後藤先生
第13回 2009年1月10日 
インディペンデント・レーベル市場」
講師:山本 久(やまもと・ひさし)先生

194671日生まれ 山梨県出身。慶應義塾大学法学部卒業
1978年 インターソング株式会社から株式会社アミューズに入社
1978年 株式会社アミューズ代表取締役社長に就任
2006年から2007年にかけて東京理科大学講師を務める
現在は株式会社アジア・コンテンツ・センター取締役会長、株式会社ワイワイミュージック取締役、株式会社キューズファミリー代表取締役社長
2003年よりインディペンデント・レーベル協議会会長

【参考資料】
インディペンデント・レーベル協議会(ILCJHP 
http://www.ilcj.com/

「インディペンデント・レーベル市場」




今日僕に与えられたテーマは、日本のインディーズに関して話すということです。アミューズの社長というのはまさにメジャーの代表格みたいな存在で、その社長がどうしてインディペンデント・レーベル協議会の会長をやっているのか。皆さんにはそこが一番不思議なことでしょうが、それも追々お話ししていきます。

今日は、インディーズがどのような経緯でできたかということをお話ししますが、現実的には人間の話をしたいと思っています。「若い人たちが、どうしてインディーズの世界で生きていこうとするのか」「インディーズの会社をどうやってつくるのか」「つくった結果はどうなのか」ということをお話ししながら、若者の人間模様みたいなことも皆さんにお伝えできればいいなと思います。

インディーズの歴史をお話しする前に皆さんに聞いてみたいのですが、まず一番前の君、君の思っているインディーズとは何ですか?

学生 メジャーになる前のアマチュアの一段階うえというか

山本 アマチュアからプロになる道筋というイメージですね。じゃ、後ろの君は?

学生 まだ皆に知られていないのだけれども、これから

山本 その後ろのあなたは?

学生 それまでにあった会社には認められていないが、表現したい人が表現している場かなと思います。

山本 もう一人だけ、その後ろの人。

学生 最初の人とほとんど同じイメージです。アマチュアの人が活動している場で、メジャーに進んでいくためのステップの場だと思います。

山本 わかりました、ありがとう。一般的に言うとアマチュアからプロになるステップで、アマチュアの人たちが自分たちでバンドをつくり、ライブハウスなんかで演奏している姿がインディーズのイメージですね。その中でレコード会社のディレクターなどから、「メジャーデビューしたらどうか」と声を掛けてもらえるのは1割くらいかな。それから、ライブハウスで活動しているうちに知られるようになる場合もあります。では、君の思うメジャーって何ですか?

学生 多くのお店で、多くの商品を置ける権利がある。

山本 イメージとしては大きい会社、大きいレコード会社というイメージ?

学生 そうです。

山本 レコード店というイメージ?

学生 いえ、レコード会社です。

山本 では、後ろの人。

学生 お金は一杯あるが、失敗すると結構痛いイメージ。

学生 多くの人に聴かれる機会があるアーティストの集まり。

山本 そうですね、皆間違っていませんよ。例えばこういうふうに捉えることもできるでしょう。インディーズは弱い人たちの集まりで、武器を持たない人たち。逆に言うとお金も組織もない。だから自分たちで、ライブハウスくらいまでは何とか努力して演奏活動することができます。そこで少人数のオーディエンスから始まって、もしかしたらライブハウスを一杯にして何日もできるようになるかもしれない。そこまでは彼らが自分たちでできる領域です。一方、その領域から外れるメジャーというのは何かというと、1つは今言われたように圧倒的な資本力を持つということ。それから、流通を持っているということが最大のポイントです。反畑先生、今日本にあるレコード店は8,000店くらいでしょうか?

