『梁書』「携少妹於華省、棄老母於下宅」考

 





中国の「史書」中には実際は重要な事案に関連しているにも拘わらず、一見ごく些細な事柄を示しているようにしか見えないため、不可解な表現と訝りつつも、ついその真相の究明を等閑にしてしまっている記事がある。『梁書』劉孝綽伝の「携少妹於華省、棄老母於下宅」という記事もそうしたものの一つである。

初孝綽與到洽友善、同遊東宮。孝綽自以才優於洽、毎於宴坐嗤鄙其文。洽銜之。及孝綽爲廷尉正、攜妾入官府、其母猶停私宅。洽尋爲御史中丞、遣令史案其事、遂劾奏之云、攜少妹於華省、棄老母於下宅。高祖爲隱其惡、改妹爲姝。坐免官。(巻三十三)
初め孝綽、到洽と友善にして、同じく東宮に遊ぶ。孝綽自ら才の洽より優れると以(おも)ひ、毎に宴坐に於いて其の文を嗤(わら)ひ鄙(いや)しむ。洽、之を銜(ふく)む。孝綽、廷尉正と爲るに及び、妾を攜へて官府に入り、其の母猶ほ私宅に停む。洽、尋いで御史中丞と爲り、令史をして其の事を案ぜしめ、遂に之を劾奏して云く、少妹を華省に攜へて、老母を下宅に棄つと。高祖、爲に其の惡を隱して妹を改めて姝と爲す。坐して官を免ぜらる。

この記事は、昭明太子の東宮官僚であった到洽が御史中丞の職に就任すると、かねて同僚であり友人であった劉孝綽に侮蔑されてきた宿怨を晴らすべく、嘗て劉孝綽が廷尉正となった際に、「妾(しょう)」を官府に携(つ)れて行きながら、其の母はなお私宅に停まったままであったという事案について、令史(役人)を派遣して内偵捜査した後、公式の弾劾文に「少妹を華省に携へて、老母を下宅に棄つ」と記して上奏告発したものである。

『梁書』の記事中に劉孝綽の取った行爲として非難されている一件は明確に「妾を携へて官府に入り、其の母猶ほ私宅に停む」と言うように記述されている。それにも拘わらず、到洽が司直に劉孝綽の一件事案を内偵捜査させた上で、実際に弾劾上奏した文では「少妹」を「華省」に「携(つ)」れて行き、「老母」を「下宅」に「棄」ててきたと明記されている。その上、武帝が劉孝綽の爲に其の悪を隠蔽するべく、弾劾文中の「妹」字を「姝」字に改めたと記されている。これは一見実に奇妙で不可解な記事である。

「妾(しょう)」とは正室以外の夫人を指し、「少妹」とは若い妹のことを指して言うのであるから、この「妾」と「少妹」の二者が同意で、同一人を指しているということは決してあり得ない。また、現在の倫理道徳規準から考えると、官舎に愛人を携行するより、妹を携行する方がずっと非難が少ないはずであるから、弾劾されている劉孝綽の悪を隠くす爲なら、高祖武帝は当然「華省」に「姝」を連れて行ったと改変するより、「妹」を連れて行ったと改変するはずである。それ故、一般には武帝が「妹」を「姝」と書き改めたとする『梁書』の記事は誤って逆に記述されたものに過ぎないと推定されている。例えば中華書局版標点本『梁書』の校勘記には「按ずるに、孝綽『妾を携へて官府に入る』ならば、到洽の劾奏の辞は当に少姝を携へてと爲すべし。高祖、其の悪を隠す爲ならば、亦、当に是れ姝を改めて妹と爲すべし。昔人謂へらく、此の妹姝二字は互倒なりと」と注記し、安易に現在の一般的な倫理道徳規準に則ってこの問題の記事を処理し、肝腎の当時の具体的な情況や内容の究明を等閑に付してしまっている。

しかし、『梁書』・『南史』・『通史』は勿論のこと、『冊府元亀』及び『何氏語林』に引用されている同記事もすべて「妾」・「少妹」・「姝」の記述は上述の『梁書』の通りであり、版本に拠る相異は全く存在していない。また、中華書局版標点本『梁書』の校勘記には「昔人謂へらく、此の妹姝二字は互倒なり」と注記しているけれども、実際に「昔人」がそのように謂ったことを示す具体的な記録はどこにも存在していない。それ故、たとえ劉孝綽が実際にとった行動はそれと相違するところがあったとしても、到洽によって弾劾された事案としては紛れもなく劉孝綽が「少妹」を「華省」に携(つ)れて行き、老母を「下宅」に放棄してきたことを告訴したものに違いない。実はこの記事には「此の妹姝二字は互倒なり」では済ましておけない当時の複雑な事情が内在しているのである。そのことは延いては劉孝綽が『文選』の編纂にどのような役割を果たし、どのような考えで当たったのかを探究する上に於いても重大な関連性を有する貴重な記事なのである。

そこで劉孝綽には当時どのような告訴弾劾され得る情況が存在したのか、また、何故、武帝は「妹」を「姝」に書き改めてまで、劉孝綽の「悪」を隠そうとしたのか、「妹」を携行することがどうして「姝」を携行することより「悪」いことなのか、これらの点を少し丁寧に分析検討してみたい。

『梁書』によると、到洽が御史中丞に就任したのは普通六年(524年)のことである。彼は御史中丞に着任すると、全く門地・地位或いは親疏関係に顧慮を払うことなく大胆に糾弾を加えたので、「勁直」と号され、当時の悪事は粛清されたという。

(普通)六年、遷御史中丞。彈糾無所顧望。號爲勁直。當時肅清。(巻二十七 到洽伝)
(普通)六年、御史中丞に遷る。彈糾して顧望する所無し。號して勁直と爲す。當時肅清す。

