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在日朝鮮人

[全般]
◇朴在一 19570605 『在日朝鮮人に関する総合調査研究』 新紀元社
序文
「而して日本の社会には在日朝鮮人に対する伝来の偏見と誤解があり、朝鮮人自身に於ても自己が置かれている客観的諸条件に対しての認識が充分であるとは言えない。それ故に本書によって在日朝鮮人の諸実態が聊かでも解明せられ、今日に於て焦眉の急務とされている、在日朝鮮人生活諸問題の解決に寄与するところ多からんことを、本書を出版するに際しこい願う次第である。本研究所がその創立に際しての準備作業の一つとして在日朝鮮人問題を先ず取り上げた理由も茲にあるのである。」
1957年5月15日 朝鮮文化研究所


「それ故に本篇により聊かでも在日朝鮮人の実態が解明され、日本政府と社会の与論に於てまた朝鮮人自身に於て『在日朝鮮人問題』に対する開眼と、そこからする適切な対策が促進されるならば、筆者の甚だ望外とするところである。」

第一章 在日朝鮮人の歴史
「それ故に今日の『在日朝鮮人問題』なるものは、戦前の『朝鮮人問題』とは全然違った多くのものを内包している。/併しそれにも拘らず、『在日朝鮮人問題』の本質は戦前も今日も変らない。」(p.1)

 一 渡来の背景
「従ってこの階層は前掲した収支表が物語るように営農の面に於ても生活面に於ても既に破綻を来たし、やって行けなくてなった所謂『草根木皮ヲ食スル』階層である。この種の階層に属する農家数は1924年に於ても約50万戸である。斯かる農家の集積とその一方的な増加が日本の植民地政策が朝鮮人に齎らした最大の産物であったと言っても過言ではない。」(p.8)
「而して斯かる浮遊化した朝鮮農民の海外流出に於て満州、西伯利亜への流出と日本へのそれは性質は異にするものである。この相異は一つが無人の曠野への農業移民であり一つが工業国への労力流出であるという点にあるのではなく、前者への流出は朝鮮農村の人口排出に直接起因しているが後者のそれは人口排出が直ちにそれへの流入に連なっていないという点にある。即ち『水の低きに流れる』が如く、農村社会から浮遊化した朝鮮農民が自然に日本へ流入したのでは断じてない。それは恰も一つのコップで溢れた酒が自然に他のコップの中に盛られる筈がないのと同じく、自然的に朝鮮農村の排出人口が『在日朝鮮人』を生成したのではない。日本内農村の潜在失業者のプールから労働力が都市産業へ流入するのとは全く違ったサーベルの音のする見えざる力に依って、浮遊化された朝鮮農民は『在日朝鮮人』となり得たのである。其処に満州、西比利亜への流出には全然見られない、特殊な作用と論理が存在したのである。」(p.11)

 二 朝鮮米と朝鮮労務者
「従って更に言葉を換えて言うならば次の如くである。即ち米騒動が日本内の労働大衆による賃金の修正運動であるならば、朝鮮に於ける産米増殖計画は日本の産業資本家による米価の抑制を通じた賃金の抑圧運動であると。それ故に朝鮮に於ける産米増殖計画を日本本土内での米殻需給関係との関連に於てのみ見るのは皮相である。問題は絶対量の不足ではない。安い米を朝鮮農民に増殖さす事に依って日本での米価の高騰を押さえその事によって賃金水準を抑制する事にあったのである。これが産米増殖計画の真意義であり、日本経済に於て『移入朝鮮米』が持つところの論理であったのである。」(p.13)

 三 渡来の実態
  1 渡来人口の推計
  2 渡来状況
   A 1910年以前に於ける渡来
・表14表 賃金比較表(1923年大阪)(p.25)

   B 1910〜25年間に於ける渡来(誘致期)
   C 1926〜38年間に於ける渡来(抑制期)
   D 1939〜45年8月間に於ける渡来(強制徴用期)
     E 渡来総括
 四 戦後の引揚
第二章 在日朝鮮人の生活
 一 人口数と地域分布
  1 戦後の人口数
  2 地域別分布
「斯かる内部浸透傾向又は分散傾向は特に戦後になって著しくなったのであるが、これは何を意味するか。この事は何よりも日本に居る朝鮮人の職業及生活のあり方から起因しているものであると思われる。即ち在日朝鮮人が日雇、バタ屋等の細民的存在又は飲食店、遊技店等性質の小企業者的存在として、一定地域に於ける一定量の日本人人口数に対して一定量の朝鮮人の存在又は生業が可能な為に、斯かる衝動によって朝鮮人の居住せざる地区へと移動するが為である。今日に於て日本全国の何処の町へ行っても朝鮮人の居住していない処はないと言ってもよい位に在日朝鮮人が分散しているのは、斯かる流民的存在のあり方から来ているのである。而してこの内部浸透の傾向は同時に在日朝鮮人の同化傾向の必然性を物語るものである。」(p.43)

 二 職業
  1 朝鮮人職業の基本条件
「渡来朝鮮人の立場は、日本の労働者とは比較にならない程に総ての生活手段から断絶されたプロレタリアートとしてのそれであり、自己の労働力を売るより外は生活できない絶対絶命の境地に置かれている者である。渡来朝鮮人の流民的諸条件は労力の売り手としての彼等をこの様な自己の労働力を売るよりしか如何なる延命方法も残されてない立場に追い込む。」(p.46)
「自己の労働力を売る以外に聊の生活手段も持たない朝鮮人労働者の方が斯かる低賃金の競争に於て日本人労働者より強い立場にあった事は首肯し得るが、これは労働力需給の総量に於て朝鮮人労働力の補充が必要とせられる前提の下にである。」(p.49)

  2 戦前の職業
「即ち1920年は朝鮮農村に於ける人口排出と日本内での朝鮮人労働力誘致の動きが絡み合っての渡来が1917年頃より始原的に起こった直後の時期に於けるものであるし、1930年は産米増殖計画の進展により決定的に破産没落せしめられた朝鮮農民が不況下の日本に殺到しその儘に失業浮浪人として堆積され、日本内で所謂『朝鮮人』的な流民生活が広汎に展開された時期に於けるものであり、1940年は戦争とそれに依る生産拡張の為に朝鮮人労働力が労務動員の方法で日本内に狩り出され始めた時期に於けるものである。」(pp.54-55)
「従って戦時中に朝鮮人労働力が日本人労働者と代替しその不足を補ったのは最下層労働又は単なる筋肉労働の未熟練労働部門に於てのみであり其処に集中されたものであると言っても過言ではない。」(p.58)
「1923年の関東大震災に於ける朝鮮人の虐殺を契機とし又その後の不況期の失業問題と併行して所謂『朝鮮人問題』が論議せられるようになり、各大都市では日本人失業知識労働者の救済策も兼ねた居住朝鮮人に関する実態調査が大体1936年頃迄に何回か行われた。」(p.59)
・在日朝鮮人の職業状況の本質
「日本への渡来朝鮮人が植民地異民族の流民であり、その労働力が前時代的農民労働の未熟練労働であるが為に、日本の産業労働への参加は最下層の未熟練筋肉労働を主とする部面に限られたものとなり、且つ之も臨時補充的な形態でしか雇用されなかった。(然るが故に之に参加した朝鮮人の職業も専門化し得ず更にその労働も熟練化し得ない事となった。)」(p.62)
⇔京都西陣

  3 戦後の職業
「日雇労務者は実数35,588人で有業者総数の18.4%をなす。戦前の如何なる時期よりも多く不況の真最中の1930年と比べてもその実数は約二倍になっている。」(p.69)

 三 生活
  1 賃金
「工業各種産業の総平均に於て労働者一日当り賃金は日本人労働者2円05銭 に対して朝鮮人労働者は1円22銭であり、朝鮮人労働者の賃金は日本人労働者の59%にしか過ぎない。斯かる賃金の差は言う迄もなく戦前に於ける一般的現象である。それではこの差は何処から来るものであろうか。それは全的に民族差別から来るものであろうか。否労働力が商品として売買される場合に於て民族性も労働力が持つ属性の一つであるに過ぎない筈である。従ってこの賃金の差は先ず第一に労働力の使用価値の差から来るもの、即ちこの場合は同一産業部門内での熟練労働と未熟練労働が各々受取る賃金額の相違から来るものであると見るべきである。」(pp.75-76)
「従って第39表に見られるが如き日朝労働者の賃金の甚だしい差は何よりも朝鮮人労働者が産業の未熟練労働面に集中していた事に起因するその事からくる直接的反映である。併し乍ら賃金差の理由は勿論これだけではない。更には朝鮮人労働者が相対的により窮迫せる売手として労働市場に登場したが為でもある。併し今一つ基本的要因は労働力の担手が朝鮮人である事にある。」(p.76)

  2 生計
   A 戦前の生計
   B 戦後の生計
「在日朝鮮人のごく一部の数的には取るに足らない人達の浮草的栄華物語や、また多くてもせいぜいその1,2割を占めるに過ぎない自主的営業者や企業主達の生活向上と安定(然もそれはただ戦前と比べて見ての)に眩惑されて、在日朝鮮人の大半すなわちその6,7割を占めている人達の生活に於て低収入と低生活の条件が戦前よりも更に激化され、その結果としてこれらの人達の生活がもはや立ち行かない迄に窮迫してしまった現実を断じて軽視すべきではない、と。」(p.94)

  3 住居
・在日朝鮮人の密集住居
「前者は新たなる不良住宅地区の形成であり、後者は不良住宅地区の拡大不良性の進化を意味」(市内在住朝鮮出身者に関する調査・京都市)する。
・分散住居の困難、借家難、渡来人の堆積作用

  4 世帯
  5 教育
「註5 日本の公立学校に於ても一部では民族教育が行われている。即ち@放課後に民族学級を持つ生徒数4,500人A朝鮮人だけの分立分校生徒3,200人B朝鮮人だけの公立学校950人の生徒は民族教育を受けている。」(p.115)

  6 犯罪
「而してこの両者は戦後に於ける在日朝鮮人の就業及びその生活と密接不可分の関係にある。戦後になって総ての職場から閉め出された朝鮮人は何等かの生業を自分自ら作り出さなければならない立場に立たされた。資本もなく経験もなく信用もなければ店舗もないこれらの人達が、闇を生業とせざるを得なかった事は理の当然である。闇もできないか所得がないかの者は貧困罪を犯すことにもなる。」(p.124)

第三章 在日朝鮮人の将来
 一 将来の人口数
 二 同化傾向
「貧窮化と同化傾向この二つが在日朝鮮人の今日持っている諸条件からして割り出される将来の生活に於ける二大方向である。同時にそれは在日朝鮮人の将来が最下層の一種の賤民労働者としての立場に於て日本人に編入されてしまう危険性を多分に持っていることを意味する。」(p.131)
「従って在日朝鮮人の韓国への引揚は望みが薄い。と言って日本内での差別政策と失業状態は改善さるべき望みもない。それ故に少なくとも近い将来に於て在日朝鮮人は現在の受難条件をその儘にひき続き甘受しなければならない関係にある。そこからして必然的に同化傾向は促進され、その極としては最下層貧困者階層としての日本人への自然的編入が残されているのみである。これが在日朝鮮人が日本におかれている惨酷な現実の論理である。好むと好まざるに拘らず。」(p.136)

 三 生活の窮乏化
「従って日本人の日雇労働者が大量にアブレて居る現状と将来に於て朝鮮人失業者は日雇労働への就労も仲々困難であることになる。このような事情は失業対策労働の登録を朝鮮人労働者には容易にさせてくれないことにも反映している。それ故に朝鮮人失業者には日本人の日雇労働者の生活さえも望めない」(p.145)
「併し朝鮮人日雇労働者の場合は職安登録労働者でもその世帯収入は以上の日本人労働者のようには行かない。先ず第一に上記した収入表で2割以上を閉めている世帯員の収入がないか又は極めて少ない。次に勤労以外の収入も朝鮮人労働者の場合は少ない。朝鮮人登録労働者の収入は日本人登録労働者のそれの6,7割程度にしかならない。」(p.146)

