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>HOME >院生 松田道雄小論 ―戦後革新政治におけるその位置― 山本崇記 研究ノート(2004/10/27 2004/12/24修正) はじめに 1 戦後民主主義 1−1 転向 1−2 平和問題談話会 2 松田育児学 2−1 「関西保育問題研究会」 2−2 「ベ平連」 2−3 集団保育の思想 2−4 女性解放 3 保守政治からの転換を求めて 3−1 「新しい日本を考える会」 3−2 江田三郎の特殊位置 3−3 革命論の変遷 3−4 公明党への「期待」 4 「死」をめぐって 4−1 「安楽死法制化を阻止する会」 4−2 市民としての医者 4−3 老いと死と 5 松田道雄の思想と行動―その現代的意義 5−1 弱いもののための抵抗論 5−2 松田道雄論 5−3 現代におけるその意義 おわりに 脚注 参考文献一覧 はじめに 松田道雄。「小児科医」「評論家」「ロシア革命研究者」「市民運動家」…。その幅広い活動領域を考えると、単一の規定で松田道雄という人を説明し尽くすことは 出来ない。死後6年以上が経ち、松田道雄研究は、少しずつではあるが、為され初めている。◆01 松田道雄と言えば、私にとっては『ロシアの革命』が真っ先に思い 浮かぶ。1934年に暗殺されたキーロフに関する一節◆02 が今でも頭を離れずに残っているが、その本を読んだのは大学1年の時(1999年)であった。 その松田道雄の足跡に再会したのは、修士論文の関係で読んでいた、元・京都市職員梶宏の『ドキュメント京都市政』(白川書院、2002)の中でであった。そこでは、 高山義三市政(1951年〜1966年)のブレーンであり左翼学生上がりであった京都大学独文科卒の中川忠次(民生局長、企画主幹などを歴任)に関する松田道雄の回想が引用 されている。◆03 また、後に社会党京都府本委員長(73年)、そして蜷川7選阻止を目指した府知事候補(74年)となる大橋和孝が参院選挙において2選を果たした際に、 桑原武夫や奈良本辰也とともに知識人・文化人として大きく貢献した人物として松田道雄の名前が上がっている。◆04 その時は、京都市政へのコミットという松田道雄の 新たな側面(もちろん、私にとって)を見た、という印象で終わったが、それから数ヵ月後、川本隆史氏(東京大学大学院教授)の立命館大学大学院での集中講義で、再び 松田道雄に出会い、彼の「老い」「生死」に関する思想に触れ、また新たな側面を見たような気がしていた。◆05 その時以来、松田道雄について何か書きたいという衝動が生まれ、その落ち着くところとして、修士論文の関係で問題意識を持っていた「京都の革新政治における知識 人の位置」という視点から、松田道雄に迫ってみたいという構想へと具体化した。◆06 この小論は、上記のような経緯の中で書いたものである。もちろん、松田道雄の 全体像を描くには力量不足であるので、松田道雄が主体的に関わった社会運動を追いながら、その関わり方と思想を描き、戦後革新政治に投げかけた、そして、現代に おいても放ち続けるその独自の意義を抽出できればと思う。◆07 1.戦後民主主義 1−1 転向 この社会科学という名の信仰と、医者であるという私の特殊な条件が、戦争中、私を転向しない転向者として凍結した。◆08 戦前の自分を松田はそう規定する。京都大学医学部を卒業し、西ノ京健康相談所、京都府衛生課、和歌山県衛生課、そして、「内地」で軍医として勤務するという、 マルクス主義に「入信」する一方共産党に最後まで入党できず、「敵」であるはずの国家権力の機構の中でこそ生き残れた自らの「負い目」がこう言わせたのだろう。 松田にとって「転向」とは、「思想とか信念とかいう精神の次元のできごとには思え」ず、入党すれば、過酷な拷問や刑罰を受けることが必至である。しかし、それに 耐えるだけの神経系にはめぐまれていない。党に迷惑をかけることを恐れたのである。 「負い目」を背負った松田は、「バスにのりおくれるな」式で、戦後合法となった共産党に安易に入党することを拒んだ。それはあまりにも都合が良過ぎるからである。 しかし、「転向しない転向者」は、その「凍結」が「敗戦」によって「解凍」されることで、再び活発に運動にコミットする。1947年に松田は、「民主主義科学者協会 阪神支部」に参加し、「日本の医学の低さについて」と題した講演を行っている。この講演は、あまり評判が良くなかったようで、「自分の状況を自分で自由に、操作 した」いと強く思っていた戦後の松田には、同協会は居心地が良くなかった。松田は、すぐにそこから離れていく。 昭和の二十年代のはじめのころ、私は京都にできた「民科」の歴史だの、経済だの、医学だのの研究会に顔を出した。禁圧されていたことばを自由にはなすことが できる解放感にひたっていたといえる。 しかし、二十年代の後半にそれらの会合は急に魅力を失っていった。「暗い谷間」の蓄積をまたたくまにつかい果たした古い世代の理論が色あせたということも あった。だが、コミンフォルムの批判がまきおこした政党の混乱が研究団体にも波及してきたのが最大の原因 だった。いかに、何をまなぶかということよりも、何もの によりかかるかということが主題になる討論に、私はあきてしまったのだった 。私は、そういう会合から遠のいてしまった。◆09 この頃、松田は、「日本患者同盟」にも参加し、機関誌「健康会議」に連載執筆することになり、その成果を『結核をなくすために』として出版している(1959年)。 この「日本患者同盟」に関り、患者の息苦しい生活を目の当たりする中で、松田は「弱い者の原理」=患者に自己決定権が存在するのではないかと、気づき始めたよう だ。 1−2平和問題談話会 松田は、1949年、「平和問題談話会京都支部」(以下、「談話会」と略称)に参加している。「日本に平和と自由をもたらすものになら、なんにでもとびつきたい 気持ちであった」という松田は、「談話会」への参加の理由を「日本にこれから平和と自由とをもたらすのには、かんがえることを仕事にしている人間が一致してこう 思っているということを、一般の人に知らせるのがいいと思ったからでもある。それには町のなかの人間も賛成しているのが私のくわわることで、もっとよくわかる だろうという気持ちもあった」◆10 と説明している。 「戦後民主主義は虚妄か」(『世界』)での「38年目の自己批判」として、松田が挙げるのは「心の問題」であった。それは、社会生活における民主主義の問題でも あった。松田にとって、戦後民主主義は育っていないと映っていた。それは、戦後直後、天皇を裁けなかったこと、それを通じて、「ムラ意識」を払拭できなかったことも 多きい。これは戦後民主主義の「挫折」と位置付けられる。「談話会」京都支部での議論は、一人一人が戦後民主主義を獲得していくために避けることはできなかった 「近代的自我の確立」(松田はそれを「モラルの回復」とも言う)、つまり一人一人の内面の問題=「心の問題」を扱うことが出来なかった。松田はそれを反省している のである。 そして、この時期を大きく規定していた、もう一つの総括点は、「ソ連善玉説」だったと言える。終戦直後では、「平和を愛する諸国民の 公正と信義に信頼し」という 憲法前文を支持することは当然の成り行きだった。そこから、日本を基地化しようとする米軍に対する反発に反比例するようにソ連は善玉化していく。 ただ、ソ連の共産党の「出店」である日本の党(日本共産党)に対しては、いわゆる「50年問題」以降、距離を置くようになる。 理論としてのマルクス主義の正当性をうたがうことはなかったけれども、その実践で日本共産党にたいする信頼は、すこしずつゆらい でいった。そのきっかけに なったのは、25年(1950年)1月にでたコミンフォルムの日本共産党批判であった。(括弧は引用者)◆11 それをめぐって、「国際派」と「所感派」の間に為される罵詈雑言の応酬は、戦前の「知性と倫理の権化」であった「神であった人たち」を「風化」させるのに十分で あった。 そして、松田にとってもう一つ共産党から離れるきっかけを与えたの、ソ連共産党について自分で見聞きできるようになったことである。これは、1951年から始まる。 共産党の「武装闘争路線」やソ連共産党第20回大会でのフルシチョフ報告(いわゆる「スターリン批判」)でその「不信」は増していった。1956年7月に立命館大学での 「第7回夏期日本史公開講座」での報告「戦争とインテリゲンチア」で、戦前の日本共産党を初めて公的に批判する。そこでの批判点は、1920年代末の戦争反対の運動が なぜ「成功」しなかったのか、或いは、実際より少しでも長続きしなかったのはなぜかという問いをめぐるものである。松田はその理由として、「プロレタリアのヘゲ モニーの思想に執着して、日本共産党が、人民の自主的な運動の指導を独占しようとしたことが一つ。いま一つは、日本のインテリゲンチアが、プロレタリアにたいして 不必要な劣等感を抱いて、自主的な反戦運動を、適当な時期に組織しえなかったこと。」◆12 を挙げる。 特に、焦点となるのは「天皇制廃止」のスローガンである。松田にとって共産党の「大衆化」を阻んだ最大の理由は、このスローガンにあった。新藤も、基本的に松田の この意見に賛成している。しかし、そのためには、「基本的人権が保障された市民社会の形成」が不可欠とする。それを阻んだ「明治的支配」、そしてその支配の中核に あった天皇制を打倒することを掲げずに、革命政党たり得るのかという困難な問題は残るともする。松田にとっても、共産党が天皇制廃止を主張しなくなれば良いという ことを言いたいのではなく、共産党が果たした「道義的責任」と果たせなかった「政治的責任」は同時に満足させ得ないものであることを示すことが重要なのであり、 力点は、むしろ、後者、「インテリゲンチアの役割」であったように思う。ここにも、松田が「談話会」に参加した理由を垣間見ることができる。 この後、同年10月に、ハンガリー動乱が起こり、翌年にソ連訪問を果たすことで、先述の「ソ連善玉説」から松田は決定的に離れていくことになる。◆13 さらに、1960 年には、桑原武夫に誘われ、京都大学人文科学研究所の共同研究に参加し、そこで「自由なものの考え方」を学び、「マルクス臭がだんだん消え」ていくのである。 2.松田育児学◆14 2−1 「関西保育問題研究会」 1960年、松田は「関西保育問題研究会」(以下、「研究会」と略称)に会長という立場で携わっている。そこは、現役の保育者や研究者などが集まり、あるべき「保育 理論と実践」を探求する場であった。ここで、松田は後に『育児の百科』で展開する集団保育の可能性を保育の現場の中から得ることになる 。◆15 「研究会」が3年目 (厳密には2年8ヶ月)を迎えた1963年にはその途中成果とも言うべき『新しい保育百科』が出ている。そこでの欠けていたものとして、研究のレベルでは、子どもにとって いい集団とはどのようなものかという問い、そして、実践のレベルでは、保育者の労働条件を改善していくということ(具体的には「組合作り」)を松田は挙げている。