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徳島大学倫理委員会設立経緯の調査・インタビュー

徳島大学倫理委員会設立経緯の調査・インタビュー
2005年2月19日 於:東洋ホテル(大阪)

情報提供者:森 崇英氏
(当時:徳島大学医学部教授、現在:京都大学名誉教授)
鎌田正晴氏
(当時:徳島大学医学部助手・病棟医長[昭和56.4]、同講師・医局長[昭和59.10]、現在:健康保健鳴門病院副院長)
山野修司氏
(当時:徳島大学医学部附属病院医員[昭和56.4]、同助手[昭和58.10]、現在:徳島大学教授)
松下光彦氏
(当時:徳島大学医学部助手[昭和48.4]、徳島大学医学部附属病院助手[昭和50.2]、同講師[昭和58.2]、現在:徳島県立三好病院長。当日欠席)

科研費研究分担者:山口裕之(徳島大学)
小泉義之(立命館大学)
香川知晶(山梨大学)
松原洋子(立命館大学)
科研費研究協力者:大林雅之(京都工芸繊維大学、当日欠席)
田中智彦(東京医科歯科大学)
土屋貴志(大阪市立大学)
中島理暁(秀明大学)
林 真理(工学院大学)
真野京子(種智院大学非常勤講師)
屋良朝彦(大阪大学21世紀COE特任研究員)
記録担当:大谷いづみ(立命館大学院生)
       森下直紀(立命館大学院生)

略年表

1 978(昭53)
7月   世界初の体外受精児誕生(イギリス)

1981(昭56)
4月   森崇英氏、徳島大学赴任
7月   体外受精臨床研究のため教室員をメルボルン大学に派遣

1982(昭57)
9月   森崇英氏、齋藤隆雄病院長に体外受精の実施を申し入れ
11月   日本産婦人科学会「体外受精に関する基準」
11月11日 医学部教授会で齋藤隆雄病院長報告(倫理委員会設置検討について)
11月15日 日本受精着床学会発足
11月25日 教授会で倫理委員会規則(案)の議題提出(資料8)
12月 9日 教授会で同規則(案)承認、委員選出(資料8)
12月10日 倫理委員会発足、「ヒト体外受精卵子宮内胚移植法」を委員会に申請
12月14日 第一回倫理委員会(資料9

1983(昭58)
4月12日 第十一回委員会「条件付き許可」の結論(資料10、資料11)
8月   妊娠に成功(実施8例目)
10月14日 東北大学で日本初の体外受精児出産
11月   日本産婦人科学会「体外受精・胚移植に関する見解」(8月の暫定基準を受けて)

1984(昭59)
3月 8日 手術患者の卵巣の実験使用についてNHKで報道
3月26日 体外受精例の出産(日本で3例目)
同日 衆議院決算委員会において、新村勝男議員(社会党)から質問(資料6)

1985(昭60)
3月  日本産婦人科学会「ヒト精子・卵子・受精卵を取り扱う研究に対する見解」

森崇英氏への質問項目

<Ⅰ.徳島大学赴任前後での森先生のお考えについて>
森先生の論文「体外受精」(高木健太郎編『現代の生と死』日本評論社、1984)では、「このような(未完成の)段階にある技術を実際に患者に応用するには、医師と患者以外に世論という三者の合意に基づいておこなわれるべきではなかろうかというのが私の最初の(1981年までの)率直な考え方であった」と書かれています。他方、当時の日本の医学関係者の間では、倫理問題はほとんど念頭になかったと思われます。このことに関連して、

1)なぜ、この時期に、体外受精技術の応用には社会的な合意が必要だと考えられたのでしょうか。先の論文では、「和田移植事件の二の舞は避けねば」とお書きですが、1981年といえば和田事件から10年以上たった時期ですから、そのほかにも、当時の何か社会的な動きとか、アメリカの動きなどが念頭にあったのでしょうか。
2)徳島大学赴任前後の時期の段階で既に、合意形成のための方法として、アメリカ的な倫理委員会方式のことを念頭に置いていらしたのですか。

<Ⅱ.齋藤隆雄病院長との最初のやり取りについて>
森先生の「近畿青藍会平成17年総会講演抄録」では、「昭和56年秋、齋藤隆雄教授に体外受精についての計画を打ち明け、心臓移植の轍を踏まないために社会的合意を得る手続き論が重要であることを申し上げた」と書かれています。
このときのことについて、齋藤先生は、ご著書『試験管ベビーを考える』(岩波書店、1985)で、「1982年9月のある日、森崇英教授から、「体外受精卵子宮内移植法」をいつでも実施できる体勢にあるのだがやってもよろしいか、という相談を受けたのが事の始まりである。…病院長としてはなんとも即答しかねることで、しばらく考え込んでしまった」(1頁)とあります。

3)まず、申し入れをなさった年なのですが、森先生は「昭和56年(1981年)」(徳島大学に赴任された年)とされていますが、齋藤先生は「1982年(昭和57年)」とされています。また、齋藤先生は、「倫理委員会規則が1982年12月9日、森教授の話から約三ヵ月後にようやく成立した」(9頁)とも書かれています。どちらの年号が正しいのか、ご確認させていただきたいと思います。
4) 森先生と齋藤先生との間でどのような議論がなされたのでしょうか。森先生は、「社会的合意を得る手続き論」ということでどのような方法論をお話になり、齋藤先生はどのように応答されたのでしょうか。また、宮尾益英医学部長のお考えはどのようなものだったのでしょうか。

<Ⅲ.当時の文部省や厚生省の見解について>
先の「講演抄録」では、「齋藤病院長は、全国の医学部付属病院長会議に出席した際、当時の文部省医学教育課長から倫理委員会の設置について示唆を受けられたらしい。そこで医学部長と事務部長にも話を通し、倫理委員会設置の具体案が作られた」とあります。また、昭和57年11月11日教授会議事録では、「齋藤病院長からの報告」として、「体外受精の実施についての病院内での検討結果、文部省との話し合い結果等経過報告があった」とあります。

5)そのときの文部省の「示唆」は具体的にどのようなものだったのでしょうか。「倫理委員会方式」は、文部省サイドからの示唆だったのでしょうか、それとも、森先生・齋藤先生側の案を文部省に持っていったという形なのでしょうか。
6)当時の厚生省は、どのような対応だったのでしょうか。厚生省は、昭和58年4月(東北大での体外受精による妊娠成功後)に、「生命と倫理に関する懇談会」を発足させていますが、それ以前の動きはどうだったのでしょうか。問い合わせや指示などはなかったのでしょうか。

<Ⅳ.「倫理委員会方式」構想の具体化について>
先日、松下光彦先生からお話をうかがったところ、「森先生が、ジョージタウン大学の木村利人氏やNHKの行天良雄氏らとご相談の上、委員会の構成などについて考えておられた」とのことでした。齋藤先生は、「カリフォルニア大学に留学していたときに、同大倫理委員会に出席し、それをモデルに徳島大学での倫理委員会の構想を練った。医学部長と相談した結果、教授会に倫理委員会設置を提案することになった」(上掲書7頁をもとに要約)とお書きになっています。

7)倫理委員会の構想は、どういう組織で行われたのでしょうか。森先生や齋藤先生を中心とする私的な会合のようなものが持たれたのでしょうか、それとも学科などの単位で構想されたのでしょうか。
8)倫理委員会規則は、何をモデルにして、どなたが案を取りまとめられたのでしょうか。

医学以外の学識経験者を委員に入れるというのは、当時としては先進的な考え方であったと思いますが、最初からそういうお考えでおられたのでしょうか。また、委員の選定規則に関して、齋藤先生は後に、「女性が委員に入っていなかったことが悔やまれる」とお書きですが、女性を、専門委員ではなく正規の倫理委員に必ず入れる、という発想はなかったのでしょうか。

<Ⅴ.教授会での議論>
昭和57年11月11日、教授会に倫理委員会の設置について報告がなされ、11月25日の教授会で「倫理委員会規則(案)」が提出され、12月9日に議決がなされています。各回の教授会議事録では、「意見交換を行った」とそっけなく書かれていますが、斉藤先生によると、「教授会ではこの問題(倫理委員会の設置)について激論が戦わされた」(上掲書7頁)とあり、また規則案の議決が次回持越しとなっていることからも、議論の激しさがうかがわれます。

9)このとき、三度にわたる教授会では、どのような議論が戦わされたのでしょうか。

10)当時の大学内の雰囲気として、倫理委員会の設置は、どのように受け止められていたのでしょうか。

<Ⅵ.日本産婦人科学会など、当時の医学界の対応や雰囲気について>
 日本産婦人科学会では、昭和57年11月に「体外受精に関する基準」を発表、同年同月には日本受精着床学会が設立されています。体外受精の実施に向けて医学界では着実に準備を進めていたことがうかがわれます。

11)当時の学会における、「倫理的問題」への関心はどのようなものだったのでしょうか。

12)当時の学会の動きの中での森先生の立場や、森先生率いる徳島大学グループの技術レベルなどに関する評価は、どういったものだったのでしょうか。
13)「体外受精に関する基準」の作成は、どういった方々によって進められたのでしょうか。森先生はそうした基準の作成に、どのような形で参画されたのでしょうか。また、基準の作成の際に参考にされた既存のルールなどはあったのでしょうか。
57年11月といえば、徳島大学医学部教授会に倫理委員会の設置および規則が提案された時期(それぞれ11日、25日)と重なりますが、徳島大学での議論は、日本産婦人科学会の基準に反映されたのでしょうか。

<Ⅶ.倫理委員会での議論について>
昭和57年12月14日の第一回から58年4月12日まで11回にわたって倫理委員会が開かれ、多くの医学者以外の学識者が専門委員として招かれ、議論がなされました。委員会は報道陣に公開され、記者やテレビカメラが見守る中で行われたということです。

14)委員会を公開するということは倫理委員会規則にも書かれていますが、設置構想のはじめから、公開することは前提されていたのでしょうか。当時、医学部というのは全般に閉鎖的な雰囲気があったのではないかと思うのですが、委員会を公開することに対して学内外からの抵抗はありませんでしたか。
15)委員会での議論が公開されたことによる社会的な反応はどのようなものでしたか。当時の社会的な雰囲気としては、「医の倫理」を医学者以外の学識経験者を含む委員会が判定するという制度に関してどのような考えが主流であったのでしょうか。徳島大学倫理委員会での議論が公開されたことは、当時の社会的な雰囲気を変化させるような効果を発揮したでしょうか。
16)委員会での議論について、印象に残る点・考えさせられた点・議論や判定結果に対する先生の評価など、お聞かせください。

<Ⅷ.手術検体の「流用問題」について(摘出卵巣の実験利用)>
昭和59年3月、手術で摘出した卵巣を用いた体外受精実験がNHKで報道され、批判されます。森先生の「わたしの言い分」(『朝日新聞』夕刊、1984年(昭和59年)4月23日)では、「受精卵をモノ扱いした、患者の了解も得ずに密室で無断実験した、倫理意識が欠けているなどと一方的にきめつけられました」とのことでした。

17)当時、手術検体の教育や研究への流用は、多くの大学において行われていたのではないかと思います。なぜ徳島大学の研究だけが問題にされたのでしょうか。
一説では、読売新聞の連載記事「体外受精 徳島大学医学部の全記録」3月7日分で、「森教授は主にガンなどで摘出した人間の卵巣を使い、そこから卵を取り出して試験管内での受精を試みた」と書かれたことに対する反応である(福本英子『生物医学時代の生と死』技術と人間、1989年)ともいいますが、この説の信憑性はいかがなものでしょうか。

18)マスコミ対策やその経緯などについてお話ください。
19)この問題は国会でも取り上げられ、佐藤国雄文部省大学局医学教育課長が「文部省としても倫理委員会等の設置を求めて行きたい」と答弁したのに対し、新村勝男議員(社会党)は「倫理的な問題について大学の内部機関に任せておいていいのか」と質問したということですが、結局のところこの事件は倫理委員会の設置促進にプラスの影響を与えたと理解してよろしいでしょうか。


インタビューの記録(以下敬称略)

■0.自己紹介
山口:今日は私が口火を切る形でお話を伺います。事前にお送りした質問項目に沿って,それぞれの分野の専門家から順番に質問をさせていただきたいと思います。時間は二時間程度の予定です。
森 :私は長くてもかまいませんよ
一同:笑。
森 :今日このあと講演会(平成17年近畿青藍会総会)がありますので、当時の経緯などについても資料をまとめてまいりました。それで是非話を聞いてもらおうと二人(鎌田、山野)には来てもらいました。残念なことに松下君は本日不在ですが、彼は当時の事情を知っています。三人の方で、私が忘れているところとか、不正確なところをまとめてくれると有り難いですね。
鎌田:現在、健康保健鳴門病院副院長の鎌田と申します。倫理委員会の設立には直接タッチしておりませんので、お役に立てるかどうか分かりませんが、宜しくお願いします。

山野:徳島大学医学部の山野でございます。私は当時,30歳ごろの一番の若手で、実務担当でもありました。倫理委員会の発足の経緯は余り詳しくは知らないのですが、その当時どのように体外受精が始まったとかいうことに関しては分かると思います。

