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ダナ・ハラウェイ 『猿と女とサイボーグ 自然の再発明』 青土社


Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge=20000725 高橋 さきの 訳,『猿と女とサイボーグ──自然の再発明』,青土社,523+XXXVp. ISBN:4-7917-5824-2 3600 [amazon][bk1] ※

*ここでは、第8章を紹介する。

〈目次〉
謝辞
序章
第1部 生産・再生産システムとしての自然
第1章 動物社会学とボディポリティックの自然経済:優位性の政治生理学
第2章 過去こそが論争の場である:霊長類の行動研究における人間の本性と、生産と再生産の理論
第3章 生物学というエンタプライズ:人間工学から社会生物学に至る性、意識、利潤
第2部 論争をはらんだ読み:語りの本質と語りとしての自然
第4章 はじめにことばありき:生物学理論のはじまり
第5章 霊長類の本質をめざした争い:フィールドに出た男性=狩猟者の娘たちの1960〜1980
第6章 ブチ・エメチェタを読む:女性学における「女性の経験」への挑戦
第3部 場違いではあるものの領有されることもない他者たる人々にとっての、それぞれに異なるポリティクス
第7章 マルクス主義事典のための「ジェンダー」:あることばをめぐる性のポリティクス

第8章 サイボーグ宣言:二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム
 集積回路の女性は共通言語というアイロニックな夢を見るか
 断片化するアイデンティティ
 支配の情報工学
 「家庭」の外の「ホームワーク経済」
 集積回路の女性
 サイボーグ――政治的アイデンティティという神話

第9章 状況におかれた知:フェミニズムにおける科学という問題と、部分的視角が有する特権
第10章 ポスト近代の身体/生体のバイオポリティクス:免疫系の言説における自己の構成

訳者あとがき
参考文献
索引

訳者あとがき
 本書の各章で扱われるテーマは、一見、ばらばらに見えるかもしれない。しかし、これらの各章には、構築されたものとしての自然という、文化対自然の二元論には 決して解消されえない存在としての自然というテーマが一貫している。そして、本書は、自然という存在の、二元論には解消されえない構築のされ方を作業の現場である (p506)


  
訳者あとがき
 本章(第8章)を一言でいえば、テクノサイエンスや生物学の枠組みのシフトであり、そうした枠組みを通して見える世界の変容であった(p516−518)


第8章 サイボーグ宣言:二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム

  
集積回路の女性は共通言語というアイロニックな夢を見るか
 サイボーグ――サイバネティックな有機体(オーガニズム)――とは、機械と生体の複合体(ハイブリット)であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く 生き物である(p287)。サイボーグはポストジェンダー社会の生き物である(p289)

■ 本章で行われること
1.フェミニズム、社会主義、唯物論に誠実であるような、反語的(アイロニック)な政治神話を築く作業(p286)
2.境界を曖昧にする快楽と、境界を構築する責任とについて論ずる(p288)
3.社会主義フェミニズムに貢献するような作業を、ボスとモダニズム、非自然主義のモードで、ジェンダーなき世界について思いをめぐらすユートピアの延長線上で 行おうとした(p288)

 サイボーグの最大の問題点は、軍国主義と家父長制資本主義、国家社会主義の非嫡出子であること(p291)

■ 不明瞭になってきた境界(p291−295)
1.人間と動物の境界
2.動物−人間(生体)と機械の区分
3.物理的なるものと物理的ならざるもの

■ 筆者の議論の前提(p295−296)
1.アメリカの社会主義者やフェミニストたちの大半が、「ハイテク」や科学文化に付随する社会実践、シンボリックな図式化、物理的な人工物などに、精神/身体、 動物/機械、理想主義/唯物主義の一層深い二元論を想定していること。
2.世界規模での支配の強化に抵抗せんとする人々の団結/一体性が、今日ほど尖鋭なかたちで必要とされたことはない。

■ ある特定の視角からすれば(p296)
1.戦争という男性至上主義の乱行で、女性の身体が最終的に領有される過程に関わるもの
2.サイボーグは、人々や動物や機械と連帯関係を恐れず、未来永劫にわたって部分的なままにとどまるアイデンティティや相矛盾をする立場に臆することのない ような、社会や身体に関わるのかもしれない。

