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旅行記

 安藝國人さん

始めに…

2002年の8月下旬、中國藝文研究會主催による中国旅行が行われました。行き先は西安と北京です。諸先生・先輩と過ごした8日間は、私にとって非常に有 意義なものとなりましたが、今回が初めての中国旅行だったこともあり、最初は不安ばかりが先行していました。実際行きの飛行機の中では、飛行機が揺れるた びにビクついていました(飛行機に乗るのも2回目)。しかし、この旅行記を読んでいただければ、そんな不安もすぐに吹っ飛んで、旅行を満喫して帰ってきた ことを、理解してもらえるでしょう。そんな私の「満喫」した日々を紹介することによって、少しでも中国に興味を持っていただけたらと思っています。

 

目次
輞川荘への道
今回の旅行のメインである輞川荘の紹介です。
太極拳体験記
西安滞在中は毎朝ホテルの中庭でやってました。
美味なる世界
私が特に気に入った料理を紹介しています。
マイベストショット
他の人はともかく、私が気に入った写真を紹介しています。
上からの眺め
「茂陵」「昭陵」の上からの眺めを紹介しています。
工事中に……
復元中の「大明宮」にお邪魔しました。
宝鶏・扶風にて
青銅器が数多く陳列されている博物館の紹介です。



輞川荘への道

今回の旅行のメインともいえる「輞川荘(もうせんそう)は、盛唐の詩人王維(おうい)の別荘があった所である。王維が友人の裴迪(はいてき)とともにこの地の景勝を詠んだ詩は『輞川集』(もうせんしゅう)としてまとめられ、現在まで伝えられている。その「輞川 荘」は、西安市内から東南約50キロの地点、藍田県の山奥に位置するが、現在は軍事施設内にあるため、我々外国人はもちろん、中国人ですら中々踏み入るこ とができない、立入禁止区域となっている。しかし今回は、陝西省人民政府、人民解放軍、そして公安局の許可が下りているのだから、正面から堂々と見学でき るわけだ。

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輞川荘への道 1

 

今日は9時40分と、少し遅めにホテルを出発した。途中バスは白鹿原(はくろくげん)と渭水の支流である灞水(はすい)を通った。しばらくすると、我々の 行く手には高くそびえ立つ山々と、身震いするような絶壁が現れ、しばし仙境のごとき絶景に酔いしれ……たい所であるが……道は舗装されておらず、余りにも ひどくバスが揺れたため、景色を楽しむ所ではなかった。時折街中を通ることもあったが、どれも中国では昔ながらのレンガ造りの建物である。しかし、「輞川荘」付近の集落の中に、一つ近代的な建築物が……と、それは日本でもよく見かける某各種学校(ヒントは西城秀樹)であった。この辺りはすでに外国人立入禁止区域であったが、こんな所にまで進出しているとは……。そう思いながらも、11時40分には「輞川荘」入口の門に到着した。

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輞川荘への道 2

 

入口の門の前には守衛がいたが、許可証を見せさえすれば通してもらえるはずであった。しかしどう も様子がおかしい。西安市役所の朱さんがバスから降りて守衛と交渉にあたったが、何やらもめているようだ。結局バスは一旦門を離れて、近くの広場へと移動 した。そして再び交渉へとむかう朱さん。私たちはバスから降りることもできず、その場で待たされた。しばらくして朱さんがバスに戻ってきて、一言「きびし い」といわれた。朱さんの説明によると、運が悪いことに昨日外国人三人が無許可で「輞川荘」に入ろうとして、公安に連行、逮捕されるという事件があったために、いつもより警備が厳しくなっているらしい。それで、藍田県の役所の人が直接許可証の確認をしてからでないと、この先には進めないということだ。仕方なく役所の人が来るまで「輞川荘」の手前で待つことになった。
待っている間、周辺の景色でも楽しみたいところだが、バスが止まっている広場も禁止区域内なの で、最初は外に出ることも許されなかった。しかし朝にホテルを出てからずっとバスに乗ったままで、疲れもピークに差し掛かってきたし、トイレも我慢の限界 にきていた。それで交渉した結果、トイレにだけ行かせてもらえることになった(結局、割と自由にさせてもらえたが…)。しかし、トイレは門の向こう側にあ るので、使用許可が出たのは女性だけで、男性陣は近くの草むらで用を足すこととなった。ある先輩に、中国に旅行に来たらこういうことは日常茶飯事だと聞か されていたが、男8人が名勝の地を前にして草むらで用を足すはめになろうとは思いもよらなかった。しかし、そのお蔭で景色は十分堪能することができた。

