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中山元 『フーコー入門』 ちくま新書


中山元 199606 『フーコー入門』 ちくま新書(660+税) [bk1]

 Polylogos
 http://www.nakayama.org/polylogos/
 フーコーサイト
 http://www.nakayama.org/polylogos/philosophers/foucault/


要約:北村健太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科)

 本書はその名の通り、フーコーの入門書である。フーコーの仕事は現代社会を考える上で重要であり、かつ多彩である。そのため、フーコーは「一貫性がない」という印象を持たれることも少なくない。中山氏はその点を鑑み、「フーコーの中での一貫性」というものを考慮した上で本書を執筆している。フーコーの思考の軌跡を追いながら、フーコーは何を考えたのか、簡潔にまとめている。
 この要約では、私の関心に近い第2章・第4章・第5章を中心にまとめている。中山氏が要約した「フーコー」をさらに私が要約したので、乱暴なまとめにならざるを得ない点を予めお断りしておく。特に重要と思われるキーワードは列挙したつもりだが、割愛した部分でも重要なものが少なくない。ページ数も少なく値段も手ごろであるから、以下のキーワードに関心のある方には一読を勧める。

キーワード:現代医療、国家権力、狂気/異常と正常、資本主義、自由、身体、生命、福祉国家、性、学校 …etc.

〈著者紹介〉
中山元(なかやま・げん)1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。翻訳家。
主な訳書:フロイト『自我論集』(ちくま学芸文庫)、サンデイ『聖なる飢餓――カニバリズムの文化人類学』(青弓社)、バーナウアー『逃走の力――フーコーと思考のアクチュアリティ』(彩流社)など。

〈目次〉
序 現在の診断――フーコーの方法
第1章 人間学の〈罠〉
第2章 狂気の逆説――『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』
第3章 知の考古学の方法――『言葉と物』『知の考古学』
第4章 真理への意志――『監視と処罰』
第5章 生を与える権力――『知への意志』
第6章 近代国家と司牧者権力
第7章 実存の美学――『快楽の活用』『自己への配慮』
終わりに 真理のゲーム

第1章 人間学の〈罠〉

 フーコーの問う主体は、問いの客体そのものであり、問いの内容は問いの客体によって規定されていた。人間が「正常である」という規範的な考え方を受け入れるように強制するものを暴きだし、人間の〈本質〉という思考そのものを侵犯しようと試みること、それがフーコーの思考の倫理(エチカ)となる。

第2章 狂気の逆説――『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』

■ 『狂気の歴史』(1961) フーコーの処女作と位置づけられる。
 サンタンヌ精神病院での経験がもとになっている。患者の心理学的な分析ではなく、医者と患者の関係がもつ意味を探る。狂気が近代以降の西洋社会において、いかに〈精神の病〉と考えられるようになったか、精神病理学の成立条件そのものを解明しようとする試み。

 癩(ハンセン病)は、〈業病〉として古代から忌み嫌われ、病者を施療院に閉じ込めてきた。しかし17世紀に急減したため、性病患者が、そして次に〈非理性〉の人々が監禁される。M・ウェーバーが示したように、宗教改革によって労働は神聖な行為となった。すると貧困は救済すべき悲惨な状態ではなく、慈善事業は罪悪となる。労働しないことは「神の力を試すこと」であり、これはすべての反抗の中でも、最悪の反抗と見なされる。

 監禁施設では医学と道徳が、狂気に対して共犯関係にあった。狂気を〈治療〉するという医学的な行為が、その罪を〈罰する〉という道徳的な行為を含む。家族の道徳にふさわしくないと判断された人間は、狂人と分類され、監禁され、身体を傷めつけられる。