  
断片化するアイデンティティ
 フェミニズムという名詞にこだわりつづけることさえすでに難しい。女性(フィーメール)「である」という状態が存在するわけではない。

■ シェラ・サンドゥーヴァル(p298−299)
 「抵抗意識」と称される有望な政治的アイデンティティのモデルを理論化。誰が有色の女性であるのかを特定するうえで、何ら本質的な基準がないことを重要視する。

■ ケイティ・キング(p300)
 フェミニズムの実践のさまざまな「契機(モメント)」や「会話」をとらえて、女性たちの運動を分類して、自らの政治指向があたかもフェミニズムにとっての究極目的で あるかのごとく論じる傾向を批判する。

■ 共通の到達点
 詩/ポリティクスを介した団結/一体性を、領有、包摂、そして分類によるアイデンティティ確定といった理論に依拠することなく創出しうるような方策を身につける ことの重要性(p301)

 歴史上、「人種」、「ジェンダー」、「セクシュアリティ」、「階級」による支配に効果的に立ち向かうための政治的一体性/団結が、今日ほど必要とされている時代を 知らない。また、我々が構築作業の一端を担う可能性のある一体性/団結に実現の可能性がある時代を知らない。「我々」は、自らがこの種の支配の実践に手を汚して いないと主張することはできない。「女性」というカテゴリーが無垢ではないことを発見した(p302)

cf. 江原由美子 2001 『ジェンダー秩序』 勁草書房

 マルクス主義/社会主義フェミニズムも、ラディカルフェミニズムも、カテゴリーとしての「女性(ウーマン)」や、女性の社会生活に伴う意識を、自然なものであると みなすと同時に、変性させてきた。賃金という関係性がもたらす帰結は、労働者が生産物から引き離される過程で生じる組織的な疎外である(p303)

■ キャサリン・マキノン(p304−306)
 ラディカルフェミニズムの解釈は、アイデンティティという存在を基礎づけるような作用を持つ各種の西欧的理論に対する領有、包摂、全体化指向のカリカチュアと しか言いようがない。マキノン流の全体化指向は、ラディカルな非−存在(ノン−ビーイング)という経験、それらの宣誓を強要することによって、女性の一体化/統一/団結 となしとげる。意識/自覚とは達成されるべき存在であって、自然の事実ではないとされる。マキノンは、性(セックス)/ジェンダー構造やその発生関係、つまり女性の セクシュアリティが男性によって構築、領有されてきた点に着目する分析戦略は必然であったと論ずる。女性は主体として、あるいは潜在的主体としてさえ存在していない。 その存在は性的搾取に依拠しているからである。女性の一体性に関して確たる根拠を付与していないという点に関して、マキノンは正しく論じている。

 しかし、マキノンの女性の「本質的」非−存在という装置を介したあらゆる差異の意図的な抹消は、決して推奨できるもではない。フェミニズムが何らかのかたちで セクシュアリティに関わっていることを示せばよいのではないか。再生産/生殖(リプロダクション)について、一方が労働に、他方が性(セックス)に根拠を置いた 異なったトーンの意味を有しているということだ(p307)

◇社会主義フェミニズム − 階級構造/賃労働/疎外
 労働。労働とのアナロジーで再生産/生殖を論じ、労働を拡張することによって性(セックス)を論じ、労働に付加することによって人種を論じる。
◇ラディカルフェミニズム − ジェンダー構造/性的搾取/対象化
 性(セックス)。性とのアナロジーで労働を論じ、性を拡張することによって再生産/生殖を論じ、性に付加することによって人種を論じる。

■ ジュリア・クリステヴァ
 女性は第二次大戦後に若者などのグループとともに歴史的なグループとして出現した(p308)

 白人ヒューマニズムの論理、ことば、実践に軽々しく参画したこと、そして支配の単一の根拠を探ることによって我々の革命の声を確保しようとしたことに関して、 我々は少なくとも有罪だ(p309)

