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Justice and the Politics of Difference
Young, Iris Marion 1990
Princeton University Press



   目次
   はじめに
   第1章 分配パラダイムを置きかえる
   第2章 抑圧の五つの顔
   第3章 反乱と、資本制福祉社会
   第4章 公平さという理念、公民という理念
   第5章 身体を計測することと、同一性の政治
   第6章 社会運動と、差異の政治
   第7章 アファーマティヴ・アクションとメリットという神話
   第8章 都市生活と差異
   おわりに:国際的正義


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◇Editorial Review から

 この本は、社会正義を分配的正義に還元するという、哲学の上で支配的な還元に挑戦する。この本は、ほとんどの正義論の基礎をなす基本的な諸概念、公平・形式的平等・一元的な道徳的主体性、といったものを含む諸概念を批判的に分析する。アイリス・ヤングは、<意思決定・文化的な表現・労働における分業に関する、排除された諸集団の主張>からはじめて、支配と抑圧、という概念を定義して、分配というモデルからは逃れてしまう諸問題をとらえる。

 ヤングによれば、民主的な理論家たちは、人を排除しない・参加的な体制、という問題に、適切には取り組んでいない。これらの理論家たちは、一様な公衆、というものを想定することによって、<理性と体面という、ヨーロッパ(系)の白人男性の規準>には文化的に同一化されない人々を排除しない制度的枠組を考えることに失敗している。ヤングは、規範理論と公共政策は、社会集団の違いを押さえ込むよりも肯定することによって、集団を基礎とした抑圧をなくしていくべきだ、と主張する。ヤングは、よい社会に関する彼女の見方を、現代の都市生活の、分化し・文化的に多元的なネットワークに基づける。そして、民主的な公衆における<集団代表制>という原理に賛成し、集団ごとに区別をつけた政策に賛成する。

◇Introduction から

 1990a: 「左派の政治と結びついた、集団に基礎を置く<新しい社会運動>──フェミニズム、黒人解放運動、アメリカ・インディアン運動、ゲイとレズビアンの運動、といった諸運動──の主張が持つ、政治哲学にとっての含意は何か? 西洋の理性の伝統への、ポスト近代の哲学による挑戦が持つ、政治哲学にとっての含意は何か? 二十世紀後半の政治と理論における、これらの展開の結果として、平等と民主制に訴える伝統的な社会主義者の主張は、どのように深められ、広げられ得るか? 正義は政治哲学の第一の主題である。だから、これらの問いは、正義に関する問いから切り離され得ない。これらの新しい社会運動は、社会正義のどのような構想に、暗黙のうちに訴えているのか? また、これらの運動は、正義の伝統的な構想にどのように直面し、これらの構想をどのように修正するのか?
 これらが、本書での探求を進める様々な問いの中の、いくつかの問いである」[Young 1990a:3]

 1990a: 「白人で、異性愛者で、中産階級で、健常者であり、老いた女性ではない私は、黒人や、ラテン系や、アメリカ・インディアンや、貧しい人や、レズビアンや、老人や、障碍者による根本的な運動を代弁していると主張することはできない。しかし、私の哲学的省察を動機づける、社会正義への政治的な参加は、私もまた、これらの運動なしには話すことができない、ということを、私に伝える」[Young 1990a:14]

 
 
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目次

謝辞
はじめに

第一章 分配パラダイムを置きかえる
 分配パラダイム
 分配パラダイムは、制度的な文脈を前提し、かつ覆い隠している
 分配、という概念を広げすぎると
 分配する力について話すこと、にともなう諸問題
 不正義を、支配と抑圧として定義する

第二章 抑圧の五つの顔
 構造的概念としての抑圧
 社会集団という概念
 抑圧の様々な顔
 基準を適用する

第三章 反乱と、資本制福祉社会
 資本制福祉社会の規範的諸原理
 資本制福祉社会の脱政治化
 分配パラダイムのイデオロギー的機能
 管理社会と、支配の新しい形
 反乱と、公的な暮らしの再政治化
 <再度の封じ込め>と、民主制との間の弁証法
 社会正義の条件としての民主制

第四章 公平さという理念、公民という理念
 同一性の論理に対するポストモダン的な批判
 違いを否定することとしての公平さ、という理念
 公平さの不可能性
 公平さ、という理念のイデオロギー的機能
 参加民主制と、多様な要素からなる公衆という考え

第五章 身体を計測することと、同一性の政治
 近代の言説における、身体の計測
 意識的受容、無意識的嫌悪
 体面、という行動基準
 外国人恐怖とアブジェクション
 道徳上の責任と、意図的でない行動
 正義と、文化革命

第六章 社会運動と、差異の政治
 <自由にすること>に関する、競合するパラダイム
 差異の政治を通した解放
 差異の意味をもう一度主張する
 政策において差異を尊重する
 多様な要素からなる公衆と、集団代表制

第七章 アファーマティヴ・アクション[積極的行動]と、[ある職業に就くことや学校に入学することに]<価する>という神話
 積極的行動と、<差別しない>という原理
 積極的行動をめぐる論争と、分配パラダイム
 <価する>という神話
 教育と、業績の代わりとしての試験
 資格、という政治
 抑圧、そして労働を社会的に分けること
 労働を民主的に分けること

第八章 都市生活と差異
 個人主義と共同性との対置
 ルソー的な夢
 顔と顔をあわせる関係を特権化すること
 共同性[コミュニティー]という理念の、望ましくない政治的帰結
 規範的理念としての都市生活
 諸都市と社会的不正義
 自律/自治なきエンパワーメント

おわりに:国際的正義

文献表
索引


 
 
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Introduction

日本語訳[未定稿] 『正義、そして差異の政治』「はじめに」

☆ 訳者付記

・引用部分を、引用元で確認する作業などはまだ行われていない。未定稿である。
・<>記号・―記号は、原文の修飾関係を明確にするために、訳者が補ったものである。<>内のことばが重要である、といった意味はない。
・[]記号は訳者による追加。[]内のことばは、訳者による付記、または原語。[]を使って、原著にはない見出しをつけている。
・日本語としての平明さを意図して、ある程度の意訳を試みた部分がある。逐語的検討のためには、原文を参照されたい。この方法をとっても、原文の平明さを日本語にすることはまだできていない。
・特にdifferenceの訳について。日本語の日常的な用法としては、「差異」より「違い」という語をとるのが平明だが、固い言葉のほうが読みやすいと思われるときもあるので、「違い/差異」(固い言葉のほうがよいと思われるときには「差異/違い」)とした。ただし、「politics of difference」の訳は、「差異の政治」に統一している。
・この原稿は一枚40行×40字であり、「はじめに」日本語訳全体の長さは、400字×50枚弱(17000字程度)。
・この日本語訳では、読みやすくするために段落ごとに一行空けているが、原文ではこの区切りはない。原文の一行空きは★で示している。


『正義、そして差異の政治』「はじめに」

  左派の政治と結びついた、集団に基礎を置く<新しい社会運動> ―フェミニズム、黒人解放運動、アメリカ・インディアン運動、ゲイとレズビアンの運動、といった諸運動― の主張が持つ、政治哲学にとっての含意は何か?ポストモダンの哲学による、西洋理性の伝統への、挑戦が持つ、政治哲学にとっての含意は何か? 二十世紀後半の政治と理論における、これらの展開の結果として、平等と民主制に訴える伝統的な社会主義者の主張は、どのように深められ、広げられ得るか? 正義は政治哲学の第一の主題である。だから、これらの問いは、正義に関する問いから切り離され得ない。これらの新しい社会運動は、社会正義のどのような構想に、暗黙のうちに訴えているのか? また、これらの運動は、正義の伝統的な構想にどのように立ち向かい、これらの構想をどのように修正するのか?

  これらが、本書での探求を進める様々な問いの中の、いくつかの問いである。これらの問いに取り組む際、私は、<政治理論における実証主義と還元主義>に関わるいくつかの問題を調査する。政治理論における実証主義は、非常にしばしば、規範的な評価に付されるべき制度の構造を、与えられたものとして想定する。私が明るみに出す還元主義とは、近代政治哲学の傾向である、<政治的な諸主体を、ある一つの統一的なものに還元する>という傾向であり、<特異であることや、違い/差異よりも、共通性や同じであることを評価する傾向>のことである。

  <分配ということに焦点を当てる代わりに、正義の構想は、支配と抑圧、という概念からはじまるべきだ>と私は論じる。このような転換は、意思決定・労働における分業・文化、という、社会正義に関わる争点を明らかにするものだが、哲学的な議論ではしばしば無視される[訳注1]。このような転換はまた、社会関係と抑圧を作り上げる上での、社会集団の間の違い/差異の重要性を示す。典型的には、正義に関する哲学的な諸理論は、社会集団、という概念のための場所を持たない<社会の存在論>によって機能している。私は以下のように論じる ―社会集団の間に違い/差異があり、かつ、いくつかの集団が特権を得ている一方で他の集団が抑圧されているところでは、抑圧を弱めるために、これらの集団間の違い/差異をはっきり認め、これらの違い/差異に気を配ることを、社会正義は要求する。

 [正義]

  私は、正義について検討し、議論するけれども、正義についてある一つの理論を構築することはない。正義に関するある理論は、典型的には、すべての、またはほとんどの社会に適用される<正義の根本的な諸原理>を、人間・社会・理性の性質に関するいくつかの一般的な前提から導く。<正義の根本的な諸原理が適用される社会>の、具体的な形態と社会関係がどのようなものであっても。theoria、―観想― ということばの意味通りに、正義に関するある理論は、正義を観ている。正義に関する理論は、包括的な見方を得るために、<正義に関わる争点が生じる社会的な文脈>の外の視点を想定する。正義に関する理論というものは、それ自身の基礎を示すものなのだから、それ自体として確立したものであることが意図されている。正義に関する理論は、言説として、全体的であることをねらい、正義をその統一性において示すことをねらっている。正義に関する理論は、脱時間化されている。その理論においては、その理論以前には何もない。また、その理論においては、未来の出来事は、その理論が真であることや、その理論と社会生活との関わりに、影響を与えないだろう。

  正義に関する理論家たちは、正義に関する具体的な主張を生じさせる<社会生活の特定の環境>を捨象するよい理由を持っており、社会生活の外で、理性に基づいたある立場をとっている。このような、それ自体として確立した・合理的な理論は、実際の社会制度・社会関係からは独立しているだろう。このために、この理論は、実際の社会制度・社会関係を評価するための、頼りになり客観的・規範的な規準として役立つことができるのだろう。以下のようなことがしばしば想定される ―特定の社会における経験とは独立に基礎づけられた、正義に関する普遍的で規範的な理論がなければ、哲学者も、社会的な行為者も、ある社会に特有の偏見や、自己利益のために権力を求める主張から、正義に関する正当な主張を区別できない、ということが。

  しかし、与えられた社会的文脈から独立でありながらなおその社会的文脈の正義を測る<正義の理論>を発展させる試みは、次の二つの形のうちどちらかの形で失敗する。もし、その理論が真に普遍的で独立したものであり、特定の社会的状況や制度や実践はいっさい前提していないとすれば、その理論はただ、実際の制度や実践を評価する上で役に立つものであるには抽象的にすぎるだろう。実際の正義と不正義について有用な測定規準であるためには、その理論は、社会生活に関するいくつかの実質的な前提を含まなければならない。これらの前提は、はっきり示されるにせよ示されないにせよ、ふつうは、理論化が起こる実際の社会的文脈に由来する。多くの人が、以下のように論じてきた ―たとえばロールズの正義論は、それが実質的な結論を基礎づけることになるとすれば、いくつかの実質的な前提を持たなければならない、と。また、これらの前提は、暗黙のうちに、近代のリベラルな資本制社会における人々の経験に由来している、と(Young 1981;Simpson 1980;Wolff 1977,pt Wを参照)。

  普遍性・包括性・必然性を主張する、正義についての理論は、道徳に関わる省察を、科学的な知識と暗黙のうちに混ぜ合わせている(Williams, 1985, chap.6)。しかし、正義に関する省察的なことばは、見る −あるいは観察する― という形をとった知識のふりをすべきではない −知る者が、知られるものを誘発する者であり、知られるものを支配する者であるところでは。正義に関する言説は、本来、好奇心や、ものごとを不思議に思う感覚や、ものごとがどのようにはたらいているかを了解したい気持ちによって動機づけられるのではない。正義感覚は、見ることから生まれるのではない。正義感覚は、Jean-Francois Lyotardが言うように、聞くことから生まれる。



  私たちにとって、ことばは、何よりもまず、<話している誰か>だ。しかし、その言語ゲームにおいて重要なのは聞くことであり、その言語ゲームの規則は聴くことを取り扱うような<言語ゲーム>がある。このようなゲームが、正しさに関わるゲームである。そして、このゲームにおいては、人はその人が聞く限りでのみ話す。つまり、人は聞き手として話すのであって、書き手として話すのではない(Lyotard, 1985, pp.71-72)。



  正義に関する日々の言説は、確かに、主張をなしているのだが、これらの主張は、閉じられた体系の中で論証されるべき定理ではない。これらの主張は、呼びかけであり、申し立てであり、誰かに対する主張、その誰かとは別の人からの主張である。正義に関する合理的な省察は、ある状態を ―それがどんなに理想的な状態であっても― 主張し支配するところではじまるのではなく、聞くことにおいて・ある呼びかけに気をとめることにおいてはじまる。"正義にかなう"ことへの呼びかけは、具体的な社会的・政治的実践の中につねに位置づけられており、これらの実践は、哲学者に先立ち、哲学者をこえている。その有限性を、普遍的理論に向かってこえようとする伝統的な努力は、ただ有限な構成物を生みだすだけだ。この有限な構成物は、ふつうは、与えられたものを必然的なものとすることによって、偶然なものだという現れ方を回避する。

  正義に関する理論を退けることは、正義に関する合理的な言説を避けることにはならない。省察・分析・議論のいくつかの形は、体系的な理論を立てることを目指すのではなく、概念と争点の意味をはっきりさせ、社会関係を記述・説明し、理念と原理をはっきり表現し・擁護することを目指している。正義に関する省察的なことばは、議論を組み立てるが、これらの議論は、決定的な論証として意図されたものではない。これらの議論は、具体的な状況に置かれた[situated]政治的な対話の中で、他の人々に向けられ、他の人々の反応を待っている。この本で、私は、批判理論という方法で、このような<具体的な状況に置かれた分析と議論>にたずさわる。

[批判理論]

  私が理解するところでは、批判理論とは、歴史的・社会的に文脈化された、規範的省察である。批判理論は、ある特定の社会から隔絶された<普遍的な規範の体系>を作り上げる努力を、幻想として退ける。規範的省察は、歴史的に特定された環境からはじまらなければならない。なぜなら、出発点は、正義への<与えられ・具体的な状況に置かれた関心であるもの>以外にはないからだ。特定の社会的文脈の内部から省察する際、規範理論のよい理論化を行うためには、社会的・政治的な記述と説明を避けることはできない。社会理論なしには、規範的反省は抽象的であり、空虚であり、解放への実践的な関心による批判をうながすことができない。しかし、批判理論は、<価値から社会的な事実を切り離し、価値については中立だと主張する、実証的な社会理論>とは異なる。批判理論は、<社会理論は、与えられたものに同意しなければならない>ということを否定する。社会的な記述と説明は、批判的でなければならない。つまり、与えられたものを、規範的なことばで評価することを目指さなくてはならない。このような批判的立場がなければ、<社会では、何が、なぜ起こるのか>ということに関する多くの問い、<誰が利益を得、誰が損害をうけるのか>ということに関する多くの問いは、応えられないことになるだろう。そして、このような批判的立場がなければ、社会理論は、与えられた社会的現実を、もう一度肯定し、固めてしまうことになりがちである。

  <社会を批判するために使われる規範的な理念は、まさにその社会での経験と省察に根づいている>と、批判理論は想定する。また、批判理論は、規範は他のどこから来ることもできない、と想定する。しかし、このことは何を意味しているのだろうか? そして、規範が社会的な基礎を持ち、かつ社会を測るものだということは、どのようにして可能なのか? 規範的省察は、苦しみ・苦痛の叫びを聞くことから生まれ、自身が苦痛を感じることから生まれる。哲学者はいつも、社会的に位置づけられている。そして、もし社会が抑圧によって分割されているのなら、彼女はそれらの抑圧を強化するか、それらの抑圧に対して闘うかのどちらかだ。解放への関心によって、哲学者は、与えられた社会環境を、単によく考えてとらえるだけでなく、情熱をもってとらえる。つまり、与えられたものは、欲求との関係において経験される。欲求、幸せでありたいという欲望は、いま存在するものを批判するための空間を開く距離、否定を創り出す。この批判的な距離は、<よいこと>や<正義にかなうこと>に関する、以前に見いだされたいくつかの合理的な理念を基礎として起こるのではない。反対に、<よいこと>や<正義にかなうこと>の理念は、行動が、与えられたものに対してもたらす、欲求する否定[the desiring negation]から生まれる。

  批判理論は、<ある特定の与えられた社会的現実において、実現されてはいないが感じられてはいる規範的な可能性>を提示する言説の一つの形である。それぞれの社会的現実は、欠如と欲求として経験されることによって、それ自身の実現されていない<複数の可能性>を提出する。規範と理念は、<こうである必要はなく、別のかたちでもあり得る>という<自由の表現>である、あこがれから生じる。想像力は、いまあるものの経験を、あり得るものの予想へと変える力であり、思考を、理念と規範を形づくるべく自由にする力である。
Herbert Marcuse は、このように、複数の理念が、与えられたものにおいて欲求されるが実現されてはいない<複数の可能性>の経験から発生することを描いている。



  諸概念の大きなまとまりがある。そこでは、普遍的なものと特定的なものとの量的な関係は、質的な側面を身につけており、また、抽象的で普遍的なものは、具体的・歴史的な意味における複数の潜在的可能性を明示するように思われる。私たちはあえて、これらの諸概念を<哲学的に適切な諸概念>と呼ぶことにする。"人間/男[man]"、"自然"、"正義"、"美"、"自由"といったことばがどのように定義されようと、これらは、経験的な内容を、理念へと統合する。この理念は、<経験的な内容が、のりこえられ・克服されるべき何かとして、特定のかたちで現実化されること>を超越する。つまり、美という概念は、まだ実現されていないすべての美を包括するものである。自由[freedom]という構想は、まだ達成されていないすべての自由[liberty]を包括するものである...
  この時、このような<普遍的なもの>は、ものごとの特定の諸条件を、それらの潜在的可能性にてらして理解するための概念的な道具としてあらわれる。これら普遍的なものは、歴史的であり、かつ歴史的なものをこえている。これら普遍的なものは、経験される世界がそれらの材料から成り立っているところの材料を概念化する。そして、その材料の複数の潜在的可能性を見、それら複数の潜在的可能性が実際には持つことになる限界・抑制・否定に照らして、その材料を概念化する。経験も判断も、私的ではない。歴史的連続体における一般的な条件に気づくことにおいて、哲学的諸概念は形づくられ、展開される。これら諸概念は、ある一つの特定の社会の中での個人的な立場から練りあげられる。思考の材料は歴史的な材料である ―哲学的理論や、科学的理論において、その材料がどんなに抽象的・一般的で純粋なものになるかもしれなくとも。



  Michael Walzerは、<社会批判としての解釈>という彼の考えにおいて、道徳に関わる省察への、これに似た接近法を支持する。社会を批判する人は、彼や彼女が批判する社会に加わり、その社会に参与している。彼女は、その社会や、その社会の諸制度に対して、超然とした視点をとらない。彼女は、その社会を支配する力からは距離をとっているけれども。彼女の批判の規範的な基礎は、その社会自身が持っている理念と緊張関係から来ている。その理念はすでに、何らかの形でそこにある ―たとえば、[いったんは]支持された原理が侵害された、という時には、その原理において理念があり、また、支配的な理念に挑戦する社会運動において理念がある。社会を批判する人の批判は、「超然としていることも、敵意も、必要としない。なぜなら、彼は、[社会に対して]批判的に関わることの正当な理由を、実際に存在する<道徳に関わる世界>についての理想主義に見いだす。たとえそれが仮説的な理想主義であるとしても」(Walzer, 1987, p.61)。

  この本は、合州国における社会的な支配と抑圧に関する複数の主張に、その哲学的な出発点を持つ。1960年代と1970年代の新しい左派の社会運動[new left social movement]において生みだされた理念と経験は、現代のアメリカの政治生活における、以下のような多くの個人と組織の<思考と活動>に、活気を与えつづけている。(This book has its starting point in claims about social domination and oppression in the United States. Ideas and experience born in the new left social movement of the 1960s and 1970s…)民主的社会主義者・環境主義者・黒人・メキシコ系アメリカ人・プエルトリコ人・そしてアメリカインディアン運動。第三世界に対する合州国の軍事介入への反対運動。ゲイ・レズビアン解放運動。障碍者・老人・借家人・貧しい人々の運動。そしてフェミニズム運動。これらの運動はすべて、アメリカ社会が深い制度的な不正義を含んでいると、様々なやり方で主張する。しかし彼らは、正義に関わる現代の哲学的諸理論には、ほとんど親しい関係を見いださない。 p.7

  私のねらいは、これらの運動が持っている政治戦略に潜在的に含まれている<正義と不正義に関する複数の主張>のうちいくつかを、厳密に、反省的に表現することであり、それらの意味と含みを調べることだ。私は、正義に関する、<現代の具体的な状況に置かれた主張>と、<理論的な主張>との間の違いのもとは、近代西洋の政治哲学が持つ基本的な想定にあることを明らかにする。この計画は、<理念と制度を批判すること>と、<積極的な理念と制度を主張すること>との両方を必要とする。私は、現代の哲学において支配的な、正義に関わることばと原理のいくつかを批判し、その代わりとなる原理を提出する。私は、合州国社会の多くの政策・制度・実践を吟味し、私が批判する哲学的原理のうちいくつかが、それの原理がこれらの制度と実践を強化する限りで、いかにイデオロギー的であるかを示す。私は最後に、理想的な社会関係について、[それらの原理の]代わりとなるような[alternative]いくつかの見方を提供する。 p.7

  私の方法は、批判理論から来ているけれども、私は批判理論の理論家たちが持っているいくつかの信条を退ける。私はたとえば、先進資本制に関するHabermasの説明と、コミュニケーション的な倫理に関する彼の一般的な考え方に従うけれども、私は、一様な公衆、[という考え]に彼が暗黙のうちに関与することを批判する。私はまた、哲学と政治理論に対する、他のいくつかの接近法にも負っている。私は、近代の道徳理論・政治理論の中心にある<合理性・市民権・平等という理念>には暗黙のうちに男性的な偏りがある、ということに関する、現代のフェミニストの分析の中のいくつかを拡張する。集団間の違い/差異の肯定的な意味についての私の探求、そして、違い/差異を抑制するよりも、それらに耳を傾ける政治についての私の探求は、Derrida, Lyotard, Foucault, Kristeva のようなポスト近代の書き手による、違い/差異の意味に関する議論に多くを負っている。このポスト近代的な方向から ―私はこの方向にAdorno とIrigaray の著作のいくつかも含める―、私は、一様な言説に対する批判を使って、公平さ・一般的な<よさ>・共同体、といった概念を分析し批判する。これらの批判が持つ教訓から、私は、差異化された[それぞれ違う]社会関係、というもう一つの[alternative]構想を引きだす。この本の分析と議論はまた、分析的な道徳哲学・政治哲学、マルクス主義、参加民主制理論、黒人哲学を使う。 pp.7-8