■Ⅰ.徳島大学赴任前後での森先生のお考えについて

山口:最初に、一番大きなポイントになりますが,81年か82年当時の日本の状況としては倫理委員会を立ち上げるというのはほとんどの人の念頭になかったことでしょうが,なぜ森先生は倫理委員会を立ち上げようとご決断されたのでしょうか。
森 :一番念頭にありましたのは、この技術を日本にスムーズに定着させたいということでした。かなり前になるが、例の和田心臓移植事件がありまして、そのために(日本の心臓移植は)20年は遅れた。一般の人々やマスコミは,過去の事件であろうと、問題が起こるとそれを思い出す。マスコミに記録が残りますからね。それをいかにクリアするかということが念頭にあった。そのために社会的合意ができなければダメだろうということです。
山口:社会的合意をどう獲得するか,ですね。それで、そのためにどのような手段をお取りになろうと考えておられたのですか? 倫理委員会的なものか,それとも他の手段もあって、それがその後倫理委員会に繋がっていったのですか?
森 :5つぐらいの方法を考えておりました。まず、一番イージーな方法としては、私案を作って、それを有識者の方に審査してもらう。それから、最もオーソライズされた方法は、国の機関といいますか、HFEA (Human Fertilization and Embryology Authority:英国ヒト受精及び胚研究許可庁)方式にのっとった方式をとるというものまでの間で、いくつかの段階を考えておったのですけれども、結局最終的には、実現可能な方法として、インスティチューショナルなレベルでの審査法を使おうということになりました。アメリカではそのようになされていますので、それが一番実現性が高いであろうというふうに考えたのです。(資料1、資料2)。
山口:徳島大学に赴任する以前からそういった考えをお持ちだったのですか?
森 :具体的に考え出したのはこの(体外受精の)プロジェクトをスタートしてからです。徳島へ来る前は、なんとかして和田心臓移植事件の轍を踏まないために、第三者といいますか、社会的合意を獲得する必要があるということは考えておりました。
山口:和田移植では患者の同意が問題になったと思いますが、被験者ないし患者の同意ではなく、社会的合意のほうに重きを置かれていたのでしょうか。
森 :もちろん社会的合意以前に患者の同意が必要です。患者と医療従事者の信頼関係なくして、医療行為はなりたちません。しかし新しい医療、未完成の医療を行う場合、それだけではなく、いわゆるヒューマン・エクスペリメンテーションをする場合には患者と医者の関係だけではいけない。和田心臓移植事件まではそれでよかったのです。それまでは医者が自分の良心に恥じないことをするという、ヒポクラテスの誓いという医療倫理の基本原則で充分だった。しかしその基本原則に対して疑問が出てきました。アメリカで色々事件がありまして、臨床研究をする際に人種差別の問題が起きた。黒人を使った実験が曝露され、それに対する人権侵害の問題の訴訟が相次ぎ、医者の方も何らかの対抗策・予防策を講じなければならないという意識が出て来ました。
山口:それはその当時の医療従事者の共通認識でしょうか?
森 :いや、一般の医療従事者はそこまでの意識はもっていなかったのではないでしょうか。患者と医者の信頼関係という暗黙の了解でやれるんだというのが当時の医師の常識であった。
山口:なぜ森先生はそういうことにセンシティブでいらしたのですか?
森 :この新しい技術は絶対に必要であるという強い確信がありました。同時につまずいたらいけないという危機意識もありましたから、それを導入するために万全を期したいと考えていた。体外受精の場合には、奇形児が生まれた時には責任論が発生します。私が責任をとって辞めたとしても意味がなくて、そのときに責任論の問題を予めクリアにしておくシステムが必要だと考えていました。

■Ⅱ.齋藤隆雄病院長との最初のやり取りについて

山口:次に、具体的に倫理委員会の姿が固まっていったプロセスをお尋ねしたいと思います。最初に齋藤隆雄先生に申し入れをされたところから。まず、単純な事実の確認ですが、先生のお書きになったものによると、森先生は56年に申し入れをしたとありますが?
森 :あれは間違いです。よいご指摘をいただきました。一年違いです。
山口:森先生と齋藤先生そして当時の宮尾益英医学部長の三者の相談で倫理委員会ができてきたのではないかと思いますが、森先生の意見、齋藤先生の意見、宮尾先生の意見それぞれがどういった形でしたか?
森先生の「講演抄録」では、齋藤先生に最初にお話をしたときに、「体外受精はできる、準備は整っているが、やるときには注意して社会的合意を得るようにしないとまずいぞと申し上げた」とありますが、齋藤先生のご本では、「体外受精はできるがやってよいかと聞かれて考え込んでしまった」とあります。両先生の記述に微妙なずれがありますが。
森 :えー、そんなふうに書いてあるの。(笑)。
着任してしばらくしてから、新しい臨床と研究の一つの柱として体外受精の導入という方針を教室の皆さんにお伝えして、同時並行でそれを具体化するための準備態勢に入って約1年半かかりました。それまでの研究体制を再建するとか、色々臨床と研究体制のすべての見直しとかをやりました。ほぼ一年半がたったあと、齋藤病院長に正式にご報告申し上げました。それまで体外受精の研究については産婦人科だけではなく、病院の皆さんご承知だったとおもいます。確か9月に正式に申し入れをいたしました。これをスタートするにあたって、手続きをきっちりやりたい、和田事件と同じ轍を踏まないために何らかの審査会のようなものを通してほしいと。これは5つの選択肢のうちのひとつで、実際にはある学会に働きかけましたが、学会は動かなかったんです。日産婦(日本産科婦人科学会)はそれ以前に東北大学の鈴木雅洲先生が中心になって、学会として文書を出していたと思いますが、その文書、いくら探しても見つからないんです。
山口:日産婦の暫定基準は昭和57年8月ですね(その後11月には「基準」が発表される)。
森 :そう、それです。ところが、これは内容がお粗末で、5、6項目程のもので、参考にならないと判断しました。本格的に日産婦がやり始めたのは昭和58年の4月で、「体外受精に関する委員会」というのを理事会内委員会に設けて、私もそのメンバーだったからよく知っていますが、徳島大学が結論を出したので、日産婦としてもやらざるを得なかった。徳島大学の倫理委員会がある意味で先導役を果たしたと言えます。
受精着床学会がその年の11月に発足したんです。私が徳島大学にきて、京都大学に当時、西村敏雄先生(産婦人科教授)がいらっしゃって、その方に旗振り役をお願いしたが、すぐにお亡くなりになってしまった。それで受精着床学会を作ろうという話があって、その中心人物が慶応義塾大学の飯塚理八先生でした。その方から相談も受けて、意見を申し上げた。この学会の性格付けをどうするかということについて、受精着床学会はテクノロジーの問題を論じるのであって、倫理的な問題は扱わないという方針でした。平成14年ようやく倫理委員会を発足させました。約一年間の間に非配偶者間の生殖医療に関する見解を全部まとめたんです。出すことは出したんですが、理事会のほうで色々議論がありました。私はどちらかというとART(Assisted Reproductive Technology:生殖補助医療)の現場にいる人間だから、現場をよく知っている。でも現場を知っているだけではダメで、それに理論的な裏づけを与えなければいけない。倫理委員会としてそれを全部やって出しました。でも倫理委員会案の段階で止まって、理事会の決定としては未だに出ていない。
山口:未だにですか?
森 :未だに出ていませんが、このままボツにしてもいけないんで、近く出版される本(『生殖の生命倫理学』永井書店)の一部にかなりつっこんで紹介してます。徳島大学の倫理委員会の話も書きました。生殖補助医療に関する新しいテクノロジーが登場するたびに、ジャーナリストが書き立てますが、しばらくすると忘れられる。そういうことの繰り返しはダメだと、これまでの経緯をまとめたものです。
山口:齋藤先生と森先生が最初にお話になったとき、森先生は何らかの審査会をとおっしゃった。齋藤先生は特に何かご提案なさったのでしょうか?
森 :(提案は)ありませんでした。何も言われなかったです。
山口:本当に考え込んでしまったんですね。
森 :『試験管ベビーを考える』はほとんど知っていることなので、読んでいないのですが、私が何をしゃべった等はほとんど書いてないのですか。
山口:そうですね。
森 :それから学部長と事務部長に話をしました。事務部長には予算の関係できちんと話をしました。体外受精のラボの設営など、いろいろな具体的な話をした。はっきりとは覚えていませんが、手続きをしっかりしてくださいということを伝えました。そしてそれは学部長にもお伝えしました。
そのときに、千葉で全国国立病院長会議があった機会に、文部省の課長が、「ヘルシンキ宣言にのっとって、特別に任命された独立の委員会に実験プロトコルを出して、そこで委員会の指針に従うべし」という条理があるというお話をされたということでした。ヘルシンキ宣言は誰でも知っていることですが、これが徳島大学の倫理委員会の根底にあるんです。
宮尾先生のほうからは、具体的なお話はありませんでした。

■Ⅲ.当時の文部省や厚生省の見解について

山口:文部省は、ヘルシンキ宣言と明言した上で、それにのっとったものを作るように示唆したということですか?
森 :そうだと思います。そのオリジナルの文書が出てきました。(資料3)。私は直轄官庁の文部省と、これを医療行為として認定してほしいということで、厚生省に対してもきちんと話を通しておく必要があると考えていました。私の同期生に厚生省の審議官か課長がいて話したんですが、彼が一番心配したのが、奇形児の発生。一例奇形児が生まれたら一億円払わなきゃならんのだよと。かなり神経質になってました。それでこれまでの出生児集計を全部調べまして、全世界で101例かな、その中の1例に大血管転位(通常とは逆に、右心室から大動脈、左心室から肺動脈が出ている奇形)がいたんです。厚生省は東京女子医大の専門家に聞きまして、それは頻度としては異常に高いという。こんな状態でやってもし異常が出たらどうするんだと。
山口:それは個人的な見解として述べられたのですか?
森 :半分個人、半分公。課長としては公だろうな。厚生省の方針としての意向だったと思う。
山口:お名前うかがってもよろしいですか。
森 :寺松尚という方です。
松原:役職の方は?
森 :最後は医務局長で、当時は医務課長か、内閣官房の審議官だったと思います。惜しいことに早く亡くなられました。
松原:だいたい56年?
森 : 56年から57年ですね。そのころは厚生省の班研究で出入りしていたものですから、厚生省で面会するだいぶ前から知っていました。
私が1976年にこのテクノロジーを日本でやらなければならないと決断したのが、ヨーロッパの学会から帰る飛行機の中。すぐ西村先生に言いますと、考えさせてほしいということで即答されなかった。そこで厚生省の班研究を組織しておられた、東北大学の鈴木先生と慶応大学の飯塚先生に申し上げたら、即座にOKされました。
うちは臨床前研究をきっちりやっていたから、胚移植8例目で妊娠に成功している。それは基礎のテクノロジーがしっかりしていたからなんですよ。
松原:森先生が鈴木先生におっしゃったときに、東北大学の方では基礎研究はどうだったんでしょう。
森 :やってないと思います。基礎研究の論文が発表されてませんから。1976年から77年くらいですから、最初の体外受精児が生まれる前のことになります。
真野:森先生はどうして体外受精をしなければならないとお思いになったのですか?
森 :一番の動機はそれまでの不妊治療の理論がなっていないからです。治療というのは色々な基礎研究の上に成り立つものです。体外受精なんて今は簡単な技術のように思われていますが、それを確立するまでに大変な苦労がある。例えば、採卵は排卵誘発剤投与後36時間で起こるんですが、エドワーズ博士はこれを調べるのに2年間費やした。今当たり前のようなことでも、最初にやるというのは非常にむずかしい。
山口:厚生省からは奇形児に対しての具体的な対策などは示唆されたのですか?
森 :私の記憶にあるのは、奇形児の責任論と倫理委員会を作る際には女性を入れなさいということ。ご存知のとおり、新しい試みをするとき、基礎研究は文部省、臨床応用は厚生省というように、厚生省と文部省の板ばさみになることがあるんですよ。しかし直轄官庁は、大学病院の場合、文部省なんですよね。それで文部省にヘルシンキ方式でやるというパーミッションを受けて、厚生省にも話しますよと言って、その足で厚生省にいきますと、女性を入れるほうがよろしいですよと言われました。
山口:厚生省にいらしたのはいつ頃ですか?
森 :11月5日です。
山口:倫理委員会が本決まりになったころですか?
森 :だいたい基本路線は決まっていましたけれども、教授会にはまだ出てない(教授会への提出は11月11日)。教授会に出す前に、本省の許可をとっておく必要があるということが大事で、先に許可を取りに行ったんだと思います。
山口:倫理委員会方式というのは省庁からの提案というよりは、森先生の提案でしょうか?
森 :厚生省からはありません。文部省からはその文書を見る限り、医学系以外の委員を入れた倫理委員会を作って、それに産婦人科のプロジェクトを申請してそこで承認を受けるのが適当じゃないですかという示唆をもらいました。私がそこで徳島大学方式という言葉を使って説明したのは、実際の徳島大学倫理委員会よりも若干複雑なものでした。(資料4)。違う点は、パブリックコメントを得るというステップが入っている点です。いずれにしろ、正式にそういう方式でやりなさいよという文部省の許可を得ないと、大学の教授会を通らなかったのです。当時の教授会はそういう性質のものでした。
松原:先生ご自身が5つのオプションのうち倫理審査委員会というのが現実性があると判断されていた。それでそれとは別に文部省から具体的にヘルシンキ宣言というのが持ち出されて、特別な委員会を立ち上げると。その示唆というのは文書か何かで…
森 :残っています。見つけました。(資料3)。
松原:例えば、ヘルシンキ宣言の倫理委員会の文言が添付されていたのでしょうか?
森 :添付されていたわけではありません。ヘルシンキ宣言というのは第二次世界大戦後の生命倫理のバイブルでありまして,そういった意味で、強い強制力を持ったものなんです。その第一項目には新しい医療をする場合には、ヒューマン・エクスペリメンテーション、人間を対象とした実験の過程、つまり臨床実験を経なければいけないということは認めているんです。それを文部省は引用していたように思います。また別なところに研究者及び医者の自発的な意思を尊重するという内容がちゃんとヘルシンキ宣言の中にあります。
    (資料3によると、その省略部分を除けば、文部省の側が言及しているのはヘルシンキ宣言(1964年)Ⅱ-1である。これは、「病人の治療」に際し「新しい治療法」を用いる自由に関するものである。上記応接に関連するヘルシンキ宣言は、その第1次改訂(東京宣言、1975)のうち、「ヒトにおける実験」の必要性を述べた序言と、「医療の一部分としての医学研究(臨床研究)」と題されたⅡである。加えて、資料3によると、文部省の側は、受精着床学会のコンセンサスを前提とした倫理委員会の設置を構想していたと読める。以上の点は、ヘルシンキ宣言が、どのように行政と現場で用いられたか、また、どのように倫理委員会の複数のオプションが絞られたかについての、一層の調査と検討を必要とすることを示唆している。)

