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『湖北省三國關係遺跡』
この文章は1988年の調査に基づいて書き、1989年の『中国文学報』第40冊に掲載されたものに、多少構成を変更したものです。10年以上前の調査ですので、現状とは異なっている部分もあります。私は参加できませんでしたが、2001年に藝文研究会のメンバーが四川省と三峡下りを中心とした旅をしておられます。そのレポートが当HPの「高校生の部屋」にありますので、合わせて御覧頂ければ幸いです。(上野)

  

中國には『三國志』、『三國演義』にちなんだ遺跡が數多くある。しかし三國時代は今から1700年以上前の時代であり、當然その當時のまま殘っているものはほとんどない。『三國志』に基づいて復元されたものもあれば、中には小説『三國演義』、或いは講談や戲曲などの三國故事をもとに後の時代に作られたものもある。この拙文の題名を「三國志關係遺跡」、或いは「三國時代遺跡」としなかったのはそういう理由からである。三國時代に重要な役割を持っていた地域は現在の中國全土に及ぶわけだが、三國入り亂れての激しい攻防があったのがこの湖北省である。從って現在の湖北省は三國時代には非常に重要な地域であり、そのため三國關係の遺跡が大變多い。私は京都大學大學院の學生であった1987年9月から89年3月まで江蘇省の南京大學に留學し、その間88年2月から3月にかけて、寒暇(冬休み)を利用して湖北省を旅行し、數多くの三國關係遺跡を參觀する機會を得たので、それらの現状を紹介しつつ多少の考察を加えてみたいと思う。

湖北省地図

湖北省の省都は武漢である。私の住んでいた南京からは直線距離にすれば比較的近いのだが、直接行ける列車がない。飛行機は滿席、船なら乘り換えなしだが、上りなので二、三日かかる。結局、列車を乘り繼いで行くことにした。南京を夕方に出る直快(急行)で鄭州へ。鄭州には翌日の早朝到着、すぐ隣りのプラットフォームに停車していた北京發廣州行の特快(特急)に飛び乘り、中で切符を買い足した。乘り繼ぎの時間が五分足らずで濟み、晝過ぎには武漢市の武昌驛に着いていた。

武漢市は漢水が長江に流れ込みY字形になっている地點、武昌、漢口、漢陽の三鎭が合併して1949年に生まれた市である。後漢の時代は荊州江夏郡。『三國志』によれば、荊州の牧劉表の子劉琦が江夏太守であった。そして劉琦が江夏太守になったのは諸葛亮の進言によるものであったという。琦は父表が弟琮を溺愛していることに不安を感じ、諸葛亮に助言を求めるが、その度にかわされる。そこで、

琦乃將亮游觀後園,共上高樓,飮宴之間,令人去梯,因謂亮曰:「今日上不至天,下不至地,言出子口,入於吾耳,可以言未。」亮答曰:「君不見申生在内而危,重耳在外而安乎?」琦意感悟,陰規出計。會黄祖死,得出。遂爲江夏太守。(「諸葛亮傳」)
【日本語譯】劉琦は諸葛亮を蓮れて裏庭を散歩し、共に高殿に登って酒宴の席を設け、その間にはしごをとりはらわせ、諸葛亮に言った。「今日は上は天に屆かず、下は地に屆きません。言葉があなたの口から出ても、私の耳に入るだけです。話して頂けませんか?」諸葛亮は言った。「あなたは申生が國内にいて危險な目にあい、重耳が國外にいて安全であったことを知りませんか?」劉琦はその意味を悟り、ひそかに襄陽を出る計畫をたてた。ちょうど黄祖が死んだことにより、襄陽から出ることができ、江夏太守となったのである。

この話は『演義』にもある(第三十九回)。そして劉表の死後、劉琮は曹操に降り劉琦は劉備と連合する。當陽長坂で曹軍に敗れた劉備らは、劉琦のもとに據り夏口に駐屯する。その夏口が今の武漢の漢口であるという。

黄鶴樓

武漢の代表的な名所は黄鶴樓であろう。古來數々の名詩の舞臺となった黄鶴樓は武昌側にあり、その金色に輝く五層の偉容は人を壓倒するものがある。"黄鶴"という名については、仙人の子安が黄色い鶴に乘ってこの地を通ったという話が傳えられている。

夏口城據黄鵠磯,世傳仙人子安乘黄鵠過此上也。(『南齊書』州郡志下)
【日本語譯】夏口城は黄鵠磯にあり、仙人の子安が黄鵠に乘ってこの上を通りすぎた、と傳えられる。

あるいは三國時代蜀の費禕(字は文偉)がやはり黄色い鶴に乘って飛來し、ここで休んだという傳説もある。

黄鶴樓在縣西二百八十歩。昔費文禕登仙,毎乘黄鶴於此樓憇駕,故號爲黄鶴樓。(『太平寰宇記』鄂州・江夏縣)
但、『寰宇記』は諱と字を混同。
【日本語譯】黄鶴樓は縣の西二百八十歩のところにある。かつて費文禕が天に登って仙人となり、よく黄鶴に乘ってこの樓まで飛んできて休息したので、黄鶴樓と呼ばれるようになった。

黄鶴樓は三國呉の黄武二年に建てられたと傳えられるから、三國の遺跡と言えなくもない。また、元雜劇に『劉玄徳醉走黄鶴樓』があり、周瑜の策で劉備が黄鶴樓に閉じ込められるが諸葛亮の機轉で救われるという内容である。ただこの『黄鶴樓』劇の話は『演義』にはない。しかしともかく、かつて黄鶴樓があったのは現在の場所ではなく、今の武漢長江大橋の橋脚のあたりらしく、また清代以前の黄鶴樓は現在のものよりはるかに規模も小さく外觀も異なるものであったようである。我々の感覺から言うと出來る限り元の形に近く復元するのが普通だと思うのだが、中國ではかつての封建國家の時代よりも解放後の方がより立派な建物を作れるのだということを強調するためか、こういう事がよくあるようだ。 

 

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