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アリス・ウェクスラー 『ウェクスラー家の選択 遺伝子診断と向き合った家族』 新潮社


◆Wexler, Alice 1995 Mapping Fate: A Memoir of Family, Risk and Genetic Research, University of California Press=20030925 武藤 香織・額賀 淑郎 訳,『ウェクスラー家の選択──遺伝子診断と向きあった家族』,新潮社,361p. ISBN:4-10-543401-2 2730 [amazon][bk1] ※

*ここでは、ウェクスラー家の人々が「どのような思いでハンチントン病研究に関わったか」を中心にまとめている。そのため、研究の進行状況などはあまりまとめていない。詳しくは本書を参照して欲しい。


本書をあえて一言で言うならば
「(ハンチントン病の)研究は成果をあげ、そこでそれまでの経緯をまとめようと筆者はこの本にかかるのだが、書いていくうちに自分や家族のことを書かねばと思った。 そこでこの本には両方のことが書かれている」

立岩真也『ウェクスラー家の選択』(医療と社会ブックガイド・32)
2003/11/25『看護教育』44-(2003-11) 医学書院
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2003010.htm

〈目次〉
日本語版に寄せて
あの病気:はじめに
〈疑惑の身体〉
1 ウッズホールから
2 静かな患者たち
3 一九六八年
4 舞踏病の悪夢
〈舞踏病の物語〉
5 ネッダと希望
6 ハリウッドとスモッグにまかれて
7 「ハンチントン病らしさ」のテスト
8 二重の死
〈読み誤りの地図〉
9 ゲノムによる華麗な飛躍
10 悲しき熱帯
11 マーカーを追って
12 運命の検査
〈遺伝子の行き着くところ〉
13 最重要の情報
14 遺伝子発見から発症前診断へ
訳者あとがき


  
日本語版に寄せて
 病気を突き止める技術が病気を治す力よりも先走ってしまうというDNAの時代に私たちは生きているのです。

あの病気:はじめに
 ハンチントン病は、あの病気と意味ありげに表現され、差し迫った必要があるとき以外には、言及されることがなかった。

■ ハンチントンによる特徴の説明
1.著しい精神障害と自殺企図の傾向
2.年をとってから発症すること
3.遺伝によって病気が伝わること

■ 1983年、ハンチントン病DNAマーカーの発見プロセスの意義
1.人類遺伝学の多くの分野が加速度的に進展していく道を切り拓いた
2.ハンチントン病の発症前診断の議論が、すべての遺伝子診断に関する議論のモデルとして貢献
3.ハンチントン病研究の方法(学際的なワークショップなど)は、他の研究分野のモデルとなる
4.発病リスクを抱えている確実性と不確実性の意味を問い直す契機となった
5.科学の領域において、非科学者が積極的な役割を担うというモデルとなった

〈本文に入る前に、登場人物の紹介〉
レオノア・セービン・ウェクスラー
ミルトンの妻、アリスとナンシーの「母」。ハンチントン病を発病。
ミルトン・ウェクスラー
レオノアの夫、アリスとナンシーの「父」。臨床心理学者。
ナンシー・ウェクスラー
レオノアとミルトンの次女。アリスの「妹」。臨床心理学者。
アリス・ウェクスラー
レオノアとミルトンの長女。歴史学者。この本の筆者。本のなかの「私」

アブラハム・R・セービン
アリスとナンシーの母方(レオノア)の祖父。「謎の病気」で亡くなる。
サビナ・フェイゲンバウム
アリスとナンシーの母方(レオノア)の祖母。アブラハム死後、子どもたちを育てる。
ジェシー、ポール、シーモア
レオノアの兄たち(ナンシーと私から見れば伯父)。全員がハンチントン病を発病。


  
〈疑惑の身体〉
1 ウッズホールから
 ウッズホール 母・レオノアの輝かしい時代
 セービン家の「恥ずべき秘密」

■ ジョーン・ケリーの指摘
 「男性の視点からみた歴史というものは女性の視点からみたものとかなり異なっている」

2 静かな患者たち
 1950年、レオノアの兄たち(ジェシー、ポール、シーモア)に、舞踏様症状が確認される。レオノアは、「病気にかかるのは男性だけだと思い込んでいたので」 ミルトンに知らせなかった。なぜ、遺伝学を学んだ母がそう信じたのかは分からない。自分には発病リスクがないと納得したかったのか?
 1950年代中頃、レオノアは内気になり、受動的な態度になっていった。ミルトンは言う。1936年に結婚したとき、レオノアは活発で、機知に富み、陽気な女性で あったが、1950年代後半には「子どものようになって」しまった。
 ナンシーは「私にはもうお母さんはいないんだ。お母さんはどこかへ行ってしまって、抜け殻が残されているだけ。私に必要なのはお父さんの声だけでなく、 お父さんと『影』でもなくて、両親二人なのにって……泣けて仕方なかった」と後に言う。