到洽は、この時にかねて宿怨を抱いていた友人の劉孝綽に対しても、司直を派遣して彼の廷尉卿時代の「妾を携へて官府に入り、其の母猶ほ私宅に停む。」という所行を遠慮なく徹底的に捜査した後、実際に告訴するに当たっては弾劾文に「少妹を華省に携へて、老母を下宅に棄つ」と記して上奏したのである。弾劾文に「其の母猶ほ私宅に停む」を「老母を下宅に棄つ」と表現し直しているところなどには到洽のなみなみならぬ深い宿怨が読みとれる。また、『顔氏家訓』の記事には、到洽の兄到漑がこの度の友人劉孝綽に対する弾劾をなんとか思いとどまらせようと説得を試みたが、結局、どうしても説得できず、仕方なく劉孝綽を訪ね、涕泣しながら告別の挨拶をしてきたことが記されている。この『顔氏家訓』に記されている記事より推定しても、劉孝綽への世間の非難は最初そんなに厳重なものではなく、必ずしも弾劾しなくとも済ませることが可能な事案であったと見て取れる。実際、この記事には、江南ではたとえ重大な事件でなくとも、教義上のことで司法・検察当局に弾劾され、恥辱を受けた場合には、被告人の家族は皆、告訴人を「怨讎」と見なし、子孫は三世の間、絶交することが明記されており、その実例として到洽の劉孝綽に対する弾劾事件が取り上げられ、記録されているのである。それ故、この劉孝綽の行爲は決して重大な犯罪ではなく、明らかに教義上の問題であったと断定できるのである。

梁世被繫劾者、子孫弟姪、皆詣闕三日、露跣陳謝。子孫有官、自陳解職。子則草屩麤衣、蓬頭垢面、周章道路、要候執事、叩頭流血、申訴冤枉、若配徒隸。諸子竝立草庵於所署門、不敢寧宅。動經旬日、官司驅遣、然後始退、江南諸憲司彈人事、事雖不重、而以教義見辱者、或被輕繫而身死獄戸者、皆爲怨讎、子孫三世不交通矣。到洽爲御史中丞、初欲彈劉孝綽、其兄先與劉善、苦諫不得。乃詣劉涕泣告別而去。(『顔氏家訓』風操第六)
梁の世、繋劾を被る者は、子孫弟姪、皆な闕に詣ること三日、跣を露はして陳謝す。子孫の官有るものは、自ら陳して職を解く。子は則ち草屩麤衣、蓬頭垢面にて、道路に周章し、執事に候するを要め、叩頭流血し、冤枉を申訴し、徒隸に配するが若し。諸子竝びに草庵を署する所の門に立て、敢て宅に寧んぜず。動やもすると旬日を經、官司驅り遣りて、然る後に始めて退く。江南の諸憲司の人事を彈ずるに、事重からずと雖も、而れども教義を以て辱めらるる者、或いは輕繫を被りて身獄戸に死ぬる者は、皆、怨讎と爲し、子孫三世、交ごも通ぜず。到洽、御史中丞と爲り、初め劉孝綽を彈ぜんと欲す、其の兄、先に劉と善し、苦だ諫むるも得ず。乃ち劉に詣り涕泣し告別して去る。

劉孝綽が廷尉卿になったのは、当然、到洽が普通六年に御史中丞に就任する以前のことであり、『梁書』・『南史』の劉孝綽伝・到洽伝中の関連記事を総合的・有機的に分析してみると、それは普通五年のことであると特定できる。(拙論「文選編纂の周辺」 『立命館文学』第377・378号 1978年 225頁の表などを参照。)丁度、この普通五年春二月に、当時の政権中において最も武帝蕭衍の信頼を得ていた僕射徐勉の第二子徐悱が卒している。

勉第二子悱卒。痛悼甚至、不欲久廢王務、乃爲答客喩。其辭曰、普通五年春二月丁丑、余第二息晉安内史悱喪之問至焉。擧家傷悼、心情若隕。二宮竝降中使、以相慰勗。親遊賓客、畢來弔問。輒慟哭失聲、悲不自已。所謂父子天性、不知涕之所從來也。(略)(『梁書』巻二十五徐勉伝)
勉の第二子悱、卒す。痛悼甚だ至るも、久しく王務を廢するを欲せず、乃ち客の喩に答ふるを爲る。其の辭に曰く、普通五年春二月丁丑、余(よ)の第二息、晉安内史悱の喪の問至る。家を擧げ傷悼し、心情隕つるが若し。二宮竝びに中使を降し、以て相ひ慰勗す。親遊賓客、畢く來り弔問す。輒ち慟哭して聲を失ひ、悲しみ自ら已まず。所謂父子の天性、涕の從りて來る所を知らざるなり。

この徐悱の妻が外でもない劉孝綽の「少妹」である劉令嫺なのである。

孝綽兄弟及群從諸子姪、當時有七十人、竝能屬文、近古未之有也。其三妹適琅邪王叔英、呉郡張嵊、東海徐悱、竝有才學。悱妻文尤清拔。悱、僕射徐勉子、爲晉安郡、卒。喪還京師、妻爲祭文、辭甚悽愴。勉本欲爲哀文、既覩此文、於是閣筆。(『梁書』劉孝綽伝)
孝綽の兄弟及び群從諸子姪、當時七十人有り、竝びに能く文を属(つづ)り、近古未だ之れ有らざるなり。其の三妹は、琅邪の王叔英・呉郡の張嵊・東海の徐悱に適(とつ)ぎ、竝びに才學有り。悱の妻の文、尤も清拔なり。悱は、僕射徐勉の子、晉安郡と爲りて、卒す。喪、京師に還り、妻、祭文を爲り、辭甚だ悽愴たり。勉、本と哀文を爲らんと欲するも、既に此の文を覩て、是に於て筆を閣(お)く。

