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蘆北先生遺事

白川 静 

 

IX

 

先生は、九十八歳の誕生日を迎えられる数日前に亡くなられた。長寿の時代といわれる今日でも、稀有の長寿をえられた方であった。しかし戦前の先生は、決して壮健という気象のかたではなく、むしろいくらか神経質のところがあって、ときにはひどく鬱屈されることがあったということである。それで後年、私たちがいくらか落ちこんでいるようなことがあると、「君、それは神経衰弱だよ」と、むりにも神経衰弱扱いをされ、そしてご自身の神経衰弱体験なるものを諄々と説き聞かされるのであった。神経衰弱は病気ではなく、自ら病気であるとする妄想であるというお教えであった。「そのことについては、私には体験がある」という、絶対の自信をもっておられた。それで私は、先生の前では、つとめて闊達に振舞うことにしていた。それが神経衰弱の養生談を免れる、唯一の特効薬であった。
先生の病気といえば、人一倍の潔癖症であろうと思う。その上何ごとにも縝密を期するという方であるから、学問上のことやその他のことについて、深刻に思いこまれることが多かったのかも知れない。しかし先生が、文学の本質的なものを中国文学に求めて、その頽廃・隠逸・山水の文学の系譜をたどりながら、王維の文学にたどりつかれたときには、先生はすでに諦念の世界に達しておられたように思う。王維の研究をまとめられたのは昭和二十三年、その数年後、「陶淵明の守拙について」を発表されている。
敗戦によって世は一変したが、学校もまた一変した。特にこの大学の変りかたは、異様であった。人事についても、それは刷新というようなものではなかった。戦前からのものは、すべて悪とみなされるようであった。多くの人が、わけのわからぬうちに、消えていった。まるで暗討ちのように、部長の現職にありながら、一夜のうちに情勢がかわり、一回の表決で追われた人もあった。学生たちが知るころには、学内の手続きはすべて終了しているという、手際のよさであった。そのような中で、先生はひとり、時には総長代行を請われるなど、泰然たる地位を保たれた。
私もしばしば、間接的な、しかも陰湿な形で、攻撃を受けた。大きな組織の力が、時流に乗じて動くときに、個別的な抵抗などできるものではない。私は、中国の最も古い文献である『書』の中に、殷王朝が滅びようとするとき、「我はそれ狂を発せん」と狂疾を装った王子微子のことを思うた。孔子は殊に狂簡の徒を愛されたというが、私にもいくらかの狂疾がある。人びとは、私の狂疾を警戒して遠ざかるようになり、私も学問の世界に専念しうるようになった。私が、この変貌する私の母校にありながら、幸にして免がれることができたのは、その狂疾のゆえであった。

先生も、若干の狂疾をおもちのように、お見受けすることがあった。私学では給与は階級であり、序列であった。先生は他の人の給与を定める地位におられたが、自分の給与については、他の学部長たちとともに、総長に一任されていた。その裁定として、従来の序列に変更を加えるような通知を受けられた先生は、直ちに辞表を総長宛てに郵送して、帰宅されようとした。どういう都合であったのか、その帰途にある先生に、当時主事として相役であった林屋教授と私とが出会うて、路上でそのお話を聞き、辞意の表明を待って頂くようお願いすると、「辞表はもう投函したよ」といわれた。翌日、末川総長がその辞表を携えて慰留に赴かれ、序列も修正されたということであった。

橋本循先生 画

先生は名利に恬淡な方で、京都学派のなかですでに鬱然たる大家の地位におられたが、学位をもたれなかった。戦後に文学部が再開され、卒業生が出るようになると、その卒業証書は先生の名で発行されるわけであり、それに総長の名も列記される。文学部の卒業生に、法学博士の証書が発行されるのはいかにも場違いで、形がつかないことである。それで私たちは、先生に請うて、学位の手続きをして頂くことにした。先生ははじめ、「何を、今さらそんなことを」という様子であったが、「君たちが手伝うなら」ということで、ようやく承引して下さった。私たちは、実際は何もしなかったが、吉川幸次郎・倉石武四郎の両先生が、この大先輩である先生の宅に出向かれて、いろいろ形式上のことなど助言をされ、いわば手取り足取りで手続きを進められた。そして学位手続きとしては異例の早さで、二十四年十二月に学位記が贈られた。

先生は王維や陶淵明の文学に遊びながら、すでに自適の境涯に入られていたようであった。それで戦後の新制大学の、いわゆる民主化された体制のなかで、いわば少数派の人々を率いて、久しく部長、大学院科長の職にあり、しかも他流の人も楽しんで先生と事をともにするという風であった。先生の人柄であるといえばそれまでのことであるが、私にはやはり、その根抵に、先生が真摯に追求されてきた学術の成果と、先生が深く養われてきた文雅の風韻が、それを助けていたように思う。

先生は書画を愛され、自ら詩書画を試みられるとともに、明・清やわが国の文人の書画を多く収蔵されていた。先生の骨董癖はすでに早年からのことで、本務校以外の収入をその資にあてられていたようであった。それで同じく骨董好きであった哲学科の安藤孝行教授などは、深く先生の知遇をえていたようである。安藤教授はのち岡山大学に移られたが、奇行を以て知られ、漢詩の和訳や書画においても、ときに奇趣を発揮されることがあった。

私は文雅のことに暗く、またその資もなく、掲ぐべき壁間もない生活をしていたので、たち入って先生の収蔵の翰墨を、見せて頂くこともなかった。ただ先生の応接間の楣間にある「脱白」としるされている小額は、さすがに禅家の墨蹟らしい蒼勁の筆勢のもので、私は先生と対座するときにも、時々その楣間に目を移すことがあった。私のようなものには無理な話であったかも知れないが、もう少し翰墨の勝事について、先生のお教えを受けておくべきであったと思うが、すべて手おくれである。

 

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