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>HOME >DATABASE 前田幸男 「連合政権構想と知事選挙―革新自治体から総与党化―」 前田 幸男 19951200 「連合政権構想と知事選挙―革新自治体から総与党化―」『国家学会雑誌』第108巻第11・12号 〈目次〉 序章 問題設定と分析視角 (一)問題設定 (二)分析視角 第一章 革新自治体と路線論争 (一)「社共共闘」 (二)「全野党共闘」 第二章 「与野党伯仲」 第一節 社会党の路線問題と公明党 (一)ロッキード選挙と江田離党 (二)党改革と総評 第二節 民社党と京都府知事選挙 (一)民社党の政権構想 (二)78年京都府知事選挙 第三章 「自公民路線」か「社公民路線」か 第一節 「自公民路線」と東京都知事選挙 (一)社会党委員長としての飛鳥田一雄 (二)79年東京都知事選挙―社会党と総評の対応 (三)79年東京都都知事選―自民党の対応 第二節 「社公合意」から「総与党化」へ (一)統一地方選挙後の路線論争 (二)79年総選挙 (三)80年衆参同日選挙 (四)地方政治の「総与党化」 結語 序章 問題設定と分析視角 (一)問題設定 ◆地方政治の「総与党化」の問題点について説得的な議論がない。 「その原因の一つは、日本の政治学において地方政治は基本的に行政学の守備範囲とされ、時事的な評論を除けば、地方における政党政治があまり関心を集めなかった点 にある。」(121頁) ◆いくつかの分析類型 1.行政官僚の行動(ジャーナリズム、山口二郎、新川敏光) 「この立場は、日本の行財政における中央集権的構造を前提とした上で、福祉や環境等の党派性の強い政策をあえて推進した革新首長が、石油危機以降の税収減に対応 できずに、その統治能力不足を露呈して、行財政手腕に優れた自治官僚を中心とする高級官僚にその座を明け渡した点を強調する。そして、その官僚出身首長の手堅い 行政手腕が「相乗り」を正当化したと主張する。」(122頁) 反証←片岡正昭「自民党国会議員の党内キャリア・パターンの制度化と国会における「与野党伯仲」が、政治家による知事選出馬を困難にし、その空白を埋める形で、 官僚が知事選挙の候補者になっている」(122頁) 2.開発行政(加茂利男) 「70年代後半以降の財政危機により、革新自治体の時代は終焉し、その後、国土開発・都市再開発が地域社会でのコンセンサスとなる。このため、地方政治の在り方が、 50年代前半から60年代前半にかけて各地で保革の融合をもたらした開発型へと逆戻りし、その結果、「総与党化」現象が生じたというのが加茂の主張である。」 (122頁) 反証←高度成長期以降と離陸期の開発行政における「協調」だけでは、「先祖がえり」を説得的に論証できない。 3.有権者の意識=「保守回帰」(間場寿一) 「70年代前半には、重要な大都市の首長選挙で革新系の候補者が勝利をおさめた。しかし、79年には、「保守・中道」系候補が、「革新」系候補を圧倒し、革新自治体の 時代は終焉した。この立場は、それを80年代に国政で顕在化した「保守回帰」の先駆と位置付け、「総与党化」もその連続線上の現象だと主張する。」(122頁) 反証←75年の統一地方選と79年の統一地方選の選挙協力のパターンの違いを軽視 (二)分析視角 ◆筆者の仮説 「地方における政党の党派対立の在り方は、国政レヴェルの政党間関係に規定され、その変動は衆議院選挙と参議院選挙という二つの選挙、とりわけ総選挙の結果により 生ずる政党間関係の変化によりもたらされる、というものである。」(124頁) 第一章 革新自治体と路線論争 (一)「社共共闘」 1955 左右社会党統一・保守合同―「55年体制」 ◇56―59(前)、60―63(後)…自社対立型の知事選挙がそれぞれ19回 ◇同じ時期に、保守分裂選挙(知事選)も(前)12回、(後)10回 ◇「労農提携」…社会党が農業利益を代表する保守的候補を支援し、自民党を破る ◇自社同一候補…(前)9回、(後)7回 「「保守」−「革新」の対立を基調しながらも、「保守」政党の組織化が不十分で分裂を繰り返していた時期だと思われる。」(131頁) 1963 自社対立の明確化 「60年代前半、社会、共産両党は外交路線、原水禁運動、64年の4・17スト等をめぐって対立を深めており、「革新」勢力は「分裂の季節」を迎えていた。」