この徐悱と劉令嫺の当時の夫婦仲は、次の『玉台新詠』(巻六)に収録されている贈答詩において、互いに強く引き合い、求め合いながら、夫は任地晋安郡、妻は都建康と遠く離れて暮らさねばならないやるせなさや寂しさ、更には嫉妬心などをも大胆に吐露し、互いに相手を強く思慕する心情を綿々と表現していることからも明らかなように、深く強い愛情で結ばれていたのである。

   贈 内               内に贈る      徐悱

日暮想清陽 躡履出椒房  日暮れて清陽を想ふ 履を躡みて椒房より出づ
網蟲生錦薦 遊塵掩玉牀  網蟲は錦薦に生じ 遊塵玉牀を掩ふ
不見可憐影 空餘黼帳香  可憐の影を見ず 空しく餘さん黼帳の香
彼美情多樂 挾瑟坐高堂  彼の美情樂しみ多し 瑟を挾みて高堂に坐せん
豈忘離憂者 向隅心獨傷  豈に忘れん憂に離れる者 隅に向ひて心獨り傷むを
聊因一書札 以代九回膓  聊か一書札に因りて 以て九回の膓に代ふ

   對房前桃樹詠佳期贈    房前の桃樹に對し佳期を詠じ内に贈る

相思上北閣 徙倚望東家  相思ひて北閣に上り 徙倚して東家を望む
忽有當軒樹 兼含映日花  忽ち軒に當れる樹有り 兼ねて日に映ずる花を含む
方鮮類紅粉 比素若鉛華  鮮を方ぶれば紅粉に類し 素を比ぶれば鉛華の若し
更使増心憶 彌令想狹斜  更に心憶を増さしめ 彌いよ狹斜を想はしむ
無如一路阻 脈脈似雲霞  如(いかん)ともする無し一路の阻たり 脈脈として雲霞に似たり
嚴城不可越 言折代疎麻  嚴城越ゆべからず 言に折りて疎麻に代ふ

   答外詩二首 其一       外に答ふる詩二首 其の一  徐悱の妻劉令嫺

花庭麗景斜 蘭牖輕風度  花庭麗景斜なり 蘭牖輕風度る
落日更新妝 開簾對春樹  落日は新妝を更め 開簾は春樹に對す
鳴鸝葉中響 戲蝶枝邊騖  鳴鸝葉中に響き 戲蝶枝邊に騖(は)す
調瑟本要歡 心愁不成趣  瑟を調して本より歡を要(もと)むも 心は愁へて趣を成さず
良會誠非遠 佳期今不遇  良會誠に遠きに非らざるも 佳期今遇はず
欲知幽怨多 春閨深且暮  幽怨の多きを知らんと欲せば 春閨は深く且つ暮る

   其二               其の二

東家挺奇麗 南國擅容輝  東家奇麗を挺んで 南國容輝を擅にす
夜月方神女 朝霞喩洛妃  夜月神女に方べ 朝霞洛妃に喩ふ
還看鏡中色 比艷自知非  還た鏡中の色を看るに 艷を比すれば自ら非なるを知る
摛辭徒妙好 連類頓乖違  辭を摛(の)ぶれば徒に妙好なるも 連類頓に乖違す
智夫雖已麗 傾城未敢希  智夫已に麗とすと雖も 傾城未だ敢て希はず

このように互いに強く求め合い、親密な愛情で結ばれていた夫徐悱が突然任地である晋安郡で死去したのであるから、その知らせを聞いた妻劉令嫺は奈落に突き落とされたような如何ともし難い深い悲嘆に沈んだことは言うまでもなかろう。夫の「喪」が京師に帰還して来ると、彼女は自ら祭文を作り、愛する夫への深甚な哀悼の意を表した。悲嘆に狂う精神の平衡を得るべく、哀悼の情念を祭文にぶつけたのであろうか、その辞は愛惜の心情に満ち溢れ、悽愴を極めていたという。悱の父徐勉はその祭文を見て、遂に擱筆し、自ら哀悼文を作るのを止めてしまった程の圧倒的な悲哀の心情に満ちたものであった。

『古詩紀』(巻一百五十)にはこの劉令嫺の祭文の一部が引用採録され、「生死は並びに殊(こと)にするも、親情は猶ほ一のごとし」と記されていることから見ても分かる通り、彼女の夫徐悱に対する敬愛の情念は死後も少しも変わることなく、相当強烈に彼女の心中に残存していたものと認められる。

なお『古詩紀』には、この祭文の記事の後に、更に閉門蟄居処分を受けた劉孝綽が自宅の門に「閉門して慶弔を罷め、高臥して公卿に謝す」という十字を題したところ、劉令嫺がこれに「落花は掃きても更に合ひ、叢蘭は摘みても復た生ず」と続けたことが記述されている。この記述も当時の劉孝綽兄妹が夫を亡くした不幸と友人の理不尽な弾劾による免官という互いの不幸不運な境涯に同情し合い、親愛の情で慰藉し、助け合う関係にあったことを示唆している

劉令嫺、徐悱妻、孝綽妹也。悱卒爲祭文。其辭曰、生死竝殊、親情猶一、敢道先好、手調薑橘。孝綽屏門不出爲詩十字、以題其門曰、閉門罷慶弔、高臥謝公卿、令嫺續之曰、落花掃更合 叢蘭摘復生(歴代吟譜)
劉令嫺は徐悱の妻、孝綽の妹なり。悱卒して祭文を爲る。其の辭に曰く、生死竝びに殊にするも、親情は猶ほ一のごとし、敢て道ふ先に好く、手に薑橘を調ふと。孝綽屏門して出でず、詩十字を爲り、以て其の門に題して曰く、閉門して慶弔を罷め高臥して公卿に謝す。令嫺之に續けて曰く、落花は掃きても更に合ひ、叢蘭は摘みても復た生ずと。