反畑 そうですね。日本レコード商業組合に参加しているのは2,000店くらいですが、外資系を入れると8,000店くらいになると思います。

山本 ありがとうございます。それでは資本力とは何かというと、CDなどを制作して宣伝するお金と、それを8,000店のレコード店に届ける力。それを持っているところがメジャーカンパニーです。逆に、それを持っていないところがインディーズだと言っていいのかもしれません。しかし、これはあくまでも日本においてのことで、欧米にこれが当てはまるかというとそうではありません。世界のメジャーカンパニーというのがあるのは知っていますね? 映画で言えば20世紀フォックスとか。例えばソニーは聞いたことがあるでしょう? ソニーはレコードのメジャーカンパニーです。そしてレコードのメジャーカンパニーは2つに分かれており、世界的な規模を持つ会社をインターナショナルメジャーカンパニーと言います。映画で言うと20世紀フォックス、ユニバーサル、それから例えば007を制作しているMGMという名前は皆さん聞いたことがあると思います。コロンビアピクチャーズというのはソニーですが、それも入る。レコード会社におけるインターナショナルメジャーカンパニーは今言ったソニーと、あとはどこがありますか?

学生 ユニバーサル。

山本 はい、ユニバーサルがありますね。あとわかる人いますか? エイベックスをどうしてここに入れないかというと、エイベックスは今アジアにありますが、世界規模のネットワークは持っていないからです。このほか、皆が知っているところではEMIやワーナーという会社があるでしょう。それからソニーと一緒になったBMGというドイツの会社もありました。エイベックスやビクター、コロンビアというのは日本におけるメジャーカンパニーです。

ではこの年表を見てください。日本のインディーズの歴史については自分でも知りたいと思っていたのですが、今日皆さんにお話しするので、うちのスタッフにつくってもらいました。歴史的に見てこれが正しいのかどうかわかりませんが、僕が調べた範囲の話をすると、1967年のフォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』が、日本のインディーズの一番古い形だったのではないかというところに辿り着きました。

フォーク・クルセダーズは今も活躍しておられる加藤和彦さんがいたグループで、学校の卒業記念につくったアナログレコードが瞬く間に京都で評判になりました。そして、メジャーカンパニーの EMIミュージックがどうしてもレコード化させてくれということで、あっという間に当時の大スターになった方たちです。

僕の想像では、彼らはお金持ちだったと思います。当時はアナログレコードを自主制作するのに結構なお金がかかったはずです。しかも100万円単位のお金がかかったと思うので、そんなお金を卒業記念の自主制作レコードに投下できる人はそんなにいなかったはずです。お金がかかった要因として、今のCDと比べてアナログレコードのプレス代が高かったとか、音をつくる設備がどうだったかというところがあるのですが、それについては後でお話しします。

それから、1969年にUR Cという会社ができます。ここは岡林信康さんや五つの赤い風船などがいたところです。またエレックレコードという会社もできて、泉谷しげるさんや吉田拓郎さんたちがここで誕生します。彼らがどうして自分たちでレコード会社をつくったのかというと、「既存の日本のレコードメーカーと専属契約したくない」「自分たちの音楽は自分たちの手でつくり、自分たちの手で売っていこう」と考えたからです。当時はいくつかの会社ができたと思うのですが、成功したのがこの2つの会社でした。

反畑 1970年は70年安保改定のときで、1969年には東大の安田講堂が占拠されて大学が休みになったという時代背景があります。それとアマチュアたちが自分たちのお金で新しい動きを起こそうという波が一緒になり、レコード会社と専属契約する制度が崩壊していくきっかけとなりました。

山本 当時は毎日のように全国ネットの歌番組があって、アイドルたちが同じような歌を歌っていた時代でした。その一方で、自己主張を持った音楽メッセージを伝えたい人たちは、「アイドルが出ているテレビ番組なんかに出てたまるか」というようなところが強くあったのではないかと思います。ただし彼らが成功したのは、やはりそれなりの人材と資本力があったからです。

そして年表の上のほうにいくと、ヴィヴィッド・サウンド・コーポレーションなど僕が知らない会社がほとんどです。このように自分たちでレコード会社みたいなものをつくり、アーティストのレコードを制作して金儲けができないものかと思う人たちがパラパラと現れてきました。

