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久野収
(1910.06.10〜1999.02.09)


久野収の書いたもの等
 (→久野収について論じたもの

1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代
<1940年代>
◇1949****「平和の論理と戦争の論理」『世界』第47号(1949年11月)、岩波書店

「まず戦争の論理の最大の力は≪戦争は不可避である≫という信念或いは実感の中に横わっている」(p.25)
「従って平和の論理は、まずこの不可避性の信念或いは実感から、われわれをいかにして解放するかという方向に、自らの進路を求めねばならない。」(p.26)
「平和の論理は、戦争の洪水に対して無条件に対決し得る信念によって保証されないかぎり、遂に戦争の論理に勝つことは出来ないであろう。そしてそれは戦争を方法として、論理として承認し、実践することを拒絶する点に成立するのであるが、この力と自信をわれわれは何を依りどころにして汲み出すことが出来るであろうか。」(p.26)
「集団と暴力と組織とは、離れがたく結びついた戦争概念の内容にほかならない。」(p.27)
「しかも次の世界戦争は、われわれをこの地球上から絶滅させる可能性をはらむような新しい条件を加えつつある。われわれのこの地球上での存続が、今や新しい戦争を避け得るわれわれの能力如何に絶対的に依存しているような新しい情況生まれつつある。」(p.27)
「戦争の論理は、その目的、その手段の一切における暴力性、超論理性、ヒステリー性を特色とせざるを得ないに反し、平和の論理は、単にその目的のみならず、手段においても、出来るだけ平和性、論理性、健康性を守らねばならない。」(p.27)
「戦争を挑発する勢力が、組織と強制と暴力によって行動するのに対し、平和を守る勢力が、それと同じ仕方で対抗し、相手の挑発に答えて、積極的に戦うとすれば、平和の論理は、原理的には、自らの論理を放棄し、相手の論理に屈服しているのである。だからといって、戦争の組織と暴力に、積極的に参加しないにはしても、それに順応し、黙従しているかぎり、平和の論理は、どこまで行っても戦争の論理を克服することは出来ない。平和の論理は、その出発点において、致命的なジレムマにおちいらざるを得ない。」(p.28)
「このジレムマから逃れる道は、一方では、暴力の挑戦に応じて直ちに立ち上がることは、あくまで警戒するが、他方では、その挑戦に徹頭徹尾、抵抗してゆく、という態度以外にはあり得ない。だから出来得るかぎり無暴力であって、しかも徹底的な不服従の態度、出来得るかぎり非挑発的であって、しかも断固たる非強力の組織、これのみが、平和の論理のとるところをやむなくされる唯一の血路である、といわなければならない。人人は、普通このような態度、このような組織を通じて、自己の目的を実現する運動を、《受動的抵抗の運動》Movement of Passive Resistanceと呼んでいるが、平和の論理の積極的な第一歩は、戦争反対の目的のために、この運動を果敢に実行する信念と組織とエネルギーの如何にかかっている。」(p.28)
「戦争を引きおこす条件に対する非協力、戦争を挑発する勢力に対する不服従、戦争を強行する組織に対する受動的抵抗の精神に充たされて、努力するかぎり、個人個人の戦争的義務への不服従から始まって、組織された労働階級のゼネストにいたるまでの一連の連動と組織は、平和の論理実現の最も有効な保塁となるであろう。しかし、何よりも重大なのは、われわれ一人一人の中に、戦争に対するかかる非協力、不服従の、直接的、出来得るかぎり無条件的な態度への信念が、脈々として生き、且つ働いているということでなければならない。かかる信念に発する各人の行為が、自ら一連の運動と組織を結果として形づくるか、既存の運動と組織を、この目的のために有効に活用するかによって、平和の防波堤の役割を果すのであって、その逆ではないのである。」(pp.28−29)
「しかしながら、戦争に対する受動的ではあるが、無条件的な非協力の信念を、いかなる事情に面しても放棄しないという態度は、一体どのようにして獲得され、貫徹されるであろうか。そのためには、まず戦争に対する積極的嫌厭の感覚が、われわれの間に生き生きと脈打っていることが必要である。戦争への非協力の信念と組織は、この一般的感覚の中でのみ、しっかりとした根を下ろすことが出来るのである。次に反価値性、徒労性を無条件的に憎悪する信念が、そこから生まれなければならない。平和の論理は、自己の生命を脅かさんとする悪に対する真の憎悪に裏づけられて、始めて力を持ち得るのである。」(p.29)
「戦争に対する憎悪が、正義の戦争と不義の戦争の区別によって曇らされない激しさと無条件性をもつことが、是非とも必要である。」(p.29)
「われわれはいつも《防衛》や《正義》の名において、戦争にかりたてられるのである以上、防衛と侵略の区別にもとづいて、一方を是とし他方を非とする態度が、少しでも忍びこむかぎり、われわれは現実には直ちに戦争黙従の態度におちいらざるを得なくなるという事実がある。」(p.29)
「最も正しい合法的防衛戦争さえも、われわれの戦争憎悪からの例外ではあり得ない」(p.29)
「まず第一に、宗教的伝統から生れ出た強い戦争非協力の運動をあげなければならない。これは、戦争憎悪の信念の根拠を、宗教的信仰に求める態度である。キリスト教の福音信仰から発する徹底的な暴力否定の思想と、世俗的権力、主として国家権力の非良心的命令に対する徹底的不服従の態度を堅持して譲らなかった人々が、その模範に数えられる。」(p.30)
「第二の潮流は、フランスのアンシクロペデイストの思想を源流とする、非宗教的戦争不服従活動の流れであり、国家権力の強制に対する個人の良心のプロテストを意味し、個人主義的色彩を最も強くあらわし、自己の信念の支柱を、ゴドウィン、シエリー、ソローの思想に求めている流である。」(p.30)
「第三の潮流は、ヒユーマニテイと、生命の貴重さとを自覚し、何よりも戦争の破壊と殺戮を憎み、人類の有機的統一を信じるヒユーマニズムの立場から生れ出ている。戦争に対する彼らの無条件的反対の態度と節操は、大部分の社会主義者たちの戦争に対する条件づきの反対方針と混乱から鋭く区別される点に、その特色を有しているのである。」(p.30)
「これらの運動が、すべて近代の市民的価値を守る立場を重要な動機として、出発しているかぎり、それは市民的平和の論理として、一括されることが出来る。」(p.31)
「まず、労働者の中に戦争を憎悪する感覚が、脈打っていなければならない。」(p.32)
「第二に、戦争への抵抗の最大の保塁として役立つことが、労働の組織の最も重要な任務に属するという点の自覚が、労働者の中に充分行きわたっていなければならない。」(p.32)
「第三に、そのためには、一方では、戦争の条件及び帰結に関する理論的認識が、労働者の中に浸透していることが必要であり、他方では、労働者のかかる行動が、広く世論によって支持されることが必要なのである。」(p.32)
「われわれは、これまで、戦争の洪水に直面した場合のわれわれの決意と行動が、もし平和の論理に立脚した場合、いかなる方向をとらねばならぬかを論じたのであった。しかしこれは、たえず侵攻を企てる戦争の論理に対する抵抗の段階にとどまるのであって、平和の論理が自己を本当に実現するためには、戦争の論理の不断の脅威を根底から無くすることが、ぜひとも必要である。」(p.33)
「われわれは、一方で消極的には、この抵抗を可能にする自由をたえず確保し、拡大する動力を続けるとともに、他方で積極的には、戦争を生み出す条件を探求し、公表し、これらの条件を再編或いは抹殺する努力を積みかさねなければならない。戦争の洪水を本当に無くするために、消極的には防波堤のたえざる補強工作と、積極的には水源地域の徹底的再編作業とが、並行して推し進められなければならないのである。」(p.33)
「われわれの間に、戦争への抵抗と平和への熱意が、かりに満ちあふれていたとしても、それを実現する自由と、その保塁となる組織がうばわれてゆくかぎり、われわれは、心ならずも戦争の洪水に押し流されるよりほかはなくなるだろう。」(p.33)
「まず、戦争に対して抵抗する権利、不服従、非協力の権利が、基本的人権の最高の部分として、国法の上で確認されることが必要である。」(p.34)
「この抵抗の権利の確認の上に、戦争防止の努力は、二つの方向に押しすすめられなければならない。一方では、支配的国家権力の運営に対して、分断の方針をとることが、何にもまして必要である。」(p.34)
「国際的連帯は、国家群的分離を内部から突きくずすに足るだけの強い意欲の表現でなければならないのである。」(p.34)
「戦争を引きおこす条件は、社会心理的と、経済的という二つの観点から、考察されることが出来る。」(p.35)
「こうして、われわれの自然な愛国の感情は、敵国憎悪の感情にまで組織され、ついに戦争への心的準備が完了の状態に達してゆくのである。」(p.36)
「社会主義に賛成すると否とにかかわりなく、われわれは、戦争の客観的原因の分析に果した社会主義の理論の功績を承認し、平和の論理の拡充のために、この理論から、充分学ぶところがなければならない。」(p.36)