以上のような情況から見て、到洽が劉孝綽に対して「少妹を華省に携行した」と告発した「少妹」とは劉令嫺であることは明白である。元来、この「少妹」の義父である徐勉と大変親交が厚かった上、「少妹」劉令嫺が夫の徐悱に先立たれ、傷心のあまり精神の平衡さえ保ち兼ねているのを見て、兄の劉孝綽は憐憫の情を禁じ得ず、彼女を慰藉すべく敢えて「華省」に携(つ)れて行ったのであろう。到洽の上奏弾劾に際して、高祖がなんとか断罪を回避させようと姑息な画策をしたり、免職後には徐勉を派遣してしばしば慰撫しているところから判断すると、どうやら高祖の最も信頼する側近であった徐勉が悲嘆にくれた息子の妻劉令嫺を自らも信頼する兄劉孝綽に一時その身を託した可能性が強い。そうでなければ高祖がこのような姑息な手段を弄して、一個人の教義上の弾劾を隠蔽するはずがない。たとえ徐勉自身が積極的に依託するような事実がなかったとしても、少なくとも息子の嫁である劉令嫺が兄劉孝綽の許へ行くことを承知し、それを許容していたに違いない。高祖武帝は一般に教義上の罪には厳しかったのであるが、当時僕射であった徐勉を最も信頼しており、政権にとって必要不可欠な存在であると認識していたので、下手をすれば直接徐勉にも連座しかねない劉孝綽に対する「携少妹於華省、棄老母於下宅」という弾劾事件に強い関心を抱き、徐勉からその経緯・事情を聞き、敢えて「妹」を「姝」と書き換えるという姑息な手段を弄してまで、その「悪」を隠蔽しようと試みたのであろう。

しかし、これは当時の儀礼としては忌避すべきことであり、外形的には「妾」を携行するよりももっと悪質な行爲と見なされていたのである。つまり、いくら夫を亡くし、嘆き苦しむ妹を慰藉する爲とは言え、当時の兄弟姉妹の行動規範としては、母親を私宅に残したままの状態で、既に他家に嫁いでいた妹を兄が官府に携行するようなことは、教義上、避けるべき所行と認められていたのである。





本来、最初に劉孝綽の告発さるべき事案としては、『梁書』に明記されている通り、「妾(しょう)」を官府に携へて、其の母猶ほ私宅に停む」という行爲であったと見られる。それは「妾」を「官府」に携行したことを強く非難したものではなく、「其の母」を「私宅」に停めおいたという点に重点を置いた非難であり、「母」より「妾」の方を大切に扱うという「親不孝」の所行を糾弾したものであった。元来、当時にあっては、「妾」を「官府」に携行すること自体はそれほど強く糾弾するべき悪行ではなく、母親を私宅に停めておくことも決して重大な犯罪ではなかった。

しかし、『礼記』曲礼に、既に嫁いだ姉妹が実家に返った場合、兄弟と同席したり、同器で食することを禁じる規定が明記されていることからも分明であるように、近親間における淫行の防止という観点から、兄弟姉妹間の行動には教義上相当厳しい制約が存在していたのである。

男女不雜坐。不同椸枷。不同巾櫛。不親授。嫂叔不通問。ゥ母不漱裳。外言不入於梱。内言不出於梱。女子許嫁纓、非有大故、不入其門。姑・姉妹・女子子、已嫁而反、兄弟弗與同席而坐。弗與同器而食。(『禮記』曲禮下)
(鄭玄注)皆爲重別防淫亂。不雜坐謂男子在堂、女子在房也。椸可以枷衣者。通問謂相稱謝也。ゥ母庶母也。漱澣也。庶母賤。可使漱衣、不可使漱裳。裳賤。尊之者、亦所以遠別。外言内言、男女之職也。不出入者、不以相問也。梱門限也。女子許嫁繫纓、有從人之端也。大故宮中有災變若疾病、乃後入也。女子有宮者、亦謂由命士以上也。春秋傳曰、群公子之舍、則巳卑矣。女子十年而不出、嫁及成人可以出矣。猶不與男子共席而坐。亦遠別也。
男女は雜り坐せず。椸枷を同じくせず。巾櫛を同じくせず。親ら授けず。嫂叔は問を通ぜず。ゥ母には裳を漱(あら)はしめず。外言は梱より入らず。内言は梱より出でず。女子許嫁して纓すれば、大故有るに非らざれば、其の門に入らず。姑・姉妹・女子子、已に嫁して反れば、兄弟與に席を同じくして坐せず。與に器を同じくして食せず。
(鄭玄注)
皆な別を重んじ淫亂を防ぐが爲なり。雜り坐せずとは、男子は堂に在り、女子は房に在るを謂ふなり。椸は以て衣を枷すべき者。問を通ずとは相ひ稱謝するを謂ふなり。ゥ母は庶母なり。漱は澣なり。庶母は賤し。衣を漱はしむべきも、裳を漱はしむべからず。裳は賤し。之を尊ぶは、亦た遠別する所以なり。外言・内言は、男女の職なり。出入せずとは以て相ひ問はざるなり。梱は門限なり。女子許嫁して纓を繫くれば、人に從ふの端有るなり。大故は宮中に災變若しくは疾病有り、乃ち後に入るなり。女子宮有りとは、亦た命士由り以上を謂ふなり。春秋傳に曰く、群公子の舍なれば、則ち已に卑なりと。女子は十年にして出でず、嫁するもの及び成人は以て出づべし。猶ほ男子と席を共にして坐せず。亦た遠別するなり。