今年はサザン・オールスターズのデビュー30周年ですが、ちょうど30年前にアミューズができて、その一発目がサザン・オールスターズの『勝手にシンドバッド』でした。しかしこの曲はインディーズというよりも、メジャーカンパニーのビクターレコードが売り出したものです。

先ほど述べたインディーズの人たちと対比して、アミューズは何をやろうとしたかというと、メディアを多用して数多くのスターを世の中に出していきたいと思った会社なのです。ですからそれは『勝手にシンドバッド』でも証明できて、その後は三宅裕司、福山雅治BEGINなどを含めた非常にたくさんの方たちを世に出すことができました。それはまさに我々が手作りの作業を排除した結果です。あらゆるメディアとの融合の中でスターを発掘して育成していく、というのが我々のとったスタンスです。

年表の真ん中の欄にある会社が、私が現在会長をしているインディーズ協会(ILCJ)に参加してくれている会員です。一番左はまだそこに入っていない、もしくはほかの協会に入っている方たちです。後で説明しますが、このような方たちが1994年くらいから圧倒的に増え続けているという状況です。私たちインディーズ協会の中にも、モンゴル800の沖縄のハイウエーブやORANGE RANGEのスパイスレコーズなど、皆さんが知っているような売れっ子を輩出する会社がいくつか出てきています。このようなマイナーなレーベル、もしくはレコード会社が現在2,000以上あると思います。ということは、2,000人以上の若いレコード会社の社長がいると理解してください。

また、レコードの流通に関して調べられる範囲で調べたものを、右の出来事の欄に入れています。この3つの欄を重ね合わせると、日本のインディーズの歴史がおぼろげながら見えてきて、どうしてこの時期にこういう人たちが会社をつくったのか、というところに辿り着く1つのいい資料ができたと思っています。

ちなみに先ほど述べた1969年設立のURCは、自分たちでやるには限界があって会社は潰れました。エレックレコードもやはりある種の限界があって潰れたのですが、その後井上陽水さん、吉田拓郎さん、小室等さん、泉谷しげるさんの4人が中心になって、4つの命のレコード会社、つまりフォーライフレコードという会社が生まれました。紆余曲折はあったと思いますが、メジャーカンパニーとして再生したフォーライフは、現在も音楽業界の主要な地位を占める会社として頑張っておられます。


さて、今日僕が皆さんに一番話したかったことを今からお話ししましょう。皆さんと同じ年代、あるいは少し上の世代の2,000人、3,000人以上の若者たちが、レコード会社をつくって生活の糧にしようと思ったのはどうしてでしょうか。もしくは何千万円、何億円というお金がない若い人たちがどうしてそんなことを考えたのか。例えば同じように建設会社をつくろうとしても、そんなに簡単にできるわけはないのです。

資金は親からの借金でもいいのですが、いくらお金持ちでも子どもに何千万も出す親はいないと思うし、出してもせいぜい数百万で、そんな危ないことにお金なんか出さないという親もたくさんいるはずです。そういう中で、どうして若者たちがレコード会社をつくろうとしたのか。またどうして会社ができたのかという話をしたいと思います。

まずは仮定の話ですが、あなたがインディーズのレコード会社をつくろうと思ったとき、一番初めに何をやろうとしますか? 会社は設立できて登記も済んだという前提です。

学生 ミュージシャンを探す。

山本 ミュージシャンを探さないとお金儲けのシード・種がないですよね。ではどうやって探しましょうか。

学生 スカウトかオーディション。

山本 では、全国のライブハウスを回って気に入るアーティストを探しに行きます。そして自分のところでレコードを出しませんかとアプローチする。これが第一段階ですね。ではその後ろの人、そこから何をしましょう。

学生 宣伝をする。

山本 宣伝の前にレコーディングをしなければいけませんね。そしてレコーディングの結果、お互いに思っているものの90%くらいの音楽がつくれましたと。そこからプレスをしてCDをつくらなければいけない。CDを何枚つくろうかという悩みはありますが、まず1,000枚つくりました。では、次に何をしましょう。

学生 売ってもらえるお店を探す。

山本 そうです、一番原始的なことですね。プレス会社から1,000枚のCDが、あなたが社長を務める会社に届きました。まずはあなたの会社の一番近くのレコード店に行って、「これを売ってくれませんか」と頼みました。その後はどうしましょう。1店だけでいいのですか?

