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『女は自由である』

石垣 綾子 19550210 文藝春秋新社,298p.


■石垣 綾子 19550210 『女は自由である』,文藝春秋新社,298p.

◆目次:
男狩り・女狩り
  男女接触のチャンス
  男を捜す女
  職業婦人の性の悩み
  結婚適齢期に齢はない
結婚と男女交際は別
  日本的な恋愛心理
  女は自分で生きよ
四百万人のサラリーガール
  職業婦人としての私の体験
  女は職場のアクセサリーか
  サラリー・ガールの経済的内幕
男の迷信を叩きこわせ
  女子労働者の新しい魂
  係長の椅子を闘い取った女性
  新しい性格と古い思想
職場と結婚は両立するか
  女の致命的な弱さ
  職場にある男と女
独身も亦大いに可なり
  愛する人に出逢わなかったら
  日本男性の男ごころ
結婚への手続き
  性欲についての考え方
  日本人の性生活
性の美しいよろこび
  見合結婚の知恵
  折衷主義の見合結婚
娘達は結婚したい
  求婚欄と結婚相談所
  男と女の解放地帯
純潔はどうあらねばならないか
  純潔ということ
  恋愛の本質的なもの
  現代の貞操帯
  心の純潔・からだの純潔
姦通と離婚の自由
  結婚生活の倦怠期
  離婚西ひがし
三十娘の生態
  結婚市場の変動期
  新しい零号菌の発生
  妻子ある男との恋愛
  新しいタイプの創造
日本の妻の悲劇
  現代日本の母と娘の会話
  妻の二つのタイプ
  妻の生活さまざま
  アメリカの主婦
家族制度の復活
  寝室は無視されている
  「家」という観念の犠牲者
  女性は強く抗議せよ
美しくなるには
  おしゃれの楽しさ
  流行と個性
フランスと中共の女性
  爆弾的な結婚観
  愛を至上とするフランス
  恋愛も集団主義の中で
女性の自由と自覚
  政治につながるもの
  女性の生きる道
あとがき


▼結婚適齢期に齢はない
「わたくしの友は同じ会社に働く同僚とか、一介のサラリーマン級ならば、よろこんで夫の座にすわってくれる男を得たでありましょう。だが、それでは高給をとる女の方が、損をします。結婚というものを、一種の永久就職とする古い考えかたが、近代の仮面をかぶった彼女の心にも巣くっているからでしょう。たとえ結婚しても、彼女は職業をやめはしないのですが、自分よりも更に生活力のある男でなければ気に入りません。パリーやローマの世界の富豪のたまり場へ、高い旅費を払ってゆくのは、ひょっとしたチャンスが、出現するかもしれないからでした。かの女の身辺をおよぐ、ふつうの男性は勘定には入りません」(p.24)

「そこに彼女の悩みがありました。高給をとって、毛皮のコートを着て、自家用車をのり廻し、成功した職業人とはなりましたが、心のそこは孤独のさびしさに冷めたい空虚な穴があいています。生きる人生の意義とよろこびを感じられない悲哀があります。資本主義の生んだ、女の悲劇であるかもしれません」(p.25)

「ふつうのアメリカ女性は自活する経済力があっても、なお、男の経済力にもたれかかって、ぜいたくな寄生虫の生活にあこがれを持っています。これは女性の解放や男女平等を目ざしていながら、女をやはり一種のおもちゃや飾りものとしておく、アメリカ資本主義社会の矛盾と、致命的な欠陥を示しているものと思います」(p.25)

「アメリカと同じ社会機構の日本でも、男狩りをしながら、独りずまいのたのしさを味わうバチェラー・ガールはふえてゆくでありましょう。女性が相当な経済力をもちはじめると、オイソレと結婚をしなくなります。独りずまいの自由を放棄するからには、よほど好ましく、何よりも充分な経済力のある男性でないと、女は損なくじをひいたと考えるものです。よい意味でも、わるい意味でも、アメリカ的タイプの女性が、日本にもふえてゆくのは、女性の進出に伴う必然的な結果になります。それにしても、正しい男狩りは、オールド・メイドの暗いじめじめした憂うつさを追い出してしまいます。大胆に男狩りをしていると、女の若さや美しさは、華やかな明るさをまして、年の老いることを知りません」(p.26)

▼女は自分で生きよ
「大正時代は敗戦後の現在にくらべると、生活にはまだまだゆとりがあって、「手鍋さげても」という恋愛至上主義の、ロマンティシズムが、さかえる余裕があったのでしょう」(p.37)