『古今事文類聚』(後集巻十一)に採録されている『列女伝』によると、河南の李淑卿は、同じく孝廉に応挙した者から其の「寡妹」(夫を亡くした妹)と通淫したと誣告された結果、閉門蟄居して女性を絶つ猪レに陥った。それを知った妹は淫行の汚名をリらすべく、府門へ行って抗議の自殺を敢行。淑卿も亦た自ら命を絶ってしまった。彼らの死後、無実が明らかになり、三年後、誣告した者は雷に打たれて死に、その屍体は淑卿の墓前にゥかれたというエ話が記されている。

河南李淑卿爲功曹、應擧孝廉。同應擧人害之、使婢宣言淑卿淫其寡妹。同擧人詣尹、以骨肉相姦、不合應孝廉。于是淑卿杜門自絶女。妹傷被淫名、遂到府門自殺。淑卿亦自殺。明已無僭也。後三年霹靂擊害淑卿者、以其屍ゥ淑卿冢前。(列女傳)
河南の李淑卿、功曹と爲り、孝廉に應擧せんとす。同じく應擧する人、之を害せんとし、婢をして宣言せしめ、淑卿、其の寡妹と淫すと。同擧人、尹に詣り、骨肉を以て相姦するは、合に孝廉に應ずべからずとす。是に于て淑卿、門を杜じ自ら女を絶つ。妹、淫名を被むるを傷み、遂に府門に到りて自殺す。淑卿も亦た自殺す。已に僭無きこと明らかなり。後三年、霹靂淑卿を害する者を擊ち、其の屍を以て淑卿の冢前にゥく。

このエ話に見られるように、一旦、兄弟姉妹間の通淫という嫌疑をかけられ、非難告発されると、それがたとえ人を貶めるための誣告であったとしても、自らその無実を確実に証明してみせることは甚だ困難であり、どうしても微妙な問題が残るものであるから、結局、告発を受けた者は、免官させられ、閉門蟄居して謹慎するより外なかったのである。劉孝綽の場合も到洽から「少妹」を「官府」に携行したという弾劾告発を受けると、それに対して直ちに弁明及び異議申し立ての書を書き表し、荊・雍の藩府に出仕していたゥ弟に送付したり、別本を写し、封じて昭明太子に呈上したりして無実の訴えを試みてみたが、すべて全く実効はなく、弁明・異議は認められないまま、高祖武帝の秘かなる援護を得てすらどうしようもなく、結局は免官させられるという結果に終わっている。免官の後も、世祖蕭繹から送付されてきた慰撫の書簡に「君(劉孝綽を指す)、屏居して暇多し」と記してあることからも分かる通り、劉孝綽は遂に型通り閉門蟄居を餘儀なくされてしまったのである。

坐免官。孝綽ゥ弟、時隨藩皆在荊雍。乃與書論共洽不平者十事。其辭皆鄙到氏。又寫別本封呈東宮。昭太子命焚之不開視也。
時世祖出爲荊州、至鎭與孝綽書曰、君屏居多暇、差得肆意典墳吟詠情性。比復稀數古人、不以委約而能不伎癢。且虞卿史遷由斯而作、想摛屬之興u當不少。洛地紙貴、京師名動、彼此一時、何其盛也。
(後略)
(『梁書』劉孝綽傳)
坐して免官さる。孝綽のゥ弟、時に藩に隨ひて皆な荊雍に在り。乃ち書を與へ共に洽の不平なる者の十事を論ず。其の辭皆な到氏を鄙とす。又た別本を寫して東宮に封呈す。昭明太子命じて之を焚かしめ、開視せず。
時に世祖出でて荊州爲り、鎭に至り孝綽に書を與へて曰く、君屏居して暇多し、差しく意を典墳に肆にし、情性を吟詠するを得。比ごろ復た稀に古人を數へて、委約を以てせずして能く伎癢せざらんや。且つ虞卿・史遷、斯れ由りして作り、摛屬の興を想ふこと、uます當に少なからざるべし。洛地に紙貴く、京師に名動く、彼此の一時、何ぞ其れ盛なるや。
(後略)

上記の世祖の慰撫に対する返書においては、劉孝綽は自身の「屏居」は世俗と相容れず、疾により任官を辞退し、却掃閉門した後漢の楊倫や張摯に譬えられるものであるけれども、かの「窮愁」を抱いた趙の虞卿が自由に世の得失を語ったり、「鬱志」を託った漢臣司馬遷が広く世の盛衰を叙述したような真似はとてもできない。「文豹」(華やかな模様のある豹)は何の辜があって、「文」(華やかさ)を罪とされるのであろうか。このような観点から言うと、誣告に罹った私の憂愁を「文」で表現することはまた容易ならないことであります。それ故に私はしばらくの間、筆を擱き文を作っていません。その結果、私には楊ツの「南山の歌」や馮衍の「渭水の賦」といった自分の心境を率直に表白するような「文」などありませんし、また餘人と楽しく同詠したり、応酬するといったようなことも殆どないのでありますと述べている。こうした記述から見ると、劉孝綽自身には、たとえ教義上にせよ、自分が悪行を犯したというような意識は全く見受けられない。劉孝綽としては、「少妹」を官府に携れて行っていても、それは悲嘆に暮れる妹を慰藉するための緊急避難的措置であり、決して「同居」に当たることではなかったから、少しも『礼記』などの礼儀に悖るものでないと考えていたのである。