学生 他のお店も

山本 ほかのお店も行きますよね。そうして1,000枚のCDを売るために、若者たちの目が届く場所のいいレコード店に出向いて行って、「このCDを置いてください」と一生懸命頼むというのがあなたの仕事です。そして3店に1店くらいは音楽を聴いてくれて、「いいじゃないか、置いてあげよう」というふうになっていきます。では後ろの人、そこからどうしますか? 例えば1,000枚のCDを京都の20店舗のレコード店が置いてくれました。

学生 ラジオ局などに売り込みに行く。

山本 宣伝に行きますよね。レコード店に置いてもらったが、その曲を音楽好きの人たちにもっと知ってもらわなければいけない。では、そのために何をしなければいけないかと社長としては考えます。ただしお金が無くて、テレビスポットを打ったり新聞広告なんかもできないから、ただで宣伝できる方法を考えます。まずは、無理かもしれないがテレビ局やラジオ局に行ってお願いしてみる。それが当然とる行動ですよね。それからCDだけがレコード店に置いてあるのはさみしいから、チラシくらいはつくろうということになる。そのチラシを友だちに配ったり、ライブハウスに置いてもらったりすることは考えますよね。

CDがレコード店にあります。ラジオ局に行きました。その曲を気に入ってくれるディレクターがいて、京都のラジオ局のある番組で2回くらい曲を流してくれました。チラシをライブハウスにも置いてもらいました。それで終わりですか?

学生 ライブ活動をする。

山本 まさにそうです。それでCDが売れるんだったら、ここにいる皆さんは今日すぐに始めたほうがいいですよ。でもそんなに簡単なものではなく、そこからの努力が成功するかどうかに結び付くわけです。まず一番手軽にCDを売るために何をしなければいけないかというと、アーティストにライブ活動をたくさんしてもらって、聴いていただいた人にその場でCD買ってもらうことです。それが最も原始的な行動で、インディーズというものができた背景ですよね。でも、そんなことだけで売れる可能性はほとんど皆無です。にもかかわらず、なぜ何千人もの若者がインディーズの会社をつくったのか。

これは私の個人的な感想ですが、その要因は最近の若い人たちが就職してもすぐに辞めてしまうことも含めて、若い人たちの感性や人生観に関係していると思います。それと、ITバブルによって何百億円ものお金をゲットすることができたホリエモンのような若者が出現したということもあるかもしれません。また音楽に携わってきた人は、サラリーマンになって音楽から離れてしまうことが非常にさみしいから、何とか音楽に近いところで生活できないものかと考えるのかもしれません。それから、インディーズからメジャーに行って大成功するアーティストが現れたという成功体験を目にして、自分もやってみようと思うのかもしれない。このほかに何かあるでしょうか、反畑先生。

反畑 そうですね。先ほど言われたように、レコーディングや製造に費用がかかった時代がありましたが、今は宅録と言って、デジタル化で手軽にCDがつくれる時代背景があると思います。販売に関しては、例えばモンゴル800のように沖縄にあっても、最初にレコード店にお願いしなくても、ネット販売で浸透していく場合があります。

山本 ありがとうございます。先ほど若い人が親から借金をして会社をつくって、アーティストをどこかで探してきてCDを売るという原始的な話をしたのですが、現実的には 8,000店のレコード店は回り切れません。ですから、10年から15年くらい前まではどうしていたかというと、もちろんライブ活動でも売りますが、卸屋はないものかと考えるわけです。CDを持って行けば、全国のレコード店に届けてくれるようなところはないだろうかと探します。