◆16 前者に関しては、『育児の百科』に引き継がれるが、過酷な労働条件で働く保育者の「組合作り」は「失敗」に終わっている。 共働きの女性を支援すること、そして、そこで働く保育者・保育園を、子どもの「一次預かり」ではない、子どもの発育にとって不可欠のものであることを実証する ことで社会的意義を論証し支援することが、松田の核心にあったものと言える。松田は、同年8月に行われた「第二回全国保育問題研究集会」での講演で「文化運動として の保育」を提起した。そこでは、国がにわかに強調し始めた「家庭の教育」に対抗する「文化運動」として、家庭と集団との相互補完の教育の重要性を強調し、どのような 保育であるべきかという「目標」を対置していこうと呼びかけるものであった。そのためには、運動を「政治」に還元せず、一人一人の創意を発揮できる「文化」としての 運動が必要だということである。 しかし、この提起から4年経った1967年に松田は「研究会」をやめている。曰く、「会が政党員に利用されて、研究よりも儀式に力をいれる風がみえたから」というのが その理由だった。◆17 しかし、7年間の「研究会」の活動に松田は熱心に参加し続けた。この「提起」(「文化運動としての保育」)を、松田とともに保育研究運動に 携わった乾孝は、「政治運動のせまさに陥らず文化運動としての発展を主張、こどもの「湧き口」を覆わない保育を提唱している」とし、松田が結局「研究会」をやめて いった理由を次のように説明している。 ここでは、「自由」は目標であるよりは方法である。そして、この点が、「家庭ではできない教育」(『育児の百科』)を引きうける 幼稚園、保育園への問題に つながっていく。はじめ(1963年放送の「母親のための人生論」)「教育のきびしさを子どもにおしえる」、「他人」による「一つの集団としての教育」を必要とした 氏が、やがて、「集団はたのしくなければいけない」(『育児の百科』1967) となり自由な園外保育(『自由を子どもに』)の提唱に行きつくのは、ひとつは保育運動 の行き方が氏の風土にあわなかっためでもあろうが、とくにその風土に自由が「方法」として位置づけられていたからではあるまいか。◆18 「研究会」の会員は多くは若い保母であったが、公立と私立の園での労働条件も大きな差異があった。公立の園で働くものは、市の職員組合に入っており労働条件は 改善したが、その分、民間の保母の労働条件は、母親たちが「長時間保育」を求めるなどあって、厳しくなっていった。◆19 「組合作り」の「失敗」の話しは既に述べた 通りだが、松田は、この労働者間の「分極」を直視せず、「底辺」の人たちを組織しようとしない、既存の革新政党、特に、「マルクス・レーニン主義」を信奉する若い 保母にも疑問を抱くようになっていく。特に、これら若い保母たちの背景にあった日本共産党に対しても「当然のことながら」批判の矛先が向かうのである。 日本共産党にたいする戦前の信頼は失ったが、個々の党員が末端でよくはたらくことには敬意を表していた。あきらかに党員であると 思われる人が、研究会にやって きて、カンパをあつめたり、ビラをくばったりすることを、会長として、すこしも妨害しなかった。しか し、私立の保育園にいる保母さんたちの組合をつくることに熱心 でないのは腑におちなかった。また、実際には、憲法でみとめられてい る組合さえつくれないようなところで、共産党は、その名をきくだけでこわがられた。底辺の人 たちをつつみこんでいる人間関係が古く さいものであるだけ、党員には手がでないというのが、実情だった。いわゆる革新政党が一本になっていたら、これほどの「アカ」 排除 はできないのにと思うことがおおくなった。◆20 共産党のみならず、社会党も「同罪」だが、華々しい全国集会◆21 ばかりに力を入れ、それらが「儀式化」してしまった「弊害」が、戦後20年以上たって、保育 労働者の現場にも及んできているというのが松田の診断だった。その経験の中から、ソ連共産党に対する疑問、そして、ソ連を信奉し続ける既成左翼への疑問が、この 研究会の活動を通じて深まっていく。そして、マルクス主義とレーニン主義を「=」で繋いでしまうことに何の疑いも持たないわかい保母を前に、その違いをはっきり させてあげたい、そのような思いから『ロシアの革命』を著すことになる。 ただ、レーニンの革命論への疑問は、「支配層が自衛隊の一兵もうごかさないで、大衆運動をおさえてしまった」◆22 安保闘争に対する印象が発端であったともして いる。そして、当の『ロシアの革命』が「救いのない気持ちを読者にあたえる」のは、「70年闘争」の学生運動の「敗北」が影を落としているからだと、安田講堂の 「陥落」に際しての自らの日記を引用する。 虐げられるものは解放されるだろう 圧制者はたおされるだろう 悪は善にかつことはないだろう いかに栄えても、不正は亡びるだろう たて、虐げられたもの、飢えたもの 19世紀の思想はそういった しかし、いま19世紀の思想は安田講堂の落城とともにほろびた ◆23 1970年2月に「河出書房」から出ている『ロシアの革命』に関する私の印象には既に触れた。しかし、当時、松田の下に寄せられた「救いのない気持ち」◆24 に、30年 近い年月を経てから同書を読んだ私は共感しない。私のような、「ソ連」という言葉が地理の教科書から消え、ましてや、歴史の授業で辛うじて「レーニン」や「ロシア 革命」という言葉に触れるような世代にとっては、そもそもそれらは関心事ではないし、初めから印象の悪いものとして入ってくることの方が圧倒的に多い。 確かに、未だにマルクス主義やらレーニン主義やらを掲げる政治勢力がいないわけではないが、非常に少なくはなっただろう。しかし、私の周りには、様々な事情があり、 マルクスやレーニンを読んでいないか、教条的な「解釈」を身体化させているかのどちらかであるにも関わらず、「○○主義」を奉じる人々が多かったし、今も、多い。 であるので、『ロシアの革命』は、私にとって大変勉強になり、また、心地よい本だったとも言える。 個人的感想はさておき、樺山紘一は、おそらく、1980年代においてはもっともまとまった松田道雄論を展開していると思われる文章の中で、「羽二五郎の『都市の論理』 が、バイオレントな魅力をふりまいてからわずか一年余、こんどは、傷ついた身を松田道雄によっていやされようとは。このような70年の情景は、わたしの、というよりは むしろ、わたしたち世代の共通の心象風景だったとおもう。」◆25 と、『ロシアの革命』が出た時代風景と重ねて、論じている。 話しが少しそれてしまったが、松田にとって「研究会」の経験がこの時期の思想に大きな影響を与えていることは良く分かると思う。繰り返しになると思うが、次の言葉 も引用しておきたい。 私立保育所の保母さんたちと毎月会って、彼女らの生活を知ることによって、私は日本の未組織の最低労働条件の労働者に接した。その実感は本でよむさまざまの 歴史観や新聞でみる革新政党の政策をかんがえるとき、敏感なテスト紙の役をしてくれたように思う。◆26 2−2 「ベ平連」 松田が同じく1970年に出した『革命と市民的自由』の中で、「…(『革命と市民的自由』は)『ロシアの革命』をかく途中にできた副産物であるわけだが、本書を私の スターリン批判としてみれば、『ロシアの革命』のほうが参考書の形になる。併読を期待する。」◆27 (括弧は引用者)と言っている真意は、20世紀の後半が「絶望」の 時代であり、それは、「19世紀以来の人間解放の理論であった社会主義が、実は支配の論理であることが、はっきりしたということ」◆28 であるとし、ベ平連にそれとは 異なる「抵抗の論理」を見る。松田はベ平連に参加した理由を次のように説明する。 管理の完成した社会では、19世紀社会とちがって人間疎外の被害者はかわってくる。疎外者はもはや多数者ではない。疎外の現実と疎外の感覚とを分離するにいたる ほど管理が強力化したのだ。 この疎外に反対するためには、もはや管理を肯定する支配の論理では役にたたない。ここに、被害者の論理、抵抗の論理が登場する。みずからを支配者にまで上昇 させることのない、被害者の立場の固執である。 私がベ平連に参加したのは、まさにその点においてであった。ベトナムの人民のなかに被害者、抵抗者をみたからである。 抵抗の論理の最後のよりどころは、個々の人間のもつ基本的人権である。基本的人権は、私たち日本人にとっては、憲法による契約である。近代化のすすんだ管理社会 では、その管理の必要上、支配者は被支配者と、基本的人権についての契約をむすぶ。むすばざるをえない。こちらのよりどころも、そこにしかない。◆29 この徹底した「絶望」感、松田が良く使う言葉で言えば「ニヒリズム」の立場に立ちながら、反権力・反体制の姿勢を貫き、弱いものの側に立ち、抵抗の論理を紡ごう とする松田の姿勢が垣間見えると言えよう。◆30 2−3 集団保育の思想 ここで松田の集団保育の思想について少し見てみたい。松田に、集団保育の必要性を直接感じる契機を与えたのは、1957年の日本小児学会代表として、ソ連の小児科学 総会に参加した際のことである。その後、関西保育問題研究会での経験から多くを学び、その思想を深めたことは既に述べた通りである。大森隆子は、松田の集団保育の 思想が結集した作品として『育児の百科』を挙げる。松田の育児思想において重要な点は、集団と個との関係をどのように捉えるかだと思われるが、大森は、この『育児 の百科』の中では、松田が「現実に展開されている幼児教育施設の「集団保育」を育児の必須要素として考えているのではなく、あくまで個人の成長に有益な「集団保育」 を追求していくという視点に立っている」◆31 と指摘する。大森は、さらに、ソ連訪問から得られた刺激から集団保育の思想と実践を積み上げながらもそこに松田の オリジナリティが現れているとし、次のように言っている。 そもそも集団保育に着眼した転機はソ連訪問にあると著書の中で述懐しているが、ここに展開されている集団保育論は、明らかにその影響を受けたものと思われる “鍛錬”や“乳児体操”等を除き、氏の世界観に基づくオリジナルなものである。特に、保育園での育児・教育のキーワードとしてリストアップし得る“創造性”“自由” “自立”“楽しさ”などは、氏の育児論の根幹をなす思想として把握できよう。◆32 このような見方に対し、松田の集団保育の思想を、日本文化的なものに引きつけて理解しようとするのが、細辻恵子の研究である。細辻は、アメリカで、『育児の百科』 のようにベストセラーとなった『スポック博士の育児書』を著したベンジャミン・スポックと松田の「育児理論の理念のレベルでの文化差」を比較し論証しようと試み、 その違いを「スポックは「自然支配」・個人中心志向、松田は「自然受容」・集団中心志向となる」とまとめている。◆33 この細辻の見方は少々短絡的であることが否めない。細辻によれば、「松田は、もって生れた「自然」と共存していくことを、すなわち、その「自然」を生かすことが 究極的には自らを生かすことになるということを、子どもに感得させることが育児である」とし、「その「自然受容」的志向は、やはり日本文化の特徴と呼応していると 思われる」とする。