<1950年代>
■久野収・鶴見俊輔19561117『現代日本の思想―その五つの渦―』岩波新書
まえがき
T 日本の観念論―白樺派―
 なぜ白樺派をえらぶか
 観念論としての特徴
 白樺派思想の産物
 白樺派の弱さ
 白樺派の公共遺産

U 日本の唯物論―日本共産党の思想―
 アカという概念
「天皇の病気にかまわず若い者がダンス会をひらくのも、共産党の同調者となるのも、ともにアカの思想にそまっているという点では、同一なのである。このように『共産党』が、日本人の大衆意識の上で孤立していたということ、孤立しながらも、最後までみずからの陣地を守りとおしたということ、これら二つの事実を認識することが、まず必要である。」(p.31)

 唯物論としての日本共産党の思想
*昭和初期の日本共産党は、どういう仕方で、唯物論の条件を満たしたのか?

「第一に、日本共産党の哲学は、弁証法的唯物論である。ただ世界を物質からできたものとして理解するというだけではなく、物質からできている世界であるが故に、それにたいして無用の恐れをいだくことなく、自由にはたらきかけてゆき、人間の力のおよぶかぎり、よりよいものとしてゆく努力をおしまないという能動的な考え方である。」(p.33)
「正しい思想体系があたえられるならば、そこから、演繹のみにたよって、いくつもの系列の正しい命題を導きだすことは、論理学的には可能である。それは一つには、大前提の意味の中にふくまれている潜在的命題を明らかにしてゆく手つづき、つまり、そのあたえられた思想体系の解釈である。もう一つには、それは、あたえられた思想体系内の諸命題を、同義語反復(言いかえ)によって、別の命題に無限に転化してゆく操作である。これら二種類の正当な演繹的方法によって、日本のマルクス主義は、発展した。」(pp.34―35)
・第一種の方法=論理的含意の再解釈
・第二種の方法=同義語反復
「弾圧がはげしくなり外部への伝播がとざされる条件では、この同義語反復は、仲間意識を保ちつづけるための必死の方法となる。敗戦までのマルクス主義系の文献は、外部の者をはじきだす同義語反復の習慣を特徴としているが、これは、仲間意識の喪失にたいする言語的自衛の方法であった。このために、大衆から孤立するというだけでなく、マルクス主義の思想体系を現にうけいれている者以外のインテリ層にたいしても、働きかけの力をうしなわせた。日本共産党の思想における高度の演繹性、異質の思想流派に対する交流の拒絶は、特徴的なものと考えられる。」(p.35)
「第二に、日本共産党の唯物論は、その戦いの相手方の性格によって特殊の刻印をうけた。」(p.35)
「だが日本の場合、普遍的真理、普遍的正義の観念そのものが、非常に把握しにくく、ここでは、『国』と『家』との二つの力による普遍性のねじまげにたいして、実にしつこくたたかわねばならなかった。この戦いを、妥協なく一貫してたたかいぬいたのは、大正以後の近代思想の諸流派の中では共産主義だけである。」(p.36)
「第三に、日本共産党の思想は、急進的知識人の意志の行使によって選びとられた思想であるがゆえに、それが知識人自身の日常的思惟(実感)からの飛躍を意味するだけはなく、国民大衆の日常的思惟からもさらに大きな飛躍のあることを意味していた。」(p.36)
「第四に、日本共産党の哲学は、大局的唯物論であった。おおまかなところで、唯物論の骨格をうけつぎ、細目については、唯物論的な見解を欠いていた。」(p.36)

 集合名詞としての「福本」
・福本イズム
「この組織論は、弁証法的ではあるけれども、文献学習上の異同を正すという形でとらえられた理論闘争は、現実にたいするたえざる働きかけの成功と失敗とによって理論がきたえてゆくという契機をふくまず、十分に唯物論的な弁証法とはいえなかった。」(p.42)  cf.『福本和夫の思想』
「だが、このような不十分さは、福本個人に帰せられるべきものではない。『福本』とは、昭和初期の日本共産党の傾向を代表する集合名詞である。福本イズムという名称は、モスクワ批判によって廃語になったのだが、太平洋戦争終結までの日本共産党は、この名称の指示する状態そのものからは、ついに回復することができなかった。」(p.42)

 思考方法としての組織
「さきに福本は弁証法をはじめて日本に輸入したが、福本の著作においては、弁証法は唯物論に附加されたものとして、『弁証法+唯物論』という関係にたっていた。野呂の第一論文『日本資本主義発達史』は、日本の資本主義の中の矛盾の発展をあとづけることにより、日本の現実にたいして適用された弁証法として、ここに始めて『弁証法的唯物論』が日本に成立したことになる。」
・『日本資本主義発達史講座』
「事実を〔それぞれ否定的あるいは肯定的に〕一つの事実として意味づけるだけでなく、それらを日本資本主義の全体的構造においてふたたび意味づけるという方法は、この共同研究を通して、日本のマルクス主義学者に共通の方法となった。」(pp.50−51)
「もし、この論理が、実践の方法としてもつらぬかれていたなら、日本内部の諸勢力、団体、あるいはまた個人にたいしても、『然り、否』、『否、然り』として、それぞれの存在理由を評価し、手をむすぶべき部面においては手をむすび、そうでない部面では変革的にはたらきかけてゆくことができたであろう。日本共産党をしっかりと大衆にむすびつける効果的な組織活動の論理として、力強く役立ったであろう。」(p.51)
「党の組織を思索の方法の中心においた共産党員にとっては、党組織の衰亡は、自分の思想そのものの衰亡であった。」(p.53)
「転向の理由はさまざまであるが、主な理由としては、大衆の支持のないままに自己がひとりの個人として信条を守りとおさねばならぬということの意味をうたがうことにあった。ここには、(1)日本共産党員と大衆意識とのきれめ、(2)日本共産党員の個人としての自主的思考の弱さという二つの側面がかかわっている。第一の面では、転向者は日本大衆意識の共通の支柱である『国』の権威、『家』への愛情に自分をゆだね、第二面では、これまでマルクス主義のとりあげることを恥としていたような個人生活上の諸問題に目をむけることによってマルクス主義からそれていった。第一の傾斜面における転向者は、佐野学、門屋博、浅野晃のごとく国家主義者としての新生にむかい、第二の傾斜面における転向者は、三好十郎、椎名麟三のような実存主義者としての新生にむかった。転向文学は、日本における実存主義の原型である。」(pp.53−54)

