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(講演)京都の支那學と私

白川 静 

 

III

私自身は、そういうあんまり熱心に一生學問をしようなどという氣持ちはありませんでしたので、初めは中學の先生になるつもりでありました。中學の先生というのは、教室はそんなに困難でありませんし、生活も一應保障されておりますし、人が一生苦勞して書いたような書物を、こっちは氣樂に讀んで樂しんで、一生遊んでやろうというのが僕の考えであった。誠になんというか、今から言えば申し譯ないことでありますけれどもね。しかしそのうちに私もだんだん豫科・專門部から大學へ籍を移されましてね、そして私自身がやはりある意味での學問を創始しなければならんという責任を負うようになりました。それで單に他の學問を受容してことが足るというだけではすまんことになる。私自身が研究者になり、創造者になり、新しい學問を組み立てなければならんというような立場になったわけであります。

幸いにして私は内藤先生より45歳年下であります。内藤先生が御覽になれなかったような資料も見ることができる。そして先生の學問を追跡しながら、その學問に對して、場合によっては批判を加えることもできる、というような立場になりました。これは學問というものは、時代と共に動き、時代と共に進歩するものであって、一生先生に頭が上がらんというようなことでは、學問は退歩するばかりなのであります。退卻するばかりです。弟子たちは須らく先生の頭を踏んで、その上を乘り越えて進んでいくというのでなければ、學問の進歩はあり得ない。

そこで今申しました内藤先生の學問について、先生は『支那史學史』という大變優れた書物を御書きになった。その場合に「史」とは何かということを先生は書いておられるんであります。その「史」という字について、あの歴史の「史」という字、その字について『説文』は、上の方は「中」であると、下の方は「又、手」であるとする。中を取る者、中正を取ってえこひいきのない、正確な判斷のもとに歴史を記録する、それが史であるというふうに書いておるんです。中正の「中」という場合ならば、中正の中、眞中という字 は、本當は軍の編成において三軍編成をやります。左軍、中軍、右軍というふうにね、三軍編成をやるんです。中軍の旗にはそれにこういう吹流しなんかを付けまして 、中軍の將がこれを掲げる、これが元帥です。こういうのが「中」である。ところが「史」という字はこういう字が書いてあって、これは「中」ではありません。中ではない。「中」ならば必ず丸くてこういうふうに旗印のついた長い吹き流し、中軍の將でありますから、こういう字 になる。これを持つというような字は一つもないんです。そんな形の字は一つもない。「史」という字は皆こういう形になっておる。それで内藤先生は考えられた。これは中軍の「中」ではない。『説文』がいうような「中を持する」という、中正を持するというような、中正というのは抽象的な觀念ですからね、そういう抽象的な觀念を、持つというふうな具體的な行為で表すことはできんわけですね。だからこういう造字法はあり得ない。

そこで中國の方では江永という學者がありまして、これは清朝の初期の考證學者でありますが、『周禮』の研究書の中でこの「史」について説明をして、これは簿書の形である。簡册を持つ、書物を持つという意味の字である。だからそういう記録を持つ者であるから史であるという。こういう説を立てたわけです。ところが王國維という、この王國維という學者は日本にも來ておりました。京都の永觀堂の近くにおりましたから、王國維の號は觀堂と言います。その人の論文集は『觀堂集林』という、珠玉のような名篇を集めたものであります。

この王國維がやはり「史」について述べておるんですけれども、それはこの「中」という字の使われておる例の中に、この中央とか旗とかというふうな意味ではなくて、『儀禮』という書物の中に、射という、弓を射ますね、あの射というのは大變重要な儀禮で、重要な何か儀禮があるというような時、今ならば國際會議があるというような時ですと、多數の警官で警戒をしたりするんですが、昔ならばその建物の周邊で射を行う、弓を放つ、通し矢をやるんです。この通し矢によって邪氣がもう中へ入れんようにね、清めの式をやる。この射の矢數とり、その射をやりました時に矢が當たりますとね、一つ當たり、二つ當たりというふうに旗を出して、當たりの數を數えて、そしてその矢を矢數とりの中へ入れる。矢の筒、矢を入れる筒がありまして、その中へ入れる。それを『儀禮』には「中」と稱しておるんです。それで王國維はこの矢數とりの中を持つ、つまり大射儀、大射禮を行うときにおいて、何本矢が當たったかということを記録する、その役のことを「史」と言ったのであろうということが『觀堂集林』に書いてある。そういう「釋史」という論文があるんです。ところが内藤先生も「史について」という論文を書かれて、同じ結論を書かれた。ほとんど同じ時期にね。

