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「生と死の教育」のポリティクス──「生と死の語り方」を再考する

大谷 いづみ 20040612
東京大学21世紀COE「死生学の構築」公開シンポジウム「死生観とケアの現場」
第1部円卓会議「死生のケア・教育・文化の課題」(於:東京大学文学部教官談話室)



・大谷 いづみ 20040612 「「生と死の教育」のポリティクス──「生と死の語り方」を再考する」(報告),東京大学21世紀COE「死生学の構築」公開シンポジウム「死生観とケアの現場」 第1部円卓会議「死生のケア・教育・文化の課題」(於:東京大学文学部教官談話室)2004/6/12 9:30-17:45
 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/

★本稿は当日配布された資料集に掲載されたものに見出しを加えたものである。また,表「生と死の教育」と図「生と死の自己決定の構造」は省略されている。

■はじめに

  ミレニアム・プロジェクトを機に、中等学校における生命倫理教育がにわかに注目されている。総合的な学習や新しい道徳教育の題材として数年来耳目を集めて来た「死の教育」「いのちの教育」もまた、「心の教育」と連動した動きをみせている。このような現象は、「生と死の教育」の制度化と大衆化の本格的なはじまりであろうと考えられるがゆえに、「生と死の問題群」をいかに問題化し語るかは、省みられてよい問いである。

■「生と死の教育」のローカライズ?

  初等中等教育において「生と死」を取り上げる教育の現状は、ひとつは生命倫理学を背景にした生命倫理教育、ひとつは死生学を背景にした「いのちの教育・死の教育」に大別できる(表:生と死の教育)。バイオテクノロジーと先端医療の発達がもたらす生と死の問題群の、倫理的・法的・社会的ディレンマに向き合う生命倫理教育が、「是非を問う」問いの形式を特徴としているのに対して、「いのちの教育・死の教育」では、「いのちと死のリアリティから隔離されてリセット可能なヴァーチャルな生命観しかもたない子どもたち」にそれらを実感させるべく、感性と体験を重視した語りを特徴としている。そして両者は、先端医療技術と高齢社会のつゆ払いと後始末役を果たす意味において、補完関係をなそうとしているのではないか、というのが、長く高校教育の現場にあって「生命倫理学」と「死生学」の立ち上がりに接してきた上での実感である。
  バイオエシックスが、「自律的な個人」を前提としたアメリカ的な価値と信念に基づく、文化的限定性を持つ特異な「学」であるというレネー・フォックス(Fox 1984)の指摘は、今やよく知られたものとなりつつある。これに対して、宗教や習俗が果たしてきた往生術のいわばアカデミック・バージョンである死生学が文化的背景を重視するのは自明のことである。したがって、デス・エデュケーションに対しては、仏教や神道を背景にした陣営だけでなく、無宗教者からも、日本的な「死の教育」「いのちの教育」への転換が望まれてきた。バイオエシックスがアメリカ的な価値と信念を顕現した特異な学問体系であるとすれば、生命倫理学と生命倫理教育もまた、日本的なそれへの転換が必要なことはいうまでもない。
  では、「日本的・アジア的 生と死の教育」とは何ものなのか。死生学やデス・エデュケーションの背景を為すキリスト教を仏教・神道に編み替えることがローカライズなのか。バイオエシックスの基本原理たる「自己決定の原理」をアメリカ的であるとして捨象し、日本的共同体を強調して生命倫理教育・いのちの教育とすることなのだろうか。だが、自らの歴史や伝統・社会に対する反省的・批判的な作業を潜らせず、「世間体」や「気兼ね」といった変数の持つ力を考慮しなければ、それは単なる「姥捨て」伝説や「間引き」を正当化する言説の現代バージョンである。

■「是非を問う」問いは価値中立か?