「恋はどうせ、はかないもの、という日本的な諦めと、戦争にともなって強化された家族制度の圧力と、戦後の食べる苦しみから得た現実主義と、こうしたいろいろな要素が、からみあって、若い人たちの手足をしばっているようです。恋愛の情熱にもえきることもできず、かといって、打算的な結婚に、満足しているわけではなく、矛盾の中にただようて溜息をついている、といったらよいかもしれません」(p.38)

▼女は職場のアクセサリーか
(変わらない女性の根本的な心のありかた)
「一面では若い女性は、どしどし職生活につくようになりましたが、その場かぎりの職業で、男性のように一生とり組んでゆくというねばり強さがありません。そのうちによい結婚にありついて、あとは「あなたまかせ」の妻となることで安心しています。将来の責任は考えません。だから目さきの好きこのみで、職場をえらびます。 / [……]あの時代にも現代にも、共通して流れている女の、職業人としての無自覚さ、あやふやな態度を、私たちの心から叩き出してしまわなければならないと思うのです。肉体労働をするわけではなく、かるい知的な仕事をするサラリー・ガールの一部には、女だからという女の特権に甘える気持が、どこかにひそんでいやしませんか」(p.50)

「ところで問題になるのは、女の職業に対する甘えた考えです。職場生活に向って、真剣さが欠けてやしないでしょうか。 / どうせ働くのは、暫くの間のことだ、という根性が少しでもあれば、精魂をかたむけて、仕事に打ちこむことはできません。この腰かけ主義は職場を汚がし、働く女性じしんの人生に対する情熱を傷つけます」(p.51)

「私たち女は、男女同権を主張します。これはもちろん、正しい要求ですが、職場における男と女の、真剣さをくらべるとき、男性の方がずっと張り切っています。男にとって、職業は一生つづけてゆく長い途であって、これから足をふみはずすことは許されません。[……]これに比べて、働く女性の心構えは、始めから終りまで、ぐらついています。不満や困難に出逢うと、逃げ腰になります。職場にある女の平均年齢は二十三歳と八ヶ月で、男は三十二歳と五ヶ月ですから、女は長く職場にいないことがわかります。 / 働く若い女は心の中にいつでも、結婚という席をあけておきます。全生命を仕事に注いでいると、女としての幸福をとりにがしはしまいかと心配になります。女は「学問や職業にはどうしても必要なもの以上は出し惜しみ」をして「自分の地位で自分を創造しようと努力をしない」と「第二の性」の著者ボーヴォワールも云っていますが、女の完成は結婚にある、という社会の習慣が、女の心をいつでも動揺させています」(pp.51-52)

「女は「職場の花」とよばれていますが、ほんとうは「職場の妻」というわけで、家庭の夫が、従順な妻に要求するお役目を、職場で、そのまま注文しているようです。それでいて、女は能率がわるい、と叱られます」(p.55)
「職場の女は、二重の負担をうけるわけで、家庭の中の妻の姿を「女のありかた」として、職場でも求めているのです」(p.55)

▼サラリー・ガールの経済的内幕
「すっかりお膳だてをしてもらって、それから能力を発揮しましょう。というのは、余りにも虫がよすぎる。甘えています。女は職場で、どうせ男の下敷きにされているのだから、といって、精力の出しおしみをしているのは、自分できり開こうとする意思がない、弱虫の甘えかたの一つです」(p.59)

▼新しい性格と古い思想
「職場での経験は、実行力にみちた、新しい女の性格をつくり出しました。物おじした、おどおどする、古い女のためらいは、洗いおとされて、大胆に行動するのです。[……]それでいながら、女として、一貫した人生観となると、かびのはえた前世紀の、古めかしい花嫁修業に精を出して、妻の座にありつくことに汲々としています。「女の宿命」を突っ切って強く生きぬこうとはしません。女とはこういう者であると、社会からきめられた「女らしさ」のわくの中に、いそいで退却します」(p.77)
「若い女性は敗戦の苦しい時代に育ってきましたから、生活の一場面では、現実と取りくむ逞しさを身につけました。けれどもその行動を裏づける新しい思想、新しい人生観の肉づけがないのかもしれません」(pp.77-78)

「夫をとられまいとする妻の身構えが、甘い夫婦仲を大いに広告させるのでしょう。それに家庭にある女にとっては、若い独身の働く女がうらやましい。うらやましいから反対に、「私はこんなに幸福なのよ」と妻の座をみせびらかします」(p.78)