當時王國維は日本へ來ていなかったんであろうと思います。羅振玉は來ておりまして、内藤先生といろいろ往來をしておられた。内藤先生はほとんど筆談でありますけれども、康有為が來た時とかね、そういう方との筆談の記録が殘っております。非常な達筆でね、すばらしい古文で書いておられるんですけれどもね、當時の人は皆そういう筆談をなさるんです。もう少し前に、日清戰爭より少し前に、黄遵憲が日本へ來ておりますが、その時の人々との筆談記録も殘っております。活字に組んで300頁ぐらいあります。お互いに筆談する、雙方ともね。大變優れた筆跡で、優れた文章で自在な議論を交わしておられる。内藤先生も向こうの人たちとの交遊は非常にあったんですが、その「史」は期せずして王國維と内藤先生と同じ結論の論文を書いておられる。これはまあ不思議です。王國維はいうまでもなく當時隨一の向こうの研究者である。さすがに内藤先生も同じテーマを扱われて同じ結論を書かれた。これが從來「史」の解釋のいわば定論として傳えられておるんです。

ただし45年後に生まれました私は、必ずしもその説に從わんのであります。これが學問というものなんです。私は「史」のこれは載書、載書というのは、條約文であるとか、契約書であるとかね、重要な交換文書のことを全部載書と言います。記録にしたものという意味ですね。この「載」という字のここ(左上部の十字形。の省略形)にありますのが、「〜哉(かな)」という場合の哉のこの部分(左上部の十字形。の省略形)に當たるんですよ。この戈の上にのっているのが、つまりです。卜辭では載行の載の意に用いるから、これは「さい」という音で讀むべきであろうかと思うんであります。この口(くち)は祝詞を入れる器の形です。『説文』ではたとえば「告げる」というような字をこういうふうな形にしまして、「上の方は牛である、下の方は口である。牛は人にものを告げることができん、言葉をのべることはできんから、人に訴えたい時には口をすりよせてきて、牛が口をすりよせてきて訴え告げるのである」というね、『説文』にはそう書いてあるんです。

しかしこれは先に言いました載書であって、「告げる」という字もこんな形に書いてない。こんな字が書いてある。、これは木の枝です。木の枝に祝詞を付けて、そして高く掲げてね、お祭りをする時に掲げる祭文ですね、神に告げる祝詞、そういうふうなものを持つ、神に告げて祭る時に神に祝詞として申し上げる、その祝詞を持つ者が「史」である。だから「史」という字の一番古い用例を見ますと、これは甲骨文にたくさん出てくるんでありますけれども、宮廟の内部でお祭をするという時に、この「史」という字が使われるんです。たとえば「大乙に史(まつり)せんか」、大乙は先祖の名前ですが、「大乙に史せんか」というときにこの字が使われておる。つまり祝詞を奏上してお祭りをしましょうという、するかどうかということを聞くわけですね。

ところが古代の王朝が廣い領域を自分の支配の範圍としまして、たとえば山や川、それぞれの聖所がいろいろあります。軍事的に重要な所、或いは産業、生活の上で重要な所、そういうな所に聖所があって、お祭りをする。そういう所をそれぞれ祭る氏族がある。祭祀權というものがある。

ところが古代の王朝が次第に支配を廣げていきますときには、その祭祀權を掌握するんです。自分が支配權を持つ、そこの祭祀權を持つということが、同時に支配權を持つということになる。だからそこに祭りの使者を派遣する。上の方にこう付けますと「吏」という字になるんですが、これは古く使者の使、或いは「〜せしむ」という使役の「使」に使います。それからまたこのままで「事」という字にも使う。お祭りという意味ですね。「使」にも使うし、「事」にも使う。これ兩方通用する字で、古い文獻には通用の例がたくさんございます。つまりこういうふうにして祭ると、祭る時に祝詞を大きな木の枝に掲げますから、枝がついとるわけですね。場合によってはこれに旗が付く、この旗の付いた方がこの「事」の字になります。旗の付かん方が大體この「史」の字になる。こういうふうにして「史」「使」「事」というような言葉は關連して生まれてきておるのであって、これは矢數とりというような單純なものではあり得ない。甲骨文の中には「王事を載(おこな)はんか」というときに、王の祭りを行わんかという意味ですけれども、しかし同時にそれは王室が行う所の祭祀を、謹んでそこで奉行するかというようなことになるわけですね。

しかし王國維、それから内藤先生が説を立てられた時には、この甲骨資料はまだ十分にはなかった。若干はありましたんです。だから王國維もそういう甲骨文の著録類を出しておりますし、内藤先生にも「王亥」という論文があります。王亥という殷の祖神的な、神話的な祖先、これは「天問」なんかにも出てきますが、王亥という神話的な祖神がある。これは甲骨文にも出てきます。そして湖南先生は「王亥」という論文を書いておられる。甲骨文をいろいろ見ておられるんです。ただ先生が利用されるに足るだけのこの「史」系統の資料は、まだ十分でなかった。或いは解讀がまだ十分でなかった。私は幸いにして先生より45年後に生まれましたからね。新しいそういう資料を見て、そういうものを見ることによって、從來の説を訂正することができた。こういうふうなことがいくつもあるわけであります。

學問というものは、そういうふうに時代によって條件が異なってくれば、新しい學問の方法、新しい學問の體系というものが生まれてくるはずのものなのであります。しかし、私がこのような議論をするのも、内藤先生によって導かれた方法論をそのまま私が使っておるのであって、これは先生に恩返しをしておるのと同じことであります。決して威張って申しておるんでありませんから、そういうふうに理解して頂きたい。

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