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吉村康著/蜷川虎三伝記編纂委員会(代表・細野武男) 『蜷川虎三の生涯』 三省堂

吉村康著/蜷川虎三伝記編纂委員会(代表・細野武男)19820201 『蜷川虎三の生涯』三省堂

目次
序章 巨星墜つ
 1 さようならトラさん
 2 火を継ぐものたち
第1章 学問への道
 1 蜷川虎三の誕生と家系
 2 母の教え
 3 大正の青春
 4 ヨーロッパ留学
 5 万年助教授
第2章 冬の時代を生きる
 1 蜷川統計学
 2 決戦の春
 3 経済学部総退陣
 4 浪人の時代
 5 初代中小企業庁長官
第3章 革新府政建設へ第一歩
 1 京都駅頭の談判
 2 反共は戦争前夜の声
 3 反動こそわが敵
 4 住民に目を向けた行政を
 5 蜷川の"地方自治体論"
 6 風雨強かるべし
第4章
 1 うちつづく大災害
 2 松の廊下
 3 "赤字再建団体"第一号
 4 とる漁業から育てる漁業へ
 5 自民党の推薦をめぐって
 6 勤務評定に反対
第5章 道はただ一つその道をゆく
 1 安保反対闘争の起つ
 2 見える建設・見えない建設
 3 所得を倍増したら物価は三倍に
 4 一五の春は泣かせない
 5 中央直結より住民直結
第6章 憲法を暮らしの中に
 1 ポケット憲法を胸に
 2 零細企業無担保無保証人融資
 3 "多選"焦点に複雑な展開に
 4 京の文化を守り育てる
第7章 貫いた暮らしを守る府政
 1 日本を二分した知事選挙
 2 京都食管
 3 公害とたたかう
 4 老人医療費を無料に
 5 民、私なければ天下一家となる
第8章 百里を行く者は九十に半ばす
 1 三・五党連合と熾烈にたたかう
 2 日本海に夢を託す
 3 社共の統一を願う
 4 過去はすべて美しかった
終章 人間・蜷川虎三
 1 大正デモクラート
 2 軽妙な話術と原稿
 3 行政姿勢
 4 "競輪"哲学
 5 ハトと犬の友だち
 6 趣味・絶筆・墓
年譜
主要著作および参考文献
あとがき


序章 巨星墜つ
 1 さようならトラさん
 2 火を継ぐものたち

第1章 学問への道
 1 蜷川虎三の誕生と家系
 2 母の教え
 3 大正の青春
 4 ヨーロッパ留学
 5 万年助教授
「このあと蜷川は、労農党本部の仕事に従事している河上肇を東京市中野区西大久保の住居へ訪ねていった。河上は、彼に講座を譲ってくれただけでなく、『経済論叢』(京大経済学会)に載せた論文を『経済学大綱』(一九二八年一〇月)に引用して、彼をはじめて世に出してくれた恩人であった。」(51頁)→『河上肇の人間像』に回想
「河上の変貌ぶりに、蜷川も無関心ではいられなかったと思われるが、彼はそういったことには関わりあわず、律子の実家に身を寄せて、ヨーロッパで買い込んできた本の整理をつづけた。」(52頁)

第2章 冬の時代を生きる
 1 蜷川統計学
 2 決戦の春
 3 経済学部総退陣
 4 浪人の時代
 5 初代中小企業庁長官

第3章 革新府政建設へ第一歩
 1 京都駅頭の談判

 2 反共は戦争前夜の声
「蜷川は、夕闇迫る会場へ大声を投げた。
 「・・・あたしはこの一年半、政府の楽屋裏で吉田が何をしているかを、この目ではっきりと見てきた。吉田のもとでは、全面講和もなにもあったものではない。そして彼らは、その反動性をかくすために反共を叫んでいる。反共は内容のない声である。これは、戦争前夜の声である」
 拍手は鳴りやまなかった。大群衆は蜷川の指摘の正しさを、ひしひしと肌で感じとっていたのだ。
 この日から八四日後−蜷川が指摘したとおり、朝鮮戦争が勃発し、日本中をレッドパージの暗い嵐が吹き荒れていった。
 〈反共は戦争前夜の声である〉という名言は、こののちさまざまな名言名句を遺す蜷川虎三の、いちばん最初のものであった。」(114−115頁)