孝綽答曰、伏承自辭皇邑、爰至荊臺、未勞刺擧、且摛高麗。近雖預觀尺錦而不覩全玉。昔臨淄詞賦、悉與楊修、未殫寶笥、顧慙先哲。(中略)
爰自退居素里、却掃窮閈、比楊倫之不出、譬張摯之杜門。昔趙卿窮愁、肆言得失、漢臣鬱志、廣敍盛衰。彼此一時、擬非其匹。竊以文豹何辜、以文爲罪。由此而談、又何容易。故韜翰吮墨、多歴寒暑、既闕子幼南山之歌、又微敬通渭水之賦、無以自同獻笑、少酬褒誘。且才乖體物、不擬作於玄根。事殊宿諾、寧貽懼於朱亥。顧己反躬、載懷累息。但瞻言漢廣、邈若天涯、區區一心、分宵九逝。殿下降情白屋、存問相尋、食椹懷音、矧伊人矣。

孝綽答へて曰く、伏して承はるに皇邑を辭して自り、爰に荊臺に至り、未だ刺擧を勞せずして、且つ高麗を摛(の)ぶ。近く尺錦を預り觀ると雖も全玉を覩ず。昔、臨淄の詞賦、悉く楊修に與へ、未だ寶笥を殫さず、顧みて先哲に慙ず。(中略)爰に素里に退居し、窮閈を却掃して自り、楊倫の出でざるに比し、張摯の門を杜すに譬ふ。昔、趙卿の窮愁、肆に得失を言ひ、漢臣の鬱志、廣く盛衰を敍ぶ。彼此一時、擬すること其の匹に非らず。竊に以ふに文豹何の辜かある、文を以て罪と爲す。此れ由りして談ずれば、又た何ぞ容易ならん。故に翰を韜し墨を吮ひ、多く寒暑を歴、既に子幼南山の歌を闕き、又た敬通渭水の賦微く、以て自ら笑を獻ずるに同じくして、少しく褒誘に酬ゆる無し。且つ才は體物に乖り、玄根に擬作せず。事は宿諾に殊なり、寧ぞ懼を朱亥に貽さんや。己を顧りみ躬に反し、載ち累息を懷ふ。但だ漢廣を瞻言して、邈として天涯の若く、區區たる一心、分宵までに九たび逝く。殿下、情を白屋に降し、存問相尋ぎ、椹を食し音を懷ふ、矧んや伊の人をや。

そのような一連の経緯・事情を知悉している高祖は、免職後の劉孝綽に対して、実際にしばしば僕射徐勉を遣わして慰撫させ、朝宴毎にいつも臨席引見させている。その上、暫くして自ら藉田詩を作り、それを徐勉を使わしてわざわざ先に劉孝綽に示してから、応詔させ、数十人の奉詔者中、彼の詩が最も工みであったと認定称賛し、即日、「西中カ湘東王諮議」に復帰復職させている。

孝綽免職後、高祖數使僕射徐勉宣旨慰撫之、毎朝宴常引與焉。及高祖爲藉田詩、又使勉先示孝綽、時奉詔作者數十人、高祖以孝綽尤工、即日有勅、起爲西中カ湘東王諮議。
孝綽免職の後、高祖、數しば僕射徐勉を使はして之に宣旨慰撫せしめ、朝宴ある毎に常に引いて與らしむ。高祖の藉田詩を爲るに及び、又た勉を使はして先に孝綽に示さしむ。時に詔を奉じて作る者數十人、高祖、孝綽を以て尤も工なりとす。即日勅有りて、起して西中カ湘東王諮議と爲す。

高祖武帝の格別の配慮と助力によって復帰復職できた劉孝綽は、武帝と昭明太子にそれぞれ謝辞を啓上し、この度の免職は到洽の讒言・誣告によるものであり、一件事案に関して自分は全くの無実であり、冤罪であると訴えている。
武帝への謝辞中においては、劉孝綽自身はもう少し詳しく具体的に到洽の弾劾に至った経緯について述べている。

私はせっかく才能を内包しながらも躓きを避けることも、少し自己を曲げて保身することもできなかった。そのような狷介な性格の故に、私はいつも他人に逆らい対立することばかりが多かった。それでかねてより怨みを匿し持っていた友人到洽が御史中丞に就任すると、たちまち私を弾劾上奏し、遂に誣告・讒言によって冤罪に陥れました。しかし、日月が経つにつれて、その枉直は明らかとなり、私への告訴状は審理される毎に無実の冤罪と鑑定され、自分の髪を炙いてまで真相を明らかにするように努めた結果、私の異議・弁明の正当性が認められるようになり、やっと冤罪がリれました。そして遂に法網から漏れ、厳しい拘置からも免れ、無罪放免となりました。その後は、しばらく無位無職の卑賤の身となり、庶民と屋根を列べて暮らすようになりました。これはまるで一旦死んでいた者が甦るようなもので、陛下の特別の恩寵によるものと思っています。私は誠に識るものがいませんでしたが、誰もがともに天を戴かずにおれないのです。しかし、その時には、私は田園での生活からも疏遠となり、宮廷での生活からも望みを絶たれていました。それにもかかわらず、陛下は私を引見してくださり、いつも有り難い優旨をくださいました。微しき者に過ぎない私にとりましては、これだけで身に餘る光栄でありますのに、この度は、にわかに、頑な性格の故に世間から落伍してしまっている私に温かい恩寵を賜り、官職に復帰させていただき、復た朝廷の仲間に列なるようにさせてくださいました。しかし、朽木糞土の如き私にはこのような栄誉を戴いても甚だ不安で覚束なく、果たして陛下の恩寵に報いることができるかどうかと恐懼している次第であります。
啓謝曰、臣不能銜珠避顚、傾柯衞足。以茲疏倖、與物多忤。兼逢匿怨之友、遂居司隸之官、交構是非、用成萋斐。日月昭回、俯明枉直。獄書毎御、輒鑑蔣濟之冤。炙髮見明、非關陳正之辨。遂漏斯密網、免彼嚴棘、得使還同士伍、比屋唐民。生死肉骨、豈r其施。臣誠無識、孰不戴天。疏遠畝隴、絶望高闕。而降其接引、優以旨喩。於臣微物、足爲榮隕。況剛條落葉、忽沾雲露、周行所ゥ、復齒盛流。但雕朽汚糞、徒成延奬、捕影繫風、終無效荅。
啓謝して曰く、臣、珠を銜み顚を避け、柯を傾け足を衞る能はず。茲の疏倖を以て、物と多く忤ふ。兼ねて怨を匿す友に逢ひ、遂に司隸の官に居り、是非を交構し、用て萋斐を成す。日月昭回し、俯して枉直を明らかにす。獄書御する毎に、輒ち蔣濟の冤を鑑る。髮を炙き明を見し、陳正の辨に關するに非らず。遂に斯の密網に漏れ、彼の嚴棘を免れ、還て士伍に同じく、屋を唐民に比べしむるを得。死を生かし骨に肉つくるも、豈に其の施にrしからん。臣誠に識無けれども、孰か天を戴かざらん。畝隴に疏遠にして、高闕に絶望す。而るに其の接引を降し、優にするに旨喩を以てす。臣の微物に於ける、榮隕と爲すに足る。況んや剛條の落葉、忽ち雲露に沾れ、周行にゥかれ、復た盛流に齒なる。但だ朽に雕り糞を汚かにす、徒だ延奬を成し、影を捕へ風を繫ぎ、終に效荅無し。

