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> HOME >DATABASE 差別論 野宿者 被差別部落 女性 性/ジェンダー/セクシュアリティ 在日朝鮮人 アイヌ 沖縄 外国人 障害 病 年齢 <差別論> 【差別の定義】→http://www.arsvi.com/d/d04.htm <差別論の現代史> 【1950年代〜1960年代】 ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修/児玉惇・小林祥一郎・谷川健一編19591130『日本残酷物語第1部―貧しき人々のむれ』平凡社 執筆/石塚尊俊・江馬三枝子・大牟羅良・桂井和雄・鎌田久子・河合護・小寺鉄之助・佐々学・更科源蔵・島一春・瀬川清子・高橋梵仙・高浜幸敏・竹内利美・竹内理三・野辺地慶三・宮本常一・森克巳・森嘉兵衞・森崎和江・代情山彦・脇坂昭夫 目次 刊行のことば 「これは流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた人々の物語である。自然の奇蹟に見離され、体制の幸福にずかることを知らぬ民衆の生活の記録であり、異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱のさ中では、生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である。民衆の生活体験がいかに忘れられやすいか―試みに戦時中の召集令状や衣料切符、戦後の新円貼付証紙を保存しているものが、わずか20年後の今日ほとんどないことからみても、現代がむざんな忘却の上に組み立てられた社会であることがわかる。小さき者たちの歴史が地上に墓標すら残さなくなる日は眼前に迫っている。それだけにいっそう死滅への道をいそぐ最底辺の歴史を記録にとどめておくことの必要の今日ほど切なるものはない。/民衆自身の生活にとって、納得しがたいことがいかに多いか、しかもそれらがいかに忘れ去られてゆくか―これが『日本残酷物語』をつらぬく主題旋律である。つつましい炉の炎を確保するために地獄に近い地底に降りてゆかねばならない小さき者の後姿ほど、納得しがたい物語を背負ったものがあるだろうか。しかし体制の最底辺にあって体制の爪にもっとも強くとらえられた者たちこそ、その実はもっとも反体制的であり、体制を批判する人間の自由をどん底でやむをえずつかんだこともたしかである。ゆえに『日本残酷物語』は非日常的な特殊な事件とはまったく無縁であり、つねに日常的な姿勢のもとに、ごくあたりまえの民衆層に受けとめられた生活の断面なのである。私たちは、追いつめられた民衆がこの断面に施したさまざまの陰刻から、もっとも強烈な生の意味を汲みとろうとする。/そうした願望を集大成した最初の試みとして『日本残酷物語』はその価値を世に問うのである。」(p.1) 貧しき人々のむれ 序 第一章 追いつめられた人々 海辺の窮民 山民相奪う 掠奪に生きる 乞食 第二章 病める大地 飢えの記録 自然の悪霊 第三章 弱き者の世界 老人と子ども 女の座 はたらく女たち 遊女 天草女 ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修19600125『日本残酷物語第2部―忘れられた土地』平凡社 執筆/犬飼哲夫・岩切登・大牟羅良・沖縄タイムス・鎌田久子・木戸清平・河野広道・小寺鉄之助・佐藤道得・更科源蔵・新里恵二・高倉新一郎・谷川雁・富田実・日塔聰・浜英彦・比嘉春潮・松山義雄・宮良当壮・宮本常一・向山雅重・森克巳・吉田三郎・渡辺茂 目次 忘れられた土地 序 第一章 島に生きる人々 禁じられた海 みちの島 さいはての島々 島ちゃびの沖縄 火の鳥の記録 第二章 山にうずもれた世界 消えてゆく山民 山の騒動 山にはたらく人々 第三章 北辺の土地 蝦夷の土 自然のわざわい 土と人 ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修19600325『日本残酷物語第3部―鎖国の悲劇』平凡社 執筆/及川儀右衞門・大原富江・片岡弥吉・小寺鉄之助・後藤捷一・進士慶幹・助野健太郎・高橋梵仙・田北耕也・竹内利美・谷川雁・田村芳朗・中野清見・中村きい子・二宮哲雄・原口虎雄・藤谷俊雄・馬原鉄夫(ママ)・宮本常一・室賀信夫・森克巳・森嘉兵衞・森永種夫・山川菊栄・山口麻太郎 目次 鎖国の悲劇 序 第一章 禁制をおかす者 鎖国の海 鮮血のくるす かくれきりしたん 異端の信徒 第二章 国を恋う人々 漂流の記録 流されびと 第三章 領国の民 士族気質 武家の女性 藩境をこえて 第四章 身分制のくさり 部落の民 身売り奉公 ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修19600530『日本残酷物語第4部―保障なき社会』平凡社 執筆/秋山清・石田外茂一・犬飼哲夫・楫西光速・金子光晴・河岡武春・高倉新一郎・高橋哲夫・竹内利美・所三男・西田長寿・日向野徳久・福地重孝・松岡進・宮本常一・森崎和江・山口弥一郎・由井晶子 目次 保障なき社会 序 第一章 過渡期の混乱 庶民の表情 うばわれた山林 開化のかげに 第二章 ほろびゆくもの さびれゆく町村 流亡の村 士族のゆくえ アイヌ悲歌 第三章 流離の世界 落伍してゆく者 漁民流離 家のうつりかわり 移民のむれ ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修19600725『日本残酷物語第5部―近代の暗黒』平凡社 執筆/安孫子麟・磯村英一・伊丹川善通・犬飼哲夫・大橋薫・落合重信・更科源蔵・柴田俊治・柴田善守・渋谷定輔・島津千利世・新海悟郎・角圭子・須見新一郎・高野義祐・高橋実・田中新次郎・谷川雁・中村きい子・沼田流人・原親宏・増島宏・松尾尊~・真壁仁・宮本常一・森崎和江・渡辺茂 目次 近代の暗黒 序 第一章 根こそぎにされた人々 都会の島々 東京の奈落 女工の青春 第二章 地のはての記憶 監獄部屋の人々 海の流刑囚 坑夫の内臓 地底の変異 第三章 大地のうめき 農村の窮迫 米騒動 第四章 狩りたてられた者 半島の隣人 戦勝のかげに ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修19600530『日本残酷物語現代篇1―引き裂かれた時代』平凡社 執筆/石津澄子・石牟礼道子・今掘誠二・大江志乃夫・大野二郎・大橋喜一・岡田靖雄・奥田穣・甲斐八郎・金関義則・神田貞三・小林里代・小林宏・佐木秋夫・佐藤武夫・渋谷純一・島津千利世・田中豊・つきだまさし・中西義雄・中村卓美・野村喜久夫・橋本宏子・原一郎・福森隆・藤川治生・馬原鉄男・三沢義一・三島洪ニ・宮崎章・森崎和江 目次 引き裂かれた時代 序 第一章 巨大産業の底辺 機械の奴隷たち 続 女工の青春 鉄の王国 第二章 労働者のふるさと 出稼ぎの島 島からきた人々 むしばまれる労働 第三章 風と水の記録 わざわいの国土 つくられる水害 第四章 現代の傷跡 癒えざる者の声 原爆の地 ◇宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴監修19610121『日本残酷物語現代篇2―不幸な若者たち』平凡社 筆者/秋山清・上野満・江口常平・大川郁夫・大牟羅良・香川健二・君島孟雄・佐木秋夫・佐藤省三・島一春・高津勉・谷川雁・中村きい子・春木一夫・間宮茂輔・丸山邦男・宮本常一・村上兵衞・森田孟進・吉川数美・渡辺操 目次 不幸な若者たち 序 第一章 田舎の若者たち 村の余り者 古き村に芽ぶく 第二章 離郷者 貧しき立志伝 地底の若者たち 制服のなかの魂 荒野に消える声 小さき土地をすてて 第三章 海浪のかなたに 青春の稜線 南島の憂鬱 第四章 石をもて追わるごとく 若きテロリストたち 追放された人々 【1960年代後半〜1970年代】 ◇鈴木二郎監修・信濃毎日新聞社編集者19690520『現代の差別と偏見―問題の本質と実情』新泉社→1968年8月21日〜12月22日・信濃毎日新聞連載 目次 まえがき―鈴木二郎 序にかえて―鈴木二郎 未解放部落―鈴木二郎 沖縄―大田昌秀 性別―もろさわようこ 定時制 高校―尾形利雄 夜間中学T―見城慶和 U―塚原雄太 職業―木村京太郎 ハンセン氏病―八幡政夫 基地住民―鈴木二郎 原爆被爆者―永原誠 ●付属資料(在韓被災者) 混血児―平野威馬雄 アイヌ人―高倉新一郎 在日朝鮮人―鈴木二郎 黒人―本田創造 ユダヤ人―村松剛 華僑―鈴木二郎 難民―梶谷義久 おわりに―中野好夫 あとがき―信濃毎日新聞社文化部 ◇馬原鉄男・小関三平・真田是・仲村祥一編19700201『現代日本の社会問題3―支配と差別の社会問題』汐文社 目次 第三巻 編集担当者・馬原鉄男 第一部 第一章 部落問題―馬原鉄男 第二章 朝鮮問題―在日朝鮮人の民主主義的民族教育を中心にして―韓美妃 第三章 沖縄問題―佐治田勉 第四章 原爆被爆者問題―田村紀雄 第二部 第一章 行政と差別―青山滋 第二章 教育と差別―小川太郎 第三章 戦後日本資本主義の構造と労働における差別 ◇津村喬19700215『われらの内なる差別』三一書房 目次 序 第1章 《異邦人》―沈黙と言葉 1 或る《異邦人》の死 2 日本近代の《原罪》とマルクス主義 3 《帝大解体》と沖縄・部落・朝鮮の視点 第2章 出入国管理法案粉砕闘争 1969年の経験 1 アジア"再侵略宣言"としての入管法 2 入管法闘争の歴史的諸条件 3 法案闘争からゲットー《体制》解体の闘いへ 4 批判的総括 第3章 70年代への国家形成と階級形成 1 インタナショナルの欠如と困難 2 日常生活批判と永続的造反の論理 3 新段階の支配体系と労働者階級 第4章 日本文化大革命と差別の構造 1 《内的ナショナリズム》としての差別構造 2 国境を超える文化大革命 後記 ◇思想の科学社19760901『思想の科学』No.66(通巻274号) 主題 差別を考える 差別について何を語りうるか―津村喬 区別から差別へ―企業内差別の芽―五木博 子ども観にひそむ差別―斎藤次郎 身体的差別―アフリカで考えたこと―上野博正 なぜ「犯罪人」を描くか―小沢信男 出会いの前夜―「文子 禁忌の秩序への進入―ダイアン・アーバスの写真を見て―中尾ハジメ 反「評価」の思想―田辺道雄 ハゲもヘアスタイルの一種です―金子勝昭 進路保障をめぐるたたかい―教育現場からの報告―前川太市 【1980年代】 ◇新泉社編集部編19811231『現代日本の偏見と差別』新泉社 本書に発刊に際して 総論―小山弘健 女性―村上陽子 老人―堀越栄子 在日朝鮮人―朴慶植 アイヌ民族―ポン・フチ 被差別部落―土方鉄 沖縄―新崎盛暉 原発地域―堀江邦夫 社外工・下請工・パートタイマー―村上明夫 宗教―丸山昭雄 思想―小山弘健 学歴―柳田邦夫 夜間中学―松崎運之助 付・定時制高校 養護学校―岡村達雄 障害者―渡辺鋭氣 原爆被爆者―上野清士 公害病患者―宇井純 ◇新泉社編集部編19830416『現代反差別の思想と運動』新泉社 本書の発行について 第一部 女性解放の運動と理論―鈴木祐子 高齢者運動の現状と課題―石毛^子 アイヌモシリ解放運動―ポン・フチ 在日朝鮮人運動―朴慶植 沖縄民衆の運動と思想―原田誠司 第二部 被差別部落の解放運動―土方鉄 少数派労働(組合)運動―小山弘健 下請・委託・臨時労働者の反差別の闘い―村上明夫 反戦を生きる・我らの反基地闘争―新倉裕史 反原発闘争と反差別闘争―稲岡宏蔵 第三部 原爆被爆者の運動―上野清士 公害・薬害被害者の運動―松岡信夫 障害者解放運動―渡辺鋭氣 「精神障害者」差別に対する闘い―吉田おさみ 第四部 夜間中学開設運動―松崎運之助 養護学校・特殊学級へのふりわけに抗して―北村小夜 「学校」化社会の反乱軍たち―宮淑子 ツッパリ少年が特殊学級に隔離された―生江有二 別編 ウーマン・リブ―村上陽子 ユダヤ人運動―今野敏彦 黒人運動―アメリカ黒人を中心に―今野敏彦 民族的少数派―少数派グループから国際共同体へ―I.M.