そして、実はあったのです。今は無くなりましたが原楽器という会社です。ここは楽器を卸している会社ですが、地方のレコード店には楽器も置いてあったりするので、楽器を送る手間と同様に段ボール箱にインディーズのCDも入れてレコード店に届けてあげようということです。しかし、原楽器のお陰でCDが全国のレコード店に行ったわけではなく、ある程度のレコード店に届けることができるようになったということです。

次に、自分たちのCDを全国のレコード店に送ってくれるところはないだろうかと考えて見つけたのが、輸入盤専門の卸業者リバーブです。この会社は輸入盤を全国のレコード店に卸す仕事をしていました。3番めがビビッドサウンドという会社で、ここは今もありますが輸入を生業にしている会社です。この3つの会社に若者が殺到して、自分のCDを全国のお店に送ってくれと頼んだので、当時の三大流通と言ってもいいのではないかと思います。

もう1つ肝心なことは、例えば1,000枚のCDのうち300枚をコンサート会場で手売りします。あとの700枚は流通が引き受けてくれて、全国のレコード店にある程度行き渡りました。ではCDを置いてもらうためにかかる費用はどうなるのかというと、いくつかの方法が当時行われていました。わかりやすくするためにCD1枚を1,000円とすると、いい音楽だから、売れなくても550円か600円で買い取ってあげようというレコード店が結構あったらしいのです。それは流通の問題から返品が面倒臭いということと、若者を応援しようという気持ちがあったのでしょう。また、メジャーカンパニーであれば原価が700円や850円くらいと高くなるということもありました。

ですから若い社長にとっては夢みたいな話で、そこで得たお金は次のCDをつくるための原資になっていきました。ただし、この流通方法では8,000のレコード店のうちカバーできたのは5割ほどだと思うのです。その後、流通面でどんな革命が起こったかというと、1999年にダイキサウンドという会社が出現しました。1999年は日本のインディーズシーンの革命の年と言われています。

ダイキサウンドの社長は木村さんという僕も親しい方なのですが、この方は日本レコードセンター(NRC)の社員でした。僕もこのNRCに行ったことがあります。なぜ行ったかというと、この会社はサザンのCDの流通も全国ネットで365日対応しているので、自分がつくっているCDがどのようにレコード店に行くのか興味があり、横浜の厚木にある巨大な流通センターに行きました。

ビクターのスタジオでサザン・オールスターズが録音すると、プレス会社でプレスされた何10万枚というCDがトラックに積まれてNRCに届きます。これはレミオロメンも、ビクターに所属しているSMAPも同じです。流通センターの上部にはロボットのようなものが走っていて、注文が来るとロボットがサザンの棚に来てアームでCDをピックアップし、下の段ボール箱に落とします。またDVDの棚もあって、同じようにピックアップされたサザンのDVDCDの入っている段ボール箱に一緒に入れられる。このように全てオートマチックになっているのです。

そして、全国各地のレコード店に行く段ボール箱がトラックに積み込まれ、翌日配送されます。例えば熊本にある山本レコード店が、「サザン・オールスターズの新しいDVDをお願いします」とNRCにファックスを送ると翌日に届くという、当時としては画期的な流通の仕組みがNRCにはありました。

インディーズもこの流通方法を利用できないだろうかと考えたのが木村さんです。木村さんは独立してダイキサウンドをつくったとき、NRCの社長に「流通の仕組みの中にインディーズも組み込んでくれませんか」とお願いしました。NRCの当時の社長が木村さんを非常にかわいがっていたということもあるし、またダイキサウンドが大きくなるとNRCも結果的には潤うということで了解が出ました。

ダイキサウンドが出現した瞬間に、インディーズの人たちがレコード店に足を運ぶ必要がなくなりました。ダイキサウンドにお願いすれば、沖縄から北海道までどこでコンサートやライブをやっても、一瞬のうちにその近くのレコード店にCDを置くことができるようになったのです。その後、ダイキサウンドと同じような流通の仕組みでやっている会社としてはバウンディがありますので、勉強のために覚えておいていただければと思います。このようにダイキサウンドの出現によって、若い人たちが会社をつくることが爆発的にできるようになりました。