この書簡に「獄書御する毎に、輒ち蔣済の冤を鑑る。」「髪を炙き明を見し、陳正の弁に関するに非らず」と述べられているところから見ると、到洽の弾劾した事案について厳しい審理が開かれ、酷薄な自白を迫られるような事態も確かにあったようである。更に自身が「遂に斯の密網に漏れ、彼の厳棘を免れ、還て士伍に同じく、屋を唐民に比べしむるを得」と述べているところからは、無罪放免となって後、しばらくの間、無位無職の身となって閉門蟄居の生活を送っていたことがより明白に分かる。これら到洽の弾劾に関わる一連の事案は昭明太子に対する謝辞にも「臣、愚を資り直を履み、漸を杜ぎ微を防ぐ能はず、曾ち未だ幾何もなく、に逢ひ難に罹る。毛を吹き垢を洗ひ、朝に在りて同に嗟くと雖も、而れども厳文峻法、姦を肆にして其れ必ず奏す。友を売るを顧みず、志、君を要せんと欲し、上帝超已の光を運らし、陵陽の虐を昭らかにするに非らざる自り、舞文虚謗、信を宸明に取らず、縲に在りて纆に嬰(つな)がる。幸にして庸暗を蠲(のぞ)くことを得、裁(わづ)かに免黜の書を下され、仍ほ朝会の旨を頒(わか)たる。小人、未だ通方を識らず、馬を縶ぎ車を懸け、朝覲を息絶し、方に影を滅し声を銷し、遂に林谷に移らんことを願ふ。」と明確に記されている。

又啓謝東宮曰、臣聞之、先聖以衆惡之、必監焉。衆好之、必監焉。豈非孤特則積毀所歸、比周則積譽斯信。知好惡之間、必待明鑑。故晏嬰再爲阿宰、而前毀後譽。後譽出於阿意、前毀由於直道。是以一犬所噬、旨酒貿其甘酸。一手所搖、嘉樹變其生死。又鄒陽有言、士無賢愚、入朝見嫉。至若臧文之下展季、靳尚之放靈均、絳侯之排賈生、平津之陷主父、自茲厥後、其徒實繁。曲筆短辭、不暇殫述、寸管所窺、常由切齒。
殿下誨道觀書、俯同好學、前載枉直、備該~覽。臣昔因立侍、親承詞セ、飄風貝錦、譬彼讒慝、聖旨殷勤、深以爲歎。
臣資愚履直、不能杜漸防微、曾未幾何、逢罹難。雖吹毛洗垢、在朝而同嗟、而嚴文峻法、肆姦其必奏。不顧賣友、志欲要君、自非上帝運超已之光、昭陵陽之虐、舞文虚謗、不取信於宸明、在縲嬰纆。幸得蠲於庸暗、裁下免黜之書、仍頒朝會之旨。小人未識通方、縶馬懸車、息絶朝覲。方願滅影銷聲、遂移林谷。不悟天聽罔已、造次必彰、不以距違見疵、復使引籍雲陛。降ェ和之色、垂布帛之言、形之千載、所蒙已厚、況乃恩等特召、榮同起家、望古自惟、彌覺多忝。但未渝丹石、永藏輪軌、相彼工言、構茲媒。且款冬而生、已凋柯葉、空延コ澤、無謝陽春。