そして、さらに、「松田の「自然的受容」志向をふまえれば、日本人が、自己を越えたものから「自己の分け前」を与えられていると感じていること が、異和感なく理解できるだろう。また、分け前をもっていることに関して何らかのお返しをするという観念が、集団の尊重、つまり集団中心的志向へとつながっていく ことにある」としている。 大森の研究で見たように、松田の育児思想にとって集団は非常に重要な位置づけを与えられている。しかし、細辻自身が、松田の育児思想が「集団に全面的によりかかる ものではな」いし、また、日本的育児だけを主張していたのではなく、その思想を「自由教育思想の系列上に位置づけて考察することも可能、かつ必要」であると言って いることからも伺えるように、松田が強く子どもの自立や自由を強調していたこともまた事実である。 問題は、松田が集団を尊重することや、もって生れた自然を受容することを強調することが果たして「日本文化」と言えるのかという点である。むしろ、戦前・戦後と 保守や革新双方に見られた温情主義や権力の思想に従順な共同体意識(或いはムラ意識)と生涯格闘し、単なる近代主義的個人にも向かわない、独特な「市民」の思想が 松田にはあることから考えると、細辻の見方ではそのオリジナリティを摘出することはできない。あまりにも単純な日米文化論だけではなく、松田の思想をその単純化 された日本文化に接合しようとするのはやはり無理があると言える。 それに比して、勝田守一は松田の育児思想を「自由で創造的な個人の協力的連帯としての集団を形成すること、それは、組織と個人との緊張関係を克服するために、 日本の教育にかけられた一つの、そして最大の期待である」◆34 と評し、「民族の実験」であるところの教育(ここでは集団保育)は、「社会主義思想」が担わなくては ならないと付け加える。 しかし、松田の育児思想のオリジナリティは、当然のことながら、「社会主義思想」では汲み尽くせない「幅」を持つ。そのことは、彼のルソー研究を見た時、鮮明に なる。日本の戦前の教育思想の中で、ルソーの『エミール』がしっかりと導入されることはなく、大正「自由教育」の運動の中で影響の痕跡を残しはしたが、その個人 主義は常に体制から危険視され黙殺されてきた。戦後も家庭での教育を重視する占領軍の教育政策の中にルソーの思想が生かされることはなかった。そんな中、「保育園 は必要悪」とし大した整備をしない行政府に対抗して、保育園を設立する運動が市民によって取り組まれる。既に戦前、心理学者城戸幡太郎によって提唱されていたと言う、 「集団の保育は幼児の発育を早め、人間的成長に家庭では与えないものを与える」という理論がその根拠となる。 そこに、働く母親の運動を政治運動に組織しようとするマルクス主義者が、ソ連の教育理論で武装して、参入してくる。そこに松田は「危惧」を覚えていた。 しかし、子どもを集団としてしか考えなかった時代が今ようやくすぎて、集団のなかの個人としての子どもを考えなければならなくなってきた。それは、集団のなかに 完全に同化できない子ども、疎外された子どもの出現によってである。それが単なる過密保育だけの問題と断定できない場合があることだ。 さらに一定の規律をもつ集団と個人との問題、集団から疎外された個人の問題が、市民の基本的人権の問題として、スターリン批判以降(1950年代)おこってきたこと が、おなじ問題を幼児の集団に投影させることになった。 ソ連がその問題をいまだに解決せず、日本の幼児教育の研究者たちの活動的な部分が、マカレンコ批判をやっていないソ連教育学に密着しようとする現在、集団に おける個人の自由は切実な問題として私たちの前に浮びあがってきた。 ◆35 そして、今こそルソーを読む必要を強調する。西欧近代、ソ連社会主義どちらにも安易に乗っからず、人の弱さ(ルソーであれば「あわれみの情」)に立脚しながら 対等な人間関係を構築すべきことを主張する松田のオリジナリティがここにこそ現れている。 大衆社会といわれるコンフォームな世界の中で個性を失わない人間を育てるためには、集団教育を前提としながら、個性の犯しえない境界をつねに守らねばならぬ。 大衆社会のなかにおける市民的自由の確保の課題は、幼児教育のなかにもつらぬかれねばならぬ。◆36 2−4 女性解放 集団保育の実践は、1959年から1978年まで花森安治が編集長を務めた『暮らしの手帖』を通じてひろく紹介されていく。秋山洋子は、自らの育児体験を振り返りながら、 『暮らしの手帖』の中で優れた情報は集団保育をめぐるものだったと言っている。◆37 秋山は、松田の女性解放の思想を「自由選択論」とする。松田が日本社会の女性 差別構造を十二分に意識しながら、「男社会での戦いに疲れた女性に家庭という「解放区」への道を示し」、「主体的に専業主婦を選んだ女性をも応援」している点に、 「経済発展至上主義の社会のなかに歯車として組み込まれることが真の女性解放なのか」という松田の問いかけの意義があるとする。 しかし、経済的主権を握られている妻が、家庭を解放区に企業社会に組み込まれた夫と対等になりうると考えたところに松田の「甘さ」があり、「育児の権威としての 自分の影響力を、軽く見積もったこと」が、その「責任」とも言えるのではないかと指摘する。秋山は、田中美津が「女であることを疑っていない」と『暮らしの手帖』 を批判することに共感を示しつつも、その共働き支援の姿勢が時代遅れだとも無意味だとも言わず、その意義を次のようにまとめる。 70年代の『暮らしの手帖』を支えた80万の読者のうち、一部は地道に働きつづけて男女雇用機会均等の時代を迎え、一部は主婦という位置を守りながら、パートや地域 活動という形で社会に出ていったことだろう。そのなかでも、公害反対や福祉など地域の具体的な問題にかかわる住民運動や、生活クラブ生協に代表される消費者運動 に参加し、「活動専業・主婦」と自称するまでに育っていった女性たちのなかに、花森や松田の遺産がもっともよい形で受けつがれているように思われる。◆38 松田の「家」像の特殊性に関して、その京都という地域性から分析を加えているのは山階朋子である。しかし、「診療室から見る風習も、松田道雄氏の理解には、京都 人のなみの意識を遠く超えたものがある」とし、「家庭はいとも簡単に崩壊する」感覚からすると「ピン」と来ないのも事実だとする。「応仁の乱」以降の共同体意識の 低下や「町人学者・伊藤仁斎」の日常重視の思想などから説き起こす松田の「家」像は多分に京都性に裏付けられていると考えるべきだということなのだろう。そうで ないと、「浮く」というのだ。 山田の松田評価は、自らが家族から早く離れ主婦の経験がないながらも、京都の「家」で生活する母親やその家族に支えられた「自由」を謳歌してきた自分の「感覚」と 松田の「家」像との「ズレ」を逆に利用しながら、その「家」の中で暮らす「母親」たちに語りかけ変化を生み出すこと。その術を、老いたる人びとにとって「漫才師」 であり、その「平易な語り口」で変化を引き起こす術を持つ松田の姿勢から学びとろうとするのである。そして、町が異質な家族をも組み込んできたという意味で、「一歩 家に入ればその人の生活が何によって支えられているかを問わない基準が生きてきた」と、京都の「古さ」を評価し、松田の「家」像を読み替えようとしている。 3.保守政治からの転換を求めて 3−1 「新しい日本を考える会」 松田は1976年7月に東海大学総長・松前重義を座長として発足した政策研究集団「新しい日本を考える会」(以下、「会」と略称)に参加している。◆39 同会の実態は、 社会党江田三郎副委員長、公明党矢野絢也書記長、民社党佐々木良作副委員長を中心とした「社公民」路線を推進するための集まりであったと言えるだろう。共産党との 距離、さらには左派が主導する社会党とますます距離を取り、社公民を中心とした革新統一を通じて、自民党政権を打倒することが松田にとっての政治的指向であると したら、「会」への参加は当然だったのかも知れない。「ロッキード事件」を「チャンス」にして、保守派には絶望していながら革新派の分立情況に期待を持てない 「ミドルクラス」(=「無党派組」)の支持を獲得するために革新派は政策協定を行い、選挙協定にまで進むべきであることを松田は主張するのである。◆40 労働組合は その方向を進めていく上で、旧来の考え方(例えば、「革新=革命」)に固執した「障害物」であり、無党派・市民は「無関心」なままではなく、自ら政治に参画すべき とも言っている。 1976年12月に行われた第34回衆議院議員総選挙での自民党の大敗は、「会」が出した「明日の日本のために−市民社会主義への道−」(1976年10月)の方向に一歩踏み 出したものと松田はそう捉える。「市民社会主義」とは何か。それは例えば次のように説明されている。 既成社会主義がマルクス・レーニン主義という一元的価値観にもとづく産業の全面的国有化と完全計画化の上に立つ官僚独裁の国権的 社会主義であるとすれば、 われわれがめざしているのは、価値の多元性の容認の上に立った自由で分権的な、勤労者の管理への参加によ って特徴づけられる市民的社会主義である。その理念を 総括的に表示すれば、自由と民主主義、分権と自治、制御と誘導、参加と公開、 保障と連帯の五つに要約することができよう。◆41 「市場の廃絶」や「議会制民主主義の否定」は、既存社会主義の二つの「原罪」であり、また、安全保障問題に関しては、安保条約即時破棄ではなく、米ソ接近・米中 和解・ベトナム戦争終結を受けて、段階的に軍事同盟を解消していくような「外交的努力」が目指されている。市民社会主義の主体者は「労働者や農民と区別され、対置 される特定の階級、階層を意味するカテゴリーではなく、あらゆる階層をつらぬいて、共同体への埋没や組織への従属から解放され、自主的な判断、公的、社会的な関心、 市民的な自発性をもち、かつそれを可能とする一定の余暇と教養をそなえた、人間類型」である「自立的市民」とされ、1970年代の市民運動・住民運動の中に「自立的市民」 の可能性が見られている。 3−2 江田三郎の特殊位置 この「市民社会主義」の立場に立つ、社会党・江田三郎は、その具体的戦略としての「革新中道」を掲げて、最後の党内改革を同党第40回大会(1977年2月)で試みる。 しかし、江田の「意見書」(「『革新・中道連合政権』についての意見書」◆42 )は、社会主義協会の影響力が強い当時の社会党では検討の余地さえなく、当然の如く 徹底した「反発」を受け、江田は離党を決意するのである。ここに1960年の構造改革論の提起から始まる、江田の党内改革の試みは終わる。ここで言う「革新中道」とは、 「第一に、先進国型の自由と民主主義に基礎をおき、漸次的改革をめざす社会主義勢力(党と労働組合)が核となり、第二に、革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力、 市民、知識人、中間層等を含む進歩的連合を形成すること」を指している。