire)一名の計一二名によって当初構成されていた(政治的理由から、社会党所属の議員二名が、この委員会のメンバーを辞退した(9))。メニィは、地方議員たちからの支持を調達したいと考えるジスカールデスタンの政治戦略が、このギシャール委員会のメンバー構成に、すでに示されていると指摘している(10)。これらの点をふまえるならば、この書簡にジスカールデスタンが託した意図は、レジオン問題を回避することによって、レジオン改革に消極的な地方議員の要請に応えていくという、より政治的意図に基づくものであったと推察される。
第二項  地域責任権限促進委員会報告書
  ギシャール委員会は、一年あまりの検討作業を経て、ジスカールデスタン大統領に対し報告書『ヴィーヴル・アンサンブル』(一九七六年)を提出する(11)。オネは、大統領からの書簡と同様、この報告書の画期的な内容と、これが果たした歴史的役割を高く評価している(12)。中央ー地方関係の見直しといった地方制度改革の時代的要請は、この政府レポートにおける総合的診断のもとで、党派を超えた多くの関係者に共有されることになる。実際、この委員会は、どのような地方制度改革の方向性を打ち出していったのか。この点について、より詳細に検討していく。
  ギシャール委員会の検討作業は、まず、「事実確認(Le constat)」から開始される(13)。報告書においては、主に次の二つの問題が指摘されている。すなわち、@国家任務の肥大化とその麻痺状態の問題、A地方公共団体の弱小性に伴う国家依存体質と国家への従属状態の問題である。これら二つの問題について、以下、概略的に述べる。
  第一に、国家任務の肥大化とその麻痺状態の問題について。この問題は、公的事務をめぐる国と地方のアンバランスの問題とも関連しているが、国家は、実際のところ、その介入が求められる局面において、脆弱であったり、往々にして無力となっており、あらゆる分野で国家活動の飽和現象が起こっているとの診断が、ギシャール委員会によって下される。また、国家は、ほとんどすべての行政機構を疲弊させ、「縦割り構造の並列状況」のなかで断片化してしまっているとされる。さらに、地域の様々なイニシアティヴや責任分担能力を無力化してしまう統制システムが発展したことによって、地域民主主義(14)が窒息しているとの現状認識が示される。この報告書によれば、確かに、地域民主主義は、第三共和政の初期以来発展過程にはあるが、しかし常に、国家の地方出先機関のレベルにおいてであったとされ、地方公共団体の諸自由は、むしろ後退したと指摘されている。すなわち、行政的後見監督の幾度にもわたる緩和や地方自治体の機能性のための数多くの改善措置がおこなわれたにもかかわらず、とりわけ、経済・社会領域に関してみると、第二次世界大戦以降、地方公共団体は国家に比べて、相対的にその自由の度合いが下がったとされるのである。以上のように、第一の事実認識において、公的事務をめぐる国と地方のアンバランスが、国家諸機関を疲弊させ、逆に、地域にエネルギーを押しつぶしてしまっている点が明らかにされる。
  第二に、地方公共団体の弱小性に伴う国家依存体質と国家への従属状態の問題について。この報告書は、「現状」を「深刻」にしている様々な要因の一つとして、フランスの中央集権制の存在を指摘する。これは、デクレによって廃止できるようなたぐいの、国家行政活動に還元できるものではない。むしろ、これは歴史現象なのであって、これはもはや一つのシステムを形成しているとされる。この中央集権的システムは、「階統制的手法」や「平等性」、さらに「安全性」に対するフランス人たちの選好によって強化されつつ、それを変えるには、あまりにも古く、あまりにも鈍重で、あまりにも国家の現状と結びついた一つの事実として存在しており、ついには、フランス社会そのものと文化的に統合されてしまったとされる。
  従って、中央集権制の秩序に対抗するためには、いずれか一つの療法において対処しても無駄である。というのも、事前に制度の全体的枠組みを調整しないならば、どのようにして、三万六千のコミューンに資源や任務を与えていくのかという問題がどうしても残るからである。従来、そうした地方組織機構の枠組みは、社会的要請や近代化に伴う様々な変化に適応できずにいるフランス行政システムの矛盾をはらんだ展開によって、変質させられてきた。結果としてフランスは、一方には、人口五〇〇名以下のコミューンが二万二千以上あるといったように現実にはほとんど実態のない諸機関、他方には、様々な都市圏アグロメラシォンが「都市」を形成しながらも、コミューン共同体としての制度的構造も、公選議会制度といった住民によるコントロールも存在しないという「法制度に基づかない様々な現実」の双方を抱え込んでいるのである。また、この報告書は、地域間協同事業の発展が、とりわけ、一つのテクノクラシー型諸機構を増大させたと指摘する。すなわち、もし、そういった地域間協同事業が公共サーヴィスを改善するとしても、「市民は徐々にただの利用者とみられるようになるし、徐々に、市民とはみられなくなっている」と。こうした地方自治体の現状から県を捉えるならば、その位置づけはより一層不明瞭になる。というのも、県は地方公共団体であると同時に国家の行政区画でもあり、地方自治体としての県といえども、その農村的体質から、コミューン組織網に対する「目に見えない後見監督の一種」を生みだす傾向をもっているからである。一九七六年当時のレジオンについて、報告書は、フランスの地方組織が抱える諸問題に対して「包括的な解決策を与えるものではない」との悲観的な見方を提示している。フランスの地方組織が抱える問題とは、ギシャール委員会にとってはまずなによりも、地方公共団体が、財源も任務の遂行もままならないほどに細分化されているために、国家の「中央集権的で垂直的な形態」に従属してしまっている点にあった。