流通の問題は片付きましたが、もう1つの問題はコストです。CDをプレスするとジャケットの印刷代とケース代がいります。今は1120円くらいでプレスができるというイメージを持つといいかなと思います。

それから録音にもコストがかかります。僕はたまたま病気でアミューズの社長を辞めましたが、僕がアミューズのお金を使ってレコーディングしてきた費用についてお話しします。例えばポルノグラフティが10曲入りのアルバムをつくる場合、1曲の予算は200万円から250万円。ですから10曲だと2,000万円から2,500万円を録音費用として考えます。これは現在も同じです。サザン・オールスターズになると桁が違う話になってしまうのであえて言いませんが、「音楽クオリティを保つ」という最大の良心を持つメジャーカンパニーが、3,000円でCDアルバムを買っていただける音づくりをするためには、このくらいのお金がかかります。

しかし100万円、200万円の借金をして会社をつくったインディーズの人たちは、その金額では1曲もできません。それで100万円を何とか手に入れて、30万円でアルバム10曲の音ができました。プレスは1120円ですから、1,000枚だったら12万円。合計45万円で1,000枚のCDがオフィスに届きました。残高は55万円。家賃のことは別として、ここから宣伝費を少し使うというようなイメージです。

なぜ13万円で録音できるのかというと、音楽づくりの劇的な機械が生まれたからです。以前はシンセサイザーだったのですが、Pro Toolsの誕生によって家庭で全ての録音が完了するようになりました。僕のイメージでは、Pro Toolsはコンピュータを使った音楽づくりのシステムという感じです。

このように、お金もかけずに流通も何とかなりそうだということで、ちょっと夢が出てきました。それから、タワーレコードがインディーズをバックアップするという、彼らにとってメリットになることが起こりました。サザン・オールスターズももちろん売りますが、インディーズの人たちも育てて何とか世に出したいというタワーレコードの方たちの情熱に支えられて、インディーズが飛躍的に伸びていったのです。

CDが誕生してから26年になりますが、CDが生まれたことも革命で、それによって今のプレス代になりました。塩化ビニールでつくっていたアナログ盤は、大体その5倍かかりました。今やアナログのプレスをしている会社は1社か2社くらいしかないらしく、1枚いくらで受けているかというと4色・300枚で394,000円。ということは40万円くらいですね。

このような時代背景のもと若い人たちがレコード会社をつくって成功しました。あるいは友だちが会社をつくって成功したという成功体験を得たり、成功しないまでも社員を2人くらい雇いながら次に投資できる環境が生まれて、現在2,000人から3,000人の若い人たちがレコード会社の社長として自立しています。そして今、僕はその中の約70社の社長をまとめてインディーズ協会というものをつくっています。その使命はいくつかあるのですが、若い人たちと僕とが毎日会議を開いて、インディーズの世の中における講評などについて話し合っています。

今日は、皆さんが「自分がどう生きていったらいいのか」と考えるとき、23,000人の若者が自分でレコード会社をつくっているという事実を知ってほしかったのです。皆さんも自分で会社をつくることは夢ではないし、サラリーマンや公務員になったり自分で起業したりと、人生の選択肢は考えているほど狭いものではありません。僕はサラリーマンで人生が始まり、30歳のときに独立して、かみさんや子どもは死ぬほど心配していましたが、何とか25年くらいで一部上場の会社にまでなりました。それは、もちろん僕一人の力ではないのですが、人生の波をかぶりながらも生きていこうという気持ちだけは、非常に強く持っていました。そんなことも皆さんに伝えられればいいなと思って今日は京都にやってきました。