「職場でねばり強く、自分の能力を主張し、実行する気力と意気と熱情をもっている新しいタイプがふえています。結婚に対しても、同じねばり強さと、真剣さで、あせらずに、どっしり取りくんでほしいものです」(p.79)

「[……]女は社会の一員として人間らしく生きようとすると、妻としての資格を失うのです。[……]女として、私は、この両方を融合させることのできる男性、つまり女に対する偏見を脱皮した男性を、根気よく探しあてることに、幸福が約束されていると思うのです。もし、女を人間として、理解する男性にめぐり逢わなかったら、結婚しなくとも、仕事に生きぬく、女として、張りきった人生を送るようになりたいものです」(pp.79-80)

▼女の致命的な弱さ
「主婦の座が安楽椅子のように、やわらかく、座り心地がよいならば、そこから降りて、固い職場の椅子をのぞむ筈はありません。無力な主婦の座から遁れたいという気持が、みられます。夫の収入だけでは、生活が苦しいから、自分も働いて家計費をふやしたいという欲求です」(p.85)

▼職場にある男と女
「生活力をもつ娘は、家庭の奥ふかくに住む娘のように、結婚をあたふたと急ぎません。恋人ができて、結婚したいというなら別の話ですが、周囲からすすめられて、見合結婚をする気には、容易になれないものです。彼女たちにとっては、妻の座がたいして魅力あるものとは思われません。東大出身の秀才を夫にしても、一冊の本代も自由にできない現在の社会では、経済力を失う妻の座につくよりも、職場にいる方が、自由ですから、その自由をおいそれと、投げ出して、奥様業につく気にはなれません」(p.90)

「こうした根性があると、「だって、女なんですもの」と、職務のきびしさを放棄して、「女のわがまま」をふり廻します。職場に対する責任観念がないから、要求するべき手当を、要求しないのです。ひとりの「女の阿呆」が存在すると、彼女の投げる波紋は、大きくひろがって、仲間の女性を、致命的なおとし穴に、ひきずりこんでゆきます。 / まじめに働く女性は、女が女の敵になるのをみるほど、悲しいことはありません」(p.93)
「弱いものは、仲間割れをすることによって、ますます弱く、無力な存在となります。職場の女も、弱い者の弱点をさらけ出して、われ勝ちに「女らしさ」や「美しさ」を競って、支配者である男性に、とりいろうとします。経営者は女の弱点をよく知っていますから、これを百パーセントに利用して、女を不利な立場におくことができます」(p.94)

「資本主義は、女を家庭から社会へ押し出しました。押し出された女は、人間的に目ざめました。男のかたわらに立ち、仲間として仕事をわけあっています。女も、独立した人間として家庭に入っても職業をもちたいと望んでいます。ところが、資本主義の社会は、女を家庭から放り出したけれども、女の肩に重くのしかかっている伝統的な女の任務を、社会化して、女の能力を、思いきりのばさせる途を、ひらこうとはしません。女という名のためにいつまでも職場の下積みにされて、一人前にとり扱われません。そして彼女は家庭にかえれば、主婦という家事労働を遂行しなければなりません。家庭をもちながら社会に出て働く女は、二重の搾取を受けて苦しみます。そのために家庭が破壊されるおそれすらあります。女が職場も、家庭も両立させたいと願うとき、今の社会では、個人的に解決されない制約に、つきあたります。利潤を追う資本主義社会は矛盾と不合理にみちみちています。この不合理の犠牲とされないために、女は、社会組織の矛盾をはっきり知っておく必要があります。その自覚の上に立って、男と女が、平等な立場から手をとりあって、そのカベをのりこえて社会の改造にあたってゆくとき、自由な男と自由な女が、生れてきます。職場にある女性は、その人間的解放という歴史的な役割を、果す人たちではないでしょうか」(pp.94-95)

▼愛するひとに出逢わなかったら
「女の幸福は結婚に限られているのではないから、独身で押し通すことも、大いに可なりです。ただ、それが一時の強がりですと、三十歳をこした頃に、打算的な見合結婚にとびこむ危険もあります。[……] / 愛する人に出逢わなければ、悠然と、ひとり住まいを楽しめばいい。結婚の可能性はいつまでもあって、楽しみです。独身であれば、手足をひっぱる家庭の重荷から解きはなたれます。職業に全身を打ちこみ能率をあげてゆくことができるのは、ひとり住まいの特典であります」(p.102)