 四 引揚の見通し
「1)在日朝鮮人は家郷が農村であり又世帯主の8,9割までが農民出身である。従って引揚げての生業は農業であるが、八・一五後に更に悪化した零細営農状態に於て土地を手に入れる見込みはない。更に営農資金も持ち合わせていないし、南朝鮮農村の現状では農業労働者として生計できる見込は絶無である。」(p.153)
「2)工業及その他の産業への就労も『200万人以上の失業者が居る』と表現されるような現状では不可能である。」(p.153)
「3)在日朝鮮人の世帯主は日本に渡来して既に何十年になり、多くの場合に故郷はただ墳墓の地であるに過ぎない。」(p.154)
「4)従って南朝鮮に引揚げて行ったとしても就労と生活が保証される見込は殆どない。」(p.154)
「5)在日朝鮮人の世帯は日本人妻を持つ者も多いし二世の青少年を持つ。この人達には朝鮮は未知なものであるし言語風習を充分にか又は全然に知らない。」(p.154)
「近い将来に於て韓国の斯かる状態が改善される望みは少ないのであるから、従って在日朝鮮人の生活がどんなに苦しくなっても南朝鮮への引揚が大量に行われる見込は全然ないと言っても決して過言ではない。」(p.154)
「従って在日朝鮮人の北朝鮮への移民的引揚が一般的に行われる為には現実的な往来によってこの事が何回も確められた後でなければ実現され難い。その前に北朝鮮への引揚が、学生、独身成人と生活困窮者の一部に於て続けられるであろうがその総数は大したものにならない事が当然に予想される。」(p.155)
「註2判沢弘在日朝鮮人―李圭善の生活と思想(思想の科学1−5)によれば病身の夫とパチンコ屋に勤めている娘を持ち本人は190円の失対労働に出ている李圭善は『市の厚生課に医療保護を願い出たが調べにきた係官はカラツポのタンスを開け室内を見廻したのち"ミシンやラジオがあるじゃないか"と言い残して帰つたきりである』が、引揚問題について同筆者に次の如く答えている。『うんそら帰りたい気持は一杯でつせ、そやけど今南鮮に帰つたかて喰えんことは分つてまつしやろ。そやさかいこうしていますね』更に将来の希望については『そやなあーでけたらもとでこしらえて飲み屋やつて見度いと思いますねん』と答えている。同筆者が言う如く李圭善は在日朝鮮人の大半の"生活と思想"でもある。」(p.156)

第四章 結語
 一 日本政府の対朝鮮人政策
「元来朝鮮人は日本に於ける労働力の補充要員として賃金水準に対する重石作用の意味合で『移入』されたものである。今日産業労働予備軍の数は将来いかなる事態が起きようが日本内で労働力不足など夢想することも出来ない程に多い。従って日本の支配階級にとって在日朝鮮人は厄介な存在であるにしか過ぎない。」(p.157)

 二 日韓会談と韓国政府
 三 南日声明
「『日本に住む朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国の公民としての正当な権利をもっていることを認め、かれらが自分の祖国の自由と統一独立のために李承晩一味と外来侵略者に反対してたたかう自由を保障し、すでに強制収用した朝鮮人をただちに釈放し強制追放をやめて、日本における朝鮮人の居住と就業の自由、生命財産の安全および民主主義的な民族教育などいっさいの正当な権利を保障し、不法にとりあげたいっさいの財産をもとへもどすことを要求する』」(p.163)

 四 結び 若干の対策
「即ち故郷を流離した朝鮮農民が在日朝鮮人という存在になったのは日本の産業資本家の必要性によったものである。その意味では徴用によって渡来された者もそれ以前に自発的に渡来した者も、朝鮮人渡来に於ける労務者移入の本質には大した違いがないのである。それ故に在日朝鮮人という存在の生成は全的に日本政府が責任を負わなければならない。」(p.165)

付録 在日朝鮮人に関する文献目録
統計表目次
(1)朝鮮農民排出の要因
1 農家収支に関する調査
2 営農規模別農家数と農家収支
3 営農別農家戸数の変遷
4 間島地方移住者調査
5 朝鮮農民の転業調
6 朝鮮米生産増加趨勢
7 朝鮮米輸出移出高の変遷
8 産米増殖の計画と実績
9 朝鮮内食糧消費
10 日本内産業労働に於ける朝鮮人労働力の比重
(2)朝鮮人の渡来実態
11 国勢調査人口と戸口調査人口
12 1910年以前来住人口数
13 1913〜19年朝鮮人渡来表
14 賃金比較表
15 1920〜25年朝鮮人渡来表
16 朝鮮中米価格の変遷
17 農家収支表
18 1926〜38年朝鮮人渡来表
19 日本への朝鮮人労務動員数
20 1939〜45年8月朝鮮人渡来s表
21 朝鮮人渡来総括表
22 在日朝鮮人戦前人口の自然増加推計数
(3)戦後の人口
23 朝鮮人送還者累計
24 戦後朝鮮人の人口調査(国勢調査人口)
25 戦後朝鮮人の人口表(外国人登録人口)
26 朝鮮籍と韓国籍の変化
27 地域別人口分布の変遷
(4)職業
28 渡来朝鮮人の前職及知識調査
29 30人以上使用工場に於ける朝鮮人労働者の部門別分布
30 土木従業よりの転業調
31 在日朝鮮人職業別教育程度
32 戦前の在日朝鮮人職業表
33 朝鮮人労働者の就業職種
34 大都市居住朝鮮人の職業
35 大都市朝鮮人労働者の就業職種
36 戦後の在日朝鮮人職業
37 在日朝鮮人戦前と戦後の職業分布比較
38 東北地方小都市に於ける朝鮮人職業
(5)賃金
39 戦前に於ける在日朝鮮人の賃金
40 戦前の大都市に於ける朝鮮人労働者の賃金
(6)生計
41 在日朝鮮人職業別月収入
42 在日朝鮮人月収入別世帯主分布比率
43 在日朝鮮人項目別家計支出
44 在日朝鮮人月収入額別支出項目別金額
45 在日朝鮮人と日本人労働者の家計支出割合比較
46 戦後に於ける日本人朝鮮人月収入比較
47 東北地方小都市に於ける朝鮮人職業別生計程度
(7)住居
48 在日朝鮮人密集住居状態
49 在日朝鮮人戦前の住居状態
(8)男女別年齢別と世帯
50 在日朝鮮人年代別男女人口の構成
51 在日朝鮮人年代別男女有業率
52 在日朝鮮人年代別年齢別男女数
53 在日朝鮮人1930年、1950年度人口の年齢別構成(グラフ)
54 在日朝鮮人世帯員数別世帯割合
(9)教育
55 在日朝鮮人戦前の就学状況
56 在日朝鮮人戦後の就学状況
(10)犯罪
57 在日朝鮮人戦前の犯罪率
58 在日朝鮮人戦前の犯罪種目別表
59 在日朝鮮人戦後の犯罪率
60 在日朝鮮人戦後の犯罪種目別表
61 在日朝鮮人罪種別被検挙者数
62 密入国者数
(11)日本人との通婚
63 戦前戦後に於ける在日朝鮮人と日本人との結婚調
64 東北地方小都市朝鮮人世帯構成
(12)戦後の朝鮮人商工業と生活保護
65 在日朝鮮人産業別地位別人員表(1954年12月現在)
66 在日朝鮮人商工業者業種別表
67 在日朝鮮人商工業最多業種表
68 生活被保護朝鮮人数
69 在日朝鮮人世帯人員別被保護世帯数
(13)その他
70 在日朝鮮人出身地別人員


[占領関連]
◇『在日朝鮮人管理重要文書集』湖北社
 目次
 朝鮮、台湾、琉球の法的地位
1. Cairo Declaration Nov.27,1943/カイロ宣言 昭和18.11.27.
2. Postdam Declaration July 26,1945/ポツダム宣言(抄) 昭和20.7.26.
3. Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan(SCAPIN 677) Jan.29,1946/若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する総司令部覚書 昭和21.1.29
4. Definition of United, Neutral, Enemy, Special Status and Undetermined Status Nations(SCAPIN 1757)Aug.4,1947/連合国、中立国、敵国及び特殊地位国等の定義に関する総司令部覚書 昭和22.8.4.
5. Difinition of United, Neutral, Enemy, Special Status and Undetermined Status Nations(SCAPIN 1912) June 21,1948/連合国、中立国、敵国及び特殊地位国等の定義に関する総司令部覚書 昭和23.6.21.
6. Announcement of Establishment of the Korean Liaison Mission Jan.29,1949/駐日韓国連絡代表団の設置に関する総司令部渉外局発表 昭和24.1.29.
 朝鮮人、台湾人、琉球人の地位及び取扱に関する一般原則
7. Basic Initial Post-Surrender Directive to Supreme Commander for the Allied Powers for the Occupation and Control of Japan(abs.) Nov.1,1945/日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令(抄) 昭和20.11.1
8. Employment Policies(SCAPIN 360) Nov.28,1945/雇用政策に関する総司令部覚書 昭和20.11.28.
9. Aliens in Japan(FEC Policy Decision)(abs.) June 5,1946/在日非日本人の引揚等に関する極東委員会政策決定(抄)昭和21.6.5.
(35) 第90回帝国議会衆議院本会議における国内治安に関する内務大臣答弁 昭和21.7.24.
10. Registration of Chinese Nationals(SCAPIN 1543) Feb.25,1947/中国人の登録に関する総司令部覚書 昭和22.2.25.(参考)台湾人の中国国籍復帰法
11. Statement Issued by SCAP Officials concerning Repatriation of Koreans from Japan Nov.5,1946/朝鮮人の引揚に関する総司令部民間情報教育局発表 昭和21.11.5.
12. Statement Issued by SCAP Officials on Status and Treatment of Koreans in Japan Nov.12.1946/朝鮮人の地位及び取扱に関する総司令部渉外局発表 昭和21.11.12.
13. Statement Issued by a SCAP Official on Status and Treatment of Koreans in Japan Nov.12,1946/朝鮮人の地位及び取扱に関する総司令部民間情報教育局発表 昭和21.11.12.
14. Statement Issued by a Spokesman for SCAP concerning Status and Treatment of Koreans in Japan Nov.20,1946/朝鮮人の地位及び取扱に関する総司令部渉外局発表 昭和21.11.20.
15. 沖縄関係事務整理に伴う戸籍、恩給等の特別措置に関する政令(政令306) 昭和23.9.30.
 登録
16. Registration of Koreans, Chinese, Ryukyuans and Formosans(SCAPIN 746) Feb.17,1946/朝鮮人、中国人、琉球人及び台湾人の登録に関する総司令部覚書 昭和21.2.17.
17. Entry and Registration of Non-Japanese Nationals in Japan(SCAPIN 852)Apr.2,1946/日本における非日本人の入国及び登録に関する総司令部覚書 昭和21.4.2.
18. 外国人登録令(勅令207)及び同改正 昭和22.5.2.
19. 外国人登録令施行規則(内務省令28) 昭和22.5.2.
 身分関係
20. Entry into Japan of Korean and Other Foreign Nationals Related to Japanese Nationals in Unregistered Marriage(SCAPIN1822)Nov,19,1947/日本人と内縁関係にある朝鮮人及び他の外国人の日本入国に関する総司令部覚書 昭和22.11.19.
(15)沖縄関係事務整理に伴う戸籍、恩給等の特別措置に関する政令(政令306) 昭和23.9.30.
21. 朝鮮人又は台湾人の妻たる日本人女子の身分に関する法務庁民事局長回答 昭和23.10.11. (参考)参議院議員選挙法(抄)衆議院議員選挙法(抄)地方自治法(抄)
22. 朝鮮人の国籍に関する法務庁民事局長回答 昭和24.1.26.
23. 在日朝鮮人の請願権及び国籍に関する最高裁判所事務総長の参議院法制局長あて回答 昭和24.4.28. (附)参議院法制局長照会
 刑事裁判権
24. Exercise of Criminal Jurisdiction(SCAPIN756) Feb.19,1946/刑事裁判管轄に関する総司令部覚書 昭和21.2.19.
25. Review of Sentences Imposed Upon Koreans and Certain Other Nationals(SCAPIN757) Feb.19,1946/朝鮮人及び他の特定国人に対する判決の審査に関する総司令部覚書 昭和21.2.19.
(36)Statement Issued by SCAP Spoksman on Criminal Jurisdiction over Koreans in Japan Mar. 26,1946/朝鮮人に対する刑事裁判管轄権及び朝鮮人の引揚に関する総司令部民間情報教育局発表 昭和21.3.26.
(11)Statement Issued by SCAP Officials concerning Repatriation of Koreans from Japan Nov.5,1946/朝鮮人の引揚に関する総司令部民間情報教育局発表 昭和21.11.5.
26.


