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『通俗三国志』

 

「張飛又敵の後陣色めき立ちたるを見て、面白きことに思ひ、大音声をあげて、戦ふとも又戦へじ、退くとも又退けじと叫ぶ音いまだ絶えざるに、曹操が傍に在りける夏侯覇、震ひ怕れて肝魂を失ひ、馬より倒に落ちければ、曹操馬を返して退けと云ふ程こそあれ、数十万の兵、西を望で逃くづる。」(『通俗三国志』巻之十七)

 

『通俗三国志』は江戸時代の『三国志演義』の翻訳本である。

『三国志演義』が初めて日本に入ったのは、おそらく室町時代のことであったと思われる。その頃は当然ほかの中国書と同様に訓読、つまり返り点や送り仮名をつけることによって読まれていた。その状態は江戸時代の初期まで続き、そして初の翻訳『通俗三国志』が世に出るのが、元禄2年(1689)のことであった(完結するのは元禄5年)。それまで訓読で読んでいたものを、なぜ翻訳する必要があったのか。漢文では読めない読者層に広めようという意図もあったであろうが、『三国志演義』が白話小説だったことも大きな要因と思われる。『三国志演義』は中国の長編白話小説の中では文語的な部分のかなり多い作品であるが、人物のせりふなどは白話、つまり口語体で書かれている。訓読は中国の古文つまり文語を読むためのもので、白話を読む場合には正確には使えない。中国白話小説を訓読するには限界があったのだ。そこで『三国志演義』は翻訳された。『通俗三国志』は中国小説の初の日本語訳なのである。

『通俗三国志』の訳者は湖南文山である。しかし、この湖南文山は実は京都天竜寺の僧、義轍と月堂兄弟の筆名であったらしい。兄の義轍が翻訳途中で没し、弟の月堂がそれを引き継いで完成させたということが、江戸時代の『大観随筆』という書に見える。それ以外にこの兄弟に関する情報はないのだが、天竜寺と言えば京都五山の一つ。「五山文学」と呼ばれるように、鎌倉時代より漢文学の盛んな寺院であった。また、江戸時代には中国語を学ぶ学者グループも存在したので、義轍・月堂には漢文学はもちろん中国語の素養があった可能性もある。文体は冒頭の引用のように、日本の古文である。原作は中国の口語体で書かれているのに、訳文は日本の文語体であるところが面白い。

『通俗三国志』は売れた。売れると似たようなものを出そうというのが商売人の常である。この後、続々と中国白話小説が訳される。元禄8年(1695)に『西漢演義伝』の翻訳『通俗漢楚軍談』、元禄16年(1703)と翌年に『春秋列国志伝』の翻訳『通俗列国志呉越軍談』、『通俗列国志』などなど。『通俗三国志』の成功にあやかろうと歴史物ばかりが出されて、有名な作品であるはずの『水滸伝』や『西遊記』の翻訳はやや遅れ、享保13年(1728)に『忠義水滸伝』の、宝暦8年(1758)に『通俗西遊記』の出版が開始されている。

湖南文山訳『通俗三国志』が秀逸であったため他の翻訳は行われなかった。約150年後の天保7年(1836)から12年(1841)に『絵本通俗三国志』が出るが、これは『通俗三国志』に挿絵をつけたものである。ちなみにこの挿絵の作者は葛飾北斎と言われていたが、北斎の弟子の葛飾戴斗によるものであるらしい。その後も『通俗三国志』は文庫に収められたり、幸田露伴らによって校訂が加えられるなど、姿を変えつつ出版され続け、読まれ続けた。戦後、より正確な現代語の翻訳が出されたが、『通俗三国志』は古文の文体が読者に馴染まなくなるまで人気を保ち続けたのである。 

江戸時代の読本に中国文学の翻案物や影響を受けたものは多い。滝沢馬琴などは原本を読んでいたらしいが、訳本を利用する作家も多かったであろうし、また『通俗三国志』のヒットが中国の白話小説に興味を向けさせたこともあったに違いない。また、戦後『三国志』物語を日本で最も広く流布させたのは、おそらく翻訳本ではなく吉川英治の翻案小説『三国志』であろうが、吉川英治も『通俗三国志』を参考にしたことは間違いない。翻訳として日本で最も親しまれたのは、やはりこの『通俗三国志』なのではなかろうか。

『通俗三国志』は中国書の日本初の翻訳本である、と言ってよく、その後の江戸出版界に一種の中国小説ブームとも言うべき現象を起こさせ、さらに明治以降も何度も出版されたということからしても、かなりすごい本なのである。

明治時代 柳澤武運三翻刻(偉業館・岡本支店発行)『通俗絵本三国志』
中表紙(左)・挿絵(右) (立命館大学文学部蔵)

 

※この文章は『週刊朝日百科・世界の文学』第107号『三国志演義 水滸伝』に掲載されたものに多少加筆したものです。

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