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「自己決定」を支える「パターナリズム」についての一考察
─「倫理綱領」改訂議論に対する「違和感」から─

樋澤吉彦 2003年3月 『精神保健福祉』34-1:62−69



1.緒言

  1)目的と、問題関心としての「3つの違和感」
  本稿は、他者の行為を「制限」する理由の一つとして考えられている「パターナリズム」について、主に法学の分野における議論をもとに整理・検討を行うことを目的としている。そのうえで仮説として、常に「自己決定」と対比されるパターナリズムは、本来の意味での自己決定を支えるために、限定つきで不可欠な原理であることを示す。
  ところで現在、日本精神保健福祉士協会(以下、「協会」)の倫理綱領改訂作業が進められている。協会は改訂の背景として「あまりにも理念的に整理され憲法的な側面が強調され」、「具体性に欠けるきらいがある」という以前からの指摘とともに、1997年(H.9)の「精神保健福祉士」の国家資格化とそれに伴う「社会福祉学」を基盤としない多種多様な専門職の有資格者の増加、また、保健・医療機関に加えて社会復帰施設等での活動に従事する有資格者の増加とそれに伴う業務範囲の拡大ということを挙げている1)。
  ここで、クライエントの自己決定に関わる部分に限定して、現在までの改訂の経緯を簡単に振り返りたい。はじめに、2000年(H.12)の第36回東京大会総会で提案された改訂素案(以下、「1次案」)では、特に「本文」中の「1.クライエントへの倫理」の「(2)自己決定の尊重」において示された箇所、すなわち「(前略)その決定がクライエント自身や他者に重大な危険をもたらすと予見できる場合は、自己決定権を制限する場合がある。(後略)」という表現とその意味内容に対して、クライエントの行動制限の是非についての議論がなされた。これをふまえて、2001年(H.13)の第37回福岡大会総会で提案された改訂素案第2版(以下、「2次案」)では、1次案の「本文」の構成を大幅に改訂し、「倫理原則」と、業務遂行上のより具体的な指針となる「倫理基準」とに分けられた。クライエントの自己決定に関わる箇所については、「倫理原則」の「1.クライエントに対する責務」の「(2)自己決定の尊重」で、「精神保健福祉士は、インフォームド・コンセントを行い、クライエントの自己決定を最大限に尊重し、その自己実現に向けて援助する。」と修正された。これは現行の倫理綱領における表現とほぼ同様である。但し、「インフォームド・コンセント」の語が新たに入り、また「倫理基準」において「自己決定」を尊重した業務を行う際の具体的指針が明記された。しかしこの2次案においても、「最大限」という語を用いてクライエントの自己決定に制限を加えたことについての議論が展開された。1、2次両案における議論の結果、2002年(H.14)の第38回高知大会総会で提案された改訂素案第3版(以下、「3次案」)では、「自己決定の尊重」の箇所において、2次案で議論となっていた「最大限」の語が削除され、単に「自己決定を尊重し」と修正された。最終的な改訂倫理綱領案は、会員からの意見を3次案に反映させたうえで、2003年(H.15)の第39回大会総会に提出される予定となっている。
  本稿は、特にクライエントの自己決定にかかわる部分における倫理綱領改訂議論に対する筆者の3つの「違和感」を端緒としている。1点目は、3次案では削除されたものの、倫理綱領のなかに何らかの表現で自己決定の制限を盛り込もうとすることに対する違和感である。2点目は、反対に、クライエントの自己決定は何をおいても絶対的なものであるという意見に対する違和感である。そして3点目は、自己決定とパターナリズムが常に対置されることに対する違和感である。筆者が「反対」や「疑問」ではなく、「違和感」という語を用いた理由は、自己決定の制限を倫理綱領に盛り込もうとする側、及び自己決定原則論派の双方の意見はともに「理に適った」ものであると思うと同時に違和を感じるからである。この筆者の違和感の原因は、おそらく自己決定とその制限に対する双方の認識の差異にあるように思う。
  最近、この自己決定概念について、その問題状況を明らかにしたうえで再検討しているものが発表されている2)。これらは、ただ自己決定を言うだけではどうにもならない状況を認識したうえで、自己決定を本来的で実践的なものに再構築する試みであるといえる。本稿は、パターナリズム概念の検討を通して、制限という側面から自己決定を再考する試みでもある。

