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『湖北省三國關係遺跡』

  

玉泉寺
玉泉寺

街から例の三輸車でデコボコ道を30分。玉泉山のふもとに玉泉寺はある。唐の高宗がこの玉泉寺と山東の靈岩寺、南京の棲霞寺、浙江天臺山の國清寺を"四大叢林"と名づけたという、由緒ある寺である。現在も全國重點文物保護單位に指定されている。天王殿・大雄寶殿などのお堂と、門前には北宋代の鐵塔がある。

この玉泉寺の門のそばを流れる小川がある。その川の上手に山道を歩いていくと二つの石碑が立っている。一つは細長く高さ二メートル餘りの四角柱の石柱で、頂きに石獸が天を仰いで鎭座している。そして"漢雲長顯聖處"と刻まれた裏には"萬暦丙辰(44年・1616)孟秋月吉旦建立"とある。もう一つはやや小さな石板で"最先顯聖之地"、清嘉慶22年に阮元の書いたものである。

『演義』では關羽の死後、その魂は玉泉山まで飛ぶ。ここで廬を結んでいた普淨という僧は以前關羽の危機を救った事のある人物で(第二十七回)、普淨に諭された關羽は成佛する。その後、關羽はしばしば玉泉山に靈驗を現わし住民を助けた(『演義』毛本第七十七回)。但、毛本二十七回では"普淨"、七十七回では"普靜"となっている。弘治本はどちらも普淨。

玉泉寺の石碑
玉泉寺の石碑 玉泉寺の石碑

私はこれらの石碑はこの『演義』の内容に影響されて書かれたものと思っていた。しかしどうやらそれだけではないようである。玉泉寺開基にまでさかのぼってみよう。

玉泉寺は隋の開皇12年に天臺宗の開祖智顗(智者禪師)が開いた。

玉泉寺在治西三十里。即智者禪師道場。隋開皇初勅建賜寺額。(『當陽縣志』卷九・寺觀)
【日本語訳】玉泉寺は役所の西三十里のところにある。すなわち智者禪師の道場である。隋の開皇年間のはじめに勅令によって建てられ、寺の額が下賜された。

宋代に『佛祖統紀』(大藏經二〇三五)という書がある。これは中國天臺宗の立場から正史の體裁に倣って編纂された佛教の歴史書である。その卷三十九、法運通塞志第十七之六。

開皇十二年十一月。晉王廣總管揚州迎顗禪師。……十二月。智者禪師至荊州玉泉山,安禪七日。感關王父子神力,開基造寺,乞授五戒。
【日本語訳】開皇十二年十一月、晉王の楊廣〔後の煬帝〕は楊州の總督となると、智顗禪師を招いた。……十二月、智者禪師は荊州の玉泉山に行き、七日間靜かに座禪を組んだ。その時關王父子の靈力を感じ、開基して寺を造り、乞われて五戒を授けた。

關王とはもちろん關羽の事である。從って關王父子とは關羽、關平の事であろう。同じ『佛祖統紀』の卷五十三、歴代會要志第十九之三。

智者禪師至玉泉。感關王役神兵造寺。
【日本語訳】智者禪師は玉泉に至り、そこで關王が神兵を使って寺を造っているのに感じた。

この二つの記述は、寺を造った主體が前者は智顗、後者は關羽となっており、内容的には矛盾するのだが、『佛祖統紀』は複數の書物を引用してまとめられたものであるので、このような矛盾も多い。

玉泉寺の開基については小川環樹博士が「『三國演義』の發展のあと」「『三國演義』における佛教と道教」(『中國小説史の研究』岩波書店)の中で觸れておられ、またこの中の注でも引かれているが、井上以智爲氏の前掲の論文「關羽祠廟の由來竝に變遷」にも大變詳しい。小川博士の論文によれば、宋の黄休復の『益州名畫録』に五代の蜀王が畫師趙忠義をして「關將軍玉泉寺を起(きず)くの圖」を描かしめた記事があり、關羽の靈が鬼神を役(つか)って寺を建築させるありさまを圖したものであったという。『佛祖統紀』の"感關王役神兵造寺"と同じことである。