  近年、これらの理論的な方法それぞれのよい点とわるい点について、多くの議論が行われている。多くの人は、これらの方法を互いに相容れないものだと見るだろう。たとえば、近代主義とポスト近代主義との間の論争は、最近批判理論の理論家たちの間で大流行している。フェミニスト理論の理論家たちの間にも、似たような論争がある。この本で、私は、<社会的・規範的理論化のための理論的方法>を評価するための規準に関する、メタ理論的な問いを明示的に扱うことはない。社会理論の理論家たちと、社会を批判する人たちが、このような認識論的問いに焦点をあてる時、これらの人たちはしばしば、このような論争をはじめに生じさせた<社会的な争点>を捨象しており、認識論的な作業に内在的な価値を与えている。方法論的・認識論的な争点は、この研究の中でたしかに生じる。しかし私はつねに、これらの争点を、手元にある実質的な規範的・社会的争点をさえぎるものとして扱う。私は、私がとる理論的な方法のうちいずれも、その全体を受け入れたり退けたりしなければならない全体だと見なすことはない。それぞれの方法は、私が行いたい分析と議論のための有用な道具を提供するものだ。



[第一章の概要]

  私は、第一章で、社会正義について、<持つこと>を第一に考える方法と、<すること>を第一に考える方法とを区別することからはじめる。正義に関する現代の諸理論は、分配パラダイムによって支配されている。この分配パラダイムは、物質的な財・社会的な立場を持つことに、焦点を当てる傾向がある。しかし、このように分配に焦点を当てることは、特定の制度や実践を与えられたものとして想定してしまうのと同時に、制度的な組織に関する他の争点を覆い隠してしまう。 p.8

  正義に関するいくつかの分配的な理論は、物質的な財の分配をこえて、正義に関わる複数の争点を、明示的に考慮に入れようとする。これらの理論は、自尊・機会・権力・名誉といった財を含めるように、分配パラダイムを拡張する。しかし、分配という概念を、物質的な財をこえて、権力や機会といった現象にまで拡張しようとすることからは、深刻な<概念上の混同>が生じる。分配という論法は、物質的でない財を、区別して認識され得る別々の個人に、一定の変化しない型で分配することができる<もの>や<まとまり>、区別して認識され得る<もの>や<まとまり>として扱う。さらに、分配パラダイムにおいてしばしば想定されている、[物質的な<もの>ないでは社会関係などを][訳注2]もの化してしまうこと・個人主義、そして、ある[分配の]型を目指す、ということは、支配と抑圧に関わる諸争点を覆い隠す。これらの諸争点は、[型]より過程を志向した、関係的な概念を必要としている。

  分配に関わる諸争点は確かに重要だ。しかし、正義の範囲は、分配に関わる諸争点をこえて、政治的なものそれ自体を含むところまで広がっている。政治的なものそれ自体とはつまり、制度的な組織のすべての側面 これらの側面が、集団的な決定の主題となる可能性がある限りで― である。これらの側面を含むまで、分配というものを引き伸ばすよう試みる代わりに、私は、分配という概念は物質的な財に限られるべきだと論じ、正義に関わる他の重要な側面は、意思決定過程・労働における社会的分業・文化を含んでいる、と論じる。抑圧と支配[ということば]が、不正義を概念化するための第一のことばとなるべきだ、と私は論じる。

[第二章の概要]

  抑圧、という概念が、現代の解放的な社会運動のことばの中心にある ―これらの社会運動がもつ見方が、この本での批判的な問いを生気づけている。しかし、これらの運動によって理解されているような、抑圧、という概念が、持続的・理論的に分析されたことはない。第二章は、抑圧を定義することによって、社会理論におけるこのようなよく目立つ溝を埋めるものである。実際にはいくつかの概念の集まりである<抑圧>ということは、五つの側面を持つ。私はこの五つの側面について詳しく述べていく ―搾取・周縁化・無力・文化帝国主義・暴力について。分配に関わる不正義は、これらの形をとる抑圧に寄与し、またこれらの抑圧に由来するのかもしれない。しかし、これらの形をとる抑圧のどれも、分配ということに還元されることはできないし、これらの形をとる抑圧のすべては、分配をこえた、社会構造と社会関係を含んでいる。

  抑圧は、社会集団に対して起こる。しかし、哲学と社会理論は、典型的には、社会集団という力のある概念を欠いている。特に、アファーマーティヴ・アクション[積極的活動]をめぐる論争という文脈で、何人かの哲学者・政策立案者は、社会集団が実在するということを認めることすら拒否した。この拒否は、集団の抑圧をしばしば強化する。集団は、個人を離れては存在しないが、集団は、社会的には個人に先立つ。なぜなら、人々のアイデンティティーは、部分的には、自身の集団への親近感によって構成されるからだ。社会集団は、人々が自分たちと他の人たちを識別/同定する方法を反映している。この方法が、他の人よりもある人々と結びつくよう、人を導くのであり、他の人を異なるものとして扱うことへと人を導く。集団は、互いの集団との関係において識別/同定される。集団の存在は、流動的でしばしば移り変わるものだが、やはり現実のものである。

[第三章の概要]

  正義という概念は、政治的なものとまったく同一の広がりをもつ。政治とは、Hannah Pitkinのことばでは、「その活動を通して、人々の相対的に大きく・永続的な諸集団が、集団として行うことを決め、どのように一緒に暮らしていくかを定め、その未来を決める活動である ―このことが、これら諸集団の力の範囲内にあるのなら、どこまでも」(Pitkin, 1981, p.343)。Robert Unger は、政治を、「私たちの実践的で情熱的な諸関係における基本的な取り決めを定める<資源と取り決め[arrangements]>をめぐる闘い」と定義する。彼は、「これらの取り決めの中で卓越したものは、社会生活という、形成途上にあって制度的であり、想像力に富む文脈である」と述べる(Unger, 1987a, p.145)。この意味での政治は、制度的な組織、公的な活動、社会的な実践・習慣、そして社会的な意味がもつすべての側面に関わっている ―これらの側面が、集団的な評価と意思決定の主題となる可能性がある限りで。人々が、<ある規則や実践や文化的意味は間違っている、変えられるべきだ>と言う時、これらの人々はふつう、社会正義に関わる主張を行っている。政治の意味のこのような理解は、ほとんどの哲学者・政策立案者の間で一般的な理解よりも広い。ほとんどの哲学者・政策立案者は、政治を、政府や、形式の整った利益集団組織の活動と同一視する傾向がある。第三章は、新しい左派の社会運動の第一の貢献を取り上げる。この貢献とは、政治生活を脱政治化するためにはたらいている福祉国家自由主義の力の前で、制度的・社会的・文化的生活の広大な諸領域を政治化しようとする、これらの運動の継続的な努力のことである。

  多くの批判理論の理論家、民主制理論の理論家たちとともに、私は、公共政策の形成過程を脱政治化する<資本制福祉社会>を批判する。福祉国家の実践は、政策を、専門家の分野として定義し、対立を、社会的利益の分配に関する利益集団間の交渉に封じ込める。正義に関する分配パラダイムは、たとえば、意思決定権力に関わる諸争点を、<ものごとをはっきり言葉にする[explicit]公的な討論に付すことに失敗することによって、この脱政治化された公的生活を反映し、かつ強化する傾向を持つ。民主的な意思決定過程は、社会正義の重要な要素であり条件である、と私は論じる。

[第四章の概要]

  何人かのポスト近代主義的フェミニストは、以下のことを示唆する ―違い/差異の否定が西洋の理性を構築しており、この西洋の理性において、違い/差異は、特異性を意味し、身体と感情がもつ異質性を意味し、<一元的で差異化されていない起源>をもたない、言語的・社会的諸関係が網羅性を欠いていることを意味する、ということを。この本は、このような違い/差異の否定が、社会集団を抑圧することにどのように寄与しているかを示し、<違い/差異を抑制するよりも、承認する政治>への賛成論を提起しようとする。そこで、第四章は、<近代のほとんどの道徳理論と正義に関する理論の要石となっている、公平という理念が、違い/差異を否定している>と論じる。公平という理念は、<道徳に関わるすべての状況は、同じ規則に従って取り扱われるべきだ>ということを示唆する。公平という理念は、<公平という理念は、すべての主体が採用することができる立場を提供する>と主張することによって、諸主体の間の違い/差異を否定する。公平という理念は、統一された普遍的な道徳的観点を置くことによって、理性と感情、という二分法を作り出す。事実に反する仮定、という形で通常表現される<公平>という理念は、不可能性を表現している。さらに、公平という理念は、少なくとも二つのイデオロギー的機能を果たしている。第一に、公平に訴えることは、特定の経験と、特権化された諸集団のものの見方とが、普遍的なものとしてまかり通ることを許すことによって、文化帝国主義を養っている。第二に、<官僚と専門家は、公平な方法で意思決定権力を行使することができる>という信念は、権威主義的な階層構造を正当化してしまう。

  私は第四章で以下のことをも示唆する ―公平は、公民[the civic public]という理念において、政治の上で自身に相当するものを持っている、ということを。批判理論と参加的民主制論は、政治体を普遍的で統一されたものととらえることによって、これらの理論が挑戦する自由主義理論と、違い/差異を抑制する傾向を分かち合っている。この、公民という普遍主義的な理念は、身体・感情と結びつけられる人々を ―女性、ユダヤ人、黒人、アメリカ・インディアンなどを― 市民権から排除する。制度化された支配と抑圧に挑戦する正義の構想は、集団の違い/差異を認め・肯定する<異質なものからなる公衆>という見方を提供する。

[第五章の概要]

  公平としての道徳理性、という理念がもつ一つの帰結は、身体と感情から、理性を理論的に切り離してしまうことである。第五章で私は、近代社会が身体をおとしめてきた、ということがもつ、いくつかの含みについて論じる。合理主義的な文化は、<ある諸集団は、軽蔑される身体や、醜い身体をもつ>と考えることによって、文化帝国主義と暴力という抑圧に寄与している。"規範的な凝視"に従って諸身体を階層化する文化の論理は、ある種の身体を、醜く、人をむかつかせ、堕落したものとして作り上げる<ある単一の美的尺度>の上に諸身体を位置づける。私は、アブジェクトに関するKristevaの理論を使って、美しさと醜さ、清潔なものと汚らわしいもの、という感情がもつ政治的な重要性を、人種主義・性差別主義・同性愛嫌悪・高齢者差別主義・障碍者差別主義の間で相互に作用する力学において分析し、また、それらが持つ文化的ステレオタイプ化において分析する。

  私たちの社会において、他の人の身体がそこにあることに対する、嫌悪感や不安をもった反応は、抑圧に寄与している。しかし、このような文化的反応は、すべての人を等しく尊重しようとするリベラルな気持を持った人々によっては、ふつう無意識のうちに行われる。道徳理論は、それらの理論が正当化の手段を探している<意図的な行動>に焦点をあてる傾向があるので、通常これらの理論は、意図されてはいない<抑圧の社会的な源>を検討に付すことはない。しかし、これらの<抑圧の文化的な源>を制度的に修正することに気づかず、この修正を求めようとしない正義の構想は、不適切なものである。私は、社会的意識を高めることと、文化に関わる意思決定、という過程におけるいくつかの修正について論じる。

[第六章の概要]

  このような文化的変革は、部分的には、軽蔑された諸集団が、文化的な表現の手段をつかみ、自分たちの肯定的な姿を再定義する時に生じる。この二十年間[1970〜1980年代]黒人解放にたずさわる活動家、アメリカ・インディアン、障碍者、また、恐ろしい身体とみなされることによって抑圧されているその他の集団は、肯定的な違い/差異がとるこのような姿を主張してきた。集団の誇りに関わるこのような諸運動は、<政治・制度に関わる生活から集団間の違い/差異を消去する>という形をとった<解放>という理念に挑戦するようになってきた。第六章で私は、集団間の違い/差異を肯定し・公的な生活においてすべての集団を包摂することを促進し・公的な生活におけるすべての集団の参加を促進する<社会的平等>と、解放とを結びつける原理と実践への賛成論を提起する。 p.11

  等しい取り扱い[平等処遇]、という原理は、もともとは公正で人を排除しない取り扱いを形式的に保障するものとして生じた。しかし、公正さについてのこの機械的な解釈は、違い/差異を抑制しもする。差異の政治は、時には以下のことを含んでいる ―実際の抑圧や潜在的な抑圧を減らすために、<等しい取り扱い>という原理に対して、<集団間の違い/差異が、公共政策や、経済に関わる諸制度の方針・手続きにおいて認められるべきである>という原理が優先する、ということを。現代の法律論争 ―女性の解放における平等と差異/違いに関する論争、二言語教育に関する論争、アメリカ・インディアンの権利に関する論争を含む― からの実例を使って、私は、<集団に特定の権利を認めることが、これらの集団の充分な参加を生みだす唯一の方法である場合がある>と論じる。このような、区別をつけた取り扱いが、これらの集団をふたたびおとしめる[stigmatize]ことを、恐れる人もいるだろう。私は、私たちが違い/差異を妨害として理解しつづける場合にのみ、このことが真になる、ということを示す。集団間の違いを承認することは、公衆の中にある諸集団の自立的な組織を奨励する<政治的意思決定>の原理を要請する。このことは、<それぞれの集団の声が、公衆に聞かれること>を保障するための手続を、集団代表制という制度を通して確立する、ということをともなう。

[第七章の概要]

  <抑圧を弱めるために、集団間の違い/差異に耳を傾けることを促進する、一般的な原理>、という文脈の中に置かれれば、アファーマーティヴ・アクション[積極的活動]計画は、現在レトリックがこれらの計画をそう見せているほど、とんでもないものではない。第七章で私は、アファーマーティヴ・アクション計画を支持する。[ただし、]過去の差別に対する補償を論拠にして支持するのではなく、抑圧、特に無意識的な嫌悪とステレオタイプから生じる抑圧、特権化されたものの視点は中立的だという想定から生じる抑圧を弱める重要な手段として、アファーマーティヴ・アクションを支持する。しかし、アファーマーティヴ・アクションについての論議は、正義に関する分配パラダイムを示す傾向がある。この論議は、高い報酬と威信をともなう地位の分配、ということにのみ配慮して、[現在の社会の]制度と実践を前提にする傾向があり、これらの制度と実践の正義を問うことはない。私は、以下のような二つの想定を詳細に検討する。[その一つの想定は、]地位は、<それに価する>[merit]という規準によって分配されることができ、分配されるべきである、という理念であり、[もう一つの想定は、]高い報酬を得るいくらかの数少ない地位と、より望ましくないほとんどの地位を作り出す<労働における階層的な分業>というものである。

 地位を、<それに価する>という規準によって分配する、という理念は、公平という理念の一例である。<それに価する>という規準は、<文化的・規範的な属性とは独立に、専門的な仕事における業績を、客観的に計測し予測する基準がある>ということを想定している。しかし私は、このような計測基準は存在しない、と論じる。職の分配は、政治的であることが避けられない ―職の分配が、[職につく人に求められる]専門的な対応力に関わる諸争点から切り離され得ない<特定の価値と規範>を含む、という意味で。もし、数少ない地位を、<それに価する>という規準によって分配することができないのなら、これらの地位自体の正当性が問われることになる。職務を実行する仕事から、職務を計画する仕事を切り離す<労働における階層的な分業>は、支配を命じるものであり、少なくとも三つの形の抑圧を ―搾取・無力・文化帝国主義を― 生み出したり、強化することになる。この不正義のいくらかは、職場を民主化することによって間接的に弱められ得る。しかし、専門化された訓練にかかわる特権を消去し、<すべての人が技術を身につけていく仕事を持つこと>を保障するためには、職務を計画する仕事と、職務を実行する仕事との間の分業は、直接的にも攻撃されねばならない。

[第八章と「おわりに」の概要]

  自由主義と福祉官僚制に対する批判者たちは、しばしば、社会生活のもう一つの[alternative]見方として、コミュニティー[共同体/共同性][訳注3]という理念に訴える。コミュニティーは、分かち合われた公的生活、相互承認と同一化、という理念を表している。結びの章[第八章]は、<コミュニティーという理念は、諸主体と諸集団の間の違い/差異を抑制しもする>と論じる。コミュニティーへの衝動は、しばしば、同一性を保とうとする欲求と表裏一体であり、実践的には、同一であるという感覚をおびやかす<他の人>を排除する。私は、社会関係と政治に関する、もう一つの理念を展開する。この理念は、都市生活における私たちの肯定的な経験からはじまる。理想的には、都市生活は、統一性ではなく異質性を表す四つのよい点[virtues]を含んでいる。つまり、排除のない社会的差異化、多様性、エロティシズム、そして公共性である。

  理想とはかけ離れて、現代のアメリカの諸都市は、実際には多くの不正義を含んでいる。資本の運動と、土地利用の決定は、<結果の分配における型>に主として焦点をあわせる理論によってはうまくつかめない不正義を生産し再生産する。[住宅地と商業地を区別する、などの][訳注4]区画分けと郊外化によって生み出される、諸機能の切り離しと、諸集団の分離から、さらなる不正義が生じる。しかし、多くの民主制理論の理論家たちとは反対に、私は、地方自治を拡大することは、これらの問題を悪化させる、と考える。都市生活の規範的な理念は、地域の会議にはじまる代表制度に基づく<大都市の地方政府>を通して、よりよく実現されるだろう。私は、この本で取り上げられた論点が、国際的正義に関する考察へとどのように広げられ得るかについて、短く論じることで、この本を締めくくる。



  体系的な理論を追求する上で、多くの哲学的著作は、理にかなったすべての人から抽象的に作り上げられた聴衆に対して、理にかなった誰か ―それが誰であれ― の視点から話しかける。私は、批判理論を、特定の社会における特定の位置からはじまるものだと理解しているので、私はこの著作を、公平だとも包括的だとも主張することができない。私はすべての人のために話しているとも、すべての人に対して話しているとも、すべてのことについて話しているとも、主張しない。

  私の個人的な政治的情熱は、フェミニズムからはじまる。現代の女性運動への私の参加から、私は、第一に、抑圧を識別することを学び、抑圧について社会的・規範的で理論的な省察を展開することを学んだ。しかし、<海外での軍事介入に反対する運動>と、<国内で非常に多くの人々を貧しいまま、不利な立場のままにしておく社会環境を、体系的に改革することに賛成する運動>に関わり、参加することによって、私のフェミニズムはいつも補われてきた。フェミニズムとマルクス主義との、また、フェミニズムと、参加民主制の理論と実践との相互作用が、私がこの本の様々な頁で提示した、抑圧と支配に関する多元的な理解を説明する。

  差異の政治に関する私自身の省察は、女性運動の中での、女性たちの間での階級・人種・性的なことがら・年齢・能力・文化における違い/差異を認めることの大切さと難しさに関する議論によって、火をつけられた。有色人種の女性・障碍のある女性・老いた女性・などが、ますます、排除・不可視化や、フェミニストの言説によるステレオタイプ化に関する彼女たちの経験を声にしていくことによって、フェミニズムは女性に共通の立場を見きわめ、変えようとするものだ、という想定は、ますます支持できないものになった。このことが、特にフェミニスト的な言説の終わりを意味するとは、私はまったく思わない。なぜなら私は、他の多くの女性が経験しているように、私たちが姉妹関係[sisterhood]と呼んできた、他の女性に対する親近感をなお経験するからだ ―まさしく違い/差異をこえて。にもかかわらず、この議論は、女性の抑圧に特に焦点を当てることから抜け出し、他の抑圧された諸集団の社会的立場をも理解するよう努力することを、私に強いた。

  白人で、異性愛者で、中産階級で、健常者であり、老いた女性ではない私は、黒人や、ラテン系や、アメリカ・インディアンや、貧しい人や、レズビアンや、老人や、障碍者による根本的な運動を代弁していると主張することはできない。しかし、私の哲学的省察を動機づける、社会正義への政治的な参加は、私もまた、これらの運動なしには話すことができない、ということを、私に伝える。このように、私の個人的な情熱はフェミニズムにはじまり、私は、私が参加してきた平和運動・環境運動・反介入運動の経験と理念について省察するのだけれども、私がこの本で展開した立場は、他の抑圧された諸集団の運動の経験と理念への省察から生じている ―私が、これらの運動の中の人々を読みとることによって・これらの人々と話すことによって、その経験を理解することができた限りで。だから、私はここで、理にかなったすべての人々を代弁する、とは主張しない。私がまさにねらっているのは、多様な立場から、現代のいくつかの社会運動の経験に基づいて話すことである。

  哲学者たちは、自身の議論が向けられている聴衆がもつ偏り[partiality]を認めることは、自分の書いたものにある声の偏りを認めるよりも、しばしば少ない、と私には思われる。この本で私は、おそらく理にかなったすべての人々が分かち合っているとはいえない、以下のようないくつかの想定を置いている ―すべての人々に対する、生きていく上での基本的平等は、道徳的価値である ―私たちの社会には、基本的な制度の変革によってのみ正され得る、深い不正義がある ―私が言及する諸集団は抑圧されている ―支配の構造が、誤った形で私たちの社会に広がっている ―という想定を。確かに、多くの知識人と政策立案者は、今日、これらの想定に充分共感しており、<これらの想定が、社会正義を考え想像することに対してもつ含み>のいくつかを論じることに、参加することを望んでいる。これらの想定の一つ以上を分かち合わない人にとっては、この本での分析と議論が、やはり実りある政治的対話を刺激することを、私は望んでいる。


[訳注1] 日本語圏では、社会正義に関わる哲学的な議論自体があまりない、と注記したくなる。
[訳注2] 原書pp.24-29, 特にp.27 第三段落参照。
[訳注3] この訳文では、英語をそのまま片仮名にすることは極力避けたが、「コミュニティー」という語については、日本語圏でも、「コミュニティー」という語を使って何かが言われることが多いので、「コミュニティー」としておく。
[訳注4] 原書pp.245-248参照。

 
 
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第一章 分配パラダイムを置きかえる

 ■分配パラダイム
 ■分配パラダイムは、制度的な文脈を前提し、かつ覆い隠している
 ■分配、という概念を広げすぎると
 ■分配する力について話すこと、にともなう諸問題
 ■不正義を、支配と抑圧として定義する