  2)研究方法
  本稿は、主に法学の分野におけるパターナリズム関連文献レビューを中心に行った。はじめに、制限の「理由」として挙げられる5つの原理とその1つとしてのパターナリズムについて述べたうえで、パターナリズム論の代表的論者である、米国の法哲学者G.ドゥオーキン(Gerald Dworkin)、英国の法理学者H.L.A.ハート(Herbert Lionel Adolphus Hart)、及びオーストラリアの哲学者J.クライニッヒ(John Kleinig)の見解を紹介した。また、8種類に分類されるパターナリズムの整理を行った。そのうえで、パターナリズムの「正当化要件」について刑事法学者である中村直美の所論の整理・検討を行い、先述した仮説を提示した。

2.干渉・介入の「理由」としての「パターナリズム」
  花岡は、他者に干渉・介入する「理由」として、@「侵害原理」、A「不快原理」、B「モラリズム」、C「公益」、D「パターナリズム」の5つを挙げている3)。
  @は、「個人に危害を及ぼす行為」を防ぐためという理由である。これは、J.S.ミル(John Stuart Mill)が『自由論』において、「人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は、自己防衛(self-protection)」であり、「文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるということにある」4)と説明する原理である。
  Aは、@の侵害原理に該当する「侵害」とまでは言えないにしても、「人々に著しい不快感を与えるような行為に対しては、それを防ぐための干渉は許される」と説明される原理である。侵害原理との相違点は、侵害原理はあくまで「実害」を基準にしているのに対し、不快原理は「人々の感情を害する行為」を基準としている点である。
  Bは、「公共の道徳を保持するため」と説明される原理である。後述のハートは、ミルの『自由論』を理論的根拠として、旧来のパターナリズムをモラリズムと多くの共通点を持つ原理として批判した5)。
  Cは「公益のため」と説明される原理である。
  Dは、「他人を侵害するのではないし、他人に著しい不快を与えるのでもない。公益にも関わらない。不道徳であるという理由でもない。干渉されるその人のためにという理由で干渉する」と説明される原理である。
制限の「理由」とは、換言すれば制限の「正当化の根拠」ということである。他の個人/集団による、被介入者への干渉・介入という問題の主要な論点は、その正当化要件に収斂することができると考える。一般的に、@、A及びCは、干渉・介入の説明原理として正当化が可能であると思われる。またBは、少なくとも憲法において思想、信教、言論等の自由を侵すことのできない権利として保障している日本国においては、説明原理として認めることは困難であると考えられる。それではDのパターナリズムは、果たして「正当化」が可能だろうか。また「正当化」させる必要はあるのか。他の制限の説明原理と比較すると、パターナリズムの「その人のため」という説明は非常に曖昧である。この説明だけでパターナリズムを理解するのであれば、当然、「自己決定の尊重」というソーシャルワークの基本的価値と相反する位置を与えられることになると思う。しかし、一般的に「温情主義」、「家父長的干渉」、「父権主義(的権力行使)」等の訳語6)を与えられ、父と子との関係のアナロジー7)において単一的に理解される傾向のあるパターナリズムは、実は定義も明確には定まっておらず、その内容の幅も広い。むしろパターナリズムをひとつの基準で説明すること自体に無理があるのである。