   国家が医学を組織するようになると、医学が国家において重要な位置を占める。医学は単なる治癒の技術と治癒のための知識ではなく、「健康な人間」についての規範を含むものとなる。「健康な人間」とは「病気でない人間」であるだけでなく、「模範的な人間」の定義を含むものになった。社会や民族の健康は、正常性と異常性という医学的な概念において判断される。国家と医学は、この正常性の確保と異常性の排除という点で手を結ぶ。

第3章 知の考古学の方法――『言葉と物』『知の考古学』

■ 人間についての学問に、生命、労働、言語という新しい概念が登場した。それらによって成立した学問は特権的な地位を占める。
→生物学、言語学、経済学

■ 近代において人間が主体であると同時に客体である一群の奇妙な学問の登場。
→心理学、社会学、文化史、思想史、科学史など

■ ディスクール、エノンセ、アルシーヴ
ディスクール(言説)……エノンセの全体的なまとまり
エノンセ(言表)……行為によって実際に語られたものを意味するもの
アルシーヴ(古文書)……事件としてのエノンセの不可視総体

第4章 真理への意志――『監視と処罰』

■ ニーチェの系譜学
 真理を語るものの視点から考えるという「パースペクティヴ主義」を採用。「真理とは何か」という〈本質〉への問いから「真理を語る者は誰か」という政治学的な問いに転換させた。
 ひとつの社会において、あるイデオロギーがいかにして真理として信奉され、それが人々を動かし、死に至らしめるか。真理の理論を分析するには、歴史的な知とエピステーメー(知の枠組み)だけではなく、社会における様々な主体の間の権力関係を分析する必要がある。フーコーは権力を主体の内部から機能する力として分析する。学校や社会や様々な制度と組織の内部での権力の装置の微細な分析を行った。

■ 『監視と処罰――監獄の誕生』(1975:邦訳『監獄の誕生――監視と処罰』)
身体から精神に向かうベクトル――〈従順な身体〉
 18世紀後半になると、兵士は国民の身体を改造して、服従し、訓練される従順な身体が作られる。学校で、兵舎で、病院で、工場で、身体を対象とする細かな規則が定められ、近代社会に適合した人間を作り上げるための微細な技術が開発された。
 空間の配置の技術では、学校、兵舎、工場などの閉鎖的な空間を設置し、時間の配置の技術では、起床から就寝に至るまでの時間を細かに割り振る。明治期の日本においても、工場で、兵舎で、学校で、同じような身体の規律と調教の技術が活用された。資本主義社会に適した身体は、こうした一連の技術と訓練を通じて作り上げられた作品である。
 身体の調教は、精神の調教に至らなければ効果を発揮しない。社会にとって重要なのは社会の意図に沿って自発的に行動してくれる人間である。そのような主体を形成するために〈試験〉が使われる。学校は「中断のない一種の試験装置」となった。学校では、学生や生徒は試験によって評価され、学ぶことを奨励され、そして次の試験装置に入るための資格を付与される。試験のために学び、試験のために備える学生の生活と知の全体が、この構造に規定されてしまいかねない。
精神から身体へ向かうベクトル――〈パノプティコン〉
 ベンサムは試験の原理をパノプティコン(一望監視装置)として建築的に示した。この装置では中央の監視塔に監視者が常駐している必要がない。監視される可能性があることで、監視される者の心の内側に第二の監視者が生まれる。この「残酷さと学識に満ちた檻」は、規律社会において監獄、病院、学校、工場など様々な用途に応用できる。
 〈自由な社会〉が形成されるのは、自由な個人によってではなく、身体を調教され、精神を監視する大きな〈眼〉を魂の内部に埋め込まれた主体である。従順な身体の形成と個人の身体に注ぐ〈眼〉によって、道徳的な主体を形成させる。この監獄という監禁施設を中心にして、近代の社会は〈監禁都市〉を形成する。こうした社会では、「監獄が工場や兵舎や病院に似通い、こうした全てが監獄に似通っても何ら不思議ではない」のである。

