【注1】南齊書文學傳に「今之文章、作者難衆、總而爲論、略有三體。一則啓心閑繹、託辭華曠、雖存巧綺、終致迂囘。宜登公宴、本非准的。而疎漫闡緩、膏盲之病、典正可採、酷不入情。此體之源、出靈運而成也。次則緝事比類、非對不發、博物可嘉、職成拘制。或全借古語、用申今情、崎嶇索引、直爲偶説。唯覩事例、頓失清采。此則傅咸五經、應璩指事、雖不全似可以類從。次則發唱驚挺、操調険急、雖藻淫艶、傾炫心魂、亦猶五色之有紅紫、八音之有鄭衛、斯飽照之遣烈也」とある。

【注2】編者の構成などについては、拙論「梁代中期文壇考」(「立命館文學」第437〜438號)に詳論してある。

【注3】華林徧略六百二十巻の具體的な編纂情況については、『梁書』・『南史』に次のように記されている。
 天監十五年、敕學士撰徧略。嶼亦預焉。(『梁書』巻四十九 鍾嶸傳付載鍾嶼)
 天監十五年、敕太子詹事徐勉擧學士入華林撰徧略、勉擧思澄等五人以應撰。(『梁書』巻五十 何思澄傳)
 尋佐周捨撰國史。出爲臨津令、有善績、秩滿、縣人三百餘人詣闕請留、敕許焉。杳以疾陳解、還除雲麾晉安王府參軍。詹事徐勉擧杳及顧協等五人入華林撰徧略、書成、以本官兼廷尉正、又以足疾解。因著林庭賦、王僧孺見之而歎曰、郊居以後、無復此作。普通元年、復除健康正、遷尚書駕部郎。(『梁書』巻五十 劉杳傳)
 後詹事徐勉擧杳及顧協等五人入華林撰徧略、書成、以晉安王府參軍兼廷尉正、以足疾解。因著林庭賦、王僧孺見而歎曰、郊居以後、無復此作。(『南史』巻四十九 劉杳傳)(なお、王僧孺は普通三年卒。)

【注4】『史通』六家篇に「至梁武帝、又敕其群臣、上自太初、下終齊室、撰成通史六百二十巻。其書、自秦以上、皆以史記爲本、而別採他説、以廣異聞、至兩漢已還、則全録當時紀傳、而上下通達、臭味相依。呉蜀二王、皆入世家。五胡及拓抜列於夷狄傳。大抵其體如史記。其所爲異者、惟無表而已。」とある。『通史』の内容まで分析することが可能であった劉知幾の記す撰録事情は正確であると考えられる。

【注5】所著文集二十巻。又撰古今典誥文言、爲正序十巻。五言詩之善者、爲文章英華二十巻。文選三十巻。(『梁書』巻八 昭明太子傳)

【注6】何遜詩實爲清巧、多形侶之言。揚都論者恨其毎病苦辛、饒貧寒氣、不及劉孝綽之雍容也。雖然、劉甚忌之。平生誦何詩云、蘧車響北闕、不道車。又撰詩苑、止取何兩篇。時人譏其不廣。劉孝綽當時既有重名、無所與讓。唯服謝朓、常以謝詩置几案間、動靜輒諷味。(『顔氏家訓』文章篇)

【注7】葛洪の「要用字苑」(舊唐書經籍志・新唐書藝文志)を「字苑」(書證篇)、「説文音隠」(『隋書』經籍志)を「音隠」、「黄帝金櫃玉衡經」(道藏目録)を「金櫃」(雜藝篇)、「遯甲敍三元玉歴立成」(『隋書』經籍志)を「玉歴」(雜藝篇)、「三蒼」と「廣雅」(『隋書』經籍志)を「蒼雅」(勉學篇)と略稱している。この外、「通俗文」を「通俗」(勉學篇)、「孔子家語」を「家語」(雜藝篇)とするような事例は多く、また書籍名以外でも「劇秦美新」を「美新」(文章篇)と略稱することも頻りに行われている。

【注8】現在、中國においては、顧農「風教與翰藻 ─蕭統的文學趣味與《文選》的選文趨向─」(『文選學論集』時代文藝出版社)に「蕭統主要是一位選家、他主持編選的《文選》是現存最早詩文選本、後來影響很大。(中略)《文選》雖然并非蕭統一個人獨自完成的、他手下的文人學士如劉孝綽等人在編務方面大約做過不少事情、只無可懷疑的是《文選》本身確實反映了作爲主編的蕭統的主張(後略)」と述べられているような見解が一般的である。この見解は、顧農氏が該論文に「蕭統乃一位内行、不宜如此將他架空、何况劉孝綽的文學趣味與蕭統本是一路。」と注記していることから分かるように、基本的には、蕭統は才能豊かな、文學の專門家であったから、總集編纂を側近文人に全面的に委任するはずはないという見方から導き出されているのである。