3.「パターナリズム」の「見解」

  横山によれば、「パターナリズム(paternalism)」という言葉は1881年に登場したが、それより以前から「父権的権威(paternal authority)」という語は存在しており、16世紀に誕生したこの「父権的」という語が、19世紀の終わりに「パターナリズム」という語になったと言う8)。
  先述したように、パターナリズムの概念定義は明確には定まっていない。「パターナリズム」を単一の用語で明確に定めることが困難である主要因は、その「基準」の相違にあると考えられる。次節で紹介するパターナリズムの種類も、「内容」というよりは「基準」による分類であり、論者によってその基準設定に相違がある。筆者は、いずれはパターナリズムの厳密な定義を提示する必要があると考えるが、本稿では各論者による定義を「見解」として紹介するにとどめる。

1)ドゥオーキンの見解
  ミルは父権主義的な意味合いのあるパターナリズムの思想体系を否定することにより『自由論』を生みだした。しかし、この『自由論』によるミルの主張から「逆説的とも思われる解釈」9)によって新たなパターナリズムの概念を導き出したもののひとつが、ドゥオーキンの論文である10)。中村は、この論文について「パターナリズムに関する最近の議論の中では、おそらくは、この問題をはじめて本格的に正面から論じたという意味で先駆的な位置を占める」と位置づけている11)。
  ドゥオーキンはパターナリズムを「もっぱら、その強制を受ける人の福祉(welfare)、善(good)、幸福(happiness)、必要(needs)、利益(interests)また価値(values)に関連する理由によって正当化される、個人の行為の自由への干渉」と定義している12)。中村は、このドゥオーキンのパターナリズム概念は以下の3つの要素から成り立っていると述べる13)。1点目は、介入行為が被介入者の利益のためになされるという点である。2点目は、自由への干渉を含む点である。そして3点目は、自由への干渉が1点目の要素によって正当化されると述べている点である。このようにドゥオーキンのパターナリズム論は、「自由への干渉」=「強制」を含むこと、及びその干渉・介入が「正当化」されることが前提となっている14)。
  先述したように、ドゥオーキンは、ミルが『自由論』において契約の「若干の例外」として挙げているいわゆる「奴隷契約」は無効であると述べた部分15)を引用して次のように述べる。すなわち「このような契約が無効であることの主要な理由は、個人の将来の選択の自由を保護する必要性があるという点である」。そのため、被介入者のより広い範囲の自由を保護するためであれば、限定的ではあるものの、目前の選択に対するパターナリスティックな干渉は正当化されるということをミルは認めているというのである16)。ドゥオーキンや次に挙げるハートは、ミルの『自由論』を自身のパターナリズム論の主要な理論的根拠としている。

2)ハートの見解
  ハートは、自身の著書『法・自由・道徳』17) において、被害者の「同意」を例に挙げ、それが犯罪を免責しない理由としてパターナリズムを提示している。すなわち、英国の大法官デヴリン卿(Lord Patrick Devlin)により、被害者の同意が犯罪を免責しない理由は「社会を結合させる『共通思想の目に見えないきずな』」18) と呼ばれる「道徳」に反しているからであるというモラリズムの立場に対し、ハートは「殺人あるいは傷害という犯罪において被害者の同意を免責としない理由は、個人を彼ら自身から保護するためのパターナリズムの一つとして完全に説明できる」とした19)。ハートはパターナリズムを、あくまで侵害から個人を保護する原理として見ており、ドゥオーキンのように個人の善や幸福の増大のためということは除外している。
  先述したようにハートもミルの『自由論』を自身のパターナリズム論の根拠としているが、ハートは侵害原理における侵害の範囲を限定つきで被介入者自身に対する侵害にまで広げている。このことについてハートは、ミルの侵害原理は「欲望が比較的安定し、外部からの刺激よってあまり惑わされることのない、中年男性(middle−aged man)の心理を標準にしすぎている」とする。そして「適切で自由な選択や同意をさせることの意義を減じさせるような要因が広い範囲で益々増大していることが認識されている」ことから、「個人の選択や同意が、十分な反省や結果の正しい評価なしに行われている」場合には、個人に対し法的干渉が正当化されるとし20)、その限りにおいて侵害原理の修正の必要性を示した。