  ところで、生と死の諸課題を授業化する教師の多くは、たとえば生殖技術や安楽死・尊厳死、出生前診断と選択的中絶の是非をディベイトで問いつつ、「正解はない」とその結論を生徒に委ねて終わる。このような授業設計は、真に価値中立な問いを形成しているだろうか。
  高校の授業は、親学問に依拠するのが通例であるから、制度化される高校生命倫理教育が、制度化された生命倫理学に依拠するのは当然といえばその通りである。しかも、親学問の最先端が導入されるのではなく、時間の批判に耐えたスタンダードの導入が期待されるから、そもそもが一周遅れで輸入された生命倫理学の議論の枠組みがさらに一周遅れて、しかし直近のトピックに適用されて高校現場に導入されることになる。たとえば米国オレゴン州で医師幇助自殺を選んだ人々の多くが高学歴の白人層であるという実態には触れられないまま、自己決定の原理に基づく「安楽死・尊厳死」の是非がディベイトされ、安楽死の公的容認が早くから制度化されたオランダで、それゆえに苦痛緩和治療が遅れているという指摘などには触れられないまま、自己決定の原理に基づく「安楽死・尊厳死」の是非がディベイトされているのである。
  仮に「生と死の自己決定」が現在の先端医療の現場が持つ主たる要点であるにせよ、その「自己決定」をとりまく社会構造が問われ、自己決定の原理が持つ文脈依存性が問われなければ、議論それ自体が、生と死を論理で持てあそぶ知的遊戯にしかならない。だが、生と死をあたかも自らの意思ひとつで設計し、決定し、選択できるかのような、現実にはありえない生命観と、その結果を自らの私的な責任において引き受ける責務を負わせるような価値観の形成は、社会と個人にどのような装置として作動するのだろうか。

■「生と死の自己決定」という言説をめぐる構造

  生と死の問題群に関する言説のメタ・メッセージをJ. バトラー(J. Butler 1990)から借用するならば、以下のように表現することができよう。

生と死の問題群にまつわる議論は、たいていの場合、トラブルの感覚に行き着いてしまう。トラブルを起こした人(たとえば、不妊女性、重度先天障害胎児、遷延性植物状態患者、痴呆老人など)がトラブルの状態に陥ってしまうから、生と死の問題群の議論は、トラブルの原因を解消する方向で議論が進もうとしている。すなわち、生殖医療技術を駆使した不妊「治療」、安楽死・尊厳死という「死ぬ権利」の正当化と、その背後に見え隠れする「死ぬ義務」、出生前診断と先天障害胎児の選択的中絶、そして「新しい優生学」という言説の登場である。

  すなわち、「生と死の問題群の是非を問う」こと、それ自体が、生と死の問題群の、まさに問題となっているその人の存在を抹消する形、すなわち「質による生命の序列化と『死への廃棄』(Foucault 1976)」で問題を解決しようとするのである。こういった問いの立て方は、「是非を問う」形式を装いつつ、それ自体が、喧伝される「正しい死に方」、「正しい誕生の仕方」「正しいlife(=生活、人生、生命)のコントロールの仕方」に、問う者も問われる者も自らの意思で添い、序列化に組み入れ、自らを死への廃棄に導いてしまう。体験と感性に傾く「いのちの教育・死の教育」の「語り」の場合、その構造はもう少し複雑であり、また単純でもあって、そこでは、ある特定の生と死の在り方のみを肯定し、それに外れる存在を美しい、良き死へと誘導するような「語り」が立ち現れる。それは「自殺予防」を「死の教育」の目的のひとつとして謳い、「生命の尊さ」を謳いながら、究極は自殺の権利につながる「尊厳死」思想の裏面、「生きるに価しない生命」「生まれるに価しない生命」を想定させるQOL概念の二面性から目を背けることに、端的に現れている(図 生と死の自己決定の構造)。

■では何を問うのか?