[階級運動関連]
◇岩村登志夫 19720701 『在日朝鮮人と日本労働者階級』
目次
序文
「日本帝国主義の歴史を研究するにあたって、在日朝鮮人問題を不当に軽視する態度がとられてきたのには、在日朝鮮人を日本帝国主義の構造的関連のなかでとらえる観点が樹立されていないことにおそらく原因があったといえよう。」(p.1)
「日本労働市場の根深い重層的構造は、国内的には沖縄県民や未解放部落にたいする差別に支えられ、国際的には朝鮮人労働者の導入によって補強された。この労働市場の重層的構造こそが、日本労働戦線の統一を妨げた物質的基礎であったが、朝鮮人移民労働者の導入は、日本労働戦線に、『口先での社会主義、実際の排外主義』、いわゆる社会排外主義による分裂をもたらした。日本人民のあいだに巣喰う朝鮮人蔑視と反共主義とは、日本労働市場の重層的構造に規定され、日本労働戦線の統一を妨げる役割を演じた。」(p.2)
「在日朝鮮人解放闘争が日本労働組合全国協議会(全協)と深くかかわっていたことから、全協にかんする本格的研究である渡辺徹『日本労働組合運動史』(1954年)は同時にまた、世界大恐慌期から準戦時経済体制期にかけての在日朝鮮人解放運動の詳細な研究でもあった。/しかし、この労作は、在日朝鮮人解放闘争の多くの貴重な事実を解明したにもかかわらず、残念ながら、そこでは、それらは全協の闘争一般の中に解消され、朝鮮民族解放闘争としての側面はほとんど注意を払われなかったといわざるをえない。」(p.3)

「すなわち、日朝両国人民の連帯の歴史を解明する仕事は、それを阻害した諸条件の解明とあわせて、著者にとっては重要な課題であった。この点では、松尾尊~『大正デモクラシーの研究』(1966年)、同「吉野作作造と朝鮮」(『人民学報』第25号、1968年)、同「民本主義と帝国主義」(江口圭一ほか『大正デモクラシー』1969年)、飛鳥井雅道「民本主義と社会主義(同上書)は重要な問題提起をするものであった。しかし、これらの労作は、1920年代前半の時期に対象が限定されたばかりか、野沢豊「中国革命・ロシア革命への思想的対応」(『近代日本社会思想史』第2巻、1971年)に露呈したように、日本人民の国際的連帯、朝鮮民族、とりわけ在日朝鮮人との連帯について、日本人民の大衆闘争と切りはなしてこれを論ずるという傾向がなかったとはいえない。/換言すれば、日本帝国主義者の排外主義的デマゴギーや、日本人民の国際主義的連帯についていえば、それらが在日朝鮮人の存在を媒介として、それぞれがどのような社会的基盤のうえになりたつことができたのかということが問われなければなるまい。」(p.4)

第一章 三・一運動と在日朝鮮人
 第一節 在日朝鮮人労働者階級の形成
 第二節 三・一運動と日本人民
「吉岡吉典「植民地朝鮮における1918年―米騒動と朝鮮」(『歴史評論』1968年8月号)で強調されているように、兵庫県の尼崎市、小田村、福岡県の炭鉱などでは在留朝鮮人の米騒動参加が確認されるし、山口県の宇部炭鉱では朝鮮人が軍隊によって狙いうちされ一人が殺された。京都大学教授戸田海市は米騒動直後に在留朝鮮人対策の緊急性を強調したという。」(pp.21-22)
「新人会は、このようにして、日本人学生とならんで朝鮮人学生を含み、朝鮮独立に公然と賛成した(R・H・ミッチェル『在日朝鮮人少数民族』バークレイ=ロサンゼルス、1967年)」(p.25)

第二章 在日朝鮮人解放闘争の胎動
 第一節 在日朝鮮人の産業予備軍化
「奄美諸島・沖縄諸島はともに薩摩藩の支配下に砂糖栽培などを強制され、明治維新以後も本土砂糖資本などのはげしい収奪にされされ、その住民は、日本の支配階級から『異民族であるかのようにあつかわれ、『忠君愛国の志乏しきこと』をことごとにあげつらわれ、一種の劣等感すら抱かされていた』(新里恵二・喜久理峰夫・石山明「現代沖縄の歴史」『歴史評論』1957年1月号)のであるが、彼らは阪神工業地帯の低賃金不熟練労働者の供給源として、朝鮮人移民とならんで高い比率を占めた。資本は、こうして朝鮮人移民労働者にたいする民族差別を通じて、奄美諸島・沖縄列島出身日本人労働者にたいする差別を、擬似的民族差別として定着させるという方法をとった。」(p.35)

 第二節 コミンテルン第二回大会と朝鮮民族解放闘争
 第三節 大阪朝鮮労働者同盟会の成立
「このような朝鮮人労働者の組織化がなお微々たるものにすぎなかったとしても、これらの例にみられるように、日本労働者階級の先進的なたたかいが、朝鮮人労働者のそれと堅く結びつきはじめていたことは、注意される。」(p.57)
「そのかぎりでは、宮本又久「帝国主義としての民本主義―吉野作造の対中国政策」(『日本史研究』1967年5月号)が、吉野作造「朝鮮問題に関し当局に望む」(『中央公論』1921年2月号、吉野、前掲書、所収)などを論拠に、『吉野は、朝鮮人に対して、日本の民本主義者に対する信頼感を抱かせることによって、彼らの独立運動が自治擁護権運動程度に穏和化されることを期待していたと考えてよい』と主張するのも、酷評ではない。」(p.58)
「もっとも北浦(千太郎)の供述によれば、『いかなる気か吉原はその両名の悪口をいい残してまもなくチタを退去しました』という。高瀬清がそのころ日本からチタに到着し、7月の日本共産党結成が北浦らに知らされたというから、吉原のチタ退去は、共産党結成にからむものであったかもしれない。しかし、いずれにしても、ソヴェトp領極東での日朝両国人民の連帯行動が前述の佐藤三千男、長山直厚らの協力もえて活発に展開されていたことは、たしかである。」(p.65)
「この年(1922年)の7月に創立されたばかりの日本共産党の事実上の機関誌であった『前衛』1922年9月号は、『日鮮労働者の団結』と題する論説をかかげ、『「地獄谷」に於ける鮮人工夫の虐殺は、たんに監獄部屋制度の一例として見れば必ずしも珍しいことではない。けれども、これを鮮人労働者虐待の一例として見る時に、別に重大な意義がある』と説きおこし、『日本の労働運動が、鮮人労働者と固く手を握って、搾取者に対する共同の戦線を確立せぬかぎりは、日本の資本家は鮮人労働者を利用して、労働運動の戦線を攪乱しようとするに相違ない。日本の組合運動は鮮人の先覚者と提携して、鮮人労働者を組合に組織することに努力すると同時に、現に行われている鮮人労働者に対するいっさいの特殊待遇の撤廃を要求し、同一の労働に同一の報酬の実現を以って、組合運動の一指標としなければならぬ。』と強調して、日朝労働者の連帯を確立することがいかに日本労働者階級じしんの解放にとって緊急の課題であるかを力説した。」(pp.68-69)
「片山潜「在日朝鮮人労働者」(『赤色労働組合インタショナル』1924年6月号、片山潜『著作集』第3巻、1960年」)は、『朝鮮人の指導者と日本の労働運動、共産主義運動との結合はこのときからはじまったものである』と、この抗議闘争を位置づけた。日本共産党が1923年春に確定した党綱領は、朝鮮、中国からの日本軍の完全撤退を当面の要求として掲げたが、在日朝鮮人との共闘の経験と切りはなしては考えられない。」(p.69)
「大阪朝鮮労働者同盟会の影響はまだまだかぎられたものであった。しかし、半面、それが『在阪鮮人諸団体と全然関係なく大体に於て日本労働総同盟と共同戦線に立つこととなった』ことは、在日朝鮮人解放運動にとっても、日本労働運動にとっても、まさに画期的なできごとであったといえよう。」(p.71)
「東京では、芝公園の会場入口の警官隊が朝鮮人係、主義者係に分れて待機し、約1万人の労働者が結集するなかで、『一人の朝鮮人が演題に上るとたちまち下に控えていた警官が引きずりおろそうとしたので、「朝鮮人がなにが悪い」と5,6人が縁談にこれをかばううち、警官が突撃的に労働者に突っかかり、殴りあいが始まり一時混乱の極に陥った』(『大阪朝日新聞』1923年5月2日付)が、植民地解放が決議された。大阪のメーデーも『日朝労働者団結せよ』のスローガンをかかげ、日本労働総同盟を主体とする22団体4000人の参加者のうち『朝鮮人労働者600名の1団はことに異彩を放った』(同)という。」(pp.76-77)
「吉岡吉典「日朝中三国人民連帯の伝統」(『アジア・アフリカ講座』第3巻、1965年)が、この時期の日朝両国人民連帯運動の弱点を指摘して、つぎのようにのべているが、このような側面は見過せないものがあった。」(p.77)
→「鮮人」という呼称に関して

 第四節 大震災下の朝鮮人虐殺
「1923年(大正12)6月、日本共産党員が官憲によっていっせいに検挙されたが、在日朝鮮人解放運動に強い思想的影響力をもっていた北星会幹部、金若水、金鐘範、孫永植、裴徳秀、宗奉ウ、鄭雲海、金章鉉らは、同年7月、帰国して朝鮮植民地における解放闘争の組織化に着手するにいたった。その直後の1923年9月1日の関東大震災を機に、大規模な在日朝鮮人虐殺が行われた。この事件については、松尾尊~「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件」(『思想』1963年9月号、1964年2月号)、姜徳相「関東大震災に於ける朝鮮人虐殺の実態」(『歴史学研究』1963年7月号)、今井清一「社会主義弾圧のノロシ、関東大震災」(『近代日本史の争点』下巻、1968年)などの研究があり、また姜徳相・琴秉洞編『関東大震災と朝鮮人』や、李珍珪編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』などの資料集が刊行された。」(pp.80-81)
・自警団と方面委員制度(内務大臣水野錬太郎「自警団と市民の自治的訓練」『自警』1923年11月号)
「東京府南葛飾郡亀戸町とその周辺で起きた集団虐殺事件は、このような推測をなりたたせるものである。朝鮮人暴動の流言は、一日夜には亀戸町など江東地区に発生し、横浜で発生したそれとならんで大きい影響を及ぼした。朝鮮人にたいする蛮行がはじまるや、南葛労働会は、流言の虚偽をみぬき、蛮行を阻止しようとした。『南葛労働会として誇るべきことは、朝鮮人、日本人と人種的な観念は全くなくて、同じ労働者として万国の労働者団結せよという考え方が非常に強く、だれいうとなくそれを助けることに決めてしまって、みんながそれぞれ阻止すべく行った』という(川崎甚一氏談、『労働運動史研究』1963年5月号)。南葛労働会の全虎巖が虐殺を免れたのも、その日本人組合員の庇護によるものであった(全虎巖氏談)。」(p.91)
「このように日朝両国労働者の連帯があらためて強調されるにいたったとき、日本労働者階級が在日朝鮮人問題をみずからのたたかいと結びつけて理解することもまた可能となった。さきにふれたように1923年4月のロシア共産党第12回大会における荒畑寒村の挨拶は、低賃金をはねかえす日本労働者のたたかいのみちとして『人種差別を認めない最低賃金制を獲得する運動』を明示しながらも、現実にはまだそのようなたたかいは組織されていなかった。関東大震災下の大虐殺いごはじめて、日本労働者階級はこれを真にみずからの問題として把握するにいたった。」(p.101)
「まさに、1924年7月のコミンテルン第5回大会で、片山潜が力説したように、『日本にいる朝鮮人と日本人労働者とは、搾取者にたいする闘争のための強力な統一戦線をつくった(片山潜『著作集』第3巻)といえよう。吉野作造の人道主義的立場からする朝鮮人留学生との友好の段階は終わりをつげ、先進的労働者階級のマルクス・レーニン主義的立場からする朝鮮人労働者との連帯の新たな段階が到来した。』」(p.103)