 1962年の夏、レオノアとミルトン、別居・離婚。伯父たち、次々と亡くなる。

3 一九六八年
■ ミルトンから娘への告知(1968年夏)
 「君たちのママが、進行性の神経変性疾患であるハンチントン舞踏病になった。この病気は狂気に至ることがあるし、命に関わるし、あなたもあなたの妹も二分の一の 確率で病気を受け継いでいる可能性がある」
 このとき父は、母を、私たちを、そしてハンチントン病のリスクを背負っているすべての人々を救うつもりでいた。遺伝子革命が始まって、すべてのことが可能になると 言った。父は後に「ハンチントン病をやっつける」十字軍に加わった、と述べた。ナンシーは振り返って「あの日、私が一番憶えているのは、私たちのママが死にそうだって ことと、子どもは持たないって決めたことだわ」と言う。

■ ハンチントン病と名付けられる以前
 16世紀半ばのノルウェーや17世紀初期のフランスやイギリスにたどることができる。そのころは「病気」というよりは、特定の家族の「特性」や「欠陥」として広く みなされていた。家族は「病人の集まり」ではなく、「奇人・変人の集まり」とされ、発病した人は「具合が悪い」のではなく「下品で意地が悪い」と思われてきた。 19世紀の初頭になって、初めて舞踏病の医学的説明に「遺伝性」という言葉が現れる。

■ ハンチントン病の残酷さ
 ハンチントン病を残酷に仕立てているのは、発病した人すべてに必ず発病した親や親戚がいることである。子どもは親を失うということだけでなく、社会的な 孤立感や「うちは他と違って、異常なのだ」という受け止め方による烙印(スティグマ)や羞恥心にも苦しむ。ハンチントン病のせいで、子どもは親を虐待したり、 親の介護者となってしまう。そして、通常は発病する前に自分の家族を持つため、患者は自分の子どもたちに遺伝するかもしれないということを知って、罪の意識にも 苦しむのである。

■ ナンシーによる母への告知
 母への率直な病名告知を父がためらったのは、この遺伝の可能性のためであった。病気そのものの「死刑宣告」と同時に、子どもに対する50%の遺伝の可能性という 二重の衝撃を与えるのではないかと、父は恐れていたのである。
 「でも、私はハンチントン病じゃないわよ」
 「ママはハンチントン病なの。パパはハンチントン病のために何かやろうとして一生懸命なの。ママのためにね」

■ 自殺未遂(1970年)
 レオノアは、告知から1年くらいたったとき、薬による自殺を図ったが、一命は取り留めた。これをきっかけに、ナンシーは具体的に自分の家族を省みようという 気になった。ミルトンは「呪い」と「挑戦」という感情をまとめて、後に記した。「行動すること、悪魔と闘うことは生き抜くための唯一の希望だった。何か行動して いるかぎり、希望を持ち続けることができた」ナンシーと私は母の個人的な応援部隊を結成した。

4 舞踏病の悪夢
■ アリスの鬱
 私は希望と絶望の間で揺れていた。「ハンチントン病と闘う」と決意した父や妹に対して、そうなれない自分を恥ずかしく思っていた。だが、私自身が「発病リスクの ある人」になる前にちゃんと悲しんでおく必要がある。

■ 女性であること
 ハンチントン病の診断は女性であることの真髄を突いていた。女性であることは、耐え切れないほどのリスクと恐怖を抱えること、女性性そのものが疾患である こと、そんなことを感じ取らないようにするには至難の業だ。

 ナンシーと私は、母の歴史と私たちを結びつけようと試みた。特に歴史家の私は、「裁判官」(ミルトン)とか「シャーロック・ホームズ」(マリリン)と呼ばれ、 相手を不快にさせた。