 動かぬ座標
「一九三四年(昭和九年)以後、党の組織は四分五裂し、当局のスパイ網にわざわいされて、たがいに結びつきをつくれなくなった。このとき以降、一九四五年(昭和二〇年)の敗戦に至るまでに行われた活動は、小集団の同志的な結びつきによるもので、市川正一、国領伍一郎、徳田球一、志賀義雄、宮本顕治ら、獄中にあるグループ、野坂参三らのように国外にあるグループ、尾崎秀実、久津見房子らのように、戦争の拡大を防止するために、権力者に近づいて牒報活動をするグループ、神山茂夫らのように偽装転向して、出獄後太平洋戦争直前まで党再建のための活動をつづけ、ふたたび検挙されたグループ、奥村秀松らが在米日本共産党員と連絡してつくったグループ、小林陽之介がコミンテルンから派遣されて京浜および関西で組織したグループ、春日庄次郎らが関西で組織した共産主義者団のグループ、山代吉宗、春日正一らが川崎市で組織した京浜労働者グループ、などである。」(p.56)

 要約と批判
「日本共産党が日本の知識人にたいして天皇にひとしい象徴的な位置をしめてきたことは、かえって知識人の側での無抵抗・無批判な追随を生み出し、結果として日本共産党を甘やかしてしまった。日本共産党が、日本の知識人とのあいだの八百長的なナレアイに満足する政党となってしまったことは、日本共産党にとってプラスであったとはいえない。」(p.65)
「だが、これまでのところから見ると、日本共産党は、日本の知識人の良いところと悪いところをそれぞれ集中した形で自分の中に表現している。その信奉する唯物論は、きわめて観念的なものであった。むしろ〔外国からあたえられた〕唯物論を観念的に信奉してきたといってよい。しかもその信奉の仕方が、一般の知識人にくらべて、ずぬけて一貫しており、純粋であったことが、当然にも今日の信用をきずきあげたのである。」(p.66)
「だが、学生や知識人だけを相手にするときには、大局だけをおさえて説きあかした唯物論で足りるのだが、社会人一般、特に労働階級や農民を相手にするときには、生活面の細部の一点一点について、現実認識をきそわなければならない。生活の細部にわたって唯物論な認識をきたえるということは、日本共産党員にとっての今後の課題であろう。」(p.66)
・検証可能性(テスタビリティー)
「検証可能性の領域とは、マルクス・レーニン主義の用語でいえば、組織論にあたるわけで、昭和時代の日本共産党の歴史は、福本和夫による組織論の導入に依然としてかかわっているといえよう。生活細部の唯物論的認識が、党員である労働者・農民から確実に伝わってきて、中央部において日本の現状についての全体像がしっかりできるような組織がつくられておれば、おそらく、この組織そのものが、検証の理論をふくむものとなるだろう。だが、現実には、日本共産党の組織は、このような検証の理論をふくむほどのところまできていない。このことは、戦争が終った後にも、火エンビン戦術を採用することが、日本の革命へのプラスになると考えたりして、大衆の支持をうしない、一時は三十五議席に達したものを一議席にまで落としたということで明らかである。」(pp.68−69)
「このように細部においてきたえられていない唯物論は、大衆の眼による日本の現実の認識の上にたっていないために、つねに不安定であり、大局的な理論の面ですじをとおした外国の共産党の指令にたいして簡単に屈服するということになる。二七年テーゼ、三二年テーゼのときと同じく、戦後は、野坂参三の平和革命方式にたいするコミンフォルムの批判にやすやすと屈した。このように当面の運動方針を決定する上での自主性のなさは、日本の現実の細部に関し、はっきり検証できる理論をつくりだす力を党がもっていないことからくる。このような無力の自覚は、一九五五年(昭和三〇年)七月二八日の『日本共産党第六回全国協議会決議』によって始めて公けにされたものと思う。」(p.69)
「検証の力の不足は、マチガイのとりあつかいかたと深い関係がある。新しい真理への近接のためにはマチガイはつきものであり、むしろマチガイをくりかえしながら、マチガイを生かして前進するのが弁証法であるだろう。だが、マチガイを正して、よりよく生かすための武器である検証能力を欠いていて、大局的な理論のレヴェルだけで論じているならば、論争はいずれも分派抗争として発展せざるをえない。このような仕方で、戦前も戦後も、日本共産党は、そこからきわめて多くを学び、生かさるべき、よきマチガイを『マルクス・レーニン主義と縁もゆかりもないもの』とか、『アメリカ帝国主義の手先』とか、『人民の敵』とかいうレッテルをはって切りすてはしなかったか。マチガイは、日常の生理的生活における糞尿の処理とおなじく、処理方法の如何によっては多くの不必要なコワバリと毒素のもととなる。」(pp.69-70)
「過去三十年において日本共産党が、その下におかれつづけてきた圧力状況を考えるとき、以上の批判は、すべて今後に望むべき言葉としてのみ正当であるように思われる。家からうしろがみをひかれる思いに屈せず、日本の国家権力にむかって正面から挑戦しつづけた思想家集団は、昭和年代に入ってからは、日本共産党以外にはなかったのである。私たちは、思想を大切なものと思うかぎり、日本共産党の誠実さに学びたい。」(p.70)

V 日本のプラグマティズム―生活綴り方運動―
 昭和年代のプラグマティズム
 生活綴り方運動の発生
 生活綴り方運動の特徴―(一)組織について―
 ―(二)思想の発展方式―
 ―(三)その理論―
 ―(四)他の思想流派との今後の結びつき―
W 日本の超国家主義―昭和維新の思想―
 超国家主義の原型
 天皇の国民、天皇の日本
 国民の天皇、国民の日本
 北一輝の出発点
 吉野作造の民本主義
 中国革命で北の学んだ教訓
 民本主義の挫折
 共産主義の敗退
 超国家主義の聖典
X 日本の実存主義―戦後の世相―
 実存主義としての戦後思想
 一九四五年八月の新聞記事から
 思想の典型としての犯罪
 戦後派の実存主義の特徴
 戦後派の仕事
 批判
あとがき
人名案内
現代日本思想史略年表
索引

