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蘆北先生遺事

白川 静 

 

II

 

専門部の存続が決定すると、次には学部昇格を議題とすることが、すでに予定されていたようであった。専門部が認定試験を受けたのは昭和九年、私が入学した翌年のことであるが、その年の正月には、すでに『立命館文学』が、二百ページに及ぶ偉容を以て創刊され、爾後も百二十ページ前後の充実した学術誌として、月刊発行された。それは当然、国語科の認定試験をも考慮に入れての、一種の予備運動であったと思われる。学術的な水準の極めて高いもので、たとえば国語学の岡田希雄氏の諸論考は、その後にも成書に入らぬものが多く、いまもなお貴重な文献とされているものである。

その第一巻の数号にわたって、橋本先生の「支那文学と山水思想」が連載され、私ははじめて先生の文章を読んだ。その文は樸茂にして渾厚、私がかつて読んだことのあるものでは、露伴学人の文章を思わせるところがある。私はその文に触発されて、かつて先生が雑誌『支那学』に発表された諸論考を読むために、それらの雑誌を購入したいと思った。学校には、夜学生からも図書費を徴収していたが、利用しうる施設は何もなかった。

翌十年秋に、私はまだ学生の身分のままで、北大路の中学に勤務するよう勧められ、昼夜を通じて三十時間という過重な授業の負担に苦しみながらも、ともかく自立の生活に入ることができた。まもなく岩波文庫から、先生の『楚辞』が出た。王国維の『古史新証』などを引かれているのがまことに目新しく、甲骨・金文に若干の興味をもっていた私は、ここに一つの分野があることを直覚した。のちになって伺ったことだが、先生は王国維が京都に来ているとき、永観堂の僑居でお会いになったことがあるそうである。長い弁髪を揺るようにして、しずかに歩く姿が印象に残っているといわれた。

雑誌の『支那学』も少しづつ買いそろえ、先生が青木・本田の諸先生とともに、その有力なメンバーとして活躍されていることを知った。先生に親近する機会はまだなかったが、先生に対するおぼろげな印象は、いくらかづつ形成されつつあった。特に『楚辞』の訳解の文章は、文理密察にしてよく情感を伝え、稀有の文章のように思われた。

『立命館文学』が創刊されるまでは、『立命館学叢』が本学唯一の機関誌であった。小泉苳三先生の「感傷歌人大伴家持」が、「イエヒト氏の財政形態論」というような論文と並んで掲載されるという奇態な雑誌であったが、『立命館文学』の創刊と同時に、法経両学部の機関誌として、『法と経済』が刊行された。これはおそらく、東洋の学術や文学に深い造詣と理解をもたれた故中川総長先生の決断によるものであろうが、まだその存続すら決せず、学部をももたない文学科が独立した月刊誌をもち、それぞれ独立した学部を擁する法・経の二学部が、併せて一月刊誌に甘んずることを、不公平の沙汰と考える人もあったかと思われる。これらは本来、学問の性格によることであるが、そのことを理解しえない不寛容な人も、なかったとはいえない。

『立命館文学』の第二号に、鷹取岳陽翁の追悼録が載せられた。翁は若くして郷門に知られ、二松学舎に入って三島中洲に学び、また語学をも修め、久しく台湾の総督府にあって史学編纂などに従事していた人である。博学多趣味、殊に漢詩には天縦の才をえた人で、中川先生に請われて、本学出版部より『漢詩入門』の好著を出されている。授業には必ず酔うて来たり、酔えば必ず詩趣詩味を論じて休むことを知らず、高談雄弁、つねに四辺を驚かすという風の人であった。その翁が、八年の暮に脳溢血のために急逝され、文学の第二号に追悼録が編まれたのであった。私たちは入学してまだ一年にみたぬときであったが、この追悼録によって、諸先生の間の交遊がどのようなものであるかを、知ることができた。

橋本先生はこのとき、高瀬部長とともに弔辞を寄せられ、また別に追悼の一文を草しておられる。おそらく先生は、岳陽翁と交わること最も深く、またその人を知ることも最も深かったのであろう。平生の話柄は「文学談は勿論、書画の話、骨董の物語、身の上話、何事に至るまでも遠慮なく語り合う」という間であった。また深草の元政庵・石峰寺、宇治の黄蘗など、翁との曽遊のことが懐かしく回想されている。翁は没年六十五歳、先生より二十一年の年長であったらしい。丁度、先生と私との年齢差ほどの開きであった。翁が本学の講師となられたのは昭和三年の秋、教授となられたのは五年の春のことであるから、その交遊は数年の間にすぎない。しかしその間に、先生が最も親しい友人となられたということは、私にとってはまた新しい一つの発見であった。教室での印象からいえば、先生はいくらか気むずかしい、無口な方であった。そして岳陽翁は、いわばすべてが破格に近い奔放の人であった。学生たちが加わった親睦会のようなときでも、詩を論じては傍に人無しという調子の放談をされた。この人が、先生を最も親しい友人として遇されたとすれば、先生にもまたそのような文人的な一面があるのであろうと、ひそかにその人となりを思うことがあった。私の中の先生像は、いくらかづつ形を整えつつあった。

先生は、私が中学に就職するときにも、有力な推輓者であったらしい。しかし先生は、それをことばや態度で示されることはなかった。しかしそのことは、のちにもいろいろ思い当ることがあって、確かなことのように思う。ただそのころ、私が直接に先生と接することは全くなかった。

専門部の存続は、国語科の認定を獲得することによってよい成果を収めたが、学部昇格のことは一朝にして成るものではない。おそらく小泉苳三先生の努力によって、機関誌創刊のことは早々に実現したのであろうけれども、学部の創設には多額の供託金の外に、その施設・機構を整える上からも、少なからぬ資金と時間とを要することである。卒業生には師範出身の人が多く、それらの人が次に考えることは、文理大への進学ということであった、当時、広島の文理大では、外部からの進学者を若干受け入れる制度があり、卒業者のうちその進路を希望する人のために、加藤教授が特別の指導に任じ、私がその手助けをすることになった。そして毎年度、入学者を送ることができたが、のち加藤先生自ら広島に赴任されることになり、そしてまたその頃、こちらでもようやく学部昇格の機運が熟して、いよいよその手続きが開始された。

昇格に当って、われわれが最も心配し、いくらか奔走なども試みていた供託金の問題は、法文学部という思いもよらぬ組織変更の手続によって、その負担を免れる方法がとられた。これも中川総長が、かねて秘策として用意されていたことらしく、われわれの寄附集めの奔走などには、何らの関心をも示されなかった。しかし法文学部という改組の結果、従来独立の学部であったものが、にわかに合併学部の形をとることになり、このことを快しとしない人もあったかと思われる。さきの機関誌の問題といい、この合併学部の問題といい、実害の有無はとにかくとして、感情の上に微妙なものが残るおそれはあったが、それはわれわれには、どうしようもないことであった。

 

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