3)クライニッヒの見解
  クライニッヒは、パターナリズムを行動の形式ではなく「善の確保のために」という理由付けにおいて以下のように捉えた。「Xが、目的の一つとして、Yの善の確保のために、Yに干渉する範囲では、XはYに関してパターナリスティックに行為している」21)。クライニッヒのパターナリズム論の特徴は3つある。1点目は、ドゥオーキンが必然とした「個人の自由への干渉」=「強制」は、必然的な要素ではないとした点である。クライニッヒは、例えば生活保護における現物支給のようなケース(その使い道について「表面的」には何ら「強制」は行われていない)もパターナリスティックな干渉に含めている。2点目は、対象を人間だけではなく、理論的には人間以外の動物にまでも適応できるとした点である。3点目は、先述したようにパターナリズムというのは単純に「善の確保のため」という理由付けにおいて捉えるものであり「正当化」は要件ではないとした点である22)。
  以上三者による見解を紹介したが、この他パターナリズム論については、本稿でも各所で引用している中村によるパターナリズム論に関する一連の論考23)や澤登らによるものがある24)。また、先述のドゥオーキンの論文や、後述する「弱いパターナリズム」と「強いパターナリズム」を指摘したファインバーグ(Joel Feinberg)らの論文を所収した、ザルトリュース(Rolf Sartorius)の編集による文献がある25)。

4.「パターナリズム」の種類
  ここでは中村、パターナリズム研究会、福田の文献26)をもとに以下の8種類に分類した。

1)「純粋型(直接的)パターナリズム」と「非純粋型(間接的)パターナリズム」
  「純粋型パターナリズム」(pure paternalism)は、被介入者と保護(利益)を受ける人とが同一である場合を指すのに対し、「非純粋型パターナリズム」(impure paternalism)は、被介入者と保護(利益)を受ける人とが別人である場合を指す。後者の例としては、煙草の製造・販売の禁止(喫煙者を護るために業者に介入する)、被害者の同意を犯罪の免責事由としない(被害者を護るために加害者に介入する)等が挙げられるが、「侵害原理」と異なる点は、保護(利益)を受ける個人が加害行為に積極的に同意している点である。

2)「積極的パターナリズム」と「消極的パターナリズム」
  「積極的パターナリズム」(positive paternalism)は、被介入者の善や福祉をより増大させることを理由に行う行為であるのに対し、「消極的パターナリズム」(negative paternalism)は、主に福祉や善の減少を阻止するような、自己自身への侵害を防止するための干渉・介入行為を指す。

3)「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」
  「強いパターナリズム」(strong paternalism)は、被介入者の行為が完全に任意的なものであったとしても、その行為に対し干渉・介入を行うものであるのに対し、「弱いパターナリズム」(weak paternalism)は、被介入者の行為が非任意的であるか、そう推定できる場合にその行為に対し干渉・介入を行うものである。

4)「強制的パターナリズム」と「非強制的パターナリズム」
  「強制的パターナリズム」(coercive paternalism)は、個人の自由への干渉・介入という形をとるものを指し、「非強制的パターナリズム」(non‐coercive paternalism)は、個人の自由への干渉・介入を含まないものを指す。

5)「身体的・物質的パターナリズム」と「精神的・道徳的パターナリズム」
  「身体的・物質的パターナリズム」(physical paternalism)は、被介入者が自身に対して惹起しようとしている害が身体的・物質的である場合を指すのに対し、「精神的・道徳的パターナリズム」(moral paternalism)は、その害が精神的・道徳的害である場合を指す。

6)「能動的パターナリズム」と「受動的パターナリズム」
  「能動的パターナリズム」(active paternalism)は、被介入者の福祉や善を保護するために、被介入者に対し特定の事柄を「行うこと」を要求する場合を指し、「受動的パターナリズム」(passive paternalism)は、反対に「止めること」を要求する場合を指す。