カミニスキ 総括にかえて―小山弘健 執筆者一覧 ◇原田伴彦編19841120『講座・差別と人権第1巻―部落T』雄山閣 1 部落問題をどう考えるか―原田伴彦 2 被差別部落の歴史 一、古代・中世の被差別民衆―寺木伸明 ニ、近世の被差別部落 三、近代の被差別部落―秋定嘉和 3 部落差別の現実と問題点―八木晃介 ◇原田伴彦編19850220『講座・差別と人権第2巻―部落U』雄山閣 1 部落解放運動―反独占民主主義闘争としての位置づけ―渡辺俊雄 2 同和行政の歴史―藤野豊 3 同和行政の現状―横島章 4 同和教育と啓発の論理と実践―元木健 5 部落差別と宗教と人権―谷口修太郎 ◇一番ヶ瀬康子・塩沢美代子・中嶌邦編19850720『講座・差別と人権第3巻―女性』雄山閣 1 女性差別と人権問題の構造―一番ヶ瀬康子 2 女性差別と人権の歴史―日本近代史における―中嶌邦 3 女性差別の現状と課題 一、女子労働における差別問題―塩沢美代子・広木道子 二、"妻の座"をめぐる差別―金住典子 三、農村・農家の婦人問題―田端光美 四、"売春問題"の現代的課題―高橋喜久江 五、"母子問題"の現代的展開―丹野喜久子 六、高齢期の"婦人"問題―島田とみ子 七、文化・教育における女性差別と人権―佐藤洋子 ◇原田伴彦・姜在彦編19850420『講座・差別と人権第4巻―民族』雄山閣 1 在日朝鮮人問題 序章 なぜ「在日朝鮮人問題」か―姜在彦 一、在日朝鮮人の形成史―佐々木信彰 ニ、在日朝鮮人の法的地位―歴史篇―飛田雄一 三、在日朝鮮人の法的地位―現状篇―山本冬彦 四、在日朝鮮人子女の教育問題―梁永厚 五、在日朝鮮人の生活と現状―佐藤信行 2 民族問題と差別―歴史的・構造的把握のための試論―田中宏 ◇一番ヶ瀬康子・津曲祐次・小島蓉子編19860120『講座・差別と人権第5巻―心身障害者』雄山閣 1 障害者差別と人権―一番ヶ瀬康子 2 障害者差別と人権の歴史 一、身体障害者の歴史―二日市安 二、精神薄弱者の歴史―津曲祐次 三、精神障害者の歴史―岡田靖雄 3 "くらし"のなかの差別 一、教育―北沢清司 二、労働―飯川勉 三、障害者の家計―志子田悦郎 四、結婚と家庭生活―秋山和明 五、住宅および住環境―高橋儀平 4 "文明"の生んだ障害者問題 一、公害と生活破壊―川瀬善美 二、原爆被爆者問題―山手茂 5 国際社会での日本の障害者―小島蓉子 ◇磯村英一・内田雄造編19851020『講座・差別と人権第6巻―底辺社会』雄山閣 1 底辺社会とは何か―磯村英一 2 底辺社会の歴史的変遷 一、農村の生活―長須祥行 ニ、漁村の生活/熊本県南部・湯堂の場合―最首悟 三、炭鉱の生活―滝井義高 四、工場労働の変遷と労働者の創出―東京・城東地区―森清 五、都市下層社会の形成と変容―内田雄造 六、恤救政策から生活保護の体制―磯村英一 3 底辺社会の現状 一、「近代化農政」の農業施策と農民管理―長須祥行 ニ、熊本県南部の漁村・湯堂にみる環境破壊―最首悟 三、工場労働の現場―森清 四、未来なき原発被曝労働者―樋口健二 五、圧殺された炭鉱―滝井義高 六、山谷・泪橋―宮下忠子 七、夜間中学の現場から―松崎運之助 八、中国帰国子女―国家による二度にわたる棄民―高山智恵子 九、冤罪の被害者―雛元昌弘 十、アジアの都市底辺社会―内田雄造 ◇磯村英一・三浦文夫編19860420『講座・差別と人権第7巻―高年者』雄山閣 序章 現代社会と老人―磯村英一 1 老人問題の所在と差別の背景―三浦文夫 2 老人の健康障害と人権―奈倉道隆 3 家族と老人―直井道子 4 農村高齢者問題の構図―蟻塚昌克 5 老人と貧困―生活保護老齢加算と老齢福祉年金との関わりを中心に―六波羅詩朗 6 老人と就労―高齢就労の実態と問題点―本間信吾 7 婦人問題からみた老後―林千代 8 老後保障の事態と課題―年金改革をめぐって―山崎泰彦 9 老人福祉サービスの現状と課題―市川一宏 10 老人の権利―橋本宏子 終章 老人差別克服の方向としての福祉社会―三浦文夫 ◇菅孝行編19851225『いまなぜ差別を問うのか』(シリーズ差別構造を読む1)明石書店 いまなぜ差別を問うのか―菅孝行 差別と周縁性―理論的試論―山崎カヲル アジア近代における差別のメカニズム―インドを素材として―小谷汪之 「女性の身体性」から差別を問う―金井淑子 宇都宮病院問題の背景にあるもの―小澤勲 都市の差別―粉川哲夫 差別と言語表現―池田浩士 「新左翼」と反差別論―天野恵一 ◇菅孝行編19860310『反差別の思想的地平』明石書店 はじめに 1 いま反差別とは何か―菅孝行 ●近代ヒューマニズムをこえて 2 帰属意識をめぐって―柴谷篤弘 ●解放の場での多数/少数志向と加害/被害志向 3 インドにおける不可触民差別―小谷汪之 ●正常な差別と異常な差別 4 小集団の誇りの回復に向けて―花崎皋平 ●在日先住民・アイヌの解放運動から 5 国境・土地所有と差別―村井吉敬 ●アジア・太平洋の先住民族から学ぶもの 6 在日沖縄人としての感性―太田武二 ●本土一体化と排外主義のはざまで 7 意識と制度・両面からの改革を―金賛汀 ●朝鮮人差別の根を探る 8 踏み絵を踏まない子供たち―鄭暎惠 ●在日朝鮮人三世と学校生活 9 子どもは分けてはならない―北村小夜 ●「特殊学級」からの発言 10 虐殺、差別に抗する反撃の陣形を―風間竜次 ●寄せ場・日雇い労働の現場から 11 部落解放理論の歴史的展開―鎌田行平 ●社会主義理論との関係から 12 「平等」意識からの解放―加納美紀代 ●女性差別の起源論から 13 差別からの解放とは何か―花崎皋平・菅孝行 ●討論・反差別の思想的地平 後記 ◇菅孝行編19880210『現代日本の差別』(シリーズ差別構造を読む2)明石書店 ●現代日本の差別の情況 総論 現代日本の差別諸相―菅孝行 ●部落差別の情況 都市部落 住宅闘争を契機にして―笠松明宏 ●部落差別の情況 農村部落 農山村部落における部落差別―丸尾良昭 ●精神医療の現場から 日本の精神医療と精神衛生法―島成郎 ●身体障害者は今・・・ 「違い」を認め合える関係の創出を!―障害者差別からの提起―牧口一二 ●ハンセン病者への差別と偏見 片居から抹殺へ―癩差別の歴史的考察―島比呂志 ●アイヌ―差別と抹殺の情況 法の名において―国家 官僚によるアイヌ差別―横山孝雄 ●異民族として女として 春よ恋、はやく来い―猪飼野から日本人へ―1987年3月15日―宋秋月 ●女が「生きる」ために おんな解放の社会学―女、いまを生きる―深江誠子 ●寄せ場に生きる人々 釜ヶ崎・野宿者・死に追いやる差別―寄せ場差別の情況を釜ヶ崎中心に報告―松繁逸夫 ●教育現場の差別選別といじめ いま、学校で・・・―野口良子 あとがき 菅孝行 【1990年代】 ◇井上俊 [他] 編19960412『差別と共生の社会学』(岩波講座現代社会学 / 井上俊 [他] 編 15)岩波書店 アイデンティティを超えて―鄭暎惠 常民の形成―「土佐源氏」を読む―赤坂憲雄 差別のエスノメソドロジー―場面の組織化とカテゴリーの組織化―山崎敬一・山崎晶子 能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について―立岩真也 アイヌシモリの回復―日本の先住民族アイヌと日本国家の対アイヌ政策―花崎皋平 国民国家日本と日本人「移民」―キムチョンミ 日本における外国人労働者の共生と統合―手塚和彰 差別的表現と「表現の自由」論―湯浅俊彦 アイデンティティの政治学―石川准 いじめ―排除の政治学」―保坂展人 複合差別論―上野千鶴子 差別研究の現状と課題(overview)―福岡安則 ◇栗原彬編19961115『講座・差別の社会学第1巻―差別の社会理論』弘文堂 差別の社会理論のために―栗原彬 特権集団と差別構造―システム理論と閉鎖理論の応用的見地から―山口節郎 差別の複合性への視座―差別と排除の現象学的社会学のために―西原和久 差別の語法―「問題」の相互行為的達成―西坂仰 アイデンティティ管理のエスノメソドロジー―山田富秋 差別の民俗史―巫女と毛坊主のいる風景を辿って―赤坂憲雄 「差別表現」を考える―差別―被差別関係の「ねじれ」と他者化―佐藤裕 部落差別における<距離化>の一問題点―江嶋修作 「レトリックのパラドックス」と差別化―法的言語行為論―小畑清剛 科学の言説と差別化―米本昌平 宗教と差別―高山眞知子 女性差別の文化史―レイプの政治学―若桑みどり 日本社会のジェンダー差別の構造―内藤和美 日常生活における「日本人」の呈示とスティグマとしての外国人 リー・トンプソン いじめ―村瀬学 いじめと学校社会―人間学的考察―菅野盾樹 企業主義的調整様式と新しい差別化―レギュラシオン理論による―山田鋭夫 ◇栗原彬編19961215『講座・差別の社会学第2巻―日本社会の差別構造』弘文堂 差別とまなざし―栗原彬 在日韓国・朝鮮人のアイデンティティと差別―福岡安則+金明秀 戦略としての生活―被差別部落のライフストリーから―桜井厚 部落問題の社会学―八木晃介 障害児と家族をめぐる差別と共生の視角―「家族の愛」の再検討―要田要江 公害、労災の中の差別の構造―水俣、三池をつなぐもの―原田正純 共生と隔離をめぐる社会学的実態―<池袋>の自画像をいかに描くか―奥田道大 現代日本社会における構造的沖縄差別としての日米安保―新崎盛暉 非婚をめぐる差別―庄司洋子 虚構としての男と女―性別カテゴリーのエスノメソドロジー―山崎敬一+山崎晶子 共生へのユートピアとその挫折―学校改革運動の「近代」と「反近代」―佐藤学 指紋と国家―管理と差別の交差する場所―渡辺公三 近代日本における病者の差別―成田龍一 フィールド・ノート:患者と医療者の新しい関係へ―辻本好子 フィールド・ノート:障害をめぐる差別構造―野辺明子 フィールド・ノート:ケア・システムの差別構造―医療サービスのなかの"ケア"の葛藤―佐藤登美 フィールド・ノート:わた史の中の「共生」の風景―柳田耕一 ◇栗原彬編19960228『講座・差別の社会学第3巻―現代世界の差別構造』弘文堂 世界の受苦と差別の構造―栗原彬 アジアという差別―地球と地域の対流―上田信 <アジア>という差異化/差別化―彌永信美 韓国の反日主義について―鄭大均 韓国における労働者文化の形成―階級的条件の洞察と編入―姜明求 欲望という名の地図―アパルトヘイトから癒しへの道―勝俣誠 差別からのドロップ・イン―イスラエルのモロッコ系ユダヤ人―臼杵陽 聖書における差別と共生―「よきサマリア人の譬」によせて―荒井献 自由と排除―西欧近代社会と差別―福井憲彦 再帰的近代化と差別構造の変容―ドイツの場合―坪郷實 日本とドイツの労働移住政策比較―戦前から現在まで―金子マーティン フランスの人種差別(ラシズム)―杉山光信 メタ近代化と複合的差別化―伊藤るり PC運動―反差別と逆差別のはざまで―澤田昭夫 国際政治の差別構造―高柳先男 スティグマを生み出すコミュニケーション―山本里奈 エイズと差別―その文化差―大井玄 帝国と人種―植民地支配のなかの人類学的知―渡辺公三 カースト社会に生きる―田中雅一 ◇栗原彬編19960330『講座・差別の社会学第4巻―共生の方へ』弘文堂 共生ということ―栗原彬 共生の構想力―見田宗介 いのちのケアをめざして―川本隆史 差別のダブルバインドを解く―杉山あかし 共生の言語―ピジン、クレオールと中間言語―西江雅之 文化と差別―文化研究におけるジェンダー、エスニシティ―吉見俊哉 相生としてのデザイン―ノーマリゼーションとは何か―川崎和男 半歩踏み出す身振りの技化―語るスタンスから動くスタンスへ―齋藤孝 共生の宿る空間―鈴木了ニ 日本国家への視座―共生社会は可能か―網野善彦 「たのしい記号」からの眺め―文学は「差別」をどうとらえられるのか―黒川創 まちづくり・差別づくり・共生づくり―森反章夫 都市型社会におけるコモンズ―中村達也 いじめの政治学―中井久夫 震災の中の差別と共生―関東大震災と阪神大震災の比較分析―今防人+大畑裕嗣 奄美は、よみがえるか―地域社会における差別と共生―小谷敏 アジア世界における<共生>のかたち―矢澤修次郎 アジア型ネットワーキング―サルヴォーダヤ運動を手がかりに―田村智子 アイヌにおける差別と共生―計良光範 【2000年代】 ◇佐藤裕2005『差別論―偏見理論批判』明石書店 →下記 ◇郭基煥20060615『差別と抵抗の現象学―在日朝鮮人の「経験」を基点に』新泉社 はじめに 序章 差別の哲学的人間学的問い 1 差別の現在 2 差別の<ひそやかな関係> 3 シュッツとレヴィナスの他者論 4 現象学的社会学の差別論へ 5 主体の経験構造を内側から読む 第T部 被差別体験の生成―差別されるとはいかなる経験か 第1章 被差別体験の生成 1 始源における被差別体験 2 シュッツの間主観的世界と行為論の検討 3 行為において顕現する間主観的関係―<アクティヴな我々関係> 4 <アクティブな我々関係>の崩壊と被差別体験 第2章 被差別体験と「解放の指針」 