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蘆北先生遺事

白川 静 

 

III

 

文学部は、昭和十六年に法文学部という形で開設された。文学科部長には、専門部時代からの引きつづきで、高瀬武次郎博士が就任されたが、先生はすでに老齢であり、まもなく地歴科の太田亮博士が代られた。
これよりさき、満州事変以来、急激に軍部の独裁的体制が進められ、政党は解散され、大政翼賛会が成立して、政治は完全に軍部に従属した。その支配は次第に文化・社会の各方面に及び、昭和十二年には早くも日本諸学振興委員会が文部省教学局主導のもとに作られて、学術の統制が進められ、ついには学術雑誌の統合、廃刊が相つぐ事態となった。『立命館文学』も十六年十月、『法と経済』とともに廃刊、もとの『立命館大学論叢』の形に戻った。

このようにただならぬ時勢であったので、文学部を開設したけれども、入学の志願者は至って少く、各科とも定員をみたすことが容易でなく、漢文学科は私を含めてようやく五名をえたのみであった。やがて太平洋戦争がはじまり、学校は事実上休校にひとしい状態となり、学部の名も東亜文学科という、共栄圏向きの名に改められていた。

その年の六月、文学部の創設を記念して、『文学科創設記念論文集』が刊行され、橋本先生は「王維の生涯の一面」を書かれた。それはかつての「支那文学と山水思想」の、いわば延長線上にある論考であるが、時勢の急激な推移の中にあって、清静自ら持する王維の生きかたに、深く共感されるところがあったのであろう。先生は当時、世塵の及ばぬ伏見宝塔寺の塔頭にあって、閑静な風致情韻を楽しむ生活をしておられた。

十二月に入って、無智とも無謀ともいいようのない戦争がはじめられ、しばらくは作戦通りの戦況であったが、一年後にはすでに反撃が開始された。二年後には学徒動員で校舎には人影もなく、その翌年には国内が常時空襲にさらされるという状態となった。先生も、塔頭の庭前に防空壕を作られ、手近な必要品を収めて、警報のたびにご夫妻で壕に入られるようになり、私も時にお見舞に参上した。本州中部の空襲のときには、邀撃を避けて、敵機は紀伊水道から琵琶湖上を抜け、若狭湾沖に出て旋回し、そこから目標の地に向うというコースであったので、京都上空は常時その通路となったが、格別の攻撃目標もなかったとみえて、ともかく大爆撃を受けずにすんだ。

しかし都市の殆んどが灰燼となってゆくなかで、京都だけが無事にすむという保証があるわけではないから、御池・五条・堀川などをはじめ、重要な建物の周辺などの各処で、隔離帯を設けるための疏開が強行された。高辻も狭い通りであるので、取毀しの予定地とされていたが、人手不足ということで遷延しているうちに敗戦となり、のちに居宅とされた高辻西洞院角の建物は、危く撤去を免れた。

戦争中、先生はかなり鬱屈した気持でおられたようであった。教員は学徒の動員先に監督としてかり出されたが、先生は動かれなかった。私は当時予科に属しており、海軍の施設に赴いたが、巨大な施設のなかに、ふしぎな空虚感が漂うていて、敗戦はもうまぎれもないことであった。

戦争は終った。あまりにも愚かしい戦争であった。生活は荒廃し、物資は極度に不足し、治安もよくなかった。先生は学校へ通う便宜ということもあって、市中の高辻に移られることになった。私はその荷物の整理などに伺ったが、片づけをしているうちに、出て来た印刷物などを片手に、何かとお話を聞く機会があった。古い雑誌の中から、叡山学院の学友会誌『文芸 台山余輝』が一冊出てきたのを眺めていると、「昔書いた支那遊記だ。読んでみたまえ」といって渡された。先生が昭和六年、江浙に遊ばれたときの遊記であった。私も芥川の『支那遊記』などをよんで、一度は行ってみたいと同僚の川原寿市氏と話し会うたこともあったが、次々と事変が起って、そのことは夢物語になってしまった。先生が行かれたころは、まだそれほど緊迫した事態ではなかったらしいが、それでも意に沿わぬこともあったらしく、先生は同行の二人を残したまま、怱々の思いで帰国されたらしい。「何しろ不潔なので、逃げるようにして帰ってきた」と笑って話されたが、武装兵がやたらにうろうろする中では、江南の風景を楽しむ気持にもなられなかったのであろう。この遊記には文末に「続」とあるが、続篇があるのかどうかはお聞きしなかった。

私が知ってからの先生は、殆んど旅行されることがなかった。旅に出るということに、一種の不安をもたれる気持があるらしく、この江浙行でも、洋上の船の中で、「帰る、帰る」といって同行者を困らせたと、自分でしるされている。故郷の武生に墓参などで帰られる以外は、戦後には福井へ一度、東京へ一度だけ旅行をされたことがある。福井へは私がお伴をし、東京のときには、大学院開設の手続きのためであったので、平中苓次氏がお伴をした。新幹線には乗られたことがなく、飛行機などは以ての外のことであった。新幹線では、あのひ弱そうな橋脚が不安の種であったらしい。飛行機については、「君、あのように重い物体が、空中に浮かんでいることは、自体不自然ではないか」という論理であった。それで先生は、戦後早々に高辻のお宅に引越されて以来、殆んど遠出することなく暮らされた。私の友人が「橋本先生市中に住む」と歌った通り、先生は市中の人として、以後四十数年をここで過ごされた。

 

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