第三章 金融恐慌期の在日朝鮮人解放闘争
 第一節 金融恐慌期の在日朝鮮人の状態
「呉林俊『朝鮮人としての日本人』(1971年)は、帝国鉄道協会員の朝鮮旅行記『視鮮漫録』(1927年)をひいて、『相当すなおに日本人の朝鮮、朝鮮人観を知るうえにも一つの貴重な示唆をあたえてくれるもの』であると紹介しているが、注意をひくのは、在日朝鮮人の生活実態にかんする見聞が、日本人の民族的偏見の素地を形成している点である。」(p.110)
「泉北郡八坂町、信太村では朝鮮人がこのころから未解放部落に定住、雑居しはじめ、人造真珠製造の問屋制家内手工業に、低廉な工賃と仲買人からの前借金とによってしばりつけられた(朝鮮問題研究所生活実態調査班「大阪府泉北郡長戦時に集団居住地域の生活実態」『朝鮮問題研究』1959年2月号)。」(p.112)

 第二節 在日本朝鮮労働総同盟の発展
「植民地従属国と資本主義諸国労働者との連帯は1927年の太平洋労働組合会議書記局、29年のラテン・アメリカ労働組合連盟の創設にまで導かれ、在日朝鮮人もまた民族的階級的自覚を急速に高めた。1924年の東京、大阪のメーデーに大阪朝鮮労働者同盟会などがはじめて公式に参加し、同年以降、朝鮮人解放運動は在日朝鮮人諸団体によって大衆的に推進されはじめた。」(p.113)
・1925年2月 在日本朝鮮労働総同盟(労総)創立
・治安維持法案反対闘争
「協調会大阪支所の報告書は、『注目に値すべきは労働、朝鮮、農民および水平の四団体において共同動作をみたことは、将来の社会運動上一新傾向を加えたものというべし』と特記した。」(p.120)
・小樽軍教抗議闘争の勃発
「小樽高商の学生がこのような策謀に断乎反対して決起し、日朝両国労働者の堅い連帯をいっそう強める方向で、これにたちむかったことの意義は絶大なものであった。それはなによりも小樽在留朝鮮人3000人と日本人労働者との連帯に新たな段階を画した。」(p.126)
・失業反対闘争
1925年11月 失業統計調査の実施→失業防止委員会の組織、失業救済事業の開始
「7月12日、評議会が大阪の天王寺公会堂で失業問題演説会を開催するや、豪雨のなかを1500人の聴衆が参加したのを皮切りに、20日には、中之島公会堂で大阪失業対策協議会を発足させ、これには評議会その他の各労働組合とならんで日本農民組合、水平社青年同盟、大阪朝鮮労働組合が参加した。」(p.130)
「高田鉱造の回想(『大阪地方労働運動史研究』1961年5月号、所収)にも、『紡織のばあいは、沖縄県人の労働者がいて沖縄県人をごっそり評議会にいれてくれた』とあるが、これは1926年4月の大阪府水平社第5回大会の失業対策委員会設置決定とあわせて、不熟練労働者の中で沖縄県出身者や未解放部落が積極的に闘争に立ちあがったこおとを示すものである。」(p.136)

 第三節 金融恐慌期の朝鮮人労働者のたたかい
・困難な共闘
「このさい、とくに注目されるのは、先進的な朝鮮人労働者の闘争が日本人労働者の共同闘争に発展することがきわめて困難であるというう事情とあわせて(下層労働市場の競合―引用者)、他方で、自覚のおくれた朝鮮人労働者がストライキ破りの要員として資本家によって使われていることが多いという事情が、並存していることであった。/日本の支配層は、金融恐慌下の中小企業における不熟練労働者のたち上りに対して、日朝両国労働者のあいだの排外主義的反感を極力利用したが、同時に、彼らは、在日朝鮮人全体の民族的、階級的自覚の発展を阻み、朝鮮人のあいだの先進的な分子の孤立化をはかった。」(p.156)
「さきの鈴木義貞の談話によれば、在京朝鮮人の動向にふれて『きたるべき御大典にはなにかやりはしないかという一種の妙な気分に、われわれは打たれている』状態であっただけに、城東協和会などの朝鮮人集団居住地における警察機構と方面委員組織とを一体化した朝鮮人『皇民』化方策は、きわめて注目されるものであった。」(p.161)

第四章 世界大恐慌期の在日朝鮮人解放闘争
 第一節 大恐慌期の在日朝鮮人の状態
 第二節 プロフィンテルン第四回大会と在日朝鮮人解放闘争
 第三節 在日本朝鮮労働総同盟解消の提案
「日本共産党や全協が、それじたいの日本労働者階級にたいする大衆的影響力のたちおくれを克服することなく、在日朝鮮人の革命的力量を吸収することによって、みずからの再建と大衆化をはかろうとしたとき、それは日朝両国労働者の国際的連帯のみちをきりひらくのではなく、民族的ニヒリズムによって国際的連帯を空洞化することになった。三・一五弾圧以後の在日朝鮮人解放闘争の突出はこれによってさらに激甚なものとなった。」(pp.186-187)

 第四節 在日本朝鮮労働総同盟解消の過程
・全協朝鮮人委員会
「三重県でも、国鉄名松線敷設工事に従事する朝鮮人労働者4,5百人が、1929年末に、未解放部落によって組織された南勢一般労働組合や全農三重県連の支援のもとに、朝鮮人土建労働組合を結成した。」(p.193)
「なるほど未解放部落と在日朝鮮人との戦闘的連帯は築かれたものの、それはひとにぎりの人びとのあいだのものでしかなった。日本人労働者農民が三重県の戦闘的労働組合、農民組合は未解放部落のための組織と誤認し、偏見をもっていたのにたいして、これをあらためて、これらの組織を広範のものにするみちがとられず、その代わりに在留朝鮮人労働者をくみいれるみちが選ばれたのである。」(p.193)

 第五節 大恐慌期前半の在日朝鮮人のたたかい
「しかし、全協は労総の合流にともない、その極左冒険主義的な闘争方針の実行にあたって、しばしば全協の朝鮮人活動分子をそのような行動にかりたてた。1930年4月の東京市電ストライキでは、ダラ幹暗殺、車庫焼打ち、電源破壊の任務をもった行動隊が組織され、5月の川崎市のメーデーには全協の隊列はピストル、日本刀、竹槍などで武装したが、これらの行動には朝鮮人労働者がめだった役割を果たした。」(p.197)
「このようなはげしい行動は、8月25日の大阪府中河内郡における額田警察分署襲撃にも現われた。これは日本理器争議に関連して、同日午前一時ごろ、朝鮮人と未解放部落日本人の約60人の一団が組合幹部を先頭に棍棒をもって額田分署を襲い、被検束者を奪還したものであった。/しかし、日本人労働者との共闘は確立されたわけではなく、1930年2月には、兵庫県の綿業組合加盟10工場で、朝鮮人労働者は賃金10%引下げに反対してストライキに突入したが、日本人労働者との乱闘が起きた。」(p.201)
「このために岸紡争議終結と同時に『岸和田紡績ストライキの関係者が大部分朝鮮人であっため、それを口実として泉州地方における鮮人労働者の解雇問題を生じ』相愛会がその対策にのりだす余地を与えた(『日本労働年鑑』1931年版)。あるいは、恐慌下に農繁期に大阪市内から北河内郡に大量に流出してくる朝鮮人対策として、1930年6月には北河内郡鮮人新和労働会が設立された。日本人の在留朝鮮人にたいする偏見はいっそう深められ、いわゆる融和政策がこれに呼応して大阪府下では都市地域ばかりでなく農村地域にまでも拡大されるようになった。こうして、大阪地方では、朝鮮人先鋭分子のたたかいは広範な日朝両国労働者農民の闘争へ拡大されることができなかった。」(p.205)

 第六節 プロフィンテルン第五回大会と在日朝鮮人解放闘争
「あ。すなわち、プロフィンテルン第5回大会は、全協の極左的偏向を批判しつつも、その批判の鉾先を極左的偏向の組織的根底にまですすめようとはせず、むしろ、極左的偏向の組織的根底を温存し拡充するような方針を決定したのっであった。全協の極左的偏向にたいする批判はきわめて不十分なものにとどまり、どのために1930年なかば以後も先進的な日朝両国労働者のあいだに正しい連帯関係を樹立することはできなかった。すでにみたように、在阪朝鮮人労働者を中心とする東亜通航組合の創立などの創意的活動や、全国各地における労総の事実上の存続の意義は、日本内外の共産主義運動の指導者によって正当に評価されることがなかった。状況を具体的に把握し、それに照応して対応策をとるということがなく、ただ抽象的な理論から出発するという誤った公式主義がみられたといえよう。」(p.208)

 第七節 大恐慌期後半の在日朝鮮人のたたかい
・自由労働者の闘い
→全協失業者同盟
「しかしながら、官憲のきびしい弾圧と指導方針の誤りは闘いの輪の拡大を妨げた。在日朝鮮人の革命的力量は、客観的条件からますます増大しつつあったにもかかわらず、主体的には、全協の非合法活動のなかにきわめてかぎられた部分だけが組織されたにとどまった。在日朝鮮人の力量は、全協の周辺に放置されたままであり、その上、全協じたいも、かぎられた朝鮮人の組織化にあたって民族解放の願望を正しく反映しえなかった。それどころか、それは極左冒険主義の原動力とさえなったのである。」(p.222)

第五章 準戦時経済体制期の在日朝鮮人解放闘争
 第一節 準戦時体制と在日朝鮮人の激増
・未解放部落への流入
「阪神重化学工業地帯の中心となりつつあった尼崎市や大庄村には、こうして在留朝鮮人の激増がみられたが、さらに尼崎市、大庄村に隣接する武庫村では、1935年末、村民5816人のうち、朝鮮人が2057人にも及び、彼らは、同村の未解放部落に沖縄県出身者350人、未解放部落民850人の日本人とともに集団居住した(兵庫県学務部社会課『兵庫県協和関係一般状況(協和事業資料第一号)』1936年)。/小野寺逸也「1940年前後における在日朝鮮人問題の一斑」(『朝鮮研究』1967年2・3月合併号)によれば、武庫村在留朝鮮人は、同村の未解放部落の1924年の909人から1935年の2649人への人口増1740人の大半を占めるものであった。こうして『同部落、独占段階において、日本資本主義の帝国主義的発展の結果としての被差別民族朝鮮人を受け入れ、さらには沖縄県人を受け入れることによって拡大再生産され、質的に新しい未解放部落となったのである。この変化は、1920年代の初めに始まり、1930年代の初めにおいて決定的となった』(小野寺逸也、前掲論文)。」(p.226)

 第二節 反ファシズム闘争と在日朝鮮人の役割
「興味あることに、この(全協第1回―引用者)中央委員会で天皇制の廃止などのスローガンに賛成したのは、全協土建・化学など朝鮮人組合員のきわめて多い組織の代表であったということである。これにたいして、日本交通労働総連盟(交総)、全労統一全国会議など合法左翼組合内部の革命的反対派を主力とする全協交通・金属の代表は、そのようなスローガンをかかげることは誤りであると主張した。」(p.239)

 第三節 「満州事変」勃発直後の在日朝鮮人のたたかい
「指導方針の立ちおくれにもかかわらず、在日朝鮮人労働者の階級的民族的自覚は急激に高まった。1931年(昭和6)」秋から同年末にかけて、東京府下の各職業紹介所で朝鮮人自由労働者が日本人労働者をまじえて自然発生的に組織を結成し、さらに深川、芝浦などの各地の朝鮮人集団居住地で、家賃の強制とりたてや立ちのきに反対する大衆闘争が展開された。そのさい、全協の影響力の比較的弱い志村、王子、西巣鴨、吾嬬、目黒などの紹介所に全員参加の組織が成立したのに反して、全協が強い影響力をもっていた東京市内の紹介所はかえってたたかいが立ちおくれるという状況がみられた。このような中で、深川職業紹介所では失業者同盟分会を向上会に改組して年末までに450人を擁した。」(p.243)
「もっとも兵庫県加古郡別府町の多木肥料製造所の争議にみられるように、朝鮮人従業員の闘争がついに日本人従業員のたたかいにまで発展した例もあった。『兵庫県労働運動史』によれば、ここでは、1931年3月、朝鮮人従業員45人の解雇が朝鮮人従業員の反対にあっていったんとりやめられたが、7月、朝鮮人数十人が解雇され、その他の従業員も賃金一割引下げを言い渡されるものが8月初旬に200人にのぼり、そのうち朝鮮人が50人を占めた。そして12月、350人の大量解雇計画が発表され、5年契約の朝鮮人従業員33人が解雇されたのをきっかけに、全従業員400人は全国労農大衆党、全労の支援のもとに、首切り反対、民族差別反対、五ヵ年契約制度、解雇退職手当制度などを要求してストに突入した。」(p.248)