1 差別研究における発生論的問いの重要性 2 被差別体験と「解放の指針」 3 <アクティヴな我々関係>の受動性 4 <アクティヴな我々関係>と対面状況 5 解放運動としての<内破運動> 第3章 被差別体験の意味―『変身』から 1 毒虫・グレゴール・サムザの体験 2 グレゴール型被差別体験―経験されたことのない差異の押しつけ 3 被差別体験と「警戒心」 4 戦略 5 「共生」の思想と被差別体験 6 被差別体験のルサンチマン 第U部 差別行為の生成―そもそもなぜ差別をするのか 第4章 他者と社会の超越と差別行為 1 他者と社会の超越 2 超越についての知 3 <あなたたちの世界>経験と他者の<社会的運動> 4 <社会的運動>の果たせない否認としての差別 5 送別における真摯さ 第5章 差別行為のリアリティ 1 現象学的視座から差別問題を問うことの意義 2 シュッツにおける他者 3 レヴィナスにおける他者 4 世界のリアリティと<あなたたちの世界>経験 5 <病>としての差別 第6章 よそ者になることへの「不安」 1 「相対的な自己」と「普遍的な自己」 2 普遍的自己と<世界の囲い込み> 3 世界の「不安定さ」について 4 <世界の囲い込み>と差別 第V部 責任としての抵抗―差別に立ち向かうとはどういうことか 第7章 差別の<今、ここ>―「北朝鮮」と在日朝鮮人 1 共犯化への誘惑 2 北朝鮮表象の分裂と帝国主義的意識 3 北朝鮮表象と韓国表象 4 <そこの暴力> 第8章 責任としての<抵抗>―<対決>へ促す「声」 1 「傷」を見つめること 2 命名の暴力 3 <倒されない私>と<恐怖する分身としての私> 第9章 <ハン(恨)と共に>―李良枝の小説から 1 『由熙』の作家への切り詰め 2 「不遇感」と「不条理感」―『ナビ・タリョン』から 3 <ハン>と共に生きる身体―『かずきめ』から 4 内破運動への合流 終章 差別と抵抗の<ひそやかな関係>―「救済」としての抵抗 補章1 回帰する過去と回帰しない過去―在日が在日に向かって語るとき 1 扉を開けるための語り 2 客体として在日表象 3 語りの構造の転換 4 「在日問題」と「日本人問題」 5 悲しみに基づくつながり 補章2 事実的異邦人から倫理的異邦人へ―未来の住人としての在日朝鮮人 1 朝鮮人という経験 2 日本人のポジショナリティ 3 戦後責任問題と在日朝鮮人 4 事実的異邦人から倫理的異邦人へ 補章3 日本と他者と公共性―痛む者に向き合う実践 1 東アジアと日本 2 「横並びの関係」と「向き合いの関係」 3 <他者>不在の「横並びの関係」 註 あとがき 参考文献 ◇スガ秀実 20061010『1968年』ちくま新書 「戦後民主主義批判の文脈のなかにおいて、日本の六八年は、一九七〇年の「七・七華青闘告発」を直接の契機として、在日朝鮮・韓国人や在日中国人、さらには、障害者や被差別部落出身者等々、そして、いうまでもなく女性といった、無として排除されてきたマイノリティーを見出してくのである」(p.87)「それに(「新左翼」)代わって多種多様なマイノリティーあるいはサバルタンと呼ぶべき、不可視だった存在が「歴史」の「主体」として浮上してきた。日本という狭い領域に限っても、「在日」中国人・台湾人、「在日」韓国人・朝鮮人は言うに及ばず、アイヌ、琉球人、被差別部落民、障害者、性的マイノリティー等々、そして何より女性が、それである。彼ら/彼女らが、七・七を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきたのだ」(p.193) ◇好井裕明20070410『差別原論』平凡社 第一章 "差別の日常"という問題 「しかし、私は、この本でやってみたいこと、できれば読者に伝えたいことは、差別を何らかの専門的な言葉や概念、理論を使って理路整然と説明することではない。差別をめぐる説明ではなく、私たちが、差別という出来事とどのように向き合い、どのように交流できるのか、その仕方について語ってみたいのだ。」(p.16) 「誰かから「あなたはこれこれの差別をした」と指摘される。自分にはまったく身に覚えがないし、なぜ指摘されるのかわからない。でも指摘には応えなければならないとする。そのとき私たちは差別に対して"とりつくろうこと"に専念してしまう。世の中に流布されている差別をめぐる常識を、または差別だと指摘する誰かや差別と闘い解放をめざす組織が持っている差別への処方を丸呑みにし、たとえば"指摘を理解し反省しているふり""変革しようとするふり"を相手に見せようとする。」(p.18) 「もし指摘やその後の処方を自分が納得していれば、それは"ふり"なんかではなく、充実感をともなった反省や変革として実感できていくだろう。しかし、自分が納得していないところで、"とりつくろう"とすれば、それはやはり、とてもしんどいものではないだろうか。そして、"しんどさ"への恨みが、指摘する誰かや組織、さらには差別という「問題」それ自体へ向けられ、ますます差別は邪険に扱われ、"関わると厄介で面倒な"「問/題」となり、差別をめぐる一切を自分の暮らしから遠ざけ、切り離そうとする。」(pp.18-19) 「こうして他の誰でもない、この「わたし」は、差別という出来事と毎日の暮らしのなかで向き合うことはなく、差別はただ否定すべきものという理解だけが強化されていくのである。」(p.19) ・"構え"と"ぎこちなさ" 「もう一人の"硬直してしまう者"として、差別と、それに向き合う「わたし」のありようを考えたいのである。」(p.19) 「やはり、私が今、生きていくうえで、差別は単に「事件」や「問題」としてあるのではなく、日常を考えていくうえでの、欠くべからざるシーンとして、そこにあるのである。」(p.35) 第二章 差別とは何だろうか 「この発言の背後には、明らかに差別−被差別、差別する側−差別を受ける側という硬直した二分法の見方である。そして、この二分法と「普通であること」の権力があわせて用いられるとき、「普通の存在」「普通の人間」=「差別とまったく無関係の存在」という図式が、かなりの説得力をもって、私たちの日常に降りてくるのである。」(p.45) 「一つは私たちと他者との関係性のなかで、差別がどのようなかたちで現れてくるのか。関係性のなかの差別という考え方をとることだ。道徳や倫理として差別しないというメッセージが日常的に安定し、「問題」として差別がどこかの棚に整理されるのではない。常に、日常的な他者とのやりとりやさまざまな社会の出来事をめぐる私たちの情報収集あるいは情報の取捨選択の営みのなかに、差別が息づいているという考え方である。これは実体としての差別者−被差別者という見方を否定するものではない。」(p.49) 「それは、言い方を換えれば、私は常に、何らかのかたちで意識する、しないにかかわらず、"差別をしてしまう可能性のある存在"として、自らの語りや振る舞いを、他者や他の現実との繋がり方を反芻できるようにすることである。」(p.49) 「それは、端的に言えば、一つは、差別という行為が与える本質的な人間存在への痛みであり、差別を受けた者が「私はこれこれの我慢できない差別を受けた」と主張することの困難さである。今一つは、そんな言葉を受けたくらいで、そこまで怒るのも大人気ない、深刻に考えすぎだよ、といったかたちで、たとえば差別的な発言や言葉を"からかい""野次""冗談""本気ではない他愛のないこと"などとして処理していこうとする、私たちがあたりまえのように暮らしている日常が持つ力の問題性である。」(p.55) 「人々が他者に対してある社会的カテゴリーをあてはめることで、他者の個別具体的な生それ自体を理解する回路を遮断し、他者を忌避・排除する具体的な行為の総体をいう。あてはめるカテゴリーには圧倒的なマイナスの意味が充満しており、それをあてはめる他者や他者が生きる現実を映し出すのではなく、さまざまにマイナスなかたちで『しるしづける』。差別現象を考えるうえで重要なことは、日常生活のなかで普段いかにこうした歪められたカテゴリーの侵入を許してしまっているのかということである。確信犯的な強烈な/差別行為から、同情、哀れみに内包されるなかば無意識的なゆるやかな排除まで、現象として差別は多様であるが、『歪められたカテゴリーを無批判的に受容すること』が差別につながる私たちの根本的な日常的実践といえる。そして、この実践と向き合い詳細に解読し、解体、変革していくのもまた、私たちの日常的実践なのである」。(項目「差別」、秋元・大島・芝野・藤村・森本・山懸編『現代社会福祉辞典』有斐閣、2003年)(pp.60-61) 第三章 差別した人と差別を受けた人の対話 「また「足を踏まれた痛みは、踏まれた人にしかわからない」という言い方がある。差別された痛みは、その人にしかわからない。差別されたことからくる怒りの大きさも、怒りを共有できる人にしかわからないと。確かにこれは事実だろう。痛みは主観的なものであり、安易に「あなたの痛みはわかる」などと言えるものではない。」(p.68) 「差別を受ける者が感じる"痛み"と差別する者、差別を自分のこととして普段考える必要のない(と思い込んでいる)者が多分そうだろうと推察する"差別を受ける痛み"とでは、治癒しがたい"亀裂"があるだろうし、両者には圧倒的な"落差"があるだろう。」(p.68) 「ただ、私はこうしたことを認めたうえで、ある危うさを感じてしまう。それは"痛み"が主観的であるからこそ、言葉や行為が差別であるか否かも、それぞれの人の気持ち次第だと、差別を人々のこころの問題、主観的な次元の問題だとして、閉じ込めてしまうことだ。こうした差別という出来事の"閉じ込め"もまた、先にあげた<差別を隠し、見えなくさせる知>の典型といえよう。」(p.68) 「差別はたとえば、私とあなた、私と誰か他の人、私と他の人々が生きている現実との間で常につくられている相互の営みであり、個人のこころという"容器"に閉じ込めて/しまえる現象ではない、と私は考えている。そして、"確かめ、糾す"という営みを読み解くことは、他者とともに私が差別とどう向き合えるのかについて有効な手がかりを与えてくれるのである。」(pp.68-69) 第四章 差別を学び、目を開く 第五章 性的なからかいに対抗する 「そして、大切なことがある。瞬間を見抜き、瞬間に抗うことは、なにも差別的な言動された側だけの問題ではないということだ。自らのなかで息づいている差別的な常識に影響を受け、思わず差別してしまう瞬間、自分でそのことに気づき、瞬間に抗うことこそ重要であり、そうした身体やこころ、姿勢を普段からどのようにつくりあげていけばいいのかが差別の日常を生きる基本なのである。」(p.134) 第六章 "決めつけ""思い込み"を崩す 第七章 「差別」を生きる手がかりにする 「でも、どのようにすれば"生きる手がかり"として、確実に差別と出会うことができるのだろうか。これだ、という明快な答えは今、ない。ただ今一度確認しておきたいことがある。それは"差別する(かもしれない)わたし"の姿を「いま、ここ」で素直に認め、評価すること、そして「問題」として整理された差別をめぐる世の中の知識に囚われることなく、できる限り「わたし」を開け広げること、たとえば、"差別する私"の姿に向けて「いま、ここ」で語られる他の人々の批判的な語りを"風"として受け止め、"寒さ""暖かさ""爽やかさ""うっとうしさ"など、そこで感じ取る感触や情緒に素直に反応すること、ではないだろうか。」(p.200) 文献案内 あとがき ■補足 ◇山田富秋・好井裕明19910625『排除と差別のエスノメソドロジー―<いま−ここの権力作用を解読する>』新曜社 ACT1 エスノメソドロジーの冒険―山田富秋・好井裕明 T エスノメソドロジーとは「人々の方法」の学である! 「エスノメソッド(ethno-method)、人々が使う方法というのは、要するにぼくらがふだん生きている生活、これまでズーッと生きていた生活史のなかで形成されてきたいろいろな知識・体験の総体をいうわけです。その知識・体験の総体=常識を、ちょっと横から眺めてみようじゃないかと言ったのがエスノメソドロジーだと思うんです。自分の生きている常識を<いま―ここ>の場面に即して相対化しようというわけです。」(p.5) 「――ガーフィンケルの言い回しを使えば、現象の意味は<いま―ここ>ではつねにあいまいなままにとどまっているから、日常生活者はそれを<いま―ここ>で絶え間なく修復しつつ、そこに一定の構造なり、確定した意味を見いだそうとする。