■Ⅳ.「倫理委員会方式」構想の具体化について

山口:徳島大学の倫理委員会の構想の具体化のプロセスについて、構想はどういう組織でどなたが行ったのか、倫理委員会の規則は何がモデルか、IRB方式がモデルになっているのか、それともオリジナリティを重視されていたのか、などといった点についてお伺いしたいと思います。
森 :発端としては、齋藤先生が全国の病院長会議の折に文部省側からの示唆を受けてそれを私にお話しいただいた。その時、私案的なことも申し上げたと思います。つまり二人の私的な話し合いのなかで始まって、それを受けて宮尾学部長にもお話した。事務部長にも話を通したと思います。
山口:規則の取りまとめに関しては?
森 :規則に関しては、意見は聞かれましたが、文案に関しては私はタッチしておりません。体外受精の臨床応用を審議する委員会ということを関係者は皆さん意識しておられたように感じました。
山口:ではどなたが?
森 :おそらく学部長、齋藤先生と事務部長などが担当されていたと思います。その他にも病院長経験者とか。
(齋藤隆雄「徳島大学医学部倫理委員会について」によると、「倫理委員会規則は、医学部長や学内外の人と相談してたたき台を作り、教授会でもんでもらってできた」。)
中島:齋藤先生はカリフォルニアに留学されていましたけれども、その際にIRBのマニュアルといったものをお持ちになってたたき台にされたのでしょうか。
森 :おそらくそういう資料はお持ちで参考にされたとは思います。ヘルシンキ宣言を読むと倫理委員会の構成などもあり,アメリカのIRBでも元をたどれば、ヘルシンキ宣言に行くんじゃないですか。
(歴史的事実としては、ヘルシンキ宣言に「特別に任命された独立の委員会による審査」が求められるようになったのは1975年なので、米国のIRB法制化(1974年の全米研究法)のほうが早い。)
山口:実際の倫理委員会の構想については森先生はタッチしていないということですか?
森 :教授会では、倫理審査委員会を設けて客観的に公正に審議すべきであることは強く申し上げました。あの倫理委員会は極端にいえば,体外受精を申請するためのものであって、私は申請者であるので、タッチするべきではないと申し上げました。ただ、後で出てくる,実際に動き出してからの専門委員の人選に関しては深く関与しております。倫理委員には女性委員がいなかったでしょう。
山口:はい。
森 :私が関与していたら、女性を必ず採用していたはずです。なぜなら、産婦人科医ですから。(笑)。
私が考えていた倫理委員会というのはこういう方式です。(資料4)。
真ん中に倫理委員会があって、片や学会からのパーミッションというかコメントをもらって、片やこっちは関係省庁の指導があり、上にあるPublic Commentを求めること。それから下に医療従事者、一番下に患者がある。こういう図式を徳島大方式と私は呼んでいた。
中島:というと,アメリカのIRBというよりは、アメリカの大統領委員会などに近いモデルですか?
森 :結果的にはそうなのかも知れませんが、そういうモデルを想定して考えたのではありません。私が自分で考えたんです。Public Commentと申しましたが、徳島大学に当時「体外受精を考える会」というのを組織している女性の方がおりまして。
(「体外受精の是非をめぐる論議が高まった1982年末から83年春にかけて、多くの「体外受精を考える(女性の)会」が生まれ、活発な動きを見せた」(斎藤隆雄『試験管ベビーを考える』144頁)。そうした会のひとつであろう。)
その会に呼ばれていって講演したときに、日本の体外受精の第一人者として一番乗りしようとしてやっているでしょうと挑発的な質問をされたことを覚えています。そこには外国の方も来て質問されていた。Public Commentというのはそうした経験から考えたことです。ただ、Public Commentはできるに越したことはないが,大変時間と労力がかかるので、体がついていかんということで、やめました。実際には、このPublic Commentの代わり、あるいは学会の代わりに、専門委員として有識者を置くことを考えておりました。
(当時、松下先生を中心に、徳島大学病院の外来患者(女性)を対象として、体外受精の是非やその理由についてアンケート調査を実施、683人から回答を得ている。それによると、「体外受精を行ってもよい」と答えた人は31.0%、「条件付きで可」19.3%、「行うべきでない」12.9%などとなっている。資料12を参照。)
香川:先生としては、このときの委員会の構成は具体的にどのようにすべきだとお考えでしたか?
森 :委員会の構成は、メディカルな人とノンメディカルな人をレギュラーメンバーとして考えていた。それから有識者の方々にオブザーバーとして来て頂くということです。
中島:当時いくつかのオプションを先生はお持ちで、その中でもIRB方式が実現可能性が高いということで浮上してきた。一方文部省からはヘルシンキ宣言に準拠した形での、独立の審査会といったものを通すよう要請があった。そういう状況のなかで、先生がお考えになっていた独自のモデルへと徐々に変容していった、ということでよいですか?
森 :そういうことになりますね、はい。
山口:ちなみに倫理委員会という名称は?
森 :厚生省と文部省に話に行くときには、この線に沿って徳島大学方式という風に説明したと思います。
山口:はじめは審査会という名称ですが、どうして倫理ということになったのでしょうか?
森 :倫理審査会となっていませんでしたか?
山口:倫理審査会ですか。なるほど。
森 :倫理審査会という名前の由来は、東京大学の医学研究所に日本で唯一委員会的なものがあって、その名前が研究倫理審査委員会だったんです。それは当時外国のジャーナルに出すために、IRBを通っているという保証が必要で、端的にいえばそれを出すための委員会でした。だから本当の意味での倫理委員会ではないんですね。私は当時の積田亨所長に手紙を書いて、資料を送ってもらいました。最近本を書くにあたって、もう一度事務の方に送ってもらうようにお願いしたんですが、もう無いと言われました。
(東大医学研究所の倫理委員会のほかに、既に日本国内に存在していたIRBとして、米連邦政府が予算の半額を出資して設立された放射線影響研究所の「人権擁護調査委員会」[1976年設置]がある。これは米国の連邦規則に則ったものである)。
松原:先生としてはPublic Commentを含めた徳島大方式というものを構想していらして、それで文部省とか厚生省との折衝ではそういった形での提案をされていたということでよいですか?
森 :その時にはまだ徳島大学の教授会で案が固まっていない段階で勝手にこういう方式でというわけにはいかないので、それで私案という形でお話ししたと思います。
松原:齋藤先生がうーん,と考えていらした段階だったわけですね。(笑)。ですけれども、具体的に動き出したときには、先生は申請者の立場だから、タッチしなかった?
森 :はい。
松原:先生が構想された徳島大学方式案というのは、実際に成立するときに、何らかの形で参考にされたのか、それとも全く別に齋藤先生等が中心になって作られたのですか?
森 :徳島大学方式を、講演会などの公の場で、話をするということはしなかった。しかし個別のレベルでは話をしたと思います。
松原:倫理委員会に対する先生のイメージとして、齋藤先生等にお話をされたと。
森 :はい、そう思います。

■Ⅴ.教授会での議論

中島:教授会レベルでもそのようなお話を?
森 :教授会ではそういう話をするとつるし上げになるんですね。
一同:笑
森 :教授会では倫理委員会のようなことをすることに対しても、非常に拒絶反応があった。だから教授会をなだめるために、文部省のお墨付きをもらいに説明に行ったわけなんです。私がプロジェクトの説明に行ったことは、教授会の議事録には書いてないんですか?
山口:齋藤委員長報告という形で、11日の教授会では書かれております。
森 :57年の11月5日ですか?
山口:11日ですね、病院長報告という形で、議事録はこうなっています(書類を見せる)。
森 :そうですか、私のメモでは文部省に説明に行ったときの説明が入っていましたよ。
山口:今お渡しした議事録は11日の分ですね。これが25日の分です。12月9日には倫理委員会規則の提案。この3回分ですね。
森 :厚生省からは正式の文書がありませんでしたが、文部省からはありましたから、資料がありますよ。今日(講演会で)出しますよ。(資料3)。
田中:先生が文部省、厚生省に行って説明して理解を得るということをなされている一方で、齋藤先生は徳島大学で倫理委員会を立ち上げるために、事務の方と着々と準備を進めておられるという図が浮かんでくるんですが、齋藤先生と森先生との間で、倫理委員会をうまく通すという目標のために連係プレイというような形でお互い動いていたのでしょうか?
森 :もちろんです。2回3回と教授会があるなかで、次から次へと質問がでまして、それに答えるのは学部長と病院長と私の3人なんですよ。その3人のレベルでの話というのは、どちらかというと宮尾学部長と話しました。病院長にはもちろん話をして、それから当時は夜中に採卵をする必要がありまして、麻酔科の協力が必要ということで、こうした研究協力も頼むと先方から申し入れがあった、そういうレベルの話もありました。ところが3人が集まって、連係プレイをしようとか、そういう話はありませんでした。その代わり教授会ではぶっつけ本番でやりとりがありました。
松原:3人の先生方が、その場で対立するようなことは?
森 :それは無かったですね。なんとか倫理委員会をパスしてもらわなけりゃならんという意識では同じですから。
山口:教授会の内容について、もう少し詳しくお話おねがいします。どういう形で提示したところ、どういう反応があったのか。あるいは倫理的な審査を通さなければいけないじゃないかという意見に対して、当時の学内外の雰囲気がどのようなものであったのかなど。
森 :教授会議事録に出ていませんか?
山口:意見を交換したと、そっけなくしか書かれていないですね。
森 :まず教授会と委員会の関係はどうなるのか。それから何かがあった場合に誰が責任をとるのか。教授会か、倫理委員会か、それともその当事者かという問題。それから3番目に、ヘルシンキ宣言を読むと、生まれてくる子供の立場に立った配慮というものに対して触れていなくて、お前はどう考えているのかと聞かれました。それから奇形児が生まれた場合の対処をどうするのかと。5番目に委員会の性格付けをどうするのか。例えば新薬開発のための臨床研究などはどう関連するのか、などの議論がありました。そして委員会の性格付け、取り扱い範囲ですね。それから大事なことはこんな委員会をつくれば、学問の自由に反するのではないかという意見が非常に強かったですね。
   それからその後に文部省との折衝の経緯を説明せよと。このとき私は縷々説明したんだけど。議事録というのは結論だけを明快に書いて詳しい議論の内容は普通は書きませんね。国会の議事録とは違いますよ。
山口:たしかに、いまでもそうです。
森 :先ほどの内容と重なりますが、倫理委員会という方式をとると学問の進歩を抑えるというマイナスの面を考えて、慎重に対処してほしいということですね。他方、医療情勢、医療訴訟を鑑みて、委員会を通したほうがベターであるといった前向き、好意的な意見が3人以外からもでました。当時医療訴訟の50%ほどが産婦人科関係でした。それで産婦人科はそういった訴訟、医療過誤に非常に敏感なんです。だから日産婦学会が動かなかったのも、そういった過誤があった場合に学会が責任を問われるという意識があったことも理由のひとつになっているのではと思います。そういった内容で、議論が紛糾しました。
田中:パイオニア的なことをやろうとしていて、宮尾医学部長と齋藤先生と森先生とが激論を乗り越えて、最終的な目標地点に到達されるわけですよね。そうしますと、先生はよく宮尾医学部長とお話をされていて、もし宮尾医学部長が一方で齋藤先生とお話をされていたとすると、ある意味宮尾医学部長が明示的ではないとしても、三人をつなぐ扇の要のような役割を果たされて、徳島大学教授会での困難な議論を着実に進めてきたと。そういうイメージを抱いたんですが。
森 :あの方は大局を見ておられたと思いますね。当時の徳島大学医学部にとって、なんとかいいことをしようと考えていたと思います。ですから、徳島大学の倫理委員会を作ることを真剣に考えておられた。
松原:徳島大学で,あえてこういう先進的なことをされてがんばられたという事情についてお話し下さればと思います。
森 :だいたい、教授不在の期間がずいぶん長くて混迷していたものですから、教授会も何とかしなければという危機意識があった、と聞かされました。教授選考規定も新しく作り直されたんです。
松原:そんな状況で、人事に対する改革が始まって、森先生の教授採用が最初の人事だったわけですね。
森 :そんな経緯もあって、徳島大学を何とかしたいという気持ちが学部長には強くあったようですね。学部長,亡くなられたようで残念です。
真野:森先生も厚生省も女性の委員を入れるように要請したようですが、結局女性が委員に入っていないのは教授会の意向でしょうか?
森 :倫理委員会規則ができて翌日に発足したのですが、あらかじめ、委員の選定が決まっていたんじゃないですか。私は宮尾先生に伝えていたと思います。厚生省の意向はこうだし、やはり女性のための治療ということもあって、そうあるべきだと言いました。間違いなく言っています。齋藤先生には言ってたかどうか定かではありませんが、後で女性の委員を入れるべきだったと何かで書いておられるでしょう?
当時,医学以外の学識経験者の枠が2名あったのですが、お一人は圓藤先生(真一、当時四国女子大学長、法学)で、もうお一人は本家先生(真澄、当時徳島大学教養学部長、哲学)です。
松原:外部の哲学と法律の専門家であったわけですね。そういった人選の方は?
森 :それでは少なすぎる。私がその委員であったならば、それでは少ないですよと、必ず言っているはずです。倫理の専門家も、宗教家も入っていない、それはおかしいですよ。
松原:あと学外の先生が結局、圓藤先生お一人?
森 :医学以外という視点ですから、学内外は問題じゃない。あと、できたらジャーナリストも必要であったと思います。そのとき宮尾先生は逐一私に相談してくれました。それで木村利人さんなんかを見つけて、私が直接交渉して、引っ張ってきた。
松原:専門外の委員に関しては、何か抵抗は。
森 :それは特にありませんでしたね。学内一般の人のムードは私が感じる限り、歓迎もされていないし、かといって拒絶もされていないですね。まぁ様子を見ようかといった感じでしたね。かといって無関心でもないんですよ。新聞はじゃんじゃん書き立てますしね、徳島大学といったら暗いニュースばっかりだったもんですから、むしろ明るいニュースとして受け止められたと思います。
鎌田:(倫理委員会については)ほとんど知らなかったですね。どちらかというと体外受精の先陣争いをしていましたので、早く決着をつけてウチ(徳島大学)が一番になったらいいなという感じで思っていました。医局の雰囲気はそんな感じでした。
山野:僕自身は当事者ですので、早く終わってほしいなというのが本音でしたね。
一同:笑。
松原:それまで技術的には準備万端整えて、満を持して持っていったわけですね?
森 :いつでも始められる体制は整っておりました。新聞記者が挑発的な質問をするんですよ。倫理委員会で長々と議論して、他の大学はどんどんやっているのに、遅れるのではないですかとかね。私は終始一貫「全然、急ぎません」と、十二分に議論してもらいたいと学部長にも申し上げておりました。そのかわりきちんとした、あとで後ろ指を指されないようなきちんとしたものを出してくださいよとお願いしました。
中島:申請が通らない可能性もある程度覚悟されていたんですか。
森 :いや、考えていませんでした。必ず通ると考えていました。
中島:それが必ず通るとお考えになった理由は?
森 :技術的に一定のレベルにあるし、そもそも通らない理由がない。新しいテクノロジーがあって、倫理委員会というオーソライズされた機関のパーミッションを受けて、なぜ反対するんですか? 反対するとすれば、奇形の問題と子どもに対する配慮云々の問題ぐらいですよ。厚生省は千例まで待てというんですよ。しかし千例はいつになるか分からないと。それよりもヒューマン・エクスペリメンテーションという風な考えでやって、世界のデータの蓄積を見ればそう遠くないので、その時点でまた考え直すことはできると。したがって、それは決定的な反対の理由にはならないと考えておりました。自信をもって申請したし、通らないとは全く考えていませんでした。宮尾先生はじめ、皆さんも必死になってやっていただきました。
鎌田:倫理委員会では3ヶ月4ヶ月かかって論議して、外部からも先生(専門委員)を呼んだりして、それは全て産婦人科の教室費から出しているわけなんです。費用は大学から出ているわけで、通るようにこっちも必死だったわけです。
森 :宮尾学部長から相談を受けて、かなりの人数、おそらく14、5人くらいだと思いますが、かなりの人を(専門委員として)推薦しています。委員会のメンバーは専門家じゃないから、呼ぶべき人を知らない。私の方でお願いした方を呼んでいただくと、こちらが費用を持たなくてはいけないわけです。旅費から、謝礼から、かなり莫大であったと思います。たまりかねて、事務長に言った。文部省にすでに許可はもらっているので、倫理委員会経費として請求しているのかと聞いたところ、していないと答えましたよ。
中島:この案件を出している医局が、倫理委員会にお話にこられる全ての方のコストを負担しておられたということですね?
森 :全てかどうかまではわかりませんが、かなり出していました。