  一方では、任務の肥大化によって麻痺状態に陥った国家と、他方では、国家への依存体質と従属状態から抜けられず、「徐々に、集団的諸問題を解決できなくなっている」地方公共団体という、この二つの事実確認に対して、ギシャール委員会は、一つの「包括的」改革を提案していく。こうした包括的な地方制度改革を概略的な「計画(15)」として述べたあと、この報告書は、地方制度改革に関連する様々な「議論と提案(16)」を詳細におこなっている。すなわち、ここでは、国家の役割の再定義がおこなわれると同時に、諸権限の再配分や地方財政・地方税制の近代化計画を提案し、さらに、「近代的で責任能力のある」地域管理の方法や手段を明らかにすることも目的とされている。
  ギシャール委員会が、まず第一に提案していることは、しかるべき地域行政機構を選択し、その区画に「まとまったかたちで諸権限が与えられる専門的諸機関」を設置することである。このような提案から、論点は、必然的に細分化されすぎたコミューンをどのように再編成するのかという問題と、県とレジオンの機能をどのように弁別化していくのかという問題へと絞られていく。まず、コミューンについては、「コミューン共同体」というコミューン間協同方式を一般化することによって、コミューン組織網の強化をはかるべきであるとする。また、県とレジオンについては、「専門化された行政ネットワーク」として組織化され、そこへの権限の帰属は可能な限り制限されるべきであるとする。ギシャール委員会は、地域システムが大幅に変更されることを望んではいなかった。従って、県の役割は、「コミューン共同体」方式によって強化されたコミューンの自由を侵害することなく、あくまでも、身近な施設整備や社会扶助業務の管理に据えられるとされ、レジオンは、その管轄領域を観光、文化的分野、レジオン間輸送交通、そして、経済発展への支援に拡大しながらも、一定期間は「一九七二年法の制度的試行を続行する」とされたのである(17)
  また、この報告書では、諸権限の再配分に関する以下の四原則が示されている。すなわち、第一には、具体的に存在する地域的諸争点との関連で、諸権限がどこに帰属するかについて考慮すること。第二には、各管轄領域において中心的役割を果たすべき機関へ、実効性のある権限委譲をおこなうこと。第三には、補完性の原則を適用すること。そして、第四には、「一貫性のある決定プロセス」を形成可能とするような権限委譲を実施することである。そして、報告書は、国家と地方自治体との役割分担が、つねに、真の必要性と結びつくわけではなく、無責任体制を生み出すような複雑さを導く場合もある点を強調し、国家が簡素化という基準を重視するよう奨励している。
  さらに報告書は、次のような三つの提案をおこなっている。第一には、「憲法によって、地方の責任権限の促進を保証する」という提案である。第二には、地方公共団体の施策に対する国家のあらゆる後見監督を廃止するという提案である。第三には、国家と地方自治体の間の「対話」に関わる新たな調整機関を制度化するという提案である。この機関は、より具体的には「地方諸機関全国会議(18)」のことを指しているが、様々な責任権限を地方議会が自立的に負担できるよう、ここでは調整や監査がおこなわれるとともに、地方制度改革に関わる常設委員会が設置される。
  しかし、ジスカールデスタン政権がギシャール委員会報告書の内容を、無条件に歓迎し、具体化作業に取りかかったわけではないことは、次の事実が明らかにしている。すなわち、一九七八年六月にランブイエで開催された、ジスカールデスタン主催の政治セミナーでは、県の執行権を県議会議長に委譲するといったあらゆる制度的分権化を拒否するかたちで、あらかじめ地方制度改革の範囲に制約が設けられていたのである(19)。またレモンは、「議員たち−徐々に陰鬱さを増す社会的現実に直面して−の要求は高まっていたにもかかわらず、地方公共団体の経済介入問題は放置された(20)」ことを指摘しているが、後述するように、このことが一九八二年に成立するドゥフェール法の議会審議において、一大争点となるのであった。
  ともあれ、ここでの分析作業を踏まえ、地方制度改革に関する法案作成作業が開始される。すなわち、一九七八年、ピエール・リシャールが、内務省内の地方諸機関担当事務総長に任命され、リシャールを責任者とする法案作成チームは、クリスティアン・ボネ内相とマルク・ベカム大臣補佐(地方公共団体担当)の指揮のもと、同年の春から夏にかけて「地方公共団体責任権限促進法案(21)」の策定作業にあたったのである。具体的な政策化のプロセスについて、節を改めて検討する。