 3 反動こそわが敵
 4 住民に目を向けた行政を
 5 蜷川の"地方自治体論"

 6 風雨強かるべし
「蜷川はさきに人事を掌握し、今度は府議会の協力体制をつくりあげた。彼がその後、思う存分に自らの政策を実現することができるようになる基盤は、柱の弱いところを補強しながら、こうして着々と築きあげられたいったのである。」(138頁)

第4章
 1 うちつづく大災害
 2 松の廊下

 3 "赤字再建団体"第一号
「蜷川は翌一九五六(昭和三一)年二月府議会に、特別措置法にもとづく財政再建計画案を提出した。一九五五年度から一九六二(昭和三七)年度までの八年間に二三億四八〇〇万円の赤字を解消しようというものであった。
 この財政再建計画は、職員はもちろん府民にも大きな影響が予想されるだけに、二晩の徹夜を含めて一四日間も審議がつづき、不合理な強行徴税や新税の増設、人員整理、府民に不利益をもたらさないことなど四項目の付帯決議をつけて、やっと可決された。
 こうして翌三月、京都府は赤字再建団体第一号に指定され、二一億九〇〇〇万円の再建融資を受けることになった。」(152頁)

 4 とる漁業から育てる漁業へ
 5 自民党の推薦をめぐって

 6 勤務評定に反対
「このころ蜷川は心臓を悪くしていた。共産党を争うことを余儀なくされた知事選挙につづいて、勤評闘争、校長への管理職手当問題など心労が重なったせいであった。
 知事選では府職労は明確な立場をとらず、京教組は支持を撤回した。また校長への管理職手当をふくむ一九五九(昭和三四)年度予算案は、与党の社会党、共産党、清風会が反対し、野党の自民党、中正会の賛成で可決されるという妙なことになってしまっていた−たしかに革新府政の歯車は狂っていた。
 職員が逮捕されたことを知った蜷川は、おそらく複雑な気持ちであったろう。日が経つにつれて、大局を見落としていたという想いが、彼をとらえはじめたにちがいない。
 当時、府職労の逮捕された役員の一人だった大江洸(現委員長)は、「大局を見落としていたのは、なにも蜷川さんだけではなかった。あのころは私たちのたたかいも敵を見失っていた時期でした。このときを境にして、府職労は革新統一戦線を追求する労働組合に成長していったんですよ。」と語っているが、このときの蜷川の反省は、やがて彼を大きく変えることになった。
 翌一九六〇(昭和三五)年−蜷川は足をしっかりと大地につけて、民衆とともに歩きはじめるのである。」(170頁)

第5章 道はただ一つその道をゆく
 1 安保反対闘争の起つ

 2 見える建設・見えない建設
「そして、「見える建設」はまた、あくまで「善政」としてではなく、徹底して住民要求にもとづいて進められていったところに、蜷川の本領が発揮されている。つまり、「見えない建設」を支える「見える建設」は、別の見方をすれば、「見えない建設」によって築かれていったということができよう。
 やがてこの精神は、「憲法を暮らしの中に生かそう」とする府政に結実していくのだ。」(181頁)

 3 所得を倍増したら物価は三倍に
 4 一五の春は泣かせない
 5 中央直結より住民直結

第6章 憲法を暮らしの中に
 1 ポケット憲法を胸に
「憲法運動の根を住民の中へひろげていくうえで大きな力になったのが「ろばた懇談会」(通称「ろば懇」)であった。」(203頁)
→対話集会との差異