■Ⅵ.日本産婦人科学会など、当時の医学界の対応や雰囲気について

山口:当時の学会、学外の雰囲気の動向についてお伺いしたいと思います。日産婦を始めとする学会が倫理委員会にどの程度の関心を持っていたのか、学会での森先生の立場、逆に森先生は学会をどのように見ていたのかなど。
森 :学会の倫理意識は必ずしも高くはありませんでした。生命の誕生を体外受精の方法でやるということの倫理的な意味を考えようというような雰囲気ではまったくなかった。周囲からは、技術レベルは徳島大学がトップで、最初の妊娠成功例は徳島大学からであろうと言われました。まぁ私本人を前にして悪いことは言いませんがね。(笑)。実際には慶応、東北、徳島でやっておりましたが、技術レベルは徳島大学が間違いなくトップだったと自負しています。
山口:鎌田先生、そこのところはどうですか、森先生のいないところでの評判は?(笑)。
鎌田:手前味噌になりますが、トップだと思います。週刊誌で一度「徳島大学で誕生」という記事が乗ったことがあります。まぁ、ガセでしたが。週刊誌などでも、徳島大がトップだと認識されていたんだと思います。
森 :明治維新とScienceは西から東だと公言する人もおりますが、私は決してそうとは思っておりません。しかし体外受精のことでは東大系にやらせたいと考えている人がいたと、ずっと後になって聞かせてくれました。事実かどうか判りませんが。
林 :倫理委員会を率先して学内でつくっていくという徳島大学の,日産婦とか学会などでの評価は?
森 :決して高い評価ではなかったですね。それによって、学会の足を引っ張るようなことをしてくれるなという空気はありました。私に直接電話してくる教授の方もいらした。だが,倫理委員会の出した見解というのが、その後の日産婦のモデルになっている。何も後ろめたいことをやっていたわけではない。
林 :他大学が倫理委員会ではなくて臨床のほうを進めていたということに対して先生の方から何か心配されたということはありますか?
森 :ことを始める時には、その中心となっている人物の哲学が反映する。鈴木先生はちゃんと東北大の体外受精憲章をつくっておられるが、これは有識者の意見も取り入れていない部内のものなので、倫理的な評価はできないと考えています。
飯塚先生は有識者の意見を聞くという方式で進めておられました。受精着床学会を作って、その学会の中ではテクノロジーなどを議論する学会という性格付けをして、倫理は扱わないという方針でやってこられました。しかし設立総会ですが、上智大学の倫理学の先生を招いて講演して頂くなど、倫理的な面での配慮も怠らなかったと思います。だから私は最初学会での倫理委員会設置を考えたけれども、それであきらめたんです。
松原:和田移植のようなことがあると、全体の段取りが狂う可能性があったわけですが、東北大学にせよ、慶応大学にせよ、先生が必要だと考えられたような段取りはとっていなくて、何かがあったときには先生のプラン自体がうまくいかなくなる可能性もあるわけですよね。
森 :もちろんそうです。全部つぶれます。だから、つぶれない安全策が必要だったんです。
松原:学会がみなを包括しているから、学会が手を打って、全体に波及させることが考えられますが、先生ご自身、受精着床学会でそれをなさろうとしていて結局はダメだったわけですね。先生が最終的に徳島大学でやろうと思った理由をお聞かせください。
森 :徳島大学のIRB、ローカルな倫理委員会に最終的に絞った理由ですね?
松原:えぇ。
森 :学会でガイドラインを決めてやっていくのが筋ではあるとおもいます。しかしそれはまず不可能であると。西村先生が受精着床学会的なものをお作りになっておったならば、私どもも全力で支えて、学会の委員会レベルでやろうとしていたと思います。その方が世間も納得するだろうし、省庁に対する圧力も強いだろうしね。現に文部省か厚生省に言いにいったときに、受精着床学会ができることを知っていて、学会を尊重しなさいということも言っていました。しかし学会は動かなかったので、最終的に大学レベルでやるしかなかったという事情はありました。
松原:筋としては学会レベルでやっていくところが、担い手の問題でうまくいかなかったと。
森 :はい。それでそういうジレンマがあったもんですから、国レベルというか、例えば中央倫理委員会というか、どの学会にも属さない政府の直轄の倫理委員会などいろいろ考えましたが、現実的には日本では実現できないという結論に達しました。イギリスではそのようなモデルがあります。
日本で初めてそれが実現しているのはなんだと思いますか? クローン技術規制法とこれを受けた特定胚指針とES細胞指針ですよ。ところが、これには生殖医療は完全に無視されているでしょう。
私は、HFEA的な機構をつくらないといけないと思っています。サイエンスとテクノロジーとエシックスを一元的そして総括的に論じて、そこで総合政策を立てる国家機関を造らなければいけない。少子化対策医療の構想や具体案なんかはその機関でできる。
山口:当時の学会レベルでは倫理的なものには無関心ではないにしても、どう対処してよいか模索していたということですね。
森 :産婦人科学会は徳島大学のガイドラインを見て、「体外受精に関する委員会」を設置して指針の作成をやり直したんです。それが58年の10月です。それがいまだに生きている。
山口:その作成に関しては森先生は?
森 :タッチしています。
林 :それまでの基準が不完全だと先生はおっしゃったわけですが、産科婦人科学会の50年史を見かぎり,理事会の中で基準について議論されたという形跡が見受けられないのですが。
森 :していないんです。
林 :だから、学会としての拘束力もないように思います。