 第四節 一九三二年の総選挙と朴春琴の当選
 第五節 反戦闘争の転換と在日朝鮮人解放闘争
 第六節 「内戦融和」政策の展開
「関西普通学堂は5人の委員によって経営されたが、その顔ぶれは、1936年には村長、区長、村議会議員の三人の日本人と、内鮮融和会長、村会議員の二人の朝鮮人からなり、その主要財源は兵庫県内鮮教会と武庫村の補助金に求められ、教員は日本人ばかりであった。このように、関西普通学堂は朝鮮人同化政策の一端として設立されたものであったが、寄生地主制が地主の小作人支配のテコとして最底辺層に未解放部落を設定し、さらにその下層に在日朝鮮人を配置するという、大衆支配における差別と分裂の重層的構造が、関西普通学堂の分離教育をなりたたせた社会的基盤といえよう。」(p.272)

第六章 日中戦争期の在日朝鮮人解放闘争
 第一節 強制連行の開始
「小野寺逸也、前掲論文のいう国家独占資本主義段階における未解放部落のこのような再編成は、全国各地で進行したにちがいない。未解放部落民と在日朝鮮人とがこれによってどのような関係に立ったかなど、解明を要する幾多の問題がそこにひそんでいる。小野寺論文のような刻明な研究調査がそれにはどうしても必要とされる。」(p.280)
「朴在一『在日朝鮮人に関する綜合的(ママ)研究』」は、正当にも、1940年には日本全国の土建労働者30万人の27%8万人余が朝鮮人で占められ、また鉱山の坑内夫14万人余の30%、4万人余が朝鮮人であったと計算して、『戦時中に朝鮮人労働者が日本労働者と代替しその不足を補ったのは最下層またはたんなる筋肉労働の未熟練労働部門に於てのみであり、そこに集中されたものである』と力説したが、日中戦争下に日本国内と植民地とを包含する大規模な国際労働市場が確立され、日本国内労働市場では、朝鮮人移民が日本の貧農や未解放部落と部分的に代替するような供給源にまでなたっといえよう。このような労働市場の再編成は、重工業の発展を基軸とする労働力需要の高まりから低賃金構造が打破されるという客観的条件の形成を妨げたばかりでなく、民族的差別賃金をテコとしてかえって低賃金構造を固定強化する客観的条件を新たにつくりだした。」(p.283)

 第二節 日中戦争期の在日朝鮮人解放闘争の展開
「みずからの限界からやむなっく後退したかつての在日朝鮮人留学生と吉野作造ら民本主義者との連帯は、この10年余の日朝両国人民の試行錯誤をへて、天皇制ファシズムの弾圧下に新たな形でよみがえろうとしていた。/たしかに真下らも1937年11月には検挙され、しかも、ついで検挙された和田の回想によれば、『留置場の中には、私と同様、文化運動をしたということで捕まっている日本人のインテリゲンチャもいた。その中の一人は明瞭に朝鮮人を軽蔑していた。『わしは朝鮮人はきらいじゃ』と彼は言い切った。そのことは私を悲しませ、がっかりさせ』という(和田洋一『朝鮮を見て考えたこと』)。」(p.287)

第七章 太平洋戦争期の在日朝鮮人解放闘争
 第一節 強制連行の拡大強化
 第二節 在日朝鮮人労働者の大量逃亡
「広範な日本人民のあいだに浸透しつつあった厭戦気分は、朝鮮人労働者のこのような大量逃亡と結びつく可能性があった。少なくとも、消極的な個人的・自然発生的抵抗が積極的な集団的・組織的抵抗に転じるとき、日本人民の抵抗と朝鮮人民の抵抗とは直接に結びつく可能性があった。連行朝鮮人の大量逃亡はその前提条件として無視しえないものであった。」(p.299)

あとがき
人名索引
事項索引



[住民運動関連]

◇吉岡増雄編著 1978**** 『在日朝鮮人と社会保障』 社会評論社
 第一章 基本的視角 吉岡増雄
 第二章 在日朝鮮人と国民健康保険制度 吉岡増雄
 第三章 在日朝鮮人と援護行政 川瀬俊治
 第四章 専修学校制度と在日朝鮮人への進路差別 吉岡増雄
 第五章 在日朝鮮人と教育保障
 第六章 在日朝鮮人の生活史をめぐって
 [座談会]在日朝鮮人の社会保障と国際人権規約 発題応答・芹田健太郎 司会・山本冬彦

◇吉岡増雄編著 1980**** 『在日朝鮮人の生活と人権』 社会評論社
 第一章 今日の問題 吉岡増雄
 第二章 在日外国人と年金制度 吉岡増雄
 第三章 「帰化日本国民」と福祉年金 吉岡増雄
 第四章 電電公社就職差別とその闘争 山本冬彦
 第五章 在日朝鮮人と生活保護 吉岡増雄
 第六章 座談会「在日」をどう生きるか 司会・朴泰雄

◇吉岡増雄編著 19811120 『在日朝鮮人と住民権運動―地域・民族・社会保障』
 まえがき
第一章 「不条理」とそれへの挑戦―「在日朝鮮人の主体性」についての一考察 吉岡増雄
はじめに
一 在日朝鮮人と日本人―不幸な関係
「しかし、日本における民族状況のなかでは、一般的な要素だけで、在日朝鮮人の民族を位置づけるのは、無理がともなう。それについては、各所でふれていくことになろう。/むしろ、民族要素の設定にあたって、言語・地域の同一性に、血(血縁)と歴史的同一性(連関性)・同一なものへの帰属意識を加え、むしろ後二者に重点をおき民族をとらえるのが妥当である思う。ともすれば、在日朝鮮人は、血(血縁)は朝鮮人的であり、歴史的同一性(連関性)については祖国の歴史との相関性が強い(これについては、前節一でふれた)。最後の帰属意思については、直接には当人の意思決定ないし『帰属集団』(帰属している在日朝鮮人集団)内の共通認識に深いかかわりをもっている。なお、当人の帰属意思については、一世と二世のあいだに、その傾向に、かなりの違いがある。」(pp.23-24)
「これらの人々の心の支柱になるものは、自らの血のルーツである朝鮮への魂の帰一による自己の確立ということになろう。それと関連して本名の使用、朝鮮語・朝鮮人の歴史等の学習が含まれる。」(pp.27-28)

二 「不条理」の内実とそれへの挑戦
三 「生活者集団」の運動―在日朝鮮人の権利闘争
「右の二世青年(J)の言葉は、在日朝鮮人の存在意義と『在日』のありようを、実にあざやかに提示している。在日朝鮮人一世が『自ら切り開いた』この土地、『我々の父母、祖父母たちの血のあがなわれたその土地である我々の在日に根をおろすのだ』とする。そのありようは、抑圧された『生活者』の『在日』の権利宣言であり、険しい『在日』に伴う『不条理』に対する、きびしい『挑戦』とでもいえよう。日本人のひとりである筆者は、この言葉のすさまじさに、ただ冷汗が流れるのをおぼえる。」(p.36)
「このような地域集団が、戦後、闘う集団として、いつごろからその萌芽がみられ、どのような形態で闘ってきたかについては、未だ総合的な研究がなされていない。筆者の印象としては、日本の二大集団である、今日の朝鮮総連とか民団等の傘下集団での生活保護闘争・国民健康保険『条例化闘争』・入管闘争が考えられるが、いずれも差別され抑圧された『生活者』の結束にもとづく闘いにはちがいないが、たてまえとしては、追いつめられた、『寄留者』のやむにやまれぬ挑戦として位置づけられる。」(p.38)
「このように『在日』を位置づけた場合、当然の帰結として、第一義の問題は祖国との関係ということになり、『在日』の生活上の問題は第二の問題になる。前者は重、後者は軽ということになりかねない。」(p.38)
「新しいタイプの運動は、第一義の問題を『在日』の生活上の問題とし祖国との関係を第二の問題として、そのあり方とは右と全くその重点のおき方を異にしている。」(pp.38-39)
「朴鐘碩(パクチョンソク)―『囲む会』の民族差別に対する闘いは、ついに勝利した(日立就職差別裁判)。しかしこの時点において、なおも、数多くの朝鮮人差別は厳然として存在し、在日朝鮮人の生活をおびやかしている。『囲む会』は勝利と同時に、これを解消して闘争を発展的継承するために『囲む会』のメンバーが中心になって、一九七五年(昭和50)、民族差別と闘う連絡協議会(略称、「民闘連」)の結成を提起し、それへの参画を求めた。」(p.41)
→「生活者集団」としての「民闘連」

むすび

第二章 朝鮮人被爆者とその援護 植松直道
はじめに
一 日本人被爆者と朝鮮人被爆者
二 朝鮮人被爆者に対する責任問題―原爆国際裁判をめぐって
三 朝鮮人被爆者と政府の援護
四 「被爆者援護法」をめぐって
むすび

第三章 在日外国人と児童手当―「児童諸手当」もふくめて 吉岡増雄
 はじめに
一 創設とその経緯
二 (現行)児童手当制度とその支給要件―その基本的構造の考察
三 外国人適用への動き
「すでに述べたごとく、市町村の先行児童手当は、養育者が該当市町村の住民であれば、外国人も適用だされるという傾向がみられた(例外もあった)(既載、第二表)。/しかし、七一年(昭和46)五月に制定された『国の児童手当』は、外国人養育者がたとえすべての支給要件を充足していても、『手当』を支給しないとした。この措置の不当性とそれにからむ諸矛盾については、ここでは省く。七一年の『国の児童手当』制定以後、全国の市町村のうちいくつかは、在日外国人諸団体(主として、在日朝鮮人諸団体)からの要求・先行児童手当における外国人既得権尊重との関係で、独自の『外国人児童手当』を制定するものがあらわれてきた。」(pp.113-114) 四 「児童諸手当」と在日外国人
むすび
補遺 東京都児童育成手当について―外国人との関係をふくめて
追記 「改正法」の要旨―在日外国人との関係

第四章 在日外国人と国民年金―「改正前」と「改正後」のありよう 吉岡増雄
はじめに
一 現行の年金制度―その基本的構造の考察
二 在日外国人と「改正法」―「改正法」の批判的考察(試論)
「(b)「三五〜五九年」 これらの者が、『改正法施行日』に加入したとすれば、それが老齢年金にむすびつくためには、やはり、『六〇歳』までに、『保険料納付期間』は、『二五年以上』が要請される。/とすれば、これらの者は、あきらかに、『保険料納付期間』は、『二五年』の『必要期間』に達しない。/しかも、前述の『必要期間』の『短縮措置』は、やはり、生年月日の関係で適用されない。なお、将来、老齢(『七〇歳以上』)に達しても、やはり、老齢福祉年金の適用が受けられないことになっている。したがって、これらの者のうち加入中に、たまたま障害・母子状態・その他の『事故』に直面し、一定の『保険料納付』があれば、それに対応して年金の支給を受けるが、その他の大部分の者は、老後、無年金者のまま放置されることになる。まさに、『改正法』の『三五歳切り捨て』の被害者は、この年齢層の人々である。」(pp.174-175)

むすび
補遺 在日朝鮮人の年金訴訟と「改正法」―塩見訴訟・金鉉鈎・豊田訴訟

第五章 オモニの夜間中学―在日朝鮮人の母さん(オモニ)たちが学ぶ 岩井好子
はじめに
一 オモニの「いろは」
二 オモニと夜間中学生たち
「『兄ちゃんらイルボンサラム(日本人)が、なんで学校へ行かれへんかったん?』と尋ねますと、上中くんは被差別部落の厳しさをオモニたちに話します。」(p.211)
「オモニたちには、上中くんの言う被差別部落のことは、なかんか理解しにくいようです。夜間中学に学ぶ多くの友だちは、日本社会のなかでも『見えない存在』におかれてきた人たちであり、これら友だちのことなどの勉強はこれからなのです。」(p.212)