第三節  ジスカールデスタン戦略の挫折
第一項  全メールへの質問状
  全体としてみると、地方議員たちに配慮した政策を打ち出そうというジスカールデスタン政権の意図とは裏腹に、この政権が打ち出した地方制度改革の方針は、地方議員たちから全く冷たい反応しか返ってこなかった。穏健的中道派の地方議員たちは、彼らの現実的諸要求(とりわけ、財政問題に関する要求)が拒否されたものと受け止めていたし、地方レベルでは、左翼連合の躍進によって、緊張関係が深まっていたのである。つまり、中央レベルにおいては野党に甘んじていた左翼諸政党であったが、第五共和政成立以降一貫して都市コミューンや県レベルにおいて着実に勢力を拡大させており、ジスカールデスタンの地方制度改革構想が議論され始めたこの時期の地方選挙(一九七六年の県議会選挙と一九七七年のコミューン議会選挙)においてさらに躍進していたのである。こうした地方選挙における新しい左翼連合方式が一定の成功を収めたことで、社会党あるいは急進党と、これらのなかにいる中道派(彼らは、国政レベルにおいては右翼に所属する)との決別が決定的となった(22)。そうした動きは、とりわけ都市部において顕著であり(人口三万人以上の都市コミューンの三分の二で、左翼が勝利した)、ジスカールデスタンの思惑とは逆に、地方政治レベルの「国政化=左右二極化」が進行し、左翼諸政党が、地方議員からの支持調達に成功するのである。
  こうした地方政治レベルにおける変化に対して、ジスカールデスタンは一つの政治戦略を実行に移す。一九七七年のコミューン議会選挙ののち、彼はまず地方制度改革の具体化を開始する。彼は、それが、一九八一年の大統領選挙の前夜に、議会で最終投票に持ち込まれることを狙っていたといわれる(23)。次いで彼は、それを全国規模の改革運動へと拡張しようと試みる。すなわち、当時、全国に三万六三九四あったコミューンのメールたちに対し、地方問題に関する質問状が送付されたのである。また、一九七八年には、何千人もの地方議員を集めた県単位の集会も開催された(24)。これらのアンケート活動を通じて、メールから政府が受け取った一万六二二九通の返答(回収率四四・五九%)を抽出・分析する任務は、オベールを責任者とする内務省内の作業グループに託されることになる(25)。このアンケート結果は、一九八一年に提出されたドゥフェール法案を、野党議員(右派)が大都市優先で、弱小コミューンの実態を踏まえない改革案であると断定するいわば攻撃材料とされるなど、のちの地方分権改革プロセスに多大な影響をもたらすことになる(26)
第二項  地方公共団体責任権限促進法案
  「地方公共団体責任権限促進法案」(ボネ法案)は、一九七八年一二月一九日の閣議決定をうけ、ボネ内相の名で上院に上程された。全六編からなるこの法案について、レモンは、四大目標(自由化、明確化、実効性、参加)と一〇の主要施策に整理されるとする(27)
  この法案の第一編は、まず、行政的・財政的・技術的統制の廃止ないし軽減について定めていた(自由化)。後見監督(行政的統制)からの自由化によって、コミューン議会による議決は、ほとんど全て、上級機関の審査を経ることなくなく効力を有することになっていた。また、財政的統制からの自由化によって、地方公共団体が取り結ぶ契約、発行する公債、そして、いくつかの地方税の税率について、もはや上級機関の事前の承認を必要としなくなり、雇用対策のために自由に用いることのできる建設整備費総合交付金が創設されることになっていた。さらに、技術的統制からの自由化によって、地方公共団体を拘束するのは法律によって定められた技術的規則のみとなり、その他の規則は奨励的意味しかもたなくなることになっっていた。
  次いで第二編は、国家と地方公共団体との間での諸権限の再配分について明確化し、地方公共団体が執行するにふさわしい全ての諸権限をこれらに分権化すると定めていた。反対に、国家主権に関わる裁判権や警察権に関わる基本的任務は、全て国家によって執行されるものとされていた。分権化されるべき分野としては、社会的扶助、教育、自然環境・生活環境、文化・スポーツなどが想定されていた。
  地方議員の地位の改善による実効性の拡大を目指し、第三編では、人口一〇万人以上の都市コミューンのメールたちには、自らの諸権限を上級機関による承認なしに執行し、この場合、議員への活動歳費の上昇分と同等に上昇した活動歳費を受け取り、メールの一期目が終了したのち本来の職場に復帰できる保証を受ける権能ファキュルテが与えられることになっていた。そして、彼らメールが私的セクターないし公的セクターの給与所得者であった場合、メールに就任することで収入が減じた分を補填するための補償金を含む、休職保証が与えられることになっていた。
  第四編は、地方公務員という職業の評価を向上させ、国家公務員並みの技能を有する公務員をコミューンに配置することによって、地方公務員の地位を再評価すると定め、役職の創設に関する裁量の拡大についても規定している。また、国家レベルやコミューン間レベルにおける幾つかの役職担当者のリクルートや昇格に関する規定があり、国家公務員によるコミューン事務の代行も行われることになっていた。
