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第1回 今年のNHK講座のポイントと災害報道とNHK

 

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第1回

 本年度第一回のNHK講座は、NHK京都放送局の井上利丸局長と、仙台放送局放送部(報道)専任部長の辻村和人さんをお迎えした。井上さんからは、本講座の開講にあたって「今年のNHK講座のポイント」について、辻村さんからは、スタートアップ企画として「災害と放送」について、それぞれお話しいただいた。

 

<講義概要>
 辻村さんはまず、災害を報じる放送メディアの、今日に至るまでの歩みについて語った。日本でラジオ放送が開始された当初、災害報道の目的は、被災状況をできるだけ早く伝えることだった。その後、大きな災害に直面する度に、メディアは教訓を得て、災害報道に新たな役割を見出してきた。例えば、1959年の伊勢湾台風からは、被害を減じるための防災報道を、1964年の新潟地震からは、被災地に住まう・もしくは居合わせた人々の安否情報の必要性を、それぞれ見出している。
 また、災害報道は技術の進歩によっても、新たな体制を築いてきた。1993年の北海道南西沖地震の教訓から津波警報が迅速化され、さらに、1995年の阪神・淡路大震災から、大規模災害報道が開始されている。

 次に辻村さんは、「3.11」を報じた当時のNHKについて振り返った。3.11の際、NHKは避難を迅速に呼びかけた。また、ヘリやSNG(人工衛星を経由した中継システム)などを駆使して、海岸に押し寄せる津波の映像を撮影することに成功した。辻村さんは、これらを「NHKができたこと」だとして肯定的に評価する。その一方、避難の呼びかけが住民の実際の避難に繋がらなかったこと、きめ細かい生活情報を流せなかったことは、「NHKができなかったこと」と自省を込めて語り、ラジオの重視など新たな対策を進めていると述べた。

 

 最後に、震災報道とジャーナリズムの関係について辻村さんは語った。ジャーナリズムにのっとった番組を制作するには、多大な時間と人手を要する。しかしNHKは妥協しない。多少手間がかさんでも、徹底的にジャーナリズムを追及する。それがNHKの強みだという。

 

<講義を受けて>
 「当たり前の日常」という言葉がよく用いられることからも分かるとおり、平和な日本で暮らす私たちは、日常は不変だと考えがちだ。命さえも危ぶまれるほどの大災害が我が身に襲い掛かってくることなどまさかあり得ないと、特別に不用心な、あるいは楽観的な人でなくとも、心のどこかでは考えているだろう。住民に避難を呼びかける報道は、その根拠のない、しかし確固とした思い込みを貫くほど力強く、そして鋭いものでないといけないのかもしれない。今回の講義を受けて、私はそう思った。


 東日本大震災の日、NHKは迅速な避難の呼びかけに成功したが、それが、住民の実際の避難にはつながらなかった。報道を聞いた住民が「いつもと同じで、たいしたことないと思った」からだ。確かに、予知される津波の多くは、せいぜい防波堤にぶつかるだけで、深刻な被害などほとんど与えずに、穏やかに消えていく。今日の津波も、それら日常的な津波と何ら変哲のない、他愛のないものだろうと考えるのも無理のない話だ。もしその場に居合わせていたら、私もそう考えていたに違いない。NHKの避難の呼びかけは、その日の津波が他愛のない日常的なものではなく、後世まで3.11として語り継がれるほどに特別なものであることを瞬時に伝えられなかった。


 その苦い教訓を生かし、NHKは避難の呼びかけを変更するそうだ。アナウンサーは声を荒げ、より断定的な言葉を用いる、とのことである。なるほど、普段は冷静沈着に淡々と原稿を読み上げるNHKのアナウンサーが、にわかに荒々しい声で、速やかな避難を呼びかけてきたら、危機感を覚えずにはいられない。日常の範疇を超えた、特別な事態が接近しつつあることを、私たちははっきりと感じ取ることができるだろう。


 近頃は科学技術も発展し、かつては恐れられていた多くの物事が、もはや脅威ではなくなった。昔より日常生活が揺らぎにくくなったのは確かだろう。しかし辻村さんも述べていた通り、現在でも「事前の準備を超えうる」ことは、無数に存在する。いくら科学技術が発展しても、災害は容易に日常生活を破壊し得る。それらの被害を完全に無くすことは、残念ながら出来ない。私はそのことを理解して、楽観的な思い込みを捨て去ろうと思う。そして、もしNHKのアナウンサーの荒々しい呼びかけを、ラジオやテレビ越しに聞くことになれば、速やかに避難しようと思った。

 

記者 立命館大学産業社会学部 植田真弘

 
 
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