 2 零細企業無担保無保証人融資
「こうしたなかで、小零細企業にたいする都道府県でははじめての無担保、無保証人という、思いきった融資制度が、一九六六(昭和四一)年四月にスタートを切った。
 一〇〇万円(一九七〇年度からは一五〇万円、その後二〇〇万円、三〇〇万円と増額)まで無担保、無保証人で、従業員二〇人(商業、サービス業は五人)以下の小企業を対象に、運転資金は三年まで、設備資金は五年まで、利率年八分以内の均等月賦返済で融資しようというもので、正式名称「小企業特別融資制度」といった。
 その年の利用実績は、四九八三件で二五億九六二〇万円となり、業者のあいだでは「マルショウ」の愛称で呼ばれて、融資制度の花形にのしあがっていくが、「マルショウ」が零細企業を活気づけていくのを横目で見ながら、蜷川はここに辿り着くまでの労苦を思わずにはいられなかった。」(206−207頁)

「だが、政府の制度は表向きは同じであっても、中味は似て非なるものであった。
 この制度は、対象となる零細業者が、工業五人以下、商業二人以下と制限されたうえ、融資額は三〇万円まで、所得税か法人税を払っている者で信用保証協会の保証づき融資を過去に三〇万円以上受けていることなど一〇項目の必要条件を充たさなければ融資されないという、問題の多い制度であった。
 ところで京都府では、こういう条件をすべて外し、必要だと認めたものにはほとんど即決で融資している。"あす金がいる"というような人がやってくる。相談を受けると係の者がすぐ調査に走り、"よし"と決まったらすぐに信用保証協会と銀行に申し込む。保証人を頼むわずらわしさも担保を設定する手間も要らない。これほどスピーデイかつ簡単な融資は、どこにもないだろう。
 製造業事業所の八〇パーセント近くを占める、西陣、丹後織物業、京菓子、清水焼、ぞうがん、京人形などの伝統産業も、そのほとんどが零細企業である。蜷川が、「伝統産業には、産業自身に魂があります。大企業が大量生産するようなものではないんです。そしてそれらの製品には京都の心がある」(『暮らしを守る』)と誇らしげに語る伝統産業もまた、この「マルショウ」に支えられたのであった。」(211頁)

 3 "多選"焦点に複雑な展開に
 4 京の文化を守り育てる

第7章 貫いた暮らしを守る府政
 1 日本を二分した知事選挙
「社会党が成田委員長、江田書記長をはじめ中堅、新鋭の国会議員四〇余名を投入し、共産党が野坂議長、宮本書記長を先頭に衆、参両議員二一名全員を派遣してくると、柴田陣営では、京都知事選挙本部長である田中角栄幹事長の采配で自民、公明、民社三党の大物をぞくぞくと投入、終盤が近づくにつれて佐藤栄作首相以下ほとんどの閣僚が入洛、「京都で閣議が開ける」状態になった。」(236頁)

 2 京都食管
 3 公害とたたかう

 4 老人医療費を無料に
「暮らし、産業、教育など地方自治の中味を考えるとき、蜷川は、徹底して"戦争"とのつながりにおいてとらえることを常としたが、老人問題もまたしかりであった。」(256頁)

 5 民、私なければ天下一家となる
「蜷川は唖然としてしまったが、それは、革新内部における"逆流"現象のはじまりであった。
 明けて一九七三(昭和四八)年一月、社会党府本部の機関紙『京都民報』(大橋和孝版・一月二一日号)は、大橋和孝参議院議員を中心にした座談会を掲載し、翌年に迫った知事選に向けて蜷川革新府政への攻撃を開始した。「蜷川は一種の殿様政治だ」「平家以上に長い独裁政権がつづいている」「"府民一揆"で世直しを」などという見出しにみられるように、座談会はきわめて悪意に満ちたものであった。」(264頁)