  第五編では、コミューン間協同事業の簡素化が、協同事業規則の緩和と簡略化によって図られることになっていた。また、実地調査や計画化を担当する事務組合の可能な限りでの設立が定められ、独自財源を有するコミューン間事務組合が設立可能とされていた。
  最後に第六編において、この法案は、地域世界への市民の参加の促進を規定していた。そこでは、コミューンの事務を分散化し、とりわけ戸籍証書の作成できるようなコミューン役場の出張所(助役の責任において管理運営される)の可能な限りの設置が規定された。また、自治体広報誌や地方紙でのコミューン予算に関する簡略な資料の公示や、会計検査院がコミューン議会の会期中にコミューン行政運営に関して監査を行うこと、さらには、住民投票手続きの制度化についても定めていた。
  この法案の提出を受けて上院は、一九七八年末から法案の審議を開始する。一六ヶ月あまりにわたる審議を経て(七一時間にわたる審議、一三七六点にわたる修正案の検討、二五一ヶ条の採決)、上院は、ようやく一九八〇年四月二二日に採択をおこない、一九八〇年五月、これを国民議会に送付した。しかし、国民議会では、一年間全く採決もおこなわれないまま、政権の交代のため、立法委員会における審議の段階で廃案となった。
  この審議過程において、地方財政および地方税制に関する改善案は、早い段階で承認された。すなわち、地方公共団体の独自財源を拡大するための「経常費総合交付金(DGF)」の設置(一九七九年一月三日法)、「付加価値税(TVA)補償基金」の開設、そして、各種地方税の自由な税率設定の承認および「事業税税率適正化基金」の設置(一九八〇年一月一〇日法)などがそれである(28)。しかし、地方議員たちの身分保障の問題、政府・県・コミューンの間での権限の配分の問題、そして、市民参加と情報公開に関わる改革については、全体の合意を得るにはいたらず、「それらの草案の重要性にもかかわらず、両院としては、これら最も重要な諸問題を手つかずのまま残していくという結論を下さざるを得なかった(29)」。また、公選職兼任制度の問題性については、常に合意がとれているにもかかわらず、この制度を廃止しようとしたりする者もいないし、廃止することもできない。あるいは、市民諸団体の活動や住民の積極的参加については、そうした参加原理の導入に関して好意的な言明をしてきたにもかかわらず、結局は地方議員たちが拒絶するかたちとなった。
第三項  ミッテランの政権獲得戦略と地方分権改革
  以上のように、ジスカールデスタンの地方制度改革構想は、その法制化に成功しなかった。それには、一九八〇年の五月から一年の間、ジスカールデスタン政権がこの法案の審議を促進しなかったことにも原因があると言えるが、この政権がそのような行動をとった背景として、レモンは、一九八一年に予定されていた大統領選挙を挙げている。すなわち、大統領選挙を前に大規模な改革を避けたいという思惑が政権サイドに働き、ジスカールデスタン自身、こうした重要改革は、自分の第二期において実現したいと望んでいた、と(30)。しかし、それは、ある政権が目指した改革構想の一帰結にすぎない。むしろ重要なのは、こうした地方制度改革改革にこめたジスカールデスタンの政治的意図が実現したのか否か、あるいは、政権基盤強化という目的を達成するために彼がたてた地方名望家からの支持調達戦略が、成功したのか否かである。
  この点を論じるためには、彼に与えられた政治的・社会的諸条件を見ておかなくてはならないであろう。もしこの点に着目するならば、彼は、地域社会レベルあるいは地域政治構造レベルにおける都市化の流れに、守旧的な姿勢で臨んでいたことが分かる。メニィは、「ジスカールデスタンが行った施策の一覧表バランス・シートは、結局のところ、極めて貧弱なもの」であったと評価しながらも、この元大統領は次の三つの点において「犠牲者(victim)」であったと述べている(31)。それによれば、彼は、まず第一に、農村的な地域政治構造のなかに安住する地方名望家たちを徹底的に敵視した「ドゴール改革」の最後の犠牲者であった。ジスカールデスタンは、ドゴールがかつて目指した農村型経済構造の近代化路線に与することなく、中道勢力の総結集を目指して、地方名望家たちからの支持調達に努めた。しかし、彼が提起する地方制度改革は、決して、農村部の地方名望家から好意的に受け止められることはなかった(32)。また第二に、彼は「一九七〇年代、頂点に達した社会学的変容の犠牲者」でもあった。すなわち、その変容とは急速な都市化と産業化であり、とりわけ、農業部門のような伝統的産業にかわる第三次産業の成長である。こうした経済的・社会的変化が地方制度改革のなかでも、とりわけ、レジオン創設や都市整備といった施策を要請するとき、彼はそうした経済的・社会的要請に背を向けざるを得なかったのである。そして最後に、彼は、「彼自身が犯した分析上・戦略上の失敗の犠牲者」であった。すなわち、ジスカールデスタンとその助言者たちは、一九七六年の県議会選挙と一九七七年のコミューン議会選挙における一連の敗北を軽視してしまったのである。ローリンとマーゼイも指摘しているように、第五共和政成立以降、政権には一度もついたことのなかった左翼ではあったが、地方選挙のレベルにおいては社共共闘がかなりの成果をあげていたし、一九七〇年代後半になると「多くの左翼系地方議員たち−とりわけ若手議員たち−は、地域のさらなる自律性」を要求するようになったことから、「当時の社会党は、ジャン・ピエール・シュヴェーヌマンら伝統的な中央集権的ジャコバン派とともに、レジオン主義者、環境保護派、地域民主主義の強化を推進する自主管理主義者、より実効的なレジオンを単位とする計画化の実現に熱心なテクノクラート、そして、さらなる権限委譲を要求する地方議員などが集う、一つの広範な共闘運動と評された」のである(33)