また井上氏の論文によれば唐の董侹の「荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉關廟記」(『全唐文』卷六百八十四)に、智顗が天臺山より玉泉山に來て夜に木の下に座っていると關羽の神靈と會い、關羽がこの地を提供して寺殿を建立したいと申し出て、神力を現わした、とある。玉泉寺の開基が關羽に關係していた、あるいはそういう傳説が後世流布していたことは間違いない。『演義』はこのような傳説に基づいたものと思われる。

今、玉泉寺に殘る石碑は時代的には『演義』の成立より後の時代のものらしいが、『演義』だけに影響されてたてられたものではないようだ。『演義』の毛宗崗本には無いのだが、弘治本には禪宗の北宗の開祖である唐の高僧神秀が關羽の亡靈と會い、それまであった關羽の祠を建て直して立派な寺とした、とある(卷十六「玉泉山關公顯聖」)。『傳燈録』より引用したと書いてあるが、私が搜した限りでは『傳燈録』、すなわち『景徳傳燈録』(大藏經二〇七六)にも『後傳燈録』(大藏經二〇七七)にも見當たらない。

弘治本では例えばある詩人の作として詩があがっていても實際にはその詩人にそのような詩はない、という事は多く、適當に有名な詩人の名を拜借したと思われるのだが、そういう場合たいてい毛本では削られている。この神秀の件も『傳燈録』の名を勝手につけただけで、實際には『傳燈録』には無くそのため毛本で削られているものと思われる。神秀が玉泉寺にいたのは史實である(『佛祖統紀』卷四など)

玉泉寺のガイドブックを見ると、玉泉寺は後漢の建安年間に普淨という僧がこの地に盧を結んだのが始まり、と書かれているが、これはおそらく『演義』に據っているのであろう。普淨、そして普靜という名の僧は『僧傳排韻』で調べると四人いるが、どれも玉泉寺とは關係なく、關羽との關係も無いようだ。唐代に前出の神秀の弟子に普寂という高僧がいた。

釋普寂,姓馮氏,蒲州河東人也。年纔稚弱,率性軒昂,離俗升壇,循于經律。臨文揣義,迥異恆流。初聞神秀在荊州玉泉寺,寂乃往師事,凡六年。…(『宋高僧傳』卷九)
【日本語訳】釋普寂、姓は馮氏、蒲州の河東の人。幼い頃、本性のままに行動し、意氣軒昂で、俗を離れて佛門に入り、經と律の學修にたずさわった。文章の理解カは、はるかに常人と異なっていた。はじめ神秀が荊州の玉泉寺にいると聞くと、普寂は行って師事すること、都合六年。……

『演義』の普淨は關羽と同郷である。

内有一僧,却是關公同郷人,法名普淨。(毛本第二十七回)
【日本語訳】その中の一人の僧は關羽と同郷の人で、法名を普淨といった。

關羽の出身地は「關羽傳」によれば河東郡解縣。普寂も河東郡の人である。もちろん河東出身の僧などいくらもいるであろうから、普淨のモデルは普寂だと決めつけることはもちろんできないが、可能性はあると考えたい。

玉泉寺の關帝廟(顯烈廟)は井上以智爲氏によれば最古の關帝廟との事であるが、『當陽縣志』の「玉泉寺圖」を見ると顯烈廟は關公顯聖碑の向かいにある。今、石碑の前には比較的新しい建物があり、案内して下さった管理局の方は、この建物のあたりに普淨が住んでおりここで關羽の亡靈と出會ったのだが、今は僧侶の宿舍となっていると言っておられた。玉泉寺境内、大雄寶殿の横に關羽父子と周倉の像があり、今はそこが關帝廟であるようだ。

私は當陽には泊まらず、その日のうちに宜昌に戻るつもりでいたのだが、玉泉寺で食事を頂いたり、法主とお會いしたりしていたので最終のバスに乘り遲れ、結局玉泉寺の招待所(つまり宿坊)に泊めて頂いた。あまりきれいな部屋ではなかったが、寺の管理局の人達、その家族と夜まで語り合い、翌日お寺の中でさわやかな朝を迎えることができ、大變樂しい經驗であった。

 

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