旧来の「階級分析」から「価値観の多様化」に対応した、各政党対等の連合戦略は、民主集中性 を取る共産党の「独善」性と距離を取るだけではなく、社会主義協会の影響力が色濃いため共産党と大して変わらない体質を持つ社会党からも、結局のところ江田を離党 させる結果となった(1977年3月)。 江田はその後「社会市民連合」を結成し、同年7月の参院選挙に出馬を表明していたが、選挙前に亡くなっている。「離党にあたって」では組織のあり方について次の ように言っている。 当然のことながら、政党もこれに適応した政策をもつとともに国民不在ともいわれる現在の組織や運営について、根幹にふれた改革を迫られているのであります。 未組織労働者でも零細業者でも、誰もが自由に参加でき、意見を述べあい、話しあいのなかで政策を創り出す組織であり、中央本部が大きな権限を持って命令や強制を するのではなく、個人や各種の集団がタテではなくヨコにつながる、いうならば、統制委員会ではなく調整委員会が持たれる連合の組織であるべきだと思います。これ こそ私が社会党にあって果たしえなかった「開かれた党」の実現であります。◆43 このような問題意識を踏まえて、「非党員のボランティア活動」なども重視する江田は連合時代の社会主義=「市民社会主義」を提起したのである。江田三郎という人物 の社会党或いは社会主義運動の中での位置に関する評価はここではしないが、イタリア共産党発の構造改革路線を日本における政治戦略として導入し(この仕方が問題で ある)、1970年代の「価値観の多様化」に対応した連合戦略を試みた人物として、改めて研究の必要がある。 江田三郎と松田道雄との交流は目立ったほどなかたったが、1976年7月号の『市民』で対談を行っている。そこでは、「反自民の大連合」がテーマとなったが、江田は 「市民社会の論理」を踏まえて「革新」の自己刷新、ビジョン形成の必要性を強調し、松田は、とにかくも自民党政府を妥当する反自民連合の早急な結成を求めている。 松田は、京都の構造改革派の学者と江田との会談の誘いを一度断っている。それは市民運動が無党派を貫く必要性を強く感じていたからだ。しかし、「無党派でやれること に限りがあるとわかったとき」に「市民は、無党派のままで、政党と協力できる道がありそうに思え」、「考える会」に参加することになる。江田との「対談」には、その 道をハッキリさせるため応じたものとされている。◆44 3−3 革命論の変遷 話しを松田道雄に戻そう。この「市民社会主義」の政治戦略を松田は「思想」のレベルでどのように自らと接合したのか。1981年『思想の科学』(11月No9)誌上で 河野健二・鶴見俊輔と行った集団討議(「革命とマルクス主義」)を見てみよう。そこでの報告から松田の革命研究のエッセンスは以下のようにまとめることができる だろう。 レーニンの革命論が1917年のロシア革命の成功によってロシア・マルクス主義に「昇格」し、コミンテルンによって世界大に拡がった。しかし、そこで「完成」した、 「マルクス=レーニン主義」として捉えられるその革命論は、実際のマルクス・マルクス主義とは相容れない、バブーフ―ブランキ―トカチョフと続く、「暴動型・陰謀 型」の革命論の系譜に属するものであり、マルクス主義の「正統」な後継であることを強調したのは(だからこそ、ブランキ主義者とマルクスが1850年4月に共同署名した 「万国革命的共産主義者協会規約」を強調するのだとされる)、あくまでその政治的効果のためであり、表面的なものに過ぎなかった、というものである。そのロシア・ マルクス主義を受容し日本に適用し続け、コミンテルン−コミンフォルムあるいはソ連型の革命論を疑うことをしなかった日本の革命勢力・革新勢力がその目的を実現 できなかったのは至極当然のことであると松田は結論付ける。また、レーニンの組織論(「党の意識性」「ボリシェビキ独裁=プロレタリアート独裁」)も、日本の前衛 党を自称する組織に根強く残る影響を与えた。 革命論の詳細な歴史学的検討はここでは割愛する。この松田の革命研究の中から抽出すべきなのは、上記のような革命観は戦後になって始めて得られたものであり、 「日本共産党はコミンテルンにあごで使われたものの、それに参加した青年は、ブランキと心情をともにしたのであ」り、「福本イズムは、その悪名にかかわらずレーニン の党を紹介したことによって、体制の全否定を志す疎外されたインテリゲンチャをつかんだのである」◆45 という指摘が、戦前の青年・松田道雄の姿と重なることである。 革命的独裁の「正当性」が、少数者が暴力によって獲得した権力を、暴力的に守らなくてはならないということの「必然」を表現している。 私たち左翼学生が、この正当性をなんの抵抗もなく、自分のものとして受け入れたのは、私たち自身が心情的に戦争の状態におかれていたからである。ロシアの 無辜の市民が赤色テロルのもとにおかれたように、私たちは特高警察のテロルにさらされていた。いわれもなく逮捕され、むこうの都合のいい「自白」をするまで 「留置」され拷問されるおそれが絶えずあるとき、自分たちは階級闘争にまきこまれているのであり、「階級」と「階級」との戦争はたけなわであると受けとったのも 当然だった。 私たちが私たちの青年の日を悔いないのは、不足した情報のなかで知的にあやまった選択をしたとしても、心情としてあやまたなかったことを信じるからである。◆46 この「告白」は、医者の家庭に生れ、京都帝国大学の医学部を卒業し、自らも医者の道を進みながら、「失うものは鉄鎖のみ」である革命の主体=プロレタリアートには 成りきれない、そして、友人たちのように革命に自己犠牲的に献身することも徹底してはしきれないその特権層の「うしろめたさ」を「解消」してくれた「信仰としての マルクス主義」へのコミットの理由が伺える。そして、この革命論から遠ざかれば遠ざかるほど、その革命論を体現していた共産党、或いは社会党(左派主導)との距離も 遠くなるのも当然と言えるだろう。その1970年代後半の行き着く先が「市民社会主義」であった。 ここには、生涯「市民的自由」を強調し続けた松田の姿勢も影響しているだろう。とくに、「市民社会主義」の掲げる組織論(具体的には党組織や労働組合の内部改革、 或いは「新しい社会運動」への評価)にもそのことが見て取れる。 3−4 公明党への「期待」 1977年12月、江田三郎に党委員長選で勝利した佐々木更三に代わり、横浜市長であった飛鳥田一雄が社会党委員長となる。しかし、路線は変わらず、その後も、全野党 共闘路線を崩さず、1980年衆参同日選挙は自民党の復調をもたらし、「社公合意」も「破綻」を来すことになる。以降、民社党、公明党は自民党との共同戦線を強め、 いわゆる共産党を除く「オール与党体制」(「総与党化」)が進行していくことになる。◆47 この時期の松田は、例えば「どの野党よりものびたことをうれしく思う」と、1983年の統一地方選(4月)・参院選(6月)・衆院選(12月)で躍進した公明党を評価し ◆48 、今こそ「保革逆転」を、公明党が野党連合を推進することで実現することを期待している。◆49 矢野絢也(当時、公明党書記長)との対談では、自民党永久政権に 変わる政権を作り出すためには、「自民党の中のわけのわかった人たちも含む大きな反対党が出てこないと、どうにも仕方がないのでは」と発言している。◆50 その後、現実の政局は、「社公民」路線が1980年の衆参同日選挙で「冷却」し、「社公合意」。◆51 も有名無実となったが、石橋正嗣が社会党の委員長に就任して以降 (1983年〜)、再度、「復活」することになる。1984年に行われた第48回党大会(続開)では、「社公両党の関係修復」が謳われた。◆52しかし、1986年の衆参同日選挙 の「敗北」の責任を取って委員長を辞した石橋に代わり、土井たか子が党首になると、1989年の参院選、1990年の総選挙で社会党は「躍進」を果たすが、この「躍進」は、 公明・民社との距離を拡げ、土井自身の個性も預かり護憲主義に「復古」することで、社会党の孤立を生むことになる。◆53 そして、1993年の細川政権の誕生で、戦後 初めて、自民党は下野するが、翌年、自社さという構成で、自民党と社会党は連立政権を構成する。1996年に社会党は新社会・社民党・民主党に分裂、事実上「解体」 する。1993年に、民社党と公明党は新進党結成に参加しているが、1998年には公明党は復活し、1999年に自自公連立政権を構成し、現在の自公政権に至る。 この1980年代以降の政治過程の変化を見ると、「社公民」路線のリアリティは完全に費えたと言えるだろう。そのことに分析を加える余裕はないが、自民党を政権の座 から引きずり下ろした1993年以降の出来事が、松田が期待を寄せた「市民社会主義」の道からは遠く、もちろん、そこから「社会主義」を外したとしても、決して是認する ことができるものではないことは想像が着く。1990年代以降、松田の現実政治への発言も目立たなくなる。果たして、現代においてはどのような政治過程が描かれるべき なのか。そのことに取り組む前に、もう少し松田の思想を見てみたい。 4.「死」をめぐって 4−1 「安楽死法制化を阻止する会」 1979年6月、松田道雄は発起人として「安楽死法制化を阻止する会」(以下、「阻止する会」と略称)の結成に参加し、京都で行われた第一回総会では、開会挨拶を松田 自身が行っている。◆54 晩年の松田は、「老い」をめぐる、或いは生/死をめぐる諸問題について思想を深め、また行動もしている。特に、日本安楽死協会が進める安楽死 の法制化に対する動きに素早く反対の行動を起こし、従来からの患者と医師との対等な関係の構築や、患者の自己決定権の尊重などの主張を展開しながら、改めて人は死を どう迎えるべきかという問いに取り組んでいる。◆55 「阻止する会」の目的は、「患者の治療法についていろいろの考え方があるとき、その中のひとつだけが正しいとして法できめるのが、危険だと思う」という点から、 「いま」安楽死を法制化することに反対するというものである。そして、「阻止する会」の「原則」として、「強い人間と弱い人間とがいる場合、弱い人間の立場を大事に」 するというものがある。つまり、「弱い人間が、どれだけ自分の生活を自分で自由にできるかという度合が、幸福の度合」であるから、病気の治療の場合は、「医師と患者 とは、治療においておたがいに信頼しあう平等の市民でなければ」ならず、「患者の立場に立って考えれば、いろいろの治療のなかで自分の生活にいちばん都合のいいもの をえらびたいわけ」で、「それが自己決定権」ということになるのである。 しかし、「いま」の医療体制は、「自己決定権がまったくみとめられないままで、ということは、医者のいいなりになって病院で死ななければならない運命に」患者が あり、「医者に患者を死なせる権限をあたえる法律をつくることは、さらに医者を強くし、患者にとっては不利」で、「万事が医者の都合で処理されることになる」と 懸念を表明する。その意味で、「ここでいわれる安楽死は、現在の日本の医療の不備を、そのままにしておいて、医療の不備から生じた患者側のうける不都合を、患者の 死によって打ち切ろうとする」のであるから、「いま」の時点では、「終末期の看護を改めることが先で、法制化によって、医療の改善にブレーキをかけるべきであり ません。」