  
〈舞踏病の物語〉
5 ネッダと希望
■ ネッダの回復
 ミルトンは、ネッダという女性を治療したことがあり、その回復の経験から、「治癒の望みがない病気でも研究にはひれ伏すもの」と納得するようになったという。

■ パーキンソン病とドーパミン
 パーキンソン病は、ハンチントン病の「鏡像」とも評される。ハンチントン病が、不随意運動が多くなるのに対し、パーキンソン病は徐々に動かなくなっていく病気で ある。パーキンソン病はドーパミンの補充療法が開発されていたので、神経学者は同じようにドーパミンによる治療の可能性を考えた。

■ マージョリー・ガスリー
 ハンチントン病で亡くなったフォーク歌手、ウッディ・ガスリーの元妻であるマージョリーが中心となって、「ハンチントン病と闘う委員会(CCHD)」の組織化を行った。 ミルトンは、マージョリーに会うためにニューヨークへ飛んだ。

6 ハリウッドとスモッグにまかれて
■ ミルトンがマージョリーに提案したこと
1.ハンチントン病専門の研究センターを立ち上げること
2.ハンチントン病の研究に役立つと思われる研究者たちに、相互に話し合ってもらうこと
3.ハンチントン病の研究者を一人残らず、シンポジウムに呼ぶこと

 形式ばらないワークショップの運営の開始(当初はそれほど評価されず)。ハンチントン病研究の紆余曲折の始まり。ミルトンとナンシーの同盟関係ができる。それは ときに痛みを伴った。「ハンチントン病はもうたくさん!!! !!!」ナンシーの私への訴え。

■ ナンシーの論文
『死とともに生きること−ハンチントン病、悲しみ、そして死』
『遺伝子の“ロシアン・ルーレット”−ハンチントン病発病リスクの経験』

7 「ハンチントン病らしさ」のテスト
■ 研究者が目指したゴール
 ハンチントン病とそうでない人の間での相違点を見つけ出すことで、病気という結果を比べるのではなく、病気の原因を明らかにすること。「ハンチントン病らしさ」 の基本が見つかれば、症状が出る前の診断や、薬物療法の道が開けるかもしれない。ドーパミンが関係していないことが分かると、GABA(脳内のニューロン間の活動電位 を抑制する神経伝達物質)に注目が集まった。動物実験、遺伝子連鎖解析など、あらゆる方法が試みられた。

■ ナンシーの果たした役割
 ナンシーはその優れたキャラクターにより、ワークショップを活性化させた。科学者にとってナンシーの存在は、「目の前にある督促状みたいなもの」 だった。
 公聴会にハンチントン病の家族を呼んだときのナンシーの言葉。「これが重要なプロジェクトだという事実だけで、人々にとって癒しになったのだと思う。だって、 あれだけたくさんの人たちが無視や無関心のなかを長い間病気と闘ってきてるんだから」

■ 予防と治療
 連鎖解析研究が中心に躍り出ることになったのは、優生学的な発生予防ではなく、治療法の可能性からであった。しかし、ハンチントン病は注目を集めたにも かかわらず、既に病気になってしまった人々の医療の状況は何も変わっていなかった。

■ 制限酵素
1.制限酵素はDNAをハサミのように切ることができる
2.特定のDNAの繰り返しをクローン化して複製をつくることができる
3.特定のDNAを見つけ出し、目で確認することを可能にする(サザンブロット法)

8 二重の死
■ 衰えていく母、そして死(1978年)
 母は最低限の食事をするだけでも、体力を消耗した。1978年5月14日、その年の「母の日」の夕方6時半に電話がかかってきた。「お母様のレオノア・ウェクスラー様が、 本日6時4分にお亡くなりになりました」葬式をごく内輪で行うと、遺灰を海に撒いた。「あきらめなんかしない。降参もしない!」ナンシーと私は潮騒に向かって叫んだ 後、互いの腕の中で泣いた。


  
〈読み誤りの地図〉
9 ゲノムによる華麗な飛躍
■ 母と娘
 母に対する複雑な感情、つまり自分も母のような悲しい人生を送るのではないかという不安などが、他の多くの「娘」たちによって共有されていることに気付いた。 たとえハンチントン病の存在が、その恐怖を増しているとしても。

■ トービンとハウスマン
 アラン・トービンは病気研究をしたことはなかったが、各分野間のアイディアを統合する考えに興味を抱き、ミルトンの遺伝病財団に参加した。トービンは、まず デビィッド・ハウスマンとの接触を試みた。ハウスマンが遺伝性の病気の遺伝子について研究をしていたからである。