 ■分配パラダイム

 「正義の分配的な定義は、しばしば、権利、機会、権力、そして自尊など、非物質的な社会的な財まで含む。」(p.16)
 Rawls,Runcimann,Ackerman,Galston
 支配的なリベラルの枠組に対して批判的な論者たちも David Miller(p.17)
 社会主義者、マルクス主義者も (p.17)
 ウォルツァーは微妙(p.17)  分配パラダイムの問題2つ。以下2節で論じる。  1)物質的な分配を決定している制度的な文脈の無視、同時に前提
 2)非物質的な財や資源に拡張したときにそれらを間違って描いてしまう

 ■分配パラダイムは、制度的な文脈を前提し、かつ覆い隠している
 「正義についての応用的な議論は通常、物質的な財や資源の分配に焦点を当てすぎている。」(p.19)→第3章
 「分業の構造と意味を感じられる仕事につく権利に対する関心」(p.20)

 「例えば、幾人かのフェミニストは現代の正義論が家族構造を前提としており、性や親密性や子育てや家事労働を含む社会関係がどのように組織されるのが最もよいのかを問うていないことを指摘している。(see Okin, 1986; Pateman, 1988, pp.41-43)」(p.21)
 分配理論が無視しがちな3つのカテゴリー
 1)決定の構造と過程/2)分業/3)文化(p.22)  1)
 2)
 3)「文化は私が焦点をあてる非分配的カテゴリーの中で最も一般的なもの」(p.23)

 ■分配、という概念を広げすぎると

 「分配パラダイムは、暗黙に、社会的な裁定とは個人が何を持つか、どれだけ持つか、他の人たちが持つのに比べてどうかについてのものであると想定している。こうして所有に焦点を当てることは、人々が、どのような制度化されていない規則に従って、何をしているのか、それら行うことや持つことが、それらの位置を規定しているどのような制度化された関係によって構造化されているのか、これらの行ないの結合された効果がその生活に対してどのような反射的な効果を及ぼしているのかを無視しがちである。」(p.25)
 3つの非物質的な財:権利、機会、自尊(p.25)
 権利:「権利は関係であって、事物ではない[…]権利はもつことよりすることに関わる。」(p.25)
 機会:機会についても同様の混乱

 ■力(権力)の分配と語ることの問題 30

 1)力は関係であり、事物ではないことが曖昧になってしまう。(p.31)
 2)(関係として捉えるときにも)統治者と従属者という2者関係として捉えてしまいがちで より大きな構造を無視(p.31)
 3)少数の人の手に力が集中しているように考えがち。(p.32)

 ■不正義を支配と抑圧として定義する 33

 「正義の範囲(scope)は分配的な事柄よりも広い。他にも非分配的な正義の問題はあるだろうが、この書での私の関心は決定、分業、そして文化である。」(p.33)

 「正義は個人の生活のなかでの諸価値の具体的な実現と同じものではない。正義とはつまり、そうした意味でのよい生活と同じものではない。むしろ、社会正義とは、社会がこれらの諸価値の実現のために必要な制度な条件をどれだけ有する(contains)かまた支え ているかの度合いに関わっている。よい生活に含まれる価値は二つの非常に一般的な価値にまとめられよう。(1)自らの能力を発展させ発揮すること、そして(2)自らの行為と行為の条件の決定に参画することである。」(p.37)

 抑圧:「自己発達に対する制度的束縛」(p.37)
 「抑圧とは、ある人々が社会的に認められた設定の中で、十分で広範なスキルを学び、それを用いることを妨げるシステム的な制度的プロセス、もしくは、他の人々とプレーし、コミュニケーションする、あるいは、社会生活の中で他者が聞き取ることのができる文脈で自らの感情やパースペクティブを表現できる能力(ability)を抑圧する制度的プロセスの内にあるのである。」(p.38 *この部分Fraser[1997=2003:293]に引用)

 
 
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第2章 抑圧の五つの顔

 ■構造的概念としての抑圧 40
 「1960年代・1970年代の新左翼の社会運動は抑圧の概念を移動させた。その新しい意味においては、抑圧とは、ある専制君主の権力による強制のためではなく、よく意図されたリベラルな社会における日常的諸実践のためにある人びとが被る不利益と不正義のことを示す。」(p.41)

 ■社会集団という概念
 「社会集団とは、文化的形態や実践、生活様式によって、少なくとも他の一つ以上の集団から差異化された人々の集合体(collective)である。一つの集団のメンバーは、その類似の経験や生活様式ゆえに、互いにある親近性(affinity)を有する。そしてこのことは、彼らをして、その集団と同一化していない人々とよりもお互い同士で、あるいは異なった仕方で結び付くよう促す」(p.43)

 「私は、諸個人が自分なりの人生の計画を追求することは自由であるべきだということに同意するけれども、集団(groups)というものの現実性を無視するのは馬鹿げている。」(p.47)

 ■抑圧の様々な顔
  ・搾取
  ・周縁化
  ・無力(化)
  ・文化帝国主義
  ・暴力

 ■基準を適用する


 
 
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第3章 異議申立てと福祉資本主義社会
 Chap.3 Insurgency and the Welfare Capitalist Society

 「なるほど、公的な論争はないかもしれない。しかしこれは問題もしくは矛盾――それらが敵対的であるにせよないにせよ――が全く存在しないことによるのではない。非人格的で構造的な諸変化は問題や争点を消し去ることはなかった。多くの議論におけるそれら問題や争点の不在は一つのイデオロジカルな条件なのであり、それは何よりも先ず、公的なことがらとなりうる「争点」としてさらには諸個人の多様性ゆえの「トラブル」として、知識人たちがそれらを発見し表明するか否かによっているのである。」C.ライト・ミルズ

  批判理論(critical theory)にとって、規範的な省察というものは特定の社会的文脈から生じるものであり、そこでの社会的並びに政治的コンフリクトの哲学は、分析・明瞭化・価値付けに資することを目指す。状況付けられた社会的文脈におけるそのような規範的省察は、それらコンフリクトに関して中立ではありえないものの、既定の諸制度の中に潜在していたり、コンフリクトの中で闘われる社会運動によって目指されたりする開放の可能性を追求する。

  福祉資本主義社会は、正義についての多くの理論化が行われる社会的文脈である。私は、本章において、正義の分配パラダイムがこの手の社会における公的議論の基本形式に対応していることを示そう。利益集団多元主義の諸過程は公的な対立をもっぱら分配に限定している。生産をどう組織するか、公的そして私的な決定作成の諸構造、地位を付与したり不利益を固定化する社会的意味付け(social meanings)などの論点は等閑に付される。公的議論のこのような限定は、多くの論者をして、福祉資本主義は脱政治化されていると叫ばせることになる。このような福祉の方向付けを通して、福祉資本主義社会は市民を消費主権者(client-consumers)として定立し、公的生活における彼らの能動的参加を萎えさせる。私は、正義の分配パラダイムはこの脱政治化をイデオロギー的に強化する機能を果たしていると主張する。
 
  ただ、公的議論における福祉資本主義的な限定の優勢は論難されてこなかったわけではない。1960年代以来の多くの西側資本主義諸国での異議申立ての社会運動(insurgent social movement)は、福祉国家における公的議論の分配への制限に疑義を呈するものであり、所有とコントロールの諸過程、決定作成、文化的生産、日常生活における個人的諸関係、労働と社会サービスにおける管理された生活などを政治化することを企図しもした。福祉資本主義社会のプロセスは時として、新しい社会運動の異議申立て要求を利益集団多元主義流の制限の中に囲い込むことに成功してきたが、それら諸運動はしばしばそのような制限を越えて民主的で参加的なパブリックのヴィジョンを生み出す。私は、これら諸運動のなかに、支配と抑圧を軽減し廃絶することを目指す正義の概念の社会的基礎を見出す。デモクラシーは、社会的正義の要素であるとともに条件である。
 
 以上全訳[p.066-067]
 以下、各節は要旨の要約のみ。

福祉資本主義社会の規範的諸原理
(Normative Principles of Welfare Capitalist Society)

  福祉資本主義において、公的領域(国家の活動)と私的領域(企業の経済活動)との区別は不明瞭なものとなり、国家の諸制度(government institutions)と企業の諸制度(private institutions)とは、ますます類似性を強めている。
  福祉資本主義社会には、レッセフェール的な資本主義にはなかった、以下のような三つの基本原理が存在する。
  1)全体的福祉の最大化のために、経済活動は社会的に規制されるべきである。
  2)市民は社会によって満たされるベーシック・ニーズを持つ権利を有し、私的メカニズムが上手く作動しないときには、国家はそれらのニーズを満たすような政策を策定する義務を負う。
  3)形式的自由と非人格的手続

  これらの原理に根差した福祉国家の制度と実践は、資本主義の諸制度を温存することに二つの側面から寄与した。
   1)構造的側面――資本にとっての生産・蓄積の好条件の創出、(教育による)熟練労働力の供給、(政府部門の消費と個人への所得補助という形での)財市場の拡大
   2)政治的側面――システムに対する従順へと人々を向かわせる正統化機能

  以上のように、多くの論者たちが、福祉国家は機能としては資本主義の延命や永続化に資するのみであると診断する。しかし、現実に福祉国家が実現したものは、富者や権力者に対する人民の闘争の戦利品だったという側面もあり、福祉国家を全否定することもない。「政府による福祉政策を削減する動きには反対すべきである」と主張することと、「福祉資本主義の諸制度を支配と抑圧を助長しないようなものに変えるべきである」と主張することとを矛盾させないような、より大きな社会運動が必要とされているのである。

福祉資本主義社会の脱政治化
(The Depoliticization of Welfare Capitalist Society)

  福祉国家において、私的経済活動を公的政策の配下におさめたにもかかわらず、公的なるもの(the public)がますます脱政治化されている。それは、労使の示談というかたちで階級闘争が制度化され、結果として私的/政府両セクターで分配問題への焦点化が進んだことによる。労働側は、労働過程や労働組織、経済全般のあり方などへの要求を放棄し、自ら分配問題に要求を限定し、高水準の物質的分配を選んだのである。

  このような分配問題への制限は、消費主権者としての市民像を強化する。市民の政府への評価は、自分たちにどれだけの財・サービスと提供するかという視点のみによってなされ、社会的なものへの集合的コントロールや参加の目的は無意味なものとなり、市民の私化という状況を作り出す。

  この傾向を理論的に支えたのが利益集団多元主義(interest-group pluralism)である。利益集団多元主義の決定作成プロセスは、政治的なるもの(the political)のホールマークである(べき)公然たる討論(public deliberation)を決定的に欠いている。そこでは、正義や規範への要求さえもが利己的主張として矮小化され、諸々の社会運動は単なるプレッシャーグループと見なされる。

  決定は政府機関の日々の業務の中で「政策」として作られるが、それらは政府諸機関や私的企業の複雑で非公式なネゴシエーションからつむぎ出されている。「政策」というこの実質的な決定は「私的に」行われ、脱政治化されているのである。

分配パラダイムのイデオロギー的機能
(The Ideological Function of the Distributive Paradigm)

  「諸理念(Ideas)が、自らを生み出した制度的コンテクストを、自然で必要なものと表明する時」(p.074)、それらの理念はイデオロギー的に機能している。分配パラダイムは確かに我々の現行の諸制度にフィットしているが、それゆえに福祉資本主義社会のコンテクストにおいてイデオロギー的に機能しているのである。

  むろん分配の正義が全否定されるべきではないが、分配パラダイムには社会正義の理論としては明らかな限界がある。それは集合的決定――とくに統治の目的、諸制度の組織化、権力諸関係――についての公的討議をを萎えさせるということ、そして、原子論的で静態的な社会の存在論を想定し、現状の制度的諸構造を肯定し、強化するということである。

  分配パラダイムは分配の文脈と条件を規定する制度的諸構造の評価に必ず失敗するのである。それゆえ福祉資本主義社会における権力・文化関係を批判的に捉ええない。原子論的・静態的な存在論に対して、「諸関係と諸過程を包含するような存在論」が必要なのである。
 
  正義論は批判理論としての側面を持ち、あらゆる規範理論・社会理論はその特定の歴史的・社会的コンテクストに規定される(されるべき)という姿勢が必要とされるのである。

管理社会と支配の新形態
(The Administered Society and New Forms of Domination)

  支配(Domination)とは、「人々に、彼女(彼)らの活動または活動の諸条件の決定に参加することを禁止・妨害する制度的諸制約」に存する(p.076、また第一章も参照のこと)。福祉資本主義社会は、合理化された官僚的コントロールと当局・専門家のディシプリンへの従属という新たな形態の支配を創出した。

  この新たな形態の支配は官僚制(Bureaucracy)の論理の充満による。官僚制とは、「社会的な諸々のプロジェクトを技術的なコントロールの対象として定義し組織するシステム」(p.076)である。純技術的であるがゆえに官僚制の論理はユニバーサリズム、中立性、形式主義、非人格的コントロールといった理念に支配され、自らそれを信じ込む。しかし、非人格的ルールにしても、それが個々のケースにどのように適用されるのかについての判断には個々人の選好が入り込む。しかしそれは不可避であり、決定作成の正当な一部分なのである。

  官僚制は人間生活のあらゆる部面に拡張することによって、確かに伝統的な権力システム――ある一つの主体が別の主体を服従させる――変形させたのである。しかしそれは権力の増殖と拡散という事態によってである。福祉資本主義社会におけるこの事態は、権力の再分配によって解決するような、権力の独占という問題ではないのであって、権力の分配・再分配という議論にはあまり意味が無い。

異議申立てと公的生活の再政治化
(Insurgency and the Repoliticization of Public Life)

  1960年代からの異議申立ての諸運動(insurgent campaigns)は、管理された生活の支配・植民地化への対応である。それらの特徴としては地域的・自発的であるということ、組織的ではあるが自己抑制的なセンス(シングル・イシュー、特定の支持者、活動の制限など)をもっていたということである。それらは結果として市民社会civil society――個人・家族と国家・巨大組織との間の領域――というものを開拓・拡大したのである。

  異議申立て運動(insurgency)は、@決定作成の構造と権力者の特権へチャレンジするもの、A自律的な諸事業(services)組織するもの、B文化的アイデンティティを求めるもの、などに分類できるが、これら運動の多様性という事実こそが公的議論のキーとなる。我々は単一性の喪失の自覚から出発せねばならない。議論を公的と言えるものにするのは、単一性でも近接性でもなく、議論の行われる場の公開性(openness)なのである。

再包摂とデモクラシーの相克
(The Dialectic of Recontainment versus Democracy)

  制度的構造や決定作成構造へチャレンジするはずの批判理論は、しばしば再分配による解決へとすり替えられ、福祉国家に取り込まれてきた。最近20年の異議申立て運動はこのチャレンジと福祉国家による取り込みのサイクルであったと言える。
 
  現在の政治は、民主化・集合的決定・草の根のエンパワメントを希求する異議申立ての諸運動(movements of insurgency)と、それらの要求を分配的なフレームワークに取り込もうとする既成諸制度(established institutions)との相克であり、規範理論としては、能力付与(enablement)とエンパワメントとしての正義と、分配としての正義との相克なのである。

社会正義の条件としてのデモクラシー
(Democracy as a Condition of Social Justice)

  正義(justice)とは、「社会的認知された生活環境(settings)において十分なスキルを習得し使用すること、決定作成に参加すること、他者に聞いてもらえる文脈において自身のフィーリング・経験・社会生活についてのパースペクディブを表明すること、を全員に可能にする制度化された諸条件」(p.091)が存在することである。

  正義の希求には一定の分配的アウトカムが必要であることは疑いないが、それは更に進んで、公的討論と民主的決定作成プロセスへの参加をも要求する。デモクラシーは道具主義的にも本質的にも価値がある。参加プロセスが市民たちに自身のニーズと利益に就いて語らせることを保証するという道具主義的価値と、市民の徳はシチズンシップの行使を通じてこそ陶冶され、それがまた社会への能動的な関与を生むという本質的な価値と、である。

  ハーバマスのコミュニケーション倫理――あらゆるニーズと視点の表明が許される状況における公論による決定――が示すように、デモクラシーこそが、実体的に正しい帰結を促すような決定に人々を到達させるための条件であり、分配を含めた正義はそのなかでこそ可能となる。

  グットマン(Amy Gutman)のように、分配における公平を民主的参加の諸制度にとっての必要条件と見なす向きは、参加プロセスの制度化を分配的正義の実現を待って達成しようとする態度に傾くが、これは民主化を未来に先延ばしするだけでなく、分配的正義の達成さえも覚束なくさせる。分配ではなく、デモクラシーを優先すべきなのである。特に今日の福祉資本主義社会においては、分配可能性の条件はかなり固定的であり、現行の決定プロセスを変えることこそが(分配的正義にとっても)最も効果的なのである。

 
 
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■第四章 公平さという理念、公民という理念

 ■同一性の論理に対するポストモダン的な批判

 ■違いを否定することとしての公平さ、という理念

 ■公平さの不可能性

 ■公平さ、という理念のイデオロギー的機能

 ■参加民主制と、多様な要素からなる公衆という考え

 
 
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CHAPTER 5 The Scaling of Bodies and the Politics of Identity
身体の隠蔽とアイデンティティの政治学

  私の身体は、引き伸ばされ、歪められ、再び染められ、覆われて、その白い冬の日の悲しみの中で、戻ってきた。ニグロは醜い、ニグロは動物だ、ニグロは悪だ、ニグロは卑しい、ニグロは醜い。見よ、ニグロがいる、今日は寒い、ニグロが震えている、彼は寒いからだ、少年が震えている、彼はニグロが怖いからだ、ニグロは寒さで震えている、その寒さは凍てつく寒さだ、そのハンサムな少年は震えている、彼はニグロが怒りで震えていると思っているからだ、その少年は母親の腕の中に飛び込む、ニグロが僕を食べようとしている、と。
  私の周りには白人が、空を見上げるとその中心部が引き裂かれている、私の足元で大地が軋む、そして、白い歌、白い歌がある。この全ての白さが私を燃やす…。
  私は炉火のもとに腰を下ろし、自分の纏っているものに気づく。私はそれを見たことがなかった。それは実際醜いものだ。私はそこで立ち止まる。一体誰が、私に何が美しいのかを教えることができるのだろうか、と。(Fanon,1967,p.114[邦訳p.134])

 cf.Fanon, Frantz

  人種主義とは、他の集団的抑圧と同様に、単一の構造として考えられるべきではなく、様々な形態の抑圧という点から考えられるべきである。それらは、アメリカ合衆国において、殆どあるいはすべての黒人、ラテン系の人々、アジア系の人々、アメリカインディアン、そして、ユダヤ人の生活を条件付けている。これらの集団の多くの人々によって経験されたその抑圧は、アメリカ資本主義特有の構造と必要とに確かに条件付けられている−つまり、それは、搾取の構造、労働の差別的な分割、そして、周辺化と言ったものである。性差別主義のように、人種主義は労働者を互いに分離し、いくらかの労働者を過剰に搾取し周辺化することを正当化する手軽な手段である。しかしながら、上のファノンによって喚起された経験は明らかに資本主義的過程に還元されたり、ちょうと言われている抑圧の構造の内に包含されることもできない。その代わりに、それらは私が文化帝国主義そして文化的暴力と呼んできたところの抑圧の一形態に属しているのである。文化帝国主義は、それが印付けられ、ステレオタイプ化されるのと同時に、目に見えないような集団の存在によって構成されている。文化帝国主義的な集団は、自分たちの価値観、経験、見地を規範的、そして、普遍的なものとしようとする。それによって、文化帝国主義の犠牲者は、主体として、つまり、自身の見地や集団に特有な経験や利害を持つ個人として、目に見えないものにさせられる。彼らは印付けられるのと同時に、他者として印付けられる存在に凝固され、支配的な規範との関係で逸脱する存在へと凝固させられる。支配的な集団は自集団の存在に気づく必要はまったくない。彼らは、印付けられない、中立的で、明白に普遍的なポジションを占めているのである。しかし、文化帝国主義の犠牲者は自集団のアイデンティティを忘れる去ることはできない。なぜなら、他の行動や反応が彼らをそのアイデンティティへと呼び戻すからである。

  ファノンの文は、文化帝国主義の抑圧の特別で非常に重要な側面を喚起している。つまり、それは、他人によって嫌悪を持って見なされる集団に結びついた経験である。原理的に、文化帝国主義は嫌悪の相互関係的なダイナミズムによって構造化される必要はなく、少なくともおそらくリベラルで寛容な現代社会において、そのような嫌悪の反応があらゆる文化的に帝国主義化した集団の抑圧を深く構造化するのである。抑圧的な文化帝国主義の経験の多くが、相互作用−ジェスチャー、スピーチ、声のトーン、運動、その他の反応といった−の日常の文脈において、生じるのである(cf.Brittan and Maynard,1984,pp.6-13)。魅力と嫌悪の衝動は、身体経験に対する特別の結果を伴い、あらゆる相互行為を調整する。支配的な文化がいくらかの集団を異なったものとして、つまり他者として、彼らの身体に閉じ込められるその集団の構成員として、定義する。支配的な言説は、それらを、身体的な特徴の点から定義し、それらの身体を、醜く、汚い、腐敗した、不純な、汚染された、あるいは、病的なものとして構成する。さらに、かれらの世界が伝染化していくような経験をした人たちは(Slaughter,1982)、他の身体化された行動−つまり、彼らのジェスチャー、ある種の神経質、目線をずらすこと、そして、一定の距離を維持することによって−によって自らの立場を発見するのである。

  人種的な抑圧の経験は、集団としての存在を醜い身体を持つものとして、その点について恐れ、避け、嫌うような存在として定義されることを、幾分伴う。さらに、人種化した集団は決してただ醜くあるいは恐ろしい身体として定義されるものではない。黒人の抑圧のように、女性の抑圧も第二章で述べたような五つの抑圧形態のすべてを表す。性別役割分業は、家庭において、そして、労働の場において、搾取と相互作用的なダイナミズム、魅力と嫌悪の衝動、そして、身体と身体化の経験によって、ハッキリと構造化される。ある種の文化的空間が女性的な美や欲望を崇めることに余地を残している一方で、幾分、その非常にカメオな理想はたいていの女性をつまらない、醜い、嫌悪された、あるいは、恐れられるような身体にする。老人や、ゲイの男性、レズビアン、障碍者、そして、肥満の人々はまた、集団として、醜く、恐れられる、嫌悪された身体の位置を占めている。集団を醜いものとして定義する相互作用のダイナミズムと文化的ステレオタイプは、これらの集団の殆どの構成員の平和や身体を脅かす抑圧的な嫌がらせや物理的な暴力を多く為している。

  この章では、醜い身体の構築や、軽蔑された集団の抑圧に対する無意識の恐れや嫌悪の内に含まれているものを探求する。私は、前の章で為された提起、つまり、公共性からの人種主義的・性差別主義的排除が、近代的理性の構造や欲望、身体、感情的なものに対して自己形成された対立の中に、その源泉を持っているという提起を拡大する。近代哲学や近代科学は、身体に対立しそれを統御する、統一化し、支配する理性を作り出し、いくつかの集団を理性と同一化し、他の集団を身体と同一化する。