7)「リベラル・パターナリズム」と「モラリスティック(あるいはディープ)・パター
ナリズム」
  「リベラル・パターナリズム」は、被介入者の尊厳を確保し実現するために行為することを指し、「モラリスティック・パターナリズム」は、被介入者に対し道徳を強制するために行為することを指す。これは福田によって分類されているが、筆者は、この分類は「パターナリズム」と「モラリズム」の分類とほぼ同じであると理解してよいと考える。

8)「形式的パターナリズム」と「実体的パターナリズム」
  この分類も福田によりなされている。「形式的パターナリズム」は、「個人の尊厳を確保・実現するために欠くことのできない生物学的・社会的必須条件の保障を目的とするものとして、『自由原理』が存立するための不可欠の制約(中略)であり、この場合にはもっとも強度な介入(干渉)さえもが許容される」ものであり、他方「実体的パターナリズム」は、「自己決定の実現結果としての実体を本人自身のために否定する場合」を指す。福田は、「実態的パターナリズム」は「自己決定を可能ならしめる形式的要素を欠く場合ないしはそれを確保するために必要な場合にのみ認められる」ものとし、「実体的パターナリズム」は「形式的パターナリズム」抜きには存在し得ないとする。

5.「パターナリズム」正当化の要件 ―中村の見解―

  パターナリズムの「正当化」については、ドゥオーキンやハートのように正当化できる干渉・介入だけをパターナリズムとしている場合や、クライニッヒのように「被介入者のため」という理由で行われる行為をほぼ全てパターナリズムとしたうえで正当化要件を定めている場合もある。またその基準についても、論者によって様々な見解があるが、本節では最もまとまったものと考えられる中村の所論27) を紹介する。
  中村は、パターナリズムとは何かというよりも、それはいかなる条件のもとで正当化されるのかということに関心を置き、次のように定式化している。すなわち、「ある者(S)が、他者(A)に対して何らかの侵害を惹起する場合でなくても、S自身のためになるという理由から、個人または団体(I)―例えば国家―がSに対して何らかの介入行為を行うことができるか。できるとすればいかなる条件のもとでか」。そのうえで中村はパターナリズムの正当化要件を、@自由最大化モデル、A任意性モデル、B被介入者の将来の同意モデル、C合理的人間の同意モデル、D阻害されていなければ有すべき意思モデル、という5つの型に整理し、それぞれの難点についても述べている。
  @は「被介入者のより広い範囲の自由を護るための介入は正当化される」というモデルである。このモデルの難点は、「自由」概念が不明瞭であり計量不可能なものであるという点である。
  Aは「被介入者の自己に関わる有害行為が、実質的に任意性を欠いている場合、又は任意的か否かを確認するために当面の介入が必要である場合にのみ、介入が正当化される」というモデルである。このモデルの難点は、被介入者の「任意性の欠如」がパターナリズムの「必要条件」であっても「十分条件」ではないのではないかという点である。また、花岡はこのモデルについて「任意といえる基準」とは何か、さらに「任意でない」ということは「条件」であっても「正当化」の理由に結びつくのか、ということが問題になるとしている28)。
  Bは「被介入者が、将来当該介入を承認することになるとされる場合に介入が正当化される」というモデルである。しかしこのモデルは、パターナリズムの「原初的形態」としての親(父)と子との関係においては説明できるが、その他の多くのケースについては説明できないとする。
  Cは「(十分に)合理的である人間ならば当該介入に同意するであろうと言える場合には、介入が正当化される」というモデルである。中村はドゥオーキンの正当化要件の中核はこのモデルにあるとしているが、難点として3つ挙げている。1点目は「合理的(人間)の意思の認定」の困難さである。この場合結局は「相対的意味での合理性」で判断せざるを得ない。2点目は、個人に固有な具体的意思が「抽象的普遍的な合理人の意思」に置き換えられて判断されるおそれがあるという点である。3点目は、仮に普遍的な合理的基準が明らかにされたとしても、当然ながら「不合理・非合理な生き方・選択をする余地」を認める必要があるのではないかという点である。
  Dは「現に阻害されている被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思に当該介入が適う場合には正当化される」というモデルである。中村はこのモデルにも、(ア)「阻害されなければ彼が有したはずの意思」の細かな点を正確に把握することの困難さ、(イ)個人は決して「best judge」ではあり得ないため阻害されていなくてもしばしば「不合理」と思える決定をする場合があること、(ウ)その個人の意思が本当に阻害されているのかどうかの判断が困難である場合があること、という3つの難点を挙げる。しかしこのモデルの難点は「解消可能」だとしている。(ア)については、被介入者本来の意思を正確に把握するのが困難な場合は、「二次的・補充的に合理的意思を基準として当人の意思を推定するのは次善の策としてやむを得まい」とする。ここでの「合理的意思」はCで述べた「抽象的普遍的な合理人の意思」ではなく相対的に合理的であると考えているものとしている。(イ)については、被介入行為の「重大性」にもよるが、「この点こそむしろ自律の自律たる所以」であり、積極的に肯定されるべきだとされる。そして(ウ)については、被介入行為の内容と関わってくると言う。例えば、当人が「死ぬことが確実であるような行為の選択」をしようとしている場合は、何らかの理由で当人の意思が阻害されていると考えるべきであり、その行為のもたらす害を超えるような利益をその選択が含まないのであれば制限するのが妥当であるとしている。
  中村は結論として、Dのモデルを最も妥当な正当化要件として提示しており、パターナリズムに必然的な正当化原理としている。すなわち、前節のパターナリズムの種類に即して言えば、原則的に「消極的」で「弱い」、「受動的」なパターナリズムが「パターナリズム」として設定されるとするのである。