待つこと1時間、ようやく役所の人が到着した(かなりえらい人らしい)。許可証の確認も終り、一行はバスに乗って再び門の前へ。役所の人が乗り込み、バスはついに門を通り抜ける。そして坂を登ることわずか1、2分で目的地に到着した。

バスから下りて先ず私の目に入ったのが大きなイチョウの樹である。イチョウは柵にかこまれていて、石碑にはこの樹の由来が記されていた。このイチョウは王 維が自ら植えたと言い伝えられるもので、「王維植銀杏樹」と名付けられていた。かなり眉つばな話ではあるが、この樹が王維の植えたイチョウの子孫である可能性はある。

またイチョウの周りには石が転がっていたが、これはもともと清源寺の礎石であるらしい。王維は、安史の乱の後、安禄山より官を得てしまったことへの罪滅ぼしと、亡き母の冥福を祈って、「輞川荘」を喜捨してこの地に清源寺を建立したという。

以上の史跡(史跡というほどのものでもなかったような気もするが……)を見学して、最後に「王維植銀杏樹」を背景にして記念写真を撮った(残念ながら公開できませんが……)。見学はこうして終了した。10分程度の短い時間であったが、「輞川荘」へきたことは、私にとって一生忘れられない思い出となるであろう。

 


太極拳体験記

チャイニーズ・ボクシング?

西安滞在中に宿泊していたホテル(唐華賓館)の中庭を探索していると、「Chinese Boxing」と書かれたのぼりを発見。チャイニーズ・ボクシン グ?……しばらく首をかしげて考えたが、なんのことはない、太極拳のことであった。どうやら朝の7時から8時までの1時間、この中庭で太極拳の指導が受け られるらしい。私は昔少しだけ空手をしていたこともあり、中国武術には興味があった。しかも無料で受講できるとあってはこんなチャンスを見逃す手はない。 私は早速翌朝のレッスンに参加することにした。まあ、太極拳の動作はゆっくりとしたものだし(流派によっては激しいものもあるが)、観光客相手のレッスン だからそんなにしんどくはないだろう、と軽い気持ちで参加したのであるが……高校卒業以来、まともに運動をしてこなかった私にとっては、予想以上にハード であった。1日目のレッスンが終る頃には、汗でシャツがビッショリになっていた。

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太極拳の練習風景Ⅰ

 

私に太極拳の指導をしてくれたのは楊式太極拳の正統伝承者で、台先生という40才代の女性だ。先生はレッスンを始める前に、練習の内容を説明した。受講者のほとんどが日本人ということもあって、日本語で説明をしていたが、中々流暢(りゅうちょう)である。説明が終ると早速レッスン開始、先生は受講者の前に立って、太極拳の型を始めた。私は先生の動作を真似て体を動かしたが、太極拳独特の足の動きと手の型が上手に出来ず、苦戦の連続であった。先生は私の型を見ると「ちがう、ちがう」といって、手をとって矯正してくれた。正しい型になると次の動作に移る…とその瞬間、先生に「ちがう、ちがう」といわれて、また 型を直される。その後、何度「ちがう、ちがう」という先生の言葉を聞かされたことか……。しばらくレッスンを受けていて気付いたのであるが、どうやら先生が知っている日本語は「ちがう、ちがう」のほか数語だけで、最初の説明も、そのまま丸暗記して言っているだけのようだ。私は五日間もレッスンに通っていた ので、先生にも顔を覚えられ、話もするようになったが、ほとんど日本語を使うことはなかった。あるとき、先生に大学生かと聞かれたので「研究生(大学院生)」だと答えたら、「ちがう、ちがう」と台先生。太極拳の型だけでなく、中国語の発音まで直されてしまった。