だが、それは終着することの決してない修復作業なわけです。なぜなら、意味の修復作業は<いま―ここ>で、そのつどなされていくので、いわば無限に連鎖していくわけです。」(p.10) ・『シュッツ・パーソンズ往復書簡――社会理論の構成』(木鐸社) 「パーソンズが科学者を人間の模範にしたのに対して、シュッツはこの日常世界で具体的に生きる人間を中心に据えました。シュッツの言い回しに従えば、科学的営為の世界で働く合理性(すなわち科学的合理性)だけが唯一、崇高な合理性ではないのです。この日常世界においても、科学的合理性とはちょっと違った合理性が、つまり、常識的合理性(commonsense rationality)が働いていると主張します。常識的合理性は、シュッツがフッサールから借用した「場面的表現」(occasional expression)と呼ぶ特徴をもっており、それは文脈に即してなされる推論や判断作業のことを指します。ここからガーフィンケルのエスノメソッドまでの距離はすぐだと思います。」(p.14) 「その<いま―ここ>で働いているものを何らかの形で隠してい/く作用こそが問題だ、とエスノメソドロジーは言っているのです。そしてこの隠蔽作用を、われわれは"権力作用"と呼ぶわけです。」(pp.18-19) 「(3)――山田富秋「博物誌としてのエスノメソドロジー」『現代思想』1986年12月号を参照。」(p.19) 「(6)――エスノメソドロジーは、現象学的社会学の生みの親であるアルフレッド・シュッツに多くを負っている。したがって、フッサール、アーロン・ギュルヴィッチはいうまでもなく、とくにメルロ=ポンティの後期思想は、エスノメソドロジーの科学研究に大きな影響を与えている。また、ヴィトゲンシュタインの哲学、ガンパースらのコミュニケーションの民族誌、チョムスキーの言語論、さらに、認知心理学の影響も受けている。最近では、ミッシェル・フーコーや、ノーバート・エリアスの思想への接近も試みられている。」(p.20) U <いま−ここ>で働く「権力作用」を暴く 「――差別という現象が非常にいい例ですね。いろんな差別が起こったときに<いま―ここ>で、いったいどのような「権力作用」が働いているのか、をエスノメソドロジーは明らかにすることができる。反対に、差別問題一般から、なんとか逃避しようとしている人々が、どのような文化的なリソースをもちだしてきた自己正当化していくのか、も明らかにできる。それを、ひとつひとつその場その場で解明することを通して、われわれがいかに従順に支配的文化によって訓化されていくのか、が明らかになる。」(p.27) 「端的に言えば、文化的装置とは<いま―ここ>で面とむかっている他者の充実した<生>にキチンと出会わなくてすむようにさせていくさまざまな装置のことです。そこで<いま―ここ>を隠蔽するために行われているのが「カテゴリー化」の作業だということ。つまり、あらっぽく言ってしまえば、「カテゴリー化」とはつねに生成しつつある<いま―ここ>を静止させ、「外国人」とか「女性」」などの類型として切断してしまうことです。」(p.29) ・『苦海浄土』(p.41) 「エスノメソドロジーの課題は、いかにして<外部>からもちこまれた「権威」ある正当化された知識が、<いま―ここ>で暴力的に行使されているのか、を分析することだと思います。」(p.42) V 「血の管理」へのアンチテーゼ 「――エスノメソドロジーが「人々の社会学(folk sociology)」であることの深い理由が、ここからも明らかになります。エスノメソドロジーは、決して専門家の存在それ自体は否定してはいないんだけれど、いま言った「理論化」の営みは、批判すべき"専門家"と結びついているんです。」(p.50) W ゴッフマンのテーマ X 排除と差別の解読へ向けて 「――八木晃介という人がいます。彼はさまざまな差別の現実と関係をきり結ぶなかで、いろいろと迫力あるおもしろいルポを書いています。ぼくもいろんな意味でハッとさせられる、尊敬すべき人物なんだけれど、彼が書く「差別論」が、残念ながら、今言った典型のようなものなんです。「社会学では、社会心理学では、こういった理論があり、これこれの概念装置があり、これらを部落差別にあてはめると、このように説明ができ、ここから人間の解放イメージがこのように出てくる」といったパターンです。これはやっぱり科学、学問の名を借りて、人々の現実を押さえつける形と言わざるをえない。」(p.70) ACT2 排除と差別のエスノメソドロジー 1 子どものけんかに見ることばとからだ―山田富秋 2 「障害者」という自己執行カテゴリーの挑戦―好井裕明 「サックスは、こうした現実を詳細に記述したあとで、「ティーンエージャー」というカテゴリー化の権力作用を、「ある集団にあてはめるカテゴリーを、当該集団以外の集団が所有し」、それが支配的カテゴリー、支配的文化になっている点が問題である、という形で整理している。一方で、「ホットロッダー」というカテゴリー化がもつ「自己執行」という作用に注目し、その「革命性」を指摘する。」(p.124) 「個人や、ある集団のメンバーを<外>からまるごと抑圧していく装置として、カテゴリー化が作用する。それに対して、<いま―ここ>で具体的に対抗し、せめぎあっていく、なまなましい人間の生の姿がある。そこにこそ「自己執行」の現実がある。それは、<外>からの抑圧をはねのけ「自分」「われわれ」といった存在を<内>からまるごと承認し正当化していく具体的な行為なのである。」(pp.126-127) ・<空虚>としての「市民社会の論理」―「切る排除」と「包みこむ排除」 「「自己執行カテゴリー」は、ただ単独に存立しえず、つねに<外>の抑圧/排除装置と対抗的な関係性においてその力を発揮する。」(p.147) 3 <反差別の意志>と出会うストーリー―部落差別問題を回避する「常識」の呪縛からの解放―好井裕明 「「実践の姿勢の問題」「教職員の姿勢の確立」「認識の変革」等々。受ける側は、一般的で普遍的かつ抽象的なことばを慎重に選択し「応答」する。こうした「応答」の仕方に共通点がある。それは「ひたすら謝罪する」ことである。学校という場で部落差別事件が起きる。その組織の「役割」としての長が代表し、迷惑をかけた「組織」に対して「ひたすら謝罪する」。こうした「謝罪」の言説が、受ける側の「応答」を占めるとき、話し合い場のコミュニケーションは<硬直>する。」(p.157) 「今回述べてきた情景は、こうしたものとはまったく質が異なる。回を重ねるごとに、具体的な獲得目標あるいは到達目標はある。だが、つねに<いま―ここ>において対面する両者のコミュニケーションの<深まり>や<拡がり>に応じて、その場その場でストーリ0―が新たに変化し<自在>に展開する空間である。こうした<自在>な展開があって初めて、その場に居合わせる人々の情緒が刺激され、人々の論理が差別的<常識>の世界から剥離しはじめるのである。」(p.175) 「<反差別の意志>とはなんだろうか。冒頭で述べた部落問題に関する「常識」的カテゴリー化の呪縛、そうしたものを一つひとつ解体していく<意志>である。たとえば、これまで述べてきたように、差別事件の事実を確認する会のストーリーが展開し<いま―ここ>におけるコミュニケーションが深化していくにつれて、現代の差別社会における自分の立場性、そして立場性を踏まえたうえで<ひと>としてどう生きるべきかなど、人間の主体性にまで踏み込んだ<論議>が展開していく。この<論議>では"同和"問題、差別"事件"という「常識」的カテゴリー化はほとんど意味を失っていく。具体的な差別事件をめぐる「論議」の中で、それ自体をひとくくりにして整理してしまおうとする作用をもつ"事件""問題"というカテゴリー化は<いま―ここ>の場では"空虚な"装置となる。そしてこの"空虚さ"を映しだす鏡が<反差別の意志>なのである。」(p.176) 4 精神病院のエスノグラフィー―山田富秋 5 男が女を遮るとき―日常会話の権力装置―好井裕明 6 「権力作用」からのパースペクティヴ 「江原由美子は、これまでの社会学的論議において「権力」現象とは考えられてこなかったものを「権力作用」ということばで言い換えている。彼女の「権力作用」ということばは、いま述べた「社会構造」が抑圧的文化装置として働いている事態をよく表現している。一方には合理的行為者がおり、他方に行為者の水路づけを行う社会構造があるという二分法によれば、「権力」現象は(1)個人の利害を他者の反対を押さえて実現する主意主義的なモデルと、(2)社会構造や制度による個人の支配という構造的モデルとに二極化して説明されてきた。しかしながら、私たちがここで取り上げたいのは、「権力作用」として働いている「社会構造」であり、ミッシェル・フーコーの言う「他者の潜在的行為場面を構造化する」統制(government)としての権力現象である。」(p.255) 「――エスノメソドロジーにとっての準拠点は、個別具体的な状況における身体の<動き>であり、そこで生成される言説のありようであり、そうしたものが絡み合う<いま―ここ>なんだ。これは、現実を変革していこうという解放運動の主張とも共通する。とたえば、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことは政治的なこと」という提起がある。『フェミニズム社会科学に向かって』(勁草書房)を書いたスタンレーとワイズは、まさにこのことを主張している。権力作用による個人性の管理が<いま―ここ>で"常識"という装置を通して徹底されるとき、それ自体、つねに「他者」との関係性のなかで達成され現象であり、それに覚醒し解体し変革していく営みも「他者」との関係のなかでのみ可能なものである。だからこそ<いま―ここ>で生成される身体/言説から始めなければならない。その意味で個人性はつねに個人を超えていく「政治的」なものなんだ。もちろんフェミニズムの文脈で語られるメッセージとエスノメソドロジーとでは、異なると思う。しかし根幹の主張は共通している。」(p.281) あとがきにかえて 【資本制】 ◇山口節郎 19900705 「現代社会と不平等」『差別』(現代哲学の冒険3) 岩波書店 序―<新しい>不平等 「資本主義の支配的な構造原理に基づく資本と賃労働との間の根源的な力の格差という側面からみれば、不平等の問題は意味を失うどころか、あい変らず資本主義社会における最大の対立点を構成しつづけている」(p.320) 「<古い>社会的不平等が資本家と労働者という二つの階級の間(inter-class)に成立していたとするならば、<新しい>それは労働者階級、あるいは被支配階級の内部(intra-class)に成立している。しかも、古いタイプの不平等の<解決>、あるいはそれへの関心の弱まりは、新しいタイプのそれの発生と深刻化を基礎にしてのみ可能であった、といえなくもない。社会的不平等は今や何らかの地位尺度を基準に階級なり階層なりが一次元的にヒエラルヒー的な序列化を示す、という形では単純に理解できない構造をもちはじめているのである。」(p.320) 1 <新しい>不平等と伝統的理論装置の弱点 「従来の階級(層)間の不平等という問題の陰にかくれていたこれらの不平等―これらの多くはnon-class issuesである―は、前者への関心の低下とともに、たとえば<新しい>社会運動という形をとって問題にされ出すようになったわけである。」(p.323) 「従来のマルクス主義的階級理論や社会学的階層理論は、階級間や階層間の不平等は取り扱うことはできても、階級内や階層内の不平等を取り扱えるようにはできていない、ということである。換言すれば、両者とも<垂直的>な不平等問題には対処できても、今や問題になりつつある階級内、階層内の<水平的>な不平等問題は、これをうまく処理することはできない、ということである。」(pp.323-324) 「新しい不平等を構成する諸要素は、階級理論や階層理論が不平等を構成すると考える生産手段の所有・非所有、あるいは収入、学歴、勢力、威信、財産といったような、すべての人に、いつでも、どこでも、同じように意味をもつ特性や地位変数とは性質を異にするからである。」(pp.324-325) 「不平等を構成する諸次元は、ここではいわば<水平的>に分配されており、通常はある特定の人々や集団にのみそれらの次元のいくつかが集中的に分配され、適用される―つまり、これらの人々や集団においてのみ、『地位の一貫性』が保たれる―という形をとってあらわれる。」