第8章 百里を行く者は九十に半ばす
 1 三・五党連合と熾烈にたたかう
「この選挙では、当時「反自民」をかかげていた公明党が、終盤で"中立"から"心情大橋支持"に変わったことが大きな謎であったが、年の暮れになってその謎が明らかになった。一二月二〇日の各紙が、大橋和孝が三月九日に上田建設より政治資金を受け取り、公明党の竹入委員長に二〇〇〇万円をおくろうとした事件を報じたからだ。これは一二月二七日号の『朝日ジャーナル』の記事「社会党にも黒い金脈の手」を釈明するために竹入委員長が院内の記者会見でその経緯を明らかにしたものだったが、革新分断の裏側にあるみにくい結びつきの一端を期せずして暴露するものであった。」(275頁)

 2 日本海に夢を託す

 3 社共の統一を願う
「彼の東京行きで、自治省の京都府への風当たりはぐっとやわらかくなったが、地方財政危機がそんなことでなくなるわけがない。一〇月には、知事部局の課長会(二五〇人)が、財政危機乗り切りのために管理職手当を返上したいと申し入れてきた。
 むろん蜷川は「楽とはいえない個人生活を思うと受けとることはできない」と答えた。
 この年、彼は経費の二〇パーセント削減を指示しただけでなく、府立向日町競輪場の入場料値上げを皮切りに、職員の一五〇人削減、府立高校授業料の値上げ、ボーナスの分割払い、ベースアップの実質三パーセント切り下げなどかなり手厳しい方針を打ち出していたのだった。」(287−288頁)

 4 過去はすべて美しかった

終章 人間・蜷川虎三
 1 大正デモクラート
「一般に蜷川は、明治気質、下町気質、学者気質の三つの面をそなえていたといわれる。たしかに彼は明治的なスケールの大きさと気骨をもった人物であり、ケンカ好きで宵越しの金を持たなかった。いっぽう、学者としての彼は、河上肇を尊敬して『資本論』の世界に入っていったが、あくまで「革命家ではなく改革派だった」(田中米一)から、河上とは違って学問の世界に閉じこもった。
 蜷川はまた民主主義者であったが、「天皇陛下万歳!」の三唱で集会をしめくくる大正デモクラシーの影響を色濃く受けた大正デモクラートであった。したがって「矛盾した性格」を内包しながらも、保守の岸に行きつくことはなく、革新の大河の中を流れることができたのであった。」(305−306頁)

「天皇や皇室への対処の基本を、蜷川は、知事として語りつづけた日本国憲法と里帰りという民衆的習俗に求めているが、はたしてそれだけで、ほかにはなにもなかったのか。
 ここにも、蜷川の素顔がのぞいているのではあるまいか。実践運動に飛び込んでいった河上肇を、時代の動きのなかにとらえて冷徹に見つめつづけた蜷川だったが、彼はここでも、自分への支持をひろげるための政治力学を考えて、天皇や皇室に対処したのではなかっただろうか。
 社会科学者だった彼に、天皇制が果たしてきた歴史的な役割が見えていなかったはずはないからである。にもかかわらず、彼は天皇を「天子さま」と呼びつづけた。必ずしも革新イコール天皇制反対とならない民衆の感情が、彼にはよくわかっていたからだと思われるが、そうだと断定する根拠はないし、また、蜷川は根っからの明治人間だったという見方もあり、あくまで推測の域を出ない。」(308頁)

 2 軽妙な話術と原稿

 3 行政姿勢
「蜷川虎三は、くりかえしくりかえし、自らを「行政職員」であると語った。まるで、この言葉をトレードマークとして認めてほしいといっているのではないかと思えるほど、それは執拗でさえあった。」(316頁)