▼日本男性の男ごころ
「利潤を追いかける資本主義社会は、女を家庭から、社会の生産の場に押し出しているのですが、そのとき女が直面する職場と家庭生活との矛盾を、社会的に解決しようとはしません。家庭と職場の二重の任務をおう女性と、その彼女たちと一緒にその苦痛を減らすために、協力してくれる庶民階級の男性とが、力をあわせて、強い要求を出した時に、社会的な設備や社会保障がある程度まで、実現する可能性があります。根本的な解決は、人間の労働を搾取して一部の者が富と権力を所有するこの社会の仕組を、かえてゆくことにあります」(p.109)

▼折衷主義の見合結婚
「女の心には、微妙な自己の目ざめが、芽ばえています。その目ざめの故に、性急な結婚のプロポーズや見合結婚を、割りきった簡単な気持で、受けいれることができなくなりました。けれども、恋愛結婚で、全責任を自分の肩にのせて生きてゆく勇気はない。二つに引き裂かれた自己を抱きながら、多くの女性は見合結婚の知恵にとりすがって、夫をえらんでゆくのであります」(p.139)

▼離婚西ひがし
「人間関係のうち、いちばんむずかしい結婚や離婚の問題は、社会的な条件で、かなり左右されるものですが、その根本的な目標は、家族関係を幸福にすることであらねばならないと思います。資本主義社会は家庭の幸福を破壊しつつあります。家庭の崩壊を防ぐには、現代社会の欠陥を根本的に除去する方向に努力をむけてゆかねばなりません」(p.190)

▼妻子ある男との恋愛
「三十娘は、人生のゆめを、戦争の中で、つまみとられてしまいました。そして結婚適齢期をすぎてしまった今、どこに生甲斐をみつけてよいか、ウロウロしています。職場の仕事でも、自分の趣味でも、精根をつぎこむものがあれば、しっかりとして、人生の目標を失いませんが、そうでない場合、生きてゆく足もとがぐらついています。そうした危機にある三十娘と、やはり戦争から戦後にかけて、暗澹とした途を歩んできた妻子ある中年男と、さまよえる二つの魂が、もつれあって、肉体と肉体とに火がついて三角関係の問題をひきおこしました」(p.201)

▼新しいタイプの創造
「結婚難をもたらす社会的な原因にはいろいろあります。資本主義社会では、第一に経済的な原因が大きな障害となります。結婚は女にとって終生就職にも似たもので、生活の保障を夫に求めます。結婚は決して食べさせてもらうがためにするのではなく、愛情をもとにした男と女の結びつきであって、それを心から望んでいながら、夫の経済力を除外視することができない社会の仕組であります」(p.209)
「結婚しても夫婦共かせぎによって、収入の不足を穴埋めをするのは、こうした社会の経済事情に原因しています。[……]資本主義経済の不安は、結婚を困難にします。男は相当な収入をとれるまで、結婚をのばすことになると、結婚以外の手段で性の欲求をみたすようになります」(pp.209-210)

「つぎに、結婚をはばんでいるものは、男と女の人口のアンバランスです。第二世界大戦は結婚期にある多くの男性を大量に、うばい去りました」(p.210)

「三十娘の問題は、資本主義の社会で、人間らしい生きかたをする、ゆとりをあたえない
ことにも一つの原因があります。[……]よい配偶者を得て、結婚する可能性は、少なくなってきますが、では、職場で充分に、自分の能力を、精力を注ぎこむことのできる条件があたえられるかというと、それも否定される方が多いのです。女性の職場は広くなったとは云え、女であるがためのハンディキャップがあって、収入は男性よりも低いのが、ふつうです。働く者は、いくら働いても、将来にたいした希望をあたえられなくなった資本主義の社会で、三十娘は、とくに、それを敏感に感じます」(pp.211-212)

「資本主義の矛盾した社会機構の中で経済的な独立を得た女性は性のなやみや、孤独の淋しさを、結婚難のこの時代に、結婚によらない方法で、愛情の対象を求め、性の処理をする、という傾向を生んだのでありましょう」→零号になる(p.213)

「働く女性のサラリーが少なく、職場の安定がないと、ひとりの独立した人間として生きてゆくことが、できませんから、経済と愛情のからみあった零号が発生します。これを解決するには働く女性の賃金をあげ、職場の安定をはかることが大切であり、急務となります」(p.215)

