>HOME >DATABASE

加藤秀一 『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』 勁草書房


加藤秀一 19980910 『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』 勁草書房 344+26p.,3400+税
*ここでは、第2章第5章を詳しく紹介する。

〈目次〉
フェミニズム――未踏の理論/闘争のために
【序】
序章  性現象論に何ができるか
【I】
第1章 〈性的差異〉の現象学――差異・時間・倫理のプログラム
第2章 〈解放〉への遡行――フランスMLFとセクシュアリティの問題
第3章 ジェンダーとセクシュアリティ
第4章 ジェンダーの困難――ポストモダニズムと〈ジェンダー〉の概念
【II】
第5章 女という迷路――性・身体・母性のスクランブル
第6章 ジェンダーと摂食障害――探求のためのノート
第7章 〈性の商品化〉をめぐるノート
【III】
第8章 フェミニズムをフェミニズムから〈解放〉するために
終章  フェミニズムを半分だけ離れて――名づけ・応答・享受


  
第2章 〈解放〉への遡行――フランスMLFとセクシュアリティの問題
 女性を「解放」するとはどういうことなのか。闘い続ける〈女〉たちの一人ひとりにとって、「解放」の意味も、それどころか「女性」という言葉の意味すらまったく異なるときに。過去の様々な思想や運動のその潜勢力を汲み出す作業を行う。フランスのウィメンズ・リベレイション(MLF)を素材として、その言説の射程を見極める。
■ MLFを選ぶ理由
1.英米の運動に比べて、議論そのものの潜在的な射程にまで踏み込んだ紹介が少ないこと。
2.「差異」と「平等」をめぐる対立が鋭く顕れており、対立を対立たらしめる場を見極めることがやりやすいこと。

1 MLFの焦点――中絶・避妊をめぐる議論
 フランスのウィメンズ・リベレイションは、アメリカのウィメンズ・リベレイションの影響も受けつつ、1968年の「五月革命」を直接のきっかけとして展開した。
■ ナッテイ・ガルシア・ガディーラの分類
フェミニスト運動(平等派) 教育・参政権・賃金などの男女平等の追求
フェミニテール運動(差異派) 性差を強調する諸要求 女性のセクシャリテの問題

MLFの攻撃目標
 避妊の宣伝と中絶を禁止する「1920年法」、特に中絶の自由化要求。1971年4月5日に「343人宣言」が出る。1972年「ボビニー裁判で、弁護団は再生産が家族や国家の問題として語られ、女性自身は単なる生殖器官に還元されていることを痛烈に告発し、問題とした。

2 「平等派」と「差異派」――社会的役割かセクシュアリティか
 中絶・避妊をどう捉え、いかに考えたか
平等派
■ 《選択》の会 《妊娠中絶の自由》運動(MLA、のちにMLCA)
 「女が責任を持てない子供のように考えられている限り、女たちは自分のセクシャリテを自由に引き受けることができず、避妊を行使できない」「自由」「人権」の問題であり、男性と対等であるために必要。
■ 《革命的フェミニスト》派
 「私たちの抑圧は“女でありすぎる”ところに存する」「家父長的システムが女性的な“本性”“本質”という観念を押しつける」「同一性」に基づく「平等」を阻害。

差異派
■ 《政治と精神分析》派
   避妊の限界を指摘。「女として自由にしてくれるものではない」「異性愛的諸関係の“改良”に過ぎないものを解放として通用させたがっている」女性の特異・固有性の「セクシャリテ」の問題であり、より良く「女」であるための一契機。「避妊とは男との同化を望むことだ」「母性」は女性の決定的な核というべき質。女性性を不可能にする技術、男との平等を求める欺瞞性を問題視する。「差異」を阻害。

平等派も、差異派も、結局女たちに対する抑圧の原因は家父長制システムで定義された「女」という観念に絡めとられている。

■ 《革命的フェミニスト》派
 いかなる意味でも「性差がある」といってしまうことを恐怖する。「両性間の差異を破壊することが重要。“差異への権利”を要求することはできない。現実の文脈において意味するのは抑圧への権利だからだ」

「両性間の差異を破壊すること」とは何か?