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太極拳の練習風景Ⅱ

中国の神秘

八時になって一時間のレッスンが終了。すると幾人かの受講者が記念撮影を求めて、先生の周りを取り囲んだ。その中の一人が、(中庭の中にある)池をバック に写真を撮りたいといった。先生は「ОK」というと、神経を集中させて池に向かって両手をあげた。すると池の鯉が先生の前に集まってくるではないか!更に 先生は指を動かして右に鯉を誘導すると、鯉もその指示に従って動く。そして指を止めて「ОK」と先生がいうと、鯉はその位置でピタリと止まった。撮影の 間、鯉がその場所から離れることはなかった。これぞ中国の神秘、私は妙な感動に襲われた。翌朝、私が早めに中庭にいくと、一人鯉に餌をやる先生の姿があっ た。しかし私は見なかったことにした。

兄弟子?

太極拳のレッスンを受けにくるのは、主婦・ОL・コギャルと、年齢は様々だ。しかし多くは日本人である。そんな中、その日は中国人と思われる三十才ぐらい の男性の姿もあった。私はその男性と少し離れた所でレッスンを受けていたが、しばらくして自分の横にくるよう手招きしてきた。私は少し戸惑いながらも彼の横にいくと、彼は「こうだ」といわんばかりに型を決め、ジェスチャーで私に太極拳の指導を始めた。彼は中国系フィリピン人で、お国ではエンジニアをしているらしい。中国には父親と一緒にきたのだという。彼は、どうやら私の型があまりにもお粗末なのを見かねて、コーチを買って出てくれた様なのだが、どう見ても太極拳の初心者だ。彼も私と同じくらい「ちがう、ちがう」と先生にいわれていた。

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太極拳の練習風景Ⅲ

この五日間のレッスンでどうにか基本的な歩行法だけは様になってきた。出来ればもう一週間ほどレッスンを受けたい所だが、今日は北京へと旅立つ日。私は台先生に別れを告げると、記念に一緒に写真を撮ってもらった。台先生、短い間でしたが本当にお世話になりました。大謝。

 


美味なる世界

狗(いぬ)の肉

輞川荘の帰り道で寄ったお世辞にも綺麗とはいえない食堂での一品。なお、ここでは野菜たっぷりの担担麺も絶品だった。
この後、水陸庵に行った。

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狗の肉
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食堂で飼っている猫

余談だが、その食堂では滅多に使わないらしい空調を特別につけてくれたのだが、その配線の怪しいこと…子供が謎の配線器具を持ってきたかと思うと、剥き出しの電線をそこに突っ込んだではないか!どうやら延長コード代わりらしい。しかも金属製の暖房機(?)の上にそれを無造作に置いていかれた私達は、それを避けてびくびくしながら食事をする羽目になったのだった。

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危ない配線

純正牛羊泡糢

細かくちぎったパンの中に羊肉のスープをかけて煮込んで食べるイスラム料理。パンは自分でちぎるので、好みの大きさにちぎればいいのだが、できるだけ細かくした方がスープの味がよく染み込んで美味しいという。中には30分ぐらいの時間をかける人もいるほどで、気の短い人にはあまりお勧めできないかも。なおこの店のニンニクの蜂蜜漬けも絶品だった。

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純正牛羊泡糢
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パンをちぎる姿

 

餃子

西安に来たら必ず食べておきたいのが餃子だ。今回の旅行ではそんな餃子のフルコースを堪能することができた。十数種類の色とりどりに細工された餃子は、味わうだけでなく目でも楽しむことができる。特にお勧めなのが、トマトを具材に使った餃子と、食べ放題の水餃子だ。

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水餃子
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トマト餃子
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餃子占いの風景

その他

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宝鶏にて…
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北京にてサソリの揚げ物
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北京ダック

 


マイベストショット

樊噲(鴻門之会遺跡)