※まえがき、あとがき、Wを久野が執筆。

<1970年代>
■久野収・花田清輝編19710528『林達夫著作集1 芸術へのチチェローネ』平凡社
 *解説―加藤周一
■久野収・花田清輝編19710713『林達夫著作集2 精神史への探求』平凡社
 *解説―桑原武夫
■久野収・花田清輝編19710909『林達夫著作集3 無神論としての唯物論』平凡社
 *解説―久野収(pp.329-348)
■久野収・花田清輝編19710325『林達夫著作集4 批評の弁証法』平凡社
 *解説―花田清輝
■久野収・花田清輝編19710225『林達夫著作集5 政治のフォークロア』平凡社
 *解説―鶴見俊輔
■久野収・花田清輝編19720120『林達夫著作集6 書籍の周囲』平凡社
 *解説対談 林達夫・久野収(pp.393-**)
 略年譜(pp.446-**)

◆19721020『久野収対話集・戦後の渦の中で1 新しい市民戦線』人文書院
 目次
現代革命論  小椋広勝 竹内好 土屋清 丸山真男 久野収
 ―ラスキ『現代革命の考察』をめぐって―
日本共産党は何を考えているか  鶴見俊輔 宮本顕治 久野収
 ―党の考える統一戦線論―
労働大臣のものの考え方  石田博英 久野収
 ―労働者の権利をめぐって―
政党 石上良平  藤原弘達 久野収
 ―日本の運命を握るもの―
学生運動の課題(傍聴記)
 ―全学連大会を見て―
"黒い暴力"の根絶やし  岩井弘融 篠原一 久野収
 ―戦後右翼の底流をえぐる―
革新政党の課題と展望  宮本顕治 久野収
 ―前衛の論理と民主主義の論理―
議会政党と大衆運動の課題  成田知巳 久野収
 ―社会党の課題と展望―
感動的説得力の乏しい社会運動(インタビュー)
 ―民主社会主義を批判する―
国民運動と大衆的統治能力  江田三郎 久野収
 ―日本の社会主義と国民運動―
新しい人民戦線を求めて  鶴見俊輔 久野収
 ―戦後状況の中で―
政党政治と直接民主主義  松下圭一 久野収
 ―第34回社会党大会を前にして―
新しい創造的人民戦線の可能性  針生一郎 久野収
 ―素人と玄人の連帯―
市民運動がめざすものは何か  高畠通敏 久野収
 ―戦後民主主義と市民運動の原点―
連合赤軍事件の報道を糺す  田英夫 久野収
 ―第四の権力マスコミを正すには―
人間のための科学とは何か  松下圭一 久野収
 ―第二、第三のルネッサンスを―
あとがき
対話者の肖像
戦後史年表(1945〜51)

◆19730120『久野収対話集・戦後の渦の中で2 平和・権力・自由』人文書院
 目次
 国家権力と自由  中村哲 久野収
  ―とくに憲法との関連において―
 歴史悪をめぐって  猪木正道 古在由重 鈴木成高 久野収
  ―歴史の中の政治悪―
 裁判の論理  大岡昇平 中島健蔵 真野毅 久野収
  ―松川事件最高裁口頭弁論に際して―
 われわれは何をなしうるか  日高六郎 久野収
  ―六〇年安保闘争の渦中で―
 平和の思想と平和の実践  荒瀬豊 久野収
  ―平和運動における実践的論理の構造―
 平和と科学者の責任  湯川秀樹 久野収
  ―人類共存の道徳を―
 この18年の日本人  大熊信行 小田実 久野収
  ―世代の対話―
 核時代の戦略とベトナム問題  豊田利幸 久野収
  ―軍事独走をどうコントロールするか―
 政治への参加・平和への行進  クロード・ブールデ ハワード・ジン 小田実 久野収
  ―体制を変える運動の原理と条件―
 格子なき牢獄国家の論理  山田宗睦 久野収
  ―ゲバ棒によって問われた政治的民主主義―
 国を守るとは何か  林健太郎 久野収
  ―七〇年安保を前にして―
 非武装の構想  田中慎次郎 久野収
  ―人民の人民による人民のための防衛構想を―
 絶望と狂信の時代を生きて  五木寛之 久野収
  ―漂流する民衆―
 ジャーナリストの"良心"と責任  森恭三 久野収
  ―ニューヨーク・タイムズ「ベトナム文書事件」のなげかけたもの―
 平和運動の原点  高畠通敏 ロウ山道雄 久野収
  ―レジスタンスとしての平和運動―
 あとがき
 対話者の肖像
 戦後史年表(1952〜58)

◆19721020『久野収対話集・戦後の渦の中で3 思想史の周辺』人文書院
 目次
二十世紀思想の性格と展開  高島善哉 鶴見俊輔 長谷川如是閑 羽仁五郎 宮本顕治 久野収
  ―革命・自由・マスコミ―
魯迅の思想と文学  佐々木基一 竹内好 武田泰淳 久野収
  ―文化と生活の変革者―
生活綴方運動の思想性  勝田守一 国分一太郎 鶴見俊輔 久野収
 ―日本の教育の誇るもの―
思想の冒険  大塚久雄 丸山真男 久野収
 ―思想史の新しい視点をめぐって―
「火山灰地」の思想的背景  内田義彦 下村正夫 高畠通敏 武谷三男 星野芳郎 久野収
 ―生産力論と技術者像―
物理学の哲学的意味をめぐって  武谷三男 久野収
 ―物理学は世界をどう変えたか―
新しい思想史への構想  桑原武夫 久野収
 ―歴史の中の思想から何を学ぶか―
高見順の文学と思想  伊藤整  中村真一郎 久野収
 ―その"散文精神"の底にあるもの―
新しい美を支える思想  江藤文夫 久野収
 ―中井美学の継承―
学問の精神  湯川秀樹 吉川幸次郎 久野収
 ―専門分野の壁を越えて―
久保栄の演劇理念  岩淵達治 久野収
 ―「五稜郭血書」をめぐって―
昭和思想史への視角  廣松渉 久野収
 ―三木清と戸坂潤―
北一輝の思想  松本清張 久野収
 ―二・二六事件の背景を探る―
 あとがき
 対話者の肖像
 戦後史年表(1959〜65)

◆19730320『久野収対話集・戦後の渦の中で4 戦争からの教訓』人文書院
 目次
アメリカの問題  清水幾太郎 宮城音弥 久野収
 ―戦後日本人から見たアメリカとヨーロッパ―
マルクス主義はどう発展するか  古在由重 鶴見俊輔 久野収
 ―スターリン批判の公表を機会として―
日本のマルクス主義  古在由重 鶴見俊輔 久野収
 ―その理論的再検討―
思想と教育の民衆化のために  勝田守一 久野収
 ―民主主義と教育―
組織と人間  高見順 久野収
 ―警職法闘争のなかで―
戦争・思想・抵抗  吉本隆明 久野収
 ―「近代の超克」をめぐって―
朝鮮動乱から安保採決まで  藤島宇内 久野収
 ―生活者としての視点―
日本デモクラシーの思想と運動  古在由重 鶴見俊輔 松本三之助 久野収
 ―明治、大正期の名論文再録をめぐって―
「転向」研究の視角  大熊信行 小田切秀雄 高桑純夫 久野収
 ―『転向』全3巻完結にあたって―
創ること、生きること  新藤兼人 久野収
 ―近代映協の歩んだ道―
「戦後」をつくった本  荒正人 久野収
 ―戦後思想の系譜―
無力だった知識人  石川達三 脇村義太郎 久野収
 ―戦時体制への屈服―
山川均論文(「支那軍の鬼畜性」)から現在を考える(インタビュー)
 ―戦時下の知識人―
戦後の再出発  鶴見俊輔 久野収
 ―戦後史への序曲―
新しい時代を創るもの  江藤文夫 久野収
 ―現代から見たガリレオ・ガリレイ―
杉本判決のなげたもの  家永三郎 久野収
 ―教科書裁判を考える―
日中国交回復のための原点  竹内好 久野収
 ―人民レベルでの日中友好のために―
あとがき
対話者の肖像
戦後史年表(1966〜72)