■Ⅶ.倫理委員会での議論について

山口:実際の倫理委員会での議論についてもう少し理解を深めたいと思います。当時倫理委員会にTVカメラが入って、議論が公開されていたようです。医学部というのは外部に対して閉鎖的だというイメージがありますが、抵抗は無かったのでしょうか。また、それを見た側の社会的な反応はどのようであったか、専門委員の方たちの議論に対する森先生の評価などについて伺いたいと思います。
森 :現在では公開の原則は当たり前ですが、当時はそうではなかった。しかし公開しないと価値が半減すると考えていました。逆に一般の方、特に不妊症の方に体外受精とはどういったものであって、どういった方に有用なのかなど知ってもらうのに非常にありがたいと考えていました。原則としては公開ですが、実際には部分公開であった。完全公開にしてしますと、どうしても議論できない部分がでてしまうのです。
山口:公開することによって、教授会からの抵抗がありましたか?
森 :それは無かったですね。教授会にいちいち報告していたわけではありませんので。
山口:この議事録を公開申請してから、なかなか見せてくれなくて、半年ぐらい待たされました。当時より公開性が低下しているのかと残念に思います。
森 :ご覧になった議事録には主として専門委員の意見が記録されていると思います。私と松下君はオブザーバーとして陪席していましたが、専門委員とオブザーバーが退席した後にレギュラー委員で討議されたと思いますが、その内容の詳細は知り得ません。
田中:公開性を徹底しなければいけないとおっしゃる先生の哲学はその後の議論を先取りする形だと思います。先生がその哲学をどこで獲得されたのかという点が一つと、その先生のフィロソフィーから見たときに68年の和田移植とその顛末がどのように映っていたのか、そのことがこのことの原点にあると思われるので、それに関してお伺いしたい。
森 :私はその当時大学院を終わって助手だった。密室で行われて、結果としてああなったから問題になったわけで、成功していたら英雄になっていただろう、と。運が悪かったというのもありますけれども、私としては基礎研究が足らなかったのだろうと思いました。だから結局失敗した。その轍を踏むまいと思ったわけです。
密室でやって、成功すれば発表するし、失敗すれば伏せるというのが当時のやり方だったわけです。しかし患者さんの側に立ってみたら、医師に全幅の信頼を寄せて、その結果に対して悲しみこそすれ、医療過誤という認識は持っていなかったかもしれません。医療としてやる以上、医療者側の良心だけじゃなくてテクノロジー、サイエンスの裏づけが無いことにはやってはいけないんですよ。もっと基礎研究と技術レベルの自己確認をやらなければいけない。だから体外受精に関しても、チームの皆さんにやってもらったわけなんですよね。
それから私は医学とか医療技術というのは公共の共有財産だと考えています。一つの文化だと考えていて、医学は文化であると同時にサイエンスだと考えています。ですから共有財産である以上社会に還元しなくてはならない。社会に還元する以上、それはオープンにされなければならないというふうな考えを持っていました。それが倫理委員会を公開でやった理由だと私自身は考えています。
中島:今まで私は、齋藤先生サイドの文章から情報を得ていて、アメリカのIRBをモデルにして(倫理委員会を)立ち上げられたのだという歴史像があったのですが、今日お話を伺っていて、かなりその歴史像を修正する必要があると認識した次第です。アメリカのIRBというものを意識しつつ、先生がご提示になった徳島大学方式というものを構築されて、ある意味そういったものをミックスしたものが徳島大学の倫理委員会になったという認識でよろしいでしょうか?
森 :そのとおり。齋藤先生はIRBを参考しておられたわけだし、私はヘルシンキ宣言ともう一つはHFEAを参考にしました。HFEAに先立ってワーノック委員会ができて,厚生省ルートだったと思いますが、イギリス大使館から私にすぐ資料を送ってくれました。それをすぐ翻訳させて、それからアメリカの分厚い資料を、親類筋の女性が英語に堪能でしたので、彼女に翻訳・要約してもらった。(資料5)。
中島:アメリカのIRBでは、インフォームド・コンセントがどれほど徹底されたか、実際に文章を提出させてそれを審査するということが仕事の大きな部分を占めています。私が拝見した徳島大学の倫理委員会の倫理審査申請書の場合は、必ずしも被験者に同意を得た文章の提出を求めているということは伺えないのですが、その辺についてはどのように判定されておられたのか。
森 :同意文書ですね?
中島:えぇ。
森 :発表するときにどういう内容をどこまでするかということを決めておりました。奇形児が生まれたときにどうするかなど逐一決めておりました。もちろん同意文書も取ってですね、どこからつつかれても文句が出ないように、万端準備をしました。もし何か問題が出たらつぶれちゃいますもん。
中島:その辺はアメリカのIRBをかなり参考にされているのでしょうか?
森 :いや、アメリカのIRBは参考にしていません。私が考えたか、皆さんと相談して決めたか。
中島:ということは、先生は表面上IRBという言葉をお使いになるのですけれども、実際にその時には、アメリカのIRBを想定するべきではなくって、もう少し広い意味でのIRBということでしょうか?
森 :そういうことですね。逐一IRBをモデルにしていたわけではありません。私が参考にしたのはワーノック報告とそれに基いて設立されたHFEAの文書でした。
中島:そうしますと先生は84年の『からだの科学』の増刊号で倫理委員会に5つの原則,安全確保、生命倫理保持、患者の意思決定、プライバシー、そして公開というふうにおっしゃっておられる。これは先生が倫理委員会の運営上必要であるということで、この原則5つの原則を仕立てられたという解釈でよいですか。
森 :倫理委員会の運営というよりも、体外受精の臨床実施上という意味です。高木健太郎先生という公明党の参議院議員は生理学者なのですが、その方が両院の生命倫理議員連盟(1985年結成の超党派組織、会長は中山太郎衆議院議員(自民党))の事務局長をされていた関係で、私の教授室へ来られて細かく聞いていかれました。私も手術があるからこれ以上時間を取るのは勘弁してくださいと言ったことがありますけれども。高木先生は科学者としての目と思想家としての目の両方で体外受精を冷静に、しかし温かく見ていていただいた感を受けました。立派な先生だとの印象が残っています。お亡くなりになってから、ご遺族の方から先生の生き様を描いた回想録的な本をお贈りいただきました。
香川:先生が挙げておられる5つの原則について、徳島大の倫理委員会の他の委員の方はどれぐらい理解していたのでしょうか?
森 :他の委員の先生方は9つの認可条項を作られましたよね。それはかなり具体的な指針で、非常によくできた指針だと思いますけれども、私の5原則が、基本理念としてはっきり意識されていたかどうかは分かりません。
香川:あくまで5原則というのは、先生の…。
森 :私が勝手に自分の考えで書いたんですけれども、それを委員の方は原則として理解しておられたか、あるいはむしろ技術論と言いますか、プリンシプルとしてではなく,実際のコードとして理解していた可能性があります。
中島:5原則の中の生命倫理保持というのがありますけれども、ここで先生がおっしゃっている「生命倫理」はどのように解釈したらよいのでしょうか?
例えばアメリカのオーソドックスな生命倫理学、特に木村先生のおられたジョージタウン大学系ですと、具体的に4つの原則のうちどれとどれが対立しているのか、最終的にどちらの原則にウェイトを置いて決定を下すのかといった、ある意味数学の公式を臨床に応用するような形で、生命倫理上の問題を処理していくのが,初期の頃は主流だったわけです。そのようなことを視野に入れてお考えだったのか、あるいはもう少し他のものだったのか。先生がおっしゃっているところの生命倫理の中身の部分に関してお伺いしたい。
森 :木村先生が日本に生命倫理を持ち込んだ張本人じゃないかと私は思っているのですが、アメリカの現代の生命倫理の歴史は長く、さかのぼればギリシア時代になります。それでギリシア哲学から中世に入りますと、イギリスのベーコンの経験論とデカルトの合理論。それらを統合したのがカントなんですよ。カントが非常に有名な公理を出していて、そのカントの流れとアメリカのプラグマティズムが融合して、現代のアメリカ生命倫理学が生まれたと私は解釈しています。
アメリカ(の生命倫理)は非常に分かりやすい。アメリカは黒人差別があって訴訟が続発したから、これを何とかしなければいけないということでアメリカ倫理学というのができてきたんですよ。それは徳目論です。徳目が4つか5つあって、そのうちのいくつかを満足しているから、これは良いとか悪いとかそういう倫理判断なんです。それはそれで分かりやすいし、現実的でいいんです。ただしこの倫理手法は一般医学の倫理手法としては明快で有効なんですが、生殖医療には必ずしも適用できません。それは一般の治療医学と生殖医学とは倫理背景が大きく異なるからです。
問題は、生まれることの倫理が無いんです。それが一番のブラックボックス。脳死の時にあれこれ激論が交されたように,死の倫理はありますけれども、生まれることの倫理が無いんです。「生きること」ではなく「生まれること」をどう考えるかということの私見を近刊の本の中に書いています。私がそこで生命倫理と言ったのは生殖の生命倫理なんです。体外受精をやる場合の生命倫理であって、例えば遺伝子操作をしてはいけないとか卵子や精子の売買をしてはいけないといった倫理である。私の書いた本は『生殖の生命倫理学』という題の本なんですが、あと10年ぐらいにその中に書いたようなことをまともに議論しないことには、新しい技術が生殖医療には入ってこないと思ってる。
香川:委員会の中で議論された内容は具体的にはどのようなものだったのですか? 11回も行われたわけですから、最初のほうは色々な専門家を呼んでお話を聞いたりしたのだと思いますが、最後の2回ぐらい…、結論を出す段階でどういう方向に向かったのか?
森 :私と松下君がオブザーバーとして出席していて,こちらにも質問が来るわけなんですが、それを色々討論してそれから我々は退散するわけなんです。そのあと,委員が残って意見の交換をしていたように思います。ですからその分は私は知りません。それで最後の1回か2回はまとめの草案作りに3人の委員が選ばれていました。齋藤先生とあと2、3名の委員の方。
山口:河村さん(文夫、当時徳島大学医学部教授・放射線医学)、檜沢さん(一夫、同・病理学)の三名ですね。
森 :だからその人たちが起草したんだと思います。起草してそれをさらに全体委員会かなんかでやって、教授会に出たんじゃないですか?
山口:そのお三方が素案を出して、宮尾先生と圓藤先生と本家先生がその素案をもとに、ガイドラインと委員長ステートメントを作文することに決定されたようですね。(第10回倫理委員会で素案が提出され、最終回でガイドラインと委員長ステートメントが提出された。)
香川:その際のよりどころというのはもちろんそれまでの委員会の議論というのはあると思いますが、倫理委員会の規則というものが一つの結論を出すための手がかりとなっていたように思うのですが、そういうふうに考えてよろしいでしょうか?
森 :規則の趣旨に基づいて規則にのっとった議論をして、規則が求める審議内容をまとめたという形ですね。
中島:委員会判定には先ほどの5原則が貫かれていると受け止めていると先生はされるわけですけれども、実際にこのお三方がこの5つのプリンシプルに沿ってされたかどうかというのは?
森 :そういう原則を念頭に置いてやったのか、それともこれを実施する際にこれだけはやってもらわないかんという発想でやったのか、その辺りは私には分かりません。3人の委員がやったことですから。しかし指針内容は5原則を満たしたものと私は受けとめています。
土屋:委員会の判定についてです。厳密に医療行為に限定して実施することという判定ですが、これ以降、体外受精というものが治療として受け取られていく。他方、先生は先ほどから何回か、ヒューマン・エクスペリメンテーションだから最初はきっちりやらなきゃいけないとおっしゃっていました。では体外受精は医療なのか実験なのか。医療行為に限定して実施するといっても、実際には成功率はすごく低いということに関する先生のお考えをお聞かせください。
森 :体外受精を医療とするかどうかという点に関しては、間違いなく医療行為です。議論の余地はありません。ところが一般の方の中には、体外受精をしても不妊症が治るわけじゃないじゃない、だからこれは医療じゃないという人がいるんですね。そういう認識を持っている人がいるんだなとびっくりしました。妊娠できない、生殖機能がうまくいかないということ自体が生殖機能の異常なんですよ。本来リプロダクションという機能は、子孫を残すために人間でも動物でも持っている機能ですよね。どこかに異常があるから子供ができないのであって、その異常を是正する。これが医療でなくて何ですか? 医療で無いという理由が分からない、私には。
土屋:ヒューマン・エクスペリメンテーションだから最初の方はきちっとやらなきゃいけないということと治療であるということは、先生の中では両立しておられる?
森 :もちろん両立しています。医療行為と認められないもので何で実施できますか。医療というのは広い意味で診療ですね。診察とか診断とか検査とか、全部ひっくるめて医療といいますけれども、治療というのは治すことそのものを目的としている。だけれどもそこまで区別する必要は無いと思います。とりあえず医療という概念で処理すべき問題です。この体外受精という問題は。あえて区別するなら、エクスペリメントというのは未確立の段階の医療です。確立した医療といえるかどうかの評価は、症例数を重ねた結果評価されるべきものです。
土屋:結果がまだ分からない研究段階であっても、治療に含めてお考えですか?
森 :研究的治療、だから未確立の治療なんですよ。ヘルシンキ宣言においても未確立の治療は、人を対象とした実験的研究の段階を経なければならないと明記されておるわけなんですよ。ただしそういうことを認めるためにはちゃんと倫理委員会的なものに研究的治療のプロトコルを申請しなさいと書いているわけですよね。
松原:今までの倫理委員会の経緯を拝見していますと、いわゆる中央倫理委員会でやるような、まだほとんど行われていなくて倫理的にも危惧されるところがある研究に対して大原則を作っていったというイメージを持ったのですが、一般にIRBといいますと、研究プロトコルを具体的に審査したり、インフォームド・コンセントに関する文書を審査したりといったところですよね。
インフォームド・コンセントに関わる文書というと、A4一枚ぐらいのいわゆる同意書の他に説明文書というのがありまして、患者さんにはその二つを出します。要するに昭和57年から8年の倫理委員会において、患者さん向けの説明文書や同意文書を逐語的に吟味するということが行われていたのかということをお伺いしたい。
森 :逐語的というと?
松原:いや、その場で実際にこういう文書を患者さんに出しますということで、ここの言い回しは分かりにくいとか、間違っているといったようなことを指摘されるような、いかにもIRBでやっている、大原則に照らしての検討です。この場合は大原則そのものを作っているわけで、すごくご苦労されたと思うんですけれども。
森 :おっしゃるとおりですね、この委員会は二つの役割を果たしているわけなんです。中央委員会的なところと、IRBのようなものですね。IRBに関しては表面に出ておりません。新聞報道なんかはされていないと思いますけれど。実際には同意文書、説明文書から始まってですね、それから全世界の成績であるとか全て出して、逐一説明するわけなんです。山口大学の梶井先生(正、当時山口大医学部教授)という有名な人類遺伝学の先生がおられるんですが、そこの奇形児の場合のデータがどこまで出ているのかとか質問してくるわけなんですよ。ですからそういう質問を予想して、すべてのデータを調べておく必要があるわけです。それで成功率は現在のところこんなところですとか、全部それを出しました。
松原:ちなみに患者向けの説明文書はどれぐらいの分量でしたか?
森 :文書としては1枚ぐらいだったと思います。ただし松下君がかなり時間をかけて患者さんに逐一説明してくれました。
松原:同意書は別でしょうか?
森 :別だったと思いますよ。
山野:別ですね。今ではかなり厚い小冊子ぐらいの量になってます。
松原:では一通りお出しになって、IRB的な審議も行っている、と。
森 :そうですね。その通りで倫理委員会にも提出しています。
松原:それはいつごろでしょうか。11回のうち9回までが専門委員のレクチャーと意見交換のようなもので、11回目には判定が行われているわけですから、そのIRB的な実質的な審議というのは、10回だと。ただ一方で中央倫理委員会的な重たい審議もあるわけですよね。記録だけ拝見しますと10回目には色々な学識経験者とか市民の意見を聞いて9項目に落としていく作業がなされたと思うんです。テクニカルなこととか、患者さんに本当に分かってもらえるのかといったことなんかが同時並行的になされたのかもしれません。我々も通常IRBで結構時間を割いて説明文書とかそういったものをきっちり見るわけなんですが、それを10回目で一緒にやられたということなんでしょうか?
森 :一緒にやったと思います。資料として全部出しているんですよ。その資料の中で、関係した部分、患者さんとの同意云々といったことも当然あるし、そういった話された方もあると思うし、そのつどそのつどその資料がどうなっているのかということに関して、質問されます。一括してそういう記録を全部出しなさいと言われた記憶は無いですね。そのつど出しました。しかし実施するときには一括して出してると思います。あるいは最後の詰めの段階で一括して出したかもしれません。
松原:最後の58年の4月に?
森 :ともかく本文をつくるのに、かなりエネルギーを費やしたんじゃないですか。
松原:そうしますと、この原則が守られているから、先生の研究がスタートできたということですね。
森 :もちろんIRB的なこともチェックされていると思います。
松原:要するに、作業としては平行して行われたということですね?
森 :そうです。最後のまとめのときに委員会は最終的に点検したと思います。
松原:具体的に同意書のこの言葉を変えてくれだとか、説明文書の文字を修正するだとかそういった要望がでたり、お答えになったっていうことは?
森 :テニヲハを直す程度のことはありました。しかし全然そんなことは問題にならないと言いますか、たいした問題じゃなかったですね。
山口:議事録を見ますと、一回目に申請内容の審議がありまして、そこで森教授が申請書の内容を各項目について説明したとあります。それに対して各委員会ら質問があり、手順であるとか採卵数、体外受精と人工受精の違い…以下十数行に渡る質疑が行われた。2回目以降は専門委員の話を伺ってそれに即して話をした。それで10回目、素案ができて提案されたところで審議された内容は、審査結果とその様式に条件を記載する欄が無いがその扱いをどうするか。条件の遵守をチェックする機関が必要である、条件が守られなかったときの対応、申請者以外が本法(体外受精)を実施することに対する規制、実施の報告の内容などなどのことが審議された。それで次回に最終的な案を出す、と。そのように記録されてます。
森 :(IRB的な審議は)最後から2回目ですね、どうも。
山口:そうですね、最初と最後でそういう書類上のことをやったみたいですね。

■Ⅷ.手術検体の流用問題について(摘出卵巣の実験利用)