(131頁) 1964 社・左派優位の執行部確立 1966 社・第27回党大会『道』改定→左傾化 1967 「明るい革新都政をつくる会」…社共共闘確立 1968 社・第30回党大会「中期路線」…政権構想のレベルでの連立志向は未確立 (二)「全野党共闘」 1969 総選挙…社・90議席 ◇民社「民主的革新政党の統一」(西村委員長)、社「江田構想」(江田書記長)、公明「中道革新連合」(竹入委員長)を次々と発表 1970 社・第34回党大会「新中期路線」…「国民連合政府」構想を明記。「全野党共闘」路線。ポスト・「70年安保闘争」。「成田―石橋」執行部成立。 ◆68―71…社共共闘14回(知事選)、公明・民社は「中立・自主投票」路線(例外:70年京都府知事選…自公民型成立)。参院選(71年)では社公民の選挙協力も 一部実現。 1972 総選挙…社・118(←90)、共産・38(野党第二党)、民社・19、公明・29 1973 公明・第10回中央委員会…左傾化(安保「早期解消」→「即時破棄」、公・共関係の進展)、「ブリッジ共闘」路線、美濃部都政与党入り、沖縄・岡山知事選 (72年)で四野党選挙協力。 ◇各党の連合政権構想 「本格的に反自民の四野党選挙協力が成立するのは72年総選挙後のことであり、その意味で、「社共共闘」型革新自治体と「全野党共闘」型革新自治体は区別する必要 がある。公明党の路線転換により、知事選挙における選挙連合のあり方は大きく変化したのである。」(135頁) 1974 京都府知事選…72年府議会・部落問題蜷川問責決議→社共関係悪化、73年大橋(江田派)府本部委員長就任、府本部方針(「革新府政推進本部」) 「反蜷川・反共産」を明記。石橋書記長(反蜷川)と成田委員長(親蜷川)でのズレ→第37回党大会江田派決議案を否決(運営委の時点)。成田、京都に蜷川を 説得に出かけるが、当地で、蜷川7選支持を表明。結局、共産・左社vs右社・公明・民社・自民で4500票差で蜷川辛勝。 ◆参院選、自民・129、全野党・122…「与野党伯仲」 ◇74―76…社・共対立(同和問題)、自社民・公共対立(公職選挙法)、「創共協定」、三木政権 1975 統一地方選挙…「保革痛み分け」 「72―75年の共闘率を検討すると、民社党が共産党と自民党の両方と同程度協力していることが確認できる。しかし、公明党の反自民色は鮮明であり、かつ、社会党を パートナーとして選択していことが分かる。」(136―137頁) 第二章 「与野党伯仲」 第一節 社会党の路線問題と公明党 (一)ロッキード選挙と江田離党 1976 総選挙…「保革伯仲」、7つの常任委員会が「逆転委員会」。第80回通常国会では、政府予算案に関して、5野党が合意、政府の妥協に民社・新自由が賛同する など「中道政党」の位置が上昇。自民・249、共産・17(←38)、社・123(←118)、公明・55(←26)、民社・29(←19)、新自由クラブ・17(直後、「首班指名 問題」)。 ◇共産より、中道を重視せざるを得ない社会。 ◇「ロッキード事件」の発覚、80年同日選挙までの自民党の党内抗争へ。 ◇社・成田委員長「選挙管理内閣」「二段階政府構想」を発表…公明・矢野書記長、民社・塚本書記長「社公民路線」を強調。共産排除をしない限り協議はできないと していた。 ◆社会党内派閥抗争 左…協会―佐々木派―勝間田派―「流れの会」(73年結成)―江田派…右 成田―石橋執行部支持…協会・勝間田派 批判…江田派・「流れの会」・佐々木派 「この段階で党内の主要な派閥対立は、「全野党共闘」を支持する協会・三月会に対抗して、「社公民路線」を支持する江田派・「流れの会」と、「中道」政党との 協調へと転換しつつあった佐々木派が結束するとうい構図へと変化し、勝間田派は意見の相違から分解過程に入った。」(141頁) ◇「流れの会」…「社公中軸」路線、佐々木派…協会派の理論手段化 1977 社・第40回党大会 「社会主義協会が党を制圧した歴史的大会」(貴島)…書記長を含む七つのポスト選挙で勝間田・協会派が勝利。総選挙の「敗北」を認めず、左傾化。 ◇公・民からの批判、共からの支持。 ◆江田離党・病死→執行部批判が噴出。 