  しかしながら、19世紀に得られた軽蔑された身体の客観化、そして、明白な支配は私たちの時代においては減少し、あらゆるものにとっての平等に対する広範囲なコミットメントが出現してきた。人種主義、性差差別主義、同性愛嫌悪、反ユダヤ主義、反アラブ主義などが、そのコミットメントとともに、消失してきたということを言っているのではなく、毎日の習慣や人々がたいていの部分について気づかないような文化的価値に存在しているといったように、地下に進行していったのである。クリステヴァの「おぞましきもの」(abjection)というカテゴリーを通じて、私は、アイデンティティを喪失する不安と、いくつかの集団を、軽蔑され、醜い身体として定義し続ける習慣的で無意識の恐怖や嫌悪がどのように調整しあうのかを探求する。私たちの社会は、感情や反応を通じて多くの度合いで文化帝国主義の抑圧を制定し、この点について、抑圧はそれを取り除くための法律や政策の範囲を超え出ている。

  この章での分析では、道徳的判断が意図されていない行動について形成され得るかどうか、また、如何に形成され得るかということについての、道徳理論に対する疑問が生じるもし、無意識的行動や実践が抑圧を再生産するとしたら、それらは道徳的に非難されるべきであろう。私は、そのような場合に道徳理論が、過失者を非難することと責任を取らせることとの間に区別を設けるべきことを主張する。

  このようにして、文化帝国主義の解決にとっては、文化革命が必要なのであり、それはまた、主体性における革命を伴う。自己の全体性を求めるよりもむしろ、この多様で複雑な社会の主体である私たちは、私たちの所属や欲望において異種混交的であり複合的であることを認めることによって、私たち自身の中にある他性を肯定すべきである。意識を目覚めさせる社会運動の実践が、主体を革命化する方法の最初のモデルを提供するということについて、私は言及する。

Fanonの引用−文化帝国主義の抑圧性の問題=人種主義
文化帝国主義は自らを「普遍的なもの」と僭称し、その犠牲者は「他者」の烙印を押される。
人種主義と性差別主義の共通性
−本章の眼目
「この章では、醜い身体の構築と、軽蔑された集団の抑圧に対する無意識の恐れや嫌悪の内に含まれているものを探求する。」(P124)
→近代の科学的理性への批判

近代の言説における身体の隠蔽
The Scaling of Bodies in Modern Discourse

Foucaultの引用
"normalizing gaze"−階層的な基準によって客体を評価する「凝視」。アイデンティティの論理によって近代的主体は、多様性を単一のものに減じるような尺度で客体を測定する。

意識的な受容、無意識的な嫌悪
Conscious Acceptance, Unconscious Aversion

中世とは非連続であるところの、近代の科学的理性の「言説」(19c〜20c初頭)
→認識する主体/認識される客体
・ブルジョア白人男性の価値観=普遍的なもの=Norm
…女性、障がい者、老人、アラブ、ラテン、ユダヤ、ゲイ、レズビアンが「他者」化される
・平等にコミットするリベラル・デモクラシー
…意識的には平等を重視するが、無意識的には嫌悪を示す

−A.ギデンズの構造理論
"discursive consciousness"−容易に言語化される
"practical consciousness"−意識の周辺
"basic security system"−アイデンティティ形成・維持の拠り所、主体の存在論的統一性
→下二つが現代の主流となってきている。

慣習という行動規範
Behavioral Norms of Respectability

慣習(品格)の行動規範
−感情・肉体・欲望と対照的−普段の行為を通して身体機能を統治する
cf.ジェンダーの区別
19cとの非連続。レベルとして、"practical consciousness", "basic security system"

外国人嫌いと軽蔑
Xenophobia and Abjection

Joel Kovel
"dominative racism"−明白な支配(19C)…エディプス心理
"aversive racism"−日常の私的な関係、避けること分離すること…前エディプス。「汚」に対する基本的な空想の契機…汚と純粋
"metaracism"−白人の優位性が砕けていく過程
→下位二つが合わさったのが現代のアメリカ合衆国における人種主義の特徴

Julia Kristeva-"Abjection"(「おぞましきもの」)…"aversive racism"との共通点
→フロイト心理学との論争
"symbolic"−象徴化
"semiotic"−言語の異種混交な側面
"abjection"−自我=主体を生み出すのではなく、分離・境界の契機を生み出す。主体の近くにいる。主体に優先される。
−多様性の経験でもある。アイデンティティや秩序を混乱させるところに起こる。

道徳的慣習と意図されない行為
Moral Respectability and Unintended Action

道徳理論
−ブルジョア白人男性の価値観
意図された自発的な行為に注意を払う道徳理論−抑圧について理解することが出来ない。
−習慣・感情・無意識の反応は規範的な判断に服する。意図されていないということで許される実態。
"blame"-punishment
"responsibility"-無意識の行動を反省し、それを変えること

正義と文化革命
Justice and Cultural Revolution

習慣化した無意識の嫌悪や反応を変えるために、文化革命する必要がある。社会運動が「意識を目覚めさせること」と呼んだ私的言説を政治化する過程で、文化は変化していく。
−抑圧された集団が文化帝国主義に立ち向かうことによって文化を定義し政治化していく過程が、抑圧を減じていくために必要なことである。
−第六章の方向性…肯定的に集団的差異を主張する政治学の意味を議論する
          政治化する過程を明らかにする(社会運動)

[参考文献]
『黒い皮膚、白い仮面』F.ファノン,海老坂武・加藤晴久訳,みすず書房,1998
『クリステヴァ ポリゴロス』西川直子,講談社,1999


 
 
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第6章 社会運動と差異の政治
Ch.6 Social Movement and The Politics of Difference(pp.156‐191)

 かつてカーストや階級が存在した時代、伝統は、各々の集団には各々の立場があって、支配するために生まれる人々とそれに仕えるために生まれる人々がいることを命じていた。この暗黒時代には、法や社会規範は、性別、人種、宗教、階級、職業によって区分された様々な集団に対して、それぞれ別々の権利や特権そして義務を定めていた。人びとは異なった本性をもち、ある本性の方が他のものよりも良いということに基づいた社会的不正義が、教会や国家によって正当化されていたのである。
 後に啓蒙時代が始まり、人間性〔humanity〕と社会に関する革命的な概念の到来を告げる。理性と道徳感の能力〔capacity〕を持っている限り、人々はすべて平等である。したがって、法と政治は、あらゆる人びとを政治的かつ市民権の上で平等だと見なすべきである。こうした大胆な考え方に沿って、近代の政治闘争の戦線が引かれてきたのである。
 「理性」の最初の声が響き渡って以来二百年以上、光〔啓蒙〕の勢力は、非合理的な偏見、恣意性の形而上学、そして教会や国家や家族に分散した家父長制的な砦といった闇の勢力に抗して、自由と政治的平等のために闘争してきた。新世界においても私たちは、こうした闘いを開始した。アメリカ独立戦争とは、こうした啓蒙の諸原理に則った戦いだったからであり、私たちの憲法は自由と平等のために設立されたからである。だからこそ私たちは、古い時代のわが戦友がそうだったように、階級的特権や宗教的特権の束縛を等閑視できなかったのである。合衆国にも、奴隷制と公的生活からの女性の排除という形態で、独自の寡頭制恐怖政治があった。長く苦しい闘いのなかで、集団間の差異に基づくそうした特権の要塞は崩壊し始め、60年代には転覆し始めるにいたった。
 私たちの社会には、今日、偏見や差別の形跡はほとんど残っていないが、それは、私たちがそうした偏見や差別に対して働きかけ続け、啓蒙の父たちが提起しようと努めた夢をほとんど実現してきたからである。国家と法は、すべての人々に対して平等に適用しうる普遍的な言葉でのみ権利を主張すべきであり、諸個人間の差異や集団間の差異は、純粋に偶然かつ個人的な事柄であるべきである。私たちは、人種、性別、宗教そしてエスニシティの差異が、もはや人々の権利と機会に関わる差異を形成しないような社会を求めている。人々は集団のメンバーとしてではなく、個人として扱われるべきであるし、その生活の選択肢と報酬は、個人的達成にだけ基づいているべきである。人はみな、彼ら/彼女らがそうありたいと望むものになる自由、そうしたいと望むことを行なう自由を持ち、自分自身の生活を選択する自由を持つべきであるし、伝統的な期待〔expectations〕やステレオ・タイプによって妨げられないべきである。
 私たちは、お互いにこうした物語を語り合い、聖なる休日――サンクス・ギビング・デイ、7月7日、メモリアル・デイ、リンカーン誕生日――にはそれを子供達に演じさせてきた。私たちはこの物語にぴったり合うようにマーチン・ルーサー・キング記念日を作ったため、その日を教会年〔cannon year〕に含めさせるための闘争があったことを既に忘れてしまっているほどである。こうした物語にはかなりの程度、真実が含まれている。自由と政治的平等という啓蒙の理念は、抑圧と支配に抗する運動に活力を与えてきたし、今も与えている。そうした運動の成功は、私たちが失いたくない社会的価値と制度を作り上げてきた。人々は御馳走の後でこの物語を語ることに価値を見出してきたし、しばしばそれに恥じない行動をするためにこの物語を互いに思い出すことができた。
 しかし、まさにこの物語の価値のある部分と、それが語る政治的平等の達成が、今や新たな反対論者に力を与えているのである。近年、集団間の差異の除去としての自由化という理想は、抑圧されている人々の運動によって、挑戦を受けてきている。政治的平等のための異なった特権に抗する政治運動の成功そのものが、集団の特異性と文化的プライドの運動を生み出しているのである。
 本章で私は、集団間の差異を超越するものとして自由を定義するような正義の理念を批判する。それを私は同化の理念と呼ぶことにする。この理念が推進する正義の第一原理は通常、平等な扱いである。最近の抑圧された諸集団による社会運動は、この理念に挑戦してきている。そうした運動の多くは、集団の差異を肯定的に自己−規定するほうが、実際には解放的〔liberatory〕である、と主張する。
 私はこうした差異の政治を支持し、問題は社会的差異それ自体の意味であると論じたい。その人が属する集団の属性を理由にして、ある人を排除したり低く見たりするような伝統的な政治は、差異の意味を本質主義的に想定している。すなわち、そうした政治は集団を異なった本性を持つものと規定するのである。他方、差異に関する平等主義的な政治は、差異を社会的諸過程の産物として、より流動的で合理的に規定する。
 集団の差異を肯定するような解放は、平等の意義についての再概念化を含んでいる。同化主義的な理想が前提にしているのは、すべての人にとって社会的に平等な地位とは、同じ原理やルール、そして同じ基準に従ってすべての人びとを扱うことを要求するということである。他方、差異の政治が主張するのは、すべての集団の参加と包摂〔inclusion〕としての平等は、抑圧された諸集団や不利を被っている諸集団に対して異なった取り扱いが必要になることもある、ということである。社会的正義を推進するために、私は次のように主張したい。すなわち、社会政策は、集団に対して特別な扱いを認めるべき場合がある、と。私が探究するのは、妊娠し出産しつつある労働者のための権利、バイ・リンガル−バイ・カルチュラルの権利、そしてそうした特別な措置の三つ目の事例であるアメリカ・インディアン〔American Indian〕の権利である。私は最終的には、民主主義的な意思決定政体における抑圧された集団のための代表性原理について論ずることによって、異種混交的な公共圏〔heterogeneous public〕という理念を展開したい。


競合しあう解放パラダイム Competing Paradigms of Liberation

 「人種差別主義と性差別主義について」のなかでR. Wasserstormは、集団に基く〔group-based〕抑圧からの解放の理念という古典的な主張を、集団に基づく差異そのものの排除を含むものとして展開させている。彼が示唆するのは、真に反人種差別主義的で、反性差別主義的な社会においては、個人の人種や性別は、今日の私たちの社会で眼の色が持つのと同じ程度の機能しか持たないはずだということである。肌の色や生殖器官の身体的差異は残っていても、そうした差異は、人のアイデンティティ感覚や、彼や彼女に対する他人の眼差しにとって何の意味も持たないだろう。人種や性別に結び付けられるような政治的権利や義務は全く存在しないし、そうしたものに関連づけられる制度的利害も存在しない。人々は、政策や日々の活動のなかで人種やジェンダーについて考える理由を見出すことはなくなるだろう。このような社会においては、社会集団の差異は、存在しなくなってゆくだろう。
 Wasserstormは、こうした同化の考え方と、多様性という考え方――私が議論しようとするのはこれに近い――とを対比させ、両者が競合することを認めている。彼は、多様性という考え方ではなく同化主義的な解放理念のほうを選択する主な理由を三つ挙げている。第一に、同化主義的な考え方は、自然で必然的だと思われている集団に基づく社会的区分の恣意性を明らかにする。人種や性別が何の社会的意味も持たないような社会を想像することによって、そうした集団カテゴリーがある人びとの可能性の恣意的な〔unnecessarily〕制限が現存の社会にいかに広く行き渡っているか、ということが明白なものになる。第二に、同化主義的な考え方は、平等と正義の明白で曖昧さのない基準を与える。この基準に従えば、集団に関係づけられているどんな差異や差別も疑わしいものになる。法とルール、分業、あるいはその他の社会的実践が、集団のメンバーシップに従って異なった形で利益を配分しているとすれば、それは不正義の印である。正義の原理は単純である。すなわち、全ての人を同じ原理とルール、そして同じ基準に従って扱え、というものだ。第三に、同化主義的な考え方は、選択肢を最大化する。差異がいかなる社会的差異も形成しないような社会では、人々は自分自身を個人として、集団の規範や思惑〔expectation〕によって制限されることなく、発達させることができる。
 集団の差異の排除としての解放の理念が、解放政治の歴史のなかできわめて重要なものであったという点には全く問題はない。自然の差異を拒否する普遍的人間性という理念は、排除と地位の差異化に抗する闘争のなかの非常に重要な歴史的展開だった。それは、あらゆる人には等しく道徳的価値がある、という主張を可能にしたし、全ての人が権力と特権に関わる全ての制度と立場に参加し、含まれる権利をもつという主張を可能にした。同化主義的な理念は、女性や黒人そしてその他の集団の本性が本質的に異なっており、劣っているという長く続いた誤信に対して重要な修辞的な力を持っている。
 こうした同化主義者の理念のもつ力は、排除や侮辱に抗して行われる、被抑圧集団とその集団の支持者の闘争を鼓舞してきたし、現在も多くの集団を鼓舞し続けている。しかし、アメリカの歴史の中では定期的に、被抑圧集団による運動が、こうした「帰属への道」(Karst,1986)に疑問を付し、それを拒否するということがあった。その代わりに彼らは、支配的な制度のなかで力を獲得し、そこに参加するよりも、肯定的な文化的な集団的アイデンティティを自己組織し、肯定することをベターな戦略であるとみなしてきた。近年、こうした「差異の政治」が、人種あるいは民族集団のみならず、女性たちやゲイやレズビアン、老人そして障碍者といった集団のあいだにも再起していることが見られる。
 「公民権法」と「投票権法」の通過から程なくして、黒人市民権運動の支持者の多く――白人であれ黒人であれ――はブラック・パワー運動に驚かされ、混乱させられ、または怒らされた。ブラック・パワーの主唱者たちは、市民権運動に特徴づけられるような統合主義的な目標や、白人リベラルの支援に依存することを批判した。彼らは白人たちとの連携を破壊し、黒人自身の文化や政治組織、政治的目標の特異性を肯定するよう黒人たちを鼓舞した。統合ではなく、離れたところで経済的、政治的エンパワメントを追求するように鼓舞したのである(Carmichael and Hamilton,1967;Bayes,1982,chap.3;Lader,1979,chap.5;Omi and Winant,1986,chap.6)。1960年代後半以降、多くの黒人達は、市民権運動の統合の成功は、結果的には、黒人‐白人間の恨みを軽減したりチャンスの扉を開くのではなく、むしろ黒人に組織された社会的経済的制度の基盤を分解する効果を持つ、ということを指摘してきた(Cruse,1987)。個々の黒人たち幾人かの暮らしは、そうした変化が起こらなかった場合よりも良くなったが、集団としては良くなっていないし、むしろ悪くなった。というのも、アメリカの中産階級に同化することに成功した黒人たちは、もはや下層階級の黒人たちと密接に連帯しなくなるからである(Wilson,1978を参照)。
 多くの黒人政治家たちが、経済的・政治的な用語で語られる同化理念を問題にしてきた一方、過去二十年、黒人によってアフリカ系アメリカ人文化の種差性が肯定され賞揚されてきたように思われる。アフリカ系アメリカ人の歴史の回復と再評価として、そして、新しい形態の文化の創造において。「ブラック・イズ・ビューティフル」のスローガンは、第5章で論じたように、人種差別主義の強力な再生産者であり続けている広く受け容れられた身体美学を深く動揺させ、アメリカ人の意識を串刺しにした。アフリカ系アメリカ人の髪型は、ダサい〔less stylish〕わけではなく別のカッコ良さがある〔stylish〕ことの宣言となった。言語理論家は、黒人英語が悪い英語ではなく、異なった仕方で構成された英語であり、黒人の詩人や小説家はその特異なニュアンスを開発し、探究しているということを認めた。
 1960年代後半にはブラック・パワーのひそみにならってレッド・パワーが現れた。アメリカ・インディアン運動とその他のアメリカ・インディアンのラディカルな組織は、二十世紀を通して白人−インディアン関係を支配してきた同化目標を、おそらく黒人たちよりも激しく、拒絶した。彼らはインディアンの土地に対する自治を主張し、インディアン問題当局のなかでインディアン自身の声の優位性を獲得し、それを保持するために闘った。アメリカ・インディアンは、自身の言語や習慣や工芸を回復し保存することを求めてきたし、またこの伝統文化への一新されたプライドが分離主義的な政治運動を促進してきた。土地の権利主張を追及する欲求や保護されるべき資源へのコントロールを求める闘いへの欲求は、部族的な自決権へと激しく関与してきたものに由来し、インディアンの政治的・経済的基盤を白人社会ではないものに置いて発展させ維持しようという欲求に由来する(Deloria and Lytle,1983;Ortiz,1984,pt.3;Cornell,1988,pt.2)。
 だが、抑圧され、不利益を被っている人々や特に有徴化された集団が自らの文化的・経験的特異性を自立的に組織し、その肯定的な意味を主張するとことに関して、1970年代と1980年代の政治のなかに広がっていた傾向については二つの例がある。スペイン語を話すアメリカ人の多くは、アメリカ社会への完全な参加は、言語的・文化的同化を要請するという伝統的な前提を拒否してきた。最近20年間、その多くは、一新された利害と、プエルトリコ、チカーノ、メキシコ、あるいは他のラテン・アメリカの遺産に対するプライドを発展させてきた。彼/彼女たちは自らの特別な文化を維持し、自分の言語を語る権利、選挙権、義務教育、職業選択機会といった市民の持つ権益を受け取る権利を主張してきた。ユダヤ系アメリカ人の多くも同じく、同化理念を拒否し、その代わりにユダヤ的なアイデンティティ特有の肯定的な意味を主張し、キリスト教文化は規範として受け容れられなくなってきていると公的に主張している。
 1960年代後半以降、ゲイの文化表現、ゲイ組織、そして行進や他の会議などにおいてゲイたちが華々しく公的に現前するようになったことは、若い人々がセクシュアル・アイデンティティを持つに至る環境を根本的に変え、ホモセクシュアリティに対する多くの人々の認識を変えてきた。初期のゲイの権利擁護運動は、同化主義的かつ普遍主義的な指向性をはっきりと持っていた。その目標は、ホモセクシュアルであることへのスティグマを取り除くこと、制度的差別を防ぐこと、そしてゲイの人々が他の誰とも「違っていない」という社会的承認を得ることだった。しかし、差別や警察の嫌がらせに抗して市民権を獲得するための政治的組織化のプロセスは、ゲイとレズビアンの共同体や文化表現の展開を促進した。そうした文化表現は、1970年代中盤には、集会の場所や組織、文学、音楽そして大規模なストリートでの行事のなかで花開いた(Altman,1982;D'Emilio,1983;Epstein,1987)。
 今日では、ゲイやレズビアン解放擁護者のほとんどは単に市民権を求めるだけではなく、ゲイ男性とレズビアン女性を、固有の経験と見方を持った社会集団として肯定することを求めている。支配的文化による健康なセクシュアリティや望ましい家庭生活、望ましい社会的実践といったものの定義を受け入れることを拒否して、ゲイとレズビアン解放運動はそれらとは異なった自己定義と文化を堂々と創出し、提示してきた。ゲイ男性たちとレズビアン女性たちにとって、人種的統合と類似するのが、いかなる行為も私的なものに留まる限り容認する、というセクシュアリティに対する典型的な解放アプローチである。〔それにたいして〕ゲイ・プライドは次のように主張する。すなわち、セクシュアル・アイデンティティは、単にある「行為」が容認されるべきか禁止されるべきかという問題ではなく、文化と政治の問題なのだ、と。
 女性解放運動もまた、様々なかたち〔versions〕でそれ固有の差異の政治を生み出してきた。19世紀に支配的であり、1970年代後半までの現代の女性運動の中でも支配的だった人間主義的フェミニズムは、女性と男性とのあいだの差異の主張の中に、単なる女性抑圧の遺産しか見ないし、社会的に価値があるとされる人間の活動から女性を排除し続けることを正当化するイデオロギーしか見ない。人間主義的フェミニズムはしたがって、性の平等をジェンダー盲目性と同一視する点、女性と男性を同じ基準に従って評価し、同じ方法で扱うことと同一視する点で、同化理念と類似している。じっさい、多くのフェミニストたちにとって、両性具有が性的解放理念――ジェンダーの差異そのものが消去されているような社会――の名である。このような性的平等のビジョンに力強さともっともらしさがあったとしても、それはフェミニストもまた差異へと方向転換し始めており、女性の経験と価値の肯定性と固有性を主張し始めている今では争点を曖昧にするものになった(Young,1985;Miles,1985を見よ)。
 フェミニスト分離主義がそうした女性中心主義の最初の表出だった。フェミニスト分離主義は、全面的にであれ部分的にであれ、男性−支配的な世界に参入するという目標を拒否する。というのも、その参入は、男性が作り、女性に対して使われてきたルールに従って行動する〔play〕ことを要求するからであり、また、男性に定義された基準に達しようとすることは、制度や活動の社会的価値を支配し続ける男に適応し、男を満足させることを不可避的に含んでいるからである。分離主義は、自己組織化――女性達が自分たちの経験を分かち合い、それを分析し、怒りを声に出して言い、互いに楽しみ合い〔play〕、互いの絆を生み出し、新たなより良い制度と実践を発展させることができるような、分離された安全な空間の創出――を通じて、女性のエンパワメントを進めた。
 現代の女性運動の要素の多くは、ある程度は分離主義的なものである。自分たちの生活の大部分を、可能な限り女性だけの制度のなかで送ることを目指した分離主義者たちは、女性の文化創出の大きな原因となった。音楽、詩、スピリチュアリティ、文学、儀式、フェスティバル、ダンスといった形での女性の文化は、1970年代中盤に合衆国全土に突如出現し、以後多くの女性たちの忠誠心を集め続けている(Jaggar、1983、pp.275-86を見よ)。アマゾン族のような〔男勝りのAmazonian〕威光のイメージを描くにしろ、キルトやウェービングといった伝統的な女性の芸術を復興して再評価したり、中世の魔法に則った新しい宗教儀礼を発明するにしろ、そうした女性文化の表現の発展は多くのフェミニストたちに、資本主義的家父長制によって定義された女性的うるわしさの完全に外部で、女性−中心的な美と力強さのイメージを与えたのである。分離主義の衝撃はまた、多くの女性による自律的な制度の展開を促進し、フェミニストであるか否かに関わらず、多くの女性たちの生活を具体的に改善するサービス――健康サービス、診療サービス、暴力を受けた女性の避難所、強かん緊急相談センター、そして女性の喫茶店や書店――を助成した。
 1970年代後半には、フェミニスト理論やフェミニスト政治分析も人間主義的フェミニズムから方向転換し、伝統的な女性の活動は女性を犠牲者化しその人間的な能力の歪曲を第一に表現するという前提に疑問を投げかけはじめ、現在は男性によって支配されている公的制度へ女性も平等に参加するという女性解放の目標を疑問視するようになる。伝統的な女性性に結びつけられてきた活動や価値の多くは、女性の真の人間としての潜在能力を歪曲し疎外するという理解の代わりに、この女性中心的な分析はケアリングや子育て、そして社会関係に対する協同的アプローチを再評価することを目指し、それらを女性的社会化に結びつけて基礎づけようとする。そして女性固有の経験のなかに、男性中心的西洋資本主義文化の支配的な態度よりも健康的な、身体と自然に対する態度の基礎を探し求めた。
 集団の特異性を肯定的に主張する社会運動はどれも、実際は一つの単一体ではない。すべての集団が、その集団そのもののなかに差異を持っている。たとえば黒人運動は、中産階級の黒人と労働者階級の黒人、ゲイやストレート、男性と女性といったように、それ以外の集団を含んでいる。社会集団における集団の差異の意味は、女性運動において最も体系的に議論されてきた。フェミニストの会議や出版物は、しばしば感情的な捩れもあったが、女性たちのあいだにある人種的・民族的な盲目性による抑圧について、そして集団の差異に注意を払うことの重要性について議論することを通じてとりわけ豊かな成果を生み出してきた(Bulkin,Pratt,and Smith,1984)。こうした議論から、一般的なフェミニストの言説のなかでは語られてこなかった個々の声を集団としてもっている、と主張することが理に適っていると考える黒人女性、ラティーノ女性、ユダヤ人女性、レズビアン女性、異なった能力を持つ女性、老いた女性、そしてその他の女性たちのための自律的組織を提供するという原理にそった努力が現われてきた。各々異なった同一化をする女性集団間の議論と相互作用を構造化するために作られたフェミニストの実践に沿って、これらの議論は異種混交的な公共権を展開するための最初のモデルをいくつか提供している。他の社会運動もまた、それぞれその運動の同一性を横断し、連合と連帯の別の可能性へと導くような集団の差異についての議論を生み出してきた。