山口:最後に鎌田先生にお伺いしたいのが手術検体の流用問題について。
これは恐らく多くの大学で行われていたのだと思いますし、今も行われていると思います。そこで、第一に,なぜ徳島大学だけが問題とされたのか、受精卵だからいけなかったのか、それとも同意の有無がそもそも問題だったのか、などの点ですね。第二にマスコミ対策、最後に、国会においても問題になったわけですけれども(昭和59年3月26日、第101回国会決算委員会)、文部省としては倫理委員会の設置を求めていきたいと答弁したところ、社会党の議員がそんなもの大学に任せておいていいのかといったことを質問したんですけれども、それに関しては明確な答を出さないようなかたちで国会での議論が終わっていたと思うのですが、結局のところこの事件が倫理委員会の設置に関してプラスの影響を与えたのであろうか、その辺りに関連してお話を伺えればと思います。(資料6)。
森 :それまで研究をするときにはいちいち患者に断っていなかった。患者と医師との信頼関係に基づいていた。暗黙の契約で診療行為が行われていたわけです。その診療行為の中には、手術材料なんかも含めた研究材料なんかも入っている。どうぞお使いくださいといったような、暗黙の了解でやっておった。ところが卵とか精子とか胚というのは、普通の体細胞とは違うんですよね。区別して考えなければいけない。私はそういうことをあのNHKの記者に教えたんですよね。
第一次の成功の発表を8月の始めにしたんですよ。そのとき私は富士五湖のカンファレンスに行っておったんです。そうしたら学部長から電話があって、4時半から記者会見するから帰って来いと。一体何が起こったんですかと聞いたらですね、先生のところでは妊娠成功しただろ、と。そうですよ、でもまだ正式に報告していないのに何で先生そのこと知ってるんですかと聞きますと、NHKの記者から聞いたって言うんですよ。それでこれはおかしいな,何か情報が漏れているんじゃないかと感じた。(鎌田先生に)あの時君になんか言わなかったか? 気ぃつけろと。
鎌田:いや。先ほどから森先生が公開と言っておられますが、実験室も実は公開していたんですよ、密室にならないようにね。報道関係者が出入り自由だったんですよ。そういうスタイルでやっていたので、結局…。
山野:だからそれがまぁ、結局無断実験といわれた件に例のNHKの記者も一時同行したり取材したりしておったんです。
森 :それで、そういったことを話していたら彼(NHK記者)もどうも気づいたみたいなんですよ。しかも患者さんに無断で採っているということを問題にして、けしからんと言ってきたわけなんですよ。しかしですよ、大学の症例は癌の患者さんが多かったから、癌の場合は全部取っちゃうし、手術の前に実はこうこうで実験に使いたいから提供してくれなんてなかなか言い出せないしねぇ。患者の手前ねぇ。それでそういうことは了解してほしいと、それでそのほかの人に対してはできるだけ許可をもらうようにしていると。
屋良:それは告知してないからですか?
森 :癌の告知が問題になるのはもっとずっとあとになってからです。癌に関しては告知しない、というのが当時の常識。
癌の患者さんの組織切った後に、組織くれなんてなかなか言えないんですよ。中には怒り出す人がいますよ。人を何と思っとるんだと、実験材料かモノみたいにね。そういうことでこれは現実問題としてはなかなか難しい。難しいけどなんとかせにゃいかんから、ちゃんと日産婦に言うて作ってもらうからちょっと待ってくれよと言ったんですけれども、結局彼は聞いてくれなかったですね。その後の経過はあんた鎌田君が一番知っとると思う。
鎌田:時系列ですけれども、58年3月4日に森教授退任同門会祝賀会、その際に森先生が医局に来られて、これは関係あるかどうか分かりませんが、森教授が実験動物とか卵とか胚とかを供養しようということを発案されて、大学の中、ここらへんでできないかとかを探索したということがあります。3月5日の夜に森先生に記者からの電話があって、先生が説明されて報道するかもしれないということで、3月の6日に同門会の副会長の先生が一緒にNHKに行って説明をされております。それで3月の7日に森先生の最終講義があった、と。その辺りで、山野先生が取材された?
山野:前日ですね。無断であったかどうかという最終確認ですね。
森 :何と言った?
山野:僕はこんなこと答えられないんで、はぐらかして逃げてきました。
鎌田:それで3月8日の朝にその記者が宮尾学部長に取材してですね、こんなことしてるんだったら報道すると通告したわけですね。それで宮尾先生はあわてて森先生に連絡して、先生と僕と宮尾先生の3人でNHKに行って説明した。それで局長かなにかがおられたんですかね、それで昼のニュースはとりあえずやめますというふうに言ってくれて、そのままやめてくれるのかなと思っていたら、6時。
一同:笑。
鎌田:7時半、9時と3回、NHKが報道しました。それから新聞社がどっと来て、他の民放も来て、12時ぐらいにはほとんど全てのところで流れたという感じですかね。新聞報道が翌朝。
森 :あの時記者会見はどこでした?
山野:医局です。
森 :あぁ、医局でしたかなぁ。
山野:先生と、岸先生と、宮尾先生と松下先生との4人です。
鎌田:それでNHKの報道はかなり批判的であったが、翌朝の報道はそれほどでもなかった。それでちょっとほっとしたっていう感じです。それで先ほどの供養の話は、具体的には、先生の併任期間が切れる6月21日に医局歓送会の日に実施、それから毎年やっているんです。
森 :毎年,今でもやってる?
鎌田:今でもやってます。
それで、ちょうどNHKの6時のニュースが流された寸前に山野先生の論文が教授会で通ったんです。
森 :彼(山野)の学位申請論文の題目がね、「ヒト体外受精卵子宮内移植に関する基礎研究」なんですよ。それが教授会をパスしてからニュースが報道されたんですよ。
山野:教授会3時からですからね。
森 :もし教授会が後にまわってたら、審査はパスしてない。山野君は、学位もらえてない。
一同:笑。
松原:今のご説明で3月4日に動物実験の供養のご発案をされて、動物実験の供養の話と、それから人の受精卵とかっていう話はどういう流れでNHKとかの記者に伝わっていったのか?
鎌田:それは関係ないです。森先生の心のうちで,という意味です。
森 :京大では毎年実験動物供養、中絶胎児供養は行っている。ところが胚とかは入ってなかったんですよ。私は徳島大学で実験して動物殺すし、中絶なんかもするし、それに人の卵を使った受精実験なんかもやるから、この際胚も加えてやろうと…。
松原:そういう話を記者には?
森 :いや、記者にはしていません。記者は記事にならないことは書いてくれない。
松原:要するに、供養をしなければならないようなものを、実験に使っているのかという疑問がでますよね。実験動物供養については前からやってると思うのですが、さらに中絶胎児供養なんかも京大ではやってて、やはり胚というものにまで考えが及んでこられた、と。それで一方では実験にも使わなくてはならない、と。そのあたりを記者が供養の対象としているということを感じたということはあるのでしょうか?
森 :感じてなかったと思います。誰にもそのことに関しては話してませんから。
松原:記者は単に実験室に出入りしていて、どうもここで実験に使っているものは同意を取っていないようだというのが、報道された理由?
森 :そうですね。
山口:結局は同意の有無っていうのが、どちらかというと叩かれた点だと理解して宜しいんですね?
鎌田:一番最初は無断ということ。
森 :また私がモノといったことが、また物議をかもしたようです。というのも、法的なエンブリオの位置づけというのはですねぇ、人ではないしモノでも無くて、とりあえず中間的な存在。モノとしての位置づけしか与えられてない。そういう感覚だったわけです。それではおかしい。しかし神聖にして侵すべからずという位置づけをすると、体外受精そのものが成り立たない、と。それでそんなモノ扱いをしてはいけませんよと言ったら、モノという言葉だけが先走って、ずいぶんたたかれました。あとで朝日新聞の藤田真一編集委員からの取材に応じて私の真意をじっくり聞いてくれました(昭和59年4月23日)。有難かったですね。(資料7)。
   この際言うけれども、NHKの記者に関しては、第一例をすっぱ抜いたのも彼でしょ?
鎌田:そうです。
森 :この事件でもすっぱ抜いたし、彼はその功績で本局へ栄転したんですよ。それでNHKの会長賞もらったらしい。
鎌田:8月の3日だったのが私には分からない。
森 :あれはビックリしたよ。だってカルテを見なきゃ分からないような情報をキャッチしてるんだもん。
屋良:その時の患者さんが誰かということも?
森 :知っとった可能性はある。カルテそのものをコピーした可能性があるんですよ。想像はできますし、つじつまも合いますが、証拠がありません。だけれども彼は確実に入手するルートをつかんでたのではないでしょうか。
松原:徳島大学倫理委員会の長い議論は、基本的には体外受精技術を臨床研究としてGOサインを出していいかということですが,先生はサイエンスが重要だということで、実際論文とかで基礎実験のデータが出ていて、議論の中で受精卵の取り扱いが特別な意味を持つということもあったと思います。それで今でこそ受精卵に限らずヒトの検体をどう扱うかということにうるさいわけですが、同時に当時、海外の議論等でそういうところがあったと思うんですよね。要するに基礎実験に関する検体を扱う際のリスクマネジメントを、臨床研究だけじゃなくて基礎研究のところでも押さえておかないと。もちろん基礎があっての臨床ですから、基礎に対する細胞の取り扱いについても倫理的な検討、手続きをしなければいけないといったような議論は出たんでしょうか?
森 :倫理委員会で出たかということ?
松原:そうです。
森 :それは一切でていません。私自身はそういうことはきちんとすべきという感覚を持っておって、日産婦学会にそれは言いました。それで学会としての見解が昭和60年に出ております。
田中:この当時先生の研究室では、受精卵を実験に使う場合内規のような形で取り扱いについてルールはあったんですか?
森 :ルールは無かったです。
山野:無いです。
田中:研究される方々に任せられる形で?
鎌田:研究者に任せられる形です。
森 :山野君が一手にやっておったんですよ。やはり複数の人に任せるわけにはいかんというのがあって、彼に任せておりました。やっぱりなかなか(卵子が)採れないし、貴重なんですよ。1981年にイギリスのあるジャーナルに共同研究として出した研究の卵を採るのに四苦八苦して何年もかかったんですよ。やっとデータが揃った。だからスタートしてから5,6年かかってるんじゃないかな。体外成熟、体外受精までいって、一応そこで技術が確立したんですよ。その技術を習いに、京大産婦人科の発生学研究室に何人か行ってもらったんですよ。それを持って帰って、さらにそれを研究して技術レベルを上げてもらおうということをやっておったわけなんです。それでその都度、木村先生が来たときも研究会を開いて、発表か何かやってたでしょ?
山野:そのとき発表してます。
森 :全然密室でやってないんだから。

■挨拶

山口:それでは時間が来てしまいまして、積もる話もあって盛り上がってきたんですが。(笑)。一応一通りお話を伺うことができましたので、終了とさせていただきます。今日は貴重なお話を伺わせていただいて私ども大変勉強になりました。お礼を申し上げます。


参考文献

森崇英

1) 「体外受精」(高木健太郎編『現代の生と死 』『からだの科学』増刊号日本評論社、1984)
2) 「ARTの倫理と体制」(森崇英他編著『図説ARTマニュアル』永井書店、2002)
3) 「日本受精着床学会20年の歩み」(『日本受精着床学会雑誌』20、2003)
4) 「近畿青藍会 平成17年総会講演抄録 体外受精と徳島大学」(近畿青藍会HP、http://www.kinki-seirankai.com、2005)
5) 『生殖の生命倫理学』(永井書店、2005)
6) 「日本不妊学会過去20年の歩み」(『日本不妊学会雑誌』50、2005.10発行予定)

齋藤隆雄

7) 『試験管ベビーを考える』(岩波書店、1985)
8) 「徳島大学医学部倫理委員会について」(『医学のあゆみ』125-2、1983)
9) 「倫理委員会の意義と実際」(加賀乙彦編『脳死・臓器移植を考える』岩波書店、1990)

森崇英氏提供資料

(以下は、近畿青藍会平成17年総会講演時のパワーポイントをWORD文書に転記)

資料1

臨床応用への基本理念
完成された医療技術:患者と医師との信頼関係に基づく暗黙の契約
未完成の医療技術:医師の良心 和田心臓移植の苦い経験
         医師と患者以外に社会的/第三者の合意が必要

社会的合意を得る手続論
① 私的諮問:実施案を作り、有識者の意見をもとめる
② 診療科内での実施基準の策定:東北大学産婦人科方式(実施憲章)
③ 学会/研究会レベル:学会/研究会を設立して検討(動いていなかった)
④ 実施施設単位の審査会/委員会:
   東京大学医科学研究所の研究倫理審査委員会の先例(外国誌への投稿規程)
審査会/委員会方式が現実的で確実
⑤ 国レベルの審査機構:HFEA的な機構が最も望ましいが実現性に乏しい

資料2

体外受精の導入についての素朴な自問
体外受精はほんとうに必要か?
    医師の立場:不妊に悩む人々の役に立てるべき
医学研究者の立場:不妊の原因の追究
         治療法の開発
          に新しい局面が拓かれる可能性
患者の立場:生殖科学の進歩を患者の幸せに
       還元して貰いたい
社会の立場:医療技術は公共の共有財産
                やはり必要である!

資料3

産科婦人科における「体外受精と胚芽移植法」の実施に関する報告について
1 日時 昭和57年11月5日 14時~16時30分
2 場所 文部省大学局会議室
3 出席者 文部省側   医学教育課長 前畑安弘     課長補佐 行田 博
           大学病院指導室長 鳥野見 博       係長 今井義男
       本学側   産科婦人科長 森 崇英       助手 松下光彦
               事務部長 加藤泰義
4 文部省側の申し入れ要旨
(1) 不妊症の治療という観点から考えるべきことであって、その実施の当否について文部省が判断し、介入するという事柄ではないと考える。(注)患者を治療するに際して、医師は自分の判断で生命を救い、健康を回復し、苦悩を軽減する望みがあると考えるならば、自由に新しい診断法や治療法を用いる自由がなくてはならない(ヘルシンキ宣言Ⅱ-1)
(2) 大学における実施の決定は、受精着床学会(57.11.15発足予定)における医学的、法律的及び倫理的諸問題に関するコンセンサスを踏まえ、慎重に検討することが望まれる。
(3) その場合、病院内に医師以外の者を加えた「倫理委員会」を設け、産科婦人科の見解を同委員会に諮って、同委員会の了承を得るという手続きを踏むことが適切なものと考える。
(4) 患者への対応については、次のことに留意して検討する必要がある。(以下省略)

資料4

徳島大学方式(私案)

公聴会 Public comment

関連学会
産科婦人科学会
受精着床学会
倫理審査
委員会
関連省庁
文部省
厚生省

↑↓

医療担当者

↑↓

患者

資料5

HFEA:ヒト受精と胚研究の認可機構
ウオーノック委員会報告:1984
イギリス保健省がヒト受精と胚発生にかかわる医学、科学、倫理、法律についての考察と勧告のため、ケンブリッジ大学哲学教授・Warnock女史を委員長とする臨時調査委員会を1982年に設置→1984年、生殖補助医療と胚発生学研究に関して計64項目の提言
   ↓
自発的認可機関Voluntary Licensing Authority(VLA):1985
医学評議会(Medical Research Council)とイギリス産婦人科学会(Royal College of Obstetricians and Gynaecologists)が設立母体
   ↓
暫定的認可機関Interim Licensing Authority(ILA):1989
HFEA法の成立を控え、VLAを拡充した組織として再編
   ↓
ヒト受精と胚研究に関する法律Human Fertilization and Embryology Act(HFEA):1990
ウオーノック勧告に基づき、一般のヒヤリングを経て成立した法律
   ↓
ヒト受精と胚を対象とした治療と研究に関する管理機関Human Fertilization and Embryology Authority(HFEA):1991
HFEA法により設置された生殖医療と生殖医学・科学研究を統括する機関