となる。これが「阻止する会」、もっと言えば、「阻止する会」にコミットする松田の思想である。 この松田の議論に、「日本安楽死協会」(1983年に「日本尊厳死協会」と名称変更)の会員でもある高橋正雄が「安楽死法制化運動について−松田道雄氏に答える−」 という形で、応答をしている。◆56 高橋は、自らの主張と松田の主張との共通点と差異を明確にした上で、現代医療の欠点やその改善点、そして安楽死法制化問題に ついて、促進派と反対派が対話・論争をすることを提起している。特徴的なのは、安楽死や延命治療という形で死の自己決定権が侵されることなく、誰もが自分の望む 死に方を選ぶことが出来るようにするという問題意識は双方で共通しており、差異は、高橋には「リビング・ウィル」(「遺言状」)を通じて医師の横暴は防げるし、 基本的に医師と患者は信頼し合っているものという前提があると言っている点である。医療の改善は平行してやれば良いのであって、改善しない段階で法制化は良くない という松田の立場とは異なり、法制化は、「芸術死」が「弱い人間」にも可能であることを保障することになると言うのである。 松田は、これに対して再応答をしており、そこでは、「安楽死法制化運動に反対して身体障害者、医療被害者、重傷障害者施設の従事者、第一線医療従事者が「いま」 たちあがっていることを無視する」ものとし、「自分で自分を始末できない重症者の自己決定権の問題は今世紀が人類に課した複雑な問題であ」り、法制化によって「安易 に解決できるものでない」。そして、「いま」の日本の医療が、高橋や日本安楽死協会が想定するほど、信頼できるものではく、「研究と営利にむしばまれて、患者の人間 の尊重に欠けるものがある」。協会がその「いま」を見ないのは、法制化が自己決定権に関わっていることを見ないからであり、「自己決定権は権力にたいするたたかいの なかで20世紀の市民が獲得した思想である。それは市民的自由の自律性の確認である」ことを理解していないからである。松田の応答はだいたいこのようにまとめられる だろう。◆57 4−2 市民としての医者 反権力としての自己決定権の思想は、松田の医療活動の姿勢にも良く見て取れる。最後まで、町医者として小さな診療所を運営したが、健康保険指定医も麻薬指定医も 取らなかった。松田の死を看取った京都堀川病院。◆58 の副院長であった早川一光は、堀川病院の前身である白峰診療所で無償で小児を診察し、治療する松田の姿をこう 形容する。「松田先生のIch bin Ich――私は私――私は私に従うという自主・自立・自衛・自治は見事であった。西欧の個人主義とも、また、違っていた。多分に、社会 主義に近く、しかも社会主義を乗り越えた向こうに、己の決定権をあくまで主張して止まなかった。」と。その早川は、松田の亡くなり方を、「歌舞伎、『観進帳』の 幕切れの一場をみた」と、表現する。◆59 松田は、患者を医学の実験材料でしかないと考える医大を離れ、保険の点数制度によって「三分治療」を余儀なくさせられる医療制度や知事が任命する保険指定医など を拒否することで 、◆60 「市民」としての医師であろうとした。松田の批判は当然のことながら医師会にも及ぶ。医師会が強いのは、それが明治の役人の指導で作られ、 戦後は体制の圧力団体として存在しているからであり、その組織は「パターナリズム+権力」を体質としている。特に、「インフォームド・コンセント」に「説明と同意」 という訳を与えたことに、本来は患者の主体的行為を可能にさせるための言葉を、患者と医師の両方の行為にすりかえる医師会の変わらぬ体質を見る。松田は、医者が患者 と平等の市民関係に立つことが何よりも先決だと考えていた。その関係の転換は、同時に、医師会や行政などの巨大な権力からの自立の可能性を医師それ自身に与えること になるのだろう。 松田との親交もあった精神医学者である佐藤裕史が松田の死に際して「歯痒さといらだちに耐えて、無限小の抵抗を無限大に積み重ねる――治療者の戒律と、独立自営の 市民の日常とはここで一致します。日々まっとうに暮らすための足場を尊ばないでまともな医療のうまれる筈はない。これこそが先生が身をもって示されたことなのだと 思うことしきりです。」◆61 と書いているのが象徴的だ。 4−3 老いと死と 川本隆史は、松田の老いと死に関する「思索」の意義を三点挙げている。一つは、一切のものは虚しく、確実なのは「かりそめの命」だけという「ニヒリズム」の上に たち、人間はもろい存在なのだから、互いに大事にしあいましょう、という「連帯」(松田にとってそれは「やさしい道徳」でもある)が導き出される点。二つ目は、政府 と医者のパターナリズムを排し、終末を迎えようとしている高齢者には「治療(キュア)」ではなく「世話(ケア)」こそが必要であるとする点。◆62 そして三つ目は、 「患者の自己決定権」を認めること、「安楽死」との関係で言えば、生と同様死のあり方も一人一人の自由な選択=自己決定に委ねられるべきで、医者や社会はそれを当人 を通り越して押し付けることはできないとする点である。川本は、それぞれの点について基本的な賛意を示しつつも、その実証可能性や危うさに関しては、さらなる詰めが 必要だとし、それを自らの課題としている。◆63 松田の「ニヒリズム」については、幾つかの箇所で本人自身がその理由を書いているが、「老いの思想」(『岩波講座 現代社会学 第13巻』)の中では、1957年のソ連 訪問の際の経験に触れて説明している。 1957(昭和32)年によばれてソ連の小児科学会にいって「小児結核」の報告をやった際、レニングラードの哲学研究所の若い研究者と会って、革命後レーニンの 哲学をどんなに発展させたかとたずねた。答えが不満で何度もきき返した。その頬が桜色の30歳ぐらいで童顔 の研究者は、だんだん昂奮してきて、顔をまっかにして、 今にも泣きそうになった。別れて帰る道ロシアはもうだめだと思った。少年の日に「入信」して戦争中は冷凍してきた信仰がだめだとわかった気落ちが、それからの 私の考え方をきめた。育児という実用の仕事をしながらも、その底のほうに、ほんとうは何をしても空しいんだという気持ちを押えきれなかった。◆64 戦後、ソ連から様々なジャンルの学問雑誌を取り寄せ、その水準の低さに落胆し、そして、ソ連訪問時に公式の案内を断り、下層の人々と何気ない会話をすることで、 そこにソ連の「現実」を見た松田は、一方で、この訪問で集団保育の思想を深める貴重な経験もしていることは既に述べた。この「ニヒリズム」を、人間の「連帯」に 繋げるところに松田の独特さがあるのだろう。川本も新藤もその点を強調している。 また、もう一つの独特さとして指摘できるのは、「集団と個」の把握の仕方でも触れたところだが、いわゆる近代主義と言われるものと反近代主義と言われるものを 横断する特徴が老いと死をめぐる思想の中にも現れている点である。 安楽に死ぬことは、いまの世界の医学の水準では技術として可能である。それが日本でさまたげられているのは、医者の患者のあつかいがうまくいっていないから である。それはあらためることができないものとあきらめるべきではない。患者のがわの教育の程度がたかくなり、日本人ぜんたいに人権の意識と平等の観念がいき わたっている時代に、医者のあいだにのこっている古い慣習をあらためさせることは不可能でない。明治の政府がこころみて半分しか近代化できなかった医療を、 こんどは市民の力で完成させるときだ。◆65 ここでは、近代化の完成が市民の主体性に賭けられている。一方で、次の発想は松田の反近代性を現していて大変面白い。それは「無為の思想」とも言える。松田は、 『安楽に死にたい』で、「理性の立場からは、考えることのできる間は何かしないのは、よろしくない。無為は悪だという考えは、働け働けで近代をつくってきた明治 生まれの私たちは、子どものときからたたきこまれている。理性の仕事(自然科学)をしてきたものに、無為は罪悪感を起こし精神の安定を妨げる。」◆66 と言う。 「わが友(二)」で、友人・井本稔(高分子化学者)に宛てた詩がその思想を端的に示している。 朝 ソファにころがって もう一時間ぼんやりしている だるいけど ええ気持ちや 八十七年ようきばったしなあ きやすめもある ちょっとは ええことしたしなあ いま無為を悔いない 生きてるだけ ありがたいしなあ そやないか 稔さん 無為 でけんことないやろけど なんもせえへん なんもせんでも もうかまへんにゃ 年が年やでなあ こんなこというのも ほんまは でけへんにゃしやなあ きっと 。◆67 しかし、「無為の思想」は「そこにいきつくことのできる老人はいたって少ない」◆68 と言われているように確かに現代のおいては稀と言ってよい死に方かもしれ ない。晩年の孤独から精神の安定を得ることのできる条件は、病院での死が自己決定権を踏みにじられるものであり、それとは異なる「家」での死を対置していた松田が 強調していた時には、例えば「自分の家から離れられないというのは、自分の日常から別れたくないからである。部屋、台所、戸棚、押し入れ、ふとん、食器、衣類、庭、 すべてが、自分の美しかった日常の舞台であり、小道具であったのだ。そのひとつひとつが、柱のきず、壁のしみまで孤独の生を安定させるために必要だった。」◆69 と 描かれている。 しかし、このように条件で安楽に死ねる人がどれほどいるのか。晩年を迎える前からできる限り多くの「あそび」を覚えておく必要があるとも言う松田は、かつての 「家」をノスタルジックに強調する立場から、「こまるのは夫に先立たれた妻である」という形で戦後の「家」の崩壊を、最も弱い立場に置かれている女性の視点から 問い直し、「老人の扶養が、家のなかで肉親のあいだで行われていたのだが、療養ホームによって、市民の連帯としておこなわれるというのが、家の崩壊にたいする社会的 な対応策であろう。」◆70 という立場へと移行している。 この変化に、岡本祐三の『高齢者医療と福祉』(岩波新書,1996)での提起により、20年遅れで到達したと自戒を込めて語っている。曰く、「非常に不十分な介護の システムを、いままでのように上からお情けでやるのでなしに、国民を被保険者にすることによって、下から市民の権利として要求していく、その足場をつくろうと いう画期的な提案です。」◆71 と。そして、川本も引き合いに出しているが、松田の「全国老人連盟=全老連」の発想は、下から市民が権利(憲法13条、個人の尊厳) を獲得するものとして、介護の社会化を実現するための行動提起なのだろう。 しかし、現状は厳しい。松田の死後発刊された『われらいかに死すべきか』(平凡社ライブラリー)の解説「町医者の思想」の中で内科医の徳永進は、「日本で安楽死 を法律で許すときは、世界に先がけて患者主導の幇助自殺をみとめたいです。」◆72 という松田の言葉を引きながら、「25年の間、この問題についての主張に変化はない」 とし、自らの臨床現場を思い浮かべながら、「老いの店仕舞いについて、松田さんの意見が浸透しなかったのはなぜなんだろうと自問する。医療者も市民も、人間の表面 しか見てこなかったのではないか、と思う」◆73 とも言っている。 