<1980年代>
■久野収編19810425『中井正一全集第一巻 哲学と美学の接点』美術出版社
 解題―久野収(pp.460-471)
 *「委員会の論理 一つの草稿として」(pp.46-108)
■久野収編19650125『中井正一全集第二巻 転換期の美学的課題』美術出版社
 解題―久野収(pp.383-389)
■久野収編19640810『中井正一全集第三巻 現代芸術の空間』美術出版社
 解題―久野収(pp.348-354)
■久野収編19810525『中井正一全集第四巻 文化と集団の論理』美術出版社
 *「『土曜日』巻頭言」(pp.24-55)

中井正一略年譜(pp.372-375)
一九〇〇年二月一四日 大阪市東区の緒方病院で日本最初の帝王切開によって誕生(執刀者はドイツより新帰朝の緒方正清)。本籍広島県賀茂郡竹原町四二〇八。父真一、母千代。ともに浄土真宗の篤信者。家は竹原町で回船海産物問屋を営む。後、尾道市に移る。
一九一八年三月 広島高等師範学校付属中学校卒業。
 四月 第三高等学校(文科甲類)入学。在学中、人生観に悩み、一年休学して摂津富田の行信教校(利井鮮妙主宰)にて浄土教の宗乗(仏教哲学理論)に参入。
 弁論部、山岳部員、ボート部員として活躍。
一九二二年四月 京都帝国大学文学部哲学科(美学専攻)入学。深田康算博士の薫陶を受ける。
一九二五年 京大卒業。卒業論文「カント判断力批判の研究」。大学院に進む。京大文学部哲学会委員を嘱託され、『哲学研究』の編集を数年つづける。
一九二九年 『深田康算全集』(岩波書店刊、一九三〇)を編集校正。
一九三〇年 『深田全集』の校正に協力した徳永郁介、藤井源一、藤田貞次、冨岡益五郎、長広敏雄、辻部政太郎らとともに『美・批評』(美学、芸術史の理論的実証的研究誌)を創刊。
 このころ、主としてコーヘン、カッシラー、つづいてハイデッガーと取り組む。マルクス、レーニンはじめ唯物論哲学にも強い関心を持つ。
 京都学派の西田幾太郎、田辺元、九鬼周造、小島祐馬その他の人々より、深く愛され、信頼を受ける。二年先輩に三木清、一年先輩に戸坂潤があり、親交を結ぶ。その包容力と人間性により、学界のみならず交友範囲はきわめて広い。
 色彩映画『海の詩』、16ミリ映画『十分間の思索』など作品を多数製作。
一九三三年 京大、瀧川事件起こり、文学部を中心とした学生の抵抗組織の中心となる。抵抗運動挫折の後、『美・批評』は真下信一、新村猛、和田洋一、栗本勤、久野収、熊沢復六、武谷三男、森本文雄その他を加え、旧同人の中井、冨岡、辻部、長広らとともに第二次『美・批評』を発行。"反・ファッショ文化情報"欄を一つの力点とする。
一九三四年 京大文学部講師となる。
一九三五年 『美・批評』を拡大・発展して『世界文化』創刊・三十四号まで刊行。
一九三六年 ひろく市民・勤労者のために、タブロイド判『土曜日』創刊。中井・能勢克男・斎藤雷太郎が事実上の責任者。
 「委員会の論理」を『世界文化』一月号―三月号に発表。
一九三七年十一月 『世界文化』『土曜日』等の活動を反戦・反ファッショ文化人民戦線運動として治安維持法違反の名目で検挙される。
一九三八年六月 『世界文化』主要メンバー第二次検挙。
一九四〇年十二月 懲役二年、二年間執行猶予の判決を受ける。
 『質治通鑑』を読破。
一九四二年 このころ日本精神史の「気―機」についての遠大な基礎的研究に沈潜して取り組み、帝国学士院の研究費助成を受ける。(一九四七年『帝国学士院紀事』第五巻第一号に「気(け・き)の日本語としての変遷」として掲載。)
一九四五年四月 郷里尾道へ疎開。
 六月 尾道市立図書館館長。
 敗戦とともに、いち早く市民、学生、農山漁村青年を対象とした啓蒙運動に立ち上がる。
一九四六年 広島県全円にわたって、啓蒙運動に挺身し、「広島件労働文化協会」をつくる(組織化二〇万人)。広島県地方労働委員長となる。
一九四七年三月 広島県知事選挙に民主統一候補として戦い惜敗。
 六月 『近代美の研究』三一書房刊。
一九四八年二月四日 国立国会図書館法制定。二五日 金森徳次郎館長に就任。
 四月一六日 国立国会図書館副館長に任命される。副館長就任には、戦前の経歴などを理由とする反対多く、衆議院図書館運営委員会の「副館長任命についての決議」(三月二五日)などの牽制があったが、羽仁五郎参議院図書館運営委員長らの推薦、松平恒雄参議院議長、金森館長の信頼を得て実現した。
 六月五日 国立国会図書館、元赤坂離宮に開館。
 八月 画期的な行政・司法機関への支部図書館の設置。
 九月 日本図書館協会による公共図書館法実施促進委員に選ばれる。
一九四九年六月 日本図書館協会理事長に就任(一九五一年五月再任)。
一九五〇年四月三〇日 図書館法(法律一一八号)制定。日本図書館協会理事長としてその成立に全力を投入する。
 四月 臨時企画委員会設置、その委員長。
一九五一年五月 書誌サービス改良委員会設置、その委員長。(ユネスコによる全国的書誌サービス計画の改良調整につき、図書館界、文部省、学術会議、出版界等の代表で構成した委員会により、全国書誌、総合目録、印刷カード等諸事業計画の調整、諸外国との情報交流を協議した。)
 七月 『美学入門』河出書房刊。
 十月 『図書館年鑑』(岡田温共編)図書館資料社刊(内外図書館の情報・記録の集積を計り、広く館界の啓蒙に役立たせようとしたが、その死亡により一冊に終わった。)
一九五二年一月 社会教育審議委員。
 五月一八日 胃癌のため病没。享年五二歳。
 八月 『日本の美』宝文館刊。
一九五三―四年 日本図書館協会が『中井賞』を制定、第一回熊野勝祥、第二回蒲池正夫、石塚彌太受賞。
一九五九年 『美学的空間』(鈴木正編)弘文堂刊。
一九六二年 『美と集団の論理』(久野収編)中央公論社刊。
一九六四年 『中井正一全集第三巻』(久野収編)美術出版社刊行。
一九六五年 『中井正一全集第二巻』(久野収編)美術出版社刊行。
一九七一年 『生きている空間』(辻部政太郎編)てんびん社刊行。
一九七二年 『論理とその実践』(中井浩編)てんびん社刊行。
一九七三年 『アフォリズム』(冨岡益五郎編)てんびん社刊行。