【注9】屈守元「“昭明太子十學士”説」(『昭明文選論文集』吉林文史出版社)に詳論されている。
 天監十一年には、昭明太子蕭統は十二歳。陸四十三歳。張率三十八歳。到洽三十六歳。謝擧三十四歳。王筠と劉孝綽はともに三十二歳。張緬二十四歳。王規二十四歳。張纉と王錫はともに十四歳。

【注10】ここに「劉孝綽・何遜と選集す」とあるが、何遜は文選編纂の八、九年前に當たる天監末年に卒しているので、何遜が文選編纂に參加しているはずはない。

【注11】興膳宏氏『文選』総説の「文選編集の協力者」の項に「蕭統は自ら學問と文學を愛しただけでなく、文化の保護育成にも意を用いた。彼の周辺には多數の才學の士が集められて、古典の研究討論や、著述活動に日常の多くの時間が充てられるのを常とした。皇太子の居所である東宮には三万巻に近い書物が收集され、また數々の人材が糾合されて、學問と文學の隆盛は晉・宋以來その例を見ぬほどであった。こうした状況が、『文選』を生み出すための豊かな土壌の役割を果たしていたことはいうまでもあるまい。」(三十二頁)と記されている。

【注12】『梁書』劉孝綽傳に「初、孝綽與到洽友善、同遊東宮。孝綽自以才優於洽、毎於宴坐、嗤鄙其文、洽銜之。及孝綽爲廷尉卿、攜妾入官府、其母猶停私宅。洽尋爲御史中丞、遺令史案其事、遂劾奏之云、攜少妹於華省、棄老母於下宅。高祖爲隱其悪、改妹爲姝。坐免官。孝綽諸弟、時隨藩皆在荊・雍、乃與書論共洽不平者十事、其辭皆鄙到氏。又寫別本封呈東宮、昭明太子命焚之、不開視也。」と記された後、世祖が劉孝綽に書簡を與え、「君屏居多暇、差得肆意典墳、吟詠情性、比復稀數古人、不以委約而能不伎癢、且虞卿、史遷由斯而作、想摛屬之興、益當不少。洛地紙貴、京師名動、被此一時、何其盛也。」と述べているのに對して、孝綽自身が「伏承辭皇邑、爰至荊臺、未勞刺擧、且摛高麗。近雖預觀尺錦、而覩全玉。昔臨淄詞賦、悉與楊脩、未殫寶笥、顧慚先哲。渚宮舊俗、朝衣多故、李固之薦二賢、徐・璆之奏五郡、威懷之道、兼而有之。當欲使金石流功、恥用翰墨垂迹。雖乖知二、偶達聖心。爰自退居素里、却掃窮閈、比揚倫之不出、譬張摯之杜門。昔趙卿窮愁、肆言得失、漢臣鬱志、廣敍盛衰。彼此一時、擬非其匹。竊以文豹何辜、以文爲罪。由此而談、又何容易。故韜翰吮墨、多歴寒暑、既闕子幼南山之歌、又微敬通渭水之賦、無以自同獻笑、少酬褒誘。且才乖體物、不擬作於玄根、事殊宿諾、寧貽懼於朱亥。顧己反躬、載懷累息。但瞻言漢廣、藐若天涯、區區一心、分育九逝。殿下降情白屋、存問相尋、食椹懷音、矧伊人矣。」と答えているから、免職後しばらく屏居していたことが分かる。