日本人全体に「近代的自我」の意識をつよめる必要性を最後まで訴えた松田ではあったが、同時に、「患者の自己決定権が日常の医療でみとめられ、他人が死をえらぶ ことに寛容であるように法の改正がされ、夜に床に入れるように気楽に苦しまずに(できれば楽しい夢をみて)生を終る薬が開発されたとしても、実際にはすべての市民 が自分にとって自然な、尊厳をたもった、安楽な死をえらぶとは思えない。」◆74 と言い、また、「晩年は矛盾にみちた時代である。死を泰然としてむかえるためには、 現世への未練が少ないほうがいいのに、死に近づくほど、生活では現世の人間との連帯が必要になる。」◆75 とも言っている。ここには、まさに老いと死をめぐる問題に 正面から対峙し発言し行動を起こしながらも、その問題の困難さの中に留まろうとする思想の強靭さが感じ取れる。しかし、医療や社会保障の現実は、問題が複雑なだけ でなく、営利主義や権威主義がさらに強まり、「弱い者」にとってますます厳しい状況となっている。これにどう対抗するか、大きな課題である。 5.松田道雄の思想と行動―その現代的意義 5−1 弱いもののための抵抗論 松田は、自らが「インテリゲンチア」の位置にあり、その立場からの行動の可能性を、「西ノ京健康相談所」から戦後の新しい核家族の住まいである団地の中にまで 入り、まさに「ブ・ナロード」を実践し続けることで、生かしてきた。同時に、その過程で、階級で割り切ることなく、弱い者の立場に立った解放論を模索し続けた。 時に、それは赤ちゃんであり、ミドルクラスであり、終末期を迎えた高齢者であった。戦前の日本革命運動の歴史から、その可能性を掘り起こす作業も、このような問題 意識から為されていると言えよう。 例えば、それは、山川均研究に見て取れる。社会主義運動が「並みの人間の大衆的な運動」でなければならないと、後に日本共産党からも離れていった山川を、松田は 「みずからをよわい人間と意識し、あくまで自分の能力に密着し、大言壮語することを快しとしなかった人間」と評し、山川の思想を「それは革命にたいするデモクラシー の思想である。エリートでなければ革命はできないという思想に反対する考えである。大正のはじめの労働組合運動の勃興が、山川の頭脳に「反映」したといえるかも しれないが、山川においては、自発的な成長のなりゆきであった。」と特徴付けている。◆76 そして、山川が、「その全生涯によって、いまも解決されていないもっとも大きな問題に問いかけている。」とし、続けて「一般的には、十人並みの人間が革命家であり うるかということ。そして特殊的には、倫理的に非のうちどころのない人物が革命家でありうるかということである。」とする。◆77 山川より前に、既に「凡人だって社会主義運動ができる」といったのが田添鉄二であることも紹介している。◆78 橋本峰雄が、「最近(1960年代半ば)の松田さんには、 「政治」否定、「国家」否定のアナーキズムへの志向が心の底ふかく存在するとも見える。」(括弧は引用者)◆79 と松田を評しているが、松田が政党の運動からは弱い 者の立場に立った政治は起ったことがないと断じている点からすると確かにそうも言えるが、一方、「弱い者の立場をまもる政治がほんとうの政治だ、我われ、人間は弱い んだと、弱くていいんだと、そんなに強がらなくていいんだということ、そいうことを認識する時にきているんだと思う」◆80 と、弱い者の自由としての「市民的自由」 を強調した点から考えるならば、松田の独特の「政治観」がより鮮明に見えてくる。 そして、その弱い者、凡人たちが暮らす日常を愛することが、権力に対する最大の抵抗の根拠となり得るとも考えた。伊藤仁斎を強調するのもそこに理由がある。その ように松田の思想を決定的に展開させた60年代には、プラハの春やベトナム戦争があった。「マルクス主義の中に弱者の立場を徹底させるという発想はない」と断ずる松田 が、その時代の経験の中で、階級的なものの見方から「強いものにたいして弱いものが、無党派の市民運動をやって、悪をすこしずつではあるがなくしていこうという思想 にかわって」◆81 いったのである。そして、「人間が善をなすものだという信念がないとつづかない」とする松田は、「性悪説を信じるのにためらうのは、それでは救い がないだけでない。性悪の相手を抹殺してもかまわないとかんがえることで、おのれだけを善とするおごりに堕するからだ」◆82 と言うのである。ここに松田の「人間観」 がある。 5−2 松田道雄論 この小論は「松田道雄論」を目指したものではないが、可能限りその思想の「幅」を追いかけることに腐心した。これまでに、松田道雄論と言えるようなものは数少ない が世に出ているのでそこでの松田道雄という人の総論的な評価を見ながら、もう少し、松田の思想と行動に迫ってみたい。 松田と親交もあった哲学者の橋本峰雄は、「松田さんの一貫した立場、そして一貫して読者を啓蒙しようとする立場は「市民」の立場である。しかしその「市民」は近代 西欧社会で成立した観念とは微妙に異なっていて、大衆社会化した今日の日本の「管理される側」であるミドルクラスとしての「市民」である。それは「弱者」の立場とも 規定される。」◆83 橋本は、松田のナショナリズム(或いは「土着性」と言った方が適切だろうか)再評価の傾向・変遷(50年代末から60年代半ば)を、そのゲルツェン ・北一輝・志賀重昂研究から特徴付け、しかし、そこからも徐々にはみ出していく思想の「幅」の底流に「アナーキズム」を見るのである。 その辺りを、人文研で松田のルソー論を松田本人の前で論評したことのある樺山紘一は、「本来ならば氏(橋本峰雄)がかくべき松田道雄論を、いぜんとしてあらた まらない粗暴な言葉をつかって書いている」(括弧は引用者)と断りつつも、一方で、「この土着性への着目が、松田にとっては同時に、マルクス主義再検討への糸口と なるであろうことは、明白だった。ロシアに土着した社会主義の伝統と、レーニン・スタリーン主義との比較校合のために。あるいは、社会主義と同居した伝統的な アナーキズムの心性を、科学的マルクス主義と対比するために。そしてまた、幸徳秋水、大杉栄らの日本社会主義思想を、戦後の公許マルクス主義と対照させるために。 スターリンのロシアに絶望した松田道雄が1950年代末からはじめた戦略は、こうして、土着のなかに未来の可能性をさぐりあてることである。」◆84 とし、他方で、 「自由なるものの自由な連合としての社会。戦後のある時期から、松田道雄がアナーキズムに関心をよせはじめたのも、そのためだろう。自由な連合としてのアナーキ ズムに、マルクス主義ですら尊敬と感謝をすべきであると、かれは書いた。もちろん、ロシアの革命の過程のなかにも、京洛に土着したおばあちゃんの育児の知恵にも、 保育所にかかわる保母と母親にも、そして、未来のにない手であるべき赤ちゃんたちにも、松田は尊敬すべき自立したアナーキストを捜しもとめ、期待をかけたのであった。 いや、医師と思想家のふたつのわらじをはいた市民・松田道雄にたいしてこそ、みずからもっとも厳格に課した宿題でもあったろう。」◆85 と言っている。 「土着性」を「風土」と言い換えることができるとしたら、乾孝の「松田さんは、一貫して自然、個性、自由、抵抗の思想を、弱い者の立場に立つ知識人として追求して きた、まさに個性的な思想家といえる。しかもそれが、単なる主張の水準にとどまらず、氏のいわゆる「皮膚のうちがわの風土」(「精神風土学」『思想』1949)として 構築されていく。そのなかで自然の摂理と不条理な庶民の生活、伝統と近代、子どもの自由な個性と集団保育との統一を納得しようと模索しながら生きてきた。その経過が そのときそのときに広い影響を及ぼし続けているのである。」◆86 という指摘もまた、松田の一側面を言い当てているのかもしれない。 5−3 現代におけるその意義 上に紹介したものは全て松田が活躍した同時代に書かれたものでるが、最近、まとまった「松田道雄論」を書いた新藤謙は、松田が格闘し続けた「明治的支配」◆87 は 未だ根絶されず、その下で培われた「国民感情」が力を保っているからこそ、松田の思想に学ぶ「意義」が現代においてあるのだとし、次のように言う。 基本的人権の保障がなかった「明治的支配」のために、民衆は息をひそめ、若い学徒たちは受難を強いられた。その体験を通して、松田道雄は戦後民主主義を大事に 育てようとした。…(中略)一方で松田は民主主義の病理を熟知していた。が、ただそれを高見から見お ろし、冷笑しながら診断して、負の遺産としての伝統への回帰 を処方箋とするような保守反動のような立場をとらなかった。民主主義を 日本国に根づかせる努力を続けて倦むことがなかった。◆88 アナーキストであろうとした松田は同時にデモクラットでもあろうとした。相容れないように見えるその立場は、「弱い者の自由を日常から積み上げていく」という実践 を通じて、松田の中に同在していた。新藤が、民主主義者としての松田に丸山眞男との共通点を見るのは間違いではないが、その比較では汲み尽くせない「幅」がやはり ある。「土着性」や「風土」を強調する松田にナショナリストというレッテルは当らない。もちろん、近代主義者と言うこともできないだろう。 欧米の思想に参照点を求めながらも、「市民の立場」はその参照からだけでは出てこないという冷徹さも持ち合わせ、近代化の完成を主張しながらも、無為を強調する ことを忘れない。既存の「政治」を批判しながらも、新たな〈政治〉のあり方を模索し続ける。その「幅」はあまりにひろく、簡単に概括することを許さない。 それでも、あえて松田道雄が「革新政治」と「現代」に投げかけた/投げかける意義・特徴をまとめるとしたら以下のようになるだろうか。まず、革新政治について、 1 革新政治に、それが軽視/黙殺する、「市民=弱い者」の抵抗の論理を対置したこと 2 弱い者、底辺層に寄り添いながら、「ミドルクラス」の可能性を強調したこと 3 同時に、革新連合形成のために積極的に運動にコミットしたこと などが挙げられるだろうか。次に、現代について、 1 徹底した反権力を貫き、権力思想に絡め取られない抵抗のための自由論を提起していること 2 近代主義/反近代主義を横断し、自らの足場(「日常」)から、小状況をより良くしていくための実践の必要性を強調していること 3 徹底した「ニヒリズム」から、「連帯」の可能性を強調していること などが挙げられるだろう。これらは、未だ解決されずにいる「集団と個」や「小状況と大状況の接合」の課題とも言えるかもしれない。 おわりに 今、「革新」を問うことの意味とは何か。松田の人生、そしてその思想を大きく規定してきた日本共産党に、松田が「低頭」になるような「殉教者」的な存在はもう いない。◆89 党員になることが命を捨てることになるような時代は通り過ぎて久しい。ただ、「神」と思えた党の指導部の「腐敗ぶり」は、命を失った多くの末端の 活動家と比較して、松田を共産党から離れさすのに充分すぎるほどの根拠を持っていただろう。そして、私たちもその「腐敗ぶり」を示す歴史的事実を知っている。 