差異の政治を通じた解放 Emancipation Through Politics of Difference

 集団の差異の肯定的な意味を主張する解放運動に内在しているのは、民主主義的文化多元主義とでも呼びうるような別のレベルの解放〔liberation〕である(Laclau and Mouffe,1985,pp.166-71:Cunningham,1987,pp.186-99;Nickel,1987)。この見方では、良い社会とは集団の差異を消去も超越もせず、むしろ、相互に尊重しあい、互いにその差異を肯定しあうような社会的かつ文化的に差異化された諸集団のあいだに平等が存在するような社会である。では、同化主義的理念を拒否して差異の政治を促進するための理由とはなにか?
 第二章で論じたように、社会集団の現実存在を否定する人びとが存在する。彼らにとって、集団の差異は少数者の特権を保存するために産み出され、永続化されている不愉快なフィクションである。Wasserstormのように社会集団が現存し、自分自身を互いにアイデンティファイしあう人びとのやり方にとって実際に社会的帰結を持つ集団が存在することに同意する人びともいるが、彼らも、そのような社会集団の差異は望ましくないと主張する。同化主義的な理念は社会集団の現実性を拒否するか、その望ましさを拒否するかのいずれかである。
 差異の政治を促進する人びとは、集団の差異が存在しないような社会が可能であり望ましい、という見方を疑問視する。近代化理論の前提に反して、ますます高まる都市化とすべての集団に対する平等で形式的な権利の拡張が、個別主義的な併合〔affiliations〕への凋落を導くことはない。どんなものであれ、社会的過程を近代化してゆく都市への中心化と集団間の相互作用は、集団の連帯と差異化を強化する傾向にある(Rothschild,1981;Ross,1980;Fischer,1982)。特定の伝統や実践、言語やその他の文化的に固有の形式へと結びつくことは、社会的実在の重要な一側面である。人びとは通常、たとえ対立しているときでさえ、自分たちの社会集団のアイデンティフィケーションを諦めたりはしない。
 しかし、長期的に見て、社会集団の差異を消去することがはたして可能であるかあるいは望ましいかということは学問的な問題である。今日そして予見しうる未来、社会は確実に集団によって構成されているだろうし、その一部が特権化され、残りの集団が抑圧されているだろう。集団的固有性に関わる新しい社会運動は、差異を消去してすべての人を同じ者として扱う解放理念が排除された集団の地位に大きな改善をもたらした、という公式の物語の主張を否定するわけではない。主な争点は、この物語の帰結、とくに、私たちが形式的平等を達成しても、差異化された特権の痕跡と遺物だけは残っているという点にある。個々人の人生設計にとってそうした差異を関与させない、という社会関係についての理念を粘り強く主張し続けることで、そうした特権は死に絶えるはずだったのに、である。形式的平等の達成は社会的な差異を消去することはないし、人の同じ面〔sameness〕へのレトリカルなコミットは、そうした差異がどのようにして現在特権と抑圧を構成しているかを名指すことすら、不可能にしてしまう。
 多くの側面で、法は今や集団の差異には盲目であるが、ある集団は逸脱し、「他者」として有徴化され続けている。日々の相互行為やイメージ、決定において、女性や黒人、ヒスパニック系、ゲイ男性やレズビアン女性、老いた人びと、そしてその他の有徴化された集団についての前提が、排除や無視、パターナリズムそして権威主義的な扱いを正当化し続けているのである。人種差別主義的で性差別主義的、ホモフォービックで年齢差別主義的、そして健常者至上主義的であり続けているような制度と振る舞いが、そうした集団に対する特定の状況、通常そうした人びとが能力を発展する機会の点で不利益を被らせるような状況を産んでいる。最後に、一部はそうした人びとが互いに隔離されてきたという理由から、一部は彼/彼女たちが固有の歴史と伝統を持っているという理由から、社会集団のあいだに文化的な差異が存在するのである。この差異は、言語や生き方、身体装飾や身振り、価値そして社会に対する視点において存在する。
 今日、アメリカをはじめとした多くの社会では、誰もその特徴に帰せられるような理由で政治経済的な活動から除外されるべきではないという同意が広く行きわたっている。にもかかわらず、集団の差異は実在しつづけており、特定の集団は特権を得つづけている。こうした状況において、平等と解放は差異を無視することを含意すると主張することは、三つの面で抑圧的な帰結をもつ。
 第一に、差異に対する盲目性は、特権集団とは異なった経験や文化そして社会化された能力をもつ集団に不利益をもたらす。同化主義の戦略は、排除された集団を形式的にメインストリームへともってゆくことを目指している。従って同化はいつも、すでに始まった後でゲームに参入することを意味しており、ルールや基準がすでに据えられた後で、そうしたルールや基準に従って自分自身を証明しなければならないことになる。同化主義的戦略においては特権集団が暗に基準を規定しており、全員がその基準に従って測定評価されるべきだとされる。彼らの特権がそうした基準を文化的で経験的に特殊なものとして認識することを含んでいないため、共通の人間性という理念――そこにはすべての人びとが人種やジェンダーや宗教あるいはセクシュアリティに関係なく参加しうると想定される――が中立的で普遍的なものとして提唱されるのである。しかし抑圧された集団と支配的な規範とのあいだにある現実の差異は、そうした基準に則って測定評価することにおいて、抑圧された集団を不利な状況に置く。同化主義的な政治がその不利を永続化するのはこのためである。この章の後半と第7章で、私は、すでに不利を被っている人びとに不利に働き、あるいはその人びとを排除するような見かけ上は中立な基準の例を挙げたい。
 第二に、社会集団の差異を欠いた普遍的人間性の理念は、特権集団に自分達自身の集団の特殊性を無視させる。差異に盲目であることは、特権集団の見方と経験を中立的かつ普遍的なものとして規範を表現することを可能にすることで、文化帝国主義を永続化させる。同化主義的理念は、人間性一般といったものが存在し、自己形成するための位置づけられない、集団中立的な人間の能力――個性を開花させ、個人を各々異なっていることを保証するような能力――が存在するということを前提にする。第4章で論じたように、どこにも位置づけられないような集団中立的な観点が存在しないからこそ、支配集団の状況と経験は、人間性一般といった規範を定義するようになってしまうのだ。抑圧された集団だけが個別性を刻印されるようになるのは、そのように想定された中立的な人間性の理念に反するからである。特権集団ではない人びとは有徴化されて、「他者」として対象化されるのである。
 かくして第三に、疑わしい中立的基準から逸脱する集団に対するこうした侮辱は、しばしば当の集団自身のメンバーに、内面化された劣等感を産み出してしまう。誰もがそれに従って等しく評価されるべき一般的な人間の基準の理念が存在する時でさえも、プエルトリコ系あるいは中国系アメリカ人たちはそのアクセントや自分自身の良心を恥じ、黒人の子供達は男性支配的な同胞や隣人の親戚関係を軽蔑し、フェミニストたちは泣きがちな傾向、あるいは挫折した人に対して共感する傾向のルーツを探し当てようとした。同化への熱望は、自己嫌悪や抑圧についての二重意識を産み出すことを助長する。同化という目標は、人びとを「適合する」という要求、つまり振る舞いや価値や目標といった点でメインストリームの人のようになるという要求に縛りつける。同時に集団の差異が実在するかぎり、集団のメンバーは異なったもの――黒人、ユダヤ人、ゲイといったように――として、そして適合することが端的に不可能な者として有徴化されるだろう。参加が同化を意味するとされると、抑圧された人びとは解決不可能なジレンマに捕らえられる。すなわち参加することは、その人が現在そうではないアイデンティティを受け入れ、採用することを意味するが、参加しようと努力することが意味するのは、自分自身と他人によって、その人が現在そうであるところのアイデンティティについて思い出させられることになるのである。
 同化主義的理念のより詳細な分析は、同化のなかでも調和主義的な同化理念と変革的な同化理念とを区別するかもしれない。調和主義的な理念においては、現状制度と現状規範は所与とされ、そうした規範から異なった不利益を被っている集団が、それらの規範に調和することを期待される。他方、同化の変革的理念は、所与の制度が支配集団の利害と見方を表現しているということを認識する。同化を達成することとは従って、いかなる人にも本当に不利益を与えず、スティグマ化しないような中立的なルールに整合するように様々な制度や実践を変革することを要請する。それによって集団のメンバーシップは、事実上、その人が扱われる仕方には関係なくなる。集団中立的理念を主張する何人かのフェミニスト(Taub and Williams,1987)と同じく、Wasserstormの考えは変革主義的同化主義にあたる。調和主義的な同化主義者とは違い、変革主義的な同化主義者はアファーマティブ・アクション積極的差別是正措置など集団に特化した政治を、同化主義的な理念に適合するように制度を変革するための必然的かつ適切な手段である、と見なす。しかし、調和主義であれ変革主義であれ、同化主義的な理念は、集団の差異が肯定的で望ましいものであり得るということを依然として否定している。つまり、いかなる形態を有していても同化主義の理念は、集団の差異を負担あるいは不利として考えるのである。
 こうした状況のなかでは、集団の差異の肯定性を主張する政治は、解放的であり力づけるものである。支配文化が彼/彼女たちを軽蔑するように教えたアイデンティティを再び利用する〔reclaiming〕行為の中で(Cliff,1980)、それを称賛すべきアイデンティティであると主張することで、抑圧された人びとは二重意識を取り除く。私は、まさに彼/彼女らがそうだと言う者――ユダヤっ子、色つき女、ホモ、レズ、ブス――に他ならない、そしてそれを誇りに思う。その人がそうであるところの者だ、ということを銘記させようとするような状況で、何か自分ではない者に成ろうと試みることは誰にも不可能である。この政治は、抑圧された集団は人間的に肯定的な意味のある異なった文化や経験、そして社会生活に対する見方を持っており、そのいくつかはメインストリームの社会の文化や見方よりも優れている、と主張する。ある文化やものの見方に対する拒否と価値剥奪〔devaluation〕が社会生活への完全な参加の条件になるべきではない。
 さらに、抑圧された集団の文化や属性の価値と特殊性を主張することは、支配文化の相対化を帰結する。フェミニストが女性的な感受性の妥当性や子育て行為の肯定的な意味を主張したとき、ゲイがホモセクシュアルに対する偏見をホモフォービックとして記述し、自身のセクシュアリティを肯定的で自己を進歩させるものとして描写したとき、黒人がアフリカ系アメリカ人の伝統の種差を肯定したとき、支配的文化はまず最初に自分達を、アングロ、ヨーロッパ人、キリスト教の男性中心主義的ストレートという特殊なものとして発見するよう強いられたのである。抑圧された集団が自身特有の文化や経験の肯定的な意味を主張するような政治闘争においては、支配集団が自分たちの規範を中立的で普遍的なものとして見せたり、抑圧されている人びとの価値や行為を逸脱し異常であるいは劣ったものとすることはますます困難になる。ある集団を除外し、彼/彼女たちを「他者」へと変えるような普遍主義的な統一性の主張を切断することによって、集団の特異性を肯定する主張は、諸集団間の関係を排除や対立あるいは支配ではなく、単に異なったものとして理解する可能性を切り拓く。
 差異の政治はまた、リベラル・ヒューマニズムの個人主義に反対して集団的連帯の考え方を推し進める。リベラル・ヒューマニズムは個々の人を個人として扱い、人種や性、宗教や民族といった差異を無視し、各々の人はただ彼あるいは彼女の個人としての努力と達成に従って評価されるべきだ、とする。形式的平等の制度化にともない、以前は排除されていた集団の成員のうちの何人かは実際メインストリームの基準に従って成功してはいる。にもかかわらず、構造的な集団の特権化と抑圧パターンが残存しているからこそ、抑圧された集団の政治指導者たちが同化を拒絶するとき、彼/彼女たちは、しばしば集団の連帯を肯定するのである。支配文化が自律した個人の達成以外のものを見ることを拒否するようなところで、抑圧された人びとは次のように主張する。すなわち、私たちは自分達が白人アングロサクソン男性世界のなかで「生き抜く〔make it〕」ためにアイデンティファイする人びとから切り離されるべきではないのだ、と。差異の政治は黒人、女性、アメリカ・インディアンたちの集団全体の解放を強調し、それが基本的な制度の変革を通じてのみ達成可能であると強調する。そうした変革は、政策決定における集団的代表制と、すべての人びとに僅かな頂点の位置への競争を強いているような報酬のヒエラルキーの除去を含まなければならない。
 かくして、集団の差異の肯定的な意味の主張がもたらすのは、現行の制度と規範を批判するような一つの立場である。黒人アメリカ人はメンバーを「ブラザー」とか「シスター」などと呼びあう自身の伝統的なコミュニティを発見し、白人専門職資本主義社会の打算的な個人主義にはない連帯の意味を発見する。フェミニストは子育てという伝統的な女性の価値のなかに、軍事主義者の世界観に対する挑戦を発見し、レズビアンは彼女たちの関係性にセクシュアルな関係性における相補的なジェンダー役割という前提に対立するものを発見する。土地に結びついた文化経験から、アメリカ・インディアンは、汚染と生態的破壊へ至る西洋文化の道具的理性に対する批判を定式化する。普遍性や中立性を称していた支配的な規範の特殊性を再評価することで、抑圧された人びとの社会運動は、支配的な諸制度がもはや特権と抑圧のパターンを再生産しなくなるようにそれを変革すべき方法を探究することができるのである。
 肯定的な差異の主張からは、抑圧された集団の自己組織が帰結する。リベラル・ヒューマニズムも左派政治組織や政治運動もこうした集団的自律の原理を受けいれることに困難を覚えてきた。ヒューマニスト人間主義的解放政治においては、一つの集団が不正義を被るとすれば、正しい社会に関心のある人はすべて、その不正義を永続化しようとする権力と戦うために団結すべきである。もし多くの集団が不正義を被っているならば、なおさら人びとは正しい社会にむけて働きかけるために団結すべきである。差異の政治も確かに連合に反対はしないし、たとえば白人は人種的不正義に対抗して動くべきではないとか、男は性差別主義的な不正義に対抗すべきではない、などとは考えない。しかし集団肯定的な政治がその基本原理として考えるのは、抑圧された集団がそれ以外の人びと――とりわけより特権的な集団の人――を除外した独立した組織を必要とする、ということである。そうした集団が二重意識を破壊し除去するために、自身の特別な経験の肯定性を発見しそれを強めるという目的にとっては、おそらく独立した組織が必要になるだろう。自律的組織での議論のなかで、集団のメンバーはその特異な必要と利害を規定することができる。独立や自己組織は集団自身の均質化へ向かうような圧力を生み出す危険があるし、第8章で論じることになる問題だが、新たな特権や排除を産み出す危険がある。しかし現在の解放的な社会運動は、集団の自律性を、集団に特化した声と見方に力をつけ、それを展開させるための重要な媒介であると考えてきた。
 社会の全生活への統合は、支配的規範への同化や集団的な所属や文化の廃棄を意味するべきではない。もし、支配集団によって「他者」とされたある集団の抑圧的排除に対する唯一のオルタナティブが、彼/彼女たちも他の人びとと同じであるということの主張であるなら、当の集団は、同じではないことを理由にして排除され続けることになるだろう。
 私が描いてきたような、解放の同化主義的理念と根源的民主主義的な多元主義とのあいだの分割法には反対する人もいると思う。そうした人たちは、私が集団の差異を公平な仕方で超越するような社会の理念を描かず、それを均質で調和主義的なものとして表象してきたのだ、と言う。彼/彼女たちはおそらく、リベラリズムによって思い描かれているような自由な社会は確実に多元主義的だ、と言うだろう。そこでは人は、その人が選ぶ人の誰とであれ、同盟することができる。自由はライフ・スタイル、行動、組織の増殖を促進する。この意味では、社会的な多様性について異論はないが、このリベラル多元主義の見方は差異の政治をもたらす主要な問題に手を触れない。集団的差異を超越するような解放ビジョンは、個人的・集団的差異の多様性を、私的で非政治的な社会的文脈では保持し促進するが、集団的差異の公的・政治的重要性は無視しようとする。第4章で論じたが、公的なものは普遍的市民権を代理表象し、私的なものが諸個人の差異を代表するといった仕方で公的領域/私的領域を区別することは、結果的に公的な領域から集団を排除する傾向を持つ。根源的民主主義的な多元主義は、公共圏と社会集団の差異の政治的重要性を、社会的・政治的諸制度へのすべての人びとの参加と包摂を保証する手段として、認識し肯定する。