▼現代日本の母と娘の会話
「妻は、これまでの地位に安閑とすわっていられなくなりました。家庭のカベをつきやぶって、広い社会との結びつきを求めています」(p.221)
「妻として母として生きると同時に、ひとりの独立した人間として成長してゆきたい、社会の一員として自分の価値を高めてゆきたいと希っています」(p.222)
「女の人間的な目ざめが、雑事に追われる家事労働の価値に疑いをもちはじめ、社会の不安が、妻の座をゆすぶり出しています。みたされない不満を感じ出したことは、妻の成長を意味しているのではないでしょうか」(p.223)

▼妻の二つのタイプ
「男は社会の生産面をうけもち、女は家庭の中で、消費面をうけもっています。妻は智恵のありったけをしぼって、家計を合理化させ、夫の収入を、効果的に使うことに一生懸命、努力しています。上手な家計のやりくりや家事のきり廻しに誇りはもちますが、女も人間として消費者の役割を果すことよりも、社会の生産に役立つ方がうれしいものです。どんなに上手なやりくりをやっても、消費するだけでは、面白くないものです。知性のある近代の女は、自ら誇りをもてばこそ、家事労働に安閑として、日をすごしていることに、反省をもち出したのではないでしょうか」(p.224)
「精力的な、聡明な近代女性は社会の生産面に参加したいのです」(p.225)
「家庭の中で行われていた生産が、社会の外に出ていった以上、家庭内で活動していた女も、社会の中に出て、生産にたずさわるのが、当然ではないでしょうか」(p.226)
「「女よ家庭にかえれ」とか「夫の収入で生活の安定をはかり、妻は安心して、育児と家事にあたることができれば、それが健全な社会である」とかいうような主張は、家庭というものの役割が、時代の発達と共に、変ってきたことを勘定にいれていません。機械の発達した資本主義社会は、家庭の性格をかえてしまったのです」(p.227)

「これからの家庭は、家事の雑事を、できるだけ合理化して社会の手に移してゆき、妻が、夫と共に人間のよろこびである生産にたずさわる方向に、努力するべきではないでしょうか。家庭は、協力者となった夫と妻の、いこいの場となり、新しい活動のエネルギーをあたえてくれるたのしい「根拠地」としたいものです」(p.228)

▼妻の生活さまざま
「彼女の話をきくと、主婦としての役割りと、職場生活とは、何の矛盾もなく、うまく運営されているようですが、実際に当たってみれば、日本の資本主義のみじめな社会条件のもとでは、容易な業ではありません。家庭生活と職場をもつ主婦は、二重の搾取をうけているのですから、その両面をやりとげるのは、難事業と云わねばなりません」(p.232)

▼アメリカの主婦
「女は結婚が人生の目的で、それが生活の手段であったので、職業教育をうけなかった為に、家計をたすけたいと思っても、手も足も出ない人が多いのです。今、職場にある若い女性は、たとえ結婚するにしても、またしないにしても、自分の技術をもって、一生を生きてゆかれる途をちゃんと身につけて下さい。三十五・六歳から上の中年の家庭婦人は、経済能力のないことをなげいています。その失敗を二度と、若い人はくりかえさないで下さい。夫にすてられた妻が、幼い子どもをかかえて、この世に生きるすべもなく思い余って子どもを途づれにして、死の旅にいそぎます。この悲劇は、社会に責任があるとは云え、女が男にたよるという甘い考えで、娘時代から、妻の時代をすごしてきた結果です」(p.235)

▼女性の生きる道
「ベーベルがこの「婦人論」を書いたのは、一八七五年で、その後、多くの訂正が加えられ、最後の改訂版は一九〇九年です。それから五十年を経た今日でも、彼の批判した女性のありかたは、まるで現在の私たち日本の女性を観察しているような気がします。新興宗教にこって、いっさいの理性も常識さえも失ってゆく中年の女たちの群、家族制度の復活や憲法の改正運動を目前にしながら、ひとごとのように無関心でいる多くの女性、戦争の準備をすすめる現在の指導者に対する無批判な態度、社会や政治に対する理解力がないために、女性の利益に反対する政府を支持して、反動や汚職の政治家に利用されてゆく危険性、こうした事実をみる時、私たち女性は現代の社会に住む人間の大切な義務をおこたっていると歎かずにはいられません」(p.295)

石垣 綾子


作成:村上 潔(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20050916 Rev: http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1950/5502ia.htm

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