  ジスカールデスタン政権末期の一九八一年、当時国政レベルでは未だ野党であった社会党であるが、彼らが与党をつとめる都市コミューンでは、その政権の中央集権主義的で官僚主義的なやり方へ、その批判を集中させていた。当時グルノーブルの市長であったユベル・デュブドゥは、フランスにおける都市の拡大がGAM運動の存在意義を高めている点を確認しつつ、「これらの都市を起点に、この一五年間、地方分権化要求が猛烈に高まったとすれば、ジスカールデスタン政権の七年間こそが、中央集権主義をフランス人の大多数にとって耐え難いものにしたのだ(34)」と述べている。この点に関連して、J・ヘイワードは、「自治体が、農村的コンセンサスによる政治と国の繁文縟礼による労苦とから解放されれば、自らのリーダーシップによってどれほどのことを達成しうるかを最も強烈に例証した(35)」事例の一つとして、このグルノーブル市政を挙げている。このように、一九七〇年代の社会党系都市コミューンは、現政権との党派的対抗における自らの存在意義を、「分権型自治体政策」と呼ぶべき独自方式の開発によって、証明していたのである。
  また、一九七〇年代後半に実施された地方選挙の最大の特徴は、都市部における左翼諸政党の躍進であったが、このことは、左翼諸政党、とりわけ社会党が、一九七〇年代を通じて展開してきた地方選挙の「国政化」戦略の成功を意味していた(36)。彼ら左翼が勝利したことは、一九七一年のエピネー大会で創立された新生社会党の地域的基盤を、活動家精神、影響力ネットワーク、恩顧関係、党財源の成長などの点において強化しただけでなく、公選職兼任システムが今なお残存しているもとで、左翼が中道へも勢力をのばしていく力をさらに強め、究極的には、一九八一年の大統領選挙におけるミッテランの勝利を準備するものであった。フランスの官僚主義的中央集権国家は、様々な側面において制度疲労を露呈しつつあり、これを変革しようとする動きが都市コミューンに生起していた以上、左翼諸政党にとって、地域に支持基盤を確立し、地方分権化と民主主義や社会主義の改革とを結びつけていくことは、焦眉の課題とならざるを得なかったのである。レジオン創設を含む地方分権化は、フランス左翼諸政党の基本政策として定着し(一九八一年の大統領選の際、『ミッテラン候補の一一〇の公約』として地方分権化が公約化される)、ミッテランはついに大統領に当選することになる。
  結局のところ、ジスカールデスタン政権の地方制度改革(廃案)とミッテラン政権の地方制度改革とのターニング・ポイントは、その改革の背後に存在する勢力が、農村的・守旧的名望家勢力であったかのか、それとも都市的・新興市民勢力であったのかという点にあったといえよう。そして、地方自治体の強化に重点を置く、こうした社会党の取り組みが一定の成功をおさめたことは、国家から自律した都市コミューン政府の実現可能性を認識させるに至り、最終的には、左翼諸政党の地方分権改革イメージを修正したと考えられる。
  ジスカールデスタンが政権の座にあった一九七〇年代の後半期、社会党系都市コミューン(グルノーブル市ではH.デュブドゥが、また、マルセイユ市ではG・ドゥフェールが、それぞれ市長と国民議会議員を兼職し、これらの自律化運動を指導していた)では、分権型自治体政策を開発するなど、新しい動きを示していた。これら二つの都市コミューンは、党派的には明らかに社会党の流れに位置づけられるものの、その運動の方向性はやや異なっていた。まず、グルノーブル市においてデュブドゥが指導したGAM運動は、自らの立場を自主管理社会主義と定義し、「地域民主主義=地域権力を市民に分割すること」という定式化のもと、分権型社会における市民参加のあり方を模索した(37)。他方、一九七三年のオイルショックを一つの契機とする地域経済の危機に見舞われていたマルセイユ市では、ドゥフェールの指導のもと、市当局が基幹産業の救済にあたるなど地方自治体による経済介入政策がおこなわれていた。一九世紀末のフランスにおいて、経済領域など様々な領域におけるコミューンの公共サーヴィスが行われるようになって以来、こうした地方自治体による経済介入政策は「自治体社会主義(socialisme municipal)」と呼ばれるようになった。しかし、これらの自治体政策に立法上の根拠が与えられない状態が長く続き、八二年法(第五条)こそがこれらの政策を合法化・明文化した最初の立法となった(38)。従って、一九七〇年代当時、行政を担当した者たちの間では、ゴーリズムの強い影響もあり、経済構造の近代化を理念とする公的セクターの経済介入政策が基本的には国家の役割であると考えられていたことは疑いなく、マルセイユ市当局と中央省庁(とりわけ内務省)との間には、経済介入の主体をめぐって少なからず軋轢があったと推察される。こうして、マルセイユ市長のドゥフェールにとって、地方分権改革は、中央官僚や県知事による行政的・財政的統制を廃止し、分権化された地方公共団体による分権的介入主義政策を合法化するすることを意味するようになっていくことになる。