差異の意味を取り戻す Reclaiming The Meaning Difference

 私が論じてきた運動の内部でも外部でも、多くの人びとがリベラル人間主義的な理念の拒否を見い出し、集団的な差異の肯定的な意味の主張が混乱させるものであると同時に論争提起的なものであることを悟っている。彼/彼女たちが怖れているのは、被抑圧集団は支配集団と異なっているのだということの被抑圧集団による承認がすべて、新たな従属や特別な有徴化、そして当の集団の排除を正当化してしまう危険性があるという点である。女性をキッチンへ引き戻し、黒人たちを奴隷役割や隔離された学校へ引き戻し、障碍者を施設へと引き戻そうとする要求が現代政治にいまだ存在するがゆえに、この危険は現実的なものである。誰もを同じ者として扱い、全ての人に同じ基準を適用するという同化主義的理念が依然として不都合であるというのが正しいとすれば、それは、現実には集団的差異が不公平にも等しからざるものを比較させ続けているからである。しかし、集団の差異に基づいて異なった諸集団に対する隔離的領域や不平等な領域を再び確立することが正当化されるのは、もっと望ましくない。
 そうした集団の特殊性の肯定的主張はたしかに、全ての人びとが等しい道徳的価値を持つというリベラル人間主義者の原理を肯定しようと望んでいるが、だからこそ、彼/彼女たちはジレンマに直面するようになる。文化的多元主義に関するW.E.B.デュボイスの議論を分析しながら、Bernard Boxillはジレンマを次のようなやり方で提示している。すなわち、「一方では、私たちは隔離を克服しなければならない。なぜならそれが人間の友愛〔brotherhood〕の理念を否定するからだ。だが他方、隔離を克服するためには私たちは自己−隔離せざるを得ないし、したがってまた、人間の友愛の理念を否定しなければならない」(Boxill,1984,p.174)。Martha Minowは、差異のジレンマとは、現在抑圧され不利を被っている集団のために正義を促進しようとする者誰もが直面するジレンマであると見ている。集団の差異を無視するような形式的には中立的なルールや政策は、その差異が逸脱として規定されてしまっている人々に対する不利益を永続化させることがある。だが、差異に焦点を当てることは、その差異がかつて帯びていたスティグマに再び力を与える危険がある(Minow,1987,pp.12-13;cf.Minow,1985;1990)。
 こうしたジレンマは真のものであり、集合的な生活の危険性を曝露する。そこでは、他の人びとがその人の主張や活動、そして政策を違ったふうに理解するかあるいは違った目的に向けてしまうがゆえに、その帰結はその人が意図したものには至らない。公共政策における集団の差異の無視が意味しているのは、人々がそうした差異を日常生活や相互行為のなかで無視しているということではない。むしろ、法や政策は、誰もが平等だと宣言しているのに抑圧が続いているということである。したがって私は、多くの集団にとって、そして多くの状況において、すでに社会的生活の中で実在している集団の差異を、政治的な生活のなかで肯定しそれを認知することのほうが、より力を与える〔empowering〕と考える。差異の意味そのものが政治的抗争の一つの領域になれば、差異を肯定しそれを認知することで人は差異のジレンマを避けるようになる。社会運動が主張する集団の差異の肯定性は、このような領域を確立してきたし、古い排除的な意味に代えて差異の解放的な意味を提唱している。
 集団の差異の抑圧的な意味は、そうした差異を絶対的な他者性、相互的排除、カテゴリー的な抑圧と規定する。こうした本質主義的な差異の意味は、アイデンティティの論理に従っている。ある集団が規範の位置を占め、それに対して他の全ての集団は測定される側の位置を占める。全ての人びとを共通の尺度の単一性に還元しようとする試みは、規範のなかで暗に前提されている集団-特有の属性とは違う属性を持った人を逸脱として構成することになる。様々な実践や文化的シンボル、そして明瞭判明なカテゴリーに関係するやり方の個別性と多様性を統一化しようとする渇望は、差異を排除にする。
 さて、私は前の二つの章で、社会的特権集団による普遍的な主体位置の占有が、いかに彼/彼女たちが異なったものとして規定する人びとを充全な人間性や市民権の定義の外部に押しやるのか、ということを探究した。全ての人びとをいくつかの普遍的基準に照らして測定しようという企図は、ヒエラルキー的な二項対立としての差異の論理を産出する。すなわちマスキュリン/フェミニン、文明/野蛮等々。この二番目の項は、真の人間的な特質の欠如として否定的に定義される。同時に、それが価値付与された〔一番目の〕項の代補として定義されている。その主体と関係づけられた客体、それが主体のほうに完全な形、全体性そしてアイデンティティをもたらすのだ。男性を愛し肯定することによって、女性は男性の鏡としての役を果たし、彼の美点徳目を彼にとって見えるように固定する役を果たすのである(Irigaray,1985)。野蛮人を飼い馴らし教育するという白人男性の重荷を背負うことによって、文明人は普遍的な人間性を実現することになる。エキゾティックなオリエントは、知るべき、支配すべき場所であり、世界の統一化を目指す理性の進化が歴史のなかで完成される場所となるべきなのである(Said,1978)。どんな場合でも、価値を付与された項はその価値を達成獲得するのに、「他者」との規定的否定の関係によっているのである。
 人種差別主義、性差別主義、反ユダヤ主義そしてホモフォビアといった対象化するイデオロギーにおいては、抑圧され排除された集団だけが、異なったものとして規定される。特権集団はニュートラルで自由で順応性のある主体性を示している一方で、排除された集団は、一つの本質を刻印され、所与の可能性の集合のなかに閉じ込められる。集団の特性が自然に所有されていると主張することで、このイデオロギーは、そうした集団のメンバーがいくつかの活動に彼/彼女たちだけを適合させるような特定の傾向性をもっている、と主張する。このようなイデオロギーにおいては差異は通常、規範にとって排除されるべきものを意味する。合理的男性がまず存在し、それから女性が存在する。文明化された男性がおり、野蛮な人びとが存在する。差異を刻印することは、つねに善い/悪いの二項対立を含意しており、差異はつねに価値を低く見積もられ、人間性という優れた基準との関係で劣ったものを名づけるものである。
 差異はここではつねに絶対的な他性を意味している。異なったものとして有徴化された集団は、正常あるいはニュートラルな集団とは何の共通の本性も持っていない。集団のカテゴリー的な対立が、彼/彼女たちを本質化し、集団内の差異を抑圧する。こうしたやり方で、排除と対立としての差異の定義は、実際には差異を否定するのである。この本質化するカテゴリー化はまた、集団の特異性を承認し肯定することを自分たちの言葉で予め排除するような普遍化する規範において、差異を否定してもいる。
 差異を本質化することは特異性への恐怖を表現しており、自分自身と他者との間のカテゴリカルな境界線が相互に浸透することを可能にするものへの恐怖を表現している。この恐怖は、前章で論じたように、単に知的なものではないし、特権を守ろうという道具的な欲望からのみ由来するものでもない――もちろんそれが大きな要素になってはいるのだが。この恐怖はとりわけ西洋的主体のアイデンティティ感覚という深いところからくるものであって、特権集団の主体性にのみ由来するのではない。さらにこの恐怖は、明確な差異の本質主義が弱くなるに従って、また女性や黒人あるいはホモセクシュアルの本性への信念を弁護できなくなればなるほど、強まるだろう。
 差異の政治はこの恐怖に対抗して、人をまっとう〔straight〕に保っている境界線が、実は曖昧で関係的、変動的で明瞭さを欠いており、それが無規定の統一性も純粋な個体性も必要としないということを理解させることを目的にする。自身のアイデンティティの肯定的な意味を主張することで、抑圧された集団は、差異そのものを名指す力を掴むことを求め、差異を規範との関係で劣ったものとしているような暗黙の定義を破壊することを求める。そうした規範がある集団を自己-封殺的な本性へと縛り付けているのだ。差異はいまや他者性や排除的な対立ではなく、特異性やバリエーション、そして異種混交性を意味するようになる。差異は、一貫したアイデンティティにも、〔互いに〕重なり合うことのないような他者性にも還元され得ないような類似性と異他性の関係を名指す。
 対立としての差異という本質化してスティグマ化するような差異の意味に対するオルタナティブは、差異を特異性(specificity)、バリエーションとして理解することである。この論理においては、Martha Minowが示すように(1985,1987,1990)、集団の差異は実体的なカテゴリーや属性によって規定されているのではなく、関係的なものとして理解されるべきである。差異を関係性として理解することは、特権を付与された集団の一見普遍的に見える立場を相対化する。そうした立場は、抑圧された人々を異なったものとして有徴化させているだけである。差異が諸集団間の比較の機能として見なされるようになると、白人も黒人やラティーノと全く同じ特異なものとなり、男が女性と同じく特異なものになり、できる身体を持つ人びと〔able-bodied people〕も障碍を持つ人びとと同じく特異なものになる。差異はしたがって、集団の属性の記述ではなく、集団間の相互関係や、制度と集団との相互関係の一機能として現われるのである(cf.Littleton,1987)。
 このような関係的な理解においては、差異の意味もまた文脈化されることになる(cf.Scott,1988)。集団の差異は、多かれ少なかれ比較する者の観点と、比較という目的に依存する。こうした差異の文脈化された理解は、本質主義者の仮定を土台から突き崩す。たとえば、アスレティックやヘルスケア、社会的サービス支援等々の文脈では車椅子の人びとはそうではない人とは異なっているが、それ以外の多くの面では彼/彼女たちは異なる者ではない。障碍者に対する伝統的な扱いが排除と隔離を伴っていたのは、障碍者と健常者とのあいだの差異が、全ての能力あるいはほとんどの能力にまで拡張されて概念化されていたからである。
 つまり一般に、集団の差異の関係的理解は排除を拒否するのである。差異はもはや諸集団が相互に外的に存在するということを含意しない。諸集団間に差異が存在すると述べることは、相互に重なり合うことのないような経験が存在するということではないし、二つの集団が何も共有するものを持たないということでもない。現実の差異は親和性〔affinity〕や文化あるいは特権のなかにあるという仮定は、二項対立的カテゴリー化が打倒されるべきだということを意味する。異なった諸集団はつねに多くの面で類似しており、つねに様々な属性や経験そして目標を潜在的に共有しているのである。
 こうした差異の関係的理解は、集団のアイデンティティの意味も同じように再考することを伴っている。その経験や文化、そして社会的視点の肯定的な差異を主張することで、文化的帝国主義を経験してきた集団の社会運動は、彼/彼女たちが共通のアイデンティティを持っていることを否定し、また、誰がその集団に属して誰が属さないかをはっきり示すような固定された属性を持っていることを否定する。むしろ、集団を集団たらしめるものは、ある人々が別の人々に対して特定の親和性〔affinity〕を持つことになるような相互行為と差異化の社会的プロセスである(Haraway,1985)。所与の社会状況において、私の「親和的な集団」とは、私が一緒にいて最もくつろげる人びとのことであり、親密な人びとのことである。親和性は、ある共通の本性に従うものではなく、諸集団を互いに認識可能性において差異化するような、メンバー間での想定や情動的つながり、そしてネットワーキングの共通の仕方を示す名である。個々人の集団的な親和性の特徴は、社会状況に応じて変わるし、彼女あるいは彼の生活の変化に応じて変わるだろう。特定の社会集団へのメンバーシップは、何らかの客観的基準を満たすような関数〔function〕ではなく、そうした集団に対する親和性の主観的な肯定、当の集団の他のメンバーによるそうした親和性の肯定であり、他の集団にアイデンティファイする人々による、当の集団のメンバーシップに帰される属性の関数である。集団的アイデンティティは、諸個人が自分自身と他者を集団に沿ってアイデンティファイする流動的な過程から構成されており、したがって、集団的アイデンティティそのものは、社会的なプロセスによって流動し変化する。
 文化的帝国主義を経験する集団は、自分たちがそれを形成することから排除されているような支配的文化によって自らが対象化され、外部から劣った本質を刻印されていることに気づく。そうした集団による集団の差異の肯定的な意味の主張が解放的であるのは、それが当の集団による自集団の定義の取り戻し――所与の本質としてではなく、一つの創造であり、構築としての取り戻し――だからである。確かに集団のアフィニティという肯定的な要素を、それを本質化することなく分節化することは困難であるし、そうした運動がつねにそれに成功しているわけでもない(cf.Sartre,1948,p.85;Epstein,1987)。しかし彼/彼女たちは、お互いの似たような社会的状況や互いの関係性、社会生活に対する類似の認識と観点を記述する言語を発展させている。こうした運動が携わっているのは、それが文化を集合的選択の様式の一部と考えている限りにおいて、私が最終章で推奨する文化革命の企図である。女性文化やアフロ・アメリカン・カルチャー、アメリカ・インディアン・カルチャーは、自身の考え方を過去の文化表現に依拠しているが、そうした運動はかなりの程度、自意識的に自分達の集団の定義や示差的個別性を主張する文化を構築してきてもいる。
 差異とアイデンティティ、この両者の意味を文脈化することは、したがって親和的な集団の中にある差異を認識することをも可能にする。私たちの複雑で多元的な社会においては、あらゆる集団は、それを横断する集団的差異を持っており、それは、知と刺激、抗争と抑圧の潜在的な源泉になっている。たとえばゲイ男性が同時に黒人、金持ち、ホームレスあるいは老人等々でありうるし,そうした差異は、異なったアイデンティフィケーションやゲイ男性間の潜在的な抗争を産み出すと同時に、ある種のストレート男性との親和性を産み出すかもしれないのである。

政策における差異の尊重 Respecting Difference in Policy

 社会的正義の目的は、社会的平等であると私は思いたい。社会的平等はたしかに分配を伴っているが、平等は社会的財の分配だけを指すのではない。平等とは第一に、あらゆる人々の社会の主要な制度への完全な参加と包摂〔inclusion〕、そして、誰もが能力を発揮し選択を実現するための、すべての人々に対する実質的な機会の社会的支援のことを指している。アメリカ社会は、ゲイ男性とレズビアン女性という重大かつひどい例外があるにせよ、すべての集団の成員に対して形式的で法的な平等を制定してきた。しかし、多くの集団にとって、社会的平等は辛うじて地平線上に見える程度のものでしかない。社会的平等を目指す人びとは、その目的に最も適うのが集団−中立的な政策なのか集団−意識的政策なのかについて意見を異にする。そして、その意見の異同は、往々にして、当の政策が持つ理念が同化主義的か文化多元主義的か、ということに依っている。この節で私は、集団−意識的な社会政策の正義のほうに賛同し、そうした政策が今日の合衆国で争点になる三つの文脈について議論したい。それは、職場における女性の平等、英語以外の言語使用者の言語権、アメリカ・インディアンの権利である。それ以外の集団−意識的な政策カテゴリー、とくにアファーマティブ・アクション積極的差別是正措置については第7章で論じたい。
 集団−意識的な政策にとって、形式的平等という問題が生じるのは、第一に職場の文脈においてである。それは、政治的権力と関連し、その利用に関っている。私はすでに、集団中立的な政策よりも集団−意識的な政策のほうが望ましい理由の一つについては論じてきた。すなわち、普遍的に定式化された政策、つまり人種、文化、ジェンダー、年齢、あるいは障碍に対して盲目的な政策は、往々にして抑圧を解体するどころか抑圧を永続化させてしまうのである。たとえば、社会的位置をめぐる全ての競争者がそれに従って評価されるような普遍的に組織化された標準や規範は、支配集団に特化された規範的能力や価値、認知的スタイルや行為スタイルを前提していることが多く、したがってその他の人々には不利に働く。さらに、人種差別主義的、性差別主義的、ホモ・フォービック、そして年齢差別的な嫌悪とステレオタイプは、ある種の人々を低く見なして不可視化し続け、しばしばそうした人々を経済的・政治的相互作用のなかで不利な立場に置いている。抑圧された集団の個々の状況に注意を払う政策は、そうした不利益を相殺することができる。
 表面的には中立的な標準や政策がある集団に不利益を被らせている場合、その標準や政策を集団−意識的な政策に置き換えるのではなく、真に中立的なものにするために標準が再構築されるべきなのだ、と反論されるかもしれない。ある場合にはそれは適切かもしれない。だが多くの場合、集団に関連づけられた差異は、まったく中立的な組織を与えていない。ここで範例的なものとして引用できるのは言語政策であるが、これから私が短く論じるように、ジェンダー問題のいくつかもまたそうである。
 しかし、より重要なことは、被抑圧集団が被っている不利益のうちのいくつかは、集団の特異性を肯定的に公認することによってしか、政策の中で矯正され得ないということだ。ある集団をステレオタイプ化し、同時にその人々の経験を不可視化する文化的帝国主義の抑圧は、その集団の特異性に対する明確な注意と表明によってのみ矯正されうる。たとえば、黒人、ラテン系、インド系、アラブ系、アジア系の人々に対する抑圧的なステレオタイプを取り除き、彼らを白人と同じ役割のように描くことも、テレビ番組から人種差別主義を取り除くことにはならないだろう。彼ら自身の自己像から引き出された生活の仕方や、様々な状況での有色の人々の肯定的かつ興味深い描像は必然的に、そうした集団の現行のものよりも非常に積極的なものになる。
 こうした考察は、集団−意識的な正義の第二の根拠を作り出すのに加えて、抑圧と不利益に対する対抗運動におけるそうした正義の役割を作り出す。集団−意識的な政策が必要になるのは、集団の連帯を確固たるものにするため、つまり、より大きな社会のなかで不利益を被ることなく集団的な親和性を保証することを可能にするためでもある。
 いくつかの集団−意識的な政策は、同化という目的のための手段として理解され、したがって、集団−中立的な規範の一時的な派生物であると見なされる限り、集団の差異に何の社会的重要性も認めない同化主義的な理念とも整合的である。多くの人々は、積極的差別是正措置をこのように見なしており、私が論じるように、バイリンガル教育についてもこのように見なしている。しかし、文化多元主義的な民主主義の理念は、平等という目的のための手段としてだけではなく、社会的平等理念そのものに内在的なものとして集団−意識的な社会政策を支持する。集団は、特定の経験や文化、そして社会的貢献が公的に肯定され承認されない限り社会的に平等たり得ない。
 差異のジレンマが明らかにするのは、差異に注目することと、差異を無視することの両方に含まれる危険性である。差異を肯定することの危険性とは、集団−意識的な政策の実行がスティグマと排除を強化するかもしれないということである。過去、集団−意識的な政策は、差異があると規定された人々を隔離するために、そして、支配者集団が享受している権利と特権を受ける権利からそうした人々を排除するために使われた。民主主義的な文化多元主義の根本原理は、集団に特化された権利と政策は参加と包摂という一般的な市民権と政治的権利と両立すべきだ、ということである。かくして、民主主義的な文化多元主義は、権利の二重システムを必要とする。全ての人々にとって同じ一般的な権利システムと、より特化された集団−意識的政策と権利のシステムである。ケネス・カーストの言葉を借りれば、

平等な市民権という約束が達成される際、帰属への道は、文化的マイノリティ集団のメンバーにとって、二つの方向に開いている。より大きな社会の完全なメンバーとしては、どんなものにであれ参加する選択権を持つ。彼らはまた、そうした選択に対してペナルティを付されることなく、自身が属する文化集団のなかでの連帯を要求しつつ、内側から認められるべきである。

「文化的マイノリティ」が文化的帝国主義に対する集団主体という意味で解釈されると、この宣言は、女性、老人、障碍者、ゲイ男性とレズビアン女性、そして労働者階級の人々に対して適用されると同時に、民族的あるいは国民的集団に対しても適用されることになる。ここで私は、社会的平等を支援するために集団に特化された政策が必要となるような事例を三つ簡単に考察したい。それが、女性、ラテン系の人々、アメリカ・インディアンの事例である。
(1)女性の利害が最も促進されるのは、ジェンダー中立的ルールや政策を通じてなのか、集団−意識的なルールや政策を通じてなのだろうか? この問題は、近年フェミニストたちによって激しく議論されてきた。その成果となる論文は、平等とは同じであること〔sameness〕を意味するとする法や政策の支配的モデルの中にある決定的な問題を提起し、同一性〔identity〕を前提にしないような平等の意味の詳細な分析を試みている(Vogel,1990を見よ)。こうした議論のほとんどは、職場における妊娠と子産みの問題に焦点を当ててきている。
 妊娠に対する平等な処遇を求めるアプローチの主唱者は、女性の利害という目的に最も良く適うのは、ジェンダー中立的な休暇と扶助金のなかに妊娠休暇と妊娠扶助金を含めることを強力に進めることによってである、と論じている。ジェンダー中立的な休暇と扶助金政策は、男性であれ女性であれ働くことができない身体的状態に相関している。保護法の歴史は、女性が、雇用者と法廷に、女性の排除と不利益の言い訳としての特別な分類を使用しないよう、責任を課すことができないということであり、私たちがこうした排除から身を護る最良の方法は、中立的な政策である、ということを示している。しかしこうした平等処遇の擁護者でも、男性の生活を規範的なものと見なすジェンダー中立的政策は、女性に不利益を被らせているという点には同意している。Nadine TaubとWendy Willamsによれば、解決策は全ての労働者個々人の必要を認識し、それに適応するような職場における平等のモデルである。そうしたモデルが要求するのは、職場に関する政策のほとんどを再構成することである。
 私が見るところ、妊娠と子産みに対する平等な処遇を求めるアプローチが不適切なのは、それが、子供を持った女性はいかなる休暇の権利も職業安定の権利も持っていないということを含意しているからであるか、そうした権利の保証が、おそらく「障碍」というジェンダー中立的なカテゴリーに〔妊娠を〕同化しているからである。この同化が受け入れられないのは、妊娠と子産みが通常、普通の女性のノーマルな状態だからであり、妊娠と子産みそのものは、社会的に必要とされる仕事と見なされるからであり、そうした状態特有の様々な特徴と必要があるからだ(Scales、1981;Littleton,1987)。妊娠と子産みを障碍と同化することには、そうしたプロセスに「不健康」という烙印を押そう〔stigmatize〕とする傾向がある。さらに、この同化は次のことを示している。すなわち、女性が休暇と職業安定の権利を持つ第一のあるいは唯一の理由は、〔妊娠した〕女性が仕事をするにあたって身体的に不可能だからであり、彼女が妊娠せず、子産みから回復したときよりも仕事をするのが困難だからだ、ということである。これらは重要な考察ではあるが、彼女の選択には、女性は授乳を行う時間を持ち、子どもとの関係を深め、日課をはたす時間を持つべきである、という別の理由がある。問題は、仕事に途切れのない男性モデルによって女性が被る不利益を除去する、という以上のものにある。問題は、子産みという社会的貢献に対する公的なポジティブな認知を得ることと、確保することでもあるのだ。そうした認知は、女性を子産み機械〔childbearer〕に還元することもなく、全ての女性が子どもを産むべきで、産まない女性を欠如した女性と見なすこともなく、与えられるべきだし、与えられうる。
 ジェンダー中立的な女性の権利モデルから距離をとるフェミニストは一般に、この距離を子産みという生物学的な条件へと限定する。ほとんどのフェミニストは、たとえば、女性と子供の世話との結びつきを永続させず、また、平均以上に子供の世話に責任を負うことを選択する男性たちを不利にしないためにも、個人的に休暇を取ることはジェンダー中立的であるべきだとする。私自身、こうした問題についてはジェンダー中立的な政策に同意する。
 しかし、女性の子産みに対する集団−意識的な政策の問題を制限することは、職場における女性の平等を促進することに含まれている最も困難な問題のいくつかを避けて通ることになる。女性が職場で不利益を被るのは、彼女たちの子産み能力のためだけでも、それが第一の理由でもない。そうではなく、特定の活動へ向けられて他のものには向かわないような女性の欲望や気質そして能力に対する、ジェンダー的な社会化とジェンダー的アイデンティティ志向にあり、多くの男性が不適切にも女性を性的な言葉で評価しているからであり、女性の服装やふるまい、声などが、しばしば脱身体化された男性中心主義的な官僚的理念を混乱させるからである。男性と女性の差異は、生物学的なものだけではなく、社会的にジェンダー化されたものでもある。このようなジェンダーの差異は、複雑で多様であって、男性と女性という排他的な本質に還元されるものではない。おそらくこうした差異は実在すべきではないのだが、現に実在していることは疑えない。こうした差異を無視することは、しばしば、男性主義的規範とスタイルが支配している公的環境のなかで女性に不利益を被らせるのである。
 「受容としての平等」と呼ぶモデルのなかで、Christine Littletonは女性的にジェンダー化された文化的属性が、女性にとってコストにならないようにすることを目指した政策に向けたジェンダー意識的な政策について論じている。このモデルは、構造化された社会的ジェンダーの差異を想定することから始まっている。たとえば、ジェンダーに支配された職業カテゴリー、女性が優位を占める子育てと他の家族への世話、そしてスポーツ選手が目指すもののなかのジェンダー的差異である。これらはいずれも本質的なものではない。全ての男性あるいは全ての女性がジェンダー化された行動パターンに従っているようには見えないが、このパターンは、多くの人々の生活に対して同定可能であるし、広くあてはめることができる。Littletonの受容としての平等モデルは、伝統的に女性化された活動や行為を行う女性に不利益を被らせないためだけではなく、男性的なものと同じく女性的なものをも評価するような政策を支持する。

受容としての平等の焦点は、したがって、「女性」が異なっているかどうかという問題ではなく、共同体の全ての成員によって実際に生きられる経験のなかで対称性を生み出すためには、ジェンダー的な非対称性という社会的事実にどう対処すればよいか、という問題にある。私は、その問題が、差異とは「自然」であるかそうでないか、といった問題であるとも考えない。差異はいずれにせよ、私たちの構造と私たち自身にビルトインされているのである。社会的事実としては、差異は、人と人、人と制度との相互作用によって生み出されている。差異は関係性に固有のものであって、人に固有のものではない。この観点からすると、平等の機能は、認識されるものであれ現実的なものであれ、ジェンダーの差異を相互に反対しないようなものにして、女性的なライフスタイルに従っているからといって罰を与えられたり、男性的なものであるからといって賞賛されたりすることなく、誰もが生来の傾向や選択に従って男性的、女性的、中性的なライフスタイルに従って生きることができるようにするものである。(Littleton,1987,p.1297)