  教育の場で問うべき問いは、「是非を問う」ことではない。これまで試行錯誤してきたその中核は、生と死の問題群をめぐる言説のメタ・メッセージを、生徒たち自身のlife(=生活、生命、人生)と重ね合わせ、他者との関係性とともに問うこと、すなわち、生と死の問題群から「自分」を棚上げせず、「いま」「ここ」にある自らの実存を問うことであった。
  それは、ひとつには、「是非を問う」問いの、含意と文脈を問うことであり、その問いを取り巻く「支配的な物語」の構造を検証することである。それはすなわち、自己決定による「質による生命の序列化と死への廃棄」を認識することであり、自己決定(とその背後にある市場原理)の権力作用を自覚することである。
  いまひとつは、「わたしとは何者か」を問うことである。「胎児を殺して生き延びようとする不気味なわたし」と向き合うことは「内なる優生思想」と向き合うことである。そこには、「無力なもの」への自らのまなざし、できないこと/できなくなることへの怖れと同時に、「カッコわるい」自分、「醜い自分」を許せない、思春期に揺らぐ若者たちにとりわけ強い、しかし大人にも共有された狭量な痛みと哀しみを見いだせよう。が、同時に、「殺される胎児」に「わたし」を見出すことができれば、そこに、「無力なこと」「弱くあること」「未決定なこと」「揺らぐこと」への応答/責任の関係、すなわち被傷性(ヴァルネラビリティ)、に呼応する自他の対話的関係、応答/責任の関係への端緒を拓くことができるのではないだろうか。

■「生と死の教育」を組み替える

  「生と死」という、だれにとっても切実な問題の、専門家集団と市井の人々の乖離を紡ぐのは、教育とジャーナリズムだと、これまで考えて来た。しかし、それに携わる者が真の意味で一般市民や子どもたち・若者たちの素朴な疑問や不安、あるいは当事者の置かれている状況に寄り添うことがなければ(といって、「当事者性に居直った語り」を必ずしも良しとはしないのだが)、教育の場とジャーナリズム(あるいは広くメディア)は、生命倫理学や死生学の専門家集団による「語り」が市井の人々に再生産される場として機能するにすぎない。
  そうではないように、「生と死の教育」は組み替えられていかなければならない。将来、医療従事者になるわけでもなく、倫理学者や宗教学者になるわけでもない、一市民の最前衛予備軍である高校生や大学生が学ぶべき「生と死」は、専門職倫理としての「医の倫理」や、生命倫理学者の生業である生命倫理学であろうはずがない。しかし、将来の医療従事者をはじめとする専門家集団(そこにはアカデミシャンも宗教者も含まれるであろう)にもまた、市井の人々の素朴な問いは共有されねばならないのではないか。それは具体的には、合理性・効率性に陥りがちな医療経済の問題点を、経済と福祉の領域を視野に入れながらいかに超克するか、自己決定に潜む自他の権力作用を、自らの生き方を考えるなかでどのように顕在化するか、生徒・教師双方の内なる優生思想とどう対峙するか、健康至上主義に傾く社会で、病・老い・障害の「価値」をいかに再構築するか、多様な存在を許容しうる公共性を、子どもたち・若者たちにいかように育んでいけるか──というような、「語り方、問い方」への模索となって立ち現れるはずである。そして、教育が専門家集団と市井の人々との乖離を真に紡ぎうるのであれば、それこそが、制度化されようとしている生命倫理学や死生学を再構築していくことの一助になるはずである。


【附記】本稿は下記の拙稿に基づいている。詳細は同稿を参照されたい。

大谷 いづみ 2002 「アメリカ合衆国における『安楽死・尊厳死』の現在と『死を学ぶ教育』の課題」『公民教育研究』10:1-17。
―――――  2003 「『いのちの教育』に隠されてしまうこと──『尊厳死』言説をめぐって」 『現代思想』(特集:争点としての生命)31(13):180-197。
―――――  2004 「生と死の教育」『現代思想(特集:教育の危機)』32(4):142-157。
―――――  2004予 「『生と死の教育』のポリティクス──グローバリゼーション・ポストコロニアル・ジェンダー」二谷貞夫・梅野正信ほか編 2004予 『上越発 東アジアの共生を求めて──新たな学び合いの可能性(仮・二谷貞夫退官記念論集)』明石書店 330-338。
―――――  2004予 「生と死の語り方──『生と死の教育』を組み替えるために」川本隆史編 2004予 『ケアの社会倫理学──生命倫理学の組み替えのために(仮)』有斐閣。
 cf.川本隆史 http://www.arsvi.com/0w/kwmttks.htm


UP:20040615 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2004/0612oi.htm REV:0622(誤字訂正)
大谷 いづみ 

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