【注13】『梁書』徐勉傳(巻二十五)に「時人間喪事、多不遵禮、朝終夕殯、相尚以速。勉上疏曰、禮記問喪云、三日而後斂者、以俟其生也。三日而不生、亦不生矣。自頃以來、不遵斯制。送終之禮、殯以朞日、潤屋豪家、乃或半晷、衣衾棺椁、以速爲榮、親戚徒隷、各念休反。故屬纊纔畢、灰釘已具、忘孤鼠之顧歩、愧燕雀之徊翔。傷情滅理、莫此爲大。且人子承衾之時、志懣心絶、喪事所資、悉關他手、愛憎深淺、事賞難原、如覘視或爽、存没違濫、使萬有其一、怨酷巳多、豈若緩其告斂之晨、申其望生之冀。請自今士庶、宜悉依古、三日大斂。如以 糾繩。詔可其奏。(中略)朝儀國典、婚冠吉凶、勉皆預圖議。普通六年、上修五禮表曰、(中略) 五禮之職、事有繁簡,及其列畢、不得同時。
  嘉禮儀注以天監六年五月七日上尚書、合十有二秩、一百一十六巻、五百三十六條。
  賓禮儀注以天監六年五月二十日上尚書、合十有七秩、一百三十三巻、五百四十五條。
  軍禮儀注以天監九年十月二十九日上尚書、合十有八秩、一百八十九巻、二百四十條。
  吉禮儀注以天監十一年十一月十日上尚書、合二十有六秩、二百二十四巻、一千五條。
  凶禮儀注以天監十一年十一月十七日上尚書、合四十有七秩、五百一十四巻、五千六百九十三條。大凡一百二十秩、一千一百七十六巻、八千一十九條。
 又列副祕閣及五經典書各一通、繕寫校定、以普通五年二月始獲洗畢。」とある。

【注14】『儀禮』喪服 齊衰杖期「經。父在、爲母。」「傳曰、何以期也。屈也。至尊在、不敢伸其私尊也。父必三年然後娶、達子之志也。」とある。この期について、敖繼公は「母の爲には齊衰・三年すべきであるが、父がおり、または母が出されているから、屈(えんりょ)しているのであり、また夫は妻を至親とするので齊衰・三年であるべきなのに期に服するのは、敢えて母に同じくしないからである、そこでこの二服は期であるが、實は三年の義を含んでいる」と解している。昭明太子は服喪の後、「腰帯十圍」が半分以下に減ったというから、恐らく、『禮記』喪大記に「期之喪、三不食。食疏食水飲、不食菜果。三月既葬、食肉飲酒。期終喪不食肉、不飲酒。父在爲母爲妻。」と述べられている通りの服喪生活を送っていたものと思われる。

【注15】『梁書』昭明太子傳に「三年十一月,始興王憺薨。舊事,以東宮禮絶傍親,書翰並依常儀。太子意以爲疑,命僕劉孝綽議其事。孝綽議曰:「案張鏡撰東宮儀記,稱『三朝發哀者,踰月不擧樂;鼓吹寝奏,服限亦然』。尋傍絶之義,義在去服,服雖可奪,情豈無悲,鐃歌輟奏,良亦爲此。既有悲情,宜稱兼慕,卒哭之後,依常擧樂,稱悲竟,此理例相符。謂猶應稱兼慕,至卒哭。」僕射徐勉、左率周捨、家令陸襄並同孝綽議。太子令曰:「張鏡儀記云『依士禮,終服月稱慕悼」。又云『凡三朝發哀者,踰月不擧樂』。劉僕議,云『傍絶之義,義在去服,服雖可奪,情豈無悲,卒哭之後,依常擧樂、稱悲竟,此理例相符』。尋情悲之説,非止卒哭之後,縁情爲論,此自難一也。用張鏡之擧樂,棄張鏡之稱悲,一鏡之言,取捨有異,此自難二也。陸家令止云『多歴年所』,恐非事證;雖復累稔所用,意常未安。近亦常經以此問外,由來立意,謂猶應有慕悼之言。張豈不如擧樂爲大,稱悲事小;所以用小而忽大,良亦有以。至如元正六佾,事爲國章;雖情或未安,而禮不可廢。鐃吹軍樂,比之亦然,書疏方之,事則成小,差可縁心。聲樂自外,書疏自内,樂自他,書自己。劉僕之議,即情未安。可令諸賢更共詳衷。」司農卿明山賓、歩兵校尉朱异議,稱「慕悼之解,宜終服月」。於是令付典書遵用,以爲永準。」と記している記事を見れば、昭明太子が喪禮において「情」を重視していたことは明確である。

【注16】晉安王蕭綱は、『梁書』簡文帝紀に據ると、天監一四年に雲麾將軍となり、天監一七年には宣惠將軍に遷っている。太子詹事徐勉は天監一八年に尚書右僕射となっている。それ故、華林徧略六百二十巻は、天監一五年〜天監一七年の三年間で完成していることになる。總集の編纂は、二、三年間で編纂は可能である。