(p.325) 「マルクス(主義)も、社会学的階層理論が基本的な考え方において依拠しているウェーバーも、共に市場原理や近代産業国家がもつ均質化効果(homogenizing influence)を過大評価しすぎていたようである。しかも、彼らはすべての資本主義社会に共通する普遍的な特性に重点をおき、生産システムの論理からは導出し得ない属性原理に基づく国民の間での分裂については、これをシステムの構成要素として扱うよりは、『端的に純粋な階級モデルを混乱に陥れる<撹乱要素>』として取り扱うことになった。こうして伝統的な不平等研究の基礎にある社会理論は、高度に発達した資本主義社会―および『社会主義社会』―の真っ只中における属性原理に基づく各種の運動やコンフリクトのルネサンスに理論的説明を与えることができなくなってしまったのである。」(pp.326-327) cf.パーキン 「労働社会はここでは『就労男子から成る社会』、あるいはもう少し広く解釈しても『有給−労働−社会』(Bezahlte-Arbeits-Gesellschaft―クレッケル)にまで狭められてしまっている。『垂直的な労働社会のモデルに方向づけられた不平等研究は、<非活動的>な人口部分は経済的な完全市民としては認めないという日常生活で行われている考え方を、理論的レヴェルに無反省的に受け継ぐという危険を冒している』と批判される所以である。」(p.328) 「不平等の垂直モデル、つまり労働社会における業績の格差―教育、職業、所得のメリットクラシー的三位一体―を個人の社会的地位の決定因とみなす従来の不平等研究の第三の問題点は、不平等が今や政治・行政システムによっても生み出されている、という事実を見過ごしていることである。たとえばオッフェによれば、後期資本主義―国家によって規制された資本主義―という条件の下では、次のような三つの発展傾向がみられるという。その一つは、国家による再分配政策(所得政策、社会的給付、最低賃金の保障、等々)の実施によって、個人の労働とこれによって得られる勤労所得との間の関連が緩んだこと。第二は、所得と生活機会との関連も緩んだこと。つまり個人の資力で充足できる生活上の欲求はますます限られてきており、集合的、あるいは公的扶助に依拠しない限りその充足が期待できない生活欲求の重要性が増しつつあること(たとえば安全、環境保全、社会保障、健康、教育、住居、交通、余暇利用、等々への欲求)。上の二つの発展傾向から、『社会的不平等の新しい形態は、もはや経済的に定義された階級的諸関係にそのまま映し出されることはなく、またこれらの関係の反映として説明されることもない』という結論が引き出される。第三に、階級や階層といった不平等の垂直的な形態は、水平的な不均衡(Disparitaet)のシステム、とりわけさまざまな生活領域や生活欲求におけるバランスを欠いた充足のチャンス、という新しい形態によって代わられること。つまり後期資本制的福祉国家においては、人間に対する人間の(あるいはある階級に対する別の階級の)支配(Herrschaft)は、若干の社会的機能領域の他の機能領域に対する優越(Dominanz)によってとって代わられる、ということである。」(pp.330-331) 「こうした状況の下では『不平等の持続的な境界はきわめて多次元的で不明瞭』なものとなる。というのも、人々は『その生活行為のある部分では<特権的>な機能領域につなぎとめられる一方、他の部分は非特権的領域に属している』からである。いわば、階級横断的にその生活領域の一部がこの非特権的領域(depressed areas)に属することを余儀なくされている人々のことを、オッフェは『状況集団』(Situationsgruppe)と名づける。この集団は「状況に依存した剥奪とフラストレーションに曝されており、しかも所得階梯のなかで個々人が占める地位は問題や危機を除去するのにさほど役立ちはしない」。今やコンフリクトの境界は階級と階級との間に成立するのではない。つまり『国家によって規制された資本主義においては、もはや階級間の全体的な抗争が社会変化のダイナミックな中心をなすことはなくなる。その中心にますます不平等の<水平的>図式、つまり生活領域の不均衡が覆いかぶさるようになっているのである。』」(p.332) 2 閉鎖理論 F.パーキン―「社会的閉鎖」(social closure) *M.Weber, Wirtschaft und Gesellschaft,1964,S.260 「入手余地(Erwerbsspielraum)との関係からみた競争相手の数が増えるにつれて、競争への参加者のなかにこの競争を何らかの仕方で制限しようとする関心が高まる。このことが行われるときに通常みられる形態は、一部の(現実的ないしは潜在的な)競争相手の外的に確認可能な何がしかの特徴―人種、言語、宗派、地域的ないしは社会的出自、家柄、居住地、等々―が他の競争相手によって競争からの締め出しを図るためのきっかけとして利用される、ということである。」(p.336) 「まず第一は「二重閉鎖」(dual closure)という視点が開けてくることである。社会的閉鎖という戦略は支配階級、あるいは上位の社会階層によってのみ採用されるものではない。それはヒエラルヒー的秩序のどの位置にある階級や階層によっても―分配システムのどの位置にあるかによって採られる具体的な閉鎖の戦術は異なるとはいえ―採用され得る。それゆえ、報酬や機会へのアクセスにおいて上位の階級(層)によって排除された階級(層)が、今度は残された報酬や機会へのアクセスを一人占めにするために、より劣位の、あるいはより脆弱な集団を排除する、ということも起こり得る。被抑圧者がさらに他者を抑圧し、被搾取者がさらに弱い者を搾取する、というような形で排除される下位の階層やグループの数が増殖されていくわけである。」(p.338) 「以上のことと関連して、閉鎖理論の第二のメリットは、それが階級間のコンフリクトと階級内のコンフリクトとの結びつきを問題にすることができる、ということである。つまりここでは資源の分配をめぐる階級内でのコンフリクト(二重閉鎖)は、それ自体、独立して生じる現象としてではなく、社会の最も重要な閉鎖形態としてのい財(property)の所有に絡む階級間でのコンフリクト―これを<一次的閉鎖>(primary closure)と名づけてもよいであろう―によって引き起こされる随伴現象として捉えることができるのである。伝統的な理論装置では、この二つのコンフリクトの間につながりがあることは認められておりながら、その関係がどのようなものであるのか、十分な説明は与えられてきていない。」(pp.339-340) 「その排除形態や抗争ラインが何であれ、閉鎖理論は二つのコンフリクトには共通して、相対的に希少な財とその獲得機会をめぐる、集団と集団との間の『排除』と『簒奪』の関係行為がみられることを教えてくれるのである。」(p.340) 「特権的階級による『下方に向けてのパワーの行使』である<一時的閉鎖>が可能であるのは、非特権的階級による『上方に向けての力の行使』、つまりその組織能力やコンフリクト能力をもってしても覆し得ない<一時的勢力格差>(primary power differential―オッフェ)が両者の間には存在するからであり、非特権的階級は、ここで締め出された資源や機会への獲得要求を、<二次的勢力格差>(secondary power differential―同)に基づく『二重閉鎖』によって埋め合わせようと図るわけである。」(p.341) 「パーキンは、下方に向けて勢力を行使することによって従属的な社会集団を生み出す閉鎖の排除形態を『搾取』(exploitation)名づけている。というのも、通常、マルクス主義で用いられる、資本による剰余価値の取得という意味での搾取も、排除的閉鎖のより一般的な現象の一つの重要なケースにすぎないからであるという。」(p.341) 3 資本による閉鎖と社会的不平等 4 属性による閉鎖と新しい不平等 ◇Immaunuel, Wallerstein, 1995, Historical Capitalism with Capitalist Civilization, Verso(=19970822、川北稔訳『新版史的システムとしての資本主義』岩波書店) 日本の読者へ はじめに 史的システムとしての資本主義 T 万物の商品化 「資本主義とは、何よりもまず歴史的な社会システムである。」(p.5) 「ここで史的システムとしての資本主義と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本がきわめて特異な方法で用いられる―つまり、投資される―という点にある。すなわち、そこでは、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用され用いられる限りにおいて、『資本』となったのである。」(p.6) 「他方では、労働力を固定しないでおくことも、資本家にとってはそれなりに不利に作用することがあった。固定されていない労働力というものは、定義そのものからして、特定の生産者のために継続して労働を行うとは限らない。したがって、このような労働者は、長期的にみると変動してやまないその実質収入を、平均にならしてみて生存してゆくのに十分だといえる程度の報酬を得ることに執心してきた。つまり、労働者は、報酬を得られない期間をも十分にカヴァーできるだけのものを、雇主に要求せざるをえなかったのである。その結果、自由な労働力というものは、しばしば生産者にとって、固定された労働力と比べると、労働者一人一時間当りのコストが、かえって高くついたのである。」(pp.18-19) 「史的システムとしての資本主義のもとで新たに生じたことは、こうした分業の習慣が、労働の価値評価と結びつけられたことである。もともと、男は女とは別の種類の仕事をすることが多かったであろうし、成人の仕事と老人や子供の仕事にも差があっただろう。しかし、史的システムとしての資本主義が成立すると、女性労働の評価がどんどん下がってきたのである。子供や老人の場合もまた同じである。これに対して、成人男子の労働に対する評価は、逆にますます上がっていった。他の歴史的社会システムにあっても、男と女はそれぞれ固有の仕事をもっていたが、ふつうそれらの仕事は対等とみられていたのに、史的システムとしての資本主義のもとでは、賃金をもらってくる成人男子こそが『パンの稼ぎ手』として位置づけられ、家事労働に従う成人女子は、『主婦』とされてしまったのである。その結果、全国統計がとられるようになった―そのこと自体、資本主義的システムの産物なのだが―ときには、『パンの稼ぎ手』はすべて経済的にアクティヴな労働力の一員とみなされるが、主婦はそのなかに含まれそれぞれの労働に対する評価にこのような基本的な差が生じたことから、ごく自然ななりゆきとして、性による区分や差別のための法的ないし超法規的措置が生まれたのである。」(p.24) 「エスニシティは文化的な外皮をまとうようになり、半プロレタリア的な世帯構造を固定してしまう。こうしたエスニシティの出現によって、労働者階級が政治的にも分裂したことは、雇傭主層にとって思いがけない福音であった。もっとも、かれら雇傭主がエスニシティの最大の推進者であったと考えるのは正しくないのだが。」(p.29) 「社会的分業は、資本主義の歴史的発展につれて、機能的に地理的にもどんどん拡大してきたのだが、同時にますます高度なハイアラーキーを構成するようにもなった。こうして、生産諸過程の構造において、空間がハイアラーキー化される結果、『生産経済』における中核と辺境への両極分解がどんどん進むことにもなった。この傾向は、(実質所得の水準とか、生活水準といった)分配を基準としてもいえることだが、資本蓄積の地理的分布の点でいっそう顕著である。」(pp.31-32) 「あくなき資本蓄積を前提として成立しているシステムのなかにいる以上は、その構成員としては、長期的に利潤を追求するための〔不等価交換という〕この原動力をぶち壊してしまっては、結局は自滅する以外に道がなかったのである。」(p.37) 「労働者階級にとって、実質所得を増やすもっとも効果的で、直接的な方法のひとつは、かれら自身の労働をさらにいっそう商品化することであった。かれらはしばしば、従来は世帯内で展開されてきた生産過程のうち、ほんの僅かな収入にしかならない部分を賃金労働に置きかえようとしてきた。