第5章 生を与える権力――『知への意志』

 従順な身体とパノプティコンのモデルは、近代社会の〈規律権力〉の分析に最適だった。しかし、近代社会はそれだけでは分析できない要素を持っており、これを〈生―権力〉(ビオ・プヴオワール)と呼ぶ。フーコーは、規律権力の後に、生―権力が誕生し、重層的に重なったと考える。規律(従順な身体)と道徳性(パノプティコン)という通路ではなく、性(セクシュアリテ)という私秘的な通路から管理することが必要となった。
 性の問題が教育と医学と経済を仲介して、国家の問題となり、「社会集団全体とそれを構成する個人の一人一人が、自分を監視することを要求されるという事件」が発生した。性のテクノロジーを、女性の身体のヒステリー化、子どもの性の教育化、生殖行為の社会的な管理、性倒錯に対する医学的な関与という領域で検討した。近代の生―権力は、性という最も私秘的な場所に支配の拠点を確保した。個人は、最も秘しておきたく、かつ好奇心をかられる性という通路から管理される。これを「性の装置」と呼ぶ。

第6章 近代国家と司牧者権力

 生―権力は「生を与える権力」である。住民全体の生活と幸福に配慮する権力であり、外見的には穏やかな権力である。疾病を防止することは、住民全体の福祉を向上させ、社会の利益を守ることである。〈福祉社会〉と言われる社会の年金や失業保険は、近代の特殊な慣行であり、新しい権力と結びついている。
 生―権力の社会は、人間の生の尊重を謳う社会であるが、同時に原爆を製造する社会でもある。フーコーは、生―権力が大量殺戮を可能にするのは、〈人種〉という原理だと考える。戦争とは、ある意味で人種浄化運動である。生―権力は、生かすこと、国民の生活の福祉向上を名目としながら〈人種〉の原理によって自国の国民を戦争に追いやる。福祉社会という理念は美しいとしても、福祉の名における国家の国民の管理や、国家による福祉保障という発想に落とし穴はないのか。福祉社会の先進国である北欧諸国やカナダなどは優生学研究の先進国でもある。

■ 司牧者権力
 近代の権力をキリスト教会の司祭と信徒の関係になぞらえた。この権力は他者の幸福を目的とするというみせかけのもとで、教会の支配の原理を貫徹させることである。この権力において最も重要な機能は、敵に対して勝利することではなく、自分が守る人々の幸福を確保することにある。個人の生活の物質的な福利を確保するという日常的な目標を達成することが、この権力の目標である。

第7章 実存の美学――『快楽の活用』『自己への配慮』

 フーコーは、司牧者権力に近代福祉国家の権力の起源を見ていた。司牧者権力を引き継いだ生―権力が、人々の幸福を目的として支配する限り、この福祉社会が死の権力と化すことに抵抗できないのか。司牧者権力は、生を目的とするように見えながら、実は生者に死を命じる「悪魔的な」あり方をする権力である。この権力に対する抵抗の拠点は何か。フーコーは、それは自己の身体と欲望に忠実になることによって、新しい生き方を創り出していくことだと言う。これを「実存の美学」と言う。

終わりに 真理のゲーム

■ 司牧者権力への抵抗の可能性
1.人々が自己を放棄しないこと、自己の欲望を断念しないことにある。わずかながらでも自己と社会を変えていくことである。
2.真理の概念を解体して、それをゲームと見なすこと。真理とは他者との権力関係において成立する。真理の複数性を念頭に置き、他者との関係を変えていくことである。

■ パレーシア(真理を語る)
 政治的な問題に関して自分の思うままを語ること。パレーシアステース(真理を語る者)は、自分なりの真理を語ることができる。真理のゲームの中で「別の真理」を語ること。それが真理の歴史性を暴露することになる。

Foucault, Michel

cf.市野川容孝 2000 『身体/生命』 岩波書店 思考のフロンティア


作成:北村健太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20030618 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9606nh.htm
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