漢の高祖劉邦と西楚の覇王項羽が会した「鴻門の会」。そして命を狙われる劉 邦の窮地を救うべく項羽のもとに乗り込んだのがこの樊噲(はんかい)だ。彼は『史記』の中で私が最も好きな登場人物である。「鴻門の会遺跡」にはその登場人物の銅像が置かれていたので、Iさんに撮ってもらったのがこの樊噲とのツーショット写真だ。一応、ツッコミを入れておいた。

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安禄山(楊貴妃墓)

世界三代美人の一人楊貴妃の墓の敷地内には、中唐の詩人白居易の「長恨歌」のストーリーに合せて描かれた壁画がある。この写真はその一場面で、玄宗と楊貴妃の前で舞う安禄山の姿を描いた部分である。

ところで中央の妓女が、安禄山にツッコミを入れているように見えるのは、私だけであろうか?

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パンダ(楊貴妃墓)

楊貴妃墓で見つけた陶器製のパンダ。実はこれ、ゴミ箱である。ここ以外でもちょくちょく見かけた。

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上からの眺め

昭陵博物館の李蹟勣の墓

昭陵は唐の二代皇帝太宗李世民の墓がある場所だ。とはいっても、博物館の敷地内にあるのは太宗の臣下である李勣(りせき)の墓。写真はその李勣墓の上からの風景で、中央にそびえ立つ山は太宗が眠る九嵕山(きゅうそうざん)である(右下)。

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李勣墓
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昭陵博物館が一望できる
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九嵕山

茂陵

漢の武帝の墓の上からの眺めだ。さすがに漢の全盛期を築いた皇帝の墓だけあってかなり高い丘であったが、登るのは意外と楽だった。しかし、階段や手すりがついているわけではないので、降りるときは少し注意が必要だ。なお、頂上で遊ぶ地元の子供たちの姿は可愛らしかった。

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茂陵
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茂陵からの眺め
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大雁塔からの眺めⅠ
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大雁塔からの眺めⅡ
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五丈原(諸葛亮廟)からの眺め
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長安城西門からの眺め

 


工事中に……

大明宮は唐の長安城内で最大の宮殿で、その正殿の一つ含元殿は様々な国家儀礼が行われていた場所だ。しかしその跡地には石碑が建っているだけで、在りし日の宮殿を思わせるものは何一つなかった。

仕方がないので、近くで走り回っている犬を撮影する人も(私は犬嫌いなので撮らなかったが)。

ところが、しばらくして現在大明宮復元の工事が行われていることを知り、しかも特別にその工事現場を見学させてもらえることになった。

鍵のかかった扉を開けてもらって中に入ると、広大な敷地に基壇が……。もちろん宮殿の建物部分は着工すらしておらず、基壇があるだけである。しかし視界いっぱいに広がる基壇を目にすれば、当時の含元殿の姿を想像するには十分だった。

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石碑
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犬(O氏撮影)
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含元殿復元中
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工事現場の風景1
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工事現場の風景2

 


宝鶏・扶風にて

宝鶏青銅器博物館・周原博物館

「宝鶏青銅器博物館」と「周原博物館」では、沢山の貴重な青銅器を見ることができた(一般の観光客が行くような所ではないが…)。

その中でも私が特に印象に残っているのが、西周後期の王である厲王(れいおう)の銘文が刻まれている「ホキ」という名の青銅器だ。さすがに一国の王が作らせた器だけあり、かなり大きな器物で、ガラスケースの中に展示されていた。

銘文は器の中の底の部分にあり、中を覗き込もうとしたが、私の身長では器の中を見ることができなかった。すると博物館の館長さんが椅子をもってきてくれたので(Y先生が私が周代の研究をしていることを館長さんに話して下さったようだ)、椅子に登ってペンライトで照らすと、何とか銘文を確認することができた。

見終わって椅子から下りようとした瞬間、私は足をすべらせて前に倒れてしまい、ガラスケースに手をついてしまった。幸い思ったよりガラスケースが頑丈だったので事なきを得たが、もし割っていたらと思うと、身震いする出来事であった。

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宝鶏青銅器博物館
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周原博物館

 


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