―以下、質疑応答―

Q. 先生は1989年に、テレビを通じてアーティストを発掘する『いかすバンド天国』という番組を仕掛けられた。これこそインディーズのはしりだと思うのでエピソードをお伺いしたい。

A. アミューズはいろんな仕事をやってきた。音楽に関しては皆さんご存じだろうが、役者では三宅裕司さんや深津絵里さんも育ててきた。そのために、アミューズはほかのメジャーカンパニーと違い、テレビ局の方とのお付き合いが仕事の中心になる。それがメジャープロダクションと言われる所以である。あるときTBSの有名プロデューサーが、「若者をターゲットにした深夜枠に力を入れるので、土曜日の深夜2時間でアミューズに何かつくってほしい」と言われて始まったのが『いか天』という番組。

 そこから出たBEGINなどは今でも頑張ってくれているが、あの番組のお陰でミュージシャンを志す人が非常に増えたということなので、やってよかったと思っている。

Q. 『いか天』での権利ビジネスはどのように整理されたのか。例えばBEGINのケースではどのようになったのか教えてほしい。

A. BEGIN競争入札ではなかったが、56社のレコード会社からぜひ当社でやらせてほしいという話があった。その中からBEGINに合うディレクターとプロデューサーを選び、また会社の付き合いの度合いも含めてレコード会社を決めた。金銭的な心配は全くなかったので、ディレクター、プロデューサーとの出会いを大事にするという要素が強かったと思う。

Q. 今のインディーズはメジャーに負けず劣らずを目指すのか、それともあくまでメジャーと区別されたやり方でいくのか。先生がこれから目指されている方向があれば教えてほしい。

A. 23,000人の若い社長たちがインディーズで何とか生活しようと会社をつくり、ある程度目立つようなアーティストを育てることができたら、次の段階でどうするかは社長が決めること。インディーズに限界を感じて、メジャーカンパニーからそのアーティストを出した方が売れると思ったら、契約金をもらってそうするだろう。ただし、メジャーカンパニーに行ってインディーズの時よりも売れなくなってしまう人もたくさんいる。だから、メジャーの力を利用して金儲けをするインディーズの社長は半分もいないのでは。独自でやっていこうと思っている人たちの方が多いと思う。

Q. 学生時代に経験しておいて良かったと思うことを教えてほしい。

A. 30年近く新入社員の最終面接をしてきたが、印象に残っていることは結構たくさんある。採用基準というものは、その会社のカラーがあるから何とも言えないが、僕が若い人たちに望むのは、何でもいいからのめり込んでほしいということ。アニメでもパチンコでも、何でもいいと思う。ただし、のめり込むということはほかの人に負けないということで、ただパチンコをたくさんやりました、というのはのめり込んだことにならない。パチンコのプロになるくらい、その道の達人になるくらいのことをすればいいのではないかと思う。ただ、好きなことが見つからない人は、どうして見つからないのか真剣に考えた方がいい。見つからないということは、見つけようとしていないか、見つかるほどの多様な活動をしていないかということだからである。

Q. アミューズにはエンターテインメントの中に演劇部門や女優部門があり、そしてサザンを中心とする音楽部門がある。それから去年ブレイクしたPerfumeもいる。

A. アミューズは映像にも非常に力を入れてきた。一番劇的に成功したのは、韓国の『シュリ』という作品を買ってきて日本で公開したこと。韓流ブームの火付け役と言われている『シュリ』という映画があるので、もし観たことがなければぜひ観てほしいと思う。

Q. 中国にも早くから着眼されており、紫禁城でサザンのライブをやって電源を抜かれたという伝説があるが本当か。

A. 本当だ。今になると思い出だが、いろいろと苦労した。サザン・オールスターズの北京公演の時も苦労した。ロックという音楽ジャンルもサザンの詞も全くダメということで、コンサートを許諾してくれなかったのだが、日中友好20周年記念という特別な年で実現することができた。これはNHKの教育テレビか何かでやったのだが、その時に桑田佳祐君がステージ上で倒れてしまった。その理由は、全くオーディエンスとハモらないので緊張感が極限に達してしまったから。大きなハプニングだった。

以上





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