三 オモニの作文
「オモニたちは、夜間中学で学んだ日本の文字ですが、とぎれとぎれになっている意識をたぐり寄せながら、それを書くことによって自分の歴史を取りもどして、そして現在生きている意味を見い出したとも言えます。/いままで沈黙してきたオモニたちの第一声でもあり、自らの歴史の第一歩をしるしたのです。」(pp.218-219)

四 学ぶオモニ
むすび オモニの修学旅行
資料篇
T 参考文献
U 参考資料
『在日朝鮮人と社会保障』(既刊)・『在日朝鮮人の生活と人権』(既刊)目次
あとがき


[ウトロ関連]
◇朝日新聞社編 19920715 『イウサラム(隣人)―ウトロ聞き書き』 議会ジャーナル
序文
 ウトロを守る今日的意義―樋口謹一
ウトロへのメッセージ
 未来を誤らぬために―槌田劭
 「ウトロ」は世界に呼びかける―寿学章子
 イウサラムと共に生きること―徐勝
第一部 ウトロ聞き書き
 1 数えの十六歳で日本へ―金壬生さん
 2 戸開けて出ても安心―姜景南さん
 3 二間のバラックに12人―鄭貴連さん
 4 同胞は終戦まで1300人―鄭相ソクさん
「ウトロの住民を支援する日本人が現れたのは、水道問題がきっかけだった。86年6月から署名を集め、市に要望するなどの支援活動を始めた。『ウトロ地区に水道敷設を要望する市民の会』の呼びかけ人で、今の『地上げ反対!ウトロを守る会』の代表の一人である横川栄次さん(65)は『同じ宇治市で同じ宇治市民なのに、水道が引かれないのはおかしい。人権問題だと思った』と話している。(改行)87年2月、日産車体は水道の敷設に同意、88年に市水道部が管を埋めた。日産車体が土地を売る契約を結んだのは、水道敷設に同意した直後の87年3月だったことが、のちに明らかになる。」(p.35)[山崎靖]

 5 苦しさ励まし合って―金君子さん
 6 子育て必死に働いた―姜春子さん
 7 「日本に尽くし戦った」―朴南淑さん
 8 裁判案じつつ夫他界―黄順礼さん
 9 「私は朝鮮系日本人」―厳本明夫さん
「『仕事とかで、漢字で一字の本名を名乗ると相手が身構える。それまでと雰囲気が変わってしまう。それが何よりも嫌でした。そんな経験が続いて、あえて相手を緊張させる必要はないと思ったわけです。自分はあくまでも自分や、名前で自分が変わるわけではないですから』(改行)二年で退社、父の建設会社を手伝いながら、大阪工大土木学科の二部に二十歳で入学した。名前は『厳本』に変わった。それから17年、現在では『朝鮮系日本人』という言葉にアイデンティティーを見いだしている。『へりくつかも知れないけど、自分ではそう思ってますよ』。父の跡をつぎ建設会社の社長をする傍ら、ウトロ土地対策委員会の事務局長を務め、住民らのまとめ役の一人として力を尽くす。」(p.49)
[横山滋樹]

 10 長女の卒業証明は本名―洪貞子さん
「『ウトロを守る会』の人に本名を聞かれて、洪貞子(こう・さだこ)ですと答えると、いやあっちの発音で、と聞くからホン・ジョンジャですと言いました。妙なことを尋ねる日本人だなと思ったけど、ちょっとうれしかった。自分の存在を理解してくれている日本人がいることがうれしかったんです。もう一つの自分を引き出してくれたような気がしました」(p.52)
[山崎靖]

 11 「ここは命の土地や」―金玉子さん
 12 「夢中」で婦人会長二年―韓金鳳さん
 13 「助け合って生きてきた」―申花春さん
 14 ウトロの歴史残したい―清水在真さん
「けったいなところやなあと感じた。ほとんどがバラック建てで、終戦後がそのまま残ってるみたいでした。それまで東九条に住んでて、父親は建築の事業をしていました。うまいこといってたんですが、大きく広げすぎて資金繰りがつかんようになって、ウトロへ移り住みました」(pp.62-63)
[平岡和幸]

 15 土地思い、眠れぬ夜も―文東起さん
 16 戦争責任教えたドイツ―姜恵
 17 「国や言葉を忘れずに」―孫明姫さん
 18 二つの文化を持つ幸せ―木村千晶さん
 19 日産車体を交渉の場に―金忠坤さん
―差別を感じたことは。 「中学一年のとき、朝鮮人を差別するようなことを言うやつがいて、なぐりあいのけんかになりました。あとで謝りにきたんで仲良くなり、卒業後も付き合ってました。その子は中学のころから、時々自分で『おれは同和地区や』言うてた。卒業するまで同和の意味はわからんかった。二十歳のころ、映画見に行こ、いうて誘われて『差別反対』いう看板かかった、大阪の会館まで行った。同和地区に住む女の人が、結婚できなくなる筋書きや。結婚するんやったら縁切りや、いうて身内同士で葛藤する。まるで自分のことみたいに思えてね。映画見てて、差別するやつに腹が立つやら、悔しいやら。朝鮮人差別と部落差別は別々の問題やろうけど、人が人を差別するいう点では同じやね」(p.79)
[赤木基宏]

 20 「安住」それだけが願い―崔仲圭さん
 21 民族意識、終戦で気づく―金小道さん
 22 民族学級の開設に奔走―金知亨さん
「40年ほど前、小倉小学校にあった『民族学級』で約三年間、ウトロの子供たちに朝鮮語などを教えた。今は、宇治市木幡南山で、染色工房を営んでいる。『情に厚い人ばかりでした。しっかり土地に根をおろし生活していたという印象です。その人たちが立ち退きを求められるなんて・・・』(改行)1951年4月、22歳のとき、京都朝鮮人連盟西陣小学校から小倉小学校に赴任した。小倉小の職員室で机をひとつ割り当てられ、民族学級開設の準備に奔走、まもなく民族学級で授業が始まった。赴任当初『久世中学校講師』だった辞令は、『小倉小学校非常勤講師』にかわった。」(p.86)
[赤木基宏]

 23 「頑張って生きる力を」―松井敏子さん
 24 話集め本に―米沢久子さん
 25 写真記録も
 26 普通の市民として―田川明子さん
 27 「私たち日本人の責任」―斎藤正樹
 28 時代の証言者―太田孝さん
 29 「人間同士のつながり」―横川栄次さん
 30 寄せられた反響/小学校で切り抜き展示
 31 日本軍に田畑奪われ来日―文光子さん
―ウトロに住み続けたのはなぜですか。 「もちろん帰りたかった。でも、お金がありません。向こうにも生活できる家や土地はありませんでした。終戦後は仕事も食べ物もなく、ヨモギやイモのつるで飢えをしのぎました。ひもじい思いをしないで済むようになったのは、宇治市の失業対策事業で仕事ができ、子供が大きくなった、昭和30年代の終わりごろです。住民の半分は同じような事情で、ウトロに残った人とその子孫です」(pp.111-112)

第二部 住民の活動と支援の動き
 1 ウトロ集落の成立
 2 水道のない生活
 3 「守る会」結成
 4 日産へ抗議
 5 田川さん西独へ
 6 国会で初論議
「ウトロの問題は、同年(1990年)6月20日の衆議院法務委員会で取り上げられた。社会党の小沢克介委員(山口二区)がこうした視察の結果を踏まえて『朝鮮人たちを、終戦時もその後も何の手当てもせず放置してきたのが問題の発端だ』などと、日本の植民地支配と戦争責任の取り方を視野に含めて政府側の見解をただした。ウトロの問題が国会の場で本格的に論議されたのはこの時が初めてである。」(pp.136-137)

 7 国際平和フォーラムINウトロ
 8 ウトロ文庫オープン
 9 姜さんドイツへ
 10 中・高生、ウトロで合宿
 11 キム・ゲルマンさんがウトロを訪問
 12 徐勝さん、ウトロで住民と交流
 13 日産ディーゼル元社員がウトロ住民にカンパ
 14 ウトロの住民ら、再び日産本社前で抗議
 15 李由美さん米国へ
「平安女学院短大を卒業、大韓航空のスチュワーデス(ママ)として二年間、勤めたあと英国、韓国へ留学した。89年から約一年間、京都市教委が設けた『こども国際クラブ』モデル校の一つ、大藪小学校で講師として韓国の文化や言葉を教えた。その後、九条オモニハッキョ(母親学校)で一世に日本語を教えている。」(p.201)

 16 変わるウトロのオモニたち―田川明子
「『戦争への道を許さない女たちの集い連絡会』や『部落解放同盟京都府婦人部』、『日朝友好促進婦人会議』などが共催として強力にサポートしてくれて、シンポジウムは90年3月11日、京都市中京区丸太町七本松の同市社会教育総合センターで開かれた。テーマは『戦争責任・戦後補償を問う―なぜウトロが日本人の問題なの?』」(p.212)
「『朝鮮戦争の時、鉄くずを拾い、売っては生活していました。生きるためにやったこととはいえ、そのくず鉄が祖国を破壊する戦争で使われ、同胞の命を奪う弾丸になったのかもしれないと、後で知った時はやり切れなくてねー。自分をのろいましたよ』とつとつと語るオモニ。」(p.212)

第三部 裁判の経過
 1 はじめに
 2 主な主張
 3 土地売買の経過
 4 歴史的経過を陳述
 5 重要証人、出廷せず
 6 和解交渉
資料
 連載へ寄せられた手紙/関係年表
10
「小倉小学校の何十年史とかいう本の中に(宇治市の歴史資料館にあると思う)当時(三十年くらい前か)の児童の作文目録がのっており、児童名がアイウエオ順に並んでいる。その最後に二人だけ朝鮮人の名前が並べてあった。」(p.241)
大阪府下の男性(はがきの消印は11月16日)

