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第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(二) 『梁書』に見られる昭明太子の性格と生活實態

『梁書』本傳によると、太子は元服後、武帝から萬機を委任されると、生眞面目に公務に勤め、奏事の者に誤謬や巧妄があっても、穩やかに改正させるだけで、少しも糾彈することもなく、常に非常に慈悲深い裁定を下した。そこで、天下の人々はみな「仁」と稱していたという。

太子自加元服、高祖便使省萬機。内外百司奏事者填塞於前。太子明於庶事、纖毫必曉、毎所奏有謬誤及巧妄、皆即就辨析、示其可否、徐令改正、未嘗彈糾一人。平斷法獄、多所全宥、天下皆稱仁。
太子元服を加へて自り、高祖便ち萬機を省さしむ。内外の百司の事を奏する者前に填塞す。太子庶事に明るく、纖毫も必ず曉り、毎に奏する所に謬誤及び巧妄有れば、皆即ち就きて辨析し、其の可否を示し、徐ろに改正せしめ、未だ嘗て一人をも彈糾せず。法獄を平斷し、多く全て宥さる、天下皆仁と稱す。

次いで本傳は公務の閑暇における太子の日常を具體的な逸話を交えながら以下のように記している。

性寛和容衆、喜慍不形於色。引納才學之士、賞愛無倦。恒自討論篇籍、或與學士商榷古今。間則繼以文章著述、率以爲常。于時東宮有書幾三萬巻、名才並集、文學之盛、晉宋以來未之有也。
性愛山水、於玄圃穿築、更立亭館、與朝士名素者遊其中。嘗泛舟後池、番禺侯軌盛稱此中宜奏女樂。太子不答、詠左思招隱詩曰、何必絲與竹、山水有清音。侯慚而止。出宮二十餘年、不畜聲樂。少時、敕賜太樂女妓一部、略非所好。

性寛和にして衆を容れ、喜慍色に形はさず。才學の士を引納し、賞愛倦むところ無し。恒に自ら篇籍を討論し、或ひは學士と古今を商榷す。間あれば則ち繼ぐに文章著述を以てす。率ね以て常と爲す。時に東宮に書有り三萬巻に幾し。名才並びに集ひ、文學の盛、晉宋以來未だ之れ有らざるなり。
性、山水を愛し、玄圃に於て穿築し、更に亭館を立て、朝士の名素の者と其の中に遊ぶ。嘗て舟を後池に泛ぶ。番禺侯軌、盛んに此の中宜しく女樂わ奏すべしと稱す。太子答へず、左思の招隱詩を詠じて曰く、何ぞ必ずしも絲と竹とを、山水に清音有りと。侯慚ぢて止む。宮を出でて二十餘年、聲樂を畜へず。少き時、太樂女妓一部を敕賜さるも、略ぼ好む所に非ず。

こうした太子の生活ぶりは自身の書簡「答湘東王求文集及詩苑英華書」に記すところと完全に一致している。昭明太子は、公職に精勵する以外は、或いは山水に親しみ、或いは學問と文章著述に没頭する毎日であったと判定して間違いなかろう。

また、太子の才能は、生來並外れて優れ、經學・文學・佛教に對する造詣が深く、これらに關する多くの著述をものしている。

太子生而聰叡、三歳受孝經・論語、五歳遍讀五經、悉能諷誦。
八年九月、於壽安殿講孝經、盡通大義。講畢、親臨釋奠于國學。

太子生れながらにして聰叡、三歳にして孝經・論語を受け、五歳にして遍く五經を讀み、悉く能く諷誦す。
八年九月、壽安殿に於て孝經を講じ、盡く大義に通ず。講畢り、親しく臨んで國學に釋奠す。

太子美姿貌、善擧止。讀書數行並下、過目皆憶。毎遊宴祖道、賦詩至十數韻。或命作劇韻賦之、皆屬思便成、無所點易。
太子姿貌に美はしく、擧止に善し。讀書數行並びに下る、目を過ぎれば皆憶ゆ。遊宴祖道する毎に、詩を賦し十數韻に至る。或ひは命じて劇韻を作し之を賦さしむるも、皆屬思便ち成り、點易する所無し。

高祖大弘佛教、親自講説。太子亦崇信三寶、遍覧衆經。乃於宮内別立慧義殿、專爲法集之所、招引名僧、談論不絶。太子自立二諦・法身義、並有新意。
高祖大いに佛教を弘め、親しく自ら講説す。太子亦た三寶を崇信し、遍く衆經を覧る。乃ち宮内に於て別に慧義殿を立て、專ら法集の所と爲し、名僧を招引し、談論絶えず。太子自ら二諦・法身義を立て、並びに新意有り。

このように生來優れた才能を有し、學問・文學に傑出した太子が「才學の士を引納し、賞愛して倦む無し。恒に自ら篇籍を討論し、或ひは學士と古今を商榷し、間あれば則ち繼ぐに文章著述を以てす。率ね(此れを)以て常と爲す。」というような日常生活を送っている上に、『文選』の序文に於いて

余、監撫の餘閑に、暇日多きに居り、歴く文囿を觀、泛く辭林を覽るに、未だ嘗て心に遊び目に想ひ、晷を移して倦むを忘れずんばあらず。姫漢自り以來、眇焉として悠かに邈く、時は七代を更へ、數は千祀を逾ゆ。詞人才子は、則ち名は縹嚢に溢れ、飛文染翰は、則ち巻は緗帙に盈つ。其の蕪穢を略し、其の清英を集むるに非ざる自りは、蓋し功を兼ねんと欲するも、大半は難し。

と明記している以上、いかなる人も『文選』は太子自身の「主持」の下、彼の文學觀を按じて、彼の側近文人が協力して編纂完成したものと考えざるを得ない。從來の論者も、恐らく『隋書』經籍志以下のいずれの「正史」にもみな「文選三十巻 昭明太子撰」と明記されているのに加えて、なお『梁書』昭明太子傳及び「文選序」に上記のような記述があるのを見て、何ら疑問を持つことなく、確信を持って、昭明太子は實際上の中核的編纂者であると斷定したのであろう。

しかし、梁代の「總集」の編纂實態は、前章で見たごとく、一般的には殆ど集團の有力文人が中心となって實際の選録を担當しているのが實情である。こうした實情の中にあって、太子の才能・學識が傑出していることのみを根據にして、『文選』だけは例外的であると見做し、集團主の昭明太子が中核となって實際の編纂に從事していると判定することは甚だ道理に合わない。その上、實際に『文選』收録作品を見ると、確かに昭明太子の文學觀(「持論」)と齟齬矛盾する多數の詩文が採録されている。だから、眞に『文選』編纂の實態を究明しようとする以上、少なくともこの事實に鑑み、再び『梁書』本傳などに描かれている昭明太子の生活情況について詳細に點檢し直してみる必要がある。

ところが、太子の「自撰」を確信している傳統的選學者の目には兩者の齟齬矛盾が全く見えなかったのであろう、『梁書』本傳の内容を詳しく點檢し直す必要など思いもつかず、誰一人實際にそれを試みる者はいなかった。そこで、以下、當時の社會情勢を十分に考慮に入れた上で、長く等閑に付されたままになっていた『梁書』本傳の内容を今一度再點檢してみることにする。


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