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2020/11/25

No.87「エキサイティングでスリリングな人生の原点として」
●1990年卒業:新谷 伸一さん

民事再生と私

 私は、大分県豊後高田市出身で1990年卒の新谷(しんがい)伸一です。

 私は、さんしゃ卒業後、九州を地盤とする総合流通業(スーパーマーケット)に就職しました。同社では、長年、経営が低空飛行を続ける中、財務経理畑を中心に歩んできました。頼れる先輩や周りの社員の協力で、経営はなんとかしばらくは持ちこたえたものの、最後には力尽き、同社は平成13年に民事再生を申し立て私自身も解雇されました。

 卒業当時、私は、エキサイティングな流通業の魅力に惹かれ、大学キャリアセンター職員の方の「同社はやめたほうがよい」との静止の声も聞かず「自分ならなんとかできる」の一念で、当時すでに、経営としては黄色信号であった同社への就職を決めたわけです。

 実は、当時の私の同社での業務は、労働基準監督署との調整や民事再生業務そのもので、弁護士とともに裁判所に行き、民事再生の申立そのものを担当するなど、とてもエキサイティングでスリリングな毎日を送っていました。

大学職員となって

 その後、ハローワークに通いつつ職探しをしている中で、とあるご縁をいただき、平成14年から私立大学(学校法人福岡工業大学)に就職することとなりました。

 現在、福岡工業大学でも財務部に所属していますが、さんしゃ在学中も一時期、教職を目指していたこともあり、そもそもの志望業種ではないかと思うほど自分の興味・関心に合っており、日常業務はやはりエキサイティングです。

 大学職員になってみて感じることは、立命館大学のキャリアセンター(就職課)では、当時から、就職先企業の評価(スコア)システムを活用し学生との面談を重ねることによって、どの企業が学生にとって好適なのか、常に親身に考えておられたということが、今になってようやく分かりました。(遅きに失したともいえますが・・・・・。)

 私が、存続も難しい企業を最期まで看取り、学校法人への転職を果たしたことは、ほぼ偶然の産物であり、できればこのような経験はしない方が良いともいえますが、私としては、大変、貴重で得難い経験を積ませてもらったと感じています。

 さんしゃ在学中は、北野白梅町や平野神社近くに住み、周りの気の置けない仲間と長屋アパートで朝方まで飲んだ翌日、流しそうめんをしたり、バイクでのツーリング、レンタカーを借りてみんなで近畿一円の大学巡りをしたり、縦横無尽に走り回っていました。

 また、仕送りもない奨学金頼みの貧乏学生で、アルバイトもたくさんしました。思い出は尽きません。

 今でも交遊を続けている仲間もいます。

 

 近年、福岡工業大学への入学を志願する受験生は、一貫して増え続け14年連続での志願者増加は日本でもあまりないと聞いています。

 また、大学経営(運営)面では、PDCAサイクルによる経営管理手法が外部から評価されつつあり、関係団体、各大学等からの視察も増えており、やはりエキサイティングです。

 まだまだ、立命館大学の職員力をはじめとする社会からの高い評価には及びませんが、九州№1の私立工業大学の地位を不動のものとすべく「関関同立福岡工業大学」を目標に頑張っています。

公益私欲と地域社会

 自身の半生を振り返ってみますと、「何がどう転ぶかわからない」(エキサイティング)、これが人生と心得て、そのときのために周りの方、諸先輩方、地域社会からの信頼を得て、地域社会に役立つために様々な場面でどう考えていくのかを常に考え続ければ、いつか、自分自身も社会に認めてもらえる時が来るという「公益私欲」を大切にしています。

 どんな状況でも耐えられるよう、自分の原点を見出すきっかけをさんしゃの4年間で教わったと感じています。

 今後は、当時、中川勝雄先生に教えていただいた地域社会論の実践の場として大学を捉え「地域社会における福岡工業大学のあり方」をテーマに、これからも学びを続けていきたいと思います。

 最後に、中川先生はじめ、時折、こちらから質問させていただく産業社会学部事務室の職員の方々にも、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

●新谷 伸一(しんがい しんいち)

卒業年月日 1990年3月 卒業
出 身 地 大分県
現 住 所 福岡県
勤 務 先 学校法人福岡工業大学
ゼ ミ 名 中川 勝雄ゼミ
所属サークル
団 体
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