とくに各種の小商品生産は、賃金労働に置きかえようとした。プロレタリア化の背後にあった大きな力のひとつは、ほかならぬ労働者層そのものだったのである。」(p.41) 「プロレタリア化が両極分解に及ぼした影響は、少なくともこれまでのところ、新たな地域が世界システムに編入されたという別の事実が及ぼす逆方向への衝撃によって相殺されてなお余りがあったのだ。こうして、工場制度のようなかたちで行われる労働過程が全体のなかで占める比率は、ふつう主張されるほどには上昇しなかったといえよう。なぜなら、分母にあたるシステム全域の総労働者数が着実に増大していったからである。」(pp.46-47) U 資本蓄積の政治学―利益獲得競争 「史的システムとしての資本主義の構造からいって、政治を動かすもっとも有効なテコは国家機構であった。ここでいう国家機構こそは、史的システムとしての資本主義が生み出したもっとも重要な制度のひとつなのである。とすれば、国家権力の掌握ないし必要とあればその強奪こそが、近代資本主義の歴史を通じてあらゆる政争の主役たちから、もっとも重要な戦略目標とみなされてきたのも決して偶然ではない。」(p.57) 「すべての国家は、実質的な権力の強弱によるハイアラーキーのどこかに位置づけられてきたわけだが、こうした権力の強弱というものは、官僚制や軍隊の大きさとその結束力の強さなどでは測れないし、イデオロギー的統制の強さによっても測定はしえない。それは何よりも、競争相手となる国々に比べて、この国家が長期にわたって、その国内で資本の集中を効果的に促進する能力を発揮できるかどうか、という一点にかかっているのである。」(p.68) 「民族集団の形成過程は全体として、特定の国の労働力形成の過程と結びついており、経済構造のどの辺りに位置するかを示す、大まかな指標の役目を果たしてきた。したがって、労働力編成の民族集団化が比較的明確なかたちで起こっており、環境条件が悪くて生存のための短期的プレッシャーがわりあい強いところでは、資本蓄積者と労働者のなかでもとくに抑圧されている階層とのあいだの対抗は、言語や人種や文化の局面で闘争という形態をとる傾向があった。というのは、言語や人種や文化の上の区分が、階級構成と高い相関性を示すからである。こういうことが起こると、どこでもつねに民族対立だとか、国民間の抗争とみなされてしまいがちである。しかし、実際には、こういう闘争の場合も反帝国主義闘争の場合と同じで、その根底に資本主義というこのシステムの内部で生産される余剰の収奪をめぐる階級闘争があるのでない限り、またそれによって人びとの情感が高められ、揺り動かされるのでない限り、成功することはまずありえない。」(p.77-78) 「あくなき資本蓄積は、労働力の編成(そその位置)を変え、労働の絶対量を増やし、労働力の心理的・社会的再構築を不可避にするような圧力を、絶え間なく生み出してきた。この意味で、世界の労働者の大半にとっては、分裂、混乱がひどくなり、搾取はいっそう苛酷にさえなった。同時に、社会的分裂がひどくなるために、社会化の過程がもっていた階級緩和的な意味もなくなってしまった。こうして、全体としては、客観的にみると成功の可能性はおそらく少なくなっているのに、叛乱に走る動機はかえって強まったのである。」(p.84) 「国家権力が掌握できれば、少なくとも抗争中の諸集団のあいだの権力のバランスをいくるか変えるぐらいのことはできるたわけだ。つまり、国家権力の奪取はシステムの『改良』をひきおこしえたのである。もとより『改良』によっても、実際の状況が多少とも改善されることは間違いないのだが、それはまた同時に、必ずシステムそのものを強化してしまうことも事実なのである。」(p.89) 「『他の運動』の存在によって得られる支援には、三つの種類があった。もっともわかりやすいのは、物質的な支援である。これは有益に違いないが、おそらくもっとも意味の小さい援助である。第二の支援は、それが体制派の注意を分散させる役割を果たす点にある。たとえば、ひとつの強国がより弱い国家における反システム運動をどれくらい強硬に抑圧できるかは、つねにこの強国が直接対処しなければならない政治問題をどれくらい抱えているかにかかっている。その強国が近くの反システム運動に悩まされていればいるほど、遠隔地における反システム運動の抑圧には力を入れにくいことになったわけだ。第三の支援はもっとも基本的なもので、集団心性の側面におけるものである。各運動体は、お互いの失敗から学び合い、お互いの成功した戦術に学ぶことによって勇気づけられたのである。世界的な反システム運動の盛り上がりが、世界全体の政治的環境―つまり将来の見通し、ないし可能性の予測―に基本的な影響を与えた、ということもある。」(p.90) V 真理はアヘンである―合理主義と合理化 「ところで、〔『世界経済』上の〕然るべき場所に、可能な限り低い報酬で適当な労働力が生み出されてきたのは、言うまでもなく資本蓄積の促進を願う人びとの利害に沿ってのことであった。賃金労働が収入源のほんの一部をしか構成しないような世帯をつくり出すことによって、『世界経済』の辺境における経済活動の報酬がいかに低く抑えられたかについては、すでに論じた。こうした世帯を『つくり出す』ひとつの方法―言いかえれば、家族の再編を強制する方法のひとつ―は、史的システムとしての資本主義の内部における社会生活を『民族集団別の編成にする』やり方であった。ここでいう『民族集団』とは、近接して居住する他の同種の集団との関係で、特定の職業ないし経済的役割を割り当てられた、かなりの人数の人間集団のことである。このような労働力編成の外部に表れたシンボルが、各民族集団のいわゆる固有の『文化』であった。つまり、その宗教であるとか、言語であるとか、その集団に固有の『価値』であるとか、あるいは日常生活の特定のパターンであるとかいったものがそれである。」(p.101) 「世界の労働力が民族集団別に編成された結果、『世界経済』が機能するうえで重要な意味をもつことがらが三つ生じた。すなわち、何よりもまず、このことによって労働力の再生産が可能になった。といっても、それはすべての集団が生き残るのに十分な所得が確保されたという意味ではなく、その世帯の得る収入の総額およびその形態の点から考えて適当と思われる所得水準で、いろんな種類の労働力が十分に供給されてきた、という意味である。それに、民族集団別に編成されたことで、労働者の配置は変更しやすいものになった。労働者の大規模な移動は地理的にも、職業上も、困難になったというよりは容易になったのである。」(p.102) 「労働力の配置換えを行なうには、誰か積極的な個人が先頭を切って移住ないし職業変えをし、それに対して適当な報酬が与えられさえすればよい。それだけで、この民族集団に属する残りの人びとにとっては、『世界経済』における自分たちの位置を変えるごく自然な『吸引』要因となるのである。」(p.103) 「第二に、民族集団化は、労働力の教育・訓練装置が内臓されることを意味した。言いかえると、職業としての労働の社会化が民族性によって特色づけられた世帯の枠組みでなされることが多く、雇主や国家の負担とはならないことを意味したのである。」(p.103) 「第三に―おそらく、これがもっとも重要なのだが―、民族集団化によって職業をおよび経済的役割の階梯に『伝統』という名の外皮をかぶせて、正統性を装わせたという事実がある。(改行)史的システムとしての資本主義のもとで、もっとも入念に練りあげられ、そのもっとも重要な支柱のひとつとなってきたのが、この第三の帰結、すなわち、制度としての人種差別である。」(p.103) 「肌の色(や生理的特徴)は本質的に偽装しにくいものだけに、一般に都合のよいレッテルであった。したがって、史的システムとしての資本主義の起源をなしたヨーロッパでも、これを利用するのが便利なあいだは、おおいに利用されたのだが、いったん不都合になると即座に捨てられ、別のかたちの目印が導入された。したがって、場所によっては、何種類もの基準が複雑に重なりあっている例も少なくなかった。それに社会的分業がつねに進行してゆくことを考えると、民族ないし人種の違いというのは、現存の社会集団を分かつ境界線の前提としては、まったく不安定なものであることも明らかであった。いろいろな集団が次々とやって来たかと思うと去って行き、そのたびに自己規定をあっさり変更したものである。そうした集団を外から眺めていた人びとにしても、境界線の変更には何の抵抗もなかった。しかし、個々の集団の境界線が移ろいやすいからといって、それらの集団が全体としてつくりあげているハイアラーキーそのものが一貫しているという事実と矛盾するわけではない。むしろ、個々の集団の境界を適当に変えてゆくことこそが、全体としてのハイアラーキーの任務でもあったわけで、世界の労働力が民族別に編成されたこと自体、そうした過程のひとつであったともいえるのである。」(pp.106-107) 「未来の世界秩序そのものは、われわれのほとんど想像もつかない仕方、予見などしようもないかたちで徐々に形成されつつあるのだ。したがって、それが良いものになるはずだなどと考えるのは飛躍のしすぎだし、今よりはましなものになるだろうと考えることさえ、いささか行き過ぎというものだ。しかし、これまでわれわれがそのなかに包まれてきた資本主義という史的システムがひどいものであったことは周知のとおりだし、しかも歴史の進行につれて―まさにそれが大成功を収めたがゆえに―良くなるどころか、どんどん悪くなってきているというのが、私の率直な見解である。」(p.129) W 結論―進歩と移行について 「つまり、いわゆるプロレタリアートの絶対的―相対的ではない―窮乏化法則を弁護したいのだ。」(p.139) 「史的システムとしての資本主義は、以前にはまったく存在しなかった差別(oppressive humiliation)のためのイデオロギー装置を発展させた。すなわち、今日いうところの性差別と人種差別にかんするイデオロギーの枠組みが成立したのである。もう少し厳密に言えばこうだ。男性の女性に対する優位も、一般化された外国人嫌いも、すでにみたとおり、資本主義以前の史的システムにおいても広く拡がっており、事実上どこにでも存在した。しかし、性差別とは、たんなる男の女に対する優位を指すのではないし、人種差別もまた、一般化した外国人嫌いというだけのものではない。」(pp.142-143) 「性差別は、女性を非生産的労働の領域に追いやった。実際に彼女たちに要求される労働は遥かに厳しいものになったのに、他方では、『資本主義的世界経済』においては人類史上はじめて、生産的労働こそが権利の正当性を保障する基礎であるとされたために、女性は二重に貶められたのである。こうして生じた二重の束縛は、資本主義というシステムの内部では解決できないものでもあった。」(p.143) 「人種差別というものも、たんなるよそ者、つまり、このシステムの外にいる誰かに対する嫌悪感や抑圧のことではなかった。まったくその反対で、それは史的システムの内部にいる労働者集団に対するものであり、抑圧された集団をシステムから追い出すのではなく、システム内にとどめておくことこそが、人種差別の目標なのである。それは、まっさきに報酬を得る権利をもっているはずの生産的労働に対して、不当に低い報酬をしか支払わないことを正当化する口実となった。つまり、もっとも報酬の低い仕事がもっとも質の悪い仕事なのだと定義してしまうことによって、その口実としたのである。ことはまさに定義そのものにかかわっていただけに、仕事に質が変わったところで、非難のかたちが変わるだけのことであったのだが、他方では、このイデオロギーは、個人が努力をしさえすれば上の階層に上昇できることになっているのだとも宣言した。ここみれらる二重の束縛も、性差別と同じで、資本主義というシステムのもとでは解決しえないものである。」(pp.143-144) 「進歩は必然ではない。われわれはそれを求めて闘っているのだ。しかも、この闘いの形式は社会主義対資本主義というようなものではなく、比較的階級性の薄い社会への移行か、階級を前提とした何か新しい生産様式―史的システムとしての資本主義とは違うが、さりとて必ずしもそれより良いとはいえないもの―への移行か、という闘いなのである。」(p.149) 「共産主義はユートピアであり、どこにも実在しない。それはメシアの到来、キリストの再生、涅槃入りなど、あらゆる宗教の終末論の化身である。それは歴史的な予測などではなくて、現代の神話なのである。