<1990年代>
◆19980525『久野収集T ジャーナリストとして』(佐高信編)岩波書店
T ジャーナリズムの思想
 わが友 丸山眞男の生と死(『週刊金曜日』一九九六年九月一三日号)
 埴谷雄高が二一世紀へ残したこと(『週刊金曜日』一九九七年四月一一日号)
 大宅壮一論―戦後ジャーナリズムの象徴(『週刊朝日』一九七〇年一二月四日号)
 ベストを尽くした生涯―安部能成先生の人柄にふれて―(『東京新聞』一九六六年六月九日付)
 疑獄にまみれ、疑獄に終わった昭和(『エコノミスト』一九八九年二月二八日号、『展望』晶文社、所収)
 神は細部に宿りたまう(『朝日ジャーナル』一九七四年一月四日―一一日号、『神は細部に宿りたまう』三一書房、所収)
 体制・文化・人間(朝日ゼミナール『体制と文学』一九七四年、『神は細部に宿りたまう』三一書房、所収)
 独占批判の論理学(原題「反独占の論理学」『さんいち』三一書房、一九七〇年。『市民主義の成立』春秋社、所収)
U インタナショナリズム
 私の中に生きるアメリカ(原題「私はなぜアメリカが好きか」『朝日ジャーナル』一九七五年五月一六日号、『人間の自己創造』日本評論社、所収)
 一九三〇年代のインタナショナリズムとその生きざま
   ―『オットーと呼ばれる日本人』(木下順二作)をめぐって―(『ファシズムの中の一九三〇年代』リブロ、一九八六年、所収)
 若いブレヒトと『男は男だ』(『ファシズムの中の一九三〇年代』リブロ、一九八六年、所収)
 ふだん着のパリ経験(『日本遠近』朝日選書、一九八三年、所収)
V ニュー・ジャーナリズム
 日本の保守主義「心」グループ(『戦後日本の思想』中央公論社、一九五九年。岩波同時代ライブラリー、所収)
 現代ニュー・ジャーナリズム(原題「一九三〇年代の伝統継ぐニュー・ジャーナリズム」『ニュー・ジャーナリズム』汐文社、一九七八年、所収より抜粋)
 出発の感想、一つ、二つ(『週刊金曜日』一九九四年五月一三日、『世界を見つめる』自由国民社、所収)
解説・・・佐高信

月報1 1998年5月
 雑談の徳/鶴見俊輔
 久野さんの書斎/筑紫哲也
 おしゃべりにすべてがあっった/島森路子

◆19980625『久野収集U 市民主義者として』(佐高信編)岩波書店
T 市民主義の成立
 市民の視点(『週刊金曜日』一九九七年一月一〇日号―九八年三月二七日号)
 右翼テロと言論の責任(『文藝春秋』一九九〇年三月号、『展望』晶文社、所収)
 樺美智子さんを追悼する―六〇年安保闘争(「声なき声の会」6・15集会、一九八五年六月一五日。『発言』晶文社、所収)

 市民主義の成立―一つの対話―
(B)「しかし"群集"とちがうのは、情緒が意識的ベクトルを持ち、デモや座り込みとして表現可能である点だ。コルムも指摘するとおり"大衆"とは、"感情体験"を共通する集団をさす。だから、"古典的大衆"と"戦後的大衆"は、全然ちがった集団ではない。ちがいは、感情の質とベクトルにある。むしろ同一集団の二つの顔と考えてよいのだ。」(p.65)
(B)「歴史から切りはなすわけにはいかないが、歴史的説明だけをしておけばよいというものでもない。もっともかんたんにいえば、"市民"とは、"職業"を通じて生活をたてている"人間"という定義になるだろう。」(p.66)
(B)「そうみえるだろう。しかし必ずしもそうではない。まず、職業と生活との分離が必要だ。どこからどこまでが自分の職業で、どこからどこまでが自分の生活かが分離していない生き方からは、身分的人間が生まれても、市民的人間は生まれてこない。職業と生活とが分離していれば、農民も市民の有力な一部分だが、農民が市民とよばれにくいのは、日本の農村では、この両方がごちゃまぜになりがちで、戦後の改革をまって、この分離がやっと地につきだしたからだった。日本の教師はまだ周囲から職業と生活を分離するな、寝てもさめても二四時間、教師であれ、と暗に要求されつづけている。教師が市民になるなといわれているのと同じだ。教師の中にも、本気でそう思いこんだり、そういうポーズをしたりする人びとがずいぶんたくさんいて、サラリーマンとしてではなく、職業人としての教師のモラルがほんとうに成立しにくいのだ。A・N・ホワイヘッドは、"仕事"が"職業"として、生活から分離しなければ、仕事の中にいつまでたっても理論的意識の持ちこみによる着実な改革は実現しにくいし、仕事ははいまわる習慣やありきたりの伝統の支配を脱することができないといっているが、正しいと思うのだ。日本の農民の勤勉と日本の農業のうしろむき的性格の秘密は、仕事が職業化されて、生活から分離しないところにあるといってよいが、これが実はわれわれの行動様式、思考様式を無意識的に規定しているのだ。」(pp.66-67)
(B)「いまは職業の第二の特質にうつろう。その特質とは、職業組織は本来国家権力とは無関係だということだ。国家権力からの接近、国家権力のテコいれの度合によって職業の高低をきめ、国家権力の国策決定にはアプリオリに弱い日本の国策会社的職人の習慣からすると、この特質はなかなかわかりにくいし、自覚されにくい。しかし職業人の自主的組織であるギルド(同業者組合)やツンフトを考えれば、この特質は実にはっきりしている。ギルドは自分たちの職業を国家権力とは無関係にやれる権利を金をだして国家権力から買いとって、自主と自治と自由の母体になった。国家をこえる社会が、国家の中にでてくるということ、これが近代だ。"自由"が"免許状"からはじまるとは、そういう意味なのだ。だれが親方で、だれが職人で、だれが見習いであるかは、国家権力ではなく、ギルドのメンバーがよりあって自主的にきめる。きめる尺度は国境をこえる。親方はどこの国へいっても親方でとおるし、職人は職人でとおるわけだ。こうして職業に関するかぎり、人間も地位も国家権力とは無関係だということが立証された。」(pp.67-68)
(A)「現在の問題にひきなおせば、職域と地域における市民の立場ということになるわけだな。」(p.68)
(B)「反対党の指導力の弱さ、労働階級、労働組合の弱さ、職業的市民の組織的抗議の弱さをいわなければならない。しかしこれらの勢力がかりに強かったとしても、岸内閣は居直り強盗の態度をつづけていくかもしれない。きめ手はむしろ、さっききみがいったとおり、地域における市民の向背にかかっている。岸内閣から正統性をとりあげ、逆に反対運動にあたえるかぎは、かかって地域における市民の向背にある。岸内閣が居直りをつづけられなくなるのは、自民党の代議士たちがつぎの選挙で国会から消えさる危険を身にしみて感じる時だ。その時、自民党内部の派閥あらそいはちがった局面に転換し、岸内閣は腹背からゆさぶられることになるだろう。」(p.75)
(A)「しかし市民の立場と労働者の立場との協同、それが民主戦線だということだけは、はっきりいっておきたい。」(pp.78−79)
(『思想の科学』一九六〇年七月号、『市民主義の成立』(春秋社)所収。この原文は当時、中央公論社側から『思想の科学』編集に参加した粕谷一希君の切実なすすめによって執筆された。記して感謝したい。)