注一覧
あとがき

筆者
赤木基宏・小林杉男・平岡和幸・山崎靖・横山滋樹・安村弘

◇地上げ反対!ウトロを守る会 19971120 『ウトロ―置き去りにされた街』 かもがわ出版
はじめに
第一章 アボジ・オモニの証言
 一 金壬生アボジ
 二 文光子オモニ
第二章 ウトロの歴史
 一 京都飛行場とウトロ飯場
 二 戦後の暮らしと朝鮮戦争
「60世帯中58世帯が失業!伊勢田飯場の女将、市役所押し掛ける」(見出し)(p.26)
「去る(1951年)5月29日午前、宇治市役所民生課へ市内伊勢田飯場(ウトロのこと)のおかみさん7、8人が幼い子どもをおぶって現れ、『私たちの夫は失業しており、生活できないので民生保護を与えてくるか職を探してくれ』と申し入れて来たが、同課長は『夫が病気でもないのだから、こちらも就職口を探すから、あなた方でも極力探してくれ』と要請し、帰りの電車賃を全員にポケットマネーから支給して同12時過ぎ帰宅させた。これは5月28日同飯場のA氏が喘息と急性気管支炎で病床にあり、全く収入の道がないのに、63歳のお爺さんと59歳のお婆さん等をはじめ妻と子供4人ら8人家族の生活ができぬというので民生保護と衣服保護を与える事を確約したので、私たちもと押し掛けたもので、同飯場は60世帯の内58世帯まで失業しており苦境のどん底にあり救援の手を待ちわびている」(「宇治新報」51年6月1日付)(p.26)
「ウトロ住民は連日のように役所などに押しかけて就職斡旋と生活保護、民族教育・文化の保障などを要求して闘いました。それは生きていくためのギリギリの闘いであり、全国的な在日朝鮮人運動の一環でもありました。各地の民族学校は朝鮮人社会の中心、運動の拠点でした。GHQと日本政府はこれを弾圧し、ウトロの民族学校も閉鎖されました。」(p.26)
「52年3月、ウトロは二回の強制捜査を受けました。一回目は早朝に警察部隊が、およそ350人が住むウトロ集落を包囲、急襲しました。住民は突然の手入れに抗議して各所で小競り合いとなり、暴力行為、公務執行妨害容疑で女性一人を含む9人が逮捕されました。『反米ビラ』やドブ酒が押収されました。二回目は実に1000人余の警察部隊がウトロを急襲しましたが住民は無抵抗でした。暴行容疑で7人が逮捕されました。当時、ウトロの家々はワラ、スギ、トタン葺きの粗末なもので、集落の入り口には『犬(ポリ公)無断立ち入り禁止』の看板があり、周囲の日本人の集落とは隔絶した土地でした。」(pp.26-28)
「52年4月28日、日本政府はサンフランシスコ講和条約の発効と同時に朝鮮半島・台湾出身者の日本国籍を剥奪しました。在日朝鮮人も外国人登録させられ、一人ひとりの指紋が取られて治安管理の対象とされました。」(p.28)
「朝鮮戦争が激しくなり京都飛行場跡にアメリカ・グラマン社の飛行機修理工場が計画されると、ウトロ住民は『一発の弾丸も祖国に送るな』と隣接するアメリカ軍基地への反対闘争を強めました。貧困と失業、そして食糧難の時代、ウトロ住民は食糧自給のために基地の周辺を耕しイモなどを植えていました。しかし、アメリカ軍は基地への侵入を阻止しようとすでに畑に耕されている土地を取り囲んで杭打ちをしてフェンスを張ったため、住民と衝突したのでした。ウトロ住民の闘争は、『在日の生活権と結合した祖国防衛闘争の最前線』と政治的に位置づけられ、各地から朝鮮人大衆がウトロに動員されました。」(p.28)
「住民らは朝鮮人家庭へ生活保護を適用するよう宇治市役所に連日の陳情を繰り返し、時には100名が座り込むこともありました。それは日本の再軍備に反対し、貧しい者の生活権を勝ち取るという全国的な闘争と連動したものでした。やがて朝鮮戦争が休戦し、在日朝鮮人運動も路線転換して『日本の内政には干渉しない』方向に進むとウトロ闘争も終息し、基地とウトロ地域との間には休戦ラインが引かれました。アメリカ軍基地は後に自衛隊に引き継がれ、現在の陸上自衛隊大久保駐屯地となりました。一方、住民の闘いで未接収のままとなったウトロの土地は旧会社の所有名義のまま、朝鮮人の居住地として今日まで残ることになったのです。」(p.28)

 三 日産車体株式会社とウトロ
第三章 ウトロを守る運動
 一 ウトロ裁判始まる
 二 ドイツの戦後補償に学ぶ
 三 日産車体関係者の証言
 四 アメリカでの闘い
 五 韓国の人びとの連帯
第四章 ウトロに住み続ける
 一 理不尽な裁判
 二 居住への闘い
 三 国際人権法では
 四 希望をもって
ウトロ関連年表
おわりに


[帰国運動関連]

◇民主主義科学者協会法律部会(在日朝鮮人帰国協定問題研究会)196712** 『在日朝鮮人の「帰国協定」打切りをめぐる法的問題の研究』
 目次
第一章 帰国協定の成立とその後の経過 第二章 国際法上の問題点
 一 帰国協定の法的性格と協定打切りの違法性
 二 日本政府の延長打切りの理由の不当性
第三章 憲法上の問題点
第四章 日本赤十字社法上の問題点
 資料
 あとがき
改訂増補版へのあとがき

◇高崎宗司・朴正鎮編著 20050510 『帰国運動とは何だったのか―封印された日朝関係史』 平凡社
 はじめに なぜ、いま帰国問題か―高崎宗司
「帰国問題には、帰国運動・帰国事業・帰還業務・北送などという呼び方もある。帰国運動には総連が担った運動という意味があり、帰国事業には北朝鮮の国家事業という意味がある。そして、帰還事務は北朝鮮を国と認めなかった日本政府・日赤の立場からの呼称であり、北送は韓国側から見た呼称である。しかし、帰国者の大半が植民地時代の朝鮮南部出身、あるいは日本生まれであったことを考えれば、彼らにとって北朝鮮へ行くことは、帰国というより移住に近いものであった。日本人妻とその子らにとっては完全な移住である。」(p.6)

T 帰国運動とは何か
 第1章 帰国問題の経過と背景―高崎宗司
はじめに
一 閣議了解まで
「一方、北朝鮮の南日外相は55年2月に対日国交正常化を呼び掛けた。北朝鮮は、日韓会談に対抗して日朝会談を開き、朝鮮植民地支配に対する賠償金を取り立て、日本の資本や技術を導入しようとしたのである。しかし、日本は韓国との関係を優先していたし、他の西側諸国も北朝鮮を認めていなかったので、それに応じなかった。北朝鮮にとって帰国問題は、以上のような日朝国交の樹立という目的を実現するパイプ作りとしての面が強かった。」(pp.19-20)
「55年5月に結成された総連は、二ヵ月後の7月には在日朝鮮人帰国希望者東京大会を開催したことに見られるように、当初から『祖国志向』が強かった。また、北朝鮮は、同年12月29日に南日外相が、在日朝鮮人が教育を受けるために帰国する問題、大村収容所の朝鮮人を釈放し北朝鮮に帰国させる問題などを話し合うために代表を日本に派遣したいと述べた。重点は後者「代表の日本派遣」にあった。しかし、日本政府はそれを拒否した。」(p.20)
「日赤は57年8月16日、在日朝鮮人帰還事業実施の方針を固め、日本政府に実施を求める書簡を送った。」(p.22)
「一方、朝赤は58年1月19日、韓国から密入国して大村収容所に入れられている朝鮮人を北朝鮮に帰国させる問題を話し合うために代表を日本に派遣したいと改めて要請した。それは2月1日にも繰り返された。これに呼応するように6月26日には、大村収容所に収容されていた韓国人密入国者など94名が、韓国への強制送還反対、北朝鮮への帰国を要求してハンストに入った。」(p.22)
「朝赤と北朝鮮政府はこの問題に積極的であったのは、日朝国交正常化交渉の端緒をつかみ、韓国人を北朝鮮へ帰国させることで、韓国に対する北朝鮮の優位を示すことができると考えたからである。」(p.22)
「58年8月11日、川崎市の中留耕地の総連分会が8・15記念集会の席で『生活の見通しも立たないので帰国するしかない』として、金日成首相に帰国したい旨の手紙を出すことになった。これが集団的な帰国運動の口火である。二日後の8月13日、総連主催の解放13周年記念中央大会が帰国を決議し、これまた金日成首相に要請の電報を送った。そして総連は早くも26日に帰国対策委員会を設置した。」(p.22)
「これに応じて、9月8日に金日成は『共和国政府は在日同胞が帰国して新しい生活ができるようにすべての条件を保障する』と演説した[在日本朝鮮人総連合会中央常任委員会宣伝部、59年12月、1頁]。そして、9月16日には南日外相が『共和国に帰国することを希望する朝鮮公民をわれわれに引き渡す適当な措置を即時講ずることを日本政府に要求』した[同上書、4頁]。また、10月16日には金一副首相が『共和国政府は彼らの帰国に必要な旅費を全面的に負担し〔中略〕汽船およびその他の手段を通じて輸送するあらゆる準備を整えています』と述べた[同上書、7頁]。『旅費』を負担し『汽船』を準備するという言明は、『帰還運動が急速に具体化』する契機となった[外務省アジア局北東アジア課「在日朝鮮人の北鮮帰還問題(小坂・ハーター会談用参考資料)60年8月22日」]。この言明は日本政府の積極的な姿勢を引き出すものであった。」(p.22-23)
「それより先の10月2日、日朝協会など、社会党・共産党系の諸団体によって構成されていた日韓問題対策連絡会は、在日朝鮮人帰国協力会(帰国協力会)を発足させることを決定した。『人道と人権とに基づき、在日朝鮮人の帰国に協力し、日・朝赤十字協定の完全な実施と業務の円滑化に協力する」ことを目的に、帰国協力会は11月17日に発足した。代表委員は自民党の衆議院議員岩本信行、元外相有田八郎、総評議長太田薫、日朝協会会長山本熊一、作家平林たい子の五人、顧問は鳩山一郎元首相、浅沼稲次郎社会党書記長、宮本顕治共産党書記長らであった。実際に活動の中心になったのは、代表委員の岩本と幹事長の社会党衆議院議員帆足計と事務局長の日朝協会常務理事印南広志(共産党系)の三人であった。帰国運動とそれを支援する運動は、このころから高揚した。』」(p.23)

二 それぞれの思惑
「日赤や日本政府が朝鮮人を『厄介』と思った原因は、次の三つのようである」(p.26)
 一 生活保護を受ける人が多かった
 二 生活難から犯罪者が多いと思われた
 三 共産主義者が多い

「ところで、総連新潟出張所の経理課長などを歴任して帰国者と話し込むことが多かった張明秀は、『生活苦から逃れるために帰国の道を選んだというよりは、日本の社会での民族差別と蔑視への激しい怒りと、躍動して発展していると宣伝された祖国・共和国の社会主義建設に参加することへの情熱を肌で感じることができた。そして帰国の直接の動機は何よりも子供たちの将来を考えて話す人が大部分であった』[張、89年、151〜152頁]と回想している。」(p.35)
「それらの理由とは別の理由で帰国した人もいた。『祖国が期待通りでなかったらすぐに日本に帰ってくるつもりでいた』人もいたのである。国交のない状態はすぐ解消され、『この先に、北朝鮮との往来が自由になるのだというようなことが言われていたから』である[韓光熙、45頁]」(p.35)

三 日朝赤十字交渉
「こうして、総連側は11月4日から帰国登録を開始した。12月5日には新潟に日赤帰国センターが開設された。各地では歓送集会が開かれている。」(p.39)

四 帰国船の出港
五 帰国者の減少
「在日朝鮮人史研究家の李瑜煥は、62年以降『北送業務』の『性格と目的〔の〕変容』があったとして、@建設資材および技能者搬入、Aスパイ活動に利用、B朝総連の指導と指令の場に利用、の三項目を挙げている[李、60〜61頁]。」(p.49)

六 帰国協定の打ち切り
「第一船が出てから25年後の84年までに、帰国船は187回にわたり新潟・清津間を往復し、9万3340人を帰国させた。そのうち日本人妻やその子供など、日本国籍を有するものは少なくとも6839人であった(最終船の乗客30人については国籍が不明である)[金・高柳、340頁]。そしてそのほかに多数の北朝鮮国籍を取得した日本系朝鮮人がいた。」(p.50)

 第2章 帰国運動の歴史的背景―戦後日朝関係の開始―朴正鎮
一 55年の南日声明
二 北朝鮮における「平和共存」
三 「主体」の浮上と日本
「つまり、当時北朝鮮の立場からすると、日本という国は、中ソからの経済援助の減少を補って、今後の発展戦略遂行に必要な現実的な規模の資本や技術を提供してくれる可能性がある唯一の国家であった。」(p.68)

四 朝鮮総連結成―その二元性
「在日朝鮮人問題に関しては、北朝鮮の南日外相が、54年8月30日に『日本に居住している朝鮮人民に対する日本政府の不当な迫害に反対・抗議する』という名の声明を発表したことがある[労働、8月31日]。この声明は北朝鮮の在日朝鮮人問題に対する最初の公式な抗議であった。南日は、同年10月15日にも、在日朝鮮人の合法的権利と自由保障を要求する日本政府に対する抗議声明を行った。北朝鮮は、54年のこれらの声明で、在日朝鮮人を『朝鮮民主主義人民共和国の公民』として規定し始めた。この規定は在日朝鮮人に対する日本共産党の指導を否定する意味を持っていた。」(p.70)
「総連の性格は結成当時、@暫定的在外公館、A統一戦線組織といった二元性を含んでいた。」(p.74)
「北朝鮮は総連結成を通じて、日朝関係の性格を『党対党(朝鮮労働党対日本共産党)の関係から『国家対国家』へ変貌させようとした。したがって総連の二つの発展可能性の中で、北朝鮮は前者の方を目指していた。これは金日成自ら明らかにしたことである。55年10月25日の『解放新聞』には『金日成元帥の在日朝鮮人に対する教示』という記事が載せられた。これは8・15解放記念日にあたって北朝鮮を訪問した林光Kが9月29日金日成との会見内容を韓徳銖宛に報告したものである。そこで金日成は、在日朝鮮人運動について、『米帝と李承晩に反対すべきであり、吉田および鳩山の打倒を主な目的としてはいけない』と語り、すべての問題を『政府間の平和共存に基づいた外交政策に立脚』することを要求していた。そして日本との交流において、『国家的プライドや将来の両国国交関係を冷静に考える』ことも注文していた[外務省アジア局「北鮮の対日動向について」、3〜4頁。公安調査庁、57年、96〜99頁」(pp.74-75)