 4 "競輪"哲学
「向日町(現向日市)競輪場は、木村淳知事時代に設置を申請していたものだったが、蜷川の知事初当選直後の五月に許可が下り、一一月上旬に完成した。府議会では、廃止の意思を問う質問がくりかえしおこなわれ、とくに一九五八(昭和三三)年九月に京都市長の高山義三が宝池競輪場を事実上中止し、翌年に廃止してからは、公営ギャンブルを廃止せよという声がさらに大きくなった。」(321頁)
→1967年6月「競輪府議会」→継続

 5 ハトと犬の友だち

 6 趣味・絶筆・墓

年譜
主要著作および参考文献
■蜷川虎三の主要著作■(352−353頁)
『統計学研究 第一』岩波書店、一九三一年
『水産経済論』(『経済学全集』第一三巻所収)改造社、一九三一年
『統計利用に於ける基本問題』岩波書店、一九三二年
『水産経済学』(『水産学全集』第一一巻)厚生閣、一九三三年
『統計学概論』(岩波全集二一)岩波書店、一九三四年
『漁村の更生と漁村の指導』政経書院、一九三四年
『社会科学と数字』(『師範大学講座』第一一巻・数学教育)建文館、一九三五年
『水産日本の話』大日本水産会、一九三八年
『漁村対策研究』甲文堂書店、一九四〇年
『女性と教養』船場書店、一九四一年
『女性と戦争生活』船場書店、一九四三年
『中小企業と日本経済』(共著・アテネ文庫一一〇)弘文堂、一九五〇年
『中小企業問題の解決』時事通信社、一九五〇年
『作品と鑑賞』(一・蜷川虎三作品)高原社、一九六六年
『洛北雑記』(第一集・第二集)夕刊京都新聞社、一九六九年
『作品と鑑賞』(二・蜷川虎三作品)高原社、一九七〇年
『暮らしを守る政治』(『洛北雑記』より編集)徳間書店、一九七三年
『ふるさとの春』(蜷川虎三俳句選集)夕刊京都新聞社、一九七四年
『虎三の言いたい放題』刊行委員会、一九八一年
*  *
蜷川虎三「水産資源の保全について・水産資源論の一課題」(『経済論叢』五〇巻六号)一九四〇年
蜷川虎三「決戦の春」(『京都帝国大学新聞』三月二〇日号)一九四四年
蜷川虎三「ごろつき政治の正体」(『文藝春秋』四月特別号)一九五〇年
蜷川虎三「知事稼業十年」(『文藝春秋』一月号)一九六〇年
蜷川虎三「思い出すこと」(天野敬太郎・野口務編『河上肇の人間像』図書新聞社)一九六八年
京都大学経済学部編『思い出草・蜷川虎三先生の巻』同学部、一九六九年
杉村敏正・川口是編『憲法を暮らしのなかに・民衆に語りかける蜷川虎三』汐文社、一九七〇年
蜷川虎三対談集『樽みこし』駸々堂、一九七二年
蜷川虎三「私の学問と人生」(立命館土曜講座)一九七二年
蜷川虎三「社共に対する私の真意・私の革新論」(『中央公論』八八巻九号)一九七三年
京都教育センター編『峠のむこうに春がある・蜷川虎三教育論集』民衆社、一九七三年
細野武男編『道はただ一つこの道を・蜷川虎三自治体論集』民主社、一九七四年
蜷川虎三『暮らしを守る』地方自治ジャーナル社、一九七四年
蜷川虎三「蜷川さんおおいに語る・統計学の勉強から地方政治の革新へ」(『経済』四月号)一九七四年
蜷川虎三「着流し随想」(『京都新聞』一九七八年八月二六日〜七九年二月一七日)一九七八年〜七九年
蜷川虎三『蜷川虎三回想録・洛陽に吼ゆ』朝日新聞社、一九七九年
蜷川虎三「自叙伝・負ける時は死ぬ時」(NHKテレビ)一九七九年
蜷川虎三「蜷川虎三経済談議・私の経済論」(『経済』一月号)一九七九年

あとがき


製作:山本崇記(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20050322 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1980/8202yy.htm

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