 ファシズムの価値意識(『歴史的理性批判序説』岩波書店、一九七七年、所収)
 自由人権とナショナリズム(『自由人権とナショナリズム』岩波ブックレット、一九八八年)
 転向の内在的意味について(『展望』一九七五年五月号、『権威主義国家の中で』筑摩書房、所収)
U 市民の論理と平和の論理
 「安全」の論理と平和の論理(『憲法読本 下巻』岩波書店、一九六五年四月)
 憲法第九条と非武装的防衛力の原理(『世界』一九六四年四月号)
 二つの平和(『群像』一九五三年八月号)
   ―三好十郎「清水幾太郎さんへの手紙」(『群像』三月号)の含む問題―
 二つの平和論―エラスムスとカント―(湯川秀樹編『平和の思想』雄渾社、一九六八年一〇月)    (以上『平和の論理と戦争の論理』岩波書店、所収)
V 市民哲学の実践
 深まる官僚制支配(『法学セミナー』増刊号、一九七九年三月)
 公務と私業(『毎日新聞』一九七八年一一月二日)
 情報公開法の運動を始めるに際して(『人権新聞』一九八〇年三月一八日)
 職業と人生(『経済セミナー』一九七八年八月号)
 八〇年代社会教育への期待(『月刊社会教育』一九七九年一二月号)
 子どもの英雄像・理想像の変化過程(岩波講座『現代教育学』第一五巻、岩波書店、一九六一年)
   (以上『人間の自己創造』日本評論社、所収
解説・・・佐高信

月報2 1998年6月
 「有語似無憂」の人/五木寛之
 久野さんのこと/羽仁進
 近くもあり、遠くもあり/中山千夏

◆19980724『久野収集V 哲学者として』(佐高信編)岩波書店
T 三〇年代の思想家たち
 1 狩野享吉
  「真理の迂回戦法」(初出『中央公論』一九四七年四月号)
 2 三木清
  足跡(初出『回想の三木清』三一書房、一九四八年一月)
  その生涯と遺産(初出『現代日本思想体系33 三木清』筑摩書房、一九六六年五月)
  三木哲学におけるレトリックの論理(初出『思想』一九六七年一〇月・一一月号)
 3 中井正一
  美と集団の論理(初出、中井正一『美と集団の論理』久野治編、中央公論社、一九六二年一二月、所収)
  中井正一と文化新聞『土曜日』(初出『復刻版 土曜日』三一書房、一九七四年七月、所収)
 4 林達夫
  無神論としての唯物論(初出『林達夫著作集3 無神論としての唯物論』平凡社、一九七一年九月、所収)
 5 羽仁五郎
  抵抗の哲学(羽仁五郎『クロォチェ』河出書房、一九五三年所収。後に羽仁五郎『抵抗の哲学―クロォチェ』現代評論社、一九七二年六月に再録)
  屈せざる希望(初出、羽仁五郎『自由としての人間』大和出版、一九七〇年一二月、所収)
 6 北一輝
  超国家主義の一原型(初出『近代日本思想史講座4 知識人の生成と役割』筑摩書房、一九五九年九月)
  革命の実践家(初出、朝日ジャーナル編集部編『日本の思想家』3、朝日新聞社、一九六三年一〇月)
  その現在とのかかわり合い(初出『アサヒグラフ』一九七二年四月二八日)
  (以上『三〇年代の思想家たち』岩波書店、一九七五年より収載)
U 歴史的理性批判(『歴史的理性批判序説』岩波書店、一九七七年、所収)
 一 前史をめぐって
 二 ギリシャ的理性批判
 三 古典的理性の近代化
 四 カソリック、プロテスタント、合理論、経験論の相互関係から、啓蒙的理性の特色まで
 五 自由主義的理性の運命
 六 市場支配的理性の諸側面
 七 ミメシス原理の復讐
 おわりに
 解説・・・佐高信

 月報3 1998年7月
  久野さんの流儀/高畠通敏
  大いなる暗闇の牛としてのクノシュー先生/岸本重陳
  彼女とカツカレーと、そして/落合恵子

◆19980825『久野治集W 対話者として』(佐高信編)岩波書店
対話者 高見順  組織と人間
対話者 吉本隆明 戦争・思想・抵抗―『近代の超克』をめぐって
対話者 日高六郎 われわれは何をなしうるか
対話者 加藤周一 五・一九と八・一五
対話者 武谷三男 物理学の哲学的意味をめぐって
対話者 湯川秀樹 平和と科学者の責任
対話者 桑原武夫 新しい思想史への構想
対話者 荒 正人 「戦後」をつくった本
対話者 鶴見俊輔 戦後の再出発
対話者 松下圭一 政党政治と直接民主主義
対話者 五木寛之 現代的感覚と知性のゆくえ
対話者 廣松 渉 昭和思想史への視角 三木清と戸坂潤
対話者 松本清張 北一輝の思想
対話者 竹内 好 日中国交回復のための原点
対話者 星野芳郎 現代―その混迷の底からの視点 科学・技術論が負う課題とは
対話者 安岡章太郎 アメリカ・故郷・日本人 体験的コミュニケーションのすすめ
対話者 高畠通敏 民衆大国は可能か
対話者 色川大吉 天皇制と日本人 その心情と論理
対話者 金 達寿 相互理解のための提案
対話者 佐橋 滋 現代官僚改造論
対話者 中村真一郎 創造的ということ 二位の論理
対話者 中山千夏 「反右傾化」の天気図は曇りときどき曇り
対話者 大岡昇平 問い直される人権復権 多様化時代の生きがいは
対話者 小田 実 ベルリン・東京・一九八七
対話者 浅田 彰 ナショナリズム・天皇制・リクルート
対話者 筑紫哲也 「いがみの権太」への提言
解説 佐高信

月報4 1998年8月
 <書かれていないページ>について/日高六郎
 久野さんからの恩義/色川大吉
 市民運動のデモ行進/小田実

◆19980925『久野収集X 時流に抗して』(佐高信編)岩波書店
市民として哲学者として…(聞き手)高畠通敏
 1 旧制五高の青春
 2 滝川事件(1)学問の自由のための闘いだった
 3 滝川事件(2)日本近代の歪みも直さず超克などできない
 4 『世界文化』参加のころ
 5 服役後、昭和高商へ
 6 『土曜日』のこと
 7 拡大する戦局
 8 敗戦・再出発(1)激しい戦争熱のあとに疲労感
 9 敗戦・再出発(2)平和問題談話会の構想
 10 平和問題談話会
 11 平和運動へ(1)インテリ・学生が闘争をリード
 12 平和運動へ(2)市民ネットワークが芽生えた
 13 六〇年安保
 14 "チョウチン型社会"の衝撃
 15 『思想の科学』事件
 16 ベ平連運動(1)光った国境を越えた国際主義
 17 ベ平連運動(2)ぼくにとってデモは実に楽しかった
 18 新しい生き方を求めて
  (『久野収 市民として哲学者として』毎日新聞社、一九九五年)
対談 ベ平連とは、脱走兵援助活動とは何だったのか…久野収・小田実
  (関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵のいた時代』一九九八年五月、思想の科学社、所収)
一つの回想 岩波茂雄と岩波書店
 漱石からの出発
 狩野亨吉博士をめぐって
 戦時下の編集室
 津田博士の受難
 懐かしい周囲の学者たち
 死中に活を求めて
  (『図書』岩波書店、一九九三年七月号―九四年一月号)
解説 佐高信