6.考察 −「自己決定」を支える「パターナリズム」という考え方−

  ここまでの整理・検討をふまえて筆者は、上述のDのモデルを正当化要件とし、原則的に「消極的」で「弱い」、「受動的」な中村のパターナリズム論に加えて、さらに原則的に「身体的・物質的」で、かつ「形式的」であることを前提にしたものを暫定的に「パターナリズム」と定義したうえで29)、ソーシャルワークにおいて「パターナリズム」は決して否定されるものではなく、むしろ本来の意味でのクライエントの「自己決定」を支えるために不可欠な原理であるということを仮説として提示したい(以下、パターナリズムという場合はここで定義したものを指す)。「本来の意味で」というのは、自己決定の阻害要因が可能な限り除去されている状態における自己決定という意味である。
協会の倫理綱領改訂議論のなかで、自殺企図のあるクライエントに対する関わりについて若干の討議があった。筆者は、このことについて「それはクライエントが自ら選んだ道であるのだからクライエントの自己決定を尊重すべきである」と考えるワーカーは皆無であると思う。ワーカーは、クライエント本人の「意思」に反してでも、場合によっては強い介入によって、自殺をさせないような関わりを持つと思う30)。このような関わりは、一見するとクライエントの「自己決定」の「制限」に見える。しかし、その行為以上の利益をクライエントにもたらす可能性のない「自殺」という行為をクライエントが望むということは何らかの理由(例えば病気による虚無感、絶望感、将来に対する悲観的感情等)によってクライエント本来の意思が阻害されていると考えるべきであり、相対的な合理的価値基準(自殺はしてはならない)をもとにしてクライエント本来の意思を第三者(ワーカー)が判断し、推測される意思に沿って関わること(自殺を止めさせる)は、「『自己決定できる』可能主体としての地位(中略)を、または自己決定できなかった(中略)ために失われる生活利益を、本人自身の利益のために保護する」31)という「形式的」な要素の強いパターナリズムとして必要不可欠なものと筆者は考えるのである。
  ここまで述べてきて、筆者はパターナリズムとソーシャルワークとの関係について、一つの疑問を抱く。その疑問とは、ソーシャルワークには、筆者が仮に定義したパターナリズムの枠に入らない、正当化が困難な「制限」の要素が多分に含まれているのではないかという疑問であり、また、この制限の要素は、「自殺」や「自傷」といった「生命」に関わる場面よりも、むしろ日常的な関わりの場面において多くあらわれるのではないかという疑問である。例えば、地域での一人暮らしを考えている社会復帰施設の利用者に対するソーシャルワーカーの様々な「支援」の中には、利用者のために「勧める」あるいは「助言する」という要素が多分に含まれているはずである。利用者は当然これらの関わりに影響を受ける。「地域での一人暮らし」を考えている利用者をソーシャルワーカーが支援しているということは、利用者本来の意思は何ら阻害されていないとソーシャルワーカーが認識している結果である。それでは、「勧める」、「助言する」といった関わりをソーシャルワーカーが行うことができる根拠はどこにあるのか。一つには利用者の「同意」が考えられる。しかし「同意」さえもらえれば良いのか。これまで見てきたように、少なくともパターナリズムは、「同意」だけでは正当化の根拠としては不十分である。正当化根拠の「候補」としては、他にも「ニーズ」、「資格」、また、精神保健福祉分野に関して言えば「精神障害者を取り巻く状況」等が考えられるが検討が必要であろう。筆者がここで述べたいことは、ソーシャルワークが「関わり」の要素を含む以上、それは「干渉・介入」の一つであり、そうである以上はその正当化の根拠について検討する必要があるということである。
  少なくともソーシャルワーカーは、どのような状況のクライエントに対し、どのような場面において、どのような方法を用いて関わりを行ったか、ということに常に自省的であることが求められると思う。また、クライエントの自己決定を支えるはずのソーシャルワークは、パターナリズムの種類で言えば、常に「積極的」で、「強い」、「能動的」で、「実体的」な内容を含むものであるということを認識しておかなければならないと考える。