資料6

国会での議論
昭和59年3月26日の衆議院決算委員会
社会党の新村勝雄議員:体外受精と受精卵の法的地位の2点の質問
★体外受精について
① 生命科学の進歩によって人間の生命の発生に人為的な操作を加えることの倫理的な問題について、徳島大学や東北大学のように単に大学の内部機関に任せておくだけでいいのかどうか
② 徳島大学では無断で体外受精の実験をしたという報道についての事実経過とその後の指導方針について

佐藤国雄文部省大学局医学教育課長:
① 不妊治療という面では体外受精という方法は朗報であるが、生命と倫理にかかわる重要な問題もあるので、文部省としても倫理委員会等の設置を求めていきたい
② 徳島大学からの報告によると、体外受精の臨床応用に先立ち、昭和57年3月から58年1月の間に、大学付属病院と県内の3病院において、治療目的で摘出した卵巣と不妊症の診断のために得られた卵子を用いて行なわれたもので、付属病院の症例の多くについては患者の同意を得て採取したと聞いているとの答弁

★受精卵の法的地位について
民法868条に規定の「胎児の相続能力」について受精卵は胎児に相当するか

永井紀昭法務省民事局参事官:
胎内に入っていない受精卵は従来の考え方によるとまだ胎児ではないと解釈されるが、これは体外受精が未だ無い時の解釈であって、民法868条の立法趣旨その他からすると、もしその受精卵が子宮に着床して無事出産したときには、遡及的に受精のときから胎児と同じように権利能力を認めるという解釈があり得ると答弁

この答弁が法的な効力をもつかどうかは法律家の判断に俟たねばならないが、
着床前胚の法的地位に関する唯一の公式見解

資料7

「わたしの言い分」
(『朝日新聞』夕刊1984年(昭和59年)4月23日月曜日掲載)
大見出し「受精卵はすべて人命か」
中見出し「研究用にも使う必要 許容範囲作りに英知を」
(本文省略)

参考資料

資料8

教授会議事録(抜粋)

●昭和57年11月11日
5)病院長報告
 齋藤(隆)病院長から、産科婦人科から申し出のあった「不妊治療における体外受精と胎芽移植法の導入」の取り扱いに関して病院内での検討結果、文部省との話し合いの結果等経過報告があった。
 また、森(崇)教授から別紙資料により本研究の経緯、国内・外情勢、産科婦人科の現況等について説明があり意見交換を行った。
 最後に病院長から、関係機関との連絡調整の結果、この種の研究に関しては倫理委員会の設置が必要とのことであるので、医学部に同委員会を設置したい旨発言があり、了承された。

<別紙資料1>
不妊治療における「体外受精と胎芽移植法」の導入について
経緯:昭和56年度 構想と下準備
   昭和57年度 本格的かつ具体的プランの設定
国外情勢:1978年7月第1号誕生(ケンブリッジ・グループ)
   現在、英・オーストラリア・米・西独・フランス・スウェーデン・オーストリア等で実施。現在妊娠中のものと既に出産したものを含めて推定200例以上。
国内情勢:1)日本産科婦人科学会第36回総会(昭和58年、仙台市)
       宿題シンポジウムのテーマ
       学術企画委員会・小委員会での付記事項(別紙参照)
     2)受精着床学会
       非公式に厚生省当局者の見解打診
       学会設立準備委員会(57.6.18)
        弁護士・評論家等の意見聴取
       設立総会(57.11.15)→学会レベルでのコンセンサス
当科の現況:プロジェクトチーム6人(医師4人、培養専門の薬学士1人、ホルモン測定技術員1人)
   不妊症特殊診療室(第2分娩室横、旧汚水処理室)
   患者への対応(説明要項、同意書、診療報酬額)
   麻酔科との共同研究体制
   問題点(奇形)

<別紙資料2>
日産婦誌34巻8号(昭和57.8)
会告
学会会員殿
第36回学術講演会シンポジウム課題の決定
ならびに担当希望者公募について
(開催地:仙台市 会長:鈴木雅洲教授)
 さきに本誌会告により第36回学術講演会シンポジウム希望課題を会員から公募し、その結果下記の課題を採用することに決定しております。
 つきましては、課題担当者を公募いたしますので、希望者は下記要領によりお申し込みください。
 課題:卵の側から見た受精と着床をめぐる諸問題(可能な限りヒトにおける諸現象を取り扱うことが望ましい)

 ヒトの体外受精(in vitro fertilization)ならびに受精卵の移植(embryo transfer)は、すでに、国際的に不妊治療の一環として応用されていますが、この領域の研究を実施するにあたっては、わが国における倫理的、法的、社会的な基盤を十分に配慮し、さらに有効性と安全性を評価し、以下の付記事項に留意の上で、これを行うことを希望します。
 付記事項
1.臨床応用に際しては、動物実験によるquality control*を十分に行い得ること。
2.医師が総ての操作および処理に責任をもてる状況で行うこと。
3.実施に際しては、被験者に方法と予想される成績について十分に説明し、その同意を得ること。
4.体外受精の段階でとどまったもの(the unbornなど)については、その取り扱いに十分注意すること。
5.被実施者は、合法的に結婚している夫婦とし、非配偶者間では行わないこと。
6.疑問点については、本学会に照会すること。
 *器具、操作、培養手技などについては、マウスなどの動物実験でその安全性を十分に確認すること。

●11月25日
7 徳島大学倫理委員会規則(案)について
 規則(案)の審議に先立ち、「不妊治療における体外受精と胎芽移植法の導入」に関し、森(崇)教授の説明を交え意見交換を行った。
 規則(案)の審議においては、審査の対象となる研究の範囲、倫理委員会の責任、申請者の範囲等について質問があった。
本件は次回定例教授会において議決することにした。

<別紙資料1>
ヘルシンキ宣言(省略)

<別紙資料2>
徳島大学倫理委員会規則(案)
(目的)
第一条 この規則は、徳島大学医学部(以下「医学部」という。)及び同附属病院に所属する教授、助教授、講師及び助手(以下「研究者」という。)が行う、人間を直接対象とした医学の研究及び医療行為において、ヘルシンキ宣言(一九七五年東京総会で修正)の趣旨に添った倫理的配慮を図ることを目的とする。
 (審査の対象)
第二条 この規則は、医学部及び同附属病院で行う、前条の研究及び医療行為に関し、研究者から申請された実施計画とその成果の出版公表予定の内容を審査の対象とする。
 (倫理委員会の設置)
第三条 前条の審査を行うため、医学部に倫理委員会(以下「委員会」という。)を置く。
 (組織)
第四条 委員会は、次の各号に掲げる委員をもって組織する。
 一 医学部長
 二 附属病院長
 三 基礎医学系の教授     二人
 四 臨床医学系の教授     二人
 五 医学分野以外の学識経験者 二人
2 前項第三号から第五号までの委員は、医学部教授会の議を経て、医学部長が委嘱する。
3 前項の委員の任期は二年とし、再任を妨げない。ただし、委員に欠員を生じたときは、これを補充し、その任期は前任者の残任期間とする。
4 委員会に委員長を置き、委員の互選によって決める。
5 委員長に事故があるときは、委員長があらかじめ指名した委員がその職務を代理する。
 (委員会の責務)
第五条 委員会は、この規則の対象となる事項に関し定められた手続を経た申請に対し、倫理的・社会的観点から審査する。審査を行うに当たっては、特に次の各号に掲げる観点に留意しなければならない。
 一 研究の対象となる個人の人権の擁護
 二 被験者に理解を求め同意を得る方法
 三 研究によって生ずる個人への不利益並びに危険性と医学上の利益の予測
 (委員会の招集)
第六条 委員長は、委員会を招集し、その議長となる。
 (議事)
第七条 委員会は、委員の三分の二以上が出席し、かつ、第四条第一項第五号の委員の出席がなければ会議を開くことができない。
2 申請者は、委員会に出席し、申請内容等を説明するとともに、意見を述べることができる。
3 審査の判定は、出席者全員の合意によるものとし、次の各号に掲げる表示により行う。
 一 非該当
 二 承認
 三 条件付承認
 四 変更の勧告
 五 不承認
4 委員会が必要と認めたときは、委員会は公開することができる。
5 審査経過及び判定は記録として保存し、委員会が必要と認めた場合は公表することができる。
 (専門委員)
第八条 専門の事項を調査検討するため、委員会に専門委員を置くことができる。
2 専門員は、当該専門の事項に関する学識経験者のうちから医学部長が委嘱する。
3 委員会が必要と認めたときは、委員会に専門委員の出席を求めて調査検討事項の報告を受け、討議に加えることができる。ただし、専門委員は、審査の判定に加わることはできない。
 (申請手続及び判定の通知)
第九条 審査を申請しようとする者は、別紙様式第一による倫理審査申請書に必要事項を記入し、委員長に提出しなければならない。
2 委員長は審査終了後速やかに、その判定を別紙様式第二による審査結果通知書をもって申請者に通知しなければならない。
3 前項の通知をするに当たっては、審査の判定が第七条第三項第三号、第四号又は第五号である場合は、その条件又は変更・不承認の理由を記載しなければならない。
 (庶務)
第十条 委員会の事務は、医学部庶務係において処理する。
 (雑則)
第十一条 この規則に定めるもののほか、この規則の実施に当たって必要な事項は、委員会が別に定める。
   附 則
この規則は、昭和   年  月  日から施行する。

●12月9日

7 徳島大学医学部倫理委員会規則(案)について
 森(崇)教授から「不妊治療における体外受精と胎芽移植法の導入」(後の倫理委員会へ申請題目は「ヒト体外受精卵子宮内移植法」である)に関しての動物実験データの報告および宮尾学部長から前回の教授会での質問事項に対する考えについて発言があった。それに対して委員会の性格、本問題の慎重な処理などについて発言とアドバイスがあった。
 検討の結果、一部字句を修正(3箇所)し承認された。
 承認後、学部長から委嘱予定委員(下記のとおり)の指名があり、教授会はこれを承認した。
(圓藤真一四国女子大学長、本家真澄教養部長、檜沢教授、勝沼教授、井上(権)教授、河村教授)

<別紙資料>

徳島大学倫理委員会規則(案)(3箇所の修正済みのもの)(省略)

(注記: 修正箇所)
・(委員会の責務)第五条→(委員会の審議内容)第五条
・第五条の三 …医学上の利益の予測→ …医学上の貢献の予測
・第八条の2 専門委員は…医学部長が委嘱する→…委員長が委嘱する

資料9
徳島大学医学部倫理委員会での審議過程]

1.
S.57.12.14
倫理委員会の所掌範囲を決定
委員長選出
「人体外受精卵子宮内移植法」の届出を受理
 
2.
57.12.22
医事紛争の専門家の意見を聞き検討 弁護士 饗庭忠男
3.
58.1.9
宗教家(仏教)の意見を聞き検討 京都女子学園長 武邑尚邦
4.
58.1.10
動物の体外受精の専門家の意見を聞き検討 北里大学獣医畜産学部教授 豊田裕
徳島大学医学部教授 大黒成夫
5.
58.2.5
報道関係者の意見を聞き検討 朝日新聞東京本社科学部長 柴田鉄治
6.
58.2.12.
医の倫理及び動物の体外受精の専門家の意見を聞き検討 ジョージタウン大学ケネディ研究所アジア・バイオエシックス研究部長 木村利人
京都大学農学部教授 入谷明
徳島大学医学部教授 生田琢己
7.
58.2.25
先天奇形の専門家の意見を聞き検討 山口大学医学部教授 梶井正
徳島大学医学部教授 大黒成夫
徳島大学医学部教授 内田孝宏
8.
58.3.7.
女性の立場からの意見を聞き検討 評論家 樋口恵子
9.
58.3.23.
報道関係者(女性)、児童心理学者、産婦人科医である宗教家(カトリック)の意見を聞き検討 NHK社会教育部チーフディレクター 藤井チズ子
大妻大学家政学部教授 平井信義
聖母女子短期大学教授 尾島信夫
徳島大学医学部教授 生田琢己
10.
58.4.9
参考意見を踏まえて判定についての審議を行う
11.
58.4.12
審査判定を行う
「判定:条件付き承認」

資料10
「ヒト体外受精卵子宮内移植法」に関する申請についての倫理委員会判定

判定 条件付承認
条件 下記1から9までを遵守すること

1. ヒト体外受精卵子宮内移植法(以下「本法」という。)を厳密に「医療行為」に限定して実施すること。
2. 本法の実施にあたる医療チームは、目的達成に必要かつ十分な知識と技術とをもつ医師及び技術員であって、各分野ごとに十分に対応できる組織が構成されていること。
3. 本法の実施に当たっては、十分な施設・設備が整備されていること。
4. 本法の実施は、その全過程にわたって、指導にあたる医師が責任を負いうる情況の下で行われること。
5. 本法を実施することができる対象は、次の各項に該当する者に限ること。
1) 申請書における絶対的適応者で手術的あるいは保存的療法若しくはそれらの併用によっても妊娠の見込みのない者。ただし、将来本法が確立された段階においては、申請書における相対的適応の承認も考慮する。
2) 法律上の夫婦であって、双方共に実子をもつことを熱望しており、本法の実施及び育児に伴う精神的、肉体的、年令的及び経済的な負担に耐え得ると判断される者。
3) 本法の実施方法とそれに通常伴うリスク、現時点での成功率、先天性異常発生の可能性、目的達成のためには本法の反復実施の必要があるかもしれない点、経費の負担その他必要な事項について十分かつ適切な説明を夫婦が同時に受け、一定の考慮期間を経た後、自発的意志に基づく本法実施の依頼書と卵採取術の同意書を夫婦連名で提出する者。
6. 採取された卵及び精子並びに受精卵は本来の目的以外に使用し、叉は使用させないこと。
7. 本法実施の過程で遺伝子操作及びそれに類する一切の操作を絶対に行わないこと。
8. 本法の実施対象となった夫婦及び出生児のプライバシーの権利は最優先されなければならない。本法の実施関係者は夫婦及び出生児にかかる一切の秘密を洩らさないこと。本法による出生児は社会的関心をあつめることが予想されるが、むしろ「ふつうの子供」として成長し得るよう慎重に配慮すること。
9. 申請者は本委員会の求めがあればこの条件の遵守に関する報告書を本委員会に提出すること。
10. 上記の各条件に違反した場合は、承認が取り消されることがある。
昭和五八年四月一二日
徳島大学医学部倫理委員会
資料11