五 古谷・金コミュニケと日朝協会
六 対日「人民外交」態勢へ
七 日朝、非対称交流の展開
「北朝鮮の対日人民外交はまず、この非対称性を乗り越えなければならなかった。北朝鮮にとって、日本への合法的訪問を実現させることが自体が重要な戦術的価値を持つようになったのもこのためである。その後展開される北朝鮮の帰国事業もその連続線上にあった。」(p.89)

 第3章 帰国者のその後―佐藤久
 第4章 帰国事業における「日本人妻」をめぐって―青木敦子
 第5章 国際関係から見た帰国事業―赤十字国際委員会の参加問題を中心に―朴正鎮
U 誰が帰国運動を推進したのか
 第6章 北朝鮮にとっての「帰国事業」とは何だったのか―朴正鎮
一 「運動」としての帰国問題
・53年8月 民戦第11回中央委員会「祖国復興事業」―使節団派遣
「まず、当時日朝の間には定期航路などがなかったのはもちろんのこと、旅券の発行さえ行われていなかった。したがって、使節団というのは民戦が外務省から合法性を得られる最小限の形式であった。一方、民戦を指導していた日本共産党(共産党)は在日朝鮮人の帰国に批判的な立場であった。共産党は民戦の帰国推進をブルジョア民族主義思想に基づいた意図とみなし、それを政治闘争と連携させる必要性を指摘した[坪井、358〜59頁]。これに対して、民戦は渡航の自由を獲得するための、一種の政治闘争として使節団の派遣を推進し、共産党からの批判を免れようとしていたのである。」(p.182)
二 国赤の関与と朝赤の対応
三 運動の支援から事業の推進へ
「58年夏から、帰国問題は新しい段階に入っていた。それまで、小規模でかつ個別的な形で提起されてきた在日朝鮮人の帰国希望の意思表示が、組織化された形態で全国的に現れたのである。いわゆる在日朝鮮人の『集団帰国決議』が、それである。これは8月11日、神奈川県川崎市中留で開かれた『祖国を知る集まり』で、この地域の朝鮮住民が行った集団帰国決議と、その決議を盛った金日成首相に宛てた手紙が契機となったというのが北朝鮮当局および総連の公式説明である[韓、189頁]」(pp.187-188)
四 北朝鮮の真意
「中ソ間の対立は、北朝鮮において安全保障と経済協力上の代案として潜在的に日本がもつ戦略的価値を増大させた。つまり、58年の時点で北朝鮮に必要になったのは、在日朝鮮人の労働力ではなく、日本との関係正常化だったと思われる。」(p.192)
五 朝鮮総連の連帯運動
六 日朝赤十字会談の交渉戦略
七 帰国事業の予期せぬ帰結 「一方、前述したように、帰国運動推進の過程で総連が力を入れたのは諸社会団体との連帯運動であった。北朝鮮は、総連を経由して直接・間接的に社会党および共産党、そして日朝協会等の革新勢力と密接な関係を維持し、帰国活動を進めた。もちろん、帰国協力会という超党的組織が帰国運動をともにしていたが、帰国が実現されてからはその活動が大きく後退した。その後、総連の運動は主に革新勢力との連帯の下で行われた。特に60年になると、日本国内は安保闘争の局面に入っていった。その間、総連の最も有力なパートナーであった日朝協会も革新系を中心に再編された。こうした流れは総連の結成当時の二元的性格、つまり@暫定的な海外公館、A統一戦線組織、のなかで、海外公館としての性格が次第に薄くなったことを示していた。帰国運動の性格も別の次元のものになりつつあった。結成当初の総連が主導した大衆運動は、日朝間の社会・経済・文化的交流を促進し、将来的には日朝両国間の国交正常化を目指す、という趣旨で行われたので、当面日本政府から合法性を認められる必要があった。その反面、帰国運動は次第に日本政府に対する圧力手段としての色彩が濃くなった。」(p.208)

 第7章 日本共産党および日本社会党の対応―鄭根珠
はじめに
一 共産党と帰国運動
「このように帰国問題に対する当時の認識は、大多数の日本人にとって厄介な存在とされていた在日朝鮮人を追い出す政策としての一面が強かったと言える。また、共産党は戦前からの在日朝鮮人と社会主義国との連帯意識が主に働いた。前述した共産党の岸内閣の対応への言及は、帰国問題の見解に対する本意は異なるものの、同問題に賛成している点で政府と同様の立場に置かれた共産党にとって、その相異を説明するため行われたのであろう。」(p.219)
「しかし、68年1月の青瓦台(韓国大統領官邸)襲撃事件を機に共産党の北朝鮮批判が始まることになる。また、中国共産党との関係に亀裂が生じる契機となった文化大革命を経て、70年代に入り、中国共産党と朝鮮労働党は関係が改善されるにつれて、朝鮮労働党と日本共産党の意見の対立が顕在化していった(高、150〜151頁)。70年3月には、よど号ハイジャック事件を起こした赤軍派の亡命受け入れについて、公然たる北朝鮮批判を行った。それでも71年5月12日の『赤旗』には帰国事業の再開のために取り組んだ『日朝両国人民の』『共同の努力』をたたえる記事が載せられた。しかし、ラングーン・テロ事件についての激しい糾弾と主体思想の批判を機に、北朝鮮との亀裂は決定的となった[和田、04年、123〜125頁]」(p.220)

二 日本社会党と帰国問題
おわりに
「共産党の場合、戦前から続いた共闘関係のゆえ、在日朝鮮人との連帯感と信頼感が存在していた。したがって帰国運動は、共産党にとって55年以降直接的な指導からは手を引いていたにせよ、『連帯の歴史』を持つ在日朝鮮人との共闘戦線の延長戦であったといえる。また、対共産圏外交を担いつつも、国内政治における影響力を失いつつあった党の現実としては、この国家的な大事業に主導的な役割を果たすことが必要であった。」(p.231)
「一方、社会党は、共産党に比べ社会主義諸国から相対的に軽視されていた事業があった[佐藤、6頁]。したがって、北朝鮮とのパイプを強化することによって、国内外における社会主義政党としての位相と存在感を高めようとする意図があったと思われる。ただ、共産党のように連帯感でつながったパイプがなかったので、55年の訪朝を皮切りに、少数の議員らの個々の活動によるパイプづくりが目立つようになる。その後、共産党と北朝鮮の関係悪化にともない、対北朝鮮外交と窓口の役割を担う野党は、共産党から社会党に代わっていくことになる。社会党にとって帰国運動は、党の対朝鮮半島における政策を確立し、北朝鮮との距離を縮める起爆剤となる事業となった。しかし、このような過程を経て今日に至るまで、北朝鮮に対して『すこぶる弁護者的』傾向をもつことが多かった社会党は、批判の的とされていくことになる[高崎、04年3月、123頁]」(p.231)

 第8章 日朝協会の性格と役割―李尚珍
はじめに
一 日朝協会の設立とその性格
「京都の場合には、『1954年の春だったか夏だったか、朝連〔民戦の誤りか〕の側から、日ソ親善協会(1949年)、日中友好協会(1950年)はすでに発足してはなばなしく活動しているのだから、日本との友好親善をめざす組織を京都に新しくつくってもらえないだろうか、という話が出た』[和田・林、38頁]。」(pp.237-238)
「京都の日朝協会の会長には、京都仏教徒会議常任理事で曼殊院門跡であった山口光円が就任した。」(p.238)
「しかし、日朝協会は創設当時から民戦を通じて、北朝鮮とのかかわりを持っていた。例えば、在日朝鮮人仏教徒連盟副委員長という肩書きで日朝協会の設立を主導した李英表は民戦の活動家でもあった[社会運動調査会、235頁]。また、日朝協会の機関紙『日本と朝鮮』の企画および配布にも民戦が積極的に加担していた。」(p.242)
「その民戦は日本共産党の指導を受けていた。また、日朝協会の再結成の再には明らかに北朝鮮の指導があった。そしてその架け橋となった人物が畑中政春であった。」(p.242)

二 日朝貿易と文化交流
三 帰国協力運動
「また、志賀正は『北朝鮮帰国事業は、表面的には日朝両国の赤十字社をとおし政府間で合意した事業だったが、当時、「帰国三団体」といわれた朝鮮総連、日朝協会、帰国協力会のうち、現実にはその多くを日本共産党員が動かしていた。在日朝鮮人帰国協力会は、中央組織は超党派だったが、実質的な事務局である帰国船を送り出す新潟県帰国協力会の職員はすべて日本共産党員だった。日朝協会も同じで、新潟県日朝協会の職員はすべて共産党員だった』[362〜363頁]と記している。」(pp.252-253)

四 日朝自由往来実現運動の展開
「しかしその交流は、日朝協会の運動スローガンの変遷に象徴されるように、北朝鮮と総連の運動のスローガンを鸚鵡返ししたものにすぎなかった。日本人の主体的な運動とは言いがたいものであったのである。」(pp.264-265)
おわりに

 第9章 寺尾五郎の朝鮮論―高崎宗司
はじめに
一 『アメリカ敗れたり?―軍事的に見た朝鮮戦争』
二 『38度線の北』
三 『朝鮮・その北と南』
四 『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』と『朝鮮問題入門』
「66年12月には、藤島宇内・畑田重夫編『現代朝鮮論』(勁草書房)に『朝鮮問題のとらえ方―日本人の立場から』を寄稿している。ここでは、『現在の朝鮮は、北半部で社会主義の建設が『千里馬』〔一日に千里を走る馬〕の勢いで進展していますが、南半分は依然としてアメリカ帝国主義の占領支配の下に、その植民地となっています』[6頁]という前提の下に、第一『日本にとって朝鮮問題は、かつての日本の侵略といまの再侵略の問題であり、日本自体の問題なのだという姿勢』、第二『朝鮮問題は、日本の国内問題の延長のような調子で扱ってはならない国際問題である』、第三『朝鮮問題は、日本人民の解放の問題と表裏一体であるという観点』[8〜10頁]が必要だと述べている。」(p.281)
おわりに
「寺尾は『朝鮮研究』66年4月号に『「日韓新関係」と日本軍国主義の復活』を書いて、共産党の幹部上田耕一郎を批判した。中国でプロレタリア文化大革命が始まると、寺尾はこれを支持した。そのため、67年1月5日の『赤旗』紙上で公然と批判された。『日本軍国主義の復活』は誤りだというのである。寺尾は日本朝鮮研究所を脱会することを余儀なくされた。以後、定職にはつかず『かすみを食べていた』[寺尾婦人の言葉。朝日、99年10月14日]」(pp.281-282)
「共産党は67年2月にも寺尾を批判した。宮元忠人は23日と24日の『赤旗』に『寺尾五郎氏の「民族関係」論がゆきついたところ』を寄稿し、寺尾が『日本人民の努力の不足がアジアの危機なのです』と講演したのは誤りだとしたのである。68年2月号の『前衛』では吉沢哲太郎が『米日反動の朝鮮侵略を免罪する寺尾「理論」』を書いて、『反党盲従分子』と批判した。」(p.282)
「その間、57年(ママ)5月20日には、反党活動を理由に共産党から除名された。寺尾はただちに日本共産党(左派)を結成した。」(p.282)

V 帰国運動はどう報じられたのか
 第10章 『朝日新聞』と『産経新聞』は帰国運動をどう報じたのか―高崎宗司
 第11章 帰国運動に関する『世界』と『中央公論』の論調―尾高朋子・高崎宗司
 第12章 『東亜日報』は帰国問題をどう論じたのか―李尚珍
終章 日韓国交正常化と日朝関係の非正常化―朴正鎮

「拉致」と「帰国」の間で―編著者あとがきに代えて―朴正鎮
索引を兼ねた帰国問題略年表―高崎宗司


差別論

作成:山本崇記(立命館大学先端総合学術研究科)
UP:20070219 Rev:20070220,0416,0423  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/korean.htm

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