  
支配の情報工学
 社会主義とフェミニズムのデザイン原則にのっとった見取り図を描出する。スケッチの枠組みは、科学とテクノロジーの緊密な結びつきの中で、世界規模の社会関係の 配置替えがいかなる範囲に及び、いかなる重要性を有するのかによって設定されている。我々は、有機的で産業的な社会から、ポリモルフな情報システムへの移行―― すべてが労働であるような社会からすべてが遊戯、死に至るゲームであるようなシステムへの移行――を経験しつつある(p309−310)

◇P310−311 二項対立的な見取り図の一部
有機体       生体部品(バイオティック・コンポネント)
優生学       人口管理政策
衛生        ストレス管理
生殖        複製
第二次大戦    スター・ウォーズ

 ありとあらゆる対象が、(管理者にとっては)コミュニケーション工学の問題として、(抵抗を試みる者にとっては)テキスト理論の問題として定式化されることを 必要としている。そして、その双方が、サイボーグの理論である。この世界の特権的な病理は、ストレス、すなわち、コミュニケーションの破綻(ブレークダウン)である (p313−314)

 女性たちが直面している状況は、私が支配の情報工学と称する生産/再生産とコミュニケーションの世界システムへの女性の統合/搾取である。我々の身体を創造 しなおすうえでは、コミュニケーション・テクノロジーが必須のツールとなる(p315)

 生体は知の対象として存在することを停止し、生体部品(バイオティック・コンポネント)、すなわちある種の情報処理装置として存在するようになった。原型 (オリジナル)なき複製(コピー)の技術の基底をなすのは、マイクロエレクトロニクスである(p316−317)

 マイクロエレクトロニクスは、労働からロボット工学やワープロ作業、性(セックス)から遺伝子工学や生殖技術、精神からAI(人工知能)や意思決定過程への翻訳を 媒介する。機械と生体との差異は完全にぼやけているし、心とからだと道具が緊密きわまりない関係をとり結んでいる(p317)

 「科学とテクノロジーの社会関係」というフレーズは、科学やテクノロジーが権力の新鮮な源泉となっていること、そして、我々もまた、分析や政治行動の新鮮な源泉を 必要としていることを同時に示唆している(p318)

  
「家庭」の外の「ホームワーク経済」
 「新産業革命」は、新たな世界規模の労働者階級、新たなセクシュアリティや民族性を生成しつつある。エレクトロニクス部門の科学系多国籍企業にとって、第三世界の 国々の女性が好ましい労働力であるということにとどまらず、その構図はもっと体系的で、再生産/生殖、セクシュアリティ、文化、消費、生産を含みこんだものである (p318)

■ リチャード・ゴードン
 新たな状況を「ホームワーク経済」と呼ぶ。内職(ホームワーク)という現象も含めて、労働が女性的(フィメール)、あるいは女性化(フェミナイズド)されたものとして 再定義されつつあることを指す。これが意味するのは、極端に弱い立場に追い込まれ、予備労働力として分解・再組み立てされたち搾取されたりする対象となり、労働者 というよりは奉仕者とみなされるようになり、猥褻かつ場ちがいで、セックスに還元可能な状態と常にスレスレの存在となる(p319)

 貧困の女性化――福祉国家の解体によって、安定した職業が例外と化したようなホームワーク経済によって生起し、子どもを養っていくという意味で、女性の賃金が 男性の賃金に匹敵するようなレベルに達することはないだろうという予測のもとに維持されている動向――が、焦眉の課題となっている(p320)

■ 家族の理想形態の図式(p321)
1.公私二元論に形づくられた家父長制的家族には、公私別々の活動圏という白人ブルジョワイデオロギーと19世紀的な英米系ブルジョワフェミニズムが付随していた。
2.福祉国家や家族賃金といった制度によって媒介(強制)された近代家族――非フェミニズム的なヘテロセクシュアル・イデオロギーが興隆を迎えた。
3.ホームワーク経済の「家族」――さまざまなフェミニズムが爆発的に生まれ、ジェンダーそのものが逆説的に強化されつつ、侵食された。

 食糧やエネルギー作物のハイテク商品化が進んでも、女性がその恩恵に浴することはまずないし、また女性の食糧調達責任が減ずることはないのに、生殖/再生産を めぐる状況はますます複雑になっているので、生活は厳しさを増すばかりである(p322)