■ RFLPs(制限酵素断片多型)の利用
 1970年代後半には、RFLPs(restriction fragment length polymorphisms)を染色体における疾患遺伝子の大まかな場所を同定するための道具として用いていた。 その結果、連鎖を解析する特定マーカーが利用されていた。RFLP技術が、ハンチントン病のDNAマーカーの発見に利用できるかについて、ワークショップは紛糾した。 しかし最終的には、その可能性に(文字通り)賭けることになった。

10 悲しき熱帯
■ ヴェネズエラの家系図
 ヴェネズエラ・マラカイボ湖周辺には、ハンチントン病患者が集中していた。ナンシーは、マラカイボ湖周辺の家系を調べることがハンチントン病研究を大きく進める ことになると考えた。
 ヴェネズエラの家族は数世代がとても似通った状況のもとで住んでいて、家族の大きさが十分であるため、統計学的な有意差が出る可能性が高く、正確なマーカーでの マッピングも可能だった。環境の違いから症状が起こるとは明らかにありえなかったから、変数を限定しやすかった。さらには、そこで生活する人々の破滅的な社会的 結末、神話や民間伝承、生きぬく知恵まで、病気のあらゆる側面についての検討が深められると考えられた。

■ サンプル採取
 ナンシーはスペイン人地区で研究目的を説明し、血液と皮膚の提供を求めた。ナンシーの皮膚生検の傷跡を見せてまわり、やっと地元の人々は納得した。家系図の作成。 「穏やかな症状」と呼ばれる、将来医学的介入が必要と思われる人たちのリスト作り。

■ 病気になるかもしれないということ
 病気になるかもしれないということは、発病の可能性のない人たちや、ハンチントン病を患っている人たちの感情とは違っていた。事態そのものが、不安定な状態 なのだ。曖昧なことに対してうまく寛容になれないアメリカ人よりも、ヴェネズエラ人はそのことをよく理解しているようだ。

■ 悲劇の書き替え
 船乗りのアントニオ・フスト・ドリアがハンチントン病を持ち込んだという話は、事実ではなかった。裕福で有力な男の名を持ち出し、彼を苦難の始まりとした ようだ。

 ナンシー「私にとってヴェネズエラは、子どもを持つことを意味していた」

11 マーカーを追って
■ G‐8というプローブ(探針)
 G‐8というプローブ(探針)を試したところ、G‐8がハンチントン病遺伝子のすぐそばにある二つのRFLPを取り出したことは、家系図によって明らかだった。その ロッドスコア(信頼性の数値)も十分であった。「ハンチントン病に遺伝連鎖をする多型DNAマーカー (Polymorphic DNA Marker Genetically Linked to Huntington’s Disease)」という論文は、熱狂的な論評に迎えられた。

■ 予期と治療の乖離
 一部の人々に対して、ハンチントン病の致死遺伝子があるかどうか、短期間で調べることが可能になった。しかし、それは死を招く遺伝子を持っていることを告げる ことにもなる。病気を予期できる科学者の力と、その病気を治療する能力の間にある距離の存在が浮き彫りになった。研究成果により、私たちすべての生命、予言と 予防の莫大な空間の底知れぬ扉が開かれた。

12 運命の検査
■ アリスの日記より
 ベイリー「検査は一体誰のためのものなのでしょうか。家族のためなのか、それとも医学の進歩のためなのか。自殺という可能性のために、その人に診断を受ける 資格を与えないということは、本当に許されるのでしょうか」
 検査を推進すべきだとは、私には言い切れない。このような死の判決を受け止める方法はない。私は子どもが欲しい。ストレスは耐え切れないものになって きている。

■ ハンチントン病の決定的な点
 ハンチントン病は、他の身体的な病気とは違う。他の病気では、どんなにつらい痛みや肉体的な限界に達しても、自分がまだ自分であるという認識が消えることは ない。でもハンチントン病においては、自分が自分であるという認識がなくなってしまうのだ。

■ 検査を受けた人々
 彼らは自分が遺伝子を持っていると感じていたから検査を受けたので、陽性という結果でもそれほど衝撃を受けなかった。むしろ、陽性の予感を確証に変え、自分の 人生をコントロールできることが、彼らにとっては大きな利点であったようだ。多くの人は、検査を受けることは検査を受ける当事者たちだけではなく、その家族たち にも関わる問題であると強調した。