これに対して社会主義は、いつの日かこの世界に実現するかもしれない史的システムのことである。ユートピアへの移行の『一時的』な段階であると自称する「社会主義」なるものには興味がもてない。われわれが関心をもつのは、歴史具体的なシステムとしての社会主義だけである。このような意味での社会主義は、少なくとも次のような特徴をもった史的システムでなければならないだろう。すなわちそれは、平等や公正の度合いを最大限に高め、また人間自身による人間生活の管理能力を高め(すなわち民主主義をすすめ)、創造力解放するような史的システムでなければならないだろう。」(pp.153-154) 資本主義の文明 T バランスシート U 将来の見通し 訳者あとがき 新版訳者あとがき 【偏見理論批判】 ◇佐藤裕 1990**** 「三者関係としての差別」『解放社会学研究』4、明石書店 ◇佐藤裕 1994**** 「『差別する側』の視点からの差別論」『ソシオロゴス』18、ソシオロゴス編集委員会 ◇佐藤裕 20051221 『差別論―偏見理論批判』 明石書店 はじめに 1 差別論について 「大雑把にいえば、さまざまな差別問題の共通性は『差別する側』にあります。人はどうして差別をするのか。あるいは特定の人々を排除したり攻撃したりおとしめたりする理由は何か。このような問題は、さまざまな差別の問題に共通のテーマとして設定することが可能だし、現に特定の差別問題に依拠しない理論が作られてきています。その代表格が、本書が批判の対象とする偏見や差別意識に関する理論です。」(p.10) 2 差別という言葉をめぐる混乱 (1)定義の問題 (2)認識のズレ (3)差別の不当性 3 本書の構成と方針 第1部 理論編 第1章 差別の定義 1 社会的カテゴリーと差別 2 差異モデルと関係モデル 「差異モデルの問題点を一言でいうと、差別する側と差別される側の『非対象性』という要素を無視しているということになります。『非対象性』という言葉は、あとで詳しく考察しますが、とりあえずは多数と少数、大きな権力を持つ者とそうでない者といったように、対等ではなく力関係に差がある状態を示していると理解しておいてください。」(p.27) 3 不当性の論理 「このような混乱は、差別問題一般でも起こっていることではないかと思います。すなわち、『人権侵害行為』といった場合は、不当であるという(悪い)ことが人権侵害に依存していることが明確ですが、『差別』だという場合は、『人権侵害』であるということ以外に、『差別』それ自体がなんらかの意味で不当である(悪い)というニュアンスがどうしてもでてきてしまうのだと思います。」(p.32) 「以上の考察から、差異モデル(より正確にいうなら、権利概念を不当性の根拠とする定義)は、差別の定義として不適切であると結論づけざるをえません。もし差別の不当性が権利侵害とは独立に不当性があると考えるのなら、そもそも差別の定義は不要であり、もしそうではなく権利侵害とは独立に不当性があると考えるのなら、権利概念のみによって不当性を根拠づけるモデルは間違いであるからです。」(p.32) 「残念ながら、現在のところ、『関係の不当性』を基礎づける十分に体系だった規範理論は存在しないと私は考えています。個々の差別問題については、たとえばフェミニズムにおける家父長制の理論や、マルクス主義の階級理論などがその役割を果たしているのだと思いますが(本来それらは規範理論ではありませんが、事実上そのような意味をもっているのではないかと思います)、それらも『差別の定義』に採用できるほどの普遍性は備えていません。」(p.34) 「『関係の不当性』が権利概念によって直接基礎づけることができないということ、これこそが差別の定義を困難、もしくはほとんど不可能にしている本当の原因ではないかと思います。」(p.34) 「『関係の不当性』を表現する言葉、すなわち差異モデルにおける『不平等』に対応する言葉としては、『非対称性』を生み出す行為は、『排除』という言葉を使いたいと思います。」(p.35) 4 差別論と人権論 「私の提案は、差異モデルによる差別の定義を破棄し、この領域は『人権問題』という言葉で捉えるべきであり、関係モデルを(『人権問題』によって『差異の不当性』の領域がカバーされていることを前提にして)差別の唯一の定義としようというものです。すなわち、従来『差別問題』として考えられてきたkとを、『人権論』と『差別論』という二つの異なる『問題化の方法』によって考えていこうということです。」(p.38) 5 排除による差別行為の定義 「『排除』とは、もともと(あるいは本来)ある社会のメンバーであるにもかかわらず、そのなかの一部の人々がその社会の外部へと押しやられてしまうことだと考えていいでしょう。それでは、そのような『排除』をどのように捉えればいいのでしょうか。まず考えられることは、『外部に押しやられた』、すなわち『排除』された人々とそれ以外の人々を比較すること、『排除』された人々がある権利を(相対的に)剥奪されているとか、なんらかの不利益を受けているといった状態を示すことです。しかし、すぐにわかると思いますが、これは差異モデルの視点と同じです。すなわち、『排除されている』という状態を示したとしても、それは単に『差異の不当性』を表しているにすぎません。『排除』が差別の基本的な性質であるという認識に立っても、それを客観的に認識しようとすると、結局は『排除』の結果生じた『差異』を捉えるしかありません。差別する者と差別される者という『非対称性』は、客観的な視点、すなわち第三者の視点では決して捉えることができないのです。このことが『関係モデル』による定義がほとんど採用されていない理由だと思います。『関係の不当性』を表現しようとするなら、『外部に押しやる』というダイナミズムそのものを捉えなくてはならないのです。」(pp.41-42) 脚注「(4)『何らかの社会的カテゴリーが関わっているか否か』といった、差別の形式的・客観的な規定と、『悪いこと』としての差別の範囲が必ずしも一致しないという内藤氏の主張は、本書での私の主張と重なり合う部分があります。しかし、社会的カテゴリーの使用は、それ自体が(ある意味において)『不当な』ことであり、その不当性は『結果の不当性』には還元できません。すなわち、差別の不当性には二つの水準があり、それが十分識別されていない点にこそ、差別における規範的問題の混乱があるのです。 「(7)この点について私が明確にいえるのは、『権利』という論理では説明できないということだけです。しかし、もう少し広げて、『関係の不当性』は、『抽象的個人』を前提にした規範理論一般で説明不可能なものだということも、いえるのではないかと思っています。」(pp.46-47) 「そういう意味では、『関係の不当性』を基礎づける理論の候補として考えられる。現状ではおそらく唯一のものは、『ケアの倫理』かもしれないと思います。これは、キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』(Gilligan,1982)に端を発する『ケア対正義』論争のなかで、従来の倫理学である『正義の倫理』に対置されたものです。この論争の詳細を私は十分に理解していませんが、可能性があると考えられる点は、『正義の倫理』が『権利(人権)と重なり合う部分が大きく、そのオルタナティブであるということにあります。しかし、そもそも『不当性』という概念が『ケアの倫理』とうまく接合しないのではないかという懸念もあります。『不当性』はあくまでも『正義の倫理』のなかに位置づけられるものであるとすれば、『関係の不当性』という考え方がそもそもあまり適切な表現ではないのかもしれません。」(p.47) 第2章 排除の理論 1 共同行為としての排除 「排除は自然に生じるわけでもなければ、システムの働きとして自動的に発動するわけでもありません。必ずなんらかの『壁』を持ち込む行為が存在しており、その行為を起点にして排除の構図ができあがっていくのです。」(pp.56-57) 2 他者化、同化、見下し 3 三者関係モデル 「しかし、これまで説明してきたように、集合的行為としての排除が成り立つためには、排除する側としての『われわれ』を形成する必要があり、その起点となる行為が(理論的には)必ずあるはずです。そこで、その『起点となる行為』をもって『差別行為』を特定するべきだというのが私の主張です。」(p.65) 4 差別行為の類型化 (1)利害関係主導型差別 (2)同化主導型差別 (@)攻撃的排除 (A)象徴的排除 「象徴的排除は、それが『差別者』の思惑どおりの効果を発揮したときには、人権論の視点からの問題化が困難です。本当に『不在』であるなら、その場で傷つけられる人はいないわけですし、人権侵害との関連性もあまり明確ではありません。しかし、『不在』が事実ではないと感じる人がいた場合には、この種の差別行為は深刻な『被害』をもたらしてしまいます。これは『被差別者』の可視性が低い場合、あるいはメッセージの受け手が限定されるいない場合(つまりマスメディアなどを通じた差別表現)に典型的な生じします。」(p.79) 5 差別行為の連鎖 (1)認知的連鎖 (2)儀礼的排除 6 差別行為の認識可能性―認識のズレとその解決 (1)他者の抽象化 (2)他者の客体化 「このような仕組みはあらゆる差別問題で見ることができます。たとえば、『同和はこわい』といった感覚は次のようなプロセスで生じるのだと考えることができます。」(p.92) 「部落差別をしたとして告発された(糾弾を受けた)人がいるとします。もしその人が『自分が差別をした』ということを認めず、その告発を不当なものだと考えたとすると、『こわい』という感覚を持つ可能性はあるでしょう。そしてそのことをだれかに語るかもしれません。たとえば、『糾弾されてこわい思いをした。おまえも気をつけろよ」といったように。」(p.92) 「この発言からは『同化』のメッセージを見て取ることができます。『糾弾のこわさ』を(場合によっては誇張し)強調することによって、相手を『糾弾されてしまうかもしれない(部落ではない)われわれ』に取り込もうとしているわけです。もしそれが成功すると、『糾弾された人にとってこわい』という感覚は、『糾弾される可能性がある=部落でないわれわれにとって部落(問題)はこわい』として共有され、さらに『われわれ』が直接語られず一般化されることによって、「こわいという(客観的)属性を持つ」かのように認識されてしまうのです。」(pp.92-93) 「繰り返しになりますが、『女は論理的ではない』『同和はこわい』といったような社会的カテゴリーに付与されたイメージなどが問題なのではないということは、もう一度強調しておきたいと思います。このような問題設定こそが『認識のズレ』をもたらすものであり、主観的な認識をあたかも『客観的な属性』であるかのように構成してしまう『他者化』の作用なのです。」(p.93) 「このような仕組みを、『他者の客体化』と呼ぶことにします。他者の客体化は、差別の根拠や原因が差別される側にのみ存在しているかのように認識させてしまう仕組みです。」(p.93) (3)他者化に着目する差別の認識 (4)同化に着目する差別の認識 (5)同化メッセージのあいまい性 7 批判と差別 脚注「(11)『差別される者の痛みは差別する者にはわからない』といったことがいわれることがあります。これを一般的な他者理解の問題としてではなく、差別に起因する『認識のズレ』を表現したものだと考えれば、ある意味で正しい指摘だと思いますが、『わからない』ことを認めてしまえば、被差別者を含む『われわれ』を作ることはできません。なんらかの意味で「わかる」ことは必要なのです。」(p.117) 補論 1 スケープゴーティング論について 2 「われわれ」カテゴリーについて 「エスノメソドロジーは、『カテゴリー化』を具体的な相互行為のなかで達成されるものとして見る視点をもたらしました。そして山崎氏は性別カテゴリーの使用はそのカテゴリーを使用した人やその場にいる人もカテゴリー化するという、重要な指摘をしています。」(p.133) 「まず第一に、『われわれ』は(通常)直接には語られないカテゴリーであるということです。そして『われわれ』を語っている当人にさえはっきりと意識されず、その範囲や性質さえ明確ではないということです。『あいつってアレなんだぜ』と語るとき、聞き手が『アレ』の意味を知っていることを前提として語っているのは明らかですが、なぜ『知っているはず』なのか、『どのような範囲の人なら、どういった資格があれば知っているのか』は必ずしも明確ではありません。