  一九七〇年代後半、左翼諸政党の地方分権改革イメージを修正させるに至る、社会党系都市コミューンの実践事例とは何か。そして、これらの事例は、現代フランスにおける地方分権改革を実現可能にする諸条件を、どのように成熟させていったのか。これらの点について、章を改め検討していく。

(1)  田口富久治「統治と権力の構造」(中木康夫編『現代フランスの国家と政治』、有斐閣選書、一九八七年)、一二八頁。
(2)  中木康夫「戦後フランスの政治」(中木、同前)、五三頁。
(3)  田口富久治、前掲論文、一九八七年、一三〇ー一三一頁。
(4)  Yves Meny,”Central Control and Local Resistance, Vincent Wright (ed.), Continuity and Change in France, George Allen & Unwin, 1984, p. 202.
(5)  ibid., p. 205.
(6)  ibid., p. 205.
(7)  ibid., p. 206.
(8)  この大統領からの書簡は、『ヴィーヴル・アンサンブル』の冒頭に掲載されている。Vivre ensemble, rapport de la commission de de´veloppement des responsabilites locale´s, La Documentation Francaise, 1976.
(9)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 27.
(10)  Yves Me´ny, op. cit., p. 206.
(11)  Vivre ensemble, 1976. この報告書は、二分冊で構成されており、第一分冊は四三二頁からなる検討内容の報告と様々な提案にあてられており、第二分冊は、二二六頁からなる報告書の補足資料集となっている。また、これら二分冊の表紙は、いずれも、三万六千あまりにのぼるコミューンで区画されたフランス本土の地図が掲載されている。こうした点にも、細分化されすぎたフランスの地方自治体が抱えている困難に対する、委員会としての改革の意志が表明されていると理解することができるであろう。
  この報告書は、次のような構成をとる。すなわち、「検討方法についてのまえがき」、「事実確認」、「計画」、「議論と提案」である。
(12)  オネは言う。「精力的で、革新的で、光彩を放つギシャール報告書は、まさに一つの集大成であるように思われる」し、「その報告書は、ただ単に、中央集権的メカニズムを、フランスの地域的組織編制が悩まされている様々なアルカイスムや鈍重さとして描き出す、精密で、ラディカルで、容赦のない診断書」であるだけではなく、「真の変革戦略と、野心的で現実主義的な具体的改革の戦術をも提案しており」、「それらの提案の多くは、一九八〇年代初頭に、左翼による諸改革として実施されることになるが、これらは、その当時としては驚くほど近代的なものである」と。Jean−Marc Ohnet, op. cit., p. 162-163. また、これらの改革の近代的性格について、オネは、「国家の下位諸権力の組織編制における補完性原則の妥当性の喚起」や「地域の自律性概念の憲法成文化の提案」などがなされていたことを指摘する。
(13)  Le constat, Vivre ensemble, 1976, p. 15-31.
(14)  ここで述べられている「地域民主主義デモクラシー・ローカル」は、「地域の諸自由」という考え方とのみ結びつけられた、狭い意味で捉えられている。こうした狭義の理解に立つならば、地方公共団体の活動に裁量権を与える地方分権化デサントラリザシォンと、国の地方出先機関に裁量権を与える政府機能分散化デコンサントラシォンとが、「地域民主主義」を前進させる取り組みであることになる。従って、われわれは、ここで述べられている「地域民主主義」と、後述する、一九七〇年代のフランスに台頭した自治体改革運動が提起する「地域民主主義」とを区別しておく必要がある。後者の「地域民主主義」は、中央集権制の弊害を克服するという見地から、国家に集中している権限を地方公共団体へ移譲する地方分権改革を前提としながら、これら移譲された権限をさらに市民によっていかに分有するのかという地域内民主化の視点において構想されている。
(15)  Le projet, Vivre ensemble, 1976, p. 33-85.「計画」は、以下に示すように、五つの章からなる。
        第一章  原則と目的
        第二章  第一段階コミューンとコミューン共同体
        第三章  第一段階県とレジオン
        第四章  国家との対話地方諸機関全国会議
        第五章  今後は?