7.結語

  以上、本稿では、他者を制限する理由の一つである「パターナリズム」の概念、種類、正当化要件の整理・検討を通して、パターナリズムは自己決定を支えるために限定つきで不可欠な概念であることを仮説として示した。また、反対にこれまでパターナリズムと対置されてきたソーシャルワークの中に正当化が困難な「関わり」の要素が多分に含まれている可能性があるため、その正当化の根拠について検討する必要があることを示した。
  最後に筆者の今後の課題として、@上述したソーシャルワークの「関わり」の正当化根拠を検討すること、A自己決定に関する具体的事例をふまえたパターナリズムの正当化要件の検討を通して本稿の仮説を検証すること、という以上2点を挙げておきたい。

(注)

1) 倫理綱領委員会からのお願いとお知らせ.日本精神保健福祉士協会 倫理綱領委員会、pp.1‐2、2002.
2) 多くのものがあるが例えば以下のものを参照.立岩真也:私的所有論、勁草書房、1997(特に第4章「他者」、及び第5章「線引き問題という問題」).同:子どもと自己決定・自律‐パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども‐.後藤弘子編、少年非行と子どもたち、明石書店、pp.21‐44、1999.同:弱くある自由へ‐自己決定・介護・生死の技術‐、青土社、2000.現代思想:特集 自己決定権‐私とは何か‐、26(8)、青土社、1998.在原理恵:「自己決定」概念の再検討‐変革期にある社会福祉への一視角‐.日本女子大学 社会福祉、41:167‐178、2000.寺本晃久:自己決定と支援の境界.Sociology Today、10:28‐41、2000.児島亜紀子:自己決定/自己責任‐あるいは、未だ到来しない<近代>を編みなおすこと‐.社会問題研究、50(1):17‐36、2000.
3) 花岡明正:パターナリズムとは何か.澤登俊雄編、現代社会とパターナリズム、ゆみる出版、pp.13‐15、1997.
4) J.S.ミル、塩尻公明・木村健康訳:自由論、岩波書店、p.24、1971(原著は1859年).
5) 横山謙一:パターナリズムの政治理論.澤登俊雄編、前掲書、p.166.
6) 中村直美:パターナリズムの概念.西山富夫他編、刑事法学の諸相‐井上正治博士還暦祝賀‐、有斐閣、p.153、1981.
7) 花岡は、父親や母親の役割・地位の変化に直面する今日ではパターナリズムを父と子との関係を原型としてのみ理解することは妥当ではないし、比喩としても成立困難であると述べている.花岡明正:正当性とパターナリズムについて‐最近のパターナリズム論に触発されて‐.国学院法研論叢、13:150、1985.
8) 横山謙一:前掲書、p.166.
9) 中村直美:法とパターナリズム.法哲学年報、有斐閣、p.43、1982.
10) Gerald Dworkin,"Paternalism", in Rolf Sartorius(ed.), Paternalism, University of Minnesota press, pp.19‐34, 1983(初出は1971年).
11) 中村直美:ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論.熊本法学、32:135、1981.
12) Dworkin, op.cit., p.20.
13) 中村直美:前掲書、ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論、p.140.