 ほとんどの人が、重苦しいほどの不安定な状態から逃れる必要があったことを口にした。年をとればとるほど発病リスクは低くなるにもかかわらず、他の人たちも私 同様、年々増す不安に悩まされていたことを知り、私は驚いた。
 陽性の結果が出た人の中には、検査が不安を取り除かなかったことを認めている。「遺伝子を持っていると知らされて最悪なことは、結局は待たなければならないと いうことです。いつ兆候が現れて、それがどのようなものなのか、誰か教えてくれたらどんなにいいでしょう」


  
〈遺伝子の行き着くところ〉
13 最重要の情報
■ 著作権
 研究グループは著作権の扱いにくい問題を「ハンチントン病共同研究グループ」名義の共同著名という方法を採用して解決した。「共同研究文書化」、共有 された苦闘と仲間意識を発達させ、モラルを保つことになった。

 「ハンチントン病の問題をすべて軌道に乗せ、実現にこぎつけたのは、ナンシーでした。ナンシーの多大な貢献は、ワークショップに参加したことだけでなく、この 家系図(ヴェネズエラの家系図)の作成の過程にあります」

14 遺伝子発見から発症前診断へ
■ ハンチントン病遺伝子の発見
 1983年2月24日、ナンシーから私へ電話。ついにハンチントン病遺伝子が発見される。ジム・グセラは遺伝子名をIT15、Interesting Transcript(興味深い 転写物)の頭文字から取った。その遺伝子が構成するタンパクをハンチンチンと命名した。

■ 当面の成果
 当面の成果は発症前診断の過程を簡素化できたことだ。いまや、発病リスクのある人は、望みさえすれば、検査を受けることができる。費用もかなりや安く、単純な 血液検査と同程度である。だが、私たちは検査に対する注意を促していくのだろうか? 検査が可能ということが即検査を強制することにならないように保証できるの だろうか? 検査を受けないという決心が法的な選択として守られ、検査を受けないことで勇気がないとか、「タイム」誌が書いたように「無知でいたい」欲求などと 言われずにすむのであろうか?

■ 家族という患者
 ハンチントン病の発症前診断は、家族関係すべての複雑な意味合いを含む家族の問題であることが明らかになっている。「自分のリスクを知りたがる個人と いうよりは、むしろ家族そのものが臨床遺伝学の患者なのだ」

■ 残る問題点
1.「発病のリスクが高いという診断が、神経衰弱や自殺につながるのではないか」という懸念があったが、自殺などが比較的少なかったことは良い傾向である。しかし、 検査結果によって自殺しないことと、精神的な平穏を得るということとの間には雲泥の差がある。
2.発症前診断の研究は完全に支援体制が整ったところで行われてきた。特に今までの研究はカウンセリングの効果が中心で、社会的な広範囲の影響についてはまだ ほとんど注目されていない。
3.ハンチントン病の高いリスクという結果に、かなりの気持ちの困難が伴う、個人の事例にきちんと向き合う必要がある。
4.しばしばこういう研究は証拠が紛らわしく、説得力に欠ける。

■ いまだ治療法がない現実
 ハンチントン病の治療法が見つかれば、検査の見通しも大きく変わるだろう。しかし今のところは、検査の選択について、新しい見方が必要だ。ハンチントン病の 検査を受けることは、一部の人にとって、気持ちの上で必要なだけでなく、合理的かつ現実的であるかもしれない。

 しかし一方で、別の人たちにとっては、検査を受けないということが、理性的で現実的な選択なのだ。マスメディアにときどき煽られるように、真実や事実から 逃げているのでもなく、勇気がないわけでも、責任逃れや「無知でいること」を選んだわけでもなく、「自我の強さ」に欠けているのでもない。

cf.
◇目次他(http://www.arsvi.com)
 http://www.arsvi.com/b1990/9500wa.htm
松原 洋子 20040910 「書評:アリス・ウェクスラー著、武藤香織・額賀淑郎訳『ウェクスラー家の選択――遺伝子診断と向き合った家族』」,『日本生命倫理学会ニューズレター』28:4

作成:北村健太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20040608 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9500wa.htm
ハンチントン病  ◇遺伝子  ◇遺伝子検査 

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