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蘆北先生遺事

白川 静 

 

V

 

文学部の創設と同時におかれた漢文学科は、第一回の入学生のみで、敗戦前後の混乱もあって、一時中絶の状態となっていたが、二十二年から再募集をはじめ、ついで新制の大学に移行した。はじめ数年はなお十名にも足らぬ状態がつづき、志願者の漸増の傾向に伴なって、やがて定員数を維持しうるようになった。

戦後の学制改革は着々と進められたが、研究発表の場である機関誌の復刊は容易でなく、二十二年七月に至って漸く「立命館文学」の名を回復した。六十四ページ建て、隔月の刊行で、創刊当時に比して四分の一にも及ばぬ貧弱さであった。それで創刊時の規模を回復し、卒業生にも発表の場を与えることを目標として、国漢科の卒業生たちによって、機関誌『説林』を月刊で発行することにした。初年度の二十四年は油印、第二巻以後、白楊社の援助を受けて、三十二頁建ての月刊をつづけた。当時部長であった橋本先生はもとより、関係諸学科の先生たちからは、好意ある援助を受けた。そして三年の後、『立命館文学』がほぼ月刊に近い予算措置を獲得するのを待って、廃刊とした。

二十三年の十二月もおし迫った暮の二十三日、東京から帰洛したその足で、末川総長が学校にみえ、あわただしい様子で辞意を伝えられた。私もその場に居合わせたが、あまりにも唐突なこの意思表示の真意を、誰も理解することはできなかった。とりあえず書斎にもどりたいというのが、そのときの唯一の理由であった。公人の進退としては理由にもならぬことであるが、どうも問題は、一時その職を離れることを必要とする、ということのようであった。それから三ヶ月ののち、選挙という形で、何事もなかったように復職された。懸念すべき問題は、おそらくすでに通過していて、その地位について何らかのアグレマンをえられたのであろうと推察される。

その空白の間、橋本先生は理事会の要請を受けて、しばらく総長事務取扱いとなられた。しかし日々の書類の決裁など、事務的で面倒なことが多く、まもなく取扱代行二名が任命されて、先生はその胥吏的な煩雑さから解放された。ただ名目だけのことにせよ、先生の他にその空白を埋めうる人がなかったのであった。

先生は二十二年から三十一年に至る十年の間に、一年余の期間を除いて、文学部長として学部の再建に努力された。二十三年に新制大学としての設立認可があり、文学部は四学科六専攻の体制を定め、のち哲学科に心理学、史学科に西洋史学を加え、四学科八専攻となった。新制以来の教員組織は、すべて部長としての橋本先生のもとで進められ、充実した偉容を誇りうるものとなった。また三十二年以後、部長には林屋辰三郎・石田幸太郎の諸先生が選任され、先生は大学院科長として、大学院の課程の充実に努力された。その翌年、博士課程として、すでに設置されている地理学専攻に加えて、東洋文学思想専攻が設置された。東洋史と中国文学の修士課程の上に、両者を併せて博士課程をもつこととなった。(

先生が文学部長、大学院科長の任にあられる間に、私は幾たびか主事をつとめた。そしていろいろ多端なときには二人制として、林屋辰三郎氏と事務を分担したこともあった。学部内にも思想的な立場などからいろいろ機微の問題もあるので、これは一種の均衡政策とでもいうべきものであった。かなり複雑な人間関係のなかで、しかしすべてうまく進行しているようであった。先生が文人的に超然とした人柄であること、それでいて種々画策されることが、またまるで見透かされるような純粋さであること、そのようなことが潤滑油的に作用して、対立そのものが一種の緊張した楽しさをかもし出すという、まことにふしぎな雰囲気であった。教授会で重要な人事を決する投票でも、たがいに手のうちをかくし合うようにしながら、その結果はすでに洞然たるものであり、何の意外性もないということが多かった。こういう人間関係をまとめてゆく上で、先生の人柄はまことに絶妙であり、学部はいわば世代、年齢・性向の異なる者が集まる大家族という感じであった。そしてそのような雰囲気は、先生が喜寿の後に学校を退かれるまでつづき、また退かれてのちも、先生が世を捐てられるまでの二十年後までもつづいた。先生は最後まで、大きな家族の中におられるのと同じであった。

文学部が独立した校舎をもったのは、昭和二十四年、府立医大の南隣に、木造二階建の仮建築のような建物であった。今は救世会館となっているところである。杉板をうちつけた一時しのぎの校舎は、夏の強い日射しで熱気を帯び、室内の書物の表紙がみなそりかえるほどであった。中庭を包むようなロ字形であるから、中から火が出ればひとたまりもない建物で、用務員の老人が、くわえ煙草の学生を叱汰している姿を、よくみかけた。この建物で、九年間をすごし、今の救世会館の建物に改築したときは、経営学科の校舎にあてられた。

昭和三十二年に、寺町側に清心館が竣工して、文学部はそこに移転した。西には御苑の樹海をのぞみ、北には廬山寺・本禅寺などの古刹がつづいて、落ちついた雰囲気であった。先生は大学院科長として週に一回登校されたが、その日には共同研究室にいろいろな人が出入りして、私たちにも心のにぎやかな一日であった。

先生が学校を退かれてからも、折々にお宅を訪ねる人は多かったが、別に定例の会があって、ごく親近の人だけが集まった。蘆北会とよばれるその会は、私の記憶では、昭和三十三年頃からはじまったように思う。その年の二月、先生は東洋文学思想の博士課程設置のために、平中教授を伴なって上京された。そして文部省や設置審査委員である和田清・倉石武四郎の諸博士と懇談を重ねられ、ほぼ了解をとりつけて帰洛された。そして、三月に、先斗町の巌で、その慰労のような会が催おされた。そのことがあってから、例年巌での会がもたれるようになり、中文・東洋史の両専攻の諸先生をはじめ、林屋辰三郎・奈良本辰也の両氏も参加されて歓談することが慣例となった。大体十一月ごろ、幹事役は平中教授であった。平中教授の没後は代って大沢陽典君が世話役をつとめてくれて、昭和五十年頃までつづいたように思う。しかし先生もようやく高齢となられ、夜間にお出まし頂くのもどうかということで、以後は専ら、折々にそれぞれお宅にお訪ねすることになった。先生のお宅で、はからずもその方々と同席するというようなことも、しばしばであった。

 

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