14) ドゥオーキンはその後の論文で、「自由への干渉」ということがパターナリズム概念の範囲を限定しすぎているという意見に対して、パターナリズムは強制に限られないということについて述べている.Gerald Dworkin,"Paternalism:Some Second Thoughts", in Sartorius(ed.), op.cit., pp.105‐111.
15) ミル:前掲書、pp.204‐206.
16) Dworkin,"Paternalism", pp.27‐28.
17) H.L.A.Hart, Law Liberty, and Morality, Stanford University Press, 1963.
18) H.L.A.ハート、八木鉄男・沼口智則訳:社会的連帯と道徳の強制.H.L.A.ハート、矢崎光・松浦好治訳者代表、法学・哲学論集、みすず書房、p.284、1990.
19) H.L.A.Hart, Law Liberty, and Morality, p.31.
20) ibid., pp.32‐33.
21) パターナリズム研究会:紹介 J.クライニッヒ著『パターナリズム』(1983年)(一).国学院法学、25(1):119、1983.
22) パターナリズム研究会:前掲書、pp.116‐120.
23) 中村直美:前掲書、及び、同:J.S.ミル『自由論』におけるパターナリズムの位置(一).熊本法学、39:1‐22、1984.
24) 澤登俊雄編、前掲書.
25) Sartorius(ed.), op.cit.
26) 中村直美:前掲書、法とパターナリズム、パターナリズム研究会:前掲書、福田雅章:刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム‐ミルの「自由原理」に内在するパターナリズム‐.一橋論叢、103(1):1‐19、1990.
27) 中村直美:前掲書、法とパターナリズム、pp.50‐55.
28) 花岡明正:パターナリズムの正当化基準.澤登俊雄編、前掲書、p.207‐208.
29) 「純粋型」/「非純粋型」、「強制的」/「非強制的」については、価値基準というより方法論の問題であり、筆者はどちらの場合もあり得ると考える.但しこの場合も、方法の正当性について検討する必要がある。
30) この例のようなクライエント自身による自己への侵害という問題があるから倫理綱領に自己決定の「制限」を盛り込む必要性がある、という意見があった.しかし本稿から、そのことを理由として倫理綱領の中に「制限」条項を盛り込むことは正しくないことが分かると思う.倫理綱領で述べられる「自己決定」は、「本来の意味」での自己決定であり、その決定に対して制限をすることは正当化できない.そのため筆者は、概ね3次案における表現が妥当であると考える.なお、全米ソーシャルワーカー協会の倫理綱領には、「倫理基準」(Ethical standards)において、クライエントの自己決定権制限条項がある.NASW:Code of Ethics, revised by 1999, http://www.socialworkers.org/(全米ソーシャルワーカー協会編、日本ソーシャルワーカー協会国際委員会訳:ソーシャルワーク実務基準および業務指針、相川書房、pp.6‐7、1997.).
31) 福田雅章:前掲書、p.13.


UP:20040109 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2003/0300hy.htm
樋澤吉彦  ◇パターナリズム 

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