第一の解釈
 生殖において果たす役割や身体性を含む「自然」の性差(sex)と社会的な役割分担(gender)とを切り離す、あるいは結びつき方を変更する試み。このとき「性差の破壊」という表現はやむにやまれぬ勇み足としてネガティヴに捉えられる。
■ 江原由美子の分析
「性差はあるかないか」という一見客観的な「まったく政治的な意図を含まない問」いは、実際は悪質に「権力的」な問いである。
 「ある」と言えば、男女の処遇の区別を自動的に受け入れることになる。「ない」と言えば、「では女性は何でも男性と同様にできますね」となる。「二重拘束的」な、どちらにしても抑圧的な帰結しかもたらされ得ないとすれば、歪んでいるのは問いの立て方そのものであり、それをとりまく状況である。

平等派  社会的役割の次元における同一性と平等を求める
差異派  セクシュアリティの次元における差異を強調
 「役割」と「セクシュアリティ」は、一方が他方に還元される必然性はない。差異を言うことと、平等を言うことは矛盾しない。差異派と平等派の「対立」は、状況によって強いられた「対立」であった。

3 性別カテゴリーの彼方
第二の解釈
 「差異」に先立つ前提としての「両性」を、性別カテゴリーそのものを破壊することの主張。女/男というカテゴリーによって、世界を二分すること自体への異議申し立てである。
 本質的な問題は、産む性であるか否か、どういう身体を持っているかということではなく、それがどのように意味づけられるかということ。文化の変更不能性を前提として、生物学的事実のほうを変更しようとする発想は倒錯している。セックス(生物学的性差)という「観念」の成り立ち、あるいはセックス/ジェンダーの二分法を導入してまで性差を保存しようとする欲望の成り立ちこそが問われるべきだ。
 「差異派」の議論は女/男の実体論的な二分法を前提としたものであるが、無意味ではない。リュス・イリガライが書いているように、女とは何かということが「常に男たちによってのみ定義されてきた」とすれば、その定義権を奪い返し、自ら新しい定義を生み出してゆくことは、過渡的には大きな価値がある。女であること、男であることの確認は、女や男というカテゴリーを破壊するためにのみなされるべきだ。

4 結語――制度としての異性愛を超えて
■ 1980年『フェミニズム問題』内部解体
 ラディカルなレズビアンたちと異性愛に肯定的な要素を見出そうとする女性たちの対立
■ アドリエンヌ・リッチ
 「レズビアン存在は(略)男性優越と異性愛の関係を分析し挑戦できる一種の境界線上の立場でもある、ということです」レズビアンを「逸脱」としてではなく、ポジティヴな生のあり方として捉えるところから、家父長制の全貌に新たな照明を当てることができるかもしれない。「異性愛」と「同性愛」という二分法の観念そのものもまた再検討されるべきだろう。

  
第5章 〈女〉という迷路――性・身体・母性のスクランブル
1 序に代えて――性の二重基準
■ 出発点「性の二重基準」(sexual double standard)
 一般的な回答 「社会・文化的性であるジェンダーによって、異なった行動基準を定めた家父長制的な道徳規範」
 真の意味   「女たちを妻と娼婦に二分する」女性役割のコードであり、男に都合よく造られた世界の中で女が家庭用とセックス用に使い分けられていること
■ 性の二重基準を確かめる練習問題
 TVタレントが「おちんちん」と言えるのに、どうして「おまんこ」は放送禁止用語なのか
■ シェア・ハイトの嘆き
 「人々は、男性が多くの女性と寝る欲望を許していながら、一方では“セクシーすぎる”という理由で女性を見下してもかまわないと思っているのか」
■ 90年代の状況と疑問
 売買春という闇の領域はアジア諸国の女たちによって担われるようになり、「娼婦」と「家婦」の境界はどんどん曖昧になってきているのではないか。女性の「使い分け」の構図は変わらず、誰もが(少なくとも潜在的には)「家婦」であると同時に「娼婦」でもあるようになったのではないか。今や性の二重基準は、女たちを二つの領域に割り振るのではなく、むしろすべての女たちに二重の役割を押し付けるというやり方で機能しているのではないか。

2 女性役割の三角形
 女性の身体は、家事・育児を天職とする〈再生産する身体(reproductive body)〉であり、かつ男性の性幻想に対するセクシュアルな意味を担う〈性的身体(sexual body)〉でもある。
■ P169 図1〈女性役割の三角形〉
1.集団論的観点から見れば、各頂点はそれが表す役割をアイデンティティの核に置くような女性たちの集団を指し示している。
2.主体論的観点から見れば、各頂点は一人ひとりの女性に選択を、あるいは複数を同時に引き受けることを迫ってくる役割規範を指し示している。