第54回中央委員会「党改革委員会」の設置…党内統一、『道』再検討、党内民主主義の確立など「党改革案」作成を決定。 「しかし、この段階で「道」の再検討を確認したことは、路線問題の議論からタブーをなくし、後に社会党の大勢が「中道」政党との連合に傾斜する契機と なった。」(143頁) (二)党改革と総評 1974 国民春闘 1975 スト権スト失敗 ◇同盟「経済整合性論」を主張 「75、76年春闘の賃上げ率はそれぞれ、13・1%、8・8%と前年を大きく下回り、春闘の主導権が総評から、民間大手労組、IMF・JCに移行する契機となった。」 (143頁) 1976 総評・第53回定期大会…「市川議長―大木事務局長」→「槙枝元文議長(日教組)―富塚三夫事務局長(国労)」 ◇総評・同盟を横断する「政策推進労組会議」…「社公民路線」、「連合」の源流、総選挙に「総力戦」、「反独占・反安保」後景に。 1977 「社会党強化のための七項目提言」を社会党に手渡す。参院選の敗北(32→27)、成田―石橋執行部の退任。 ◆反協会派の結束。 同年 社・第41回党大会…「流れの会」主力(楢崎弥之助・田英夫・秦豊)大会一日目で離党。飛鳥田は委員長不出馬。 ◇各派閥は理論集団化。 ◇党改革委員会下、飛鳥田「三見解」(委員長公選、委員長権限強化)を受容できる体制作り。12月に飛鳥田受託。 1978 横浜市長選―公明・民社・新自由で自治官僚・細郷道一を擁立(→社会党も「相乗り」) 同年 公明・第15回全国大会 「この段階で、社会党を媒介に、共産党と公明党が「ブリッジ方式」で、首長選挙協力をやる可能性は消えた。」(147頁) ◆竹入委員長、自衛隊「認知」発言 第二節 民社党と京都府知事選挙 (一)民社党の政権構想 一貫した反共、70年代前半から「安保評価」、「保守」に対する柔軟路線 1976 総選挙 民社・29(←19)…公明党との間に常設の協議機関設置。 1977 民社・第21回党大会 ◆参院選11(←10、非改選議席含む) 埼玉・香川を除いて「全野党共闘」は消滅。釧路市長選は民社・公明(背後から自)が、社会党現職に打ち勝つ→79年「自公民路線」の「伏線」。 1978 民社・第23回党大会 「民社党は条件付きながらも、「中道」政党のイニシアティブにより、「保守」政党との「大連合」政権が有り得ることを党大会で明示し、公式に「社公民 路線」を放棄した。」(151頁) (二)78年京都府知事選挙 1977 「新しい日本を考える会」京都で集会。「中道革新新政府の樹立をめざして」を発表。府知事選における協力についても提言。 ◆社会党府本部大会「運動方針」…共産党との共闘に拒絶反応。中道政党を重視。社会党から共産党との協議を中止。以降、共産は独自候補擁立のため動き出す。 社会・公明=山田芳治副知事、自民=林田由紀夫参議員、民社=滝川春雄大阪高裁判事 ◇公・民共闘の足並みのズレ(→中央方針との「乖離」)、民社が宙に浮く。塚本書記長は、社会に重きを置く公明を批判しつつ、社公民路線「堅持」を表明。民社は 「大連合」を目指すため、岡本道雄京大総長擁立を画策するも、公明が山田を「推薦」したため、失敗。結局、民社も山田を「支持」(しかし、支部の中には林田で 動くものも)。 ◇京都地評は「自主投票」…社会党支持者三候補者に分裂、林田の勝利。 第三章 「自公民路線」か「社公民路線」か 第一節 「自公民路線」と東京都知事選挙 (一)社会党委員長としての飛鳥田一雄 1978 飛鳥田(平和同志会出身)・社会党両院議員総会にて「中道」批判 ◇公明・第28回中央委員会「新しい革新」(竹入委員長)…保守柔軟路線、飛鳥田見解批判、公明・民社・新自由・社民連の四党首会談のスタート。 ◇この時点で、共産の排除はしないという飛鳥田体制の立場。 ◇日教組が公明を批判、総評の運動方針に「反独占」が復活し、中道政党との距離が出来る。 (二)79年東京都知事選挙―社会党と総評の対応 1978 美濃部四選不出馬を表明、社公中軸を希望。 ◇太田薫総評元議長の立候補、「社公民路線」からのなしくず「保革連合」への変化を批判(横浜、京都)。 ◇飛鳥田(社・共・公路線)や都労連は太田に難色。しかし、第57回総評定期大会での擁立が決定し、「三者会談」(美濃部、飛鳥田、竹入)は「小休止」となる。 