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蘆北先生遺事

白川 静 

 

VIII

 

『詩草』には、私自身の追憶に連なるものもあるが、先生の遺事として、しるし残しておきたい二、三のことについて、ふれることにしたい。あるとき何かのときに、青山霞村の話が出て、先生はよく霞村をご存じであるというので、驚いたことがあった。霞村は今では『新潮日本文学辞典』にも名のみえない人であるが、私は霞村の名を早く昭和初年に出た『短歌講座』で知り、土岐善麿や前田夕暮らとともに口語短歌の先駆者であることを知っていたし、また後年、小泉苳三先生の『明治大正短歌史研究』のお手伝いを少ししたことがあって、その歌業について多少の知識があった。その霞村が先生を訪ねてきたことがあるといって、霞村との古いかかわりを話された。それは霞村がかつて、武生の先生の親戚の家に寓居していたよしみであるとのことであった。その詩が四首『詩草』にみえるが、その一首を録しておく。
夢回南越一川雲  親故多帰鬼籍群
何料草山覊旅裡  逢君話旧且論文
その「寄青山霞村先生」の題下に
先生名嘉三郎、号霞村、京都深草人也。昔奉職福井県立武生中学校教諭、寄寓余親串家。時余甫十余歳矣。後先生罷職、留学北米合衆国、音信不相聞者三十余年。而余偶僦居深草、復得与先生相見矣。 十一年十二月
という注記がある。
岡田希雄先生がいつ亡くなられたのか、おそらく戦争中のことではないかと思うが、編年のよくわからないところに、先生の挽詩がおかれている。私は専門部時代に国語学史を受講したが、寒々としてうす汚い教室で、僅かばかりの学生を相手に、何枚も手書き謄写のプリントを用意してきて、時々はげしく咳こみながら、あくこともなく講義をつづけられていた先生の俤を、忘れることができない。
二十余年養病疴  忽招天帝駕雲過
蛍窓雪案沈吟裏  猶剰等身述作多
岡田先生は実に多くの論文を書かれた。宿痾が二十年にも及んだとすれば、私たちの受講のときにも、すでに病んでおられたのであろう。しかもその学問は
縷析条分幾種論  平生病骨尚窮源
高才却恨多天妬  空対遣篇落涙繁

という第二首にもみられるように、縷析条分、細を求め微を極めるという徹底的な実証的方法で、どちらかといえば文人的な橋本先生との交遊が、このように深いものであることを、私は知らずにいた。それぞれ学風は異なるが、この縷析条分と、先生の文理密察とは、その根底において通ずるところがあるのであろう。先生と詩人岳陽翁、先生と学究の徒希雄とのとり合わせなどを考えていると、いくらか楽しくなる気がしてくる。

先生はやはり、多少は圏外にある、奇人的なところのある人物を好まれる傾向があった。たくみに時勢に乗ずるアジテーターや、空疎な形式論理をふりまわす法家者流を、最もくみしがたいものとされた。この『詩草』中にみえる人は、みな好人物である。その他には、画賛に用いられた詩が多く、その詩は、書くに従って改作されることがあったらしい。昭和庚申(五十五年)に戴いた菊と萩の図に、

秋風一夜叩窓櫺  枯葉繽紛満暁庭
唯見胡枝花細々  籬辺痩菊送幽馨

と記されている詩は、『詩草』では「秋風」と題され、第三句は「叢裡菅茅花揺曳」と改められている。胡枝は和名萩。あるいは図柄が変更され、詩句もまた従って改められたのかも知れない。

『詩草』のなかに、そのような詩と全く異なる二篇があって、これはいくらか解説を加えておく方がよいように思う。一は昭和四十五年に作られている原爆歌である。先生には戦争の詩は殆んどなく、ただ出陣の学徒に与えられたものが二篇あって、その行を送っておられる。原爆歌は原爆投下の時のものではなく、ある施設からの依頼で、緞帳として掲げるために作られたということであった。

君不聞昭和二十乙酉年 八月六日広島天
米機来襲投原爆  忽化焦熱地獄淵
煙炎一閃百雷起  日色為暝腥風裡
膚破肉爛廿萬人  赤裸握拳睨空死
連甍比屋悉焼夷  茫々廃墟只積屍
児別父母夫喪婦  老弱啼泣声最悲
星霜屈指二十六  猶説夜深孤魂哭
人罪勝天是耶非  百代譏評何可覆

宛転たる声調のうちに惨禍のさまが活写されていて、剰すところがない。李華の「弔古戦場文」は、かえってその繁蕪にすぎることを感じさせる。一結また緊切、のちの人もこの詩によって、当日の悲惨をしのぶことができよう。

もう一篇、先生の『詩草』の中にあることが訝しく思われるものに、「題郭巨山」の詩がある。山はいわゆる山鉾、郭巨山とは祇園精霊会に巡行する郭巨鉾のことである。

道原元来出自天  大聖往哲以相伝
百行殊途孝為首  人人生知是自然
郭巨家貧尽性孝  瑞応奇異在史篇
方今彝倫日廃圮  嗟乎誰不見善遷

いうまでもなく、『蒙求』にもみえる孝子郭巨の説話を歌われたものである。この詩は、郭巨山の見送りが甚だしく損傷しているので、新しく作りかえるにあたって、さる筋からの依頼で、郭巨に関する適当な詩があれば、先生の染筆をえたいということであった。しかし何分、原話が『孝子伝』にみえる説話で、これを扱ったような作品もなく、やむなく先生が自らこの古伝承にふさわしい様式の一篇を作られ、見送り用の大きさに大書して、その原紙二枚を渡されたのであった。しかし祇園会に新しい見送りとして刺繍されたこの詩には、ある茶道家元の名が署せられていて、その字跡は、さきの原紙の上をなぞり書きした模造のものであった。どのような経過でそのような誤が生じたにせよ、この誇り高い古文化財に対して、そのような汚辱が加えられてよいものであろうか。驚くべき盗作というほかない。かりに周囲の人々の画策するところであったとしても、これは当代の文化人と称される人にとって、甚だ恥ずべき行為ではないかと思う。ただ先生は、その詩が先生の自作であり、その筆跡がまさしく先生のものであることを証するために、その収納函の函底に、自らこの詩を署してその筆跡を残し、深くとがめられることはなかった。

人は社会的な名声のかげにかくれて、いくらかの虚偽や破廉恥が許されるように、思いあがり勝ちなのであろうか。しかしこれに類するようなことは、日常の生活のなかで、殆んど無自覚的に、多く行なわれているのではないかと思う。名利に奔ることを極度に嫌悪される先生にとって、このことはまことに不愉快なことであり、あまり語ることを好まれなかったことである。私はただ「視てこれを識った」のであるが、しかしそのゆえに、敢てこのことを、しるしておかざるをえないのである。

 

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