徳島大学医学部倫理委員会委員長 談話

1. 昭和五七年一二月九日制定の徳島大学医学部倫理委員会規則によって本委員会が発足した。
2. 昭和五七年一二月一四日産科婦人科学講座森崇英教授から「ヒト体外受精卵子宮内移植法」(以下「本法」という。)の実施計画について倫理審査申請書の提出があった。
3. 同日、本委員会は、この申請書を受理し、倫理的、社会的観点からの審査を開始した。その後、医学研究者、生物学者、宗教家、法律家、報道関係者、評論家、児童教育学者等一五人(うち女性三人)に及ぶ各界の権威を専門委員に委嘱して体外受精についての意見を伺い熱心な討議が行われた。
4. その間、全国及び地元の報道関係者の関心が高く、論議の内容や問題点についてかなり詳細な報道が行われた。また、地元一般県民の関心も強く、集会、講演会、投書、アンケート調査その他の形で論議が高まり世論の結集に役立ったことは、本委員会としても幸であった。
5. 本委員会は、本法が多様な価値観を有する国民各層からいまだ必ずしも圧倒的支持を得るに至っていないことに鑑み、医療面のみならず広く社会全般に及ぼす重大な影響を考慮し本法の実施にあたって厳重な条件を付した上で、医療行為の枠内で認めることとした。申請者にも本法実施に伴うマイナス面を最小限度にとどめるよう最大の努力を払うことを求める。
6. 申請者は、本法がいまだ完成の域に達した技術でないことを認識し、不妊治療の最後の手段と考えられる場合に限定して行うことを求める。従って、先天異常の発生予防、その他の本法に関連する知識と技術の一層の向上改良に今後真剣に努力することを望む。
7. 本法の実施を受けた夫婦及び出生児が直面すると予想される精神的、肉体的、家庭的及び社会的諸問題との対応については医療担当者や医療機関の能力を超えるものがあると考えられる。従って、本法実施前から出生児の成人に至る経過全体にわたって、夫婦及び出生児の相談を受け、また必要に応じて適切な処置をとることが不可欠と考えられるので、これらの対応措置が早急に実現できるよう国の配慮を期待したい。
昭和五八年四月一二日

資料12

体外受精についてのアンケート調査

 私達、徳島大学医学部産科婦人科では不妊症の治療の一手段としての体外受精、胎芽移植を行うことについてのアンケート調査を行っております。御手数ですが御協力下さい。(○印でお答え下さい。)

A. あなたは
 1.女性  2.男性  3.未婚  4.既婚
B. 年代は
 1.10代 2.20代 3.40代 5.50才以上
C. お子様は
1.いる  2.いない   いれば(    )人
D. 今後子供がほしいか?
1.ほしい  2.ほしくない  3.わからない
E. 今までに不妊症の治療(相談)をしたことがありますか?
 1.ある  2.ない
F. 「体外受精」という言葉について
 1.内容についてもくわしく知っている
 2.少しは知っている
 3.聞いたことは有るがくわしくは知らない
 4.全く知らない
G. 不妊症の治療法の一つとしての体外受精、胎芽移植は
 1.行ってもよい
 2.条件つきで行っても良い(その条件とは        )
 3.行うべきではない
 4.わからない
G-1. 上の質問で1.と答えた人のみ
 1.外国ではすでに一般化して行なわれているから
 2.子供を産むか否かは夫婦間だけの問題で夫婦二人が納得すれば良いから
 3.体外受精以外の方法では妊娠できない人に対しては止むを得ないから
 4.現代の医学を信頼しているから
 5.体外受精は将来不妊症の一般的な治療方法の一つになると考えるから
 6.その他(例えば                   )
G-2. 上の質問で3.と答えた人のみ
 1.倫理、宗教、慣習上なじまない
 2.安全性に問題が有る
 3.成功率が低い
 4.費用が高い
 5.遺伝子操作など今後に問題を残す可能性が有る
 6.その他(例えば                   )
H. もしあなた(あなたの奥様)が不妊症で体外受精以外の方法では妊娠が望めないと医師から宣告されたら
 1.体外受精を受けてでも子供が絶対欲しい
 2.受けることを考えてみる
 3.体外受精は受けない
 4.わからない


インタビューの成果と今後の課題
山口裕之

徳島大学医学部倫理委員会は「日本最初の倫理委員会」として有名であるが、その設立の経緯については必ずしもよく知られているとは言いがたい。今回の調査・インタビューによってその経緯をかなりな程度明らかにすることができた。まずは、有意義な会となったことを、インタビューに協力くださった森先生・鎌田先生・山野先生のお三方、および調査協力者の皆様にお礼申し上げたい。インタビュー後に研究分担者・研究協力者が反省のための座談を行った。そこでの議論をもとに、今回の調査・インタビューの成果と今後の課題について簡単にまとめておく。以下、意見を述べた人の名前を示しておく(敬称略)が、発言についてのまとめや解釈の責任は山口にある。

○倫理委員会の設立の経緯について
まず、今回の調査の主要な関心である倫理委員会の設立の経緯について。
倫理委員会の設置に中心的に関わったのは、森先生、齋藤隆雄病院長(当時)、宮尾益英医学部長(当時)の三人であると言われるが、中でも齋藤先生の記述が書籍の形となっており(参考文献7),9))、一般の手に入りやすいことから、倫理委員会の設立に関しては齋藤先生側の発言が参照されることが多かったと思われる。今回の調査では、そもそも倫理委員会の設置を提案された森先生のお話をうかがうことができ、倫理委員会の設置における森先生と齋藤先生双方の役割がかなりな程度はっきりした。詳しくはインタビュー記録を参照してもらうとして、ここでは概略のみ記す。
倫理委員会の設置(という具体的な形の提案ではなかったにせよ、何らかの審査機構の設置)は、体外受精の日本への導入と定着のために森先生が発案されたことであり、森先生と齋藤先生、宮尾先生が文部省・厚生省との交渉、医学部教授会の説得などを行った。また、倫理委員会規則を制定するなど、倫理委員会の具体的な形を与えたのは齋藤先生と宮尾先生であり、森先生は体外受精を審査される立場であるので倫理委員会の具体化には関与を避けられたということであった。
当時の日本の医学界(日本産婦人科学会など)は、倫理的な規制には及び腰であり、受精着床学会はテクノロジーを議論するための学会であって倫理的な問題は扱わないとされていた。医学部教授会でも、倫理的な規制は医学の進歩にマイナスという意見も強かったようである。そうした状況にあって、森先生としては、体外受精を日本に定着させるために社会的合意を得ることが必要という信念のもと、倫理的な審査機構を設置することが必要であると考えられ、提案されたということであった。
森先生が社会的合意の必要性を感じられたことの背景には、和田移植事件があった。体外受精の場合に危惧されたことは奇形児の誕生であり、万一奇形児が生まれた場合の責任の所在などについてあらかじめ議論を尽くして社会的な合意を得ておかないと、臓器移植の場合と同様、日本での体外受精の導入が困難になる、という問題意識であった。
倫理委員会が「社会的合意を得るための手段」として構想されたことについて、インタビュー後の反省会では何人かが違和感を表明した。すなわち、アメリカでは倫理委員会は第一義的に被験者保護のためのものであるので、社会的合意のために設置されたものは「倫理委員会」と言えるのか(中島)、当時としては体外受精は「治療的実験」であったはずなのに、「被験者保護」という観点はどれくらいあったのか(土屋)、などの意見が出された。たしかに、アメリカにおける倫理委員会の設置には、タスキギー事件などに代表される「非倫理的な」人体実験に対する反省から、実験の規制と被験者保護という目的意識が強く働いている。それに対して、徳島大学倫理委員会は、研究者サイドが実験的治療の社会的合意を得るために設置されたということは、アメリカとの対比で興味深い特徴となっている。
ただし、たとえ森先生の動機が「社会的合意を得ること」であったとしても、実際に作られたあと、倫理委員会では被験者保護について、体外受精を実施される男女のみならず、生まれてくる子供の将来などについてまでも議論がなされている。そうした議論が(現在の水準から見て)十分なものであったか否かについては別途検討の余地はあるが、よしんば不十分なものであったとしても、当時「生命倫理学」がほとんど知られていなかったことを考えると、一定の評価が与えられてしかるべきであろう。また徳島大学の倫理委員会をモデルとする倫理委員会が各大学に設置されていったことなどから、徳島大学の倫理委員会が日本における「倫理委員会」の先駆けであるという点については疑問の余地はないものと思われる(ことによると、アメリカ的な被験者保護第一とは少々異なる日本的な倫理委員会の先駆けであると言うべきなのかもしれないが、これも別途検討の余地がある)。
また、倫理委員会の設置に当たり、森先生・齋藤先生らの行動は、文部省や厚生省との交渉、教授会の説得など、非常にポリティカルなものであった。このように、常に交渉相手を考えつつ対応するという点が非常に「政治的」でありまた「日本的」でもあるのではないかという感想が出されたが(田中)、これが「日本的な特徴」なのか「新たなものの立ち上げに伴う特徴」であったのかは慎重に判断しなくてはならない(林)、という意見も出された。たしかに、新たな組織(しかも公的な性格を負わされる組織)を設置しようとするときには必ず、政治的対応が必要になってくるから、「新たなものの立ち上げに伴う特徴」ではないかという指摘は納得のできるものである。
 その他、今回の調査では、文部省がヘルシンキ宣言にのっとった倫理委員会の設置を文書の形で示唆していた、などの事実を明らかにすることができた。

○倫理委員会での議論について
倫理委員会での議論については、森先生は審査される側の立場であり、必ずしも全貌を把握されているわけではないのであるが、倫理委員会議事録なども参照しつつ、当時の倫理委員会が、IRB的な手続き論的な審査と、中央倫理委員会が行うような倫理原則に関する議論を並行的に行っていたことを明らかにすることができた。ただし、実際の審査に携わった倫理委員各人の意識や考え方、結論を出す上での倫理的原則などについては不明なまま残された。
倫理委員会での審査についてインタビュアー全員が驚いたことは、審査される側が専門委員を人選し費用を負担して招聘したという点であった。これは現在では審査の中立性確保の観点から考えられないことであるが、当時はそれで違和感がなかったのであろうか。もちろん当時は、審査方式はもちろん倫理委員会制度そのものが手探りで形作られつつある状況であるから、現在の視点から批判することは慎むべきではあるが、それでも少々違和感の残る事実ではある。ただし、費用に関しては、国立大学の予算制度の中ではやむをえないことだったのではないか(田中)との意見も出された。
倫理委員会での議論はテレビ中継されるなど、可能な限り公開の原則で行われていたのであるが、今回のインタビューでは、当時は実験室まで公開しており、そこに記者が自由に出入りしていたという話をうかがうことができ、興味深いものであった。齋藤先生も著書の中で公開の原則を繰り返し強調しておられるが、現在でも医学部という組織は閉鎖性・秘密主義が批判されがちであるのに対し、このような公開の姿勢は特筆すべきことであると思われる。

○今後の課題など
最後に、今回の調査では必ずしもはっきりさせることができなかった点を今後の課題として指摘する。
1)まず、一番大きな点は、「なぜ徳島大学だったのか」(松原)という点であろう。もちろん、体外受精への社会的合意を形成したい森先生と、アメリカ留学で倫理委員会初期の熱気あふれる現場を見聞した齋藤先生、「大局を見ていた」宮尾先生の三人が出会った場が徳島であったことはある意味歴史の偶然ではあるが、当時としては学会でも先端(異端?)の発想であった倫理委員会を、おそらくは医学界や教授会での抵抗にもかかわらず、なぜ徳島大学は設置することができたのか、という疑問は残る。
当時の徳島大学産婦人科の具体的な状況として、「教授不在の時期がずいぶん長くて混迷していた」との森先生の発言から、「上の世代がいなくて森先生が存分に力を振るえたのではないか」(真野)との推察も可能であるが、今回はこれらの点について突っ込んだ話をうかがうことはできなかった。
2)同じく松原から、1980年の「富士見産婦人科病院事件」の影響について指摘があった。当時、同病院が不正に卵巣・子宮を摘出したとして社会問題化していたのであるが、80年代前半はその他薬害事件などで患者や市民グループの運動が盛んになったころである。森先生のお話でも、「体外受精を考える会」という市民グループで講演を行ったということであった。そうした市民運動の動向が、倫理委員会の性格に与えた影響を検討することも今後の課題となろう。
3)今回は、倫理委員会規則案を練られ、倫理委員会での審査にも携わられた齋藤先生や宮尾先生のお話をうかがうことができなかった(残念ながら宮尾先生は故人、齋藤先生はご病気のため)。そのため、これらの具体的な過程については明らかにすることはできなかった。齋藤先生の記述では、「倫理委員会のお手本は、欧米の医学部の医学研究審査委員会のスタイルです。外発も何も、輸入そのものですね」(参考文献7)、254頁)とあるので、規則のモデルはそうした海外IRBの規則であるかと推察されるが、具体的には明らかではない。歴史的な証言を記録しておくことの重要性が痛感される次第である。
4)この小文でも指摘したとおり、徳島大学倫理委員会は「社会的合意形成」という目的を負い、関係各所への政治的交渉のうえに設置された。また設置後、この委員会は、IRB的な審査と倫理的大原則の提出という二義的な役割を果たしつつ議論を行った。これらの点は、「日本的」であるのか、「徳島大学的」であるのか、それとも「立ち上げに伴う特徴」なのか。そうしたことを明らかにするためには、海外の倫理委員会との比較検討、このあと全国的に設置が進められる他大学の倫理委員会との比較検討、倫理委員会の役割の歴史的な変遷の検討など、多面的な検討が必要になることと思われる。
さしあたり以上を今後の課題としたい。

最後に、真野の発言をもって小文のまとめとする。「生命倫理の歴史を考える上で、多くの資料の保存と公開が行われ、今回、インタビューが実現したことについて、森先生の科学者としての姿勢に負うところが大きかったと思います。そういう先生が培われた土壌の上に、生命倫理委員会の設置や情報公開への志向が育ったということを実感しました」。


UP:20050519  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2005/0219.htm


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