「結局のところ、総評が太田擁立を大会決定したことにより、公明党は他の「中道」政党との交渉を重視する立場へと変化し、東京都知事選に関しては、社会党とその 袂を分かつことになったのである。」(163頁) ◇社・都本部は都留重人に要請、太田は牽制、79年には「飛鳥田メモ」で太田批判。 ◇都労連が共産党の太田推薦を受けて太田側に回り、後藤喜八郎擁立を断念し、社も太田を推薦を決定。 (三)79年東京都都知事選―自民党の対応 新自由、自民・公明・民社に共同候補擁立を呼びかける。 ◇総評太田擁立以降、野党四党首会談が活発化、自民・大平新総裁誕生後、自民も加えた五党選挙協力が合意。公明・民社が鈴木俊一、新自由・自民一部が牛尾治朗、 大平自民は鈴木を選択し、「自公民」選挙協力が確立。 1979 公明・第16回党大会…社会党離れを鮮明に。 同年 社・第43回党大会…中道政党批判、党の主体性確立の重視 「このような飛鳥田の行動様式は、「部分連合」とうい手法で、柔軟に妥協する大平の行動様式と比較すれば、「保守」政党と「革新」政党の双方が、「中道」政党との 協力を目指す場合に、「革新」政党を決定的に不利にするものだったのである。」(166頁) ◆鈴木が、45万票差をつけて太田に勝利 76―79と72―75のサイクル…社共共闘は一定、自・民社、自・公の共闘が上昇。社会と公・民社との共闘が減少。→公明党が、社会党から自民党との協力に方針転換。 1979 統一地方選…革新自治体の時代の終焉(「社公民路線」から「自公民路線」へ≠「総与党化」) ◇東京都・秋田県・茨城県・長野県などで自公民路線、大阪府では自社公民、神奈川県で自社公民共、青森・岩手・石川・北海道・福岡などで社共共闘が成立していた (「選挙の競争性」)。 第二節 「社公合意」から「総与党化」へ (一)統一地方選挙後の路線論争 統一地方選挙後…「自公民」路線の確立。 1979 民社・第24回党大会…「中道」政党と自民党の連合。 公明・第31回中央委員会…民社と異なり、社会との関係は慎重派。 社会・全国書記長会議…「中道」路線を容認しつつも、党の主体性確立を再度強調。 総評・富岡事務局著「一党支持解消」を提言→第59回定期大会…「中道」政党を含む、多数派結集に柔軟姿勢。「五人委員会」設置。 (二)79年総選挙 1979 総選挙 自民・248、社会・107(←117)、公明・57(←55)、民社・35(←29)、共産・39、新自由・4、社民連・2 ◇社・飛鳥田…「安保空洞化論」「大衆運動論」を強調、しかし、惨敗。 ◇公明・民社・新自由・社民連による「選挙協力」(四党10選挙区、公・民22選挙区) ◇全電通・全逓の単三が公明党との選挙協力に。総評は「追認」。 ◇「五人委員会」では、総選挙後、総評が野党第2党の公明党との協力関係を要請(社会党中執委は「政権協議」に入ることを決定)。 1979 公明・第32回中央委員会…野党間で「共同政府綱領」を作り、民社と政権協議に入ることを表明。 社会・第57回中央委員会…飛鳥田、「排除の論理」を取らないと表明(←公明、総評の反発)。 ◆「社公合意」 「最終的には、北山副委員長が、「公明党をこっちにつないどくだけで意味がある」と主張し、飛鳥田を説得したことから、飛鳥田もやむをえず共産党排除を決断し、 社会、公明両党は「連合政権についての合意」(いわゆる「社公合意」)に調印した。これ以降、社会党共産党は各々の機関紙上で、激しい批判の応酬を開始し、政権 構想のみならず、大衆運動や地方組織でも、両者の亀裂はほぼ修復不可能なまでに拡大したのである。」(173頁) ◇安保・自衛隊に関しては公明が譲歩。 (三)80年衆参同日選挙 民社・「社公合意」批判、公明(第17回党大会、80年)・公民・社公共闘に「自画自賛」、社会・第44回答大会「反独占国民戦線」を協調(が、協会派の補強意見を盛り 込んだことが、民社・公明から批判の的に) 第91回通常国会…社公民は予算修正で共同行動、参院選で協議、労働四団体も選挙協力で合意(総評、同盟、中立労連、新産別)→「自民党一党支配打破」共同アピール 1980 飛鳥田・内閣不信任案を提出、可決。大平首相の死。衆参同日選挙。 