むしろ、鬼の首を取ったかのようにそれを喧伝する右翼にはうんざりするほどだ。 末端(「現場」と言ったほうが相応しい)にまじめな活動家が戦後も存在してきたし、今でも存在している。そのような人たちに対して松田は肯定的だ。ただ、松田が 関西保育問題研究会で経験したように、まじめな人間ほど融通の利かない厄介さを持ち合わせている。にもかかわらず、反権力を掲げてきた公明党=創価学会が小泉構造 改革の一翼を担い、社会党が解体してしまった今では、共産党の存在に敬意さえ表したくなるのも事実だ。国政での衰退は著しいが、地方政治への影響力は今後の左派 政治にとってまだまだ大きな「資源」となり得る可能性を持つ。 しかし、その「教条性」が内在的に問われることがなく、現実政治への影響力が衰微するにつれ、指導部の「現実路線」になし崩し的に移行する感のある現状も直視 しなければならない。松田が、革新政治全盛期にその問題性を思想と行動を持って問い続けたことの意義は大きい。しかし、その問いかけもむなしく、ついぞ革新政治は 自己刷新されず、また、革新の枠に収まらない勢力も、「自己解体」の途を辿った。それから既に数十年経っている現在、私たちの課題とは何なのか。 松田の問いかけが非常にリアリティを持って迫ってくる反面、現在の新しいコンテクストの中で、考えねばならぬことも多い。しかし、それは簡単には見えてこない。 安易な「統一戦線論」や「ネットワーク論」が流行っている昨今だが、私は、戦後の革新政治にもう少し沈潜する中から課題を摘出したいと考えている。なぜなら、 やはりまた同じ失敗を繰り返す可能性があるからだ。そこに根拠はない。ただ、有効な対抗政治が見えてこないという事実が頭を擡げている。それだけは確かであるように 思う。 脚注 ◆01 松田道雄論としてある程度体系的なものとして新藤(2002)、そして、松田の育児関連書に焦点を当てその育児思想を詳細に分析しているものとして、大森(2000・ 2001・2002・2003・2004)などが挙げられる。 ◆02 「スターリンには退いてもらわねばならぬというのが、党員のなかにおこってきた気持だった。多数の意向はそれだけでは力にならない。それを人間的信頼によって 結集できる器量のある人物があらわれてはじめて、有効な勢力となる。キーロフはまさに、時代によってえらばれた希望の人であった。」(『ロシアの革命』382頁。) ◆03 『ドキュメント京都市政』41頁。 ◆04 『ドキュメント京都市政』361頁。 ◆05 川本隆史1997「老いと死の倫理−ある小児科医の思索を手がかりに」(河合隼雄・鶴見俊輔編『倫理と道徳』〈現代日本文化論9〉岩波書店)。 ◆06 修士論文の方向性は、京都を主な題材として戦後の革新自治体が為した「功罪」を、現代の「ネオ・リベラリズム」への対抗という課題設定の下に、改めて「総括」 し直すというものを現段階では考えている。 ◆07 戦前は松田の思想形成における重要な時期である少年期や青年期に当るので欠かせないのだが、割愛する。この部分を丁寧に追ったものとして、前出の新藤謙 『「明治的支配」と市民思想』が役に立つ。松田の「市民思想」の原体験として重要なものが、少年期のいわゆる「大正自由教育」にあるとは、新藤他、指摘がある (例えば、樺山1986を参照)。 ◆08 『日本知識人の思想』190頁。 ◆09 『私の幼児教育論』53−54頁。 ◆10 「戦後民主主義は虚妄か」129頁(『世界』1987年11月)。 ◆11 『私の読んだ本』186頁。 ◆12 『日本知識人の思想』158−159頁。 ◆13 『私の戦後史』(松田道雄の本5) ◆14 松田の育児思想について近年最も丁寧な研究をしているものとして、大森隆子のものがある。大森(2000)では、「松田道雄論」として勝田守一の『教育と教育学』 (1970)を挙げているが、新藤謙の『「明治的支配」と市民思想―暗い夜を前に松田道雄を読みかえす』(田畑書店)が2002年に出版され、体系的な松田論を展開している ことは既に述べた通り。特にここで注目したいのは、『赤ん坊の科学』(1949)・『育児日記』(1957)・『はじめての子供』(1960)という初期の作品で為された育児論 が、「育児書の主テーマを小児医学の啓蒙から育児に悩む母親の助言もしくは赤ちゃんの人権を守る役目へと移行させて」(2000,52−53頁)いき、続いて出された『私は 赤ちゃん』(1960)・『私は二歳』(1961)では「子どもの立場を明確に打ち出した育児学の構想が意識された点で、一つの新しい節目をなすものであると考えられる」 (2001,79頁)と指摘されている点である。この後、大森の研究は、「集団保育」(2002)・「伝統的育児法」(2003)・「父親の役割」(2004)と詳細な検討を加え、 「松田育児学」とも言えるその育児思想の特殊性を松田のテクストに沿って丹念に摘出している点で希有である。 ◆15 『私の幼児教育論』284頁(松田道雄の本1)。 ◆16 『私の幼児教育論』223−300頁(松田道雄の本1)。 ◆17 松田は、「文化運動としての保育」を提起した第二回全国教育問題研究集会での大会宣言可決に際し、ある青年がマクロな政治情勢との関係から文言の修正を執拗に 求め、決まり切ったマルクス主義用語で演説をして閉会に苦労したエピソードを紹介している。そこで、「現在の共産党の奇異な姿は、その信仰の仕方にあるのではない。 一方に信仰する卒伍があり、他方に儀式をその生活の一部にくみいれてあやしまない指導者があり、この指導者が卒伍に命令して党の日常生活をいとなんでいるという事実 である。」(『日本知識人の思想』165頁)と言っていることから、「研究会」をやめるのは4年後だが、それまでに同様の経験を幾つも重ねていることをここから窺うこと ができる。 ◆18 「松田道雄」73頁(『思想の科学』)。 ◆19 松田は、この理由を、労働組合が男性中心で、組織労働者も市の職員組合も保育労働者たちを支援しようという気が全くと言っていいほどなかったことにも求めて いる。 ◆20 『私の読んだ本』219頁。「革新政党一本化」への松田の期待については後述。 ◆21 例えば、1968年の全国集会の情景が『革命と市民的自由』(15−20頁)に描かれている。そこでは、底辺の保母さんたちが労働組合を作り条件改善をするのは、 体制変革や中央政治への争点化に還元しなくても出来るのではないかという松田の考えに、特定政党を信じる若い保母さんが反論するというやり取りが描かれ、全学連 にも触れながら、マルクス主義とは異なる「反体制のあたらしい理論の探求が必要なのではないか」と松田は問題提起している。 ◆22 『私の読んだ本』221頁。 ◆23 『私の読んだ本』222頁。 ◆24 乾は、「貪らんなまでにいろいろ吸収する。そして吸収しおわってみると、相手はもはや「あわれな人」ではなくなって、「おしつけ」る者にかわってしまう。 氏の歴史記述はいつも後半が悲しい。この幻滅がもっとも明らかに反映しているのが『ロシアの革命』で」あると、この「救いのない気持ち」(「松田道雄」73−74頁) の理由を、松田のパーソナリティから説明している。 ◆25 「松田道雄」278頁(『言論は日本を動かす――D 【社会を教育する】』)。 ◆26 『私の幼児教育論』285頁(松田道雄の本1)。 ◆27 『革命と市民的自由』217頁。 ◆28 『革命と市民的自由』12頁。 ◆29 『革命と市民的自由』12−13頁。 ◆30 ベ平連運動の中心人物であった小田実は死に寄せて次のように松田を評価している。「社会主義思想、左翼運動全盛の時代に、情況に流されることなく自由な発想を 貫いた人物。ベ平連の時代は、すでに高齢だったこともあり、街頭に出るよりも思想家としての活躍が大きかった。反権力意識が強く、当時その存在は非常に重かった。」 (『京都新聞』1998年6月3日付) ◆31 「松田道雄の育児思想について(V)―育児学に集団保育の視点を導入―」52頁(『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第19号) ◆32 「松田道雄の育児思想について(V)―育児学に集団保育の視点を導入―」60頁。 ◆33 「育児書による比較社会化論の試み−スポックと松田道雄−」『ソシオロジ』第28巻第1号 ◆34 『教育と教育学』280頁。 ◆35 「日本の幼児教育とルソー」434−435頁(『ルソー論集』)。 ◆36 「日本の幼児教育とルソー」441−442頁(『ルソー論集』)。 ◆37 「『暮らしの手帖』を読みなおす 花森安治と松田道雄の女性解放」『リブという〈革命〉7』 ◆38 「『暮らしの手帖』を読みなおす 花森安治と松田道雄の女性解放」235頁。 ◆39 「労働組合員の市民化」『労働調査時報』(1977年1月,通巻666号) ◆40 「このチャンス」『世界』(1976年10月,第371号) ◆41 「明日の日本のために―市民社会主義への道―」(『新しい政治をめざして』)185頁。 ◆42 1977年1月には「新しい日本を考える会」から「中道革新政府の樹立をめざして」が出されている。「明日の日本のために」をよりコンパクトにしたものと 言える。 ◆43 「離党にあたって」(『江田三郎―そのロマンと追想―』)670頁。 ◆44 「雑誌「市民」での対談−まず「反自民」の大連合を」『江田三郎−ロマンと追想−』393−401頁。 ◆45 「革命とマルクス主義」16頁(『思想の科学』)。 ◆46 「なぜ革命を信じたのか」253頁(『世界』1982年4月,第437号)。 ◆47 国政レベルに先んじて「総与党化」が地方で進行していたことを知るには、前田幸男「連合政権構想と知事選挙−革新自治体から総与党化へ−」(『国家学会雑誌』 第百八巻第十一・十二号,1995)が役に立つ。 ◆48 4月の統一地方選では都府県議選で185(推薦3をふくむ)と前回比17議席増、6月の参院選(全国区・地方区から比例代表制・小選挙区制へ)では、合計14議席と現有 議席を確保した。これには、比例代表制の名簿の上位に、党外の知識人を並べ、開かれた党を印象づける戦術が効果をあげたと言われる。そして、12月の衆院選では、 立候補60人中当選59(推薦1をふくむ)は前回比25議席の増で、党史上最高の数字であった。 ◆49 「保革逆転こそ願い」『公明』(1984年2月,NO.265) ◆50 「歴史の転換点に立って」『公明』23頁(1983年8月,NO.259)。 ◆51 「社公合意」が持つ革新政治にとっての問題点として、五十嵐仁は次のような指摘をしている。「政党のレベルでいえば、特に「日本政治の右傾化と野党の翼賛 体制化」にとって「公明党の果たす役割は決定的」な意味をもった。公明党は、70年代前半において安保破棄を打ち出したり、革新自治体の与党に加わったりして、革新 的な方向を模索したこともあったが、70年代後半に入って次第に保守化を強め、革新自治体の切り崩しと社会党の現実主義化をめざすようになる。その端的な現れが、80年 1月に結ばれた社会党と公明党との間の政権構想に関する協定(社公合意)であった。