 平等の受容モデルはしたがって、文化に基礎を置いたジェンダーの差異を公的に認め、そうした差異が不利を与えないようにすることを保証するための一段階である。Littletonは強調していないが、このモデルが含意しているのは、第一に、ジェンダーの差異が、暗黙にであれ明示的にであれ、ある人を制度や社会的位置あるいは選択機会から排除するための基盤として使用されるべきではないということである。すなわち、平等な選択機会への一般的権利が、他の市民権や政治的権利と同じく、獲得されるべきなのだ。この点以上に、受容としての平等は、女性的にコード化された活動と行為を男性的にコード化された活動と等しく、明確に再評価する。
 比較可能な価値の政策は、文化的な女性性の再評価のために広く議論された戦略である。比較可能な価値の労働に対する平等な支払いという図式は、男性支配的な仕事と女性支配的な仕事に同程度のスキルや難しさ、プレッシャー緊張等があるならば、同じ賃金構造を持つことを要求する。こうした政策を実行することの問題はもちろん、異なった仕事を比較する方法を作り出すことにある。ほとんどの比較図式は依然として、おそらく、学歴、仕事の速度、その仕事がシンボルの操作を含んでいるかどうか、仕事が楽しいかどうか、意志決定能力等々といったジェンダー中立的な基準を使うことで、性的差異を最小化させるという方法を選択している。しかし、何人かの論者は、職業特性の標準的分類は、女性に専属化された仕事に特定の種類の役割が含まれ、それを隠し続けるように体系的に歪められている、と指摘してきた(Beatty and Beatty,1981;Treiman and  Hartman,1981,p.81)。女性に専属化された仕事の多くは、ジェンダー的に特化されたある種の労働――子育て、社会関係をスムーズにすること、セクシュアリティを表示すること等々――を含んでおり、そのほとんどについて、注意は怠られてきた(Alexander,1987)。女性に専属化されてきた仕事の多くのスキルと複雑さの公平な評価は、したがって、ジェンダー盲目的な比較カテゴリーを適用することではなく、ジェンダーの差異に対して明白な注意を払うことを含むことになるだろう(cf.Littelton,1987,1312)。
 Litlettonは、スポーツを再評価すべきもうひとつの領域であると主張している。彼女は「受容としての平等」アプローチが、頭数に応じてスポーツ予算を利用可能にすることではなく、男性と女性の競技プログラム間での資源分割を平等にすることを支援するだろう、と示唆している。人々の間の格差が非常に大きいならば、こうした提案は公平であると私は思えないが、Littletonが目指している一般的原理には同意する。陸上競技に参加しようとしている女性は、そう望んでいる女性があまりいないからといって不利益を被るべきではない。彼女は、たとえば男性と同じくらいに給料をもらっているコーチを持つべきだし、ロッカールーム施設も可能な限り良質であるべきだし、彼女たちは望むだけの優れた道具を入手できるべきである。より重要なことは、シンクロナイズド・スイミングやフィールド・ホッケーなどといった女性的にステレオタイプ化されたスポーツが、サッカーや野球といったそれよりも男性的なスポーツと比肩するだけのレベルの支援を受けるべきだ、という点である。
 (2)1986年の11月、カリフォルニアのマジョリティ有権者は、州の公的言語を英語にするという住民投票の主張を支持した。この政策の成り行きは明確ではないが、少なくともそれが意味しているのは、カリフォルニア州制度が英語以外の言語で候補者名簿や行政文書を出したり、公共サービスを提供する義務を持たないということである。カリフォルニアの成功は、公用語を英語にしようとする合州国のナショナルな運動に拍車をかけた。同時に、とくに第一言語が英語ではない人々の人口が増大している地域での、その他のローカルな運動にも拍車をかけた。例えば、1989年の冬には、英語第一言語支持者の考え方が非常に強かったロングアイランド島のサフォーク郡立法府に英語−限定提議が提出された。この提議はサフォーク郡の公用語を英語にすることはなかったが、公的サービスの提供者に英語以外の言語を語るサービス受給者〔clients〕を避けさせることになった(Schmitt,1989)。
 多くの英語第一言語支持者たちは、自分たちの位置を正当化するのに、行政のコストを削減すべきだという多くある中の一つの尺度を取り出す。しかしこの運動の主要な主張は、国家組織の統一性という規範的理念を目的にしている。一つの国民国家としてのアメリカは、英語を語る者に基づいているべきだというのだ。すなわち、いかに多くの非−英語話者がアメリカの大地の上にその足跡を残すことができようとも、彼らは「真の〔real〕」アメリカ人ではないという理念である。一つの国家組織は、その成員〔市民〕のあいだでの重要な共同性と相互的同一化〔identification〕がなければ維持しがたい、とこの議論は続く。そして共通言語は、統一化するための力の中でも最も重要なものの一つである。言語的・文化的多元主義は、コンフリクトや分断、機能主義そして究極的には脱統合を導く。件の英語への公的選好は、こうした単一性を支持し、非−英語話者たちをできるだけ早く同化しようとする。
 単一の調和した国家組織に対するこうした主張に抗する議論は、少なくとも三つある。第一に、それが単に非現実的だ、というものである。最初から合衆国はつねに多くの言語的・文化的マイノリティを内包してきた。帝国主義と併合の歴史、そして移民政策は、その帰結である。過去25年間、アメリカ軍と外国政策は、ラテン・アメリカとアジアからの膨大は移民流入を導いてきた。さらに、2000年にはアメリカ国内のヒスパニック系とアジア系の人口が現在と比較して84から103パーセントは上昇するだろうと見積もる人々もいる(Sears and Huddy,1987)。文化的マイノリティに属している個人の多くは、そのままの集団を選択する人々もいるとともに、同化を選択する人も多い。しかし多くはそうしない。そうする人々に対する公的支援がなくても、そしてそうした選択に対する非常な圧力があっても、多くのマイノリティ集団は異なった言語的・文化的アイデンティティを保持している。何世代にわたって合衆国に住んできた人でさえもだ。ここで最も目立っているのが、スペイン語話者であろう。というのも、彼らが比較的多数であり、彼らのプエルトリコやメキシコあるいは他のラテンアメリカとのつながりが強固であり続けているからだ。たとえ彼らがアメリカ市民権とその完全な権益を主張していたとしても、多くの言語的・文化的マイノリティが固有のアイデンティティを保持するという決断を考慮すれば、そしてそうした決断がますます増えていることを考慮すれば、言語政策を通じて統一体を作り出そうという英語単一主義運動の欲望は、単純に言って馬鹿げている。
 第二に、すでにいくつかの論点について論じてきたように、均質な公共領域という規範は、抑圧的である。そうした規範は、同化されない人や集団に、そうでない人々との比較で、劣った立場と資源の欠乏という深刻な不利益を被らせるだけでなく、人びとに対してそのアイデンティティ感を同化するために変えさせるように強いるのである。自己−崩壊は市民権にとって不合理であり間違った要求である。アメリカの文化的マイノリティ達の小説や詩そして歌は、そうした要求が負わせた痛みと喪失で溢れんばかりである。そして、同化主義的な価値観がいかに人間の基本的な尊厳に対して根底的な暴力を振るうのか、ということを証拠立てている。
 第三に、以上から、均質的な公共領域という規範的理念は、それが述べ立てているような調和的ネーションの創出という目的を果たさない。集団的に差異化された社会におけるコンフリクトや機能主義、分離、内戦状態は、しばしば集団間において起こる。しかし、そうしたコンフリクトの第一の原因は、集団の差異それ自体ではなく、怨恨や敵意、抑圧された人々の抵抗を産み出すような、集団間の支配−抑圧関係である。規範的価値を均質性に置くことは、分割とコンフリクトをエスカレートさせるだけである。というのも、その価値は、支配集団の成員に対して独善的で御しがたい態度を採用する理由を与えるからである。
 第4章で論じたように、正しい政策は、異種混淆的な公共圏という理念を採用するべきである。ジェンダー、年齢そしてセクシュアリティという集団的差異は、無視されるべきではなく、公的に認められ受け入れられるべきである。もちろん、国民的、民族的な集団の差異が受け入れられるべきであることは言うまでもない。二十世紀の理想的国家は、連邦化された平等な権利と、市民権の義務に対応するレベルでの自決権と自律を伴って、国民的あるいは文化的に多元的な集団から構成される。世界の多くの国家はこの理念を採用している。往々にして非常に不完全にしか実現されていないのだが。英語単一言語支持者は合衆国における文化的マイノリティ、とくにスペイン語系マイノリティの規模の拡大と急速な増大に際して恐怖を示す。そして、英語第一言語主義を強化することのみが、カナダのような文化的多元社会になることから、我々を護るのだ、と論ずる。こうした議論は、私たちが既にそうである姿を直視することを頑として拒絶する議論である。
 同化主義者と文化的多元主義者の理念の差異が特に顕著になるのは、教育政策においてである。バイリンガル教育は今日のアメリカにおいて非常に激しく論議されている。その理由の一つはそれに対して与えられる異なった文化的意味である。1974年連邦最高裁判所は、学生が全ての課目を学ぶ平等な機会を持つために、国家が英語学力不足を補う義務があると定めた。しかし法廷は、それがどのような仕方で行われるべきかについては何も特定しなかった。1985年に通過してから何度か修正されてきたバイリンガル教育法は、バイリンガル教育プログラムの発展に対して学校システムが使うための政府基金の枠を設けた(Minow,1985;Kleven,1989を見よ)。それでも、1980年をとってみても、アメリカでは77パーセントのヒスパニック系の子ども達が、彼/彼女たち自身の言語的必要に対応するような特別なプログラムを何も受けていない(Bastian,1986,p.46)。テキサス州では1986年に80パーセントの学校部局が、州のバイリンガル教育プログラム修正版に従っていることが明らかになった。
 いくつかの違った言語支援プログラムも存在する。第二言語として英語を定め、学生自身のネイティブ・ランゲージへは何の指導もせず、学生自身の言語を語ることができる人によって教えられない子ども達もいる。また、別の子ども達は、浸透プログラムと呼ばれ、英語指導を第一に含んでいるが、バイリンガルの指導者によって教育され、彼あるいは彼女の言語で質問できる。移行的バイリンガル教育プログラムは、本当のバイリンガル指導を含んでおり、学生の進行に沿って、英語とネイティブ・ランゲージの割合を変化させる。移行プログラムは数学や科学や歴史などの課目では、学生自身のネイティブ・ランゲージで指導するが、同時に彼らの英語言語能力を進展するよう指導する。つまり、このプログラムは英語で指導する時間を増やすことを目指しているのだ。
 こうしたプログラム全てはその意図において同化主義的である。これらは、ネイティブ・ランゲージでの指導がもはや必要ないところにまで、英語が堪能になることを目指している。すなわち、どのプログラムも、ネイティブ・ランゲージの保持とそれを堪能になるという目標を持っていない。合衆国の英語能力に限界がある学生に対するプログラムのほとんど大部分は、こうした形をとっている。ESLや浸透プログラムの代わりに移行バイリンガル・プログラムを使用することは、熱心に議論されてきた。アメリカ人のマジョリティは、英語力に限界のある学生に対して、英語を習うことを助けるために特別な言語プログラムを行うことを支持する。しかし、特に数学や科学といった課題を指導する際にネイティブ・ランゲージで指導するプログラムが増えるとともに、英語話者によって、それらはますます、不当な甘やかしであり税金の無駄使いだと考えられるようになっている(SearsandHuddy,1987)。その一方で、移行バイリンガル教育プログラムは、通常、言語的マイノリティによって好まれるのである。
 バイリンガル教育の別のモデルが合衆国ではめったに実践されることはないし、公共の論議の的になることもほとんどない。それがバイリンガル−バイカルチュラル・維持プログラムだ。このプログラムは、学生たちのネイティブ・ランゲージと文化についての知識を高めることを目指すと同時に、彼らが支配言語である英語に堪能になるように鍛錬することをも目指す。アメリカで文化多元主義と集団の自律性を支持する数少ない人々は、英語を堪能になることが必然的にアメリカ社会に完全に参加する条件であるという点を拒否するだろう。問題は単に言語的マイノリティがその特異性において完全に参加することを認められるかどうかだけではなく、言語と文化の維持のために社会的支援をするかどうかである。バイリンガル−バイカルチュラル維持プログラムだけが、言語的マイノリティの社会的制度への成員としての完全な包摂と参加の可能性を保証することができると同時に、彼らの集団的に固有のアイデンティティを守り、肯定することができる(Nickel,1987,p.119参照)。
 (3)アメリカ・インディアンは合衆国において、最も不可視化された被抑圧者集団である。100万人を超えるインディアンたちが、影響力を持った圧力集団を組織したり、白人社会の生活を脅かすような大きな分裂を与えるには、きわめて局所的な人口比率は小さすぎる。政府あるいは国家政策は往々にして、インディアンたちの利害や欲望を安穏と無視することができる。都市においてさえ、インディアンたちは非−インディアンたちがほとんど参加しないような自分たち自身の支援システムとネットワークを形成していることがよくある。インディアン部落保留地区の中であれ外であれ、彼らは他の社会集団に比べて最も深刻な周縁化と剥奪を被っている。あらゆる尺度から見ても――収入、失業率、幼児死亡率等々――インディアンは最下層アメリカ人なのだ。
 それと同時にインディアンは、合衆国において法的には最も差異化された人々であり、連邦政府によって特別な地位と権利を形式的に認められた唯一の集団でもある。インディアンは、新世界神話、すなわち英語を語る農民や商人や発明者の故郷というアメリカ神話に基づいた起源への主張を、始めから覆すような原−差異〔archi−difference〕の代表者である。合衆国政府の役人達は、この内的差異を浄化するための一貫したジェノサイド政策をつうじて、インディアンたちを何度も無力化し、火あぶりにし、略奪し、欺き、強制疎開させ、監禁してきた。しかし、法の歴史と一連の政府文書はまた、政府が交渉せざるを得ないような独立した政治的単位として、しぶしぶにではあれ、インディアンの人々を認識したことを証してもいる。20世紀に至るまで、インディアンの特別な法的地位は、ほとんどつねに、劣った未開人と優れた文明=市民主権との間の後見人的依存関係として概念化されていた。そして、この概念化が最近の法的決定にさえ影を落としているのである(Williams,1987)。女性や黒人そして精神薄弱者と同じく、インディアンはの差異は、規範的な法のなかでは、完全な市民権を認めないことを正当化する劣った幼児的な本性として成文化されてきた。
 20世紀初頭、政策決定者は、この保護監督的後見人の地位を終わらせるのは、支配文化への同化を意味していると思っていた。こうして1800年代後期の土地再配置政策は、インディアンに私的所有と自作農耕作の価値を認めさせる意図を持っていた。1920年代にはインディアンを完全なアメリカ人として認めるように議会が提案したとき、連邦政策は、インディアンの子供達が移送された初等学校で――それはしばしば自分の家から何千マイルも離れていた――ネイティブ・ランゲージをしゃべることを禁じることによって、同化を強制した。同時期、インディアンたちは、伝統的な宗教儀礼の多くを執り行うことを禁止されたのだ。
 1930年代にはインディアン再組織化法が、現在と同じく連邦的に再組織化された部族政府システムを創出することで、そうした政策の多くを取り消し、逆転させた。しかし、1950年代には、部族に対する連邦的関係性を一掃するための努力が、議会によって振り子のようなバックラッシュが、異なった人々としてのインディアンという認識を取り消し、再びインディアンに対して白人社会に同化することを強制しようとしている。合衆国−インディアン関係のこうしたシーソーのようにめちゃくちゃの歴史は、インディアン自身の価値や実践や制度どころかアイデンティティすらをも変えてしまう原因になった。個々のインディアンのアイデンティティは消え去り、インディアン集団としての相互関係は白人政策の抑圧の下に併合され、再編成されていった。しかし、この歴史を一貫して、同化がインディアンにとって生きた選択肢だったことは一度もなかった。多くの人々が自身の集団を離れて支配的白人文化に首尾よく統合されたが、集団としてのインディアンは、凄まじい抑圧に抗して、白人社会からの差異を保持しつづけた。今日、多くのインディアンたちは現在の部族組織、その役割規定、そしてその合衆国政府との法的関係を非難している。だが、インディアン集団に対する特定の独立性を形式的には認め、部族の努めを定義し実践することに対する特定の権利を保証している部族システムの削除を求める人々もいる。
 本章の議論にとって、アメリカインディアンの事例はとくに範例的なものである。というのも、インディアンはおそらく、集団に向けられた正義が特別の権利を必要とし、同化主義的理念が結局のところジェノサイドであるということを、ここで最も明確にしているからである。しかしながらそうした特別の権利は、解放、機会の平等等々といったアメリカン・ドリームのなかへの完全な参加からの排除を正当化するべきではない。ある集団に固有の必要を認めるという正義と、政策への完全な参加と包摂の権利は、合衆国−インディアン法という明確な先例を持っている。インディアンたちは、二重の市民権を持っている唯一の集団である。すなわち、彼らは、部族の成員としては特別な政治的、法的そして集団的権利を持っているが、合衆国の市民としては、彼らは他の市民達が持っている全ての市民的そして政治的権利を持っている(Deloria and Lytle,1984,pp.3―4)。承認されたインディアン部族は、特別な法的主権と領土的主権、多くの特別な宗教的・文化的・狩猟権を持っている(Pevar,1983を見よ)。
 多くのインディアンたちは、この特別な権利システムが連邦政府からの行動の非常に大きな自由を確保することを信じているが、国際的な法的集団に対するさらに大きな自決権のために議論を保留する人々もいる(Ortiz,1984,pp.32―46)。アメリカ・インディアンという一義的な認知をアメリカ社会の完全で平等な成員として形成することの正義は、私が見るところ、合衆国政府がインディアンの権利を置き換えたり除去したりするような絶対の権力を放棄することを必要とする。
 インディアンの事例は、そこに完全な正義が不在であるということにおいてさえ、一般的権利と特定の権利のコンビネーションに対する重要な事例を提供する。上で論じてきたように、そうした権利は必然的に多くの抑圧され不利益を被っている人々の平等を必要とする。部族の権利システムとその権利の一般的権利との関係性は確かに複雑であり、往々にしてそうした権利の意味と含意についての見逃しも存在する。多くのインディアンたちは、特に土地や水そして資源の使用法を決定するための彼らの領域的権利が充分に認識されず、その権利が強化されないのは、彼らを無視することから得られる経済的利害が理由である、と信じている。私はこの特定の権利システムあるいはそれが纏っている官僚主義的な形式が、他の被抑圧・被不利益集団にも拡張されるべきだ、という議論はしたくない。それぞれの集団は、各々固有の権利の集合を要求するし、ある集団にとっては他の集団にとってよりももっと包括的なシステムを必要とする。しかしながら、アメリカ・インディアンの事例は次のような事実を明るみに出している。それは、集団が正義の理由、特にそうした権利が集団の自律性を強化し、抑圧されているマイノリティとしての利益を保護するための理由を求めている、特定の権利システムの先例が存在するという事実である。