(16)  Arguments et propositions, Vivre ensemble, p. 86-432.「議論と提案」は、以下に示すように、六部構成で、三七の章からなる。
        第一部国家と地域の責任能力
「y6」          第一章  国家の問題/第二章  諸権限のより明確な分割による国家介入の制限/第三章  法規制による国家介入の制限/第四章  包括的財政メカニズムによる国家介入の制限/第五章  真の契約手続きによる国家介入の制限/第六章  新たな調整機関による国家介入の制限地方諸機関全国会議/第七章  国家の機能/第八章  公選職兼任の問題
        第二部諸権限
          第九章  諸原則の明確化/第一〇章  国家の諸権限/第一一章  コミューン及び各種コミューン共同体の諸権限/第一二章  県の諸権限/第一三章  レジオンの諸権限/第一四章  国土整備と都市開発/第一五章  教育/第一六章  保健衛生事業/第一七章  行政警察と広域災害防止対策
        第三部諸機関
          第一八章  連邦制への要求全般的事務を担当する自治体行政ネットワーク/第一九章  コミューンの諸機関/第二〇章  各種コミューン共同体の諸機関/第二一章  コミューン共同体を越えて新しい協同のあり方/第二二章  新たな自治体間ネットワークの枠組みづくり/第二三章  新興都市の問題/第二四章  特殊事務を担当する行政ネットワーク県とレジオン/第二五章  市民参加
        第四部財源の委譲
          第二六章  地方財政改革の筋道/第二七章  財政に関する全般的検討/第二八章  従来からある地方税の刷新/第二九章  新しい地方税/第三〇章  一般交付金所得税代理払込制(VRTS)を越えて/第三一章  一般交付金提案/第三二章  施設整備のための財源/第三三章  地方公共団体の財政担当部局/第三四章  改革にかかわる数量的資料
        第五部地域管理様式
          第三五章  近代的で責任能力のある地域管理を目指して/第三六章  人的資源
        第六部実施形態
          第三七章  問題提起的結論
(17)  オネによれば、ギシャール委員会は、県とレジオンに関するその他のあらゆる選択肢(とりわけ、レジオンを地方公共団体の地位に昇格させるという選択肢)を考えるのは時期尚早であると考えていたとされる。というのも、レジオンを地方公共団体に昇格させると言うことは、結果として、県制度に終焉を宣告し、レジオンを選択するのも同然であると考えていたからである。Jean−Marc Ohnet, op. cit., 1996, p. 161-162.
(18)  オネによれば、この会議は、合衆国州政府会議から着想を得たものであるとされる。ibid., p. 162.
(19)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 29.
(20)  ibid., p. 28.
(21)  Projet de loi pour le de´veloppement des responsabilite´s des collectivites locales.
(22)  Yves Me´ny, op. cit., p. 208.
(23)  ibid., p. 208.
(24)  Jean−Marc Ohnet, op. cit., p. 163.
(25)  メニィによれば、この作業グループよって作成されたサマリーは、未知の事柄について何ら明らかにするものではなく、そこで示された「地方の病弊」という診断は、「メール関連団体の諸要求や公選議員たちの反応から、およそ二五年あまりにわたって繰り返されてきた政府改革やレポート、そして様々な対案まで、完全に周知の事柄であった」とされる。むしろ、政党、地方議員、行政機関の間で意見の相違は、まさにその矯正方法においてみられたのである。Yves Me´ny, op. cit., p. 208-209.
(26)  J・M・オネによれば、ミッテラン政権下の地方分権改革(一九八二年)を準備していた一九八一年段階において、ガストン・ドゥフェールも、これを考慮せざるをえなかったという。Jean−Marc Ohnet, op. cit., p. 163. しかし、アンケート結果に対するドゥフェールの斟酌に疑問の声が、知事団のなかから挙がった。ミッテラン政権下の地方分権改革に対して懐疑的な立場をもっとも鮮明な形で表明したヴィエ(J.E. Vie´)は、その法案を次のように批判する。すなわち、このアンケート結果に示されたメールたちの要求は、財政問題を中心とするコミューンの規模問題の解決にあったにもかかわらず、ドゥフェール法案は、そうした重要課題を無視して、県知事によるコミューンへの後見監督の廃止を実現しようとしている、と。彼によれば、メールたちが批判しているのは、県知事による後見監督ではなく、設備省あるいは教育省による技術的監督であり、同じ理由で、フランス電力、フランス国鉄もやり玉に挙げられたとされる。川崎信文、前掲論文、一九八八年、二〇四頁。
(27)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 30-31. また、このボネ法案の基本的な考え方と内容に関しては、乗本せつ子「フランスの地方制度改革と元老院」(『法律時報』五七巻七号)、九六ー九八頁を参照。乗本氏によれば、この法案の内容は大きく分けて次の三点に整理されるとされる。(1)地方公共団体の従来の区域割りストラクチュールと内部組織アンスティテューシォンを尊重しつつ、コミューン間協同、住民参加、住民への情報提供を促進する。(2)国家行政機関による行政的・財政的・専門的コントロールを軽減し、地方公務員と地方議員の身分を改善することによって、「地方の自由」を拡大する。(3)補完性の原則に基づき、県とコミューンの権限事項を拡大する。そして、政府はその提案理由において、「現代世界の挑戦に応ずることのできる強い国家が必要」である一方で、「活力と責任ある地方公共団体が必要」であるとし、「国は地方公共団体に、地方レベルで引き受け可能な権限事項とともに、その行使に必要な諸手段を移転すべき」であるとしたのであり、この提案理由は、コミューンと県の役割強化が、@住民参加、A財源措置を伴う権限事項の明確な配分、B固有の権限事項に関する法律の範囲内での自由な決定の原則に基づいてなされることなどを要請する、とされた。
(28)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 29.