この協定で社会党は共産党との絶縁を迫られ、「戦後革新運動」は大きな転換点を 曲がることになる。」(『政党政治と労働組合運動』34頁)。このように公明党を位置付けたとして、松田の政治感覚を疑問視するのは酷であろう。この時期の社会党の 現実主義化を時期遅しとしながらも当然の成り行きとみる研究も多いが、この場合念頭に置かれることの多い西独社民党の「路線」に着目する以上に、70年代の社会運動 から練り上げられた「緑の人びと」(グリーン)の政治運動の「功罪」に着目する方が現代においては教訓的であると思う。 ◆52 原彬久は、石橋の自衛隊に関する見解を次のように評価している。「重要なことは、この「違憲、法的存在」論をもって「安保解消」・「中立宣言」完了までは自衛隊 の存在を認めるということである。社会党が「違憲」の自衛隊を事実上承認していくそもそもの始まりであった。」(『戦後史のなかの日本社会党』209頁)。 ◆53 この点に関する評価は例えば新川敏光の指摘を挙げておきたい。「ここで、土井社会党のバランスシートを考えてみよう。女性票を掘り起こし、「土井ブーム」を巻き 起こすことによって社会党復調をもたらした土井の功績は大きい。しかし選挙の勝利自体、現実政党化=社公民路線からみれば、マイナス面が大きかった。89年参議院選挙、 90年衆議院選挙での社会党の「一人勝ち」は、公民の社公民路線への熱を冷まし、自民党との提携に向かわせることになったからである。しかも土井委員長は広範な支持が もたらした指導力・威信を、党改革ではなく護憲平和主義擁護のために行使し、湾岸戦争への対応をめぐっては社会党を再び絶対反対の党への逆戻りさせてしまった。」 (『戦後日本政治と社会民主主義』178頁) ◆54 「安楽死法制化に反対する」『世界』(1979年9月,第406号) ◆55 松田は、1953年に既に安楽死法制化に対する批判を行っている。「安楽死の対象としてよく引き合いに出される、不具者、精神薄弱者、精神病者らにも、それぞれに 適したサナトリュウムがあるべきです。彼らにも生をたのしませることができるほど、健康な人間の人生は栄光と歓喜とに満ちていなければなりません。こういう社会保障 の完成を夢ものがたりであるとし、それに何ら努力しようとしない人たちが、社会保障で解決されるべきものを、殺人によって代えようとし、その下手人に医者を呼ぶの です。それは人間の労働の生産性への盲目であり、歴史への不感症であり、人間の社会的連帯への不信であります。安楽死を法制化しようとしたものがナチ政権であった ことは、このことを証明しています。」(『常識の生態』72頁) ◆56 『世界』(1979年11月,第408号) ◆57 「自己決定権について−われわれの相違−」『世界』(1979年12月,第409号)。日本安楽死協会の初代理事長・太田典礼の言説の中に見られる「安楽死」思想と 優生思想の結びつきが、1930年代の優生学運動→1970年代の「尊厳死」言説→現代の新優生学という流れの中に同様に見出せるのではないか、という大谷いづみの指摘は、 現代における安楽死や尊厳死をめぐる問題群を考える上で参考になる(「「いのちの教育」に隠されてしまうこと 「尊厳死」言説をめぐって」『現代思想』)。太田が 編著者となった『安楽死』(1972年)に松田が寄せた文章と「阻止する会」にコミットする松田の主張との間に「変化」を見る大谷だが、この辺りの論証については、今後 予定されている大谷の太田論や松田論の展開に注目したい。また、太田は、芦田内閣時に、「社会党正統派議員団」の一人として、予算案に反対し、除名されている (1948年)。同議員団は、社会党最左派(純理派)に位置し、太田は同派に属する衆議院議員であったが、同時期の優生保護法成立に、太田が深く関わっていたという事実 は、「戦後革新政治」が何であったかの一側面を語っていて興味深い。 ◆58 松田は堀川病院の取り組みを、行政がこれからぶつかる問題の先取りだと言っていた。「堀川病院の特徴は地域の住民の自主性、患者の主体性を主発点にしている ことにある。戦後すぐの時代に、上からの医療はとても不十分だったので、自分たちで診療所をつくった。診療所だけでは足りない。病院にしようというので、またみんな 金を出して病院をつくった。その病院にだんだん長期の入院がふえてくる。病院として機能しなくなるから入院期間はなるべく短くしようと在宅治療を始めた。」(244頁) そこまではうまくいったが、高齢化社会の中で在宅ケアだけでは足りないという中で、どのように老人を支えていくのかという問題である(「老齢対策は三十代から− 高齢化社会と医療−」『世界』1983年7月,第452号)。 ◆59 「Ich bin Ichの人−松田道雄先生−」『図書』(1998年7月) ◆60 松田が保険医にならなかった理由を松田自身は次のように語っている。「左翼にたいする公安当局の監視がきびしくて、共産党員のある医者が、麻薬の調査と称して 家宅捜索をうけた。私はすぐ麻薬取扱者の免許を返上した。保険医になって立入調査をうけるのはいやで、とうとう保険医にならなかった。」(「幸運な医者」3頁『図書』 1998年8月)。 ◆61 「日本の医療、英国の医療−松田道雄先生への手紙−」25頁(『図書』1998年4月)。 ◆62 この点についても、様々なところで松田は同趣旨のことを書いているが、例えば『安楽に死にたい』では以下のようである。「高齢者の良識からすれば、もうCure (医者のやる治療)はたくさんだ、Care(親しい人の心のこもった世話)だけにしてほしいということだが、医者には理解しにくい。生物的生命を一分でも一秒でものばす のが医学の使命だと思っているからだ。医者は死に近い人間をTerminally illという。illがあるかぎり医者は治療をするのは当然と思っている。高齢者にとっては、illが あってもTerminal Lifeを生きたい。」(49―50頁) ◆63 「老いと死の倫理−ある小児科医の思索を手がかりに」 ◆64 「老いの思想」34頁。 ◆65 『安楽死』55頁。 ◆66 『安楽に死にたい』53頁。 ◆67 「わが友(二)」29頁(『図書』1998年6月)。 ◆68 『われらいかに死すべきか』244頁。 ◆69 『日常を愛する』117頁。別の箇所では次のようにも言っている。「家族にかこまれ、見なれた調度をながめ、好きな食べものをつくらせ、時には音楽をきき、時には 絵をみ、わかい日のアルバムをもってこさせ、いまわのわきには、肉親の後事をたのんで死んでいくのが敗戦までのふつうの市民の死に方であった。死は厳粛な自分の営み であった。そんな死だけが尊厳死といえる。今はそんな風には死ねない。」(「市民的自由としての生死の選択」51頁。『老いの発見2 老いのパラダイム』) ◆70 『われらいかに死すべきか』233頁。 ◆71 『安楽に死にたい』75頁。 ◆72 『安楽に死にたい』20−21頁。 ◆73 『われらいかに死すべきか』271頁。 ◆74 「市民的自由としての生死の選択」58−59頁。 ◆75 『われらいかに死すべきか』245頁。 ◆76 「山川均」49頁(『日本のマルクス主義者』)。 ◆77 「山川均」53頁(『日本のマルクス主義者』)。 ◆78 「弱者の立場と市民的自由」(『思想の科学』1977年11月) ◆79 「松田道雄論」40頁(『思想の科学』1966年12月)。 ◆80 「弱者の立場と市民的自由」75頁(『思想の科学』1977年11月)。 ◆81 『私の戦後史』284頁(松田道雄の本5)。 ◆82 『私の戦後史』285頁(松田道雄の本5)。 ◆83 「松田道雄さんと私」20頁(『ちくま』)。 ◆84 「松田道雄」294−295頁(『言論は日本を動かす――D【社会を教育する】』)。 ◆85 「松田道雄」299−300頁(『言論は日本を動かす――D【社会を教育する】』)。 ◆86 「松田道雄」70頁(『思想の科学』1974年9月)。 ◆87 新藤の「明治的支配」と現代の「国家主義」の重ね方は、その「敵役」として、西部邁や佐伯啓思が想定されている。どちらも、日本の現代ナショナリズムの諸潮流を 代表する存在ではあるが、現代の権力形態を「ネオ・リベラリズム」と考えた場合、批判に不十分さが残る。その点に関しては、酒井(2001)や渡辺(2004)が役に立つ だろう。 ◆88 『「明治的支配」と市民思想』258−259頁。 ◆89 医学部の読書会で知り合い、みなその意志の固さのため若くして死した飯田三美、内田住夫、加藤虎之助のことが松田の頭から離れることはなかったのだろう。 参考文献一覧 秋山洋子 2003「『暮しの手帖』を読みなおす 花森安治と松田道雄の女性解放」『リブという〈革命〉―近代の闇をひらく』インパクト出版会 新しい日本を考える会 1976『明日の日本のために―市民社会主義への道―』 ―― 1977『中道革新政府の樹立をめざして』 乾孝 1974「松田道雄」『思想の科学』NO.36,思想の科学社 江田三郎 1977『新しい政治をめざして』日本評論社 『江田三郎』刊行会 1979『江田三郎―そのロマンと追想』 大谷いづみ 2003「「いのちの教育」に隠されてしまうこと 「尊厳死」言説をめぐって」『現代思想』第31巻第13号,青土社 大森隆子 2000「松田道雄の育児思想について(T)―小児科学から育児学へ―」『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第17号 ―― 2001『松田道雄の育児思想について(U)―子どもの立場からの育児学―』『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第18号 ―― 2002『松田道雄の育児思想について(V)―育児学に集団保育の視点を導入―』『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第19号 ―― 2003『松田道雄の育児思想について(W)―育児学に伝統的育児法を導入―』『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第20号 ―― 2004『松田道雄の育児思想について(X)―伝統的育児法に学ぶ父親の役割―』『豊橋創造大学短期大学部研究紀要』第21号 梶宏 2002『ドキュメント京都市政』白川書院 勝田守一 1970『教育と教育学』岩波書店 樺山紘一 1986「松田道雄」『言論は日本を動かす――D【社会を教育する】』(三谷太一郎編)講談社 川本隆史 1997「老いと死の倫理−ある小児科医の思索を手がかりに」(河合隼雄・鶴見俊輔編『倫理と道徳』〈現代日本文化論9〉岩波書店) 佐藤昇 1982「随想ロシア革命―松田道雄氏の所論にふれて」『現代の理論』,現代の理論社 佐藤裕史 1998「日本の医療、英国の医療―松田道雄先生への手紙―」『図書』4月号,岩波書店 新藤謙 2002『「明治的支配」と市民思想―暗い夜を前に松田道雄を読みかえす』田畑書店 高橋正雄 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