 コミュニケーション技術は、あらゆる人々にとっての「公的生活」を消し去る必須のものであり、特に女性の犠牲のもとに、恒久的なハイテク軍事体制が急成長する ことになる。ジェンダー化されたハイテク想像力、すなわち惑星の破壊やその結果生じた状態からのSF的逃亡について思いをめぐらす想像力が、ここに生み出される (p323)

 社会生物学が依拠しているのは、身体を、生体部品(バイオティック・コンポネント)あるいはサイバネティックなコミュニケーション・システムとみなすハイテクの 身体観である。生殖/再生産の状況が変遷を重ねる中で、医療の状況も変化し、女性の身体の境界を「視覚/映像化」や「介入行為」がすりぬけるようになってきた。 セルフ・ヘルプでは不充分である(p323−324)

 どのような政治的アカウンタビリティを構築すれば、我々を分断する科学・技術の階層を横断して女性同士の連携を達成することができるだろう?(p324−325)

  
集積回路の女性
 私は、イデオロギーとしては、ネットワークのイメージの方が好きである。「ネットワーキング」はフェミニズムの実践であるとともに、多国籍企業の戦略でもある (p325−326)

 以下のリストを「アイデンティティへの同一化」や一体なる自己という立場から読まないでほしい。争点は分散にある。散逸構造(ディアスポラ)を生き抜く ことが課題である(p326−329)

■ 集積回路の女性の「位置」を示すリスト
◇家庭
家庭という労働搾取工場の再出現、強化された核家族、激しい家庭内暴力
◇市場
標的となった女性の連綿たる消費労働、金融システムの抽象化、消費の性化の強化
◇有償労働の場
安定雇用の見こみもないような状態、労働が「周縁化」あるいは「女性化」する事態
◇国家
ハイテク軍事化、私化と軍事化の密接な統合
◇学校
資本と公教育の結びつきの強化、大衆の無知と抑圧のための教育
◇診療所/病院
強化される機械−身体の関係、新たな特殊歴史的疾患の出現
◇教会
政治闘争において、精神性が占めつづけている重要な位置

 支配の情報工学は、不安がいちじるしく増幅され、文化が疲弊し、最も傷つきやすい者が生存するためのネットワークが常に欠落しているような状態としてしか、描写の しようもない(p329)

 銘記すべきは、失われたもの、特に女性の位置から見て失われたものというのが、往々にして、致命的な抑圧形態なのであって、そうであっても、目下進行中の暴力に 直面してしまうと、郷愁を帯びて自然化されてしまうという点だろう。ハイテク文化によって媒介された一体性の混乱をめぐる葛藤が必要としているのは、カテゴリー間 での仕分けではなく、ゲームの規則を変化させる思慮深い可能性を秘めた、出現しうる快楽、経験、力についての曖昧な理解である(p330)

 動物や機械と融合する過程を介して、我々は、いかにして人間(マン)たらざりうるか、――いかにして、西欧のロゴスが具体化された存在としての人間(マン)ではない かたちで存在しうるか、――について学ぶことができるかもしれない(p331)

  
サイボーグ――政治的アイデンティティという神話
 本章を、アイデンティティと境界をめぐる神話物語り――ひょっとすると、20世紀後半の政治的想像力とは何なのかをかいまみせてくれるかもしれない神話物語り――を もって締めくくりたいと思う(p332:図版1−巻頭)

 「有色女性」は、科学系の産業にとって好ましい労働力であり、真の女性なのであって、彼女たちのためとあらば、世界規模の性市場、労働市場、生殖/再生産の ポリティクスさえ、めくるめくうちに日常生活へと変貌する。多国籍企業にとって「安価な」女性労働力は極めて魅力がある(p334)

 書くという行為は、植民地支配を受けるすべての女性たちにとって、特段の意味を持つ。ここに至って、書くという権力は、もはや男根的であったり、無垢であったり してはならない。サイボーグの読み書きが男性/人類(マン)の堕落に関わる存在であってはならない。サイボーグの読み書きは、生存のための力――起源における無垢に 立脚した力ではなく、自らを他者として刻印した世界を刻印するツールを制圧する過程に基づいた力――に関わるものである(p334−335)