又た東宮に啓謝して曰く、臣、之を聞く、先聖以へらく、衆、之を惡めば、必ず監る。衆、之を好めば、必ず監る。豈に孤特は則ち積毀の歸する所、比周は則ち積譽の斯れ信ぜらるるに非らざらんや。好惡の間を知りて、必ず明鑑を待つ。故に晏嬰は再び阿の宰と爲りて、前は毀られ後は譽めらる。後の譽れは阿意に出で、前の毀りは直道に由る。是を以て一犬の噬む所、旨酒も其の甘酸を貿ふ。一手の搖がす所、嘉樹も其の生死を變ふ。又た鄒陽に言有り、士は賢愚と無く、朝に入れば嫉まる。臧文の展季を下し、靳尚の靈均を放ち、絳侯の賈生を排し、平津の主父を陷るが若きに至りては、茲れ自り厥の後、其の徒實に繁し。曲筆短辭、殫述するに暇あらず、寸管の窺ふ所、常に切齒に由る。
殿下、道を誨へ書を觀、俯して學を好むに同じくし、前載の枉直、備に~覽に該(そな)ふ。臣、昔、立侍に因りて、親しく詞セを承り、飄風貝錦、彼の讒慝に譬へ、聖旨殷勤にして、深く以て歎と爲す。
臣、愚を資り直を履み、漸を杜ぎ微を防ぐ能はず、曾ち未だ幾何もなく、に逢ひ難に罹る。毛を吹き垢を洗ひ、朝に在りて同に嗟くと雖も、而れども嚴文峻法、姦を肆にして其れ必ず奏す。友を賣るを顧みず、志、君を要せんと欲し、上帝超已の光を運らし、陵陽の虐を昭らかにするに非らざる自り、舞文虚謗、信を宸明に取らず、縲に在りて纆に嬰がる。幸にして庸暗を蠲くことを得、裁かに免黜の書を下され、仍ほ朝會の旨を頒たる。小人、未だ通方を識らず、馬を縶ぎ車を懸け、朝覲を息絶し、方に影を滅し聲を銷し、遂に林谷に移らんことを願ふ。悟らざりき、天聽已を罔し、造次にも必ず彰れ、距違を以て疵とせられず、復た籍を雲陛に引かしむるとは。ェ和の色を降し、布帛の言を垂れ、之を千載に形し、蒙る所已に厚く、況んや乃ち恩は特召に等しく、榮は起家に同じ、古を望みて自ら惟ひ、彌いよ多忝を覺ゆるをや。但だ未だ丹石を渝(か)へず、永く輪軌を藏し、彼の工言を相るに、茲の媒を構ふ。且つ冬を款(しの)いで生きるも、已に柯葉を凋ます。空しくコ澤を延き、陽春を謝する無からん。

以上のことから見て、普通六年(525)に御史中丞に就任した友人の到洽は劉孝綽が前年の普通五年(524)に廷尉卿に着任した際に「妾を官府に携へて、其の母を猶私宅に止む」と世間から非難されていた事案を取り上げ、「令史」を派遣して調査させたところ、劉孝綽は夫徐悱を亡くして悲嘆にくれていた妹劉令嫺を「華省」に携行していた事実が見つかった。そこで、到洽は弾劾文に「妾」を携行するより重大な教義上の違反である「少妹」を携行した所行を採用して「携少妹於華省、棄老母於下宅」と記して上奏告訴したのである。実際に劉孝綽と劉令嫺の間に淫行関係などは存在しなかったのであるが、それは問題ではなく、「少妹」を官府に携行すること自体が糾弾されるべき行爲であったのである。それ故、高祖武帝は「其の悪」を隠す爲に、わざわざ弾劾文の「妹」に「ノ」を加えて「姝」に改めた。武帝はその弾劾文にある「少妹」が当時自らが最も信ョしていた僕射徐勉の第二子徐悱の妻劉令嫺であることを知っており、兄劉孝綽が妹を携行した事情をも理解していた。しかし、教義を重んじ「五礼」の遵守実行を重んじていた武帝としては公式には「少妹」を「官府」に携行することを許すわけにはいかなかった。そこで敢えて「妹」に「ノ」を加え、その悪を隠し、劉孝綽兄妹を救済しようと試みたのである。しかし、たとえ通淫のような破廉恥な行爲は全くなく、到洽の意識的な誣告であったとしても、実際に外形的には「少妹」を官府に携行した事実はどうしても隠蔽できず、結局、劉孝綽は免職させられ、しばらく閉門蟄居という憂き目を体験せざるを得なかったのである。

しかし、高祖の援護助力などもあり、法廷での審理の結果、「少妹」劉令嫺を官府に携行した経緯・事情についての弁明も認められ、身の潔白が証明されて、普通七年(526)には高祖の格別の配慮と徐勉の助力によって再び士大夫の身分に復帰し、安西湘東王の諮議参軍として復職することができたのである。その翌年の大通元年(527)には劉孝綽は再び昭明太子の東宮府に復帰し、太子僕に就任して『文選』の編纂事業に従事している。更に二年後の中大通元年(529)には母の服喪の爲、太子僕の職を去っているから、劉孝綽が『文選』の編纂に従事したのは大通年間(527〜528)に限定されることになる。

思いもよらない妹劉令嫺の夫徐悱の急死、それに続く友人到洽による弾劾、それも失意の少妹を官府へ携行したことを理由とした、教義上の破廉恥な罪による糾弾告発であるから、劉孝綽はこの不条理な現実に直面して苦悶呻吟し、「天道是か非か」と問い質したいような感慨を抱き、今までの人生観も大きく変容させられるに至ったであろう。この世の不条理を問い質すような無念な思いは『文選』を編集するに当たって、作品の選定に相当重大な影響を与えずにはおかなかった。『文選』選録作品にはこうした無念の士の感懐を表現した作品が多く選録されている。このことに関しては既に拙論「『文選』編纂に見られる文学観 ―『頌』・『上書』の撰録を中心として ―」(1992年『立命文学』第526号)において少々詳しく論述している。

『梁書』の「携少妹於華省、棄老母於下宅」というような史書中の一見不可思議に見える記事は、中華書局版標点本のように該当箇所の文意が通ればよいとの観点のみに拠り、安易に「妹姝の二字互倒なり」などと解釈していては甚だ誤解を生み易く、妥当な解釈は到底得られない。少なくとも該論に示したように、歴史的事実を綿密に調査検討した上で、慎重に解釈を下すべきであろう。そうすれば上述のような合理的で妥当な解釈が得られるのである。他の史書に見られる同種の記事も、今後このような方法で究明していきたい。




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