民社・保革連合を主張、社会・「大連合政権」拒絶…「社公民路線」の不協和音 ◇自民党の圧勝、与野党伯仲状況の終焉 (四)地方政治の「総与党化」 1980 総選挙後…公明・社公民路線再検討、社会・社公合意を凍結 1982 公明・第41回中央委員会…「社公民路線」を放棄 ◇「自公民路線」が基調に ◆総与党化…79年地方統一選挙を境に、中央よりも早く地方で、自公民路線は定着していたが、社会党は単独で知事選を闘えなくなってきていた→三つの選択し(独自 候補、中立・自主投票、相乗り) 「社会党は、この三つの選択肢の中から、「選択」を迫られることになったのであり、結果として知事選挙における「自公民路線」の定着と、「社公合意」による社会、 共産両党の関係悪化は、「自社公民相乗り」の「総与党化」につながったのである。」(175頁) 1982 林田2選…自公民共闘は初めから決定(新自由・社民連も相乗り)、社会は共産が先行して川口是を候補としたため反発、社共共闘の「復活」もならず ◇社会・「自主投票」。 1983 鈴木2選…東京では、松岡英夫を共同候補として社共が擁立。「明るい会」の解散により、「革新都政をめざす各界連絡会」(共産系)、「革新都知事候補を選ぶ 都民の会」(社会系)などが結成、田英夫(社民連)に要請するも拒否。 ◇83年統一地方選で社共共闘が成立したのは東京都・福岡県のみ。残りは、自主投票が5県、保守・中道政党とともに社会党が与党を選んだのが4県。80―83と76―79の サイクルでは、自公民路線が上限まで達し、社・公・民、社・自、社・共はあまり違いがない。共産党との共闘は半減。 同年 石橋委員長…「ニュー社会党」、公明との関係も修復。 1986 『新宣言』…西欧型社会民主主義を目指すことを宣言。 同年 京都府知事選…荒巻を社会は「推薦」。 1987 東京都知事選…社共共闘の終焉(86年都本部大会での決定、右派指導部の確立) 同年 統一地方選…84―87サイクルでは社共共闘がさらに半減。 1991 東京都知事選…社・単独候補、しかし、選挙後、鈴木与党支持に回る。 84―87…中立・自主投票17県、独自候補1都1道5県、相乗り2府15県 88―91…中立・自主投票13県、独自候補1都4県、相乗り2府20県 ◇知事選挙から政党間(保革間)競争が失われた。 ◇「保守」分裂選挙が増加(一都六県) 「知事選挙において、自民党を中心とする知事与党に挑戦する、非自民の有効な対抗選挙連合の形成が不可能になり、政党間競争が弛緩したことが、逆に自民党内での 対立を誘発したためであるように思われる。」(178頁) 結語 ◇要約 「まず、第一に、都市部における多党化と、社会党の単独政権の左傾化によって、「社共共闘」型の選挙連合が可能になり、それが革新自治体の登場をもたらした。また、 首長選挙では基本的に中立・自主投票だった公明党が、72年総選挙を境に左傾化したが故に、「全野党共闘」型の選挙連合が可能になった。」(180頁) ◆例外1 北海道:自社対決構図の根強さ 「第二に、76年総選挙を境に、「中道」政党が躍進し、政局のイニシアティブを握ったのに対し、社会党内部の「全野党路線」派と「社公民路線」派の抗争、並びに、政党 間連合を軽視する飛鳥田のリーダーシップは、「中道」政党の離反を招いた。それが、「社共共闘」型に対抗する「自公民路線」型の選挙連合を許し、革新自治体の崩壊へ とつながった。」(180−181頁) ◆例外2 福岡県:社会党福岡県本部左派「社公合意」に反対、緩やかな社共共闘 「第三に、80年の「社公合意」の結果生じた、社会、共産両党の決定的な関係悪化と、衆参同日選挙後に国政でも定着した「自公民路線」により、社会党の知事選挙に おける選択肢は極めて限定された。それが、社会党の「現実主義化」とともに、「自社公民相乗り」の「総与党化」へとつながっていった。」(181頁) ◆例外3 沖縄県:社大党を「要」とした、革新連合 ◇93年以降 「つまり、政策的対立がなくとも、公職獲得のために動員できる資源、組織さえあれば、選挙自体は活性化しうる。…公選首長選挙は二つの「保守」政党の激しい選挙戦 の舞台になる可能性が高い。これが今回の研究から導きだした、現段階での筆者の仮説である。」(182頁) 製作:山本崇記(立命館大学大学院先端総合学術研究科) UP:20050103 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9512my.htm |