月報5 1998年9月
 スタートは姉の先生/土井たか子
 市民的自由と道徳的義務/鎌田慧
 言わなきゃならないときもある/小沢遼子


久野収について論じたもの

◆村上義雄 20020919 『人間 久野収 市民哲学者、きたるべき時代への「遺言」』平凡社
 まえがき
第一章 青年・久野収、女子学生たちと過ごす戦下の日々
 戦中の一教師として
 「滝川事件」と学生・久野収
 週間新聞「土曜日」の自由精神
 思想弾圧の時代に抗して
 「久野もまた逮捕、拘禁、拷問の体験者である。その記憶は生涯、消えることがなかったに違いない。教え子たちに自重を促し、ときに叱責してまで沈黙を守るよう求めたのも、『そうだったのか』と教え子たち自身が気がついたように、自己と同様の体験を絶対にさせまいとする親心だったのである。」(p30)

 戦時下の教え子たちによる回想
 *『青春の記録』―大阪女子経済専門学校の卒業生が、久野の喜寿を祝った1989年に編んだ記念文集。

 戦後、中井正一・羽仁五郎・清水幾太郎らとの日々
「久野は、『六〇年安保闘争』のカリスマ的指導者、清水幾太郎とも肝胆相照らす仲であった。しかし、清水はその後、裏切り者と批判を浴びながら『天皇制護持、安保容認』派に転じる。私は清水について久野に関係を聞き損なっている。しかし、どうやら教え子たちには、何度か本音をもらしていたようだ。藤沢が久野の真意を推測する。
 『仲のいいお友だちだった。最後のほうは分からない。清水さんが先祖帰りみたいにどんどん変わられた。天皇の存在を認めはじめたころから、彼を知識人として尊敬していながら怒っていらした。兄貴分みたいな存在だったから悪くは言いたくなかったんだろう。しかし、思想的には自分と随分違ってしまったと思ってらした。久野先生は、やさしいから、清水先生を傷つけたくないと、かばってらしたのだと思う』
 婦人も打ち明ける。
 『誰かが清水先生にはもうついて行かれなくなったと言ったら、誰もついて行けとは言うとらんと、叱っていましたね』」(pp.42-43)

 明かされた結婚秘話
第二章 告白―「ぼくも"遅れてきた青年"やった」
 激動の世紀の子
 反ファシズムの闘い
 敗戦の迎え方―文集『青春の記録』にみる
 新婚時代、そして行動の原点となった「危機一髪」
 膨大な論稿を生んだ「石神井の家」時代
 野球好き、映画好き
 夫婦との長く親身で幸運なおつき合い
第三章 キーワード、それはもちろん「市民」
 一九八〇年「反徴兵・反安保・韓国民衆に連帯する六・一五集会」
 「これを久野さんだったらどう考えるだろう」
 "俗流"と"細部"の意味
「何が言いたいかというと、『俗流哲学者・久野収』が最も大事にしていた言葉および生き方、それはまさに、ソクラテスが好んで相手に選んだごく普通の『市民』がもつ言葉および生き方そのものなのであった、と確認しておきたかったのである。それが、久野さんの言う"俗流"の意味ではなかったのか。しばしばそう思い知らされた。」(pp.82-83)

 「平和を求める市民」
 印象深い語録の数々
 一九七八年「戦後の話を聞く会」から
 沖縄問題から世界へ
 「元号」について
 忘れられない思想家たちの名前
 新しい世紀への伝言
第四章 語り部の「遺言」を聴く対話
 1 なぜ「パリ」にこだわるか
  初めての海外、半年のパリ滞在
  『日本遠近』再録
  広場とヴァリエテ
  パッサージュとカフェ
  戦後の日本社会と若者論
 2 いま、ジャーナリズムが危ない
  企業となったジャーナリズム
  新聞記者について考える
  報道・マスコミのモラルとは
  新聞の文章について
  良い聞き手、良い書き手
 3 雑誌記者になっていたかも
  雑誌文化との縁
  ジャーナリズムへの注文
 4 「敗戦国・日本」は変化を開始できたのか
  マッカーサーの統治とは何だったのか
  上からの民衆主義と天皇制
  日本の民主主義の行方
第五章 著作への誘い
 『思想のドラマトゥルギー』
 『人間の自己創造』
 『思想の折り返し点で』
第六章 別れ
 一九九九年二月九日
 いまこそ「市民」の意味を問いたい
 あとがきにかえて
*佐高信の追悼文(1999年2月10日付朝日新聞)
「先生は代表的論文の一つである『市民主義の成立』で、市民を『"職業"を通じて生活をたてている"人間"』と定義する。そして、職業と生活は分離していることが必要であり、どこからどこまでが自分の生活かがはっきりしているのが市民的人間だ、と説く。多くの日本人は家や会社、さらには国家にからめとられ、自閉症ならぬ『家閉症』や『社閉症』、そして『国閉症』を患っている。そうした傾向から自由な人間が市民なのだが、閉じた状況をどう開くか、それが先生にとっての生涯の課題だった。」(pp.201-202)


◆佐高信 20030520『面々授受 市民 久野収の生き方』岩波書店
はじめに
第1回 敵にこそ学べ
*『さらばおまかせ民主主義』(岩波ブックレット)
竹内好の「市民」への違和感(「『安保』一年私の決算書―不服従運動の遺産化のために」『婦人公論』1961年6月号)
「久野は、埴谷雄高を含めて、竹内好、花田清輝の、ほぼ同年の四人の共通する性格を『ならず者』と表現している。」(p.7)
第2回 俗にこだわる
第3回 「精神なき専門人」批判
第4回 師弟の関わり
第5回 江藤淳との対決
第6回 人間に光あれ
第7回 思想の根おろし
第8回 腹が立ってボケられん
「久野が松田道雄や小田実とともに桑原武夫と会った日は、桑原の文化勲章受章が決定した日だった。しかし、その価値を認めない久野と松田は、三時間ほど話していても、一言もそれに触れない。」(p.101)
「自ら語っているように、思想的にはサルトルに共感していたとしても、行動的にはラッセルと共通するものがあった。」(p.108)

第9回 アタンション、アタンション
第10回 顕教と密教
第11回 親子は一世、夫婦は二世
第12回 等身大の目線
「久野はそこで、岩堀の他に『暮しの手帖』を創刊した花森安治を優れたジャーナリストとして挙げ・・・」(p.158)

第13回 独占批判の論理学 「羽仁五郎は名著『ミケランヂェロ』(岩波新書)に、しばしば、屈せざる希望(スペランチニ)といコトバを登場させている。久野の言うように、羽仁こそが、まさに"屈せざる希望"そのものだった。」(p.178)

第14回 無学歴派と「心」グループ
第15回 魅力あるカミナリ
*1977年5月号『展望』―竹内好への弔辞 「久野と竹内は官を排し民を重んずる点で共通していた。」(p.205)

 おわりに
 付録「現代社会と倫理」


作成:山本崇記(立命館大学先端総合学術研究科)
UP:20051121 REV:20051130,1129,1124 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/knosm.htm

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