(29)  Yves Me´ny, op. cit., p. 209.
(30)  Bruno RE´MOND, op. cit., p. 30.
(31)  Yves Me´ny, op. cit., p. 213-214.
(32)  農村部の地方名望家たちがとる守旧的行動に関しては、ヘイワードも同様の指摘をしている。J.E.S. Hayward, Governing France:The One and Indivisible Republic, 1983.(ヘイワード著、田口富久治・川崎信文ほか訳『フランス政治百科』、剄
草書房、一九八六年)邦訳、六三頁。ヘイワードはいう。「県およびコミューンにおける伝統的な公選および任命による寡頭制的支配者たちは、当然かれらの影響力の基盤となっているこのシステムを維持しようとする」のであり、「かれらは、ミッテラン大統領が出現するまで、地方税制改革とりわけ政府がコミューンの再編を強制したり、さらに〔制度的に〕十分整備された地域圏レジォン創設して県の存立を脅かそうとしたことにみられるような地方政府構造の改革の企図に抵抗し、しかも成功を収めてきたのである」と。
(33)  John Loughlin and Sonia Mazey, op. cit., p. 2.
(34)  Hubert Dubedout,”Une Nouvelle Citoyennete´, La Nouvelle revue socialiste, n゜ 54, se´pt−oct, 1981, p. 25-26.
(35)  ヘイワード『フランス政治百科』、剄草書房、一九八六年、六五頁。
(36)  一九七〇年代に社会党がとった「地方選挙の国政化」戦略に関しては、次のものを参照。Albert Mabileau, op. cit., 2e e´d., 1994, p. 122-127. マビローによれば、「地方選挙の国政化」戦略とは、地域権力(地方自治体の首長職)を保持することで、それを土台として中央権力から様々な獲得物が期待されることを左翼諸政党がハッキリと自覚し、地方選挙の位置づけや選挙運動の進め方、さらには、候補者の所属政党名を全国政党と同一にした、その戦略のことを指している。そして、彼によれば、「この戦略は、間違いなく、一九八一年の政権交代に寄与するものであった」とされる。
(37)  グルノーブルGAMが、自らの立場を自主管理社会主義と規定して、地域の自主管理としての地域民主主義運動を展開していったという事実は、かつて、松下圭一氏が、一九六〇年代に「地域民主主義」の考え方を提唱した経緯と、問題意識の点で共通点が認められる。すなわち、松下氏は、わが国における左翼の運動が職場主義・組合主義に偏したために、「地域」がなおざりにされたことを問題とし、改めて運動の結集点として「地域」を位置づけ直そうとしたのである。松下氏は近年になって、この点をある対談において回顧している。松下圭一/村松岐夫(対談)「戦後政治と地方自治ー松下政治学の生成と展開」『レヴァイアサン』(第六号、一九九〇年)、八頁。なお、鳴海正泰氏によれば、わが国において「地域民主主義」という用語が、「一番最初に定義を明らかにして使われたのは、松下を中心にした数人の研究者によって、一九六〇年夏におこなわれた東京都杉並区の実態調査報告書『大都市における地域政治の構造』の序文『地域民主主義の重要性』のなかにおいて」であり、「さらに『地域民主主義』を理論的かつ政策論的に」体系化したのは、一九六一年の松下論文「地域民主主義の課題と展望」(『思想』No. 443、一九六一年五月)であったとされる。鳴海正泰『地方分権の思想−自治体改革の軌跡と展望−』(学陽書房、一九九四年)、六五ー六六頁。
(38)  地方自治体による経済政策や雇用政策の展開と、そのなかで八二年法改革がもっている意義に関しては、Jean−Claude Ne´mery,”Les collectivite´s locales, l’e´conomie et l’emploi, Les collectivite´s territoriales, Cahiers francCais N゜239, 1989. を参照。