1.「主婦」と「娼婦」――性道徳による分断
 男たちが引いた「性道徳」という名の分断線そのものを抹消し、性の二重基準そのものを解体することこそ、真の問題であると発見したのは、第二派フェミニズムの功績であった。一方、家制度と公娼制度が(少なくとも法律上は)過去のものとなり、〈恋愛結婚イデオロギー〉が浸透していくに従って、一人の女性が二重の役割を同時に引き受ける状況を現出した。
 この状況は、性の話題が女性たちのものとなり、婚前交渉も大目に見られるようになった。また「生殖用奴隷」であることを離れて、結婚すること/しないこと、子どもを持つこと/持たないことを、自らの意志に従って選び始めたようにみえる。
 逆に、女たちがあらゆるところで常に男のセクシュアルな視線によって対象化されるようになったのではないか。むしろ男の欲望にとって都合の良い事態であり、家父長制システムが(女性の露骨な分断を必要としない程までに)完成度を高めたということであるかもしれない。
2.「主婦」と「働く女」――女性の二重負担
 フェミニズムは、なぜ女性だけが仕事か家庭かを選択させられなければならないのか、なぜ賃労働と家事・育児という「二重負担」(double burden)を負わせられなければならないのかという根本的な問いを発してきた。
 女性の賃労働の多くが実は「主婦」的なもの、すなわち補助的かつ母親役割に沿った労働であるという事実を指摘しなければならない。女性が就く職業は、全体として「病人の看護や子供の世話・しつけといった、伝統的に女性の性役割とされてきた役割の、延長線上に位置する職種」に偏っており、「性役割は、どこまでもついて回っている」のだ。
3.「娼婦」と「労働者」――セクシュアル・ハラスメント
 女性の賃労働が「主婦的労働」であったのとパラレルに、「娼婦的労働」、そのセクシュアリティを商品化するような労働形態もまた広範に存在する。〈生産する身体〉と〈性的身体〉とのあいだには緊張関係も生じる。その具現形態がセクシュアル・ハラスメントである。

 集団論的には女性間の相互不信と対立関係が、主体論的には過重負担と内面的葛藤が生じて女性解放を阻害した。女性役割の三角形が表現する〈女という意味〉それ自体は、巧妙に正当化され、自明化されてきた。そして現在、女性役割そのものの直接的な商品化が進行している。母性そのものの市場化(代理母)、娼婦性そのものの広範な商品化(ブルセラ商法)が、かつてない規模で、かつてないような種類の市場をつくり出しつつある。

3 性暴力とポルノグラフィ
■ 性暴力(sexual violence)とはいかなる問題か
 暴力(violence)という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。その不当性の根拠こそが説明されなくてはならない。「行為」とその「文脈」、そして「権力関係」という三つの水準がそろって、暴力か否かを考えることができる。
 権力関係が文脈を規定し、文脈が行為の意味を決定する。暴力はその意味づけをめぐる闘争、言説の闘争においてそれと名指しされ、また名指しされることを回避する。従って性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。性暴力とは被害者=女性(であることが圧倒的に多い)が望まない総ての性的行為の強制を指す。
■ 差別と暴力の等根源性
 もしも差別が完璧ならば、暴力はどこにも存在しない。逆に言えば、暴力は差別の否定とともに、初めて暴力として立ち現れることができる。差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である。人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。すでに・つねに存在する差別のコードを追認・強化する行為は差別的であり、否認・抵抗する行為は反差別的である。
■ 性差別とはなにか
 女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元すること。女性を主婦性と娼婦性に還元する行為。ポルノやミスコンは性差別の実践である。モデルや出場者の意志とは何の関係もない。現実に存在するのは、女性の価値を母性と娼婦性に還元する性差別のコードだけである。逆に女性が主体的にセクシュアリティに関わること/関わらないことを鼓舞する表現は、性差別的ではない。(例:マドンナの写真集『SEX』)
■ 性表現の規制
 フェミニズムは「わいせつ」を取り締まる従来の法律には反対してきたし、ポルノに対する法的対応の要求も刑事ではなく民事的に、事前の検閲ではなく出版されたものに対する異議申し立てと補償の回路を保証せよという要求なのである。公共的空間における性表現は、広義の性暴力の領域に属する問題である。ある種のチャイルド・ポルノは強制回収をすべきかもしれない。
 差別的でありかつ優れて芸術的である表現が存在するということ、言い換えれば、芸術は法や人権の奴隷ではない。その逆もまた真である。このこと自体を粉砕するような表現こそが最も根底的な差別批判となるだろう。

4 結語に代えて――男のフェミニズム
■ ある学生が突きつけた問い
「女性論」によって相対化された「男性論」を、男であるおまえ(加藤)は語るべきではないか
■ 筆者(加藤)の答え
 スティーヴン・ヒースによれば「男とフェミニズムとの関係は『不可能な関係』である」から、男もフェミニズムと関わらなければならないし、同時に「不可能な関係」であることも自覚し、フェミニズムにとってのマージナル・マンであることを積極的に選びとるべきだ。男がフェミニズムに対して立ちうる場所とは、フェミニズムの敵の敵でありながら同時にフェミニズムの敵でもある場所であり、「性差別に抵抗する」(anti sexism)ことと「フェミニズムに味方する」(for feminism)ことの狭間にある窮屈な場所でしかあり得ない。


cf.2003/10/13 「「生まれないほうが良かった」という思想について――Wrongful life訴訟と「生命倫理」の臨界」
  第76回日本社会学会大会シンポジウム 於:中央大学 報告要旨


作成:北村健太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20031022 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9809ks.htm
フェミニズム  ◇  ◇暴力/DV 

TOP HOME(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)