『仲間』とか『身内』などといった言葉で理解するしかできず、それはまさに『われわれ』でしかないのです。すなわち『われわれ』の範囲やその性質などを確定することが(しばしば)不可能であるということです。」(pp.134-135) 「第二に、『われわれ』を語るメッセージは『われわれ』にしか意味を持たない、すなわち客観的には認識できないものであるということです。」(p.135) 第3章 偏見理論批判 1 偏見理論とは何か 2 差別は心の問題か 「これまで説明してきたように、差別行為は本質的に第三者(共犯者)を巻き込んでいく性質を持っていると私は考えています。そして、差別行為の少なくとも一定の割合のものは、攻撃や忌避ではなく『同化』を主要な動機づけとしている(同化主導型差別行為)こともすでに説明したとおりです。すなわち、少なくとも同化主導型差別行為においては偏見は差別行為の主要な原因ではありません。そして、(もともと偏見とは無関係に)差別行為に加担してしまった人は、偏見と見なしうる言動によって自らを正当化しようとすると考えられます。すなわち、偏見によって差別行為が起こるのではなく、差別行為を行なうことによって偏見が形成されるのです。」(p.144) 「とたえば『同和はこわい』という意識や偏見が共有されているのではなく、『同和=こわい』と理解する記号が(「われわれ」なら知っているものとして)共有されていると考えるのです。そして、それが差別行為として発動する仕組みは、否定的な感情を持っているから攻撃したり忌避したりするということではなく、『同和=こわい』という記号は、みんなが知っているものとしていつでも利用可能であり、それを同化や(個人)の攻撃という目的に利用することによって差別行為となるわけです。そういう意味では、『原因』というのは適切ではなく、むしろ差別行為の『条件』あるいは『資源』と考えた方がいいでしょう。」(p.145) 3 カテゴリー化とステレオタイプ 4 二者関係のモデルと三者関係のモデル 5 偏見理論の問題点 「偏見理論では『偏見→差別(行為)という仮定があるため、結果として被害を与えてしまった行為をすべて『偏見に基づく行為』と位置づけ、『心の問題』の存在を想定してしまいます。これは一方では『過剰な告発』を生み出してしまうと同時に、告発自体は『心の問題』を想定していないにもかかわらずそのように受け止め、『過剰な反発』をもたらしてしまう可能性があります。そのため、告発をめぐって必要以上に感情的な対立を作り出してしまうことがあるのです。」(p.159) 「偏見理論が二者関係モデルであることは、もうひとつ別の問題をもたらします。これが四番目の問題、差別する側と差別される側を分断するということです。偏見理論は二者関係を所与とするスタティックなモデルであるため、差別する側と差別される側を固定します。固定しなければ偏見を特定することができないのです。そのため、差別(排除)によって持ち込まれた『壁』を追認し、その『壁』があたかも初めから存在し、乗り越えられないものであるかのように感じさせてしまうのです。念のために付け加えておくと、私は『壁』など存在しないと主張しているのではありません。『壁』は特定の状況でだれかによって持ち込まれるものなのです。そして、『壁』を持ち込む行為こそが『差別行為』なのです。」(p.162) 第4章 差別論の射程と解放の戦略 1 差別論の射程 「差別論は『差別問題』のすべてを解決できるわけではありません。第1章で述べたように、差別論は人権論との二本立てであることを前提にしたアプローチです。人権論は『結果』からのアプローチであり、被差別者が被る『被害』に着目し、それを解消するための措置をとることが目的です。そのため、人権侵害の客観的な認定と法的・制度的な対応といったことが主要な領域になります。一方差別論は『原因』からのアプローチであり、『原因』としての差別行為を解消するための方法を考えるのです。そしてそのためには、主観的意図や暗黙の知識を読み解いていく必要があります。」(p.177-171) 「重要なことは、この二つのアプローチを混在させず、明確に切り分けることです。その切り分け方をわかりやすくいうと、以下のようになります。 人権論のアプローチでは、(差別者の)『意図』に踏み込まない 差別論のアプローチでは、(被差別者の)『被害』に踏み込まない」(p.172) 「しかし、『被害』に踏み込まなければ差別の告発は不可能になるのではないでしょうか。『被害』にまったく言及せずに差別を告発できるのでしょうか。確かに、だれかが傷つけられるとか、不利益を被るとか、不平等であるとか、そういった具体的な『被害』に依拠することなく差別を告発することは困難です。だからこそ、差別告発は基本的に『被害』に依拠する論理、すなわち権利の論理に基づいて行なわれてきたのですが、それが差別をめぐる議論に混乱をもたらしてきたことは、第1章で指摘したとおりです。」(pp.172-173) 「そのような混乱を回避するために、差別論は『被害』に踏み込まないのですが、そうすると『告発』は困難になってしまいます。差別論が注目する『関係の不当性』を基礎づける規範理論が存在しないためです。」(p.173) 「それではどうすればいいのかというと、私の結論は、『告発』に必ずしもこだわる必要はないのだ、ということです。差別論の最終的な目標は差別をなくす(あるいは差別による被害を解消する)ことであるはずです。そして『告発』はそのための手段です。」(p.173) 「『告発』ではない手段とは何か、それは差別の『無効化』です。この『無効化』が差別論の基本的な戦略となります。」(p.173) 「以上のように、差別論のアプローチは『差別問題』のすべてを解決するものではなく、むしろ差別にかかわる問題から(特定の)『差別』という要素を取り除くためのアプローチだと理解してください。」(p.174) 2 差別の無効化という戦略 「まず、差別の無効化という戦略においては、『不当性』はそれほど強いものである必要はありません。同化が行なわれないようにすることが目的なので、差別者が不当性を認識する必要はなく、共犯者が(なんらかの意味で)不当だと感じることができればいいのです。そのため、多少漠然とした感覚であっても、『同化される必要はない』といった程度の認識さえ得られれば目的は達せられるのです。」(pp.175-176) 「重要なことは、不当性を論理立ててきちんと説明できることではなく、多少漠然としていても、『共有されること』あるいは(もっと正確にいうと)『共有されていることだとして示すこと』なのです。」(p.176) 「もうひとつの理由は、『関係の不当性』は体系的に基礎づけられていなくとも、それは直感的に感じ取られているものだからです。たとえば、人の悪口を聞かされることの不快感、仲間はずれにすることの居心地の悪さ、人を傷つけることそれ自体の嫌な感じ。これは的確に言語化できるものではないかもしれませんが、(すべての人ではないにしろ)しばしば感じ取られていること、あるいは何かのきっかけで感じることができるものではないかと思います。しかし、これを『不当』なこととして告発しようとすると(言語化すると)、『直感的に感じられたもの』は脇に追いやられ、『悪口をいわれること』『仲間はずれにされること』『傷つけられること』が問題なのだとして、『権利論』に結びつけられてしまうのです。」(pp.176-177) 「それではどうすればいいのでしょうか。私の主張は、言葉として表現すると非常に大胆なものに見えると思いますが、『不当性』という論点は回避してしまおう、ということです。『告発』が目的ではないのですから、『不当性』を客観的に論証するという手続きはもともと重要ではありません。むしろ、『不当性』は自明なものとして、すでに共有されているものとして描いてしまうのです。そして、それは『同化メッセージの読み取り』さえできれば、ほぼ自動的に達成されるのではないかと私は考えています。」(p.177) 3 偏見理論からの脱却 4 行為の対象化 5 差別行為の「ワクチン」化 「しかし、いかなる差別においても、それが『排除』である限り、必ずどこかで同化メッセージは交換されているはずです。そして、さらに重要なことは、その同化メッセージを『差別者』と『共犯者』は『知っている』ということです。ここでの『知っている』というのは、そのメッセージを暗黙のうちに解釈し、『差別者』の(暗黙の)意図どおりに行動してしまう(認識を共有して『われわれ』を形成してしまう)という意味です。すなわち、『知っている』が『見えていない』状態にあるということです。だとすると、『知っている』ことを的確に指し示し、『見える』ようにすることで、原理的には『行為の対象化』は可能なのです。」(p.188) 6 「ワクチン」の作り方 「あらゆる差別行為は、適切な『ワクチン』を作り、それを『集団接種』し、そして活性化することによって無効化できる。これが本書の最終的な結論です。」(p.191) 「『ワクチン』を作るうえで最も重要なことは、具体的な状況のなかで使われる実践的な知識を記述するのだということです。たとえば『同和はこわい』という言葉であれば、それがどのような状況で、だれがだれに対して、どのような効果を狙って使うのか。そして、その言葉を使うことによって、どのような暗黙の知識が読み込まれ、どのように同化と他者化が引き起されるのか。そういったことを言葉にしていく作業が『ワクチン』を作るということなのです。このように書けば難しいことのように見えると思いますが、実はこれは『あらかじめ知られていること』を記述する作業にすぎないのです。『同和はこわい』という言葉を使う人は、それをどういう状況で使えばいいのか、使うことによってどのような効果が得られるのかを『知って』いるはずなのです。『知っている』が『見えていない』ことを『見える』ようにすることが『ワクチン』の役割なのだということをもう一度強調しておきたいと思います。」(p.191-192) 脚注「(1)実は差別論でも差別の『告発』を行ないます。具体的な行為について、それを『差別』であると認定する時点で、『告発』としての意味を持ってしまうからです。しかし、差別論のアプローチによる『告発』(差別の認定)は『被害』を根拠にしたもの、すなわち権利論によるものではなく、そのため客観的な認定に基づいて公的な措置をとることを目的にするではありません。差別論の『告発』は、むしろ当事者(とりわけ共犯者)が差別を認識するためのものですので、(当事者さえ理解できれば)客観的に認定する必要はありません。」(p.194) 「(2)すなわち、利害関係主導型差別行為の場合ということです。象徴的排除による同化主導型差別行為の場合は差別論のアプローチは比較的大きな効果を発揮できます。攻撃的排除の場合は、理論的には攻撃的排除に至る連鎖を断ち切ることによって対応可能ですが、『過剰な連鎖』を完全になくすことは難しいため、やはり限定的な効果しか持ちえないと思います。」(p.194)br> 第2部 事例編 第5章 小説のなかの差別表現―筒井康隆「無人警察」 1 はじめに 2 筒井康隆「無人警察」をめぐる議論に見られる「差別表現」観 (1)「無人警察」とそれをめぐる評価 (2)三つの「差別表現」観 3 差別論の問題点 (1)「被差別」の論理 (2)悪意の差別論 (3)偏見と差別意識の理論 4 差別問題の「ねじれ」構造 5 「無人警察」における「てんかん」の意味 6 差別論のオルタナティブ 7 おわりに 第6章 あいまいな表現としての差別語と「ワクチン」―石原都知事「三国人」発言 1 分析 (1)外国人 (2)三国人 2 ワクチン 第7章 性別役割分業の非対象性―林義道『父性の復権』『母性の復権』 1 『母性の復権』と『父性の復権』の相違点 (1)母性本能と父性本能 (2)女性性と男性性 (3)母性の問題と父性の問題 (4)母性の保護と父性の保護 2 分析 3 性別役割分業の非対象性 おわりに 参考文献 ◇生存学 ◇日本解放社会学会編 『解放社会学研究』 ◇差別論研究会 作成:山本崇記(立命館大学先端総合学術研究科) UP:20060926 Rev:20060927,0928,20070129,0218,0227,0304,0423,20071230 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/discrimination.htm |