異種混交的な公共圏と集団的代表制 The Heterogeneous Public and Group Representation

 私は参加民主主義が社会的正義の要素であり条件であると論じてきた。しかし、現在の参加民主主義理論は、実践においては、ある集団を排除し沈黙させる傾向にあるような統一化された公共権へのコミットメントを共和主義から受け継いでいる。そこでは、ある集団が物質的に特権化され、文化帝国主義が作動し、形式的な民主主義プロセスは特権化された集団の経験と視点を持ち上げ、抑圧された集団の経験や視点は黙殺されるか侮辱される。
 例えばニュー・イングランド市の集会政府の機能性研究においてJane Mansbridgeは次のように述べている。女性や黒人、労働者階級の人々そして貧者は、白人中産階級専門職男性に比べて、あまり相互に関係を持つこともなく自分たち自身の利害を代表されることも少ない傾向にある。白人中産階級男性は、それ以外の人々以上の権威を握っており、上手く語る訓練を受けている。母親や老人は、他の人々よりも集会を持つことが困難であることを認めている(Mansbridge,1980第9章)。私は第3章で、いくつかの学校システムにおいて、民主主義的になればなるほど、隔離が進んでゆくというAmy Gutmannによる事例を引用した。それは、白人が多くの物質的特権を持つようになればなるほど、統合システムにおける平等な処遇に対する黒人の正しい要求に対する、自分たち白人の利害をはっきりと認識することできるようになるからだ(Gutmann,1980,pp.191―202)。
 このような場合、社会に現存する特権と抑圧に関する集団間の差異が、たとえ公共圏がその差異を見ないべきだと主張したとしても、公共圏に対して影響を持つ。伝統的な政治理論と実践は、こうした不公平=歪みの証拠に対して、再び真に普遍的な公共性を打ち立てようとすることで対応してきた。第4章で論じたように、社会的地位の特異性とその結果としての局所的な見方を超越するような純粋な視点は、不可能である。統一化された公共圏が集団の差異を超越することもなく、往々にして特権を持つ集団の視点と利害の支配を許すことになっているとすれば、民主主義的公共圏がこうした不公平=歪みを正すことができるのは、唯一そのなかの集団の差異を認知し、それに声を与えることによってである。
 したがって私は以下の原理を提唱したい。すなわち、民主主義的公共圏は、それを構成している被抑圧集団あるいは不利益を被っている集団の持つ異なった声と視点を効果的に認識し、代表するための機構を持つべきである、と。このような集団的代表制が含む制度的機構と公的資源は次のようなものを支援する。(1)集団のメンバーたちが互いにエンパワメントしあい、社会的文脈のなかで、その経験と利害を反省的に理解するための集団を自己組織すること、(2)制度化された文脈における政策提言の集団的分析と集団的産出。そこでは政治的意志決定者は、その審議が集団の視座を採択し考慮していることを示す義務がある。(3)女性に対する生殖権政策や、インディアン居留地にたいする土地使用政策といった、当の集団に直接影響を与えるような特定の政策に関する集団的拒否権力。
 民主主義公共圏の意思決定手続きにおける被抑圧者集団のための特別な代表制度は、手続き的にも実質的にも、いくつかの方法によって、均質的な公共圏よりも正義を促進する(Beitz,1988,pp.168-69)。第一に、それは公共の条項に関する公的な議題設定と意見聴取において、より公平な手続きを保証する。社会的・経済的特権が持つ意味が他の特権と違うのは、そうした特権を持っている集団は、あたかも自らが語り、聞かれる権利を持っているかのように振るまい、その他の集団は特権集団がそうした権利を持っているかのように扱うという点、そして特権集団は自分達が語り、聞かれることを可能にするような物質的・個人的・組織的な資源を持っているという点にある。その結果、政策的問題は往々にして、特権集団の前提と選好順序〔priority〕によって規定されることになる。被抑圧者集団に対する特別代表制がこうしたプロセスを断ち切るのは、それが他の集団の前提と選好順序に声を与えるからである。
 第二に、被抑圧者に対しても特権享受者と同じく声を保証するため、集団代表制は、公共圏における全てのニーズ必要と利害が民主主義的な討議の中で認識されることを保証する。特権享受者が通常、被抑圧者の利害を保護したり進めたりすることを嫌がるのは、彼らの社会的位置がそうした利害の理解を妨げているからであり、彼らの特権が一定程度他の人びとを抑圧しつづけることに依存しているからでもある。異なる集団が多くの必要を分有することもあるが、それよりも、通常は集団の差異は、個々の集団自身が最もよく表現することができるような特定のニーズ必要を持っている。私たちが民主主義的意志決定をニーズ必要解釈の政治と見なすならば、既に示唆したように、民主主義的制度は、社会的に周縁化されたり文化的帝国主義によって沈黙を強いられる傾向にある人々の必要が公的に表明されることを促進すべきである。公共圏における集団的代表制は、こうした表明を促進する。
 前節では、被抑圧者集団による差異の肯定的な意味の主張と、そうした集団に対する特別の権利に関する原理を論じた。そこで私が論じたのは、集団−盲目的な政策を捨て去り、集団に特化した政策を適用するような解放を目指す社会運動の多くが、当の集団に再び烙印を貼り、新たな排除を正当化するのではないか、という正当な危惧についてである。集団代表制は、そうした帰結に至らないようにするためにも役立つ。抑圧と不利益を被っている集団が公共圏において自己組織することができ、集団的に差異化された政策の意味とその理由について自分たち自身の解釈を提出するための特定の声を持っているならば、そうした政策は彼らに反対には機能せず、彼らのために機能するようになるだろう。
 第三に、集団代表制は、正義への訴えという言葉で、諸個人や集団の必要と利害を表現することを助ける。ハナ・ピトキンの言葉を借りれば、「私は望んでいる」から、「私には権限がある」への転換である。第4章で論じたように、公共性それ自体がこうした転換を促進する。というのも公共圏の条件は人々がたがいに説明を要求し合うということだからだ。集団的代表制はそうした説明責任を付加する。というのも、それは、公平中立な利害あるいは一般的利害という仮面をかぶった自己−欺瞞的な自己利害の矯正手段の役割を果すからである。社会関係や出来事に関する異なった視点、または異なった価値と言語に直面することがなければ、ほとんどの人々は、自分たちの視点が普遍的なものだと思い込む傾向にある。社会的特権が、特定の集団の視点に公的なものの支配を許し、他の集団を沈黙させている場合、そのような個別の普遍化は他の多くの人々によって再保証されてしまう。したがって、公共圏に対する要求が正しいものなのか、単なる自己利害の表現に過ぎないのかのテストは、そうした要求を、必ずしもそれに対立するわけではないにしても、明らかにそれとは異なった経験・優先順序・そして必要を持った人々の意見と突き合わせなければならなくすることによって最もよく実行される(Sustein,1988,p.1588)。(一文略)
 最後に、集団代表制は結果そのものを促進する。というのも、それは議論のなかで表現される社会的知見を最大化し、そうすることでさらに実践知を最大化するからである。集団代表制は、異なった必要・利害・目標だけではなく、異なった社会的な場と経験におけるマニフェストである。異なった集団の人々は、いくらか異なった制度・出来事・実践・社会関係について知っており、同じ制度や関係あるいは出来事についても違った受け取り方をすることがある。このため、いくつかの集団の成員が、特定の社会政策の実践のあり得べき帰結の理解と予測に関して、しばしば他の集団の成員よりも優れた位置にあるのである。そうしたすべての社会的知をその差異化された多元性において活用させる公共圏は、おそらく正しく賢い決定をするだろう。
 集団代表制という原理が意味し含むものに関してあり得べき誤解をなくしておきたい。第一に、これは、社会集団の特別の代表制に対する要求であり、利害集団やイデオロギー集団のものではない。利害集団という言葉で意味しているのは、特定の目標や同じ政策への欲望を追求する人々、あるいは、オハイオ州の工場煙突によって引き起こされる酸性雨を受ける人々のように同じ社会的効果に関して似た位置にある人々の集合体や組織である。社会集団も通常いくつかの利害を共有しているが、共有された利害は社会集団を構成するのに充分ではない。社会集団は、実践や生活の仕方を理由に、たがいに親和性を持っている人びと同士の集合体である。彼らは自ら他の集団から差異化しているか、あるいは少なくとも一つの別の集団によって、その文化的形式に従って差異化されている。
 イデオロギー集団という言葉によって私が意味しているのは、政治的信念を共有する人々の集合体である。ナチス、社会主義、フェミニズム、キリスト教、反人工中絶主義者などがイデオロギー集団である。社会集団の条件がイデオロギー集団の形成を促進することもあるし、ある状況の下ではイデオロギー集団が社会集団になることもある。政治的あるいは道徳的信念の共有は、たとえそれらが深く情熱的なものであっても、それ自体として社会集団を構成することはない。
 民主主義的政策は、全ての利害と意見の表現を可能にすべきだが、あらゆるものに対する特別な代表制を意味しているわけではない。民主主義的公共圏は、ある種の利害や政治的な志向に対して代表者を当てがおうとするだろう。例えば、最も議会主義的なシステムは彼/彼女たちが投票する票の数にしたがって、政治的当はに対する比例代表制を与える。ここで私が論じている集団的代表制の原理は、社会集団だけしか指示していない。
 第二に、この原理が被抑圧者、あるいは被不利益者集団だけに特別な代表制を要求するという点を想起することは重要である。特権集団は既に代表されており、ある意味で彼らの声や経験、価値や選好順序はすでに聞かれており、それについて政策が施行されている。第二章で説明した抑圧の諸相が、ある集団が抑圧されているかどうか、したがって代表を必要とするかどうかを決めるための最初の基準を提供する。集団的代表制が被抑圧者社会集団だけを指示しているという点を明確に認識すれば、役に立たない集団的代表制の増大への恐れは無くなる。
 第三に、私は確かにこの原理を政府制度における代表的な集団へ適用することを意図しているが、その適用は決してそうした領域に限定されないものである。前の章で私は、社会的正義が現在のアメリカ社会で達成されているよりはるかに広範な範囲で、民主主義の制度化を要求する、と論じた。人びとは、彼/彼女たちの行為に対して権限を持つどんな制度であれ、それを規制しその政策を決める過程に参加する権利を持つべきである。集団的代表制の原理は、こうした民主化された公共圏全てに適合する。たとえば、異種混交的な公共圏のための政策提議を展開することを目論むような、被抑圧集団によって形成される意志決定政体に適用すべきである。そうした集団のなかでも抑圧された集団は、そのような自律的な会議では特別な代表権を有するべきである。例えば、黒人の派閥は女性に対して特別の代表権を与えるべきだし、女性の派閥も黒人に対して特別の代表権を与えるべきなのである。
 最後に、この集団的代表制の原理は、それについて最近いくつか議論があるようには、必ずしも比例代表制を含んでいる必要はない(Bell,1987,chap.3;Beitz,1988,p.163を見よ)。比例代表制が「一人一票」の原理にしたがっている限り、意志決定政体で代表されるべきなのが何よりも個人であるという仮定を持っている。確かにその通りではあるし、集団や党の比例代表制を含む様々な形態の比例代表制がしばしば諸個人を平等に代表するための重要な媒介者になることもある。しかしここで論じている原理について私が考えているのは、集団の経験や視点そして利害の代表である。集団の成員の比例代表制は、往々にしてこうした目標を達成するにはあまりに弱いか、やり過ぎになることがある。例えば、合衆国の諸州や連邦政府における比例集団代表制のシステムは、アメリカ・インディアンのための席を持たないという結果に至るだろう。しかし、集団としてのインディアンを取り巻く特定の状況と深い抑圧を考えれば、確かにこの原理は彼/彼女たちが持つ特定の声を義務づけている。他方、女性の厳密に半数に場を割り当てることは、女性の視点に力ある声を与える必要性を越えてしまうだろうし、他の集団が代表されることを困難にしてしまうかもしれないのだ。
 集団的代表制の原理は、抑圧と支配に抗する現代のいくつかの社会運動闘争のなかで暗黙に、あるいはしばしば明示的に主張されてきた。伝統的で統一された革新集団や労働組合に対して女性、黒人、ゲイ、レズビアン、アメリカ・インディアンたちが向けてきた怒りと批判に応答するなかで、運動組織の多くは、自身の意志決定政体において、ある種の形態の集団代表制を実行してきた。いくつかの政治組織や連合体、そしてフェミニスト集団は、黒人、ラティーノ、女性、ゲイ男性、レズビアン、障碍者そして老人たちといった明示的な代表がいなければその視点が無視されてしまう人びとのために形式的な派閥を持っている。そうした組織はしばしば組織全般的な議論のなかに様々な声の集会を持ち、また意志決定のなかでそうした声の代表を持つための手続きを有している。いくつかの組織はまた、指導者集団のなかに不利を被っている集団の代表メンバーを義務づけてもいる。
 たとえば、原子力発電所建設用地を占拠する努力が絶頂のとき、多くの反原子力活動や組織は、この運動が白人ストレート男性によって支配されているというフェミニストや有色人種の人びとによる批判に応答した。諸集団と親和的な社会集団が形成されると、一般に、形式的に不可視化されている集団と連帯しそれに代表を与えることで、強められる。別の例を取り上げると、国家女性学連合〔National Women's Studies Associations〕は、その意志決定組織のなかに集団派閥に対する複合的で効果的な代表システムを有している。
 虹の連合という理念は、集団代表制をともなう異種混交的な公共権をはっきり示した。従来の連合は、個々の経験や関心の差異を超越するような統合された公共圏の理念に対応してきた。伝統的な連帯においては、様々な集団が、自分達がその利害と情動を一致させた特定の目標のために同じ方法で取り組み、集団間の視点や利害や意見の差異は公的な宣言や連帯行動には表面化しないという一般的同意がある。この形式は理念上、福祉国家の利害集団政治に適合的である。虹の連合においては反対に、連帯を構成するそれぞれの集団が、他の集団の存在と同時に、その固有の経験と社会問題に対する固有の視点の特異性を保証しあう(Colins,1986)。虹の公共権においては、黒人はゲイの参加を単に寛容に受けいれるだけではないし、労働運動家も平和運動のベテランと不承不承で一緒に働くわけでもなく、そのどの運動も、フェミニストの参加を父権主義的に容認するわけでははない。理念的に言えば、虹の連合は、それぞれの被抑圧者集団やそれを構成する政治運動の主張の存在を保証し、その主張を支援する。そして差異を覆い隠す何らかの「統一原理」を発することによってではなく、それぞれの支持者が、その経験の観点から経済的・社会的問題を分析できるようにすることによって政治的プログラムに到達する。このことは、各々の集団が決定的な自律性を維持していることを意味しており、集団的代表制に対する規定を必要とするということを意味している。不運にも、こうした虹の連合の理念を表現する見込みある草の根の組織をはじめるというJesse Jacksonキャンペーンの約束は、達成されてこなかったのだが。
 抑圧された集団あるいは不利益を被っている集団に対する代表制の原理は、資本主義福祉社会において通常のものとみなされている政治に抗する組織や運動において、たびたび実行されてきた。しかし、それよりも主流の諸組織もまた、この原理をいくつかのかたちで実行してきた。「国民民主党」は、女性と有色人種の代議員としての代表制を規則で義務づけてきたし、多くの州の民主党は、同じような規則を有している。多くの非営利団体はその管理委員会では、女性,黒人、ラティーノ、障碍者といった特定の集団の代表性を要している。「差異の価値化」と呼ばれるプログラムのなかで、いくつかの企業は企業内会議における被抑圧者集団の限定的な代表制を制度化している。こうした集団代表制の原理が他の政治的文脈にも拡張されることを想像することは可能である。例えば都市規模での教育委員会が形式的かつ明示的に、黒人等々のマイノリティを代表するならば、社会正義は、多くのアメリカの都市で強められるだろう。
 集団的代表制原理を政府政体において実行するということに対しては、それが意志決定を困難にすることで、公的生活におけるコンフリクトと分断を助長するといって批判する人たちもいるかもしれない。とくに、もしそうした集団のメンバーに対して根本的かつ個別的に影響を与えるような政策にその集団が選択権を持つとすれば、意志決定は立ち往生してしまうことになる、と。こうした反論は、集団間の差異が本質的に利害関心のコンフリクトを含んでいる、ということを前提にしている。しかしこの前提は間違いである。諸集団はある問題について異なった視点を持っているが、往々にして、それが表明されれば全ての人びとの理解と両立し、その理解を深めるものなのである。集団の差異がコンフリクトを産み出し、あるいはコンフリクトを反映していればなおさら、集団的代表制がそうしたコンフリクトを必ずしも助長しないし、おそらくそれを弱めるだろう。もし集団間の差異が集団をコンフリクトへ導いているならば、正しい社会はそうした差異についての議論を開かれたものにするべきなのである。特権者と被抑圧者に構造化された関係がコンフリクトの源泉である限り、集団的代表制は、集団が語る力と、それが聞かれるための力を平等にすることで、そうした関係を変えることができる。したがって、集団的代表制はある種のコンフリクトを除去することはないとしても、それを緩和するだろう。もし立ち往生した意志決定へのオルタナティブが、最終的には、見かけ上は一般利害を実現しているような決定を行なう統合された公共圏――それは、特定の集団の利害を体系的に無視し抑圧し、あるいはそれとコンフリクトを起こす――のそれだとすれば、そのときには立ち往生した意志決定のほうが正しいことになるだろう。
 第二の反論は、この原理の遂行が決して開始され得ないというものである。それを実行するためには、公共圏(a public)が、意志決定手続きのなかで、どの集団が特別な代表制に値するのかを決定するように構成されていなければならない。そうした「構成的な申し合わせ(約定)」の構成要素を導くような原理とは何か? どのような手続きで、誰がそれを決めるべきか? 被抑圧者集団がこの最初の約定〔founding convention〕において代表されていないとすると、どのようにしてそれを代表することを保証するのか? さらに、もし彼/彼女たちが代表されているのだとすれば、なぜこの原理の遂行が必要になるのか?
 こうした問いは、この問題提起に特有のものではなく、どんな哲学的議論も解決できないような「政治の起源」のパラドックスを提起しているのである。いかなるプログラムや原理の集合も、政治を創設することはできない。政治には始まりや起源の位置などないからである。政治とは、常に既に私たちが巻き込まれている一つの過程である。この章で私が提唱してきたような規範的原理は、このすでに始まっている〔ongoing〕政治的な議論のなかでの提唱として役立つのであり、オルタナティブな制度的形態を目に見えるようにする手段なのであって、政策を基礎づけることはできない。現在の政治状況においては、いかなる規範的原理の適用も荒削りなものであろうし、つねに反論と再検討に服すものである。もしアメリカ社会の民主主義的な公共圏がこの集団的代表制の原理を受けいれるとすれば、私が少しだけ示唆してきたように、それはまた、アメリカ社会のなかで特別の代表に値するような集団に対して候補者を指名するようになるだろう。こうした開放〔openness〕は、別の集団にとっての代表の必要性に対して公共圏を敏感にさせるだろう。しかしもしそうではないとすれば、そうした集団は説得力があるのかないのか分からない議論に頼らざるを得なくなるだろう。私はこの起源の問題の外にはいかなる実践的方法もないと思うが、そのことが、それ以外の規範原理を拒否する理由として成り立つことはないとも思っている。
 集団の自己-組織や意志決定過程における集団的代表制を促進する異種混交的な公共圏の理念は、私が第三章で批判した利害集団多元主義とはどのように違うのか、と尋ねられるかもしれない。利害集団多元主義は、公的な論議や意志決定の出現を妨げるように作動する。利害集団は、自身の個別的な利害を可能な限り徹底的かつ強力に推し進め、政治市場のなかで自らと競合する他者の利害は、自分の利害追及のための潜在的な敵か見方かといった戦略的なかたち以外のものとしては考察する必要はない。利害集団多元主義のルールは、誰かの利害を権利として正当化する必要もないし、社会的正義と両立可能であることを要求する必要もない。しかし異種混交的公共圏は、「一つの公共圏」であり、参加者達はたがいに目の前にある問題について議論し合い、正義の原理に従って決定を下す。集団的代表制は、明らかに異なった社会的位置にある他の集団を前にして、彼/彼女たち自身の要求〔demands〕を正当化することを権利主張者に要求する〔calling〕ことによって、このような公共性を育む。
 国家規模でまた合衆国でのローカルな政治、あるいは工場やオフィス、大学、教会、社会的なサービスの担い手といった特定の制度内で再構成された民主主義的公共圏において、集団的代表制原理を実行することは明らかに創造的な思考と柔軟性を必要とする。そこには従うべきいかなるモデルも存在しない。たとえば、ヨーロッパの連合的な民主主義諸制度のモデルは、それが発展してきた文脈から切り離しえないし、そのなかにおいてさえ、それが参加民主主義のモデルを構成しているかどうかは明らかではない。現代ニカラグアでの女性や土着民、労働者、農民そして学生のあいだで設立された自己組織に関する調査報告は、わたしが主唱している概念に近い事例を差し出している(Ruchwarger,1987)。
 社会的正義は、民主主義を必然的に伴う。人びとは、彼/彼女たちの関与、行為、そしてルールへの服従に拠って〔作られて〕いる全ての環境〔settings〕――職場、学校、隣人組織等々――のなかで行なわれる集団的な議論と意志決定に関与すべきである。そうした制度がある集団に対して特権を与えているとき、アクチュアルな民主主義であれば不利益を被っている人びとに対して集団的代表制を義務づける。正しい手続きは、抑圧と不利益を被る集団が声を持つことを保証するために集団的代表制を義務づけるだけではなく、この代表制は審議の過程の正しい結果を促進する最良の手段でもある。
 私は、集団の差異を除去する社会としての正しい社会の理念が非現実的であると同時に望ましくもない、と論じてきた。その代わりに、集団的に差異化された社会における正義は、集団の社会的平等を要求し、集団の差異の相互的な承認と肯定を要求する。集団特有のニーズに注意を払うこと、集団に代表権を与えること、この両者が社会的正義を促進し、文化的帝国主義を根本から掘り崩すような承認を準備するのである。


 
 
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■第7章 アファーマティヴ・アクション[積極的行動]と、[ある職業に就くことや学校に入学することに]<価する>という神話

 ■積極的行動と、<差別しない>という原理 193

「アファーマティブ・アクション政策を過去の差別への救済と補償として正当化することに問題はない(fairly uncontroversial)が、そうした正当化はまた許容されるプログラムを狭い範囲に限定してしまうことになりがちである。」(p.194)

 ■積極的行動をめぐる論争と、分配パラダイム 198

 ■<価する>という神話 200

 ■教育と、業績の代わりとしての試験 206

 ■資格、という政治 210

 「業績イデオロギーと反対に、私は能力=資格の規準を作り使う決定が民主的になされるべきであることを主張する」(p.212)
 「公平さ(fairness)」によって民主的な決定は制約される(p.212)
 1)規準は明確で(explicit)で公的(public)なものであること
 2)どんな社会集団も排除しないこと
 3)候補者は公に発表されたきちんとした手続きのもとにおかれること
 4)特定集団の優遇は、抑圧の軽減や、不利益の補償のためになされること

 ■抑圧と労働を社会的に分けること

 「平等な機会とアファーマティブ・アクションについての議論は、この階層的な労働の分割──そこでは少数が勝利者であり多くが敗北する──を社会的所与とする傾向がある。」(p.215)
 「資本の制御は所有権の特殊ケースにすぎない。」(p.217)

 ■労働を民主的に分けること


 
 
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■第8章 都市生活と差異

 ■個人主義と共同性との対置

 ■ルソー的な夢

 ■顔と顔をあわせる関係を特権化すること

 ■共同性[コミュニティー]という理念の、望ましくない政治的帰結

 ■規範的理念としての都市生活

 ■諸都市と社会的不正義

 ■自律/自治なきエンパワーメント


■おわりに:国際的正義


 

◆言及/引用

◇第4章

 「たとえば、ヤングは、異質性を含んだ公共性という概念に基づいて、公的/私的領域に関する以下の二つの原理を提唱している。@いかなる人も、あるいは、人生におけるいかなる行為も局面も、私性 privacy に閉じこめられるべきではない。Aいかなる社会制度も慣行も、公的議論や公的な表明にとってふさわしい主題であることを、アプリオリに免れることはない[Young 1990a:120]。」(岡野[2002:62]* 第1章・注08)
岡野八代 20020723 『法の政治学──法と正義とフェミニズム』
 青土社,318p.,2600円 ※

◇第6章

 「「虹の連合」において、それを構成している各集団は、社会問題に関する自分たちの経験や視点の特殊性だけでなく、他者の存在も肯定している。「虹の連合」においては、公的な黒人がゲイの参加をただ黙認しているのでも、労働組合の活動家が平和運動のベテランと嫌々ながら協力しているのでも、彼らのすべてがフェミストの参加を温情的に認めているのでもない。理念的に言えば、「虹の連合」は他者の存在を肯定し、抑圧された集団あるいはそれを組織している政治運動のそれぞれの主張を支援し、そして、差異を隠す何らかの「統一原則」を唱えることによってではなく、むしろ、それぞれの構成集団がそれ自身の経験の視点から経済および社会問題を分(訳p.131)析することを認めることによって、ひとつの政治的プログラムに到達するものである。これはそれぞれの集団が重要な自律性を維持し、集団代表の準備を求めていることを暗示している。不幸にも、これらの「虹の連合」を表現する、活力のある草の根の組織化にとりかかるというジェシー・ジャクソンの選挙公約は、いまだに実現されていないのである。」(p.188-189,向山[2001:131-132]*)
 相似のルールではなく、相違のルールに基づくかぎり、それぞれの「集団はさま(p.133)ざまの問題に関してさまざまな視点をもっていたとしても、それらはたいてい両立可能であって、それらが表明されるとき人間の理解もより豊かになるのである。」(p.189,向山[2001:133-134])
 多文化社会において「正義として要求されるのは、集団の社会的平等、集団の差異の相互承認と肯定である。さまざまな集団の特殊なニーズに関心を向け、それらの集団代表を支援することによって、そうした社会的平等は促進され、さらに文化帝国主義を解体する相互承認も実現されるのである。」(p.191,向山[2001:134])
*向山 恭一 20010510 『対話の倫理──ヘテロトピアの政治に向けて』,ナカニシヤ出版,186p. ISBN:4-88848-633-6 \2000 ※

◇第8章

 Kymlicka, Will 1995 Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights, Oxford University Press=19981210 石山 文彦・山崎 康仁 監訳 1995 『多文化時代の市民権──マイノリティの権利と自由主義』,晃明書房,428p. 5300 ※

 「エスニック集団や民族集団は、政治的・宗教的信条やライフスタイルの好みに関して大きく分裂していることもあり、「共同体」という用語は、こうした分裂を覆い隠す一因となりかねない(I.Young 1990:ch.8を参照せよ)」(Kymlicka[1995=1998:307])


製作:北本潮齊藤 拓・堀田義太郎・山本崇記・立岩真也
UP:20030702 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9000yi.htm REV:0722,0804,18 1117,20,26
Young, Iris Marion  ◇BIBLIO.  ◇WHO 

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