 近年、我々の身体をC3I 【指揮(コマンド)−管制(コントロール)−通信(コミュニケーション)−情報(インテリジェンス)】 のグリッド上に位置する暗号(コード)の問題 としてテキスト化した。フェミニズムのサイボーグによって語られる物語りには、通信(コミュニケーション)と情報(インテリジェンス)を暗号(コード)化しなおして指揮 (コマンド)と管制(コントロール)を覆すという仕事が待っている。ことばのポリティクスは有色女性のさまざまな闘いに通底しているし、ことばに関わる物語りは、米国の 有色女性によって書かれた豊穣たる現代文学において、特段の力を発揮している。(p335−336)

 サイボーグのポリティクスはノイズに固執し、汚染を擁護して、動物や機械との非嫡出の融合に歓喜する。これらは、欲望の構造を覆し、ひいては「西欧」 アイデンティティの再生産構造やモードを覆す。サイボーグとなることを選んだことによって、より広範な「テキスト」を複製する作業に先立って、個の生殖/再生産に 思いをめぐらすようなある種のリベラルなポリティクスや認識論の基礎が付与されることとなった(p337)

 ハイテク文化は、二項対立に興味深いかたちで挑戦する。我々は、自らがサイボーグ、混成物(ハイブリッド)、モザイク、キメラであると思う。道具とつながって いるという感じ方は、強まっていると思う。機械は、生体の欠損部分・機能を補う装置とも、親密な部品とも、近しい自己ともなりうる(p340−341)

■ フェミニズムSFの例(p341−344)

 サイボーグ――我々に敵対するものではない存在としてのサイボーグ――の想像力をシリアスに受けとめると、いくつかの結論が導かれる。我々のからだは我々自身 のもの――身体は、権力とアイデンティティの地図である。我々は、各種の機械に対して責任ある存在となることができる――機械たちは我々を支配するわけでも脅かす わけでもない。我々は境界に対して責任ある存在であり、我々が境界なのである。サイボーグたちであれば、性や性にまつわる具体的な事物の部分的で、流動的で、 きまぐれな側面を、もっとシリアスに受けとめるかもしれない(p345)

 何をもって日常的活動――経験――とみなすのかという、イデオロギーに満ちた問いには、サイボーグのイメージを利用してアプローチをすることが可能だと思う (p346)

 有機体や、有機体論的なホーリズムのポリティクスは、復活(リバース)というメタファーに依拠し、生殖する性という源泉を要求する。サイボーグに関係があるのは 再生(リジェネレーション)の方であって、サイボーグは生殖の基盤(マトリクス)や大方の出産には疑念を抱いていると思う。我々は、復活(リバース)ならぬ再生 (リジェネレーション)を必要としており、我々が再構成される過程をめぐってのさまざまな可能性の中には、ジェンダーなきモンスターの世界の出現を希求するという ユートピアの夢も含まれる(p346−347)

■ サイボーグの想像力(p347)
1.普遍的で全体化作用を持つような理論の生成は大きなまちがいであり、そうした理論は、リアリティの大半を常にとり逃がしてしまうことになる。
2.科学やテクノロジーの社会関係に対して責任を持つことは、反科学の形而上学をやめることを意味し、日常で遭遇するさまざまな境界を構築しなおすという熟練を 要する作業を大切にし、そうした作業を、他者との部分的な関係性を保ちつつ、しかも我々を構成する各種の部分(パーツ)のすべてとコミュニケーションをとりながら 行ってゆくことを意味する。

 サイボーグの想像力は、二項対立という迷路から抜け出す道筋を提示することができる。サイボーグの想像力は、新右翼の超特価/超救済説教師(スーパーセイバー) たちの回路に恐怖の鉄槌を打ち込むようなことばでフェミニストたちが会話しているような事態に関わる想像力である。サイボーグの想像力は、機械、アイデンティティ、 カテゴリー、関係性、宇宙の物語りといった存在の構築と破壊の両方を意味する。私は女神でなくサイボーグとなりたい(p347−348)



■ 言及
立岩真也 「二〇〇〇年の収